かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

「私たちは生きづらさを抱えている(姫野桂)」〜発達障害から「普通」を問い直す

 

 

 

* 発達障害の「現場」を読み解く試み

 
本書は十数名に及ぶ当事者への詳細なインタビュー、対談、座談会、さらには著者である姫野さんご自身が発達障害と診断されるに至った体験談といった多彩な切り口を通じて、巷で流通する表面的な情報からは見えづらい発達障害の「現場」を読み解く試みです。
 
発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいいます。発達障害は大きく以下の3群に分類されます。
 
 
  
1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」と言えば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングにより、もう一つの自閉症であるアスペルガー症候群に光が当てられ、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。
 
こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」においては、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状として「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。
 
「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。
 
「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
こうしたASDの中核症状に関しては長らく有効な治療薬がないとされてきましたが、近年になりオキシトシン経鼻スプレーの有効性に関する報告が提出されています。
 
 
⑵ 注意欠如・多動性障害(ADHD
 
注意欠如・多動性障害(ADHD)は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」の主に2種類に分けられます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。
 
「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの薬としてはストラテラコンサータが有名でしょう。本書のインタビューを読む限りでは、ストラテラは副作用も多く合う合わないの差が激しく、一方、コンサータは概ね評判が良いようですが、薬効が切れた時の反動が大変みたいですね。
 
 
⑶ 限局性学習障害(LD)
 
限局性学習障害(LD)とは、知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。
 
読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。
 
こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 
 

* 発達障害の判定

 
発達障害は大人になってから発覚する例も多く、また、周囲との上手くいかなさからくるストレスでうつ病などの二次障害を併発することもあります。
 
発達障害かどうかを判定するにあたっては、精神科医の診察の他に、臨床心理士の面接やWAIS-Ⅲなどの心理検査が用いられる事があります。WAIS-Ⅲにおいて言語性IQと動作性IQの差(ディスクレパンシー)が15以上あれば発達障害傾向があると言われます。
 
実際のケースでは上記の3群のうちの2つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。姫野さんご自身は心理検査の結果「LD +ADHD傾向+ASD傾向」があると判定されたそうです。
 
もしも本書を読んで自身に思い当たる節があれば、心療内科なりを受診して診断名を付けてもらうというのも一つの方策かもしれません。
 
本書でも何人かの方は「発達障害とわかりほっとした」と述壊しています。診断名が付くことで、これまで感じていた漠然とした「生きづらさ」にある程度、肯定的な折り合いをつけることができる場合もあるのかもしれません。
 
ただ、発達障害の診断については医師によって見解の相違も大きく、受診する医療機関の選択は慎重に行った方が良いでしょう。
 
 

* 発達障害は「個性」なのか?

 
発達障害の特性は時として特定領域に関する驚異的な能力として具現し、あるいは、世間擦れしてない振る舞いが「純粋」「天真爛漫」などというイメージで魅力的に映ったりもします。
 
近年こうした発達障害の「明」の部分のみがクローズアップされ「発達障害は個性」という風潮もなきにしもあらずですが、障害自体はその人の「特異性」であり、それ以上でも以下でもない。
 
その「特異性」が「個性」と呼ばれるには「一般性」の世界で受け入れられる為の本人の努力と周囲の環境のめぐりあわせが必要になってくるわけです。
 
また、姫野さんが別著で述べているように、発達障害傾向があるものの診断名が付かない「発達障害グレーゾーン」の場合、発達障害という診断名がないだけに、ただただ「普通に空気が読めない人」「普通にミスが多い人」として周りから蔑まれ、自身を責め続けてしまう別の「生きづらさ」があるでしょう。
 

 

発達障害グレーゾーン (SPA!BOOKS新書)

発達障害グレーゾーン (SPA!BOOKS新書)

 

 

 

* 「普通」という思い込み

 
こうしてみると「定型発達か発達障害か」という問題設定自体があまり妥当ではないとも思うんです。
 
そもそも「定型発達」というものが本当に存在するのでしょうか?仮に「理想的な定型発達」のモデルがあって、そのモデルに寸分違わずぴったりな人がいたとしても、その人は果たして「生きづらさ」とは無縁の幸福な人生を送れるのでしょうか?
 
もとより発達過程は人それぞれであり、皆それぞれ何がしかの特異性を抱え込んでいるという意味では人は皆、発達障害と言えなくもないわけです。
 
何となく我々は自分は「普通」だと思い込んでいたりするわけですが、それはこれまでたまたま運良く環境とのめぐりあわせが良かっただけかもしれません。
 
もしかして、ほんのちょっとした環境の変化でたちまち「生きづらさ」を感じる境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。
 
そういった意味で本書が詳らかにしているのは「発達障害という他人事」ではなく、むしろ「自身の抱える特異性へどう向き合い、どう他者とつながっていくか?」という生き方一般における問題の所在そのものであるとも思います。色々と教わることの多い読書でした。
 
 
 

「Kanon」〜「セカイ系」と「奇跡のバーゲンセール」の間にあるもの

 

 

 

* 「泣きゲー」の先駆け

 
年頭に久しぶりに「Kanon」を観返しました。折角なので感想を簡単に書いておきたいと思います。
 
本作はゲームブランドKeyの記念すべき処女作で、1999年6月4日に18禁PCゲームソフトとして発売。シナリオに「泣き」「感動」の要素を取り入れた、いわゆる「泣きゲー」と呼ばれるジャンルの先駆けとなった作品と言われています。
 
2006年には京都アニメーションの手によりアニメ化が実現。10年以上前とはとても思えない今観ても非常に美しい映像です。
 
 

* あらすじ

 
本作の主人公、相沢祐一は両親の海外赴任に伴い叔母の水瀬家に居候させてもらうことになり「雪の街」へ7年ぶりに帰ってくる。そこで幼馴染である水瀬名雪に再会するところから物語は始まります。
 
なぜか7年前の記憶を思い出せずにいる祐一は「雪の街」で出会う5人の少女達との交流を通じて、幼い頃の大切な記憶を取り戻していきます。
 
 

* それは確かに透明で優しい物語だった

 
10年以上前でしょうか。初めてKanonを観た時、世の中にはこんなにも透明で優しい物語があったのかなんて、もうそれはすごくベタに感動したんですよね。真琴ちゃんの話なんてもしかしたら本当に泣いたかもしれません。
 
ただいま観るとどうしてもね、どこかメタな視点で見てる自分に気づいてしまうんですよ。ああ、これは泣いていいよっていうメッセージなんだろうな、ここはきっと感動しなきゃいけない場面なんだろうな、っていう風に。
 
けどこれは致し方ないのでしょう。私も普通に年齢を重ねましたし、何より時代が求める感動のポイントはやはりその時々で変わってしまうわけです。
 
 

* 「セカイ系」としてのKanon

 
ところで、本作は「泣きゲー」の先駆けであるとともに「セカイ系」の萌芽ともなった作品でもあります。
 
セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。典型的なセカイ系作品として「最終兵器彼女(2000年)」「イリヤの空、UFOの夏(2001年)」「ほしのこえ(2002年)」などが挙げられます。
 
セカイ系についての有名な定義の一つに「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」というものがあります。
 
ややこしい定義ですが、要するにここで重要なのは主人公が「ヒロイン(想像的関係)」を媒介として「社会(象徴的関係)」からのデタッチメントと「セカイ(現実的関係)」へのコミットメントを同時に実現している点です。
 
この点、Kanonの少女達はどうでしょうか?主人公を全面的に庇護する幼馴染の少女(名雪)、主人公に依存する難病少女(栞・真琴)、主人公の盾となる戦闘美少女(舞)、そして主人公に奇跡をもたらす少女(あゆ)。
 
こうしてみると皆それぞれがセカイ系ヒロインの特性を極めてバランスよく担っていることが分かります。
 
つまり、Kanonという作品は「ヒロインによる母性的承認」によって「セカイからの承認」を仮構しているという点で正しくセカイ系の構造を内在させていると言えるでしょう。
 
 

* 「奇跡のバーゲンセール」という処方箋

 
では、なぜこうまでもKanonは徹底して「母」であろうとしているのでしょうか?これは本作品の時代背景を考える必要があります。
 
Kanonの原作ゲームがリリースされた90年代後半というのは、平成不況の長期化により、昭和的ロールモデルが破綻し、就職や結婚といった社会的自己実現のハードルが急激に上がった時代です。
 
すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代だということです。こうした時代の転換により、アイデンティティ不安に曝されることになった人々はひとまず「母」の承認の下で生き延びようとした。本作の背景にはこうした需要があったわけです。
 
認知行動療法に「シナリオ法」というものがあります。
 
これは認知の歪み(自動思考)を適正化する為の技法の一つで、全てが破滅に向かっていくというシナリオと奇跡が起きて全てが好転するというシナリオを考えます。こうした極端なシナリオの両方を考えてみることで、その中間にある現実的なシナリオが見えてくる。こうして認知の歪みを適正化していくわけです。
 
しばし本作は「奇跡のバーゲンセール」などと揶揄されたりすることもあります。けれど、その裏では、世界はそこまで悪くない、まだきっと人生捨てたものじゃないと、Kanonの紡ぐ奇跡に光明を見出した人も多かったのではないでしょうか。少なくともかつての私はそうでした。
 
そういう意味で本作は時代の急性期を乗り切る処方箋としての機能を果たしたと言えるでしょう。その功績は今後も決して色褪せることはないと思います。人生に行き詰まった時は是非Kanonを観てください。きっと何かが変わると思います。奇跡はあるんだよ、ファイトだよ。
 
 

「凡人として生きるということ(押井守)」〜「欲望の本質」を見極めるという倫理。

 

凡人として生きるということ

凡人として生きるということ

 

 

 

 

* はじめに

 
ビューティフル・ドリーマー」「パトレイバー」「攻殻機動隊」「イノセンス」「スカイクロラ」など、アニメーション史上に残る数多くの作品を手掛けた世界的クリエイター押井守監督の劇薬人生論。巷に流布される様々なデマゴギーに惑わされず融通無碍に生きる術を説く一冊。以下、その言説をいくつか紹介します。
 
 

* 「若さ」に価値はない

 
だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家くらいのものだろう。人間を一つの兵器、兵力としてみるなら、なるほど若さには一定の価値があるかもしれない。
 
(本書より〜Kindle No.147)

 

 
本書は「若さには価値がある」というのはデマゴギーであると主張します。では、なぜそういうデマが流布するのでしょうか?それは「若さには価値がある」という考えが一種の強迫観念と化すことで「若さ」をキーワードとした様々な商品やサービスが売れるからです。
 
そして、眩しいばかりの青春を描いた映画やアニメなどはそういうデマゴギーを再強化する役割を果たしており、そういう類の映画やアニメはある種のSFファンタジーとして観るべきだと言います。あれが「普通の青春」だと思ってしまうから、そんな「眩しさ」から程遠いところにいる自分を顧みて苦しむわけです。
 
こう述べる裏にはかつて「終わりなき日常」を描いた「うる星やつら」の演出を通じてそういうデマゴギーに加担してしまった押井監督自身の自責の念があるようです。
 
 

* 「ウソをついてはいけない」というウソ

 
これだけウソがまかり通っているのに、「ウソはいけない」という掛け声だけが叫ばれる。特に子供たちは親から「ウソはいけない」と教え込まれる。だが、当の大人は当然のようにウソをつく。
 
(本書より〜Kindle No.297)

 

 
臨床心理学者・河合隼雄先生の「嘘は常備薬、真実は劇薬」という有名な言葉があるように、世の中には吐いても良い嘘と悪い嘘があります。どういう時にどういう嘘ならついていいのか。その辺りの機微をわかるのが「大人になる」という事です。
 
要するに「ウソをついてはいけない」というのは綺麗な原理原則であって、実際の世の中には数多くの例外があるわけです。重要なのはどこまでが許される例外なのかを見極めることであり、この原則に金科玉条的に縛られるというのは自分も周りも不幸にするだけでしょう。
 
 

* 「美しい友情」という虚構

 
「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間はずれにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
 
(本書Kindle No.1376)

 

 
現代はコミュニケーションが自己目的化している時代であると言われます。LINEのスタンプなんかそうですけど、何かをする為にコミュニーケーションをするのではなく、コミュニケーションをやっていることを確認する為にコミュニケーションをやっているような部分があります。
 
けれどどこまでいっても損得抜きの「美しい友情」というのは幻想でしかない。人間関係というのはやはりどこかで損得勘定に還元されてしまうのは確かです。「無償の愛」という言葉がありますが、その「無償の愛」を与えている人にもやはり「無償の愛を与えている自己イメージ」という「得」があるわけです。
 
裏返して言うと、人間関係を損得で考える自分を責める必要は全然ないということです。逆に、お互いに損得抜きでの関係性を築けているとベタに信じ込んでいるようであればかなり危険です。もしもその人から裏切られた時のダメージは計り知れないものになるでしょう。
 
 

* デマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める

 
本書では随所で「オヤジになれ」と説きます。これはいたずらに馬齢を重ねる事とは勿論違います。オヤジになるということ。それはデマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める事を言います。
 
人が生きる上で欲望は必要不可欠ですが、欲望というのは文化、社会、あるいは世間という〈他者〉が生み出すものであり、人は基本的に皆が欲しがるものを欲しがるようにできています。
 
「〈他者〉の欲望」に振り回されるのは非常に苦しい生き方になります。「男/女は普通こうあるべきだ、こうなるべきだ」という社会のロールモデルが崩壊した現代においては尚更そうでしょう。
 
こうした「〈他者〉の欲望」から真に自由であるためには、デマゴギーデマゴギーであると見破り、その上で「まさにこれだ」と確信していえる自分の中にある「純粋な欲望」は何なのかを見極めることが大事になってくるということです。
 
 

* おわりに〜押井映画における倫理的態度

 
本書で述べられる押井監督の人生観は近年の押井作品で言えば「イノセンス」のバトーの姿と重なるものがあります。
 
かつて押井映画のダイナミズムを支えていたのは「終わりなき日常」という永遠性を内破するという倫理的態度でした。
 
際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描いた「うる星やつら2〜ビューティフル・ドリーマー1984)」然り、首都圏への大規模テロのシュミレーションを情報論的に展開した「機動警察パトレイバー(1989/1993)」然りです。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては、広大なネッワークというフロンティアの果てに、新たなる可能性を見出していく。ラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きます。
 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは畢竟、陳腐な「終わりなき日常」でしかなかったというある種の諦観が描かれています。
 
こうしてその後「イノセンス(2004)」で描き出されたのが、ネットワークの守護天使(素子)に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するサイボーグ(バトー)の姿でした。
 
イノセンス、つまりそれは「純粋な欲望」ということなのでしょう。もはや「終わりなき日常」しかない世界において、押井さんが見出した新たな倫理的態度とはすなわち「欲望の本質を見極めた態度=オヤジになること」だったんだと思います。
 
終身雇用、年功序列といった昭和的ロールモデルが崩壊し、グローバル化、情報社会化が進展する現代において、かつてのような意味での「オヤジ」になれずアイデンティティ不安や生きづらさを抱える人にとって、本書が提示する「新しいオヤジ像」は一つの指針となるのではないでしょうか。
 
 

「リトル・ピープルの時代(宇野常寛)」〜「いま、ここ」に深く潜る想像力。

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)
 

 

 

* はじめに

 
ゼロ年代の想像力」で一世を風靡した気鋭の批評家、宇野常寛氏が震災直後の2011年7月に世に問うた労作。本書は戦後社会を「ビッグ・ブラザーの時代」と「リトル・ピープルの時代」の二つに切り分け、現代を生きるための「想像力」とは何かを問う一冊です。
 
 

* 「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」

 
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オールウェルの風刺小説「1984年」に登場する国民統合のシンボルとしての疑似人格体の事です。本書では「国民国家という幻想」の比喩として使用されます。
 
かたや「リトル・ピープル」とは村上春樹の小説「IQ84」に登場する超自然的な力を発揮する一種の幽体のことです。本書では「超国家的な資本と情報のネットワーク」の比喩として使用されます。
 
そして本書は現代社会を規定するのは「国民国家という幻想=ビッグブラザー」ではなく「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」であると述べます。
 
すなわち、近代において長らく世界と個人を規定していた「国民国家という幻想=ビッグブラザー」は政治の季節が極相を迎えた1968年以降、消費経済の成熟と共に徐々に機能不全に陥り、冷戦終結バブル経済崩壊を経た1995年頃には完全にその機能を停止することになる。
 
そしてビッグブラザーの機能停止と入れ替わるように、グローバル資本主義とインターネットなどの情報環境の発展を背景に「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」が台頭し始める。以上が本書の基本的な時代認識となります。
 
 

* 理想・夢・虚構

 
ではこのビッグブラザーなきリトルピープルの時代において、人はどのようにアイデンティティを確保し世界と関係していくことになるのでしょうか?
 
この点、社会学者の見田宗介氏は「現実」は常に「反現実」によって意味付けられるとして、どのような「反現実」がリアリティを持っていたかで時代の区分を試みています。
 
1950年代までのビッグブラザーがまだ機能していた時代においては「高度経済成長」「アメリカン・デモクラシー」あるいは「ソビエトコミュニズム」といった「イデオロギー」が「反現実」として機能していた。これを見田氏は「理想の時代」と呼びます
 
そして1960年代、政治の季節という「夢の時代」を経た後、1970年代のビッグブラザーの解体期においては、今度はイデオロギーの代わりに「サブカルチャー」が反現実として機能し始める。
 
「理想」を失ったのち、人々は「架空年代記」や「最終戦争」といった「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実」を夢想する事でアイデンティティ不安を埋めあわせようとした。これを見田氏は「虚構の時代」と呼びます。
 
ところが1990年代、ビッグブラザーに成り代わりリトルピープルが台頭し始め、世界中が資本と情報のネットワークで接続されてしまうと「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実の依り代となる「絶対的な外部」というものにリアリティがなくなってしまう。
 
つまり「リトル・ピープルの時代」において、「虚構」は「反現実」として機能しない。この端的な現れが1995年の地下鉄サリン事件という事になります。
 
ではこの「リトル・ピープルの時代」あるいは「ポスト・虚構の時代」における「反現実=想像力」とは何か?
 
これが本書の問題意識であり、こうした観点からメインカルチャーを代表する作家である村上春樹と、仮面ライダーをはじめとした特撮・アニメといったサブカルチャーを比較考察するという非常にユニークな試みを展開しています。
 
 

* 「拡張現実」という想像力

 
本書が「リトル・ピープルの時代」と呼ぶ1995年以降の時代を、批評家の東浩紀氏は「動物の時代」として捉えます。
 
ここでいう「動物」とはロシアの哲学者アレクサンドル・コジューヴに依拠した概念で「人間的欲望」の欠如した「動物的欲求」のみを持つ存在のことです。つまり、東氏によれば、現代社会の人間像とは、個人の生の意味づける「大きな物語」への欲望より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」であるということです
 
そして、社会学者の大澤真幸氏によれば、東氏がいうこの「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。
 
すなわち、大澤氏は現代における「反現実」として⑴例えば自傷行為のように「反現実」の機能を現実そのもので代替する「現実への逃避」、および⑵例えばフィルタリングのように危険性や暴力性を排除し現実を虚構化する「極端な虚構化」を挙げ、この矛盾する二つの傾向はともに「直接には、認識や実践に対して立ち現れることのない何か=不可能なもの」という点で共通しており、ゆえに現代はこの「不可能なもの」が反現実として機能する時代であるというわけです。
 
これらの議論に対して本書は「リトル・ピープルの時代」における「反現実」として「拡張現実」という概念を提唱します。
 
拡張現実。それは「いま、ここ」を多重化し、読み替え、深く潜っていく想像力のことです。
 
例えば、今日の朝ごはん、道端で見かけた花といった日常の生活風景がSNSなどで共感を集めたり、あるいは、なんでもない街角や路地裏が「アニメの聖地」になったり、また、文字通り日々の様々な「いま、ここ」に意識を向けていくマインドフルネス実践が医療やビジネスなど様々な分野で注目を集めたりするのは拡張現実的現象として理解できるかと思います。
 
 

* おわりに

 
人は生の実感を得る上でなにがしかの想像力を必要とします。以前はイデオロギーサブカルチャーがその機能を担っていたわけです。
 
けれども、世界中が資本とネットワークで接続された現代において「いつか革命が起きる」とか「やがて最終戦争が起きる」などとという「ここではない、どこか」はもうベタに信じることはできず、せいぜいメタかネタで演じるしかないわけです。
 
ありもしない「ここではない、どこか」を仮想するのではなく、まさにこの「いま、ここ」を拡張することで幸せの在処を見出していく。現代とはそういう想像力が求められている時代ということなんでしょう。前作を上回る圧倒的な射程範囲と情報量、読ませる文章力、迸るパッション。なかなか刺激的な読書でした。
 
 

「血流がすべて解決する(堀江昭佳)」〜つくり、ふやし、めぐらせる。

 

血流がすべて解決する

血流がすべて解決する

 

 

 

* 心身の不調に関わる「血流」

 
漢方医学と現代医学の統合的観点から、血流を増やす方法を紹介する一冊です。
 
 
心臓を出た血液は1分間で全身をめぐりまた心臓へと帰ってくる、この流れが「血流」です。
 
血液は全身を流れることで、水分を保ち、酸素、栄養、ホルモンを全身の細胞に届け、老廃物や二酸化炭素を回収し、体温や免疫を維持する役割を果たしており、心と体の様々な悩みはこの血流に深く関係していると本書は言います。
 
すなわち、本書によれば血流の問題は、高血圧、心筋梗塞脳梗塞といった血管が詰まる病気はもちろんのこと、生理痛、不妊症、肩こり、ひざ痛、果てはガンや認知症といった病気、さらには、鬱や自律神経失調症などの精神疾患、やる気が出ない、自信がない、イライラするといった心の悩みにまで関わっているということです。
 
  

* 目指すべきは「血流たっぷり」

 
ところで「血流」を改善するということはいわゆる「血液サラサラ」の状態を想像しがちですが、本書はまず目指すべきは「血流たっぷり」であるという。
 
もちろん「血液ドロドロ」がいいわけではないでしょう。糖尿病、心筋梗塞脳梗塞、高コレステロールといった生活習慣病の予防や治療において「血液サラサラ」は重要になります。
 
けど、特にメタボでもない「血」が足りていない人が、いくら血液をサラサラにしても意味がなく、それどころか足りない血流を無理やりサラサラにして全身に巡らせると逆に体調を崩してしまうこともあるそうです。
 
また、漢方でいう「血」とは単に「血液」だけでなく血液中の栄養やホルモンなどをも含む概念である。つまり「血流たっぷり」というのは「血の質」をよくするという意味合いもある。
 
すなわち、血を増やして血流を良くするというのは細胞レベルで体の働きを活性化し重大な病気や不調を防ぐことにつながるわけです。
 
 

* 気虚血虚・瘀血 

 
本書は血流が悪い理由は体質と密接に結びついていると言います。すなわち「血が作れない」のは「気虚体質」に、「血が足りない」のは「血虚体質」に「血が流れない」のは「瘀血(おけつ)体質」と関わっているそうです。
 
気虚体質は、身体面では胃腸関係の不調が目立ちます。また精神面ではやる気が出ないといった特徴があります。
 
血虚体質は、身体面では、老化を促進する傾向があり、女性の場合婦人科系のトラブルが目立ちます。また精神面ではすぐに不安になるという特徴があります。
 
瘀血体質は、身体面では低血圧の人が多く、朝起きれない、体がだるい、肩こり、頭痛、めまい、耳鳴りなどの症状が目立ちます。また精神面では、イライラしやすかったり自分の感情をコントロールできなかったりする傾向が見られます。
 
血流が悪い人はだいたいこのどれかに当てはまり、下手すると3つの全ての体質が当てはまるケースもあるようです。
 
ゆえに血流を良くするにはこの体質を根本的に改善しなければならないということです。
 
 

* つくり、ふやし、めぐらせる

 
本書では、赤血球の生成サイクルである「4ヶ月」を目安に上記の「気虚」「血虚」「瘀血」という体質を順に改善していく方法を紹介しています。
 
この点、重要なのは必ず「気虚」「血虚」「瘀血」の順番に改善して行くことであると言います。血は作れないから足りなくなり、足りないから流れないのであり、血の量が絶対的に足りていない状態で血を流してしまうと逆に不調をきたしてしまうそうです。
 
一番に取り組むべき「気虚」の改善の目安は「朝、きちんとお腹が空いてること」です。これは胃腸が丈夫になったということです。
 
次に「血虚」の改善の目安は夢を見ることが減ったり、朝スッキリ起きられるようになることです。
 
そして血が増え始めてきたところで満を持して「瘀血」の体質改善に取り組むという流れになります。
 
本書では、まず最初の一週間は食事改善(本書第三章)に集中し、次の二週目に睡眠改善(本書第四章)を加え、三週目から生活習慣改善(本書第五章)を取り入れ、順番に「気虚」「血虚」「瘀血」を改善していくプログラムを提案しています。
 
ここでは第三章の「血をしっかり作るための食べ方10の真実」の見出しだけ紹介しておきます。
 
① 満腹より空腹がいい
 
② 「一週間夕食断食」で胃腸がよみがえる
 
④ 夕食断食をすると、内側から若返る
 
⑤ パン食よりごはん食がいい
 
⑥ ほうれん草では鉄分を補えない
 
⑦ 血流不足にマクロビはすすめない
 
⑧ 血を増やしたければ肉食女子になりなさい
 
⑨ 下腹ぽっこりは血流の大敵
 
⑩ 命への感謝が血をつくる
 
 

* おわりに

 
上記の見出しを見て「本当?」って驚かれた方もいるんじゃないでしょうか?
 
スマホで適当に検索した断片的なヘルスケア情報を鵜呑みにして「私は健康に気を使っている」と思い込むのはまずいということですね。なんとなく不調が気になるけど、どこからどう手をつけていいのかわからないという向きには参考になるかもしれません。
 
 

「母性のディストピア(宇野常寛)」〜戦後日本の病理構造とサブカルチャーの共時的布置を読み解く一冊

 

 

 
 

* はじめに

 
本書は宮崎駿富野由悠季押井守という戦後アニメーションを築きあげた巨匠達の仕事を通じて、日本社会を覆う病理構造を明らかにし、さらに個人と世界の関係性のあり方を論じるという恐ろしく広大な射程を有する一冊です。
 
総頁数512頁というなかなかの分量ですが、本書が示すのは、サブカルチャーと社会構造に関するひとつのパースペクティブであり、最後まで丁寧に読み通せば、漫画やアニメ、社会情勢に対する多角的で豊かな視座が得られると思います。
 
 

* 「政治と文学」における戦後的アイロニズム

 
個人のアイデンティティは社会との関係性の中で形成されます。そして従来、個人は近代国家という舞台装置において「市民=父」を演じる事により、その近代的成熟性を獲得してきました。つまり、個人のアイデンティティの問題とは「政治と文学」の問題に他ならないわけです。
 
ところが戦後日本の場合、サンフランシスコ体制と日米安保により政治レベルの問題が消去された為、上記の意味での近代的成熟性の獲得は原理的に不可能となり、他方で経済的身体だけがぶくぶく肥大化していくことになります。こうした状況を本書は「幼形成熟ネオテニー)」と表現します。
 
このような事情から、この国における近代的成熟とは文学レベルでの自己完結による「成熟の偽装」にならざるを得なかったわけです。
 
つまり、保守的な言説にせよリベラルな言説にせよいずれにせよ、政治レベルへの接続不可能性を承知の上で、それでもあえて空位玉座を守り、偽悪ないし偽善を引き受けるという態度を取ることこそが、戦後日本における「成熟」であると看做すアプローチです。
 
こうした、徹底的に私的である事が逆に公的となり、現実的には無価値なものこそが理念的価値を生むという態度を「戦後的アイロニズム」と言います。
 
けれども、こうした文学レベルでの自己完結は、その「あえて」というアイロニカルな態度に対して無条件の絶対的承認を与える存在、すなわち「母なるもの」への依存と責任転嫁により初めて可能となります。
 
つまりは、「戦後的アイロニズム」という「矮小な父性」の後景には「肥大化した母性」が存在しているということです。このような矮小な父性と肥大化した母性の癒着構造を本書は「母性のディストピア」と呼ぶわけです。
 
 

* アトムの命題ゴジラの命題

 
ここで本書は戦後日本において奇形的発展を遂げたアニメーションというジャンルに注目します。
 
19世紀が「文学の世紀」であるのであれば20世紀は「映像の世紀」と呼べるでしょう。19世紀末、リュミエール兄弟によってシネマトグラフが発明され、映像という新たな技術は、20世紀という時代を映し出し、個人と世界をつなぐ公器としての役割を担わされることになりました。
 
映像は、共有不能な三次元上の現実を共有可能な二次元上の虚構に再構成する機能を持っています。その意味では、製作者によって映像内のすべての要素が制御可能なアニメーションこそまさしく「映像の世紀」の臨界点に位置していると言えるでしょう。
 
この点、本書によれば、戦後アニメーションはその無意識下で二つの命題に規定されていると言います。すなわち「アトムの命題」と「ゴジラの命題」です。
 
アトムの命題」は、手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」に由来する「成長や死のない記号的身体で成長や死を描写する」というテーゼです。
 
ゴジラの命題」は、東宝の特撮映画「ゴジラ」に由来する「虚構の中でしか描けない現実を描写する」というテーゼです。
 
アトムの命題は戦後日本のネオテニー的な身体の投影であり、ゴジラの命題はサンフランシスコ体制と日米安保に規定される現実の投影です。
 
すなわち、このような「身体(性/文学)」と「現実(戦争/政治)」という二つの命題に規定された戦後アニメーションのなかにこそ「母性のディストピア」を鋭く暴き出す批判力が内在しているということです。
 
こうした観点から本書は、宮崎駿4万字、富野由悠季10万字、押井守10万字というボリュームをもって戦後アニメーションの巨匠が辿った軌跡を検証していくわけです。
 
 

* 肥大化する母性の下での「政治と文学」の再設定

 
そして今、時代は「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へと遷移し、情報環境の発展により、人々は自分の見たい現実だけを見て、信じたい物語だけを信じられる環境を手にしました。
 
こうした環境下においては、もやは戦後的アイロニズムによる成熟のでっち上げという方法論すら成立しない。人々はそんな迂路をたどる必要なく、情報技術という新しい母の膝元で父になる泡沫の夢に浸る事ができるわけです。すなわち現代において「母性のディストピア」はますます肥大化しているということです。
 
こうした閉塞的状況を突破するには戦後アイロニーとは異なる形、ネットワーク時代に対応した形で政治と文学の問題を再設定するしかない。ではそれは何なのか?これが本書の問題意識となります。
 
 

* 「拡張現実」を生きるということ

 
一方、「映像の世紀」から「ネットワーク世紀」へという情報環境の変化は、「虚構」と「現実」の境界線を相対化させ、現実の一部が虚構化した「拡張現実」が出現します。
 
すなわち、虚構と現実の関係性は「あれかこれか」の対立関係ではなく「あれもこれも」という統合関係に遷移します。
 
こうした拡張現実の進展は「政治と文学」の接続のありように変化をもたらします。つまり個人は「ここではないどこか」という「虚構(仮想現実)」の中に自分の物語を見出すだけでなく「いまここ」という「現実(拡張現実)」に深く潜る事で自分の物語を見出すことも可能となるわけです。
 
ここでは、かつて「終わりなき日常」と嘯いていた現実こそが、いくらでもその可能性を拡張していける豊かなものであったという価値観の転換が起きるわけです。
 
こうして本書では「君の名は。」「聲の形」「この世界の片隅に」、そして「シン・ゴジラ」と言った近年のサブカルチャー作品の検証を通じ、拡張現実の時代における虚構の役割を問い、母性のディストピアを内破する想像力の可能性を探り出します。
 
 

* 「政治と文学」から「市場とゲーム」へ

 
個人的に興味を引いたのは、吉本隆明氏の共同幻想論を参照しつつ、母性のディストピア構造の解除条件を論じる点でした。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(家族的な関係性)、共同幻想(国家的な共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点として核家族的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉を考えてみましょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
ここで核家族的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開する。ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくわけです。
 
こうして個人と世界の関係性のあり方は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」として接続されることになるわけです。
 
そして、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象はサブカルチャーの想像力の中にも確実に立ち現われています。例えば今日における日常系アニメの氾濫はこうした現象の中で理解ができるでしょう。
 
 

* おわりに

 
本書がいう「母性のディストピア」とは単なる思想的な概念ではなく、フェミニズムナショナリズムといった今日の様々な社会問題の背景をなす病理構造です。
 
大きな物語」が失墜し、グローバル化と情報化が進展する今日では世界から「外部」は消失し「現実」と「虚構」の境界は融解した。
 
こうした環境においてはもはや「父」になるとかならないとかいう近代的成熟の問題は意味をなしません。今や誰もが自分が信じたい「小さな物語」を選択し、その中で自動的に「父」として機能するからです。
 
つまり、現代的成熟のあり方は異なる「小さな物語」を生きる他者といかに関係していくか、相補性と共時性からなる自己実現アイデンティティゲームを上手く生きて行けるかという問題となるわけです。
 
誤配のない優しい世界で夢を見るのか、それとも誤配を承知で新しい可能性を切り開きに行くのか。本書の根底にはそういう厳しい問いがあるんだと思います。
 
今日における世界の見方、そして成熟のあり方を考えるにあたり様々な示唆が得られた刺激的な読書でした。
 
 
 
 
 

「ユング心理学入門(河合隼雄)」〜この生をいかに自分らしく生きるか

 

ユング心理学入門

ユング心理学入門

 

 

 

 

* ユング心理学とは何か?  

 
ユング心理学とは、スイスの精神科医カール・グスタフユングが創始した心理学です。よく「ユング心理学はコンプレックスの心理学」などと言われたりもします。確かにコンプレックスという言葉はユングによって有名になりました。また実際、ユング心理学の理論体系上でもコンプレックスは重要な位置を占めています。
 
けれども、それ以上にユング心理学の真骨頂はコンプレックスを超えた「自己」という概念にあります。ユングは人が自らの「自己」を見出していく過程を「自己実現」と言います。そういった意味で、ユング心理学というのは「この生をいかに自分らしく生きるか」という「自己実現の心理学」だと言い得るでしょう。
 
「自分が嫌いだ」「人間関係がうまくいかない」「この人生に意味を見出せない」。
 
こうした心の問題と向き合う上で、本書はきっと導きの福音をもたらしてくれると思います。
 
 

* 2つの基本的態度と4つの心理機能

 
ユングは人の基本的態度を「外交的」と「内向的」に二分します。ある人の関心がもっぱら外界の事物あるいは事象に向けられている態度を「外交的態度」といい、逆に、内界のそれに向けられている態度を「内向的態度」といいます。
 
また、ユングは上記の2つの基本的態度とは別に、人は各々得意とする心理機能を持っていると言います。これが「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能です。
 
こうして2つの基本的態度と4つの心理機能が掛け合わされ、8つの基本類型が出来上がります。これがユングのタイプ論です(この8つの基本類型はあくまでモデルであり実際はこれらの中間に属する人の方が多いでしょう)。
 
もっとも、こうした意識的な態度や機能が一面的になりすぎる時、それを相補うような形で無意識的補償が起きるとユングは指摘しています。
 
また、人は自分と反対の型の人に抗し難い魅力を感じ、彼/彼女を友人や恋人に選ぶ傾向も強いと言われています。これは無意識的補償の外界における投影ということになります。
 
 

* コンプレックスという可能性の在処

 
我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の意識を統合する「自我」という心的作用によるものです。ところが無意識内にはこうした自我の統合性を乱す心的作用が存在します。ユングは言語連想実験を通じてこうした心的作用を発見し、これを「感情によって色付られたコンプレックス」と名付けます。
 
コンプレックスは心的外傷経験や後に述べる元型的なものを核として、そこに様々な表象や情動が結びつくことで生成・肥大化と考えられています。
 
肥大化したコンプレックスは、ある程度の自律性を持ち様々な障害を起こします。これに対する自我の反応を「自我防衛」といいます。自我防衛の例として、自我がコンプレックスに同化する「同一視」や、コンプレックスを外界に投影し外的なものとして認知する「投影」などが挙げられます。
 
また、あるコンプレックスの裏には相反するようなコンプレックスがあったりもします。例えば「私は何の価値のない人間だ」というような劣等コンプレックスを抱えている人の背後には「私には私と同じような思いをしている人を救う使命がある」という優越コンプレックスがあったりして、この両者のうち自我に近い方が意識されるわけです。実際の心理療法やカウンセリングにおいてはこの両極を適当に連結させていくことが大事になったりするわけです。
 
本書はコンプレックスそれ自体は常に否定されるべきものではないと言います。コンプレックスとは後に述べる「自己実現の過程」における一つの事象であり、それまで目を背けて来た未知の可能性の在処を示しているからです。
 
例えば、引っ込み思案な性格の人が攻撃性コンプレックスと向き合うことで、健全な活動性を獲得したりするなど、自我はコンプレックスと対決することで、より高次の領域において再統合を果たすことができるということです。
 
 

* 普遍的無意識と元型

 
さらに、ユングはある地域に伝承する神話やお伽話と、神経症者の夢や精神病者の妄想の間に共通項を見出し「普遍的無意識」という概念を提唱します。すなわち、人の無意識内には、その人だけが持っている無意識(個人的無意識)の他、万人に共通する無意識(普遍的無意識)が存在するということです。
 
上に述べたコンプレックスは個人的無意識の層に属する後天的に生成された精神力動作用です。これに対して普遍的無意識の層に先天的に存在する精神力動作用をユングは「元型」と呼びます。
 
元型そのものは我々の意識によって捉えることはできず、通常我々は、元型の存在を外界に投影されたイメージ(原始心像)によって知ることになります。典型的な元型としてユングは次のようなものを挙げています。
 
⑴ 大母
 
「大母」とは「母なるもの」の元型のことです。グレートマザーとも呼ばれます。
 
「母なるもの」はその本質において「産み育てる」という肯定的側面と「呑み込む」という否定的側面を併せ持っています。河合氏は、いわゆる対人恐怖症は日本の母性社会的な特性に根ざしていると指摘しています。
 
⑵ 影
 
「影」とは自我から見て受け入れ難い人格的傾向であり「生きられなかった反面」のことです。影は自我統制が弱くなった時に表面に浮かび上がってくることが多く、その極端な例は二重人格です。
 
また人は自分の影を否定するため、その影を誰かに投影するということは日常よく見られる傾向です。例えば自分と真逆の性格の友人がどういうわけかムカムカして仕方がないというのは、その人に自分自身の影を投影しているということです。
 
また影には「個人的影」の他に「人類悪」ともいうべき「普遍的影」が存在します。
 
⑶ アニマ・アニムス
 
男は男らしく、女は女らしくといったように、人は社会から一般的に期待されているペルソナ(仮面)をつけて生活せざるを得ない一方で、ペルソナ形成の過程で排除された男性の中の女性的な面、女性の中の男性的な面もまた同時に我々の中に存在し続けています。
 
前者をアニマといい、後者をアニムスといいます。アニマはエロスの原理、アニムスはロゴスの原理をそれぞれ内在しています。
 
ある異性を見たらどういうわけかドキドキして目も合わせられないというのは、その人に自分の中にあるアニマ(アニムス)を投影しているわけです。
 
影がいわば「生きられなかった反面」なのであれば、アニマやアニムスとはいわば「切り捨てられた魂の側面」ともいうべきものでしょう。
 
 

* 自己実現コンステレーション

 
こうした「意識的態度と無意識的態度」「主機能と劣等機能」「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」などといった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考えます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力であり、こうした再統合の過程を、ユングは「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの病かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、あるいは重要な人生の出来事かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるわけです。そこでユング心理学では、このような内的/外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* 「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていくために

 
このようにユング心理学においては、心がその全体性の回復へ向け、相補性と共時性の原理により螺旋の円環を描く様相を「自己実現の過程」として捉えます。
 
このユング的な自己実現はこれまで目を背けてきた諸々と対決していく荊の道であると同時に、日々生起する様々な困難の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出す希望でもあります。
 
こうした「意味のあるめぐりあわせ」を生かしていく上で大事な事は、我々がその自己を外的・内的に生きることであると本書は言います。
 
自己を外的・内的に生きること。それはすなわち、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中から湧き上ってくる「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていく営みに他なりません。
 
こうした一見凡庸な、日常の小さな積み重ねこそが、人生の新たな可能性を開き、世界を灰色のディストピアから輝きに満ちた現実へと変えていく鍵となるということです。