かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

〈一者〉の享楽と発達障害--こちらあみ子(今村夏子)

*〈一者〉の享楽と〈他者〉の欲望

 
多くの人はそれぞれ、その人だけの「特異性」をもった存在として「一般性」の中で折り合いをつけながら生きています。こうした「一般性」と「特異性」の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として受け入れられますが、その巡り合わせが悪ければ、それはしばし様々な「生きづらさ」として立ち現れてくるでしょう。
 
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンはここでいう「特異性」を「〈一者〉の享楽」といい「一般性」を「〈他者〉の欲望」と呼んでいます
 
ラカンのいう〈一者〉とは子どもが初めて言語と遭遇した時に刻まれるトラウマ的満足体験の痕跡のことをいいます。人はこのトラウマ的満足体験をどうにかして反復しようとします。ラカンはこのような反復を「〈一者〉の享楽」として捉えました。それはいわば人それぞれが持つ「特異的なこだわり」とでも言うべきものです。
 
そして、この「〈一者〉の享楽」が紐付けられる子供が最初に出会うトラウマ的言語をラカンは「ララング」と呼びます。「ララング(lalangue)」とはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。
 
子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ、トラウマ的な「〈一者〉の享楽」がもたらされることになります。子どもにとってララングとはコミュニケーション手段としての言語ではなく、この「〈一者〉の享楽」を反復するための私的言語に他ならなりません。
 
しかし、やがて多くの子どもはこのララングの使用をあきらめコミュニケーション手段としての「ラング(言語)」を獲得して〈他者〉の世界に参入することになります。ここでいう〈他者〉とは具体的な誰々という「他人」というよりも「みんな」とか「世間」とか「社会」などと呼ばれる「一般的他者」のことを指しています。
 
そして子どもはこの〈他者〉の世界を生きる中で「〈一者〉の享楽」は「〈他者〉の欲望」の原因として機能する特定の対象、すなわち、ラカンのいう「対象 a 」がもたらす「剰余享楽」に平準化されることになります。こうして子どもは「みんな」が「世間」が「社会」が欲望するものと同じものを欲望するというラカン的な意味での「主体」になります。
 
しかしながら、世の中には「〈一者〉の享楽」を手放そうとせず「〈他者〉の欲望」と上手く折り合いをつける事のできない子どもがかなりの割合で存在します。そしてまた本作のあみ子もそうした子どもの1人のように思えます。
 

* 今村文学の原点にして頂点 

 
本作は2019年に「むらさきスカートの女」で第161回芥川賞を射止めた今村夏子氏のデビュー作となります。2010年に「太宰治2010」に「あたらしい娘」という題で発表された本作は、同年第26回太宰治賞を受賞し、その後、本作は「こちらあみ子」と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫賞を受賞しました。
 
当時、本作は書評家や書店員の間でかなりの評判を呼んでいました。そして、あれから10年余りの時を経た本年2022年、森井勇佑監督、大沢一菜主演の映画が公開され、本作は再び注目を集めることになりました。
 
平明でありながらもどこか「世界に棲めてなさ感」のある不穏さを孕んだ文体、純粋無垢な感性の持ち主であるがゆえに異端扱いされる主人公、しばし「世界文学」とも評される時代や地域を超越した普遍的寓話性。こうした今村文学に通底する諸特徴はすでに本作において極めて過激な形で表出しています。まさに衝撃のデビュー作であり、原点にして頂点といえる作品です。
 

*「普通」ではない女の子の物語

 
本作のあらすじはこうです。現在田舎で祖母と暮らすあみ子は15歳までは両親や兄と一緒に暮らしていた。自宅では父親の再婚相手である母親が書道教室を開いており、兄もそこに参加していた。しかし、あみ子は母親の授業を受けることはもとより、教室をのぞくことさえ許されていない。また母親の教室に通う同い年ののり君という少年に惹かれていたあみ子は、彼と仲良くなろうと何かと話しかけるがのり君は全く相手にせず、むしろあみ子を避けているようでもあった。
 
10歳の誕生日に父親からトランシーバーをもらったあみ子は、今度生まれてくる「弟」とスパイごっこをするといい張り切っていた。けれども果たしてその年の冬、あみ子の待ち望んでいた「弟」は死んで生まれてきたのであった。
 
それでもあみ子の母親は家族の前ではどうにか気丈に振る舞い、あみ子にも優しく接していた。そんな母親を元気づけようとあみ子は「弟の墓」を作ることを思い立ち、他人の庭から勝手に引き抜いてきた立札に、のり君に「弟の墓」という字を書いてもらおうとする。当然、拒絶するのり君であったが、最後はあみ子の説得に折れてしまう。
 
のり君に「弟の墓」と書いてもらった立て札をあみ子は家に持ち帰り庭に立てて母親を喜ばそうとするが、立て札を見るや母親はその場で激しく泣き崩れてしまった。しかしあみ子には、母親が泣いている理由がさっぱり分からなかった。その後、あみ子の母親はやる気を無くし書道教室も閉じて寝込んでしまい、兄は不良になり家に寄り付かなくなった。そして、あみ子は中学生になった。
 

* 発達障害から考える

 
あみ子はとても元気一杯で天真爛漫な少女ですが、その行動はどこか非常識で奇矯なところがあります。本作における随所の記述から、あみ子はおそらく発達障害である事が想起されます。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では次のような三つのカテゴリーに分類されています。
 
 
1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」といえば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが、かつてカナーとほぼ同時期にオーストラリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって発見されたアスペルガー症候群を「もう一つの自閉症」として注目したことから、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」において、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
⑵ 注意欠如・多動性障害(ADHD
 
ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別されます。「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
  
⑶ 限局性学習障害(LD)
 
知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 

* あみ子のケースをどう考えるか 

 
この点、あみ子は「弟の墓」のエピソードが端的に示しているように、基本的に空気を読むコミュニケーションが苦手です。それゆえにあみ子は相手から露骨に避けられたり邪険にされたりしても、構わずに話したいことを一方的にべらべら喋りまくったりします。
 
また、あみ子は「インド人のマネ」などと称してカレーを手で掴んで食べたり、チョコレートクッキーの表面のチョコレートの部分だけ綺麗に舐め取ったりと、その行動の端々に奇妙なこだわりが見られます。こうした奇妙なこだわりはのり君への関心の向け方にも現れています。あみ子はのり君の書く美しい字に異様に執着する一方で、中学に入ってから2ヶ月以上ものり君が同じクラスだった事に気づいていませんでした。
 
そして、あみ子はある日から周囲がほとんど気にしてないような些細な物音が気になり、自分の近くに「霊」がいることを確信し、やがてそれは死んだ「弟の霊」に違いないと思い込むようになりました。
 
それに加えて、あみ子は時間の把握が困難で学校をよく遅刻したり欠席したりすることも多く、何日も風呂に入らなかったり、シワだらけの制服を着て顔も洗わずに学校に行ったり、裸足で校内を歩き回ったりと、かなりルーズというか、だらしない行動が目立ちます。さらに、あみ子は中学生になっても「私」や「朝」といった基本的な漢字が書けず、のり君の苗字である「鷲尾」の読み方も中3になるまで知りませんでした。
 
こうして見ると、あみ子は発達障害におけるASDADHD、LDの全ての特性を満たしているように思えます(実際にそういうケースは珍しくありません)。
 

* 自分の中にある「あみ子的なもの」と向き合うために

 
もっとも本作では「発達障害」という診断名が明示される事はありません。それゆえに本作は発達障害というカテゴリを超えて、様々な形で生起する「生きづらさ」全般へと差し出された作品となっています。
 
本作文庫版の解説において町田康氏は「一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならない」と書いています。ここでいう「一途に愛する者」とはもちろんあみ子のことです。すなわち、冒頭で述べたラカンの言葉に即していえば、あみ子は「〈一者〉の享楽」を純粋に反復し続ける「一途に愛する者」であるが故に「〈他者〉の欲望」とまるで折り合いがつかないため「この世に居場所がない人間」になってしまっているということです。
 
もっとも「〈他者〉の欲望」と折り合いが付くか付かないかというのは、その時代その社会の偶然的な条件に規定されているところがあります。あみ子が周囲から疎まれるのは、現代日本では空気を読まない習慣とかカレーを手で食べる習慣とか何日も風呂に入らない習慣などが「たまたま」ないからです。その一方で多くの人が「普通」でいられるのは「〈他者〉の欲望」と幸運にも「たまたま」折り合いがついているだけ、あるいは折り合いがついているフリができているだけに過ぎません。
 
それゆえに誰もが環境や状況や立場の変化といった何かのきっかけである日突然「〈他者〉の欲望」と折り合いがつかなくなることだってあるわけです。そしてその帰結は我々の日常の上に様々な「生きづらさ」という形をとって現れてくることになります。
 
いわば人は誰もがどこかに「あみ子的なもの」を抱え込んでいるといえます。こうした意味で本作を発達障害を抱えるかわいそうな子の話などという「他人事」ではなく、自分自身に起きうるかもしれない出来事として読み解く時、我々読み手は自らの中にある「あみ子的なもの」と真摯に向き合うための知恵と勇気と希望を、他ならぬあみ子から教わることができるのではないでしょうか。