かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

〈一者〉の享楽と発達障害--こちらあみ子(今村夏子)

*〈一者〉の享楽と〈他者〉の欲望

 
多くの人はそれぞれ、その人だけの「特異性」をもった存在として「一般性」の中で折り合いをつけながら生きています。こうした「一般性」と「特異性」の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として受け入れられますが、その巡り合わせが悪ければ、それはしばし様々な「生きづらさ」として立ち現れてくるでしょう。
 
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンはここでいう「特異性」を「〈一者〉の享楽」といい「一般性」を「〈他者〉の欲望」と呼んでいます
 
ラカンのいう〈一者〉とは子どもが初めて言語と遭遇した時に刻まれるトラウマ的満足体験の痕跡のことをいいます。人はこのトラウマ的満足体験をどうにかして反復しようとします。ラカンはこのような反復を「〈一者〉の享楽」として捉えました。それはいわば人それぞれが持つ「特異的なこだわり」とでも言うべきものです。
 
そして、この「〈一者〉の享楽」が紐付けられる子供が最初に出会うトラウマ的言語をラカンは「ララング」と呼びます。「ララング(lalangue)」とはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。
 
子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ、トラウマ的な「〈一者〉の享楽」がもたらされることになります。子どもにとってララングとはコミュニケーション手段としての言語ではなく、この「〈一者〉の享楽」を反復するための私的言語に他ならなりません。
 
しかし、やがて多くの子どもはこのララングの使用をあきらめコミュニケーション手段としての「ラング(言語)」を獲得して〈他者〉の世界に参入することになります。ここでいう〈他者〉とは具体的な誰々という「他人」というよりも「みんな」とか「世間」とか「社会」などと呼ばれる「一般的他者」のことを指しています。
 
そして子どもはこの〈他者〉の世界を生きる中で「〈一者〉の享楽」は「〈他者〉の欲望」の原因として機能する特定の対象、すなわち、ラカンのいう「対象 a 」がもたらす「剰余享楽」に平準化されることになります。こうして子どもは「みんな」が「世間」が「社会」が欲望するものと同じものを欲望するというラカン的な意味での「主体」になります。
 
しかしながら、世の中には「〈一者〉の享楽」を手放そうとせず「〈他者〉の欲望」と上手く折り合いをつける事のできない子どもがかなりの割合で存在します。そしてまた本作のあみ子もそうした子どもの1人のように思えます。
 

* 今村文学の原点にして頂点 

 
本作は2019年に「むらさきスカートの女」で第161回芥川賞を射止めた今村夏子氏のデビュー作となります。2010年に「太宰治2010」に「あたらしい娘」という題で発表された本作は、同年第26回太宰治賞を受賞し、その後、本作は「こちらあみ子」と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫賞を受賞しました。
 
当時、本作は書評家や書店員の間でかなりの評判を呼んでいました。そして、あれから10年余りの時を経た本年2022年、森井勇佑監督、大沢一菜主演の映画が公開され、本作は再び注目を集めることになりました。
 
平明でありながらもどこか「世界に棲めてなさ感」のある不穏さを孕んだ文体、純粋無垢な感性の持ち主であるがゆえに異端扱いされる主人公、しばし「世界文学」とも評される時代や地域を超越した普遍的寓話性。こうした今村文学に通底する諸特徴はすでに本作において極めて過激な形で表出しています。まさに衝撃のデビュー作であり、原点にして頂点といえる作品です。
 

*「普通」ではない女の子の物語

 
本作のあらすじはこうです。現在田舎で祖母と暮らすあみ子は15歳までは両親や兄と一緒に暮らしていた。自宅では父親の再婚相手である母親が書道教室を開いており、兄もそこに参加していた。しかし、あみ子は母親の授業を受けることはもとより、教室をのぞくことさえ許されていない。また母親の教室に通う同い年ののり君という少年に惹かれていたあみ子は、彼と仲良くなろうと何かと話しかけるがのり君は全く相手にせず、むしろあみ子を避けているようでもあった。
 
10歳の誕生日に父親からトランシーバーをもらったあみ子は、今度生まれてくる「弟」とスパイごっこをするといい張り切っていた。けれども果たしてその年の冬、あみ子の待ち望んでいた「弟」は死んで生まれてきたのであった。
 
それでもあみ子の母親は家族の前ではどうにか気丈に振る舞い、あみ子にも優しく接していた。そんな母親を元気づけようとあみ子は「弟の墓」を作ることを思い立ち、他人の庭から勝手に引き抜いてきた立札に、のり君に「弟の墓」という字を書いてもらおうとする。当然、拒絶するのり君であったが、最後はあみ子の説得に折れてしまう。
 
のり君に「弟の墓」と書いてもらった立て札をあみ子は家に持ち帰り庭に立てて母親を喜ばそうとするが、立て札を見るや母親はその場で激しく泣き崩れてしまった。しかしあみ子には、母親が泣いている理由がさっぱり分からなかった。その後、あみ子の母親はやる気を無くし書道教室も閉じて寝込んでしまい、兄は不良になり家に寄り付かなくなった。そして、あみ子は中学生になった。
 

* 発達障害から考える

 
あみ子はとても元気一杯で天真爛漫な少女ですが、その行動はどこか非常識で奇矯なところがあります。本作における随所の記述から、あみ子はおそらく発達障害である事が想起されます。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では次のような三つのカテゴリーに分類されています。
 
 
1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」といえば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが、かつてカナーとほぼ同時期にオーストラリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって発見されたアスペルガー症候群を「もう一つの自閉症」として注目したことから、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」において、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
⑵ 注意欠如・多動性障害(ADHD
 
ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別されます。「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
  
⑶ 限局性学習障害(LD)
 
知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 

* あみ子のケースをどう考えるか 

 
この点、あみ子は「弟の墓」のエピソードが端的に示しているように、基本的に空気を読むコミュニケーションが苦手です。それゆえにあみ子は相手から露骨に避けられたり邪険にされたりしても、構わずに話したいことを一方的にべらべら喋りまくったりします。
 
また、あみ子は「インド人のマネ」などと称してカレーを手で掴んで食べたり、チョコレートクッキーの表面のチョコレートの部分だけ綺麗に舐め取ったりと、その行動の端々に奇妙なこだわりが見られます。こうした奇妙なこだわりはのり君への関心の向け方にも現れています。あみ子はのり君の書く美しい字に異様に執着する一方で、中学に入ってから2ヶ月以上ものり君が同じクラスだった事に気づいていませんでした。
 
そして、あみ子はある日から周囲がほとんど気にしてないような些細な物音が気になり、自分の近くに「霊」がいることを確信し、やがてそれは死んだ「弟の霊」に違いないと思い込むようになりました。
 
それに加えて、あみ子は時間の把握が困難で学校をよく遅刻したり欠席したりすることも多く、何日も風呂に入らなかったり、シワだらけの制服を着て顔も洗わずに学校に行ったり、裸足で校内を歩き回ったりと、かなりルーズというか、だらしない行動が目立ちます。さらに、あみ子は中学生になっても「私」や「朝」といった基本的な漢字が書けず、のり君の苗字である「鷲尾」の読み方も中3になるまで知りませんでした。
 
こうして見ると、あみ子は発達障害におけるASDADHD、LDの全ての特性を満たしているように思えます(実際にそういうケースは珍しくありません)。
 

* 自分の中にある「あみ子的なもの」と向き合うために

 
もっとも本作では「発達障害」という診断名が明示される事はありません。それゆえに本作は発達障害というカテゴリを超えて、様々な形で生起する「生きづらさ」全般へと差し出された作品となっています。
 
本作文庫版の解説において町田康氏は「一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならない」と書いています。ここでいう「一途に愛する者」とはもちろんあみ子のことです。すなわち、冒頭で述べたラカンの言葉に即していえば、あみ子は「〈一者〉の享楽」を純粋に反復し続ける「一途に愛する者」であるが故に「〈他者〉の欲望」とまるで折り合いがつかないため「この世に居場所がない人間」になってしまっているということです。
 
もっとも「〈他者〉の欲望」と折り合いが付くか付かないかというのは、その時代その社会の偶然的な条件に規定されているところがあります。あみ子が周囲から疎まれるのは、現代日本では空気を読まない習慣とかカレーを手で食べる習慣とか何日も風呂に入らない習慣などが「たまたま」ないからです。その一方で多くの人が「普通」でいられるのは「〈他者〉の欲望」と幸運にも「たまたま」折り合いがついているだけ、あるいは折り合いがついているフリができているだけに過ぎません。
 
それゆえに誰もが環境や状況や立場の変化といった何かのきっかけである日突然「〈他者〉の欲望」と折り合いがつかなくなることだってあるわけです。そしてその帰結は我々の日常の上に様々な「生きづらさ」という形をとって現れてくることになります。
 
いわば人は誰もがどこかに「あみ子的なもの」を抱え込んでいるといえます。こうした意味で本作を発達障害を抱えるかわいそうな子の話などという「他人事」ではなく、自分自身に起きうるかもしれない出来事として読み解く時、我々読み手は自らの中にある「あみ子的なもの」と真摯に向き合うための知恵と勇気と希望を、他ならぬあみ子から教わることができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

【書評】動物化するポストモダン(東浩紀)

* 動物化--ポスト神経症的欲望の到達点

 
かつて1960年代に一世を風靡した「構造主義」の首領にして精神分析中興の祖として知られるジャック・ラカンは人間の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相の絡み合いの中で、その心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに位置付けました。これに対して1970年代に「構造主義」を乗り越える形で現れ大陸哲学に一大ムーブメントを起こした「ポスト構造主義」の代表的思想家と目されるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはその共著「アンチ・オイエディプス」において「いわゆる正常=神経症」という従来のラカン的構図をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱しました。
 
この点、ドゥルーズ=ガタリは「精神分析的欲望=神経症的欲望」から解放された「ポスト神経症的欲望」への展開を志向していました。ここでいう「神経症的欲望」とはラカンが「象徴界」と呼んだ間主観的ネットワークにおいて個人のセクシャリティの規範化を構成する欲望の様式を指しています。これに対して「ポスト神経症的欲望」とは象徴界=間主観的ネットワークから切断されて多方向に発散していく無軌道な欲望の様式を指しています。
 
こうしたドゥルーズ=ガタリの影響の下、日本においても1980年代の「ニューアカデミズム」と呼ばれる思想的流行以降、浅田彰氏のスキゾキッズ支持や宮台真司氏のコギャル支持といった形で「ポスト神経症的欲望」をめぐる議論が活性化していきました。そしてこうした議論における一つの到達点が2001年に東浩紀氏が上梓した「動物化するポストモダン」であったと言えます。
 
一般的に同書はアニメや美少女ゲームといった当時のオタク系文化の動向を現代思想の理論で分析した本として知られています。しかし、それはあくまで同書における一つの側面でしかありません。もし動ポモが本当に「それだけの本」なのであれば、出版から20年以上の歳月が経過した2022年の現在において同書を読む意味は懐古趣味以外になさそうですが、もちろん動ポモは「それだけの本」ではありません。
 
動物化するポストモダン」には単なるオタク論ないしサブカルチャー論を超えた極めて広範な哲学的射程を持った議論が含まれています。そしてそれは、ある意味であの「アンチ・オイエディプス」を決定的に更新する議論でもあります。動ポモが切り開いた真の革新性とは果たして一体、なんだったのでしょうか。
 

* シュミラークルの全面化と大きな物語の機能不全

 
あらためて「動物化するポストモダン」における議論を確認してみましょう。同書はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には次の2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。
 
第一に「シュミラークルの全面化」という点です。フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは来るべきポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シュミラークル」という中間形態が支配的になると予測していました。この点、オタク系文化における同人誌や同人ゲームなどの二次創作文化の爛熟は、確かにオリジナルもコピーもないシュミラークルのレベルで働いているように思われるということです。
 
第二に「大きな物語の機能不全」という点です。フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールポストモダンの特徴を「大きな物語の凋落」と規定しました。ここでいう「大きな物語」とは近代社会を統御した理想やイデオロギーやシステムと呼ばれる社会共通の規範をいいます。ポストモダンとはこうした単一の「大きな物語」が有効性を失い、無数の「小さな物語」の乱立にとって変わられる過程に他なりません。この点、オタク達が現実より虚構を重視する理由は彼らが現実と虚構の区別がついていないからではなく、むしろ現実が与えてくれる価値規範(=大きな物語)よりも虚構が与えてくれる価値規範(=小さな物語)を選択した方が、彼らの人生にとっては有益な選択となるからであるということです。
 
こうした前提の上で、同書は次のような2つの疑問を導きの糸として、オタク系文化の、ひいてはそこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について考察を進めていきます。
 
ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅しシュミラークルが増加するのだとすれば、そのシュミラークルはどのように増加するのか?
 
ポストモダンでは「大きな物語」が失調するのだとすれば、ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?
 

* 物語消費とデータベース消費

 
同書はまず、近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。「物語消費」とは、例えば「機動戦士ガンダム」という作品の消費を通じて、その作品の背後にある「宇宙世紀」といった「大きな物語=世界観設定」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは、個々の作品消費を通じてその作品を生成する「データベース」を消費する行動様式をいいます。
 
この点、本書は当時のオタク系市場に絶大な影響力を行使していた「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の背後にあったのは、視聴者がそれぞれ都合の良い物語を読み込む「大きな非物語=物語なしの情報の集合体」であったといい、エヴァ以降のオタク系文化は「大きな物語=世界観設定」よりもキャラクターの「萌え」が重視されるようになり「萌え要素のデータベース」が急速に整備されていったと主張します。
 
すなわち、オタク系文化の表層はシュミラークル=二次創作に覆われているけれど、その深層には設定やキャラクターのデータベースが存在し、さらに遡ればその背後には「萌え要素」といったオタク系文化全体の共通言語となるデータベースが想定されるということです。そこでは旧来のオリジナルとコピーの代わりにシュミラークルとデータベースの対立が台頭し、シュミラークルの優劣はデータベースとの距離で決定される事になります。
 
そして、こうしたオタク系市場における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しています。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「小さな物語=シュミラークル」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。
 
すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」にあるいうことです。これが「⑴ポストモダンにおいてなぜシュミラークルが増加するのか」という問いに対する解となります。
 

* ポストモダン的主体としてのデータベース的動物

 
そしてこのような「シュミラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されることになります。ここで氏はポストモダン的主体の範例として「美少女ゲーム(ノベルゲーム)」のユーザーを取り上げます。
 
エヴァ以降のオタク系文化の中心を担ってきた「美少女ゲーム」というジャンルにおける多くの作品では、ユーザーがどの選択肢を選ぶかでその後のシナリオが変化していくマルチエンディングシステムが採用されています。すなわち、美少女ゲームは「シナリオ=シュミラークル」と「システム=データベース」という二層構造から成立しています。こうして美少女ゲームのユーザーは「シナリオ=シュミラークル」に没入する動物的欲求と「システム=データベース」に介入する人間的欲望によって駆動されることになります。
 
この点「シナリオ=シュミラークル」における動物的欲求が他者とのコミュニケーション抜きで処理されるのに対して「システム=データベース」における人間的欲望は他者とのコミュニケーションにおいて発生します。もっとも本書によれば、この他者とのコミュニケーションは現実的必然ではなく特定の特定の情報への関心のみによって支えられており、それゆえ各人はいつでもコミュニケーションから離脱する自由を留保しているとしています。
 
こうした美少女ゲームのユーザーが露呈する特徴はポストモダンを生きる主体一般にも妥当すると本書はいいます。すなわち、かつて近代の人間は生の意味を他者とのコミュニケーションを通じて「小さな物語」から「大きな物語」へ遡行する「物語的動物」であったけれども、ポストモダンの人間は「意味」への渇望をコミュニケーションではなく動物的欲求に還元し、その一方で他者とのコミュニケーションは「意味」をめぐる現実的な必然を伴わない形骸的したもの、擬似的なものとして残存しているに過ぎないということです。
 
そして、このようなシュミラークルの水準での動物性とデータベースの水準での(形骸化した擬似的な)人間性を解離的に共存させたポストモダン的主体を本書は「データベース的動物」と名付けます。これが「⑵ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?」という問いに対する解となります。
 

* 動物化という他者回避--「ゼロ想」による「動ポモ」批判

 
周知の通り動ポモは幅広い反響を巻き起こし、ゼロ年代日本における現代思想シーンを強力に牽引することになりました。しかしその一方で同書に対しては、オタクの消費行動を過度に一般化しているとか、あるいはオタクの消費行動の実態を捉えていないとか、さらにはデータベース理論そのものが妥当ではないなどといった批判が向けられることになりました。
 
こうした中で動ポモに向かって決定的な批判の矢を放ったのが2008年に上梓された宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」です。同書は「新世紀エヴァンゲリオン」に代表される「1995年の記憶」を引きずる「引きこもり/心理主義的」な想像力を「古い想像力」と名付け、2001年前後から台頭し始めた「開きなおり/決断主義的」な想像力を「新しい想像力=ゼロ年代の想像力」と名付けた上で、東氏とその影響下にある批評家たちはこの2001年以降の世界の変化に対応できていないと主張します。
 
同書の論旨は以下のようなものです。まず同書は東氏が「現代の想像力」として支持する「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群とは「大きな物語」の失墜による絶望を極めて安易な母性的承認による「小さな物語」によって埋め合わせようとする、いわば「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき「古い想像力」の系譜に属しているが、今や「大きな物語」亡き後で無数の「小さな物語」同士が決断主義的に動員ゲーム=バトルロワイヤルを繰り広げるという時代の現実を引き受けた上で、かつその不毛な動員ゲーム=バトルロワイヤルの超克を志向する「新しい想像力=ゼロ年代の想像力」が台頭しているとします。
 
そして同書はポストモダンの世界構造として東氏のいうデータベースモデルの妥当性自体は認めつつも、東氏はデータベースから生成される「小さな物語」同士の関係性=コミュニケーションの重要性を見落としているといいます。東氏は「動物化」した人間はコミュニケーションによる意味の備給を必要とせず生きていると主張するけれども、果たして本当にそうなのか?現に東氏が一連の議論の例証として持ち出す当のオタクたちがまさしく皮肉な事にもパズルゲームでもアクションゲームでもなく美少女ゲームに耽溺し、二次元美少女たちとの疑似的なコミュニケーションを欲望しているではないか、むしろポストモダンの本質とは東氏が目を逸らした「小さな物語」同士のコミュニケーションの困難性にこそあるのではないか、ということです。
 
90年代以降の日本社会において「大きな物語」の失墜に絶望した人々はデータベースから自分の欲しい情報を都合よく勝手に読み込み、理想的な自己像=キャラクター的実存を承認してくれる他者性なきコミュニティとしての「小さな物語」に閉じこもろうとしました。こうした意味で東氏のいう「動物化」とは端的な「他者回避」に他ならないということです。
 
仮にこうした動物化=他者回避が完全に可能なのであれば、確かに他者とのコミュニケーションは原理的には不要となるでしょう。けれども実際にデータベースによる動物化が生み出すのは排除の論理です。人々が自分に都合の良い「小さな物語」に自足して生きるためには、その物語にとって都合の悪いノイズを排除する必要があります。だからこそ「小さな物語」たちは世界を友と敵に分けて、決断主義的な動員ゲーム=バトルロワイヤルを繰り返すことになります。こうした意味で「小さな物語」という断片たちは不可視的には接続されており、我々は決して他者とのコミュニケーションから逃れることは不可能です。
 
それゆえに同書はこの不毛な決断主義的な動員ゲーム=バトルロワイヤルを乗り越えるには、動物化=他者回避に閉じることなく、異なる「小さな物語」を生きる他者へと手を伸ばし、終わりある日常における一瞬のつながりがもたらす誤配へと開かれたコミュニケーションこそが模索されなければならないと主張し、そしてそれこそがまさしくゼロ年代の想像力たちが照らし出した現代の成熟の条件なのである、とします。
 

* クィア動物化--〈倒錯の強い定義〉からの「動ポモ」再解釈

 
このように宇野氏の議論は動ポモが抱えていた難点を真っ向から射抜くものでした。おそらくある面において動ポモはゼロ想によって乗り越えられたといえるでしょう。しかしその一方で動ポモには東氏自身も当時はおそらく想定していなかったであろう「別の仕方での可能性」が眠っていました。
 
この点、千葉雅也氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考において、動ポモを〈倒錯の強い定義〉という観点から読み直す議論を展開しています。
 
まず千葉氏はAOにおけるドゥルーズ=ガタリは「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいるとして、この事実はポスト神経症的欲望という〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆しているとします。すなわちAOにおいて展開される「分裂症論」はそれ自体、精神病的というわけではなく、彼らの理想化する「分裂症者」とは、セクシュアリティを規範化する〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われます。
 
そして、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば〈性別化のリアル〉の「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになります。
 
ここで〈性別化のリアル〉を排除している「かのように」否認するという「否認的な排除」を極めて強く誇張するならば、ここで倒錯は「精神分析的否認」と、精神分析それ自体の否認により開かれる「非-精神分析的否認」を直結させることで精神分析的な〈性別化のリアル〉を「否認的に排除=無効化せずに否認する立場」する態度として再定義されることになります。これが精神分析それ自体に対する「メタ倒錯」としての氏のいう〈倒錯の強い定義〉です。
 
こうした観点から千葉氏は、東氏のいう「動物化」とは「非-精神分析主義」の方へ振り切れた動物的欲求から、文字通り動物的に「異性愛-生殖規範性」をストレートに肯定し、その上に「認知的習慣化」としての対象(二次元美少女)へのアディクション(萌え)が便乗している「異性愛-生殖規範性的な動物化」であるとした上で、ここから「クィア動物化」の可能性を思弁して、その範例を「女装する女性」としての「ギャル(男)」に見出します。
 
神経症的囚われを「否認」した軽量化された身体性と有限化された社交性。その欲望の多すぎる理由づけを忘却したかのような「どうでもよさ」の中心にある「どうでもよくなさ」。こうした「ギャル(男)」の特性を氏は「頭空っぽ性 airhead-ness」という言葉で概念化しています。すなわち、かつてドゥルーズ=ガタリがAOで論じた「分裂症者」とは「メタ倒錯の主体」としての「データベース的動物」であったということです。
 

* 動物的現実と人間的倫理の間で思考するということ

 
人は世界に棲まう上でその生を基礎付けるため何かしらの「物語」を必要とします。ここでいう「物語」とは人が世界を理解するための媒介であり生の意味を提示する道標をいいます。この点、かつて社会共通のロールモデルとしての「大きな物語」が存在していた時代においては多くの人が「大きな物語」に遡行する事で自らの「物語」を基礎付けていました。ところが「大きな物語」が崩壊した現代においては、人はどのようにして自らの「物語」を生成するのかという問いが生じます。東氏の提示したデータベース理論はこうした時代の問いに対する優れた回答となりました。
 
もっともデータベースから生成される物語が必然的に帯びる排除の原理を乗り越えるためには物語を他者へ開く接続の原理を導入する必要があります。この意味で異なる物語を生きる他者同士のつながりこそが現代的な成熟の条件であるとする宇野氏の議論には正しい核心があります。しかしその一方で物語同士のつながりそれ自体が「つながりという名の新たな物語」となった時、そこには再び排除の原理が舞い戻ってきます。事実2010年代は様々な「つながり」が世界を友と敵に切り分け動員と分断を繰り広げた「つながり過剰」の時代であったわけです。
 
ゆえに異なる物語同士のつながりを新たな物語に固定化させることなく、つながりをただつながりのままに開き続けるためには、そこには接続の原理だけでなく切断の原理を導入する必要があります。この点、千葉氏の議論は「つながり過剰」をアドホックに切断していく「仮固定的な有限化」の視点からデータベース理論を読み直すものであったといえます。
 
動ポモにおけるコミュニケーション軽視はともすれば「つながり」に目を背けるオタク的な「弱さ」として捉えられがちです。けれども「つながり過剰」の現在からすれば、それはむしろ一周回って「つながり」に依存することのない倫理的な「強さ」であるとさえいえるでしょう。
 
こうしてみると同書の真の革新性はポストモダン的な人間像を、動物でしかない現実と人間であろうとする倫理を解離的に共存させるというダブルシステムによって思考している点にあったといえます。そして出版から20年以上経過した現在でもなお同書が未だ過去のものとならず、常に時代に対してアクチュアルな批判力を行使し続ける源泉は、まさにこうしたダブルシステムの思考の中に見出すことができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

様々な「正義」の泡立ちの中で--流浪の月(凪良ゆう)

 

*「常識」という名の予断と偏見

 
言うまでもなく小説には「語り手」が必要です。読者はあくまで語り手の描写や解説を通じて小説世界内の出来事や人物を知ることになりますので、その語り手がどの程度信頼できるかは一つの文学的な問題となります。この点、読者に疑いを引き起こすような語り手は「信頼できない語り手」と呼ばれます。そして、ある語り手を「信頼できない語り手」と看做す根拠として、その語り手の年齢や属性や性格などが挙げられたりします。
 
しかし少なくとも小説の語り手が小説世界内に属する一人称である場合、彼/彼女は常にある意味で「信頼できない語り手」であると言っていいのではないでしょうか。なぜならば一見、その語り口が我々の常識に照らし合わせて極めて信頼できる妥当なものだとしても、その「常識」それ自体が社会全体が共有する巨大な予断と偏見の産物だったりもするからです。そして本作はこうした予断と偏見に満ちた我々の「常識」に対して真正面から揺さぶりをかけるような一冊といえます。
 

* 出会ってはいけなかった二人

 
本作はプロローグ以外は一人称で語られ、章によって語り手が変わっていきます。そのあらすじは次の通りです。
 
本作の主人公、家内更紗は9歳の時に両親を喪い、母方の伯母の家に引き取られることになった。両親とは全く教育方針が異なる伯母の家に馴染めない更紗は学校が終わるといつも公園のベンチで本を読んで過ごしていた。そこには同級生から「ロリコン」と呼ばれる青年がやはりいつも自分と同じように本を読んでいた。
 
ある雨の日、公園でびしょ濡れになっても帰ろうとしない更紗に青年は傘を差し出し「帰らないの」と訊く。「帰りたくないの」と答える更紗に対して青年は「うちにくる?」と声を掛ける。こうして更紗は2か月もの時を青年の家で過ごすことになる。
 
青年の名は佐伯文。文は19歳の大学生で近所のマンションで一人暮らしをしていた。更紗にとって文の家にいることは当初、伯母の家に帰りたくないという消極的な理由であったが、次第に更紗は文の人柄に惹かれていき、文の家に自分の居場所を見出すようになっていった。
 
しかしその間、更紗は「家内更紗ちゃん誘拐事件」の被害女児として全国に実名報道されていた。やがて文は誘拐犯として逮捕され、更紗は「保護」されることになる。そして事件の後、更紗はずっと周囲から「ロリコンに誘拐された可哀想な被害者」として扱われるようになった。
 
そして事件から15年が過ぎ、更紗は24歳となり恋人もでき、それなりに幸せな日々を過ごしている。そんなある日、更紗は偶然文と再会することになった。
 

* 本作は「そういう話」ではない

 
我々の社会における圧倒的常識は小児性愛者を忌むべき危険な存在であると看做しています。そしてこうした常識の下で、おそらく多数の読み手は本作をその終盤まで小児性愛者の青年と天衣無縫な少女が紡ぎ出すイノセントな交歓の物語として読み解き、そこから例えば「確かにロリコン=危険という決めつけは良くない」とか、あるいは「小児性愛を過度に美化している」などといった類の感想を抱いたりするわけです。
 
しかしながら、本作を最後まで読めば明らかな通り、本作はまったく「そういう話」ではありません。ではなぜ読み手は本作を途中まで「そういう話」として読んでしまったのでしょうか。
 
それは第一に本作中盤までの語り手である更紗が文をロリコンであると認識しているからであり、第二に確かに我々の一般的な常識に照らし合わせても、文の様々な言動は悉く彼の小児性愛的な嗜好を指し示しているからです。
 
けれども、本作を読み終えた時、読み手は文のこれまでの言動を小児性愛的な嗜好とはまったく別の意味から捉え直す事になるはずです。人は皆、常日頃から「常識」という予断と偏見によって勝手に世界を決めつけて他者を理解したつもりになっています。こうした我々が依拠する「常識」がいかに危ういものであるかを本作は気付かせてくれるでしょう。
 

* 本作の問う「正義」の在り処

 
もちろん本作における文の行為は、とにかくは現行刑法における未成年誘拐罪の少なくとも構成要件に該当します。例えその「真の目的」がわかったところで、その手段までもが正当化されるわけではありません。むしろ文はかなり身勝手な理由で更紗を利用していたと言わざるを得ないでしょう。そして幼少時における更紗の選択も作中で言及があるように、いわゆる「ストックホルム症候群」ではないかという解釈も完全に退ける事は難しいように思えます。
 
しかし、そうだとしても既に法的制裁を受けた「悪」に対してさらなる「私刑」とも呼ぶべき社会的制裁を下す「正義」にいかなる倫理的正当性があるのでしょうか。近年のソーシャルメディアにおける炎上事件でしばし見られるように、人は違法ではない行為さえにも「正義」の名の下に「悪」に対して安全圏から嬉々として石を投げつけたりもするわけです。
 

* 様々な「正義」の泡立ちの中で

 
しばし人は世界で生起する出来事を「正義/悪」という二項対立に還元して「正義」の名の下に「悪」を糾弾したりもします。すなわち、それは「正義」が成立するには倒すべき「悪」が必要であることを意味しています。けれどもむしろ実際には「正義」と「悪」の関係は常に相対的であり、ある「正義」にとっての「悪」とは別の「正義」だったりもします。
 
そしてまた、ある「正義」が成立するには守るべき「被害者」が必要になります。ゆえに「被害者」はとにかく徹底して「かわいそう」な存在でなければならなりません。けれども世間一般の考える「正義」と当の「被害者」の考える「正義」が異なることだってあるでしょう。そこで「被害者」が更紗のように「私は可哀想なんかじゃない」と声をあげようものなら、その声はしばし多方向から様々な理屈やレッテルによって激しく否定されることもあります。
 
結局のところ、我々は様々な「正義」という「他者性」が泡立つ世界を生きているということです。そんな世界においてせめて我々にできる事があるとすれば、ひとつの絶対的な「正義」の中に安住することなく、様々な「正義」という「他者性」の泡立ちを織り込んだ上での仮留めの「正義」を日々丁寧に更新しながら生きていくしかないのでしょう。こうした意味で本作は一見して明白ともいえる「悪」を題材とすることで「正義」という名の思考停止に警鐘を鳴らす作品であったともいえます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン--女のいない男たち(村上春樹)

* 性別化の式とファルス関数

 
精神分析における「男性」とは基本的に「去勢」された存在であるとされています。この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはその晩年において次のような「性別化の式」と呼ばれる男女のセクシュアリティに関する図式を提示しています。
 

 
この図式における「男性側の式」の左下(∀xΦx)は「すべての男性はファルス関数に従属しており、彼らが得ることができる享楽はファルス享楽だけである」という命題を示しています。
 
つまり「(精神分析的な意味での)男性」とは「言語の世界(象徴界)」における主体となる代償として「言語以前の世界(現実界)」における「絶対的享楽」の喪失を齎す「去勢」に、すなわち「(象徴的な)ファルス」の欠如に直面した存在です(ファルス関数)。その結果、男性は「絶対的享楽」の残滓としての「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するほかなくなります(ファルス享楽)。
 
ここでいう「対象 a 」とはファルスの欠如の隠蔽し「欲望の原因」となるフェティッシュな対象のことをいいます。男性はこの「対象 a 」をパートナーとすることで「幻想($♢a)」を構成し、自らの「ファルス」の欠如からひとまず目を背けることができる、ということです。
 
この点、男性がこの「対象 a 」の位置に、ある任意の女性を置いた時、その「幻想($♢a)」は一般的に「恋愛」とか「性愛」などと呼ばれることになります。けれどもラカンの示す図式からすれば、男性がパートナーにできるのはあくまでも「対象 a 」であり「女性そのもの」ではありません。
 
ここから「性関係はない」という後期ラカンのよく知られたテーゼが導かれます。そして男性が「対象 a 」としての女性を喪失した時、これまでのささやかな「幻想」は破綻し、彼は再び「ファルス」の欠如に直面することになります。
 

* 村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン

 
この点、村上春樹作品においてはしばしこうした意味での「対象 a =ヒロイン」を喪失した男性主人公が「幻想=生の物語」を記述し直していくという構図が見られます。そして、ここで鍵を握るのが「もう一人のヒロイン」です。
 
例えば「ノルウェイの森(1987)」では、ヒロインの直子が精神病になり最後は自死してしまうわけですが、その間、主人公のワタナベを支える存在が大学の同級生である緑です。また「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」では、失踪したヒロインのキキを捜索する途中で知り合ったユキという娘が主人公 の「僕」を振り回しながらも、その特殊能力でキキの消息を突き止めます。
 
あるいは「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」では、主人公であるオカダ・トオルは突然失踪した妻、クミコを取り戻すため、彼女の兄であるワタヤ・ノボルと対決することになりますが、その過程においてオカダは笠原メイという近所に住む不良少女から多くの示唆を受けます。そして「1Q84(2009〜2010)」では主人公の天吾がもう一人の主人公にしてヒロインである青豆と再会する上で鍵となる存在が「空気さなぎ」という物語を生み出したふかえりという不思議少女です。
 
これらの村上春樹作品においては直子、キキ、クミコ、青豆が主人公にとっての「母的ヒロイン」だとすれば、緑、ユキ、メイ、ふかえりは主人公にとっての「娘的ヒロイン」です。要するにこれらの作品では「母的ヒロイン」の喪失を「娘的ヒロイン」が一時的に埋めわせているかのような構造が共通しているわけです。
 

*「女のいない男たち」の悲喜劇

 
そして6つの短編からなる本作「女のいない男たち(2014)」における男性主人公も何らかの形でヒロインの喪失に直面します。けれども、そこには都合の良い「もう一人のヒロイン」は登場しません。すなわち、本作の主人公達は「娘的ヒロイン」の支援なしで「母的ヒロイン」の喪失を受け入れていき、あるいは受け入れることができずにいます。本作はこうした意味での「女のいない男たち」の悲喜劇が描き出されていきます。
 
この点、戦後日本を代表する文芸評論家である江藤淳氏は主著「成熟と喪失」において、近代的な「成熟」の感覚を「母」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を引き受ける事だと定義しました。そして江藤氏は「父」になれない自覚の下にあえて「父」である「かのように」振る舞う成熟の主体を「治者」と呼びました。
 
江藤氏のいう「治者」とは確かに「成熟と喪失」刊行当時の高度経済成長期においては適合的な成熟モデルであったかもしれません。けれども戦後的なロールモデルが崩壊した現代においては、むしろ「治者」とは異なった成熟モデルが要請されているといえます。
 
こうした意味で、本作における主人公たちは、それぞれが「母(的ヒロイン)」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を「治者」とは別の仕方で引き受けていく複数人の「女のいない男〈たち〉」であったといえるのではないでしょうか。
 

* 映画「ドライブ・マイ・カー」と原作小説の相違点

 
本作の冒頭を飾る短編「ドライブ・マイ・カー」は周知の通り昨年映画化され、カンヌ映画祭脚本賞アカデミー賞国際長編映画賞をはじめとした数々の賞を受賞し、日本映画史上歴史的な作品となりました。
この点、映画では、原作短編以外の別の短編の要素も取り込まれており、ストーリー自体も原作とはかなり異なるものとなっています。
 
原作小説の方は主人公の中堅俳優、家福が彼のドライバーを務めるみさきに、かつて自身の妻を寝取った後輩俳優である高槻という男との妻の死後から始まった奇妙な交流を回想録的に語るという流れになっています。この時点で家福が過去に負った精神的な傷は既に自身でほとんど克服しており、基本的にみさきは家福の回想の聴き役に留まっています。
 
これに対して映画版で家福と高槻の交流が始まるのはみさきが家福のドライバーになった後のことです。映画版で家福は売れっ子の舞台演出家という立ち位置になっており、彼は自身が演出を務める多言語演劇の主役に高槻を抜擢して、そこから2人の交流が始まります。
 
つまり、この時点で家福の精神的な傷は未だ癒やされてはいないわけです。そして家福は高槻との交流ではなく、むしろ、みさきとの交流の中で自身の傷を癒していくことになります。
 

* 原作小説以上に村上春樹的な作品になった映画

 
この点、原作小説の中核的テーマは先述のとおり、主人公が従来の村上春樹作品のように「もう一人のヒロイン」の支援のないところで自らの生の物語を記述し直していく点にありました。
 
ところが映画はむしろ従来の村上春樹的な構図に積極的に回帰しているように思われます。映画において家福の妻、音が「母的ヒロイン」だとすれば、みさきは「娘的ヒロイン」です。しかも原作でも映画でも、みさきは家福の夭折した実娘と同い年という設定なので、いわば彼女は緑やユキやメイやふかえり以上の「娘的ヒロイン」といえます。
 
おそらく原作小説の中核的テーマからすれば、映画におけるこうしたアレンジには賛否があるところでしょう。けれども見方を変えれば、従来の村上春樹的な構図へ積極的な回帰を志向した映画「ドライブ・マイ・カー」はある意味で、原作小説以上に村上春樹的な作品になったともいえるかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】成熟と喪失(江藤淳)

* 戦後派文学から第三の新人

 
昭和20年8月15日、約3年9ヶ月にわたる太平洋戦争は連合国に対する日本の無条件降伏によって終結しました。その後、GHQによる占領諸政策の下、終戦から昭和20年末までの僅か4ヶ月半の間で、日本国内における主要な論調は「皇国主義」「軍国主義」から「民主主義」「平和主義」へと急速に転換されることになります。そして当時多くの人々は既成価値の崩壊に戸惑いながらも、これからやってくるかもしれない明るい未来を信じて懸命に日々の貧困と苦境を生きていました。こうした敗戦の混迷の中から、来るべき時代の絶望と希望を照らし出す新たな文学的思潮として「戦後派文学」は産み出されました。
 
第一次、第二次からなる「戦後派文学」の特色といえば「戦場」「投獄」「焼土」「飢餓」といった極限的な状況を舞台に作家自身の「これだけはどうしても言わねばならぬ」という強い内的必然性や自己表白性の下で「人間」「社会」「革命」「愛」「世界」「神」といった大文字の理想や真理の探求が従来の文学的常識を覆す極めて斬新な方法で遂行された点にあります。
 
こうして一躍脚光を浴びることになった「戦後派文学」は、ここからさらに先進西洋諸国に負けない気宇壮大な本格的ロマン大作を志向するようになります。しかし同時に、この頃から「戦後派文学」はその原点であるはずの「これだけはどうしても言わねばならぬ」という強い内的必然性や自己表白性を喪っていき、やがてその文学的発展は空転ないし停滞していくことになります。
 
やがて戦後の混乱が収まり、徐々に世の中が落ち着きを取り戻しつつあった相対的安定期と呼ばれる1950代になると、戦後派文学が目指した大文字の理想や真理の探究から一歩引いたところで、市井を生きる名も無き人々の日々の平凡な暮らしにていねいに描き出していくという新たな文学的思潮が現れました。こうした新たな文学的思潮の担い手たちは「第三の新人」と呼ばれました。
 
もっとも、この「第三の新人」は登場当初はあまりぱっとせず、当時の批評家からは「即物性、単純性、日常性、生活性、現状維持性、伝統性、抒情性、単調性、私小説性、形式性、非倫理性、非論理性、反批評性、非政治性」などと散々にこき下ろされ、このような思想性も政治性もない退嬰的な文学などどうせすぐに消え去る運命にあるだろうと思われていました。けれどもその後、戦後派からベ平連に至る反体制文学隆盛の陰で彼らは地道に創作に取り組み続け、1960年代になると文壇において確固たる位置を築き上げていました。
 
そしてこの時期に「第三の新人」にとって強力な援軍として現れたのが、評論家の江藤淳氏です。江藤氏が1967年に発表した本書「成熟と喪失」は極めて深い洞察によって「第三の新人」の文学性に新たな光をあてた文芸評論の名著として知られています。

*「圧しつけがましさ」と「恥づかしさ」

 
では江藤氏は「第三の新人」の文学の中に何をみたのでしょうか。それは畢竟、アメリカと比べて「母」と「子」の関係が密接であるとされる日本社会における「成熟」の感覚です。例えば江藤氏は「第三の新人」を代表する作家の1人である安岡章太郎氏の「海辺の光景」を題材として「母」の「子」に対する「圧しつけがましさ」と、その裏にある「恥づかしさ」を論じています。
 
「圧しつけがましさ(束縛)」と「恥づかしさ(蔑視)」。これはすなわち、近代社会に直面した「母」の動揺の表れに他なりません。階層秩序が固定化されていた前近代社会と異なり、学校教育制度が導入された近代社会においては、誰もが「出世」によって上位階層に移ることができる「フロンティア」が(建前の上では)開かれることになりました。
 
ゆえに近代社会における「母」は低い階層に甘んじる夫に「恥づかしさ」を感じ、また、そのような人物としか結婚出来なかった自分自身に「恥づかしさ」を感じるようになります。
 
そこで「母」は「恥づかしさ」から逃れるため「子」の「出世」を望み、息子を少しでもいい学校に入れようと奮闘することになるわけですが、その裏で「母」は「教育」を受けた「子」が自分の手を離れた遠い存在になってしまうことを密かに恐れていたりもします。
 
こうした二律背反の中で「母」は「子」に対して「圧しつけがましさ」を持つようになります。そして「子」の側も「母」の持つ裏の欲望を先取りして、いつまでも幼児のように「母」の肉感的な世界に安住しようとします。そこに「子」は限りない「自由」を感じることになります。
 

*「悪」を引き受けるということ

 
江藤氏の整理によれば「戦後派文学」が「父」との葛藤を軸とした文学なのだとすれば「第三の新人」とは「母」との密着を軸とした文学である、ということになるのでしょう。この点「海辺の光景」は近代社会に直面した「母」の動揺と崩壊を描き出した作品であり、同時に「母」の肉感的な世界の中で「自由」を享受していた「子」が「個人」になることを強いられて無限に「不自由」になっていく過程を描き出した作品でもあります。
 
こうして「母」の「喪失」に直面した「子」には「波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立つてゐた」という風景に表象された「喪失感の空洞」だけが残ることになります。
 
そして江藤氏はこのような「喪失感の空洞」の中に湧いてくる「(母を見棄てるという罪悪感としての)悪」を主体的に引き受ける態度こそがまさしく戦後日本社会における「成熟」の感覚であり「母」を喪失した「子」が「自由」を再び回復する道なのであると主張します。
 

* 治者の文学

 
そして江藤氏はこうした「悪」を引き受ける「成熟」の主体を「治者」と呼びます。この点、氏はやはり「第三の新人」を代表する作家の1人である庄野潤三氏の小説「夕べの雲」に「治者の文学」を見ることになります。同作の主人公はすでに「母」が崩壊してしまった世界であたかも「父」である「かのように」日々を生きています。
 
この点、伝統的に父性原理の強い西欧社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市民」になる事を指しています。けれども本書の立場に依拠するのであれば、伝統的に母性原理の強い日本社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市市民」になるのではなく、むしろ「母=前近代的世界観」を見棄てるという「悪」を引き受ける事で、あたかも「父」である「かのよう」に振る舞う点にあるといえるでしょう。
 
この点、氏はまさしくこの、あたかも「父」である「かのように」という点に日本的な「成熟」の主体を、すなわち「治者」を見出していたといえるでしょう。そしてそこには、たとえそれが究極的には無意味である事を知りつつも「あえて」それを行うところに何かしらの美学を見出すという戦後的なアイロニズムのひとつの変奏曲を見出す事ができるでしょう。
 

* そして「治者」とは別の仕方で

 
こうした本書の立場は確かに1960年代当時、農村共同体が解体され産業都市化が進んだ高度経済成長期には適合的な成熟モデルであったように思えますが、バブル崩壊後の長期にわたる経済低迷の中で、終身雇用や年功序列といったかつての戦後的ロールモデルが崩壊した現代日本においては必ずしも適合的な成熟モデルとはいえないでしょう。端的に言えば、もはや経済大国でさえない現代日本においては「父」である「かのように」振る舞うためのインフラさえもが決定的に喪失しているということです。
 
けれどもその一方で現代においては江藤氏がかつて見棄てたはずの「母」が「肥大化した情報環境」という形で強力に回帰してきました。いまや戦後的アイロニズムにおける「あえて」の論理に依拠することなく、誰もが「母=肥大化した情報環境」に支援される形で、自分の信じたい物語だけを信じ込み幼児的万能感の中で仮初めの「父」になる夢をみることができるようになりました。宇野常寛氏はこうした肥大化した母性と矮小な父性の結託構造を「母性のディストピア」と名づけています。
こうして再び「母」が肥大化して「母性のディストピア」が全面化した現代においてはかつて江藤氏が提示した「治者」とは別の仕方で「母」から離脱するための新たな成熟モデルが問われることになります。こうした現代的な観点から再び「第三の新人」の作品群を読み直すのであれば、そこにはまた新たな意義の発見があるようにも思えてきます。そして、そのための歴史的な参照点として本書も今なお、その名著としての輝きを失ってはいないでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか--人生がときめく片付けの魔法(近藤麻理恵)

*「環境」を変えることで「自分」を変える

我々が日々行なっている行動というのは一見して自由な主体的選択に見えて、実はかなりの部分を周囲の「環境」に規定されています。東浩紀氏が「弱いつながり(2014)」で述べているように、人は自分のいる「環境」から予想されたパラメータの集合でしかありません。
 
我々は外側から見れば単なる「環境」の産物でしかない。それなのに内側からはみな「かけがえのない自分」として、そんな「環境」から自由でありたいと思ってしまうわけです。ここに人間を苦しめる大きな矛盾があると、東氏はいいます。すなわち我々がもし「今の自分を変えたい」と願うのであれば、まずは、今の「自分」を規定するこの「環境」をラディカルに変えてみることから始めるべきである、ということです。
 
この点、東氏はその「環境」を変えるための方法として、様々な場所を訪れて、見ないものを見て周り、考えるはずのないことを考える「誤配」の経験としての「観光」を提案しています。もちろんこれはその通りだと思うのですが、このコロナ禍のご時世だと、人によっては今はちょっとハードルが高いと思う向きもあるでしょう。
 
「環境」を変えるための方法はひとつではありません。そしてそれはまさにこのコロナ禍によって改めて注目された「おうち」の中にあります。そう、もっとも生活に密接した「おうち」という環境のラディカルな再構築。それが「片付け」です。
 

*「祭りの片付け」と「ときめき」

 
いまや世界的ベストセラーになった近藤麻理恵さんの著書「人生がときめく片付けの魔法(2010)」は「自分の人生を丸ごと変える一大プロジェクト」として「日常の片付け」とは別の「祭りの片付け」の実践を提唱しています。普段の「日常の片付け」で苦労しないためにも、この「祭りの片付け」を一日でも早く終わらせてしまうべきだと、本書は述べています。
 
この点、本書のいう「祭りの片付け」は、まず初めに「片付け」の根源的な目的である「理想の暮らしを考える」ところから始まります。そして実際の作業においてやるべきことは「モノを捨てるかどうか見極める」「モノの定位置を決める」の二つです。ここで大事なことは「捨てる」が先ということ。まず「捨てる」を完璧に終わらせるまでは収納については考えないということです。
 
そして「捨てる」という作業は「場所別」ではなく「モノ別」に行います。家中のモノを「洋服」「本類」「書類」「小物」「思い出品」といった「モノ別」にかき集めて、そこで何を捨てて何を残すかを判断する。そしてその際の判断基準は今やグローバルスタンダードとなった「ときめき」です。
 
結構誤解されがちですが、ここでいう「ときめき」というのは、単純に「うっとりする」とか「かわいい」とか「ワクワクする」というファンシーな感覚だけではなく、デザインや機能に「安心する」とか「便利」とか「しっくりくる」とか「役に立ってくれている」という安心感や信頼感といった感覚も含まれます。もちろん他人から見れば完全に意味不明なモノでも、そこに何かしらの「ときめき」を感じるのであれば、それは堂々と取っておけばいいということです。
 

* モノの役割を考えてみる

 
こうした「ときめき」をモノを触った瞬間に感じるかどうかで捨てるか残すかを判断するわけです。ここではきちんと「触る」という身体的な感覚が重要になります。自分の頭の中では「ときめき」のカテゴリに入っているはずのモノも実際に触ってみると、もはや「ときめかない」こともあるでしょう。
 
「ときめかないけど捨てられないモノ」についてはそのモノの役割をよくよく考えてみる。「あるに越したことはない」と思ったら「なくてもどうにかなるかも」と考えてみる。なぜこれを持っているのか?私のところにやってきたことにどんな意味があるのか?こういうことをよくよく考えてみると、案外その役割はすでに終わっていることがわかる。こうして役割を終えたモノたちは感謝の念を持って送り出す。
  
ここで大事なのは「何を捨てるか」ではなく「どんなものに囲まれて生きたいのか」という視点です。こうした自らの内なる声に丁寧に耳を傾けていくプロセスの積み重ねにより、自分のモノの適正量や価値観がクリアになっていくわけです。
 
「何でもかんでも捨てる」ではなく、あくまで「ときめくモノをきちんと残す」ということ。この点で、こんまりさんの「片付けの魔法」は巷の「断捨離」や「ミニマリズム」とは、一線を画しているといえるでしょう。
 

* なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか

 
そして、こんまりさんは「祭りの片付け」は「一気」に「短期」に「完璧」に終わらせないといけないと幾度となく強調されています。その直接的な理由は「リバウンド」の防止にあります。すなわち「一気」に「短期」に「完璧」に片付いた状態を劇的に体験すると、もう二度と散らかった家に住むのがイヤになり、決して「リバウンド」の状態に戻れなくなるということです。
 
この点、片付けを「環境」のラディカルな再構築と捉える立場からも、この「一気」に「短期」に「完璧」にというやり方は、極めて理にかなったものであるといえます。
 
確かに「日常の片付け」をただただ漫然と続けているうちは「自分」を取り巻く「環境」は常に過去の「環境」との連続性を持ち続けており、その「環境」の産物である「自分」を変えるほどのインパクトは持ち得ないでしょう。
 
ところが「祭りの片付け」によって「環境」をラディカルに--まさしく「一気」に「短期」に「完璧」に--再構築することで、その「環境」の産物たる「自分」もまたやはりラディカルに再構築されることになる、ということです。
 

* アイロニー・ユーモア・享楽的こだわり

 
こうした「片付けの魔法」のプロセスは、千葉雅也氏が「勉強の哲学(2017)」で提示した「深い勉強」のプロセスと極めて似ています。同書は「勉強」を「ある環境のコード」から「別の環境のコード」への移行と捉えた上で、その「間」に注目した「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」を「アイロニー(懐疑)」「ユーモア(連想)」「享楽的こだわり(特異性)」からなる「勉強の三角形」として概念化しています。
これは先に述べた東氏のいう「環境を変えることで自分を変える」という発想のより精緻な分析であるとも言えます。この点「片付けの魔法」における「理想の暮らしを考える」という行為は、これまでの「環境のコード」に対する「アイロニー(懐疑)」に相当し、従来の場所からモノを引き剥がして一箇所に集め、ひとつひとつモノを吟味していく過程は「ユーモア(連想)」に相当します。そしてモノを選択する上での最終審級としての「ときめき」とは「享楽的こだわり(特異性)」に相当するでしょう。
 
こんまりさんは「片付け」とは単なるモノの取捨選択といった「作業」ではなく、モノと自分の関係を見つめ直して微調整する「最高の学びの場(=勉強!)」であり、人は「片付け」によって「自分を好きになること」ができるといいます。
 
結局のところ、人は環境(のコード)の産物でしかないのかもしれません。それでも人はかけがえのない自分(という特異性)を生きていきたいと願ってやまない存在でもあります。こうした人生における根源的な矛盾を乗り越える為の実践哲学の書として、あるいは本書を読むことができるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

リトル・ピープルにおける正義の記述法--傷物語/偽物語/猫物語(黒)(西尾維新)

 

*「壁と卵」から考える

 
2009年2月15日、村上春樹氏はエルサレム賞の受賞式において「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを行っています。ここでいう「壁」とは「システム」であり「卵」とは「個人の魂」のことを指しています。このスピーチにおいて村上氏は当時のイスラエル政府によるガザ侵攻を暗に非難しつつ、自分は小説家として常に「卵の側」に立つと宣明しました。
 
村上氏のスピーチは当時の内外から大きな賞賛が集まりました。しかしその一方で「壁」とか「卵」などといったメタファーに頼ったその曖昧な意見表明を批判する声や、このスピーチ自体が安易な人気取りであると断じ去る声もありました。こうした中、このスピーチにおける政治的態度の当否などではなく、村上氏の想定する世界観そのものに疑念を呈したのが宇野常寛氏です。その論旨は概ね次のようなものです。
 
かつて「壁」が「ビッグ・ブラザー(単一の「大きな物語」を語る国家的存在)」だった頃、村上春樹という作家は「壁」と「卵」の共犯関係を見抜き、両者からの「デタッチメント(離脱)」を志向した。けれどもやがて「壁」が「リトル・ピープル(無数の「小さな物語」を生み出す市場的存在)」へと変遷した時、他ならぬ村上氏自身が「壁」と「卵」を対立関係として捉える「コミットメント(介入)」へと転回した。けれども現代における「壁=リトル・ピープル」とはむしろ無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成された不可視の環境から産み出された力に他ならない、ということです。
 
宇野氏の想定する「リトル・ピープル」という世界観はフランス現代思想を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーの権力論と親和的な立場でもあります。フーコーは「監獄の誕生(1975)」「性の歴史Ⅰ(1976)」において「規律権力」と「生権力」という概念を提出し、近代以降、現代に至るまで権力とは「上から下」への外在的な支配ではなく、むしろ「下から上」への内在的な欲望として作動していると論じています。
 

* n通りの正義

 
確かに村上氏のスピーチを読むと、そこには「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立が明確に走っているように思えます。けれども宇野氏やフーコーの議論に依拠するのであれば、この「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立は「卵=n通りの正義」たちが織りなす「リトル・ピープル」という名の「権力のネットワーク」へと脱構築されることになるでしょう。ここには絶対的な「壁=悪」は存在せず、むしろ「卵=n通りの正義」達の接続過剰が相対的な「壁=悪」を産み出している世界があるということです。
 
この点、ゼロ年代サブカルチャーにおいて幾度となく反復された「正義」をめぐる問いにおいて常に追求されてきたのは、オブジェクトレベルにおける正義の決定不可能性を再縫合する、いわばメタレベルにおける正義の記述法であったといえるでしょう。
 
そしてゼロ年代を代表するライトノベルの一つである「化物語」の続編となる、いわゆる「物語シリーズ1stシーズン」を構成する「傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」の三部作は、こうした「ゼロ年代正義論」を俯瞰的位置から総括し明晰に言語化した作品でもあったといえます。
 

* コメットメントのコスト--傷物語

化物語」の前日譚に相当する本作ではシリーズ主人公である落ちこぼれの高校生、阿良ヶ木暦とシリーズヒロイン(?)の一人である無敵の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが邂逅する「春休みの地獄」が描き出されます。
 
物語は文字通り「語り」です。単なる「事実」の羅列ではありません。そこには当然「語り手」というものが入ってきます。そして「語り手」が異なれば、同じ「事実」から見える景色は自ずと異なってきます。
 
本作の後半では、それまで「自明の前提」だと信じ込まれていたものが唐突に転覆されることになります。そして結果的に、阿良々木はキスショットを「助けない」。彼は「みんなが不幸になる」となる道を選択します。
 
先述のようにかつて村上氏は「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」へと時代が変遷する中で、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へ転回しました。ところが今や「リトル・ピープル」が全面化した現代においては、個人はその一部として自動的に機能し、否応なく相互に「コミットメント」を強制され、そこでは「コミットメント過剰」によるコストの処理法が問われる事になります。
 
この点、本作が提示する結末は「みんなが不幸になる」という傷を引き受けた逆説的なコストの処理法であったといえます。あるいは「幸福」とはある意味で「不幸」を分かち合うことによって、はじめて産み出されるものなのかもしれません。本作は全ての「物語シリーズ」の原点にして頂点に位置する物語といえるでしょう。
 

* 正義の在り処--偽物語

化物語」の後日談に相当する本作は阿良ヶ木の二人の妹、ファイヤーシスターズこと阿良ヶ木火憐と阿良ヶ木月火の活躍(?)を軸に様々な「正義」のかたちが描き出されます。
 
一口で「正義」といっても、仔細に観るとそこには様々な差異を見出すことができます。例えばファイヤーシスターズの掲げる「正義」も火憐と月火では対極です。火憐の場合は目的が正義であり、月日の場合は趣味が正義です。火憐は他人のために正義を実行し、月火は他人の影響で正義を実行します。
 
そして本作の敵役の一人である詐欺師、貝木泥舟は火憐の信奉する素朴な正義/悪の二項対立をポストモダニズム相対主義の論理でやすやすと「n通りの正義」へと脱構築してしまいます。相対主義の論理によれば、正義とはもはや普遍的な理念ではなく、ことごとく個人的な欲望へと還元されてしまうことになります。
 
こうした中、阿良ヶ木は正義の第一条件とは「正しさ」ではなく「強さ」であり、その「強さ」とはどう足掻いても「偽物の正義」しか背負えない劣等感と向き合う意志の強度にあると主張します。こうした阿良ヶ木の語りの中にはポストモダニズム相対主義のさらなる徹底として出現した「ゼロ年代正義論」の臨界を見出すことができるように思えます。
 
正義の味方には倒すべき悪が必要だ。けれど正義/悪という単純な二項対立に依拠した無邪気な正義は時として凶器となる。誰かにとっての「正義の味方」は別の誰かにとっての「正義の敵」でしかない。自分こそは「正義の味方」だと信じていたのに、ある日突然誰かから「倒すべき悪」として名指された時、人はどうすればいいのか。本作はこうした「正義の在り処」をめぐる問いをラディカルに読み手に突きつけます。
 
確かにオブジェクトレベルにおいては、あまねく正義はすべからく偽りでしかないないかもしれません。けれど、この偽りを引き受ける強度こそがメタレベルにおける正義を帰結するのでしょう。そして「偽り」とは文字通り、人の為、誰かの為であるということです。
 

*「本物」を演じる悲劇--猫物語(黒)

化物語」のもう一つの前日譚である本作では阿良ヶ木とシリーズヒロインの一人である究極の委員長、羽川翼が繰り広げる「ゴールデンウィークの悪夢」が描き出されます。「壁と卵」のメタファーでいえば「傷物語」がコミットメントのコストを引き受ける「傷物の卵」の物語であり「偽物語」が劣等感と向き合う「偽物の卵」の物語であったのだとすれば、本作はいわば「本物の卵」の物語です。
 
人は皆、何かしら「傷物」であり何処かしら「偽物」です。そして、そんな世界の中で「本物」を演じるとすれば、それはしばし「猫をかぶる」などと言われます。
 
本作は長年「猫をかぶる」ことを強いられてきた少女がまさしくその猫に魅入られた物語です。羽川の悲劇は、両親が何度も入れ替わるという特殊な家庭環境の中でカントのいう定言命法的理性の実践こそが「普通」であると思い込み「普通」という名の「本物」を演じた点にあったといえるでしょう。
 
そして彼女が「本物」を演じれば演じるほど、義理の両親にとって彼女は「化物」に見えたのでした。ここには「本物の卵」こそが「本物の壁」となるという逆説を見ることができるでしょう。
 

*「仮留めの正義」へ折り返すということ

 
傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」。この三部作が繰り返し描き出すように、我々の生きる現実世界においても「壁」と「卵」の関係とは常に相対的なものであるといえます。我々はしばし自分こそが「卵」だと思い込み、その「正義」を声高に主張したりもします。けれど「卵=正義」とは「別の卵=別の正義」にとっては端的に「壁=悪」でしかないということです。
 
そんな世界において、もし仮に「正義」の名に値する選択があるのだとすれば、それは、ひとつの「決定的な正義」の決断的選択ではなく、その場その都度限りの「仮留めの正義」の中断的選択でしかないのでしょう。「正義」とは何かという問題を先送りし続けるということ。「決定的な正義」から「仮留めの正義」へ折り返すということ。それこそがまさにこの三部作が到達した正義の記述法であったように思えます。