かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

「凡人として生きるということ(押井守)」〜「欲望の本質」を見極めるという倫理。

 

凡人として生きるということ

凡人として生きるということ

 

 

 

 

* はじめに

 
ビューティフル・ドリーマー」「パトレイバー」「攻殻機動隊」「イノセンス」「スカイクロラ」など、アニメーション史上に残る数多くの作品を手掛けた世界的クリエイター押井守監督の劇薬人生論。巷に流布される様々なデマゴギーに惑わされず融通無碍に生きる術を説く一冊。以下、その言説をいくつか紹介します。
 
 

* 「若さ」に価値はない

 
だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家くらいのものだろう。人間を一つの兵器、兵力としてみるなら、なるほど若さには一定の価値があるかもしれない。
 
(本書より〜Kindle No.147)

 

 
本書は「若さには価値がある」というのはデマゴギーであると主張します。では、なぜそういうデマが流布するのでしょうか?それは「若さには価値がある」という考えが一種の強迫観念と化すことで「若さ」をキーワードとした様々な商品やサービスが売れるからです。
 
そして、眩しいばかりの青春を描いた映画やアニメなどはそういうデマゴギーを再強化する役割を果たしており、そういう類の映画やアニメはある種のSFファンタジーとして観るべきだと言います。あれが「普通の青春」だと思ってしまうから、そんな「眩しさ」から程遠いところにいる自分を顧みて苦しむわけです。
 
こう述べる裏にはかつて「終わりなき日常」を描いた「うる星やつら」の演出を通じてそういうデマゴギーに加担してしまった押井監督自身の自責の念があるようです。
 
 

* 「ウソをついてはいけない」というウソ

 
これだけウソがまかり通っているのに、「ウソはいけない」という掛け声だけが叫ばれる。特に子供たちは親から「ウソはいけない」と教え込まれる。だが、当の大人は当然のようにウソをつく。
 
(本書より〜Kindle No.297)

 

 
臨床心理学者・河合隼雄先生の「嘘は常備薬、真実は劇薬」という有名な言葉があるように、世の中には吐いても良い嘘と悪い嘘があります。どういう時にどういう嘘ならついていいのか。その辺りの機微をわかるのが「大人になる」という事です。
 
要するに「ウソをついてはいけない」というのは綺麗な原理原則であって、実際の世の中には数多くの例外があるわけです。重要なのはどこまでが許される例外なのかを見極めることであり、この原則に金科玉条的に縛られるというのは自分も周りも不幸にするだけでしょう。
 
 

* 「美しい友情」という虚構

 
「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間はずれにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
 
(本書Kindle No.1376)

 

 
現代はコミュニケーションが自己目的化している時代であると言われます。LINEのスタンプなんかそうですけど、何かをする為にコミュニーケーションをするのではなく、コミュニケーションをやっていることを確認する為にコミュニケーションをやっているような部分があります。
 
けれどどこまでいっても損得抜きの「美しい友情」というのは幻想でしかない。人間関係というのはやはりどこかで損得勘定に還元されてしまうのは確かです。「無償の愛」という言葉がありますが、その「無償の愛」を与えている人にもやはり「無償の愛を与えている自己イメージ」という「得」があるわけです。
 
裏返して言うと、人間関係を損得で考える自分を責める必要は全然ないということです。逆に、お互いに損得抜きでの関係性を築けているとベタに信じ込んでいるようであればかなり危険です。もしもその人から裏切られた時のダメージは計り知れないものになるでしょう。
 
 

* デマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める

 
本書では随所で「オヤジになれ」と説きます。これはいたずらに馬齢を重ねる事とは勿論違います。オヤジになるということ。それはデマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める事を言います。
 
人が生きる上で欲望は必要不可欠ですが、欲望というのは文化、社会、あるいは世間という〈他者〉が生み出すものであり、人は基本的に皆が欲しがるものを欲しがるようにできています。
 
「〈他者〉の欲望」に振り回されるのは非常に苦しい生き方になります。「男/女は普通こうあるべきだ、こうなるべきだ」という社会のロールモデルが崩壊した現代においては尚更そうでしょう。
 
こうした「〈他者〉の欲望」から真に自由であるためには、デマゴギーデマゴギーであると見破り、その上で「まさにこれだ」と確信していえる自分の中にある「純粋な欲望」は何なのかを見極めることが大事になってくるということです。
 
 

* おわりに〜押井映画における倫理的態度

 
本書で述べられる押井監督の人生観は近年の押井作品で言えば「イノセンス」のバトーの姿と重なるものがあります。
 
かつて押井映画のダイナミズムを支えていたのは「終わりなき日常」という永遠性を内破するという倫理的態度でした。
 
際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描いた「うる星やつら2〜ビューティフル・ドリーマー1984)」然り、首都圏への大規模テロのシュミレーションを情報論的に展開した「機動警察パトレイバー(1989/1993)」然りです。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては、広大なネッワークというフロンティアの果てに、新たなる可能性を見出していく。ラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きます。
 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは畢竟、陳腐な「終わりなき日常」でしかなかったというある種の諦観が描かれています。
 
こうしてその後「イノセンス(2004)」で描き出されたのが、ネットワークの守護天使(素子)に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するサイボーグ(バトー)の姿でした。
 
イノセンス、つまりそれは「純粋な欲望」ということなのでしょう。もはや「終わりなき日常」しかない世界において、押井さんが見出した新たな倫理的態度とはすなわち「欲望の本質を見極めた態度=オヤジになること」だったんだと思います。
 
終身雇用、年功序列といった昭和的ロールモデルが崩壊し、グローバル化、情報社会化が進展する現代において、かつてのような意味での「オヤジ」になれずアイデンティティ不安や生きづらさを抱える人にとって、本書が提示する「新しいオヤジ像」は一つの指針となるのではないでしょうか。
 
 

「リトル・ピープルの時代(宇野常寛)」〜「いま、ここ」に深く潜る想像力。

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)
 

 

 

* はじめに

 
ゼロ年代の想像力」で一世を風靡した気鋭の批評家、宇野常寛氏が震災直後の2011年7月に世に問うた労作。本書は戦後社会を「ビッグ・ブラザーの時代」と「リトル・ピープルの時代」の二つに切り分け、現代を生きるための「想像力」とは何かを問う一冊です。
 
 

* 「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」

 
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オールウェルの風刺小説「1984年」に登場する国民統合のシンボルとしての疑似人格体の事です。本書では「国民国家という幻想」の比喩として使用されます。
 
かたや「リトル・ピープル」とは村上春樹の小説「IQ84」に登場する超自然的な力を発揮する一種の幽体のことです。本書では「超国家的な資本と情報のネットワーク」の比喩として使用されます。
 
そして本書は現代社会を規定するのは「国民国家という幻想=ビッグブラザー」ではなく「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」であると述べます。
 
すなわち、近代において長らく世界と個人を規定していた「国民国家という幻想=ビッグブラザー」は政治の季節が極相を迎えた1968年以降、消費経済の成熟と共に徐々に機能不全に陥り、冷戦終結バブル経済崩壊を経た1995年頃には完全にその機能を停止することになる。
 
そしてビッグブラザーの機能停止と入れ替わるように、グローバル資本主義とインターネットなどの情報環境の発展を背景に「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」が台頭し始める。以上が本書の基本的な時代認識となります。
 
 

* 理想・夢・虚構

 
ではこのビッグブラザーなきリトルピープルの時代において、人はどのようにアイデンティティを確保し世界と関係していくことになるのでしょうか?
 
この点、社会学者の見田宗介氏は「現実」は常に「反現実」によって意味付けられるとして、どのような「反現実」がリアリティを持っていたかで時代の区分を試みています。
 
1950年代までのビッグブラザーがまだ機能していた時代においては「高度経済成長」「アメリカン・デモクラシー」あるいは「ソビエトコミュニズム」といった「イデオロギー」が「反現実」として機能していた。これを見田氏は「理想の時代」と呼びます
 
そして1960年代、政治の季節という「夢の時代」を経た後、1970年代のビッグブラザーの解体期においては、今度はイデオロギーの代わりに「サブカルチャー」が反現実として機能し始める。
 
「理想」を失ったのち、人々は「架空年代記」や「最終戦争」といった「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実」を夢想する事でアイデンティティ不安を埋めあわせようとした。これを見田氏は「虚構の時代」と呼びます。
 
ところが1990年代、ビッグブラザーに成り代わりリトルピープルが台頭し始め、世界中が資本と情報のネットワークで接続されてしまうと「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実の依り代となる「絶対的な外部」というものにリアリティがなくなってしまう。
 
つまり「リトル・ピープルの時代」において、「虚構」は「反現実」として機能しない。この端的な現れが1995年の地下鉄サリン事件という事になります。
 
ではこの「リトル・ピープルの時代」あるいは「ポスト・虚構の時代」における「反現実=想像力」とは何か?
 
これが本書の問題意識であり、こうした観点からメインカルチャーを代表する作家である村上春樹と、仮面ライダーをはじめとした特撮・アニメといったサブカルチャーを比較考察するという非常にユニークな試みを展開しています。
 
 

* 「拡張現実」という想像力

 
本書が「リトル・ピープルの時代」と呼ぶ1995年以降の時代を、批評家の東浩紀氏は「動物の時代」として捉えます。
 
ここでいう「動物」とはロシアの哲学者アレクサンドル・コジューヴに依拠した概念で「人間的欲望」の欠如した「動物的欲求」のみを持つ存在のことです。つまり、東氏によれば、現代社会の人間像とは、個人の生の意味づける「大きな物語」への欲望より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」であるということです
 
そして、社会学者の大澤真幸氏によれば、東氏がいうこの「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。
 
すなわち、大澤氏は現代における「反現実」として⑴例えば自傷行為のように「反現実」の機能を現実そのもので代替する「現実への逃避」、および⑵例えばフィルタリングのように危険性や暴力性を排除し現実を虚構化する「極端な虚構化」を挙げ、この矛盾する二つの傾向はともに「直接には、認識や実践に対して立ち現れることのない何か=不可能なもの」という点で共通しており、ゆえに現代はこの「不可能なもの」が反現実として機能する時代であるというわけです。
 
これらの議論に対して本書は「リトル・ピープルの時代」における「反現実」として「拡張現実」という概念を提唱します。
 
拡張現実。それは「いま、ここ」を多重化し、読み替え、深く潜っていく想像力のことです。
 
例えば、今日の朝ごはん、道端で見かけた花といった日常の生活風景がSNSなどで共感を集めたり、あるいは、なんでもない街角や路地裏が「アニメの聖地」になったり、また、文字通り日々の様々な「いま、ここ」に意識を向けていくマインドフルネス実践が医療やビジネスなど様々な分野で注目を集めたりするのは拡張現実的現象として理解できるかと思います。
 
 

* おわりに

 
人は生の実感を得る上でなにがしかの想像力を必要とします。以前はイデオロギーサブカルチャーがその機能を担っていたわけです。
 
けれども、世界中が資本とネットワークで接続された現代において「いつか革命が起きる」とか「やがて最終戦争が起きる」などとという「ここではない、どこか」はもうベタに信じることはできず、せいぜいメタかネタで演じるしかないわけです。
 
ありもしない「ここではない、どこか」を仮想するのではなく、まさにこの「いま、ここ」を拡張することで幸せの在処を見出していく。現代とはそういう想像力が求められている時代ということなんでしょう。前作を上回る圧倒的な射程範囲と情報量、読ませる文章力、迸るパッション。なかなか刺激的な読書でした。
 
 

「血流がすべて解決する(堀江昭佳)」〜つくり、ふやし、めぐらせる。

 

血流がすべて解決する

血流がすべて解決する

 

 

 

* 心身の不調に関わる「血流」

 
漢方医学と現代医学の統合的観点から、血流を増やす方法を紹介する一冊です。
 
 
心臓を出た血液は1分間で全身をめぐりまた心臓へと帰ってくる、この流れが「血流」です。
 
血液は全身を流れることで、水分を保ち、酸素、栄養、ホルモンを全身の細胞に届け、老廃物や二酸化炭素を回収し、体温や免疫を維持する役割を果たしており、心と体の様々な悩みはこの血流に深く関係していると本書は言います。
 
すなわち、本書によれば血流の問題は、高血圧、心筋梗塞脳梗塞といった血管が詰まる病気はもちろんのこと、生理痛、不妊症、肩こり、ひざ痛、果てはガンや認知症といった病気、さらには、鬱や自律神経失調症などの精神疾患、やる気が出ない、自信がない、イライラするといった心の悩みにまで関わっているということです。
 
  

* 目指すべきは「血流たっぷり」

 
ところで「血流」を改善するということはいわゆる「血液サラサラ」の状態を想像しがちですが、本書はまず目指すべきは「血流たっぷり」であるという。
 
もちろん「血液ドロドロ」がいいわけではないでしょう。糖尿病、心筋梗塞脳梗塞、高コレステロールといった生活習慣病の予防や治療において「血液サラサラ」は重要になります。
 
けど、特にメタボでもない「血」が足りていない人が、いくら血液をサラサラにしても意味がなく、それどころか足りない血流を無理やりサラサラにして全身に巡らせると逆に体調を崩してしまうこともあるそうです。
 
また、漢方でいう「血」とは単に「血液」だけでなく血液中の栄養やホルモンなどをも含む概念である。つまり「血流たっぷり」というのは「血の質」をよくするという意味合いもある。
 
すなわち、血を増やして血流を良くするというのは細胞レベルで体の働きを活性化し重大な病気や不調を防ぐことにつながるわけです。
 
 

* 気虚血虚・瘀血 

 
本書は血流が悪い理由は体質と密接に結びついていると言います。すなわち「血が作れない」のは「気虚体質」に、「血が足りない」のは「血虚体質」に「血が流れない」のは「瘀血(おけつ)体質」と関わっているそうです。
 
気虚体質は、身体面では胃腸関係の不調が目立ちます。また精神面ではやる気が出ないといった特徴があります。
 
血虚体質は、身体面では、老化を促進する傾向があり、女性の場合婦人科系のトラブルが目立ちます。また精神面ではすぐに不安になるという特徴があります。
 
瘀血体質は、身体面では低血圧の人が多く、朝起きれない、体がだるい、肩こり、頭痛、めまい、耳鳴りなどの症状が目立ちます。また精神面では、イライラしやすかったり自分の感情をコントロールできなかったりする傾向が見られます。
 
血流が悪い人はだいたいこのどれかに当てはまり、下手すると3つの全ての体質が当てはまるケースもあるようです。
 
ゆえに血流を良くするにはこの体質を根本的に改善しなければならないということです。
 
 

* つくり、ふやし、めぐらせる

 
本書では、赤血球の生成サイクルである「4ヶ月」を目安に上記の「気虚」「血虚」「瘀血」という体質を順に改善していく方法を紹介しています。
 
この点、重要なのは必ず「気虚」「血虚」「瘀血」の順番に改善して行くことであると言います。血は作れないから足りなくなり、足りないから流れないのであり、血の量が絶対的に足りていない状態で血を流してしまうと逆に不調をきたしてしまうそうです。
 
一番に取り組むべき「気虚」の改善の目安は「朝、きちんとお腹が空いてること」です。これは胃腸が丈夫になったということです。
 
次に「血虚」の改善の目安は夢を見ることが減ったり、朝スッキリ起きられるようになることです。
 
そして血が増え始めてきたところで満を持して「瘀血」の体質改善に取り組むという流れになります。
 
本書では、まず最初の一週間は食事改善(本書第三章)に集中し、次の二週目に睡眠改善(本書第四章)を加え、三週目から生活習慣改善(本書第五章)を取り入れ、順番に「気虚」「血虚」「瘀血」を改善していくプログラムを提案しています。
 
ここでは第三章の「血をしっかり作るための食べ方10の真実」の見出しだけ紹介しておきます。
 
① 満腹より空腹がいい
 
② 「一週間夕食断食」で胃腸がよみがえる
 
④ 夕食断食をすると、内側から若返る
 
⑤ パン食よりごはん食がいい
 
⑥ ほうれん草では鉄分を補えない
 
⑦ 血流不足にマクロビはすすめない
 
⑧ 血を増やしたければ肉食女子になりなさい
 
⑨ 下腹ぽっこりは血流の大敵
 
⑩ 命への感謝が血をつくる
 
 

* おわりに

 
上記の見出しを見て「本当?」って驚かれた方もいるんじゃないでしょうか?
 
スマホで適当に検索した断片的なヘルスケア情報を鵜呑みにして「私は健康に気を使っている」と思い込むのはまずいということですね。なんとなく不調が気になるけど、どこからどう手をつけていいのかわからないという向きには参考になるかもしれません。
 
 

「母性のディストピア(宇野常寛)」〜戦後日本の病理構造とサブカルチャーの共時的布置を読み解く一冊

 

 

 
 

* はじめに

 
本書は宮崎駿富野由悠季押井守という戦後アニメーションを築きあげた巨匠達の仕事を通じて、日本社会を覆う病理構造を明らかにし、さらに個人と世界の関係性のあり方を論じるという恐ろしく広大な射程を有する一冊です。
 
総頁数512頁というなかなかの分量ですが、本書が示すのは、サブカルチャーと社会構造に関するひとつのパースペクティブであり、最後まで丁寧に読み通せば、漫画やアニメ、社会情勢に対する多角的で豊かな視座が得られると思います。
 
 

* 「政治と文学」における戦後的アイロニズム

 
個人のアイデンティティは社会との関係性の中で形成されます。そして従来、個人は近代国家という舞台装置において「市民=父」を演じる事により、その近代的成熟性を獲得してきました。つまり、個人のアイデンティティの問題とは「政治と文学」の問題に他ならないわけです。
 
ところが戦後日本の場合、サンフランシスコ体制と日米安保により政治レベルの問題が消去された為、上記の意味での近代的成熟性の獲得は原理的に不可能となり、他方で経済的身体だけがぶくぶく肥大化していくことになります。こうした状況を本書は「幼形成熟ネオテニー)」と表現します。
 
このような事情から、この国における近代的成熟とは文学レベルでの自己完結による「成熟の偽装」にならざるを得なかったわけです。
 
つまり、保守的な言説にせよリベラルな言説にせよいずれにせよ、政治レベルへの接続不可能性を承知の上で、それでもあえて空位玉座を守り、偽悪ないし偽善を引き受けるという態度を取ることこそが、戦後日本における「成熟」であると看做すアプローチです。
 
こうした、徹底的に私的である事が逆に公的となり、現実的には無価値なものこそが理念的価値を生むという態度を「戦後的アイロニズム」と言います。
 
けれども、こうした文学レベルでの自己完結は、その「あえて」というアイロニカルな態度に対して無条件の絶対的承認を与える存在、すなわち「母なるもの」への依存と責任転嫁により初めて可能となります。
 
つまりは、「戦後的アイロニズム」という「矮小な父性」の後景には「肥大化した母性」が存在しているということです。このような矮小な父性と肥大化した母性の癒着構造を本書は「母性のディストピア」と呼ぶわけです。
 
 

* アトムの命題ゴジラの命題

 
ここで本書は戦後日本において奇形的発展を遂げたアニメーションというジャンルに注目します。
 
19世紀が「文学の世紀」であるのであれば20世紀は「映像の世紀」と呼べるでしょう。19世紀末、リュミエール兄弟によってシネマトグラフが発明され、映像という新たな技術は、20世紀という時代を映し出し、個人と世界をつなぐ公器としての役割を担わされることになりました。
 
映像は、共有不能な三次元上の現実を共有可能な二次元上の虚構に再構成する機能を持っています。その意味では、製作者によって映像内のすべての要素が制御可能なアニメーションこそまさしく「映像の世紀」の臨界点に位置していると言えるでしょう。
 
この点、本書によれば、戦後アニメーションはその無意識下で二つの命題に規定されていると言います。すなわち「アトムの命題」と「ゴジラの命題」です。
 
アトムの命題」は、手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」に由来する「成長や死のない記号的身体で成長や死を描写する」というテーゼです。
 
ゴジラの命題」は、東宝の特撮映画「ゴジラ」に由来する「虚構の中でしか描けない現実を描写する」というテーゼです。
 
アトムの命題は戦後日本のネオテニー的な身体の投影であり、ゴジラの命題はサンフランシスコ体制と日米安保に規定される現実の投影です。
 
すなわち、このような「身体(性/文学)」と「現実(戦争/政治)」という二つの命題に規定された戦後アニメーションのなかにこそ「母性のディストピア」を鋭く暴き出す批判力が内在しているということです。
 
こうした観点から本書は、宮崎駿4万字、富野由悠季10万字、押井守10万字というボリュームをもって戦後アニメーションの巨匠が辿った軌跡を検証していくわけです。
 
 

* 肥大化する母性の下での「政治と文学」の再設定

 
そして今、時代は「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へと遷移し、情報環境の発展により、人々は自分の見たい現実だけを見て、信じたい物語だけを信じられる環境を手にしました。
 
こうした環境下においては、もやは戦後的アイロニズムによる成熟のでっち上げという方法論すら成立しない。人々はそんな迂路をたどる必要なく、情報技術という新しい母の膝元で父になる泡沫の夢に浸る事ができるわけです。すなわち現代において「母性のディストピア」はますます肥大化しているということです。
 
こうした閉塞的状況を突破するには戦後アイロニーとは異なる形、ネットワーク時代に対応した形で政治と文学の問題を再設定するしかない。ではそれは何なのか?これが本書の問題意識となります。
 
 

* 「拡張現実」を生きるということ

 
一方、「映像の世紀」から「ネットワーク世紀」へという情報環境の変化は、「虚構」と「現実」の境界線を相対化させ、現実の一部が虚構化した「拡張現実」が出現します。
 
すなわち、虚構と現実の関係性は「あれかこれか」の対立関係ではなく「あれもこれも」という統合関係に遷移します。
 
こうした拡張現実の進展は「政治と文学」の接続のありように変化をもたらします。つまり個人は「ここではないどこか」という「虚構(仮想現実)」の中に自分の物語を見出すだけでなく「いまここ」という「現実(拡張現実)」に深く潜る事で自分の物語を見出すことも可能となるわけです。
 
ここでは、かつて「終わりなき日常」と嘯いていた現実こそが、いくらでもその可能性を拡張していける豊かなものであったという価値観の転換が起きるわけです。
 
こうして本書では「君の名は。」「聲の形」「この世界の片隅に」、そして「シン・ゴジラ」と言った近年のサブカルチャー作品の検証を通じ、拡張現実の時代における虚構の役割を問い、母性のディストピアを内破する想像力の可能性を探り出します。
 
 

* 「政治と文学」から「市場とゲーム」へ

 
個人的に興味を引いたのは、吉本隆明氏の共同幻想論を参照しつつ、母性のディストピア構造の解除条件を論じる点でした。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(家族的な関係性)、共同幻想(国家的な共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点として核家族的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉を考えてみましょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
ここで核家族的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開する。ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくわけです。
 
こうして個人と世界の関係性のあり方は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」として接続されることになるわけです。
 
そして、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象はサブカルチャーの想像力の中にも確実に立ち現われています。例えば今日における日常系アニメの氾濫はこうした現象の中で理解ができるでしょう。
 
 

* おわりに

 
本書がいう「母性のディストピア」とは単なる思想的な概念ではなく、フェミニズムナショナリズムといった今日の様々な社会問題の背景をなす病理構造です。
 
大きな物語」が失墜し、グローバル化と情報化が進展する今日では世界から「外部」は消失し「現実」と「虚構」の境界は融解した。
 
こうした環境においてはもはや「父」になるとかならないとかいう近代的成熟の問題は意味をなしません。今や誰もが自分が信じたい「小さな物語」を選択し、その中で自動的に「父」として機能するからです。
 
つまり、現代的成熟のあり方は異なる「小さな物語」を生きる他者といかに関係していくか、相補性と共時性からなる自己実現アイデンティティゲームを上手く生きて行けるかという問題となるわけです。
 
誤配のない優しい世界で夢を見るのか、それとも誤配を承知で新しい可能性を切り開きに行くのか。本書の根底にはそういう厳しい問いがあるんだと思います。
 
今日における世界の見方、そして成熟のあり方を考えるにあたり様々な示唆が得られた刺激的な読書でした。
 
 
 
 
 

「ユング心理学入門(河合隼雄)」〜この生をいかに自分らしく生きるか

 

ユング心理学入門

ユング心理学入門

 

 

 

 

* ユング心理学とは何か?  

 
ユング心理学とは、スイスの精神科医カール・グスタフユングが創始した心理学です。よく「ユング心理学はコンプレックスの心理学」などと言われたりもします。確かにコンプレックスという言葉はユングによって有名になりました。また実際、ユング心理学の理論体系上でもコンプレックスは重要な位置を占めています。
 
けれども、それ以上にユング心理学の真骨頂はコンプレックスを超えた「自己」という概念にあります。ユングは人が自らの「自己」を見出していく過程を「自己実現」と言います。そういった意味で、ユング心理学というのは「この生をいかに自分らしく生きるか」という「自己実現の心理学」だと言い得るでしょう。
 
「自分が嫌いだ」「人間関係がうまくいかない」「この人生に意味を見出せない」。
 
こうした心の問題と向き合う上で、本書はきっと導きの福音をもたらしてくれると思います。
 
 

* 2つの基本的態度と4つの心理機能

 
ユングは人の基本的態度を「外交的」と「内向的」に二分します。ある人の関心がもっぱら外界の事物あるいは事象に向けられている態度を「外交的態度」といい、逆に、内界のそれに向けられている態度を「内向的態度」といいます。
 
また、ユングは上記の2つの基本的態度とは別に、人は各々得意とする心理機能を持っていると言います。これが「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能です。
 
こうして2つの基本的態度と4つの心理機能が掛け合わされ、8つの基本類型が出来上がります。これがユングのタイプ論です(この8つの基本類型はあくまでモデルであり実際はこれらの中間に属する人の方が多いでしょう)。
 
もっとも、こうした意識的な態度や機能が一面的になりすぎる時、それを相補うような形で無意識的補償が起きるとユングは指摘しています。
 
また、人は自分と反対の型の人に抗し難い魅力を感じ、彼/彼女を友人や恋人に選ぶ傾向も強いと言われています。これは無意識的補償の外界における投影ということになります。
 
 

* コンプレックスという可能性の在処

 
我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の意識を統合する「自我」という心的作用によるものです。ところが無意識内にはこうした自我の統合性を乱す心的作用が存在します。ユングは言語連想実験を通じてこうした心的作用を発見し、これを「感情によって色付られたコンプレックス」と名付けます。
 
コンプレックスは心的外傷経験や後に述べる元型的なものを核として、そこに様々な表象や情動が結びつくことで生成・肥大化と考えられています。
 
肥大化したコンプレックスは、ある程度の自律性を持ち様々な障害を起こします。これに対する自我の反応を「自我防衛」といいます。自我防衛の例として、自我がコンプレックスに同化する「同一視」や、コンプレックスを外界に投影し外的なものとして認知する「投影」などが挙げられます。
 
また、あるコンプレックスの裏には相反するようなコンプレックスがあったりもします。例えば「私は何の価値のない人間だ」というような劣等コンプレックスを抱えている人の背後には「私には私と同じような思いをしている人を救う使命がある」という優越コンプレックスがあったりして、この両者のうち自我に近い方が意識されるわけです。実際の心理療法やカウンセリングにおいてはこの両極を適当に連結させていくことが大事になったりするわけです。
 
本書はコンプレックスそれ自体は常に否定されるべきものではないと言います。コンプレックスとは後に述べる「自己実現の過程」における一つの事象であり、それまで目を背けて来た未知の可能性の在処を示しているからです。
 
例えば、引っ込み思案な性格の人が攻撃性コンプレックスと向き合うことで、健全な活動性を獲得したりするなど、自我はコンプレックスと対決することで、より高次の領域において再統合を果たすことができるということです。
 
 

* 普遍的無意識と元型

 
さらに、ユングはある地域に伝承する神話やお伽話と、神経症者の夢や精神病者の妄想の間に共通項を見出し「普遍的無意識」という概念を提唱します。すなわち、人の無意識内には、その人だけが持っている無意識(個人的無意識)の他、万人に共通する無意識(普遍的無意識)が存在するということです。
 
上に述べたコンプレックスは個人的無意識の層に属する後天的に生成された精神力動作用です。これに対して普遍的無意識の層に先天的に存在する精神力動作用をユングは「元型」と呼びます。
 
元型そのものは我々の意識によって捉えることはできず、通常我々は、元型の存在を外界に投影されたイメージ(原始心像)によって知ることになります。典型的な元型としてユングは次のようなものを挙げています。
 
⑴ 大母
 
「大母」とは「母なるもの」の元型のことです。グレートマザーとも呼ばれます。
 
「母なるもの」はその本質において「産み育てる」という肯定的側面と「呑み込む」という否定的側面を併せ持っています。河合氏は、いわゆる対人恐怖症は日本の母性社会的な特性に根ざしていると指摘しています。
 
⑵ 影
 
「影」とは自我から見て受け入れ難い人格的傾向であり「生きられなかった反面」のことです。影は自我統制が弱くなった時に表面に浮かび上がってくることが多く、その極端な例は二重人格です。
 
また人は自分の影を否定するため、その影を誰かに投影するということは日常よく見られる傾向です。例えば自分と真逆の性格の友人がどういうわけかムカムカして仕方がないというのは、その人に自分自身の影を投影しているということです。
 
また影には「個人的影」の他に「人類悪」ともいうべき「普遍的影」が存在します。
 
⑶ アニマ・アニムス
 
男は男らしく、女は女らしくといったように、人は社会から一般的に期待されているペルソナ(仮面)をつけて生活せざるを得ない一方で、ペルソナ形成の過程で排除された男性の中の女性的な面、女性の中の男性的な面もまた同時に我々の中に存在し続けています。
 
前者をアニマといい、後者をアニムスといいます。アニマはエロスの原理、アニムスはロゴスの原理をそれぞれ内在しています。
 
ある異性を見たらどういうわけかドキドキして目も合わせられないというのは、その人に自分の中にあるアニマ(アニムス)を投影しているわけです。
 
影がいわば「生きられなかった反面」なのであれば、アニマやアニムスとはいわば「切り捨てられた魂の側面」ともいうべきものでしょう。
 
 

* 自己実現コンステレーション

 
こうした「意識的態度と無意識的態度」「主機能と劣等機能」「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」などといった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考えます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力であり、こうした再統合の過程を、ユングは「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの病かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、あるいは重要な人生の出来事かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるわけです。そこでユング心理学では、このような内的/外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* 「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていくために

 
このようにユング心理学においては、心がその全体性の回復へ向け、相補性と共時性の原理により螺旋の円環を描く様相を「自己実現の過程」として捉えます。
 
このユング的な自己実現はこれまで目を背けてきた諸々と対決していく荊の道であると同時に、日々生起する様々な困難の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出す希望でもあります。
 
こうした「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていく上で大事な事は、我々がその自己を外的・内的に生きることであると本書は言います。
 
自己を外的・内的に生きること。それはすなわち、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中から湧き上ってくる「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていく営みに他なりません。
 
こうした一見凡庸な、日常の小さな積み重ねこそが、人生の新たな可能性を開き、世界を灰色のディストピアから輝きに満ちた現実へと変えていく鍵となるということです。
 
 
 
 
 

「若い読者のためのサブカルチャー論講義録(宇野常寛)」〜いま、サブカルチャーにできること。

 

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

 

 

 

* 抑圧されたネオテニーの補償作用としてのサブカルチャー

 
漫画やアニメはよく過剰な性描写と暴力描写に溢れているなどと言われます。確かに完全に間違った指摘とは言い切れない部分はあります。けれどそれは、戦後日本が抑圧してきたものと表裏の関係にあるということです。
 
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは、占領当時の日本を「12歳の少年」だと評しました。明治維新後、急速に近代化を遂げた日本であったけれども、民主的成熟度という面では到底、近代国家とは言えないという意味です。
 
その後、日本は経済的な面においてはぶくぶくと肥大化していきましたが、その精神的な面、つまり、民主的成熟度に関しては「12歳の少年」のままであると言えなくもない。こういった状態を「幼形成熟ネオテニー)」といいます。
 
戦後日本の「表の文化」はそういう部分に目を背けて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか言っていたわけですが、その結果、抑圧されたネオテニー的なものは過激な性描写や暴力描写という形で「裏の文化」である漫画やアニメなどのサブカルチャーの方に回帰してきた。そういった見方もできるわけです。
 
本書はサブカルチャー終焉の時代において、あえてサブカルチャーの役割を問うという、刺激に満ちた講義録です。その語り口は基本的にアイロニカルですが、随所で意外と熱かったりするわけです。
 
 

* アトムの命題週刊少年ジャンプ的トーナメントバトル方式

 
では、そういったネオテニー性を宿命的に内在する漫画やアニメというサブカルチャーメディアの中で「大人になるということ」は、すなわち「成長(成熟)」というテーマはどのように扱われるのでしょうか?
 
ここで一つの問題が生じます。漫画やアニメのキャラクターは記号ないし絵柄なので成長(成熟)を描くのに向いていません。では、そのような成長(成熟)しない記号的な身体でどうやって「成長(成熟)」を描くのか?という問題です。
 
これを「アトムの命題」といいます。「アトム」というのはいうまでもなく、かの「鉄腕アトム」です。このアトムの命題は戦後の漫画・アニメ全体をほとんど無意識のレベルで支配していると言われています。
 
このアトムの命題への一つの回答として週刊少年ジャンプが発明したのが「トーナメントバトル方式」です。
 
要するにこういうことです。①主人公の前に強い敵が現れる→②努力して仲間と力を合わせ敵に勝つ→③敵と友情が芽生える→④そこにさらに強い敵が現れる・・・このパターンを延々と繰り返すわけです。
 
つまり、成長(成熟)という複雑な問題を、まさにジャンプのテーゼでもある「友情・努力・勝利」という単純な問題に置き換えることで、キャラクター自身、何も成長(成熟)していないにもかかわらず、あたかも何かが成長(成熟)しているかの如く偽装することが可能となるわけです。
 
「トーナメントバトル方式」は車田正美先生の「リングにかけろ」を嚆矢として「聖闘士星矢」「北斗の拳」「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」といったジャンプ黄金期を支えた作品に脈々と受け継がれて行きます。
 
しかし90年代に入ると、ドラゴンボールスラムダンク幽遊白書の唐突感ある最終回が象徴するように、ジャンプ的トーナメントバトル方式はやがて行き詰まりを迎えてしまう。終わりなきトーナメントを延々と繰り返すことに作者も疲れ、読者もマンネリを感じるようになってしまったわけです。
 
こうしたトーナメントバトル方式が陥ったアポリアの後、ジャンプをはじめとした少年マンガはどのような形でアトムの命題を回避し「成長/成熟」と向き合ってきたのか?本書では様々な作品を取り上げつつ、少年マンガの現状と展望を論じています。
 
 

* ロボットアニメというジャンルの光芒

 
また「鉄人28号」や「マジンガーZ」といったロボットアニメにおいて提示された「機械仕掛けの偽物の身体を得て悪と戦い自己実現」という男の子の成長願望を満たす構造も「アトムの命題」へのひとまずの回答であり、さらには自家用車の所有がステータスであった60〜70年代的気分ともリンクしていたわけです。
 
ところが時代が下り、80年代的「モノはあるけど物語のない」消費社会においては、そういう単純なモチーフは果たして成熟の在り方なのかという疑義が生じているわけです。
 
機動戦士ガンダム」では「宇宙世紀」と「モビルスーツ」という概念が導入され、ロボットは量産型の工業製品へと格下げされ、代わりにアムロやシャアといったキャラクターの自意識の問題がフォーカスされることになる。
 
その続編である「Ζガンダム」では主人公のカミーユが最後に発狂し「逆襲のシャア」ではアラサーになったアムロとシャアがお互い責任をなすりつけ合う姿が延々と描かれることになる。
 
そして1995年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」に至っては、碇シンジ君はエヴァに乗るだの乗らないだのとうだうだ悩んだ挙句、最後は物語自体が唐突に破棄され自己啓発セミナーじみた結末を迎える。
 
要するにこれらの流れというのはロボットアニメというジャンルが内包してきた欺瞞が露呈していく過程ということです。
 
機械仕掛けの身体による自己実現などというのは所詮はネオテニーの自画像、偽りの成熟像でしかなかったわけです。
 
こうしてエヴァにおいてひとまずの臨界点を迎えたロボットアニメというジャンルですが、その新たな方向性と可能性についても、本書は明快な整理が示されています。
 
 

* 「世界を変えるのではなく意識を変えよう」という思想の敗北

 
1960年代という時代はイデオロギーを媒介として個人が世界と繋がろうとした時代です。例えばマルクス主義的共産革命といったものを通じて、自分の力で世界を変えられるかもしれないという幻想が比較的素朴に信じられた時代とも言えます。
 
しかし70年代に入り政治の季節は終焉し、何をやっても世界は変わらないことが明らかになる。そして残ったものと言えば、80年代的「モノはあるけど物語のない」消費社会における「終わりなき日常」というディストピアでした。つまり、いわゆる「うる星やつら」的日常です。
 
こうした時代状況の中、革命の代替物としてサブカルチャーが浮上してくるわけです。いわばイデオロギーではなくファンタジーを媒介として個人は世界と繋がろうとしたわけです。
 
これが「世界を変えるのではなく意識を変えよう」という思想であり、仮想現実の中で自己実現するという「ここではない、どこかへ」の欲望です。
 
そして、そういった思想ないし欲望を具現化したのが「宇宙戦艦ヤマト」だったり「機動戦士ガンダム」であったり、あるいはオカルトだったり転生戦士だったり終末戦争だったりしたわけです。
 
けれども1995年、この思想ないし欲望の行き詰まりは、現実的には地下鉄サリン事件によって、そして当のサブカルチャー内部ではやはり「新世紀エヴァンゲリオン」よって明らかになります。
 
エヴァの凄みは世界の問題とは所詮単なる自意識の問題に過ぎないことを暴露してしまった所にあります。仮想現実で自己実現などというのは所詮むなしい自己満足でしかないということです。
 
これに対して、いやむしろそれこそが、この社会の中で生きづらさを抱えている人にとっての癒しになるんじゃないか?一体何が悪いんだと開き直ったのが、ゼロ年代前後に一世を風靡した「セカイ系」作品群ということになります。
 
 

* 「仮想現実」から「拡張現実」へ

 
一方、1995年はWindows95のリリースによりインターネットが飛躍的に普及した年でした。
 
インターネットの登場は「虚構」と「現実」の境界線を相対化させていきます。つまり現実の一部が虚構化する事で、虚構と現実の関係性はあれかこれかの対立関係ではなく、あれもこれもという統合関係に遷移します。
 
こうして「ここではないどこか」という「仮想現実」の中で生きる意味を見出す価値観から、「いまここ」という「拡張現実」の中で生きる意味を見出す価値観へのパラダイムシフトが生まれる事になる。
 
こうしたパラダイムシフトをラディカルに体現した作品として「涼宮ハルヒの憂鬱」を挙げることができるでしょう。そしてその流れが加速している事は「らき☆すた」「けいおん!」をはじめとした日常系アニメの氾濫に鑑みれば明らかです。
 
かつて「終わりなき日常」と呼ばれたものは決して無意味ではなく、むしろそれ自体限りなく意味のある、尊いものであったという価値観の昇華がこの流れの中には見て取れるわけです。
 
端的にいえば、アニメを観る意味合いも変わってくるということです。「ここではないどこか」への逃避するためアニメを観るのではなく、今ここの現実を豊かにするものためアニメを観るわけです。
 
けれど一方、これはアニメという表現自体の自己解体の過程にもなり得るでしょう。ネットワークの発達によりコミュニケーションコストが下がり、世界中のあらゆる現実を容易に検索できる今、現実の可能性を拡張する為のツールは何もアニメである必然性はないのかもしれません。
 
「アニメからアイドルへ」と、サブカルチャーの重心が変動しつつある現在についても本書はアイドル史を遡りつつ相当なページ数を割いて解説を行っています。
 
 

* カルフォルニアン・イデオロギー時代におけるサブカルチャーの役割

 
「虚構」が「現実」に取り込まれつつある現在、サブカルチャーを語ることがそのまま社会を語ることの時代は終焉しようとしていると本書はいいます。
 
70年代以降、アメリカ西海岸において、ヒッピーやドラッグなどのカウンターカルチャーが流行し、その中のいちジャンルとしてコンピューターカルチャーが注目されだします。
 
その結果、アメリカ大陸の西の果てで、新たなフロンティアともいえるサイバースペースが発見され、個人は再び世界そのものを変える可能性を手にします。素晴らしいサービスを投入すれば世界は自動的に変わっていく。これが、GoogleAppleが体現するカルフォルニアン・イデオロギーという思想です。
 
つまり「イデオロギーで世界を変える」という思想が挫折した後、「ファンタジーで自分を変える」という思想が主流となり、一時期、サブカルチャーが強い影響力を持っていたけれども、現代においては「テクノロジーで世界を変える」という思想が時代の趨勢となり、サブカルチャーの影響力は相対的に低下してしまったということです。
 
では、このカルフォルニアン・イデオロギー時代において、サブカルチャーの側から出来ることはないのでしょうか?
 
確かにカルフォルニアン・イデオロギーは時代の趨勢でしょう。しかし、日本のカルフォルニアン・イデオロギーの信奉者はあまりに現実的な「目に見えるモノ」を強く信じているがため、虚構的な「目に見えないモノ」を過小評価しているきらいがあると本書は言う。
 
そうであれば、虚構を一度経由することによって得られる思考法があるのではないか?これが本書の提出する問いということになります。
 
本書が最後に示すシンプルな結論はもしかして陳腐だと感じる向きもあるかもしれません。けれどこれはやっぱりとても大事な事なんだと思うんですよ。
 
この「失われた20年」で日本が本当の意味で失ったのは他でもなく、モノづくりの原点ーーー「こんなこといいな、できたらいいな」という精神性そのものではないかと思うわけです。
 
 
 
 

「マインドフルネスを医学的にゼロから解説する本(佐渡充洋ほか)」〜マインドフルネスのパースペクティブを示す一冊。

 

マインドフルネスを医学的にゼロから解説する本【電子版付】

マインドフルネスを医学的にゼロから解説する本【電子版付】

 

 

 

* はじめに

 
1970年にジョン・カバットジンがマインドフルネスストレス低減法を開発して以来、様々な実践法が開発され、マインドフルネスは緩和ケアや精神医療のみならず、ビジネスシーンや日常的なストレスケアにも活用され、近年、その認知度は急激に上昇しつつあります。
 
本書は精神医学、臨床心理学、脳科学、仏教など様々な切り口を通じて、現時点でのマインドフルネスのパースペクティブ帰納法的に示す試みです。
 
 

* 「マインドレスネス」から「マインドフルネス」へ

 
カバットジンはマインドフルネスを「意図的に、今この瞬間に、価値判断にとらわれることなく注意を向けることで生じる気づき」と定義しています。
 
つまり「今、ここ」で起きている自身の感覚、思考、感情に気づき、体験の快・不快といった評価を入れることなく、好奇心を持って、優しくありのままに受け入れる心の在り方です。
 
誰でも落ち込んだり不安になります。そのような時、我々の意識は「今この時」にありません。
 
ではどこにあるのかというと「過去」か「未来」にあるわけです。人は「過去」の後悔に引き摺られることで抑うつとなり、「未来」に憂いを抱くことで不安になります。
 
そして我々の脳は放っておいたら、たちまちあれこれと考え出してしまうようにできています。こういった状態を「マインドレスネス」といいます。
 
こうして、ますますネガティブな思考が頭の中を反駁し、ますますネガテイブな感情が増幅されてしまう悪循環が生じることになります。
 
そこで「過去」でも「未来」でもない「今、ここ」という「現在」に意識を向け、心の中を「気づき」で満たし、「マインドレスネス」を「マインドフルネス」へと転換していくことが大事になるわけです。
 
 

* 「気づき」を得るための3つのアプローチ

 
マインドフルネスにおいて「気づき」を得るためのアプローチは大きく分けて以下の3つが挙げられます。
 
特定の対象への注意の集中
 
一番目の方法は、注意の対象を「今この瞬間」の何か別のもの、例えば食事をしているのであれば食事そのもの、もしくは自分の呼吸、身体の感覚などにシフトするというものです。
 
そこに注意を止め、直接的な感覚としてこれらの体験に気づいていくことで思考の反駁は収まります。
 
なぜなら脳のワーキングメモリーの容量には限界があるため、いま注意を注いでいる対象物についての情報処理でメモリーを使ってしまうことで、反駁の情報処理で使う分のメモリーがなくなってしまうからです。
 
⑵ 情報処理モードの切り替え
 
二番目の方法は注意を別の場所にシフトするのではなく、情報処理のモードを切り替えるというものです。
 
ワーキングメモリーで情報を処理する場合、ふたつのモードがあります。「することモード」と「あることモード」です。
 
まず「することモード」とは、我々が体験を概念的・言語的・論理的に捉えて思考するモードをいいます。
 
何かの問題を解決する場合、我々は通常「することモード」で対応するわけですが、感情的な問題を処理する場合に関して言えば「することモード」はあまり生産的とは言えません。
 
思考と感情は相互に連関しています。例えば人間関係でトラブルがあった後、「なんであんなことを言ってしまったのか」とか「今度顔を合わせたらなんて言えばいいのか」などと延々と思考していると、後悔や不安といった感情が強まってしまい、その感情を処理するため、またくよくよと思考が反駁するという悪循環が起きるわけです。
 
一方「あることモード」はマインドフルネスによって育まれる「その瞬間の体験を、より直接的に、直感的に、体験的に知る」モードです。
 
マインドフルネスでは不快な思考や感情に対して認知行動療法を含む多くの治療がめざしている「解消」するという姿勢をとらないのが特徴です。
 
むしろそれらをただそこに存在させておき「歓迎する」という姿勢をとります。
 
例えば人間関係のトラブルであれば、その結果として生じた「怒り」や「傷つき」という不快な感情に居場所を作ってあげる。
 
また不快な感情に伴う「胸のあたりの重さ」「肩の凝り」と言った身体感覚などに「優しい好奇心」を向け、それがどのような体験であるかを丁寧に観察していく。
 
こうした態度によって、その状況を価値判断することなくありのままに受け入れることが可能になるわけです。
 
⑶ 脱中心化
 
三番目の脱中心化とは、思考や感情を「動かしがたい現実」として体験するのではなく「一時的な現象」であると捉えて関わっていく態度をいいます。
 
つまり「思考や感情=自分自身」であるというスタンスから、これらは脳が作り上げる一時的な現象にすぎず、外部から観察できる対象であるというスタンスに移行するということです。
 
こうしたプロセスは主体(サブジェクト)と客体(オブジェクト)に関する大きなパラダイムシフトを実践者にもたらします。
 
つまり不快な感覚が生じたとしても、それに起因するネガティブな思考や感情からは距離を取ることが可能となるわけです。
 
 

* 集中瞑想と洞察瞑想による心理的スキルの向上

 
このような気づきへのアプローチを技法レベルで具体化したものがマインドフルネスにおける「瞑想」ということになります。マインドフルネスの様々な実践法の多くは「集中瞑想」と「洞察瞑想」の二つの瞑想技法の応用によって成り立っています。
 
集中瞑想とは、ある特定の対象(例えば呼吸)に注意を止める瞑想技法をいいます。
 
洞察瞑想とは、今この瞬間に生じている不特定の感覚・感情・思考などの経験の生成・消滅にありのままに気づいていく瞑想技法のことです。
 
こうした集中瞑想と洞察瞑想の実践により注意制御能力、身体知覚能力、情動調整能力という心理的スキルが高まると言われます。
 
⑴ 注意制御能力
 
我々は実際に起きている時間のおよそ半分を妨害刺激に注意をとらわれるマインドワンダリングの状態で過ごしている。マインドワンダリングは幸福感の低下やうつ病などと関連する。
 
集中瞑想によりマインドワンダリングが減少し注意制御能力が高まると言われます。
 
脳科学的には瞑想実践時間が長いほど、マインドワンダリングの状態に気づいた際に内省や記憶に関わる内側前頭前野(mPFC)の活動が素早く低下することがわかっており、注意制御に関わる背外側前頭前野(dlPFC)が内側前頭前野(mPFC)の活動を素早く制御していると考えられています。
 
⑵ 身体知覚能力
 
身体知覚とは身体反応に気づくことです。様々なマインドフルネス実践法において情動を把握して適切に調整できるための準備として身体知覚能力を高めることが求められます。
 
そのための代表的な瞑想技法がボディスキャン瞑想です。これは身体の一部分という特定の対象を用いて注意を集中するという集中瞑想の要素と、気づいた身体反応にとらわれたり選び出したりしないという洞察瞑想の要素が組み合わせられています。
 
⑶ 情動調整能力
 
情動調整とは情動反応を変容させる認知的な方略です。これは主に洞察瞑想によって涵養されます。
 
洞察瞑想によって身体反応の生成・消滅をありのまま受け入れることを繰り返すことによって情動に振り回されない平静さが育まれると考えられています。
 
このような洞察瞑想的な情動調整の機序はまだはっきりとは明らかになっていませんが、おそらく暴露療法に近い機序が有るのではなかろうかと言われています。
 
すなわち、いまこの瞬間に生じている刺激や経験に気づきながらも平静さを保つことでそれまで自動的に生じていた不適応な認知的・感情的な習慣に気づき、それらを柔軟に変容させることが可能になるということです。
 
 

* 自己概念の変容

 
このような注意制御能力、身体知覚能力、情動調整能力の高まりは自己概念の変容を導きます。
 
「わたしである」という自己概念の分類として「物語自己」と「最小自己」があります。
 
まず「物語自己」とは過去の記憶から未来の展望までを含めて形成される首尾一貫した永続的な自己に関する概念をいいます。
 
一方「最小自己」とは、いまこの瞬間に生じている経験から形成される身体的で即時的な自己に関する概念をいいます。
 
断続的に生じては消える感覚・感情・思考に対する知覚の生成と消滅の速度があまりにも速いため、我々はそれらをあたかも一つの流れとして捉えて永続的な自己が存在していると思い込んでしまう。
 
こうした、首尾一貫した永続的な自己に対する強すぎる注目が、内省と否定的な感情を増加させて様々な精神症状を引き出しているわけです。
 
そこで、マインドフルネス実践法によって、いまこの瞬間に生じている経験に対する注目し、一つひとつの感覚・思考・感情を断続的現象としてメタ認知的に捉えることで、内省を減少させることができると考えられています。
 
 

* おわりに

 
このように、マインドフルネスというのは、いまこの瞬間に生じている経験に気づき、受け入れることで、困難に耐える力(レリジエンス)や自分を慈しむ力(コンパッション)が育まれていく営みです。
 
その為、重要なのはやはり日々の継続的な実践であることはいうまでもありません。
 
しかしながら、わけもわからず形だけ真似てやっているだけでは、文字通りの形骸化したルーティンワークに陥り、効果を実感できず挫折してしまう危険もあります。
 
そういった弊を避けるため、日々やっている諸々の実践が脳と心にどういった影響を与え、最終的にどこを目指すのかという点をきちんと理解しておくことは大事でしょう。
 
本書は理論や技法の総花的な紹介であり、実際の実践にあたっては各実践法のテキストを参照する必要がありますが、マインドフルネスに本格的に取り組みたいのであれば、一度は目を通しておいて損はないでしょう。