かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく(村上春樹・河合隼雄)」〜デタッチメントとコミットメントの間

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく(新潮文庫)
 

 

 
 

* 1995年という転回点

 
本書は村上春樹氏の代表作「ねじまき鳥クロニクル」完結直後の時期に行われた河合隼雄氏との対談であり、あの有名な「デタッチメントからコミットメントへ」という転向の経緯が語られています。
 
ねじまき鳥クロニクル」が完結した1995年という年は、一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件により若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された年でもあります。
 
現代思想的な観点からいうと、この1995年以降、日本においては、ポストモダン状況がより加速したと言われています。哲学者の東浩紀氏が言う「動物の時代」、社会学者の大澤真幸氏が言う「不可能性の時代」、批評家の宇野常寛氏の言う「拡張現実の時代」が幕を開けるわけです。
 
こうした転換期において、村上春樹という国民的作家が何を考え、河合隼雄というこれまた国民的知の巨人がどう応じたかを読み返してみるというのは、ますますポストモダンが極まった現代における成熟のあり方を考える上で重要ではないでしょうか。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
初期の村上春樹作品は「政治の季節」の極相を迎えた「60年代末の記憶」に対するアンチテーゼから出発していると言われています。
 
デビュー作「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」に至る、いわゆる「鼠三部作」で村上氏が打ち出したのは世の中に対して「やれやれ」と嘯いてみせる「デタッチメント」という倫理的作用点でした。
 
次いで「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のラストでは、徹底したデタッチメントこそが倫理的なコミットメントであるという逆説が提示されます。
 
そして1000万部のベストセラーとなった「ノルウェイの森」は、まさしくこうしたデタッチメント文学の到達点に位置する作品とも言えます。
 
ところが村上氏は1990年代に入ると自身の倫理的作用点を「デタッチメントからコミットメントへ」と転回させる。この時期に書かれたのが「ねじまき鳥クロニクル」という作品です。
 
これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。
 
ところが本作は違う。本作には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えます。
 
こうした転換の契機について村上氏は海外滞在経験が大きかったと述べています。もしかして外から閉塞する日本を眺めていて、これはもう「やれやれ」とか言ってる場合じゃないと、変わりゆく時代の潮目に気づいていたのでしょうか。
 
 

* コンプレックス・コンステレーション・コミットメント

 
こうした村上氏のコミットメントというテーマに関連して河合氏がユング心理学の3つのCとしてコンプレックス・コンステレーション・コミットメントをあげているのは興味深いところです。
 
コンプレックスがまったくない人はそんなにいないと思います。誰だって自分の抱えているコンプレックスと向き合うことは苦しい経験でしょう。けれども河合先生はコンプレックスにこそ、新しい可能性の在り処が示されているといいます。
 
こうした自らのうちにあるコンプレックスと対決していく上で重要なのは、日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、現実とのコミットメントを重ねていく営みです。
 
この点、ここでいう現実とは、普段の生活や対人関係といった外的な現実のみならず、自分の心の中にある内的な現実をも含みます。
 
つまり、ここでいうコミットメントとは、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中で絶えず生起する「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていくという営みに他なりません。
 
こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。これが河合先生がいう「自らの物語を見出す」という事です。
 
 

* デタッチメントとコミットメントの間

 
「コミットメント」というと何かみんなでワイワイとやっているリア充的イメージを思い起こしがちですが、本書でお二人が強調する「コミットメント」とは、そういう浅はかな意味ではもちろんないわけです。
 
「ゆるやかでていねいなコミットメント」もあれば「深く静かなコミットメント」もある。重要なのはいかに自分らしく世の中にコミットメントできるかということです。
 
一方で、あえて「やれやれ」とデタッチメントしてみせるという倫理もあるわけです。例えば、心理療法とはクライエントの表層にある「要求」にデタッチメントしつつも、その深層にある「欲望」にコミットメントしていく側面があります。これはある種、愛に満ちた「やれやれ」という態度とも言えます。
 
社会学者の見田宗介氏のいうように我々にとって他者とは二義的な存在です。我々はある誰かに対して、異なる物語を生きる「尊重する他者」としてデタッチメントすべき時もあれば、同じ物語を生きる「交歓する他者」としてコミットメントしていく時もあるわけです。
 
つまり「デタッチメントかコミットメントか」ではなく「デタッチメントもコミットメントも」という事です。大切なのは両者をいかに使い分け、洗練させていくという統合的な倫理です。こうした観点から村上氏の小説を読み解いていけばまた新たな発見があるのではないでしょうか。
 
 
 

消費と情報の彼方、コンサマトリーな生、瑞やかな歓び。

 

* 「見はるかす」ということ

 
20世紀を代表するアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは「ニーバーの祈り」で知られる次のような言葉を残しています。
 
「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。」
 
「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵」とはなんでしょうか。物事には常に表と裏の面があります。つまりはここで必要なのは、こうした表裏を「見はるかす」という視野ではないでしょうか。
 
不世出の社会学者、見田宗介氏の名著「現代社会の理論」は現代社会の考察を通じ物事を「見はるかす」ということとはどういう事かを考えるための格好の一冊です。
 
本書は、まず1〜3章において、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を「見はるかす」視座が示されます。そして、4章においては消費と情報のコンセプトをラディカルなレベルで再定義する事で、現代社会が抱えるアポリアを内破する処方が示されます。
 
 

* 消費化情報化社会という資本主義の到達点

 
古典的資本主義は需要と供給の矛盾を抱え込んでおり、これは「恐慌」という形で周期的に顕在化していました。つまり昔は資本主義体制を維持するには「戦争」という名の最終需要を期待するしかなかったわけです。
 
現代の「消費化/情報化社会」とはこうした資本主義システムの欠陥を克服する形で現れます。ゼネラルモーターズ社の「自動車は外見で売れる」という頻繁なモードチェンジ戦略が典型であるように、資本主義は自らの中に内在する欠陥を「消費化」と「情報化」の推進により「欲望の空間」を拓き、需要の無限の自己創出を可能とします。いわば情報化/消費化社会の到来により資本主義というシステムは初めて完成をみたと言えるでしょう。
 
しかし他方で消費化/情報化社会は多面において資源収奪的/他者収奪的な面を内包しています。結果「環境破壊」「貧困」「格差」という各種の社会問題を顕在化させるわけです。
 
 

* それでも魅力的な社会

 
けれど、本書はそれでも消費化/情報化社会の持つ魅力そのものまで否定すべきではないという立場をとります。長きに渡った冷戦を集結させたのは資本主義陣営の軍事的優位ではなく、消費化/情報化社会が持つ自由と煌びやかさであったことは確かです。
 
消費や情報を禁圧する社会は持続的な社会とはなり得ない。消費化情報化社会が有するこの「光の巨大」を否定するべきではない。問題は消費化情報化社会のシステムが抱える「闇の巨大」をいかに乗り越えるかであるということです。
 
そこで本書は「消費」と「情報」についてのラディカルな考察を通じて、消費化/情報化社会を資源収奪的、他者収奪的ではないもう一段上の新たなフェイズへ進化させる可能性を探っていく道を示します。
 
 

* 「生の直接的な歓びそのもの」としての「消費」

 
この点、まず本書は「消費」の二義性に着目します。フランスの現代思想家、ジョルジュ・バタイユは「消費」を「充溢し燃焼しきる消尽(consumation)」であると定義しました。ところがポストモダンを代表する思想家、ジャン・ボードリヤールバタイユに依拠しつつも「消費」を「商品の購買(consommation)」として定義します。
 
こうしたボードリヤール的な「(転義としての)消費」は、今一度、バタイユ的な「(原義としての)消費」を軸として転回される必要があると本書は言います。
 
「(原義としての)消費」は人々の日常のうちにある他者や自然との交歓や享受の営みの中に見出せます。バタイユは「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な町の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きに他ならないこともある」と述べています。
 
こうした「生の直接的な歓びそのもの」こそが消費というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原義のごときもの」であるということです。
 
 

* 「かけがえのないもの」を可視化するものとしての「情報」

 
次いで、本書は「情報」は三つの位相を持っているといいます。第一に「認識情報(認知としての情報/知識としての情報)」。第二に「行動情報(指令としての情報/プログラムとしての情報)」。これら二つは基本的に「手段としての情報」と言えます。
 
ところが、第三に情報とは「美としての情報(充足としての情報/歓びとしての情報)」の側面があります。このように「かけがえのないもの」を可視化することで開かれる「知と感受性と魂の深さの領野」こそが情報というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原的な領野のごときもの」であるということです。
 
 

* 「消費」と「情報」のクロスオーバー

 
以上のような消費と情報の考察を通じ、本書は次のような論理で消費化/情報化社会が進むべき未来図を展望します。
 
「消費」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の効用と手段主義的な思考の彼方」であり、そして「情報」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方」である。
 
一方で、現在の「消費」の観念は「物質主義的」な消費イメージに拘束されており、同時に現在の「情報」の観念は「効用と手段主義的」な情報イメージに拘束されている。
 
そうであれば「消費」と「情報」のそれぞれのコンセプトが切り開く彼岸に向かって、相互のコンセプトを転回することで、世界観を一段階上のフェイズへと更新することが可能となる。
 
こうして「消費」と「情報」のクロスオーバーが切り開く新たな世界は、現在の消費化情報化社会を「ずいぶん不自由なものとして見返すことができる空間であるはずである」と本書はいいます。
 
 

* 日常の中にある瑞やかな歓び

 
本書が構想するのは「消費化情報化社会2.0」というべきものでしょう。本書で示された構想は後年の見田社会学おいて「軸の時代/軸の時代Ⅱ」として、更に巨視的な視点から展開される事になります。
 
グローバル化/ネットワーク化は自然収奪/他者収奪をより先鋭化させる一方、虚構と現実を融解させ、消費化と情報化の新たな局面を切り開きました。いまここで再びその「光の巨大」と「闇の巨大」が見はるかされる必要があるでしょう。
 
けれども、さしあたり本書が示す「インストゥルメンタルな生からコンサマトリーな生へ」という幸福感受性のパラダイムの転換は個人の生き方として一つの指針となると思います。
 
近代的な生のリアリティが「インストゥルメンタル」であること、つまり「ここではない、どこか」にある享楽だとすれば、現代的な生のリアリティは「コンサマトリー」であること、つまり「いま、ここ」にある享楽ということなのでしょう。
 
こうして現代における成熟とはまさにコンサマトリーな幸福感受性の涵養にあると言えるでしょう。過去でも未来でもない文字通りの「いま、ここ」に、より深く潜っていくということ。こうした営みこそがありきたりな日常の風景の中に、いくらでも瑞やかな歓びを汲み出していける力を産み出し、育んでいくということです。
 
 

「ひだまりスケッチ1〜9(蒼樹うめ)」〜関係性のアンサンブルが産み出す可能性

 

 

 

* 「日常系」のトラディショナル

 
「日常系」なるジャンルは、もともとゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏において「セカイ系」と「サヴァイブ系」を止揚するような形で現れた想像力です。こうした想像力の変遷はポストモダン的成熟観と密接に関連しています。
 
社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降の成熟観を語る上でのキーワードとして前景化したのは、異なる「小さな物語」を生きる他者との関係性のあり方でした。
 
この点、そもそも他者を拒絶し母性的承認の中に引きこもる想像力がポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ系」であり、一方、他者との間で正義の奪い合いに明け暮れる想像力がデスノート的「サヴァイブ系」であったと言えます。今思えばどちらもなんとも極端な話です。
 
これに対して、他者とのごくありふれたつながり自体の中にこそ代え難い価値を見出していく想像力が「日常系」です。本作はこうした「日常系」というジャンルのトラディショナルと呼ぶべき作品です。
 
 

* 可能性が生まれる場所としてのひだまり荘

 
本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居します。ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロたちとの賑やかな日々を過ごして行く中で、ゆっくりとしかし着実に自分の在り方を見出していきます。
 
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。
 
この点、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは「外向的」「内向的」という2つの基本的態度に「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能を掛け合せ、人の特性を8つのタイプとして類型化しました。
 
こうしたユング的タイプ論から観ると、ひだまり荘のキャラクターバランスの設計はほぼ完璧と言えます。
 
ゆの(内向的感覚型)の直接的なパートナーはタイプ論的には完全に対極をなす宮子(外向的直感型)であり、その背後を別の対極性を持つ沙英(内向的思考型)とヒロ(外向的感情型)が支えています。
 
その後、沙英とヒロの基本的態度をひっくり返した乃莉(外向的思考型)となずな(内向的感情型)が、さらには、ゆのとは逆の基本的態度でありながら同一の心理機能を持つ茉里(外向的感覚型)が加わり、より複雑な関係性のアンサンブルが構成されていきます。
 
このような異なる物語を生きる者同士の相互補償的交歓の中で生まれる可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えています。
 
 

* ゆるやかでていねいなコミットメント

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は心理療法のプロセスとして「3つのC」があると述べています。「3つのC」とはすなわち、コンプレックス・コンステレーション・コミットメントです。
 
河合先生はコンプレックスとは苦しいものであるが、それは同時に新しい可能性のありかを示しているといいます。
 
そして重要なのは日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、自らのコンプレックスと対決し、外的・内的な現実とのコミットメントを重ねていく営みです。こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。
 
本作が計算され尽くされたキャラクターバランスの中で描き出す「ゆるやかでていねいなコミットメント」は 、萌えサプリメント的な癒しに止まらない、数々な豊かな気づきを読み手に与えてくれます。この辺りに「ひだまり」が何度もアニメ化され長らく愛されている普遍的な理由があるのではないかと思うわけです。
 
 

* それでも私たちは助け合える

 
思えば「ひだまり」が初めてアニメ化されたゼロ年代中葉当時というのは、社会の至る所で何かにつけ「自己責任」が叫ばれ、一方、アニメを観れば「間違っているのは世界の方だ!」的なサヴァイブ系作品が一斉を風靡していた時代でした。
 
こうした状況において、ゆのちゃん達が提示した「それでも私たちは助け合える」という他者との関係性のあり方は、時代に対するある種の批判力であったと同時に、ポストモダン成熟観に対するサブカルチャー側からの優れた回答であったとも言えるでしょう
 
 
 
 
 

「人生がときめく片づけの魔法・改訂版(近藤麻理恵)」〜「ときめき」に耳を傾けるということ

 

 

 

* 「一気」に「短期」に「完璧」に

 
あの片付け本のベストセラーが今年改訂版となって帰ってきました。片づけが苦手な方はこの機会に一読してみるのも良いでしょう。
 
実は本書はずっと以前、初版の方を読ませていただいたことがあるんですが、その時には「しかし現実は」などとどこかで思ってしまい、正直きちんとした実践には至りませんでした。あれから歳月が経ち今ならきちんと、こんまりさんの考え方がこころに落ちてくるように思えます。
 
本書は、片付けには「日常の片付け」と「祭りの片付け」があり、一度でいいから一気に短期に完璧に片付ける「祭りの片付け」を終わらせることで人生が劇的に変わるといいます。
 
なぜ「一気」に「短期」に「完璧」に、なのでしょうか?なぜ無理なくゆるく片付けるのではダメなのでしょうか?これはおそらくこんまりメソッドが目指す到達点と関係しているのだと思います。
 
 

* ときめきますか?ときめきませんか? 

 
こんまりメソッドの基本はいたってシンプルです。片付けでやるべきことは「モノを捨てるかどうか見極める」「モノの定位置を決める」の二つ。そして、大事なことは「捨てる」が先ということ。まず「捨てる」を完璧に終わらせるまでは収納については考えない。
 
また、場所別ではなく、洋服、本類、書類、小物、思い出品といった「モノ別」に片付ける。あるカテゴリーに属するものを全部かき集めて何を残すかを判断する。そしてその際の基準は今やグローバルスタンダードとなった「ときめき」です。
 
触った瞬間にときめくかどうかで捨てるか残すかを判断する。ここではきちんと「触る」という身体的な感覚が重要になります。自分の頭の中では「ときめく」のカテゴリに入っているはずのモノも実際に触ってみると、もはや「ときめかない」こともあるでしょう。
 
「役に立たないモノ」を捨てるのではなく「ときめくモノ」だけを残すという発想ですね。
 
 

* モノの役割を考えてみる

 
もちろん本書は無闇やたらにただ捨てればいいと言っているわけではありません。
 
大事なのは捨てる過程です。一つ一つのモノに向き合いそこで湧き上がる感情を味わい、モノとの関係を消化していくわけです。
 
「ときめかないけど捨てられないモノ」についてはそのモノの役割をよくよく考えてみる。
 
なぜこれを持っているのか?私のところにやってきたことにどんな意味があるのか?
 
こういうことをよくよく考えてみると、案外その役割はすでに終わっていることがわかる。こうして役割を終えたモノたちは感謝の念を持って送り出す。
 
こんまりさんは昔、巫女さんをされていたことも関係してか、本書の文章の端々にはモノへの畏敬や愛情が滲み出ています。
 
 

* 「いま、ここ」で、ときめきますか?

 
こうしてモノを捨てられない本質的な理由を遡ってみると「過去への執着」と「未来への不安」に突き当たることがわかります。
 
しかし大事なのは「今、自分にとって何が必要か、何があれば満たされるのか、何を求めているのか」という「いま、ここ」ということです。
 
「本にこう書いてあるから」「誰かにこう言われたから」ではなくモノを自らの「生きた態度」で選択することが大事です。変なモノでも自分が「これが好きなんだ」と言い切れるものは堂々と残しておけばいい。
 
こうしたときめくかときめかないかという自らの内なる声に丁寧に耳を傾けていくプロセスの積み重ねにより、自分のモノの適正量や価値観がクリアになっていくわけです。
 
 

* 片付けによって見えてくる世界

 
要するに、こんまりメソッドが目指す到達点というのは、単なる家事テクニックの習得ではなく、クライアントの持つ世界観の切断と再構築にあるのではないでしょうか。
 
雑然とした部屋を「一気」に「短期」に「完璧」に「ときめきに満ちた空間」に変えることで、その人が持つ特異的なパーソナルリアリティのようなものが鮮明に切り出されることになる。
 
こうした世界観の切断と再構築による「自分は何が好きなのか、どうありたいか」という自己理解の深化は自信の源泉となります。こんまりメソッドの実践によって人生において様々な好循環が起きていくという多くのケースではおそらくそういうメカニズムが作用しているのでしょう。
 
この点確かに、ゆるく少しずつ片付けて気がついたらきれいなおうちになっていました、では、世界観が切断されず、そこまでのインパクトは持ち得ません。だからやがて部屋は散らかっていくし世界は何も変わらない。
 
つまり「片付けの魔法」が片付けるのは「モノ」でも「部屋」でもなく「これまでの自分自身」であるということです。
 
これはいわば「片付け」という行動実践を通じて認知変革を起こすある種の認知行動療法とも言えます。いま世界中で反響を呼んでいる理由もわかるような気がします。
 
 
 

「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ

 

 

 
人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの物語を創り出すことによって「私は私である」「私はここにいる」という生のリアリティを獲得します。
 
すなわち、人が生きていく上でどういった想像力を参照するかは大きな問題です。では、現代を生きるための想像力とはなんでしょうか?
 
 

* 世界は有限である

 
まず、現代において我々が直面しているのは「世界は有限である」というひとつの事実です。
 
地球という環境下にある以上、人間という種も生物学的なロジスティック曲線の支配下にあります。「近代」という人類の爆発期はロジスティック曲線の第Ⅱ期に相当します。そして現代とは第Ⅱ期から第Ⅲ期へ向かう過度期ということになります。
 
 
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 (見田宗介現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと」Kindle No.204より)
 
20世紀後半は近代期の最終局面であり、この局面において資本主義は「情報による消費の自己創出」というシステムの発明によりその内在的矛盾を克服し、社会主義を退けて未曾有の物質的繁栄を実現しました。
 
しかしこうした資本主義の無限循環はやがて資源と環境の有限性に直面します。
 
地球という球面はどこまでいっても際限がありませんが、それでも一つの「閉域」です。グローバル資本主義システムという無限性の追求の果てに露見したのは世界の有限性でした。
 
このアポリアをどう乗り越えればいいのでしょうか?すなわち現代においては、世界の有限性を引き受けるための新たな想像力が要請されているということです。
 
 

* 「ここではない、どこか」

 

近代社会における基本的特質は、かのマックス・ウェーバーが言うように人間の生のあらゆる領域における「合理化」の徹底にありました。
 
これは生産主義的、未来主義的、手段主義的な社会のあり方と人の生き方をいいます。すなわち「豊かな素晴らしい未来」という目的実現のため、現在の生を手段化するということです。
 
確かに1970年代くらいまでは「豊かな素晴らしい未来」という夢想が素朴に信じられた時代であり、人は「ここではない、どこか」にあるはずの未来へとその生のリアリティの根拠を先送りすることで現在の生を満たすことが可能だったのでしょう。
 
けれども、グローバル化と情報化が極まった現代において人々はついにその未来を失い、現在の生がいかに空疎であるかに気づいてしまったわけです。
 
つまり、これまでの「未来への疎外(目的のための生の手段化)」の上に、さらに「未来からの疎外(目的そのものの消失)」が重なる状態となります。この「二重の疎外」こそが現代における生のリアリティ解体の構造と言えます。
 
 

* 新しい「ここではない、どこか」

 
この閉塞性を突破する方法の一つのして環境容量のさらなる拡大があるでしょう。人はこれまでも古代の農業革命と近代の産業革命において環境容量を劇的に拡大してきました。現在においても、テクノロジーの抜本的革新による環境容量の拡大可能性は十分に考えられます。
 
例えば一方で宇宙開発による「外延的拡大」という方向性があります。他方で、生命の最少単位である遺伝子や物質の最小単位である素粒子の操作による「内包的拡大」という方向性もあるでしょう。
 
特に後者は環境容量の抜本的な拡大の可能性を秘めており、ここから「多段式ロジスティック曲線」なるものを想定することも不可能ではないかもしれません。
 
こうした新しい「ここではない、どこか」の可能性は確かに魅力的ではありますが、強引な環境容量の拡大にはリスクが伴います。まさに原発とかがそうだったように危機を無理やり突破しようとする行動自体が新しい危機を誘発するという危機の悪循環に陥ってしまうことになります。
 
 

* 「いま、ここ」

 
要するに「ここではない、どこか」という想像力だけでこの時代を生きていくというのはちょっと苦しいわけです。ならば他に何があるのでしょうか?
 
この点において社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物質的富の増大以上に、日々の生活風景の中に幸福の原層というべき〈単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。
 
つまり、それこそ日々の中にあるありふれた、美味しいご飯を食べた時、素敵な本を読んだり音楽を聴いた時、道端に綺麗な花が咲いているのを見つけた時、誰かの優しさに触れた時など、そういった何気ない「いま、ここ」の中に色彩豊かな物語を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代において求められる想像力であるという事です。
 
「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ。こうした想像力のパラダイム転換は近年に行われた様々な青年層の意識調査のデータ上ですでにその萌芽が認められています。また、近年の多くのサブカルチャー作品でも食事や雑談などの日常描写を重視し、数々の「いま、ここ」を鮮明に描き出す傾向が見てとれたりもします。
 
 

* 有限の中にある無限

 
こうして現代とは「ここではない、どこか」を目指し成長を追求する力動と、「いま、ここ」の中で成熟を深める力動が拮抗している時代と言えるでしょう。
 
問題はこの両者のバランスをどう取っていくかということです。ここからロジスティック曲線第Ⅲ期を安定平衡の高原期として切り開いていけるのか、それとも有限な資源を使い尽くし種としての衰退に向かって行くか。大げさでなく我々はまさに岐路の時代を生きているということになります。
 
日々の中に〈単純な至福〉を見いだしていくということ。確かにその一つ一つの断片だけを切り出せば取るに足らない営みかもしれません。しかしこうした有限の世界の中で無限の可能性を見出していくような生き方が社会全体で共有された時こそ、人はロジスティック曲線を「歓ばしい曲線」とする方向で、無数の〈単純な至福〉が花咲く高原として生きていくことができるではないでしょうか。
 
 
 
 

「カードキャプターさくら・クリアカード編⑴〜⑹巻(CLAMP)」〜鏡像段階と対幻想、あるいは内閉期における少女の物語

 

 

 
CLAMPさんの不朽の名作「カードキャプターさくら」がまさかの連載再開からもうすぐ3年です。昨年のアニメ化を経て単行本は現在6巻まで刊行中。4巻くらいまでは謎がどんどん積み重なっていくばかりでしたが、5巻、6巻で色々と急展開を迎え、物語もいよいよ佳境に入った感があります。
 
 

* あらすじ

 
友枝中学校に進学した木之本さくら。長らく離れ離れになっていた李小狼とも再会し、これからの中学校生活に期待を膨らませるその矢先、フードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中に。そして「さくらカード」は透明なカードに変化し効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
 
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。二人はお互い何かを感じるところがあったのか次第に交友を深めていく。一方、秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡にはある目的があった。
 
 

* 異性間の恋愛から同性間の友愛へ

 
物語の核心に入るのはまだこれからなので現時点でこのクリアカード編という作品を正確に評価するのは難しいですが、ここまで読んできて思うのは、物語展開のフォーマットは前作を踏襲しつつ、前作と比べてキャラクター相互の関係性描写の重心が変化しているという印象です。
 
それは端的に言えば「異性間の恋愛から同性間の友愛へ」ということです。
 
前作では、さくらが小狼や雪兎、あるいはエリオル、藤隆との関係性をひとつひとつ言語化していく作業を通じて、異性間の恋愛という新しい感情を発見していく過程に描写の重きがおかれていました。
 
一方、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が相互に同性間の友愛を交歓していく過程に描写の重きが置かれてるように思えます。
 
この点、お互いの名前が〈木之本桜/詩之本秋穂〉という鏡像関係となっているのは注目すべき点でしょう。フランスの精神科医ジャック・ラカンが提唱した鏡像段階論がいうように、我々は他者を「鏡」として「〈私〉とは何か」という自己理解を深めていくわけです。
 
 

* 二つの対幻想

 
こうしたさくらにおける関係性描写の変化は、吉本隆明氏のいう共同幻想論的文脈で言えば夫婦的対幻想から兄弟姉妹的対幻想への変化を想起させるものがあります。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(夫婦的・兄弟姉妹的関係性)、共同幻想(国家的共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点としての対幻想のうち、夫婦的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉の意味を考えてみれば良いでしょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
この時、夫婦的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開することになります。
 
ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくことになる。
 
批評家の宇野常寛氏が「母性のディストピア」で指摘しているように、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象は漫画やアニメなどのサブカルチャーの想像力の中にもジャンル横断的に確実に立ち現われています。
 
例えば、近年のロボットアニメにおける美少年同士のボーイズラブや、日常系アニメの微百合展開などは、歪な形ではありますが、確かにこうした文脈の中で了解可能と言えます。
 
 

* 内閉期における物語としてのさくら

 
CLAMPさんはこうした時代の想像力の変化を的確に捉えていたのでしょう。だからあえて、前作と同様「なかよし」での連載再開だったのではないのでしょうか?連載再開に至る経緯についての詳しい事情はよくわかりませんが、なんだかそういう風にも思えてしまうんですね。
 
これだけ成功したコンテンツですから、青年誌とかでさくらをノスタルジー的に消費してくれる客層相手に連載したほうがどう考えても楽だし確実なビジネスです。一方「なかよし」の読者の多くはさくらのさの字も知らないでしょう。
 
けれども、個人のアイデンティティのあり方においては、どういった想像力を参照するかという問題が深く関わってきます。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏が指摘するように、特に10代前半という時期は人格形成にとって重要な「内閉の時期」と言われています。この時期、子どもはあたかも「さなぎ」のような「こころの殻」を形成し、その内側で子どもから大人へとその精神を変容させていくわけです。
 
そうであればこそ、そうした繊細な時期を迎える子どもたちにこそ、本作品を何のバイアスもなしに純粋に一つの物語として読んでもらいたい。
 
もしかしてそんな想いがどこか、CLAMPさんの中にあったのかもしれませんね。
 
6巻ラストでは物語の核心ともいえる秋穂ちゃんの正体がついに詳らかにされました。月並みな感想で恐縮ですが、今後の物語の展開を楽しみにしたいと思います。
 
 

「私が語り伝えたかったこと(河合隼雄)」〜物語を紡ぎ出す力

 

 

 
 

* はじめに

 
我が国の臨床心理学の礎を築いた知の巨人、河合隼雄氏の思索の軌跡をまとめた一冊です。
 
本書は氏の逝去後に、生前の講演やインタビューなどをご子息である河合俊雄氏が編纂したものであり、テーマは心理療法の他、教育、宗教、芸術、養生術など多岐に渡っています。
 
これらは一見バラバラのことを述べているようにも思われますが、深いところではきちんとリンクしています。
 
河合先生は何を語り伝えたかったのでしょうか?本書の表題に対する解は読み手に委ねられています。
 
むしろ我々読み手が自分なりに氏の残したメッセージを読み解き自分のものにしていく過程こそが、この不透明な時代を生き抜くための「知の資産」になるんだと思います。
 
そういう意味で本書は河合隼雄氏の我々への「遺言状」とも言えるでしょう。
 
 

* アイデンティティと物語

 
「私は私である」というアイデンティティというのは一見よくわかったようで実はよくわからない概念です。「私は私である」というその確信の源泉は何処にあるのでしょうか?
 
この点、アイデンティティという言葉を普及させた、米国の発達心理学者エリク・H・エリクソンアイデンティティというのはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)であるといいました。
 
エゴ・アイデンティティが確立している人とは「主体的な個人として社会にコミットできる人」のことです。具体的にいえば、真っ当な職業を持って、きちんと家族を養い、そして社会に対する自分の意見、判断力を持ち責任を取れる人を言います。
 
こうしたエリクソン的エゴ・アイデンティティ概念は「父(市民)になる」という近代的成熟観に立脚したもので理念としては正しい核心を持っていると思います。けれど少なくとも今日の日本においてあまりリアリティのあるものとして響かないようにも思われます。
 
これに対して河合氏は、エゴ・アイデンティティ概念の重要性は認めつつも、ファンタジーの重要性を強調しています。ここでいうファンタジーとは人が持つ内的な幻想のことであり、端的にいえばその人が持っている自分なりの「物語」のことです。
 
つまり、人が生きていく上で紡ぎあげていくその人なりの「物語」こそが「私が私である」というアイデンティティの源泉となるということです。こうした河合氏の考え方は現代における多様なライフスタイルを包摂する成熟のあり方といえるでしょう。
 
 

* 日本人の宗教観

 
こうした「物語」を創り出すにあたり、氏は宗教的価値観の重要性を強調します。ここでいう宗教とは何々教とかいう具体的な教団、宗派ではもちろんなく、超越的存在への畏敬という価値観のことを指しています。
 
この点、かつて日本においては、日常生活に根ざした素朴な宗教観が人のアイデンティティを支えていました。例えば「もったいない」という観念や「死んだらご先祖様になる」という信仰です。
 
しかし現代社会においてこうした宗教観は失われつつあります。これは各人が「物語」を創り出す上である種の困難をもたらします。けれども物語なきところでは人は根源的な不安に襲われる。こうして人は自力でなにがしかの物語を作り上げざるを得ず、時にそれはどこか歪なものにもなる。
 
人は物語に救われる事もあれば、物語に殺される事もあります。メンタルヘルスの不調や問題行動を解決する上で重要なのは「原因の解明」などではなく、その人なりの物語の紡ぎ直しを援助していく点にあるということです。
 
 

* 包み込む母性と切り離す父性

 
日本の教育は長きにわたり「民主的な平等主義」を錦の御旗として、子どもに偏差値を「平等に」に適用した結果、子どもを数字や順位のみで序列化していく風潮を生み出しました。つまりここで平等教育と序列教育は表裏の関係に立っているわけです。
 
中央教育審議会委員、文部科学省顧問、文化庁長官といった立場で教育行政にも携わってきた河合氏はこうした序列教育を批判しつつも、かといって「通知表は全員オール3」とか「みんな揃ってゴールイン」などという評価を放棄するような教育からも距離をおきます。
 
氏は、教育における評価は評価として行いつつも、そうした一連の評価とその子の尊厳は全く関係ないものであることを、腹の底まで理解して子どもに接しなければならないと強調します。
 
これは長年にわたり多くの「問題児」にカウンセラーとして関わってきた河合氏の経験と倫理からくる主張なのでしょう。真の意味で平等な教育とは、一人一人の子どもの特異性を大切にする教育であるということです。
 
こうした観点から、現場の先生方には母性原理と父性原理が統合された態度が必要であると述べます。
 
まず教師においては子どもの自主性を尊重し見守っていく母性原理的な優しさが必要となってくる。
 
氏は「思春期さなぎ説」というものを提唱しています。人間も子どもから大人になる前には蛹のように外殻を作って閉じこもる内閉期が必要であり、こうした蛹の時期には「見守る」という姿勢が重要になります。
 
時には外殻を作ることを手助けしたりする必要はあるかもしれないが、間違っても、外殻を剥がし取ろうとするような真似をしてはいけないということです。
 
こうして育ってきた個性が外に出る時、社会の常識とうまく調和せずどこかギクシャクしたものとして出てくることもあるでしょう。時に個性というのは悪の形で出てくるということです。
 
そこで、教師は本当に止めるべきを見極めて、その時はきちんと「それはダメだ」と断固と言える父性原理な強さも持たなければならない。
 
このように教育においては、いわば包み込む母性と切り離す父性という、一見相反する態度を高い次元で統合しながら子どもと関わって行く態度が必要になるということです。
 
 

* 自己実現の過程

 
河合氏の属するユング派を創始したスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識体系の枢要である「自我」に対して、無意識をも含めた心全体の中心部に「自己」という元型を仮定します。
 
「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」といった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります。こうした過程を個性化の過程、自己実現の過程と呼びます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの不調かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、人生における挫折や喪失かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるということです。
 
そこでユング心理学では、このような内的-外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* コンステレーションを読み抜く時、物語は紡がれる

 
幸福のロールモデルが崩壊した現代社会において自らの生をコンステレーションする生き方はますます重要性を増しているでしょう。
 
内的-外的に生じた事象をひとつのコンステレーションとして読み抜いた時、そこには「物語」が生じてくる。
 
すなわち、現代における「生きる力」とは他者と関係性の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出し自らの生の物語を自在に紡ぎだし、書き換えていく力であるということです。
 
どのような物語を生きるかによって世界は生きづらさに満ちたものにも、自由と可能性に満ちたものにもなるでしょう。
 
幸せの青い鳥は「ここではない、どこか」はなく、いつも「いま、ここ」にいます。生きていればいろいろと嫌なこと、不安なこと、大変なこともあるでしょう。でも折角の人生です。この時代、この社会に生まれ落ちた「めぐりあわせ」を大事にしながら日々、生きていきたいものです。