* なぜ働いていると本が読めなくなるのか(2024年)
⑴ 読書の起源と拡大
令和の世に彗星の如く現れた文芸評論家、三宅香帆氏はベストセラーとなった本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で2025年新書大賞を受賞し、出版界に「三宅現象」とも呼ばれる反響を生み出し、批評シーンに新たな風を呼び込みました。いまや三宅氏の代名詞ともなった本書は近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」の位置付けを論じる一冊です。
そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。職業選択の自由や居住の自由が認められ、当時の多くの青年たちは田舎から都会へ出て身を立てて名を上げる「立身出世」の野心を抱いていました。こうした中、西洋の偉人達の立身出世物語を集めた『西国立志編』という本が一大ベストセラーになる。同書において反復される「身分や才能によらず自助努力で成功できる」という「修養」の思想は現代における「自己啓発」の源流といえます。このような「修養」の思想は明治期に創刊された『成功』や『実業之日本』といった雑誌によって労働者階級に広がっていきます。
ついで大正期になると全国的な図書館の増設や出版界における再版制(再販売価格維持制度)の導入や高等教育の拡大により読書人口は爆発的に増加します。こうしたなかエリート学生の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」を重視する思想が流行するようになります。このような「教養」の流行の担い手となったのが『中央公論』『改造』『経済往来(後の日本評論)』といった総合雑誌です。また当時の最先端の思想であった「マルクス主義」もこうした雑誌を媒介として人々の間に広まっていきます。
そして戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がっていきます。それはまさに労働者階級がエリートに近づこうとする階級上昇の運動でもあります。このような「教養」の拡大を支えたのが『葦』や『人生手帖』といった人生雑誌です。その一方で、もちろん都市部のサラリーマンも戦前から引き続き「教養」を求めており、昭和初期の「円本」ブームを引き継いだ「全集」ブームが到来します。
このように戦後間もない1950年代の当時、世の中は空前の教養ブームであり「ベストセラー」という単語もこの時期に広まります。さらに高度経済成長期の1960年代になると「英語」とか「記憶術」など仕事に役立つ実用的なテーマを扱う「カッパ・ブックス」のような新書が存在感を持ち始めるようになります。こうしてみると日本においてはもともと「労働」と「読書」は互いにむしろ蜜月の関係にあったといえるでしょう。
⑵ 読書の変容と停滞
このような「読書」と「労働」の関係に変化が生じ始めたのが1970年代以降です。高度経済成長が終焉した1970年代において司馬遼太郎の『竜馬が行く』や『坂の上の雲』といった歴史小説がサラリーマンの間で広く読まれていた背景にはよく言われるビジネス教養主義のほか、皆が「坂の上」を目指して歩いていた(ように見えた)高度経済成長期へのノスタルジーがあったと本書はいいます。
またバブル経済期の1980年代において黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が500万部、村上春樹の『ノルウェイの森』が350万部、俵万智の『サラダ記念日』が200万部といった驚異的なベストセラーとなった要因の一つとして本書は当時の労働市場において「教養」より「コミュニケーション能力」が重視され始めた結果「僕」や「私」といった「自分の物語」を語る私小説的な作品が求められていたと本書は分析します。
さらにバブル経済が終焉した1990年代になると決定的な変化が訪れることになります。当時のベストセラー『脳内革命』が象徴するように個人の行動規範としてそれまでの「生きる姿勢」といった〈内面〉よりも「何をすべきか」という〈行動〉が重視されるようになったと本書はいいます。その背景には言うまでもなくバブル崩壊後の長期不況による労働環境の不安定化がありました。
そして本書はこのような〈内面〉から〈行動〉へという傾向変化を〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への変化として捉えています。すなわち、これまでの〈政治の時代〉においては〈政治〉を通じて社会を変革できるという素朴な信念がありましたが、新たな〈経済の時代〉においては〈経済〉という目の前の波をいかにうまく乗りこなすかが重視されるようになったということです。
⑶ ノイズとしての読書
こうして1990年代半ば以降、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。その一方で1990年代以降、とりわけ2000年代以降、個人の書籍購入額は目に見えて落ちていき、ここから本格的な読書離れが加速することになります。しかしなぜ読書離れが起きる中で自己啓発書は読まれたのでしょうか?
この点、社会学者、牧野智和氏は自己啓発書の特徴として「ノイズを除去する」姿勢にあるといいます。これを受けて本書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものはノイズとして捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであると述べています。
これに対して文芸書や人文書はまさに「社会」というノイズを提示する作用を持っています。かつて〈内面〉が重視された〈政治の時代〉において「読書」はこうした意味での「社会」を知るためのツールでした。けれども今や〈行動〉が重視される〈経済の時代〉においては自分と無関係な「社会」のことを知るよりも自分自身でコントロールできるものにリソースを注力することが最適解となり「社会」を知るための「読書」はむしろ「労働」にとってのノイズとなってしまいます。こうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降、ノイズを徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
本書において三宅氏は読書が「ノイズ」になってしまう事象を「文脈(コンテクスト)」という観点から理解しています。読書は「文脈」によって紡がれるものであり、人は基本的に自身の関心のある「文脈」に基づいて読みたい本を選びますが、一冊の本の中にはさまざまな「文脈」が収められていることから、ある本を読んだことがきっかけで「好きな作家」や「好きなジャンル」といった新しい「文脈」を見つけることもあるでしょう。
このように読書の醍醐味とはこれまで自分と無関係だった新しい「文脈」に触れることにあるともいえますが、このような新しい「文脈」に触れるだけの余裕がなければ、それは単なる「ノイズ」になってしまうということです。そしてこうした読書における「文脈」が「ノイズ」になった事象は社会共通の「大きな物語」が失墜した結果「小さな物語」同士のコミュニケーションの失敗=誤配により他者の文脈を理解できなくなったというポストモダン化の一側面としても理解できるでしょう。
* 考察する若者たち(2025年)
⑴「考察」の流行と「報われ消費」
こうして読書がノイズとなり、こうしたノイズを徹底して排除した「情報」が氾濫する令和の諸相を論じる一冊が三宅氏の近著である本書『考察する若者たち』です。本書によれば最近のZ世代を中心とした若年層ではドラマや映画を観た後すぐにその作品の「考察動画」や「考察記事」を検索する傾向があるそうです。こうした意味での「考察」という言葉が注目され始めたのは2019年のテレビドラマ『あなたの番です』がきっかけであると本書はいいます。
2クール計20話という日本のテレビドラマとしては異例の長さで放送され、その最終話は視聴率19.4%を叩き出し、Twitter(現X)の世界トレンド1位を5回も獲得した同作は「考察ドラマ」と呼ばれています。つまり同作は制作側が意図的に作中に謎を仕掛け、その謎を視聴者が考察しSNSで拡散することを狙って作られた作品であるということです。
この『あな番』のヒットを契機に「考察ドラマ」は世間に広く浸透することになります。作品によっては制作側が特に「考察」を狙っていなくとも視聴者の方が勝手に「作者は隠された謎を仕掛けている」という前提で「考察」するケースもあるようです。このように若年層を中心とした令和の視聴者にとって「考察」とはフィクションを楽しむためのメジャーなひとつの手法となっていると本書はいいます。
こうしたことから現代を「考察の時代」だと本書はいいます。すなわち、令和においては物語を読んだり観たりすることが、ただ読んだり観たりするのではなく、物語のなかに「謎」として置かれた「正解」を解くゲームになりつつあるということです。
これに対して平成以前は「批評の時代」であったと本書はいいます。ここでいう批評とは作者も把握していない作品の謎を解く営為をいいます。作者は作品の生みの親ですが、作者が作品のことを全て理解しているとは限りません。このような態度を批評はとっています。
両者は具体的にどう異なるのでしょうか。本書の例でいえば『となりのトトロ』(1988)を観て「じつは宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませている」という解釈を行うのが考察です。これに対して「じつは”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー”として捉えられる」という解釈を行うのが批評ということになります。
ここで重要なのは「作者の意図」への意識の有無です。批評から考察へという、フィクションを楽しむ人々の姿勢の変化を本書はフィクションを楽しむにあたり解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えたということではないかと述べています。
換言すればそれは「正解」かどうかもわからない個人の解釈(感想)を知ってもちっとも面白くなく、それよりも作者が潜ませた「正解」を知ることの方が面白いという変化に他なりません。つまり考察には「正解」がどこかにあることから「わざわざ努力する価値がある」ということです。
そしてその背景に本書はただコンテンツを消費して満足するだけではなく、その時間を「意味ある時間」に変えたいという若年層の消費行動を見出し、このような消費行動を「報われ消費」と呼びます。つまりただ楽しい時間を過ごすだけじゃなく、その時間における報われるポイントがわかっていると手を伸ばしやすくなるということです。裏を返せばただ楽しい、面白いという感情だけではそのコンテンツを消費する時間は端的に無駄だと感じてしまうということであり、令和とは物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかと本書はいいます。
こうした若年層の消費行動を象徴する言葉として本書は2023年度講談社漫画賞総合部門を受賞した人気漫画『スキップとローファー』の「たぶんこれが最適解!」という台詞を引いています。同作が描く令和の高校生たちのように、若い世代は自分の行動に求められる、意味のある、正しそうな「最適解」を求めているということです。ではなぜ若い世代はこんなにも「最適解」にこだわるのでしょうか。これは単にZ世代がタイパやコスパがいいものを求めているという世代的な傾向だけではなく、そこには「令和特有の病」があると本書はいいます。
⑵「推し」と「転生」
本書はこのような「報われたい」という消費感情から令和のヒットコンテンツを分析していきます。例えば「推し」という令和になって広く人口に膾炙した言葉があります。ここでいう「推し」とは自分が好きで、そして応援したり他人に勧めたりしたい対象のことをいいます。つまり自分が対象をとても好きだという感情に、さらに何らかのポジティヴな形で好きな相手と関わりたいという行動が追加された時に「推し」が成立することになります。
ところで「推し」が浸透する以前にある対象を好きだと思うことは「萌え」と呼ばれていました。この点、東浩紀氏はその代名詞的著作である『動物化するポストモダン』(2001)において近代的な「大きな物語」が機能不全となった現代ポストモダンにおける個人の消費行動を「物語消費」から「データベース消費」への移行として定式化しています。
ここでいう「物語消費」とは個々の作品消費を通じてその作品の背後にある「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは個々の作品消費を通じてその作品に登場するキャラクターにおける例えば「萌え要素」といった「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。つまり「萌え」とは例えば「何となく自分はネコミミが好きだ」「何となく眼鏡のクールなキャラが好きだ」というデータベースから反応する反射的(動物的)な欲求であるということです。
本書は「推し」もやはりこうした「データベース消費」から生じる「萌え」の感情が根底にあるといいます。もっとも「萌え」はその対象が「変わる」ことを前提とする瞬間的な欲求であるのに対して「推し」とは「推し変」という言葉が示唆するように一瞬の感情ではなく継続的な行為であることが前提となっており、そこには自分の「推し」が何かしらの理想のゴール(例えば東京ドームで公演したり総選挙で1位になったり興行収入400億の男になったりなど)へ到達することでファンもまた「報われたい」という感情があるとされます。
また「転生もの」というこれまた令和において一般化したジャンルがあります。ここでいう「転生」とは死後に他の場所(多くの場合は異世界)で生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま新しく人生をやり直すことをいいます。この「転生もの」が流行する以前に流行していたのが「ループもの」というジャンルです。「ループもの」と呼ばれる作品では主人公は例えばヒロインを救うため何度も時空を超えて過去改変を試みることになります。
こうしたループものをやはり東氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)においてポストモダンの文学観として、物語が複数に分岐していくゲーム経験を写生する「ゲーム的リアリズム」という概念で説明しています。これに対し本書は「転生もの」を「ガチャ的リアリズム」という概念で説明します。すなわち「転生もの」の物語の流行は「違うスペックに生まれてきたかった」というガチャ的な欲望に支えられているということです。
もっともこれは努力をせずとも無双できるチートな存在に生まれ変わりたいという欲望をただちには意味していません。現代の若年層は努力すれば成功するスペックとそうでないスペックがあることを肌感覚で感じており、ここでいうガチャ的欲望とは最初からガチャに当たって「努力すれば成功できるスペックに生まれてきたかった」という「報われたい」という欲望であるということです。
⑶ アルゴリズムの時代における批評の役割
以上のように本書は「考察」「推し」「転生」といった令和に流行するヒットコンテンツから、あるいは「陰謀論」や「成長幻想」が流行する時代の傾向性から、その背景にある「報われたい」という感情を抽出していきます。そしてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームとしてTikTokを挙げています。
本書がいうようにTikTokの特徴とは短尺の動画が次々に大量にレコメンドされる点にあり、その報酬は大量の短尺動画を見て得られる脳内刺激にあります。そしてこうしたレコメンドはプラットフォームにおけるアルゴリズムによって決定されています。ここでいうアルゴリズムとはユーザーの好みを機械学習し、それに基づいて情報や広告を変えるシステムのことをいいます。
ここから本書は令和のヒットコンテンツとはすべてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームアルゴリズムのなかで生まれたものであると分析し、こうしたアルゴリズムにより同じ「界隈」に集まった(集められた)ユーザーが「正しさ」という報酬を求め「正解を提示する擬似親」としてChatGPTをはじめとする生成AIに依存しつつあるといいます。
考察したい、推したい、転生したい、気づきたい、成長したい、擬似親がほしい、正解がほしい、報われたい、こうした若者たちの姿は--アルゴリズムのレコメンドに押し流される私たちの姿そのものなのだ。
(『考察する若者たち』より)
その一方で本書はアルゴリズムがもたらす最大公約的な「正解(に近い最適解)」によって発信者や受信者の個別性が失われていく状況に警鐘を鳴らしています。すべてが最適化され最適解を求められる社会における「自分らしさ」とは畢竟、一般性から逸脱する特異性としての「生きづらさ」へと直結するからです。
もとより本書は「正解(最適解)」を求めることを否定はしていません。誰も好き好んで失敗したくないのは当然です。しかし同時に本書はその「正解(最適解)」を目指す態度を補完するものとして「批評」的な態度という選択肢を提示します。
つまり本書はここで「正解(最適解)」を求める態度と、その「正解(最適解)」から意図的に逸脱していく「批評」的な態度というダブルシステムを提案しているということです。そして、このような批評の役割を『なぜ働』における議論へと差し戻すのであれば、批評とはアルゴリズムによって最適化された「情報」のなかに他者性の泡立ちとしての「ノイズ=文脈」を魅力的な形で再導入していく試みであるといえるでしょう。そしてこうした「批評」を書くためのさまざまな「技術」を指南するものとして次の2冊を挙げることができるでしょう。
*「好き」を言語化する技術(2024年)
⑴ 推しを語るとは自分自身を語るということ
本書『「好き」を言語化する技術』には「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」というサブタイトルがついています(本書は2023年に公刊された「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない--自分の言葉でつくるオタク文章術」を携書化したものです)。このサブタイトルが示すように本書はあらゆるコンテンツを「推し」と呼び、このようなあらゆる「推し」を語る(書く)時に使うことができるさまざまな技術を公開していきます。
「推し」について語る(書く)上で一番重要なこと。それは「自分の言葉」をつくることであると本書はいいます。このように言われると「自分の言葉?普通にみんなできてることじゃないの?」と思われるかもしれませんが「自分の言葉」をつくるという営みは案外難しいものです。とりわけ現代はSNSを通して「他人の言葉が自分に流れ込みやすい時代」であり、日々生成される莫大な量の「他人の言葉」によって「自分の言葉」はどんどん上書きされてしまいます。
例えば面白い映画を観た後に他人の感想を読むと自分の感想を忘れてしまい「他人の言葉」があたかも最初から「自分の言葉」だったかのような錯覚を覚えるという経験はよくあることでしょう。人間とは「他人の言葉」にどうしても影響を受けてしまう生き物です。
こうした中で「他人の言葉」に惑わされない「自分の言葉」をつくるためにはある種の技術が必要となります。そして本書はこのような技術を会得する上で必要なものは語彙力や観察力や分析力でもない「ちょっとしたコツ」であり、そのような「ちょっとしたコツ」さえ知っていれば「自分の言葉」は誰にでも作れるといいます。
本書は「推し」について「自分の言葉」で発信するメリットとして「推しへの解像度が上がる」「たくさんの人に推しを知ってもらえる」「推しについてのもやもやを言語化できる」という点の他に「推しを好きになった自分への理解が深まる」という点をあげ「きっと推しを語ることであなた自身の「好き」がどこからきたのか、わかるはずです。推しを語ることは、あなたの自身の人生を語ることでもある」と述べています。すなわち「推しを語る」ための「自分の言葉」をつくる営みとは、他ならない「自分自身を語る」という営みへまっすぐにつながっているということです。
⑵ 自分だけの感情を出発点にする
子どもの頃に学校で読書感想文という課題が出された時、先生から「本を読んで自分の感じたありのままの感想を書けばいい」などといったアドバイスを受けたことがないでしょうか?どうも日本の小中学校では「本を読んで感じた通りに、その感情を書けば、それがいい読書感想文になる」と先生も生徒も信じているようなふしがありますが、本書はこうした「ありのまま」感想文信仰に対して異議を申し立て「技術を駆使してこそ、いい感想文を書けるようになる」と主張します。逆に言えば「書く技術さえ理解すれば、いい感想やいい文章は書けるようになる」ということです。
まず本書は推しを語るときに一番大切なこととして「自分だけの感情」をあげます。ここでいう「自分だけの感情」とは「他人や周囲が言っていることではなく、自分オリジナルの感想を言葉にすること」です。しかし「自分オリジナルの感想を言葉にすること」は案外難しいものです。なぜなら人間はどうしても世の中に既にある「ありきたりな言葉」を使ってしまう生き物だからです。このような「ありきたりな言葉」をフランス語では「クリシェ cliché」といいますが、まずこのクリシェを禁止したその先に「自分だけの感想」が存在すると本書はいいます。
次に本書は推しを語る文章の核が「自分だけの感情」だとすれば、その核を包むものとして「文章の工夫」があるとして、ここで大切なものは「読解力」でも「観察力」でもなく「妄想力」であるといいます。つまり、何かの推しに対して「よかった」という感想を持ったとき、その「よかった」という理由について「昔見たものや昔好きだった推しを引っ張り出しつつ、自分の妄想を広げていく」ことで「感想のネタ」を探していくということです。
この点「妄想」はあくまで「妄想」であり、客観的に合っているかはひとまずはどうでもよく、とにかく妄想を広げていくことが重要となります(もちろん実際の感想を書くにあたって「この作品は◯◯という点であの作品のマネをしている」などと自身の「妄想」を根拠なく「事実」であるかのように書いてしまう行為はNGです)。
以上のように本書は第1章「推しを語ることは、自分の人生を語ること」で推しの魅力を伝えるために重要なものとして「自分の感情」と「文章の工夫」と「妄想力」の3点をあげています。そして第2章「推しを語る前の準備」ではこの3点を身につけていくための具体的な方法論が紹介されています。
⑶ 自分の言葉を創り出すということ
本書は「推し」を語る(書く)ためのさまざまな技術を「えっ、そこからですか?」というくらいに本当に初歩の初歩からていねいに説明していきます。それゆえにに本書は推し語りの初心者にとってとても親切な本であることは言うまでもなく、推し語りのベテラン(?)にとってもあまりに自明すぎるが故に軽視しがちな推し語りの基礎あるいは原点を再確認ないし再発見できる本となっています。
本書が幾度も強調するように「自分の言葉」で推しを語るとは他ならない自分自身を語るということです。例えば本書は第2章において推しに対して生じた感情を「共感」と「驚き」に大別した上で、その感情が生じた理由を深く掘り下げていく「感情を言語化=細分化する」という手法を提案していますが、このような推しに対する様々な「共感」と「驚き」を積み上げていくうちに、自分がおおむねどのようなものに対して「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかが自ずとわかってくるのではないでしょうか。そしてそこからさらに自分はなぜそこに「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかという、より大きな問いを開くことができるでしょう。
すなわち、推しを語るとは推しという鏡を通じて自己を再発見するという過程であるといえます。そして、このような再発見された自己から見晴るかした世界はこれまでとはまた異なる色彩と輝きを見せることになるのではないでしょうか。こうした意味で『「好き」を言語化する技術』とは「自己を再発見する技術」であり「世界を再発見する技術」でもあるといえるのではないでしょうか。
*「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか(2025年)
⑴ 体験の言語化はなぜ重要なのか
本書『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』は小説、漫画、ドラマ、映画といったコンテンツ体験を言語化してコミュニケーションに活かす技術を指南する一冊です。本書のコンセプトは三宅氏がある講座で参加者から「話していて面白い人になるには、どうすればいいのか」という質問をされたことで着想を得たそうです。本書はいいます。話が面白い人になるには本や漫画を読んだりドラマや映画などを観ることが必要だけれども、ただ漫然と読んだり観るのではなく「鑑賞」として取り入れることが重要であり、そこには作品を「解釈」するための技術が必要になる、と。つまり読んだり観たものを話の「ネタ」に変える技術です。
ではどのように読んだり観たものを「ネタ」にするかというと、本書が「第一部 技術解説編」でまず提示するのは①〈比較〉②〈抽象〉③〈発見〉というプロセスです。
〈比較〉とは「ほかの作品と比べる」ということです。ある作品を読んだり観たりした後、どんな作品と比較できるかを考えてみます。例えば『となりのトトロ』という作品を同じファンタジー作品である『ハリー・ポッター』と比較してみると、日常から非日常へ誘う役割が前者の場合はネコバスという前近代的な妖怪であるのに対して、後者はホグワーツ特急という産業的で未来的なインフラです。ここから日本と欧米のファンタジー世界やインフラに対する意識の相違といった「話のネタ」が生じてくることになるでしょう。
〈抽象〉とは「テーマを言葉にする」ということです。ある作品を読んだり観たりした後「この話のテーマなんだったのか」を考えてみます。もちろんそこに「正解」というものはありません。むしろ作品にテーマを見出すのは鑑賞者の役割であるといえます。こうしたテーマを考える時、主人公の変化や力を込めて描かれている場面や最後の結末に注目してみることを本書は勧めています。
〈発見〉とは「書かれていないものを見つける」ということです。ある作品を読んだり観たりしてて、その作品なら普通に書かれてもおかしくない話が出てこない場合や普通に出てきても良さそうなキャラクターが出てこない場合はそこには理由があり、作者の深いこだわりがあると本書はいいます。こうした「描かれていないことを探す」ことで逆方向からその作品のテーマを照射することもできるでしょう。
ここからさらなる応用編として本書は④〈流行〉⑤〈不易〉をあげています。
〈流行〉とは「時代の共通点として語る」ということです。すなわち、ある作品を同じ時代に流行した別の対象と比較することで、その時代において人々が求めていたものを見出していきます。
〈不易〉とは「普遍的なテーマとして語る」ということです。すなわち、ある作品の中に特定の時代における〈流行〉とは逆に、むしろ時代を超越した普遍的なテーマを見出していきます。
この①〜⑤のどれかの鑑賞・解釈ができるようになるとそのネタを人に話すことができる状態になると本書はいいます。このような鑑賞・解釈の工程を本書は料理に準えています。素材(作品)をいろんな食材と混ぜ合わせてみたり(比較) 潰したり煮込んだりしてちょっと形をなくしてから食べてみたり(抽象)その素材が持っていない味を付け足してみたり(発見)という具合に。三宅氏は本書をこうした「読んだり観たりしたものをいかに料理するか」というレシピ集として読んでほしいと述べています。
⑵ コンテンツからコミュニケーションへ
そしてこのような鑑賞・解釈の技術を身につけるための練習として本書は「鑑賞ノート」の作成を勧めています。その手順ととしては⑴まず面白かったシーンについて具体的に書き、次に⑵作品を鑑賞して思い浮かんだ解釈を書き、最後に⑶「この作品が好きな人はどの場面が好きだろう?」「××というジャンルに詳しい人に、ここを聞いてみたい」といった「質問」を書くというものです。
こうした「質問」をストックしておくことが何より重要だと本書はいいます。確かにこうした「質問」をあらかじめ準備しておくことで、そのコンテンツの話をうまくコニュニケーションのコードの上に馴染ませやすくなるでしょう。もちろん読んだ本や観た映画の感想などを何らかのかたちでメモしている人は結構多いとは思いますが、こうした「質問」まで(少なくとも意識的に)想定していることはあまり多くないのではないかと思われます。けれどもコンテンツの鑑賞体験をコミュニケーションの「ネタ」に昇華する上でこの一手間は不可欠といえるでしょう。
さらに他人とのコミュニケーションにおいて不意に質問を受けたときも先の「比較」「抽象」「発見」「流行」「不易」という五つの技術が使えると本書はいいます。すなわち、質問の意図をこの五つの中に当てはめることで相手の真意が汲み取れるということです。
つまり普段からこの五つの技術を習慣的に使用していれば、どんな場面でも脳内で他人のいったことを抽象化したり対比させたりすることができるようになるということです。そうしたことから読解力を鍛えることで同時に会話力も身についてくると本書はいいます。こうしたコンセプトから本書は「第二部 応用実践編」でこの五つの技術を用いて実際に、小説、漫画、ドラマ、映画はもちろんのこと、短歌集や人文書なども読み解いていきます。
⑶ 物語を読み解く技術
本書を読んでその内容が頭にだいたい入ったら早速身の回りのコンテンツを相手に練習してみましょう。昨日読んだ漫画、さっき観たドラマ。そのすべてが本書の練習問題になります。別に無理して五つの技術の全部を使う必要はないです。ひとつかふたつ使うことが出来ればもう万々歳です。その時そのコンテンツは単なる時間の空費ではなくあなたの人生を形作る経験になったのですから。
このように本書は『「好き」を言語化する技術』と同様にコンテンツの鑑賞体験を言語化するには「技術」が必要であるという考え方に立脚しています。その上で両者の相違を挙げるのであれば『「好き」を〜』は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点からあるコンテンツにおける「物語」を(いわば内在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているといえます。
これに対して本書は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点は(もちろん重要ですが)ひとまず括弧に入れた上で、あるコンテンツにおける「物語」を(いわば外在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているように思えます。そしてもちろんこの内在-外在という両者の視点は「物語」を読み解く「技術」として表裏一体の関係にあることはいうまでもないでしょう。
* 娘が母を殺すには?(2024年)
⑴ フィクションの中に読み解く〈母殺し〉
本書『娘が母を殺すには?』は母娘関係という観点から小説、漫画、ドラマ、映画などざまざまなフィクションを読み解く一冊です。一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。そこで本書はこうしたフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が〈母殺し〉を達成するための方法を見出そうとします。
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう〈母殺し〉とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
もちろん本書も述べるように親が子に規範を与えることは教育の過程で多かれ少なかれ必要なことであり、子どもの欲望のままにしていては取り返しのつかない事件や事故が起こる可能性があります。親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では〈父殺し〉と呼んできました。最初にこのような〈父殺し〉という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトはソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が〈父殺し〉という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を〈殺す〉必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として〈父殺し〉が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における〈母殺し〉を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
⑵〈母殺し〉の難しさ
もっとも〈父殺し〉と〈母殺し〉ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが〈父殺し〉の原理です。これに対して〈母殺し〉の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに〈母殺し〉の難しさがあるわけです。
この点、本書は〈母殺し〉の難しさの理由として「母と娘が密着しやすい構造」の存在をあげ、このような母子密着の要因として臨床心理士の信田さよ子氏の議論を援用して⑴夫婦間のディスコミュニケーション⑵娘の経済的/育児リソースの貧しさ⑶母のキャリアに対する罪悪感という3点を挙げています。
もっとも、ここで挙げられる3つの要因はいずれも男性が家の外で働き女性が家のなかで家事や育児に従事するという専業主婦文化を前提とした戦後中流家庭モデルを前提としています。ではこうした戦後中流家庭モデルが一般的なモデルではなくなった現在においては母娘密着の問題はすでに解消されているのかというと、本書はそうはなっていないといいます。
すなわち、現在においても母が息子に与える規範と娘に与える規範は異なっており、母にとっての娘はケアの対象というよりも自分と対等なケアの主体であり、そうした期待の視線のもと、いつの間にか母をケアする娘が誕生し、母子密着は永遠になるということです。
⑶ 母娘関係の脱構築
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な〈母殺し〉のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ〈母殺し〉の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス(以下、AOと略)』(1972)で展開した欲望観に求めています。ここで本書は千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)におけるAO解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
つまり本書のいう「母娘関係の脱構築」とは位相の異なる二つの欲望観の並立であると考えられるということです。この点、千葉氏は『意味がない無意味』(2018)所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考においてこのような位相の異なる二つの欲望観を精神分析的な見地から「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」と呼んでいます。
ここでいう「神経症的な欲望」とはフランスの精神分析家ジャック・ラカンによる「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼで示されるような間主観的ネットワークに理由づけられた欲望であり、その究極的な理由は千葉氏のいうところの〈性別化のリアル(事実上刻まれた性差のあり方)〉に帰着します。これに対して「別のしかたでの欲望」とはドゥルーズ=ガタリがAOにおいて言祝いだ理由なく多方向にどうでもよく発散する複数的な欲望に由来しています。そして千葉氏はこの両者を「メタ倒錯(倒錯の強い定義)」と呼ぶ論理によって互いに分離したまま無関係で並立する状況としてAOを解釈します。
すなわち、本書のいう「母娘関係の脱構築」とは精神分析的な見地からは千葉氏のいう「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望=理由なく多方向にどうでも良く発散する複数的な欲望」が互いに分離したまま無関係に並立する「メタ倒錯」として位置付けることができるのではないでしょうか。そうであれば「母娘関係の脱構築」とは母娘関係をめぐる「神経症的欲望」とは無関係に並立する「別のしかたでの欲望」を導入することで、むしろ母と娘のあいだに従来とは異なる新たな関係性を創り出す契機であるともいえます。
そして精神分析的な見地からさらに付け加えるのであれば、ここでいう〈父〉や〈母〉や〈息子〉や〈娘〉という概念は生物学的な性別とイコールで捉えるべきではなく、1人の人間の中に〈父〉と〈母〉が、あるいは〈息子〉と〈娘〉が共存するような状況も想定できるでしょう。さらには三宅氏が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や『考察する若者たち』で論じたような「ノイズ」を徹底して排除した「情報」が氾濫し、アルゴリズムと生成AIによって最適化された現代の情報環境を〈母〉のメタファーから捉えることもできるでしょう。こうした意味で狭義の母娘論を超えた極めて広い射程を持つ本書は三宅氏の影の主著ともいうべき一冊であるといえるでしょう。