かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

コミットメントとコンステレーション--村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』試論

 

*「読書」が「ノイズ」となった時代

 
文芸評論家の三宅香帆氏は近著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)において、近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」は「ノイズ」になったと論じています。
そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。当時「立身出世」の野心を抱いた多くの青年の間では読書によって自身の精神を練成する「修養」の思想が広まりました。ついで大正期になると全国的な図書館の増設、出版界における再販売価格維持制度の導入、高等教育の拡大などによって読書人口は爆発的に増加する一方で「サラリーマン」と呼ばれる新中間層の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」の思想が流行するようになりました。さらに戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がり、高度経済成長期には空前の教養ブームが到来することになります。このように日本においてはもともと「労働」と「読書」は相互に接続された関係にありました。
 
ところが高度経済成長が終焉した1970年代以降「労働」と「読書」の関係性は次第に揺らぎ始めます。そしてバブル崩壊後の長期不況により経済成長神話の崩壊が決定的となった1995年前後において「読書」と「労働」は決定的に切り離されることになります。そして、この時期から本格的な「読書離れ」が進行する一方で、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。この点、同書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものは「ノイズ」として捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであるといいます。さらにこうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降「ノイズ」を徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
 
このような1995年前後における「労働」と「読書」をめぐる傾向変化を同書は〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への変化として捉えます。すなわち、これまでの〈政治の時代〉においては〈政治〉を通じて社会を変革できるという素朴な信念がありましたが、新たな〈経済の時代〉においては〈経済〉という目の前の波をいかにうまく乗りこなすかが重視されるようになったということです。そして、このような「読書」が「ノイズ」となり始めた1995年前後の転換期において村上春樹氏が世に問うた小説が『ねじまき鳥クロニクル』です。
 

* デタッチメントからコミットメントへ

村上氏の8作目の長編小説となる本作は氏が「デタッチメント」から「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換した作品として知られています。村上氏は河合隼雄氏との対談集『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(1996)においてこの転換の経緯をおおよそ次のように語っています。
 
そもそも村上氏が小説を書き始めたきっかけは「自己治療のステップ」であり、その結果生まれたデビュー作『風の歌を聴け』(1979)は「文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか、それまで日本の小説で、ぼくが読んでいたものとまったく違った形のもの」となりましたが、これから小説家としてやっていくためにはそれだけでは足りないと感じていた氏はその「デタッチメント」の部分をだんだんと「物語」に置き換えていくようになります。
 
その試みは初の本格的な長編である『羊をめぐる冒険』(1982)を経て氏の代表作の一つとなる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)へと結実しました。そして、ここから氏がさらに作家としてもう一段階の成長を遂げるべく「個人的実験」として「リアリズムの文体」を追求した作品が氏の5作目の長編小説であり、村上春樹という作家の代名詞ともなるベストセラー小説『ノルウェイの森』(1987)です。
 
そして本作『ねじまき鳥クロニクル』は自身にとって第三ステップであったと氏はいいます。すなわち、まず「デタッチメント」があって、次に「物語」を語るという段階があって、やがて、それでも何かが足りないというのが自分でわかってきて、そこの部分で「コミットメント」ということが関わってきたということです。
 
この点、氏はここでいう「コミットメント」とは「人と人との関わり合い」であるとしつつも、続けて「これまでにあるような、『あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう』というのではなくて、『井戸』を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです」と述べます。
 
そして、この村上氏の発言を受けて河合氏は次のように述べています。「コミットメントという点でいうと、いま何かにコミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」。
 
本作が完結したこの1995年はオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年としても記憶され、国内批評においては戦後日本社会が大きな転換を迎えた年であると位置付けられています。この点、河合氏が述べるようにオウムとは「何かにコミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たち」に対して「コミット」すべき「答え」をある意味では三宅氏のいうところの「ノイズ」を除去した先鋭化した形で提示したともいえます。では、こうした時代状況の中で村上氏は『ねじまき鳥クロニクル』という小説においていかなる回路によって「コミットメント」を描こうとしたのでしょうか?
 

*「ノイズ」としての「歴史」

 
本作は長大で複雑な構造を持つ作品ですが、そのメインの物語だけを抜き出して要約すれば以下のようになります。本作の主人公、岡田トオルは妻、クミコと世田谷の一軒家でそれなりに平穏な生活を過ごしていましたが、2人の結婚を機に飼い始めた猫が失踪したことをきっかけに夫婦間に不穏な空気が漂い始め、ある日突然クミコは失踪してしまいます。
 
妻の失踪の理由にまるで心当たりのないトオルは深いショックを受けますが、その一方でトオルの前にはクミコが失踪する前後から、次々に奇妙な人物たちが現れ始め、やがてクミコ失踪の裏には彼女の実兄である綿谷ノボルの暗躍があることを突き止めます。
 
新進気鋭の政治家として今や時代の寵児であるノボルには人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っており、果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていました。クミコの声にならない声を聴き取ったトオルは、クミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべくノボルと対決することを決意します。そしてそれは具体的には「井戸」を使った「壁抜け」として遂行されます。
 
クミコの行方を探す上で現実的なアプローチの限界を悟ったトオルはある日、近所の曰く付きの空き家の枯れた井戸の底に降りて思索に耽っていたところ、現実世界とは位相を異にする精神世界へと入り込む超常的な能力を獲得します。そしてこの「井戸」を使った「壁抜け」により精神世界へと入り込んだトオルはそこでクミコ(の幻影)と邂逅し、バットを手にしたトオルはノボル(の幻影)を「完璧なスイング」で捉えて撲殺します。その後、現実世界に帰還したトオルは、現実世界でもノボルが突然、脳溢血を起こし再起不能になっている事を知ることになります。
 
このように本作はメインの物語に限っていえば、それは要するに主人公が敵と戦い奪われたヒロインを取り戻すという極めてシンプルな物語であるといえます。ところが本作はこのようなメインの物語から独立した複数の物語が複雑な形で組み込まれています。いわば本作は雑多な「ノイズ」に溢れた小説といえます。そして、そのような「ノイズ」の最たるものとして「歴史」をめぐる物語があげられます。
 
本作では第二次世界大戦期の満州国を舞台とする「歴史」をめぐる物語が随所で語られます。その一つが1938年のノモンハンにおける「皮剥ぎ」の物語であり、もう一つは1945年の新京における「動物園襲撃」と「中国人虐殺」の物語です。これらの「歴史」をめぐる物語においてはいずれも極めて苛烈な形で「暴力」が描かれることになります。では、このような「歴史」における「暴力」はメインの物語といかなるかたちで関わっているのでしょうか?
 

* リトル・ピープルの時代における「歴史」と「暴力」

 
この点、宇野常寛氏は戦後日本社会というパースペクティヴから村上作品を論じた著作『リトル・ピープルの時代』(2011)において「このような『歴史』を扱う手つきは村上春樹という作家が発揮した想像力の中でもっとも射程の長いものだろう」と述べています。
 
同書は社会共通の「大きな物語」を生み出す社会構造と「大きな物語」なき後に発生する不可避的な力をそれぞれ「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」と名指し、ここから戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1968年以前)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968年〜1995年)」「リトル・ピープルの時代(1995年以降)」に区分し、村上氏のいう「デタッチメント」から「コミットメント」への転換を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」から「リトル・ピープルへのコミットメント」への転換として位置付けています。
 
そして同書は『ねじまき鳥クロニクル』という作品において村上氏は「大きな物語」としての機能を停止した「歴史」を連続性のある「物語」ではなくフラットな「データベース」として再び機能させようとしているとして、このような「データベース」としての「歴史」は「『物語』とは異なる方法で『暴力』の存在を浮き彫りにすることができる」といい『ねじまき鳥クロニクル』を「その猥雑さ、ハイブリッドな表現がまるで建て増しと改築を繰り返した結果奇形的な進化を遂げた建築物のような魅力を生んでいる小説」であり「その中でもっとも小説としての想像力の行使のダイナミズムを味わうことができるのが、この『歴史』へのアプローチだろう」と評価しています。
 
しかしその一方で同書はその小説世界に再召喚された「(新しい)歴史」と「(新しい)暴力」を村上氏は「やや持て余している」といいます。その一つの理由が綿谷ノボルという「敵」の造形の甘さです。彼は当時のニュー・アカデミズムの流れを汲む知識人や台頭しつつあった新保守系の政治家を強く想起させるものがありますが、その卑俗なイメージはオウム真理教が体現するリトル・ピープルの時代における現実の暴力を捉えきれていないということです。
 
そしてもう一つの理由が同作で村上氏が提示した「コミットメント」の形式にあります。同作が提示する「コミットメント」とは村上氏がこれまでの作品で洗練させてきた「他者性なき他者」としての傷を抱えたヒロインが無条件に主人公に承認を与えるという「ナルシシズムの記述法」を応用したものとなっていますが、ここには主人公のコミットメントのコストがヒロインに転嫁されるという「性暴力的な構造」が露呈してしまっており、リトル・ピープルにおける暴力に対するコミットメントのモデルとしては安易に思えると同書はいいます。
 
このような同書の論旨についてはもちろん賛否が分かれるところもあるかとは思いますが、少なくとも本作で描かれる「歴史」はメインの物語の展開と因果的連関においてつながっておらず、その意味でいえば本作は確かに「歴史」を「ノイズ」として「やや持て余している」ともいえます。しかし、その一方で本作において「歴史」は因果的連関とは「別のしかた」でメインの物語に関わっているとも考えられます。
 

*「絵空事(フィクション)」としての「歴史」?

 
まず、そもそもなぜ本作には「歴史」が登場するのでしょうか?この点、加藤典洋氏は『村上春樹は、むずかしい』(2015)において次のような二つの要因をあげています。
第一が「個」からの出発によるものです。本作は氏が客員研究員として滞在するアメリカ東部プリンストンの大学町で執筆されることになりますが、同書は氏がアメリカから日本を外から眺めることで、自分と日本の結びつきが新たに意識されるようになり、ここから「個」の自覚に立った社会的(歴史的)責任感、コミットメントへの意欲が生じたといいます。
 
第二が「個」の溶解によるものです。同書は本作執筆時の氏にとって「物語」とは、これまでのように「個」と「モラル」と「ロジック」によって構築されるものではなく、むしろ逆に「個」を溶解して無意識へと降りていくためのツールへと変化しており、その無意識の底に「歴史」が現れてきたといいます。
 
そして同書はこのような「個」からの出発と溶解という逆向きにも見える二つの要因を「歴史」に向かう一つの動線として把握します。つまり⑴それまであいまいで無定型的な「日本社会」から逃れて「個」を守ろうとしていたけれども⑵個人主義アメリカに来たらその必要がなくなり⑶今度は「個」を前提にその先を考えていこうとした結果⑷それは「個」への沈潜という企てへと深まっていったということです。
 
では、このような村上氏と「歴史」との関わり合いは従来の歴史認識や戦争の記憶の継承とはどのように異なるのでしょうか?この点、本作の描きだす満州、蒙古の記述は現実の東アジアからは遊離した架空のイメージに過ぎないとしばし批判されますが、加藤氏はこのような批判を踏まえた上で、本作が描き出す「歴史」は「いまや絵空事であることによって、逆に新しい現在の『記憶』された歴史の「生々しい」現実性に迫っている」と見る方が正しいのではないかとして「現実のもつ現実性が時の経過のなかでリアルな意味をすり減らしてしまう。そういうばあい、その現実性は、いまやフィクションを通じてしか、リアルな意味を回復できないのである」と述べます。
 
絵空事(フィクション)」でしか「歴史」の「リアルな意味」を回復できないとはどういうことなのでしょうか?この一見不可解な逆説を考える上では「歴史」における「暴力」として表出する「悪」をいかに捉えるかというパースペクティブを導入する必要があるように思われます。そこで以下の議論は『ねじまき鳥クロニクル』という作品からいったん離れ、現実の「歴史」へと潜行します。
 

* 侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館から考える

 
この先で検討するのは東浩紀氏の「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題(『ゲンロン10』(2019)所収)」という論考です。本論考の前提には東氏が「ソルジェニーツィン試論」で批評家としてデビューして以来長年抱いてきた「ひとはなぜ、かくも高い知性をもち、かくも豊かな感情を備えながら、かくも残酷で愚かな悪をなしてしまうのか」という問いがあります。
しかしこの問いはその解答が困難であるばかりか、問いへの接近そのものが困難であると氏はいいます。そこで本論考ではその準備作業として、いかにして「悪の愚かさ」を「記憶」するかが問われ、その手がかりとして東氏が以前訪れたという中国黒竜江省の中心都市ハルビン郊外にある「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」が論じられます。
 
この「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」とはその名の通り、第二次大戦期に日本の関東軍が運営していた細菌戦の研究機関である「関東軍防疫給水部本部」、通称「七三一部隊(石井機関)」の「罪証」を展示する博物館であり、七三一部隊の本部があった場所に建てられています。この点、氏は七三一部隊の人体実験については日本では今でも「反日勢力」による「捏造」であるという声が強く、それゆえにか罪証陳列館の展示はまず「実証」に力点が置かれているとして、その「実証」には大きく4つのタイプがあるといいます。
 
第1の「実証」はモノによる証明であり、実験室や機材の発掘、再現がそれにあたります。第2の「実証」はひとによる証明であり、元軍医や元隊員の証言がそれにあたります。
 
そして第3の「実証」は文献による証明で、人体実験の医学的記録や犠牲者の逮捕記録がそれにあたります。ここで東氏は犠牲者の逮捕記録における「特移扱」という特殊な言葉に注目しています。この「特移扱」とは七三一部隊への「特別移送」の指示を意味しています。
 
この点、七三一部隊は人体実験の犠牲者を「マルタ(丸太)」と呼称しており、彼らは犠牲者を「1人、2人」ではなく「1本、2本」と数えていたそうです。つまり、ここで犠牲者は名前を奪われたただの物理的な身体でしかなく、それゆえにその死には何の固有性も意味も与えられていないということです。
 
このような固有性と意味の剥奪を東氏は「数値化の暴力」と呼び、こうした七三一部隊による「数値化の暴力」に抵抗する上で犠牲者の逮捕記録である「特移扱」のリストは有効な武器となるといいます。この「特移扱」のリストを辿ることで犠牲者の氏名がある程度は判明するからです。それゆえにこの「特移扱」の記録を展示する部屋の中心には犠牲者の名前を記した高さ5メートルを超えるインスタレーションがあたかも墓標のように聳え立っており、この部屋全体が犠牲者に対する「祈りの場」として機能していると氏はいいます。
 
そして東氏はこの部屋の存在こそが罪証陳列館の哲学的な本質を示しているといいます。先述のように罪証陳列館の展示はまずは「実証」に力点が置かれています。しかし七三一部隊の本質は「数値化の暴力」にあります。したがって、その「数値化の暴力」に抗うには「実証」だけでは不十分であり、犠牲者が再びその固有性を、名前を取り戻す必要があります。すなわち、罪証陳列館は単なる「実証」のみならず、犠牲者の死の「意味の回復」を目的とする博物館であるということです。
 
さらにこのような理解は第4の「実証」としての歴史的背景に関する展示の充実とも合致していると氏はいいます。すなわち、罪証陳列館は七三一部隊の非人道的行為の背後には旧日本軍が組織的に進めていた巨大な生物戦構想があったという歴史観=物語を示すことで、七三一部隊の残虐性に意味を与え、そのことにより犠牲者の死にも意味を与えようとしていたということです。
 

*「悪の愚かさ」をいかに記憶するのか

 
このように罪証陳列館の展示は七三一部隊の人体実験の背後には日本政府と関東軍が進めた巨大な生物戦構想があったという歴史観を前提に構成されています。しかしながら現在においてはむしろ七三一部隊は有名なわりには軍事的な成果をあげなかった組織だという評価がなされています。こうした評価からすれば罪証陳列館の展示は戦前に日本と関東軍の力をむしろ過大評価しているともいえるでしょう。
 
しかしそれでも罪証陳列館は七三一の人体実験の背後に大きな計画や構想を見出さざるを得ないと東氏はいいます。なぜなら、そうでないと犠牲者たちはマルタとして無意味に死んでしまったことになり、その死に意味を回復させることができないからです。
 
ここから東氏は「加害の愚かさを認めることは、時に加害の反復になる」というテーゼを引き出します。そしてこれは七三一部隊に固有の問題ではありません。戦争やテロリズムはもちろんのこと、いじめやハラスメントといった我々の社会に遍在するさまざま加害の「意味」をめぐる問題といえるでしょう。
 
このように罪証陳列館は「数値化の暴力」に対して「意味の回復」で抵抗する施設であったといえます。すなわち「悪」はまずは「意味」によって記憶されるということです。けれども、その一方で加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないという問題があります。ではその時、加害の無意味さの記憶は、言い換えれば「悪の愚かさ」の記憶はいったいどこにいってしまうのでしょうか。
 
すなわち「悪」をどう記憶するかという問題につき「実証」が第一段階で「意味の回復」が第二段階だとすれば、おそらくはその先にもう一つまた別の戦略が第三段階として必要となってくるということです。
 

*「大量死」と「大量生」をつなぐものとしての「文学」

 
ところで東氏はこの「罪証陳列館」を訪れた際、施設の周囲には賑やかな郊外住宅地があり、バスが行き交う大きな並木通りがあり、ショッピングモールや地下鉄の駅があり、跡地の公園は市民の憩いの場になっており、その敷地内には6階建の団地が3棟食い込んでいることに気づきます。また「罪証陳列館」のシンボルとして知られる赤煉瓦と緑の屋根が特徴的な七三一部隊の本部棟は戦後のある時期まで中学校の校舎に転用されていたことがあるそうです。
 
氏はかつての悲劇の土地が市街地化している現実に戸惑いを覚えますが、似たような戸惑いは以前訪れたポーランドクラクフウクライナのキーウでも感じたことがあるといいます。例えばクラクフの中心近くには『シンドラーのリスト』の舞台として知られるプワシュフ強制収容所跡地がありますが、氏によればこの跡地は現在、公園として整備されており、ここでもまた収容所の敷地の一部が団地用地に転用されているそうです。またキーウでは第二次大戦期にナチスドイツによるユダヤ人の虐殺が市内のバビ・ヤールという谷で日常的に行われていたことで知られていますが、氏によれば現在のバビ・ヤールはその近くにあったスィレツ強制収容所の敷地を住宅地に転用したときに出た大量の土砂ですっかり埋め立てられてしまっているとのことです。
 
ここにはいわば「(広義の)収容所」の跡地の周囲に「(広義の)団地」が建っているという共通の構図を見出すことができるでしょう。そこで氏はここから批評家の笠井潔氏の提示する「大量死=大量生」という概念を手がかりとして、この「収容所」と「団地」の関係についての考察を深めていきます。
 
笠井氏は自身も小説家で「探偵小説(推理小説やミステリ)」の歴史について多くの評論を発表していることで知られています。一般的に探偵小説の起源はエドガー・アラン・ポーに求められますが、笠井氏によればその本当の起源は第一次大戦にあるとされます。この第一次大戦は人類がはじめて経験した総力戦であり、この戦争で多くの人々が集団的かつ匿名的に殺されました。笠井氏はこの現象を「大量死」と呼び、探偵小説はこの「大量死」への抵抗として生まれたジャンルであると主張しました。
 
そして一般的に探偵小説は人間の描写があまりにも記号的であるとされ、文学的には高く評価されない傾向があります。けれども笠井氏は探偵小説が人間を記号的にしか描けない/描かないのは作者の力量不足ではなく、それは人間が記号的に処理される20世紀社会の現実の反映に他ならないと主張します。そして笠井氏は現代社会において「大量死」に等値される「大量生」を見出し、このような「大量生」の現実の反映として1980年代から1990年代に生じた探偵小説の第三の波と言われる「新本格派」の台頭を位置付けました。
 
ここでいう「大量死=大量生」は東氏が「数値化の暴力」と呼んできたものと深く関係しています。世界をすべて数値化する能力、それは決して「大量死」を可能とするだけではなく「大量生」もまた可能にします。つまり「数値化の暴力」があるからこそ大量の人々をモノのように処理して収容所に送り込むことができますし、同じようにその暴力があるからこそ大量の商品を安価に生産し、大量の人々を規格化された団地に住まわせることができるわけです。
 
このような「数値化の暴力」による「大量死=大量生」が可能となった時代において笠井氏は「大量死」に対して従来のような自然主義文学で抵抗するのではなく「大量死」と「大量生」を探偵小説によって接続するという新たな文学的可能性を提示したことになります。すなわち「大量死」の暴力に対して「意味の回復(自然主義文学)」で抵抗するのではなく、その暴力が生み出した「意味喪失(探偵小説)」こそを記憶し、その上で「大量死」と「大量生」を連続的に考えるということです。つまりここで「悪」の記憶の問題は「実証」という第一段階と「意味の回復」という第二段階に続き、記号的でパズル的な「文学=探偵小説」に担われることになります。
 
先述のようにハルビンでもクラクフでもキーウでも「(広義の)収容所」の跡地の周囲には「(広義の)団地」が建設され「大量死」の場は「大量生」の場にすっかり変わってしまっていました。そしてこのような「大量死」から「大量生」への連続性は日本でも似たようなことがいえます。東京の市街地は空襲による虐殺の跡地の上に広がり、広島と長崎の市街地は原爆による虐殺の跡地の上に広がっています。
 
そしてだからこそ、この「大量死」から「大量生」への連続性を逆にたどることで我々は「大量生」から「大量死」の過去あるいは地下へと降りていけるのではないかと東氏は述べます。そしてそのような読解の可能性を検証するため東氏が本論考において読解を試みる作品こそが他ならぬ『ねじまき鳥クロニクル』です。
 

* 事実とは限らない真実をいかに語るか

 
本作はもちろんジャンル的にいえば「探偵小説」ではありません。しかし村上作品は確かに東氏が指摘するように「彼の小説はしばしば探偵小説に近い作風だと受け取られ、そのせいで商業的に成功もしてきたし、また批判もされてきた」という側面があります。そして東氏は本作のメインの物語とノモンハンや新京の「歴史」とのつながりの中心には「井戸のイメージ」があるといいます。
 
先述のように本作におけるメインの物語とノモンハンや新京の「歴史」とのあいだに因果的連関を見出すことができません。けれども小説内ではなんらかの関係があるかのように描かれています。ここで東氏は「というよりも、村上はまさに、そのような関係を描くために小説という技法を用いている」と述べます。
 
この点、村上氏は主人公であるトオルに次のように語らせています。「ものごとはまるで三次元のパズルのように複雑に入り組んでもつれている。そこでは真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」と。そして本作における「井戸」とは精神分析のいう「無意識」の領域を指す「イド id」のメタファーであり、まさに「真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」関係を言語化するための装置として導入されています。
 
このような本作の構成は村上氏が現在と過去の関係について、あるいは歴史の語りかたや記憶のありかたについて、歴史家やジャーナリストとはかなり異なった考えを持っていることを示していると東氏はいいます。
 
本作では一方に平和な現在(1980年代)の東京があり、他方に血塗られた過去の満洲があります。この両者は時間的にはもちろんつながっています。本作の主題は確かにその連続性にあります。しかしにもかかわらず、その連続性を事実にもとづく因果的連関によって再構成しようとすると、それは突然に難しくなります。
 
だからこそ村上氏はトオルを「井戸=無意識」に送り込み、文学の力で「大量死=大量生」を因果的連関とは別のしかたで言語化しようと試みます。つまり『ねじまき鳥クロニクル』とは「事実とは限らない」「真実」を文学の力でいかに語り切れるかというテーマを真正面から問い直した作品であるといえるでしょう。
 

*「井戸=無意識」に潜ることで「悪」の記憶に触れるということ

 
そしてこのことは本作が公刊された当時の村上氏の作家としての立ち位置を考えればより明確なものとなります。いまでこそ日本を代表する作家とみなされている村上氏ですが、本作公刊当時はむしろポストモダンな消費社会にどっぷり浸かった、いわば「大量生」の時代を代表するいささか軽薄なベストセラー作家とみなされていました。それゆえに少なからぬ批評家が彼の作風を批判しました。その代表的な例として柄谷行人氏による論考「村上春樹の『風景』」(1989)があります。
 
柄谷氏はこの論考において村上氏の初期作品では「固有名」が避けられ「数」が頻出することに注目します。ここでいう「数」とは例えば『風の歌を聴け』における「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる」というような一見して意味がありそうであまり意味のない数字です。実際のところ、こうした「数」は小説内ではほとんど何の役割も果たしていません。
 
こうしたことから柄谷氏は村上氏の想像力が、すべてを「任意的なもの」に変えてしまう「アイロニー」にあるとして、彼の小説は「無意味なものに根拠なく熱中してみせることによって、意味や目的をもって何かに熱中している者への優越性を確保するといった姿勢において存する超越論的な自己意識」を生み出すために書かれているといい、それは畢竟「『現実性』からの逃亡であり、ロマン派的な拒絶である」と批判します。
 
なかなか難しい言い回しですが、要するに柄谷氏はここでいわば村上氏の「数値化の暴力」に対して「意味の回復」を訴えているともいえます。これに対して村上氏は本作において「数値化の暴力」に対して単純に「意味の回復」で抗うのではなく「井戸=無意識」に潜るという回答を示したといえます。そして、加藤氏のいう「絵空事(フィクション)」でしか「歴史」の「リアルな意味」を回復できないとはまさにこのことを意味しているのではないでしょうか。
 
「大量死」の場である「収容所」は犠牲者を数字に変えて忘却します。これに対して「罪証陳列館」のような「博物館」は犠牲者の名を取り戻し「意味の回復」を図ります。「悪」の記憶について語られる時、普通はこの加害と被害の二つだけが対置されます。けれども東氏は「収容所」の上に建てられた「博物館」の周囲にはしばし「団地」が建てられていることに注目し、おそらく「悪」については加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるといいます。
 
「大量生」の場である「団地」の住民は「大量死」の過去を忘れています。けれども彼らは「井戸=無意識」に潜ることで「悪」の記憶に触れることができます。そしてそのような視点を手にすることで初めて人は「悪」について忘却するのでもなく非難するのでもなく「考える」ことができると東氏はいいます。それこそが『ねじまき鳥クロニクル』で示された文学的可能性であるということです。
 

* コンステレーションを読み出す物語

 
このように本作は「井戸=無意識」を導入することで現在と過去を因果的連関ではなく、いわば共時的布置でつなげています。
 
分析心理学の創始者であるスイスの精神科医カール・グスタフユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を想定し、ある個人の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期が到来した時、そこで生じている内的現実に呼応するような外的現実が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種の精神の不調かもしれないし、あるいは人生における挫折や喪失といった出来事かもしれません。しかしいずれにせよ、そのような内的現実と外的現実のめぐりあわせのなかには「自我」がいよいよ「自己」との対決を試みている努力の表れを見出すことができます。こうしたことからユングは、このような内的現実と外的現実のめぐりあわせを「自己実現の過程」に向けたひとつなぎの「コンステレーション」として把握することを重視しました。
 
もっとも、このようなコンステレーション言語化は極めて困難であることも確かです。例えばユング派分析家でもある河合氏は村上氏との対談の補足で「しかし、実際はわたしのしている心理療法の過程を言語化し、それを一般に通じる形にすることは困難極まりない」と述べています。けれども河合氏は続けて「むしろ、そんな点で村上さんの『ねじまき鳥クロニクル』などは、わたしの仕事の内容に非常に近いことを書いてもらった、という気がしています」と述べています。こうした意味で本作はコンステレーション言語化を「物語」というかたちで試みた作品であるといえるでしょう。
 

*「ノイズ=他者の文脈」をつなげていくということ

 
それではここで冒頭で取り上げた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が提示する現代において「読書」が「ノイズ」となってしまったという問題に戻ってみたいと思います。同書で三宅氏は読書とは「文脈」によって紡がれるものであるといいます。ふつう我々はいまの自分が置かれている「文脈」から本を読もうとしますが、1冊の本にはさまざまな「他者の文脈」が収められており、現代において人はそのような「他者の文脈」を、しばし「ノイズ」として感じてしまうわけです。
 
そして、これまでの議論を踏まえると『ねじまき鳥クロニクル』という作品はまさにこのような「読書」が「ノイズ」となるという「文脈」から読み解くことができます。本作はトオルが現在置かれている「失踪したクミコを探す」という「文脈」の中に「歴史」をはじめとする様々な「ノイズ=他者の文脈」が入り込んできます。これらの「文脈」は因果的連関によっては決してつながることはありません。けれども本作は「井戸=無意識」を導入し、これらの「ノイズ=他者の文脈」をコンステレーションによってつなげることで、ここから新たな「文脈=物語」を自己増殖的に紡ぎ出していくという極めてアクロバティックな想像力を展開させているといえるでしょう。
 
村上氏が河合氏との対談で「『ねじまき鳥クロニクル』という小説がほんとうに理解されるのには、まだ少し時間がかかるのではないかという気がするのです」と述べているように、本作は多様多彩な「文脈」が複雑なかたちで張り巡らされた作品であり、そのすべてを詳らかにする読解などおそらく不可能でしょう。
 
しかし少なくとも「読書」が「ノイズ」になるという「文脈」から『ねじまき鳥クロニクル』という作品を読み解くのであれば、本作はまさにそのような「ノイズ=他者の文脈」をつなげていくための想像力を見事に発揮した作品であるといえます。こうした意味で本作は現代日本社会におけるアクチュアルな問題に対してまさしく「まったくつながるはずのない壁を越えてつながる」というコミットメントを試みた作品であったといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから千葉雅也に入門するためのおすすめ5冊

* 勉強の哲学(2017年)

⑴ 自由になるための自己破壊としての「深い勉強」
 
日本における現代思想シーンを牽引する哲学者の1人である千葉雅也氏はフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズを論じた著作『動きすぎてはいけない』(2013)で鮮烈なデビューを果たして以来、今日に至るまで一貫して「有限化」をキーワードとした独創的かつ実践的な哲学を展開しています。こうした千葉哲学への入門書となる一冊が本書『勉強の哲学』です。
 
本書は受験勉強や資格試験や生涯学習などといった人生における何かしらの局面において「勉強」が気になっているすべての人を「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」へと誘う本です。まず本書は「勉強」の本質とは人が「自由」になるための「自己破壊」であると規定します。すなわち、人がその生において多様な可能性を開いていく上では、これまでの自分を壊していく必要があるということです。そして、こうした「自由」とは自身が現在置かれた「環境」に「いながらにして距離を取る」ことから生じるものであると本書はいいます。
 
ふつう我々は日々、学校や会社や家庭といったある一定の「環境=他者関係」の中で「こういうもんだ」というある種のお約束に従って生きています。このようなお約束を本書は「環境のコード」と呼び、こうした「環境のコード」への依存を本書では「ノリ」と呼びます。そして、こうした「環境のコード」から生じる「ノリ」から「自由」になるための鍵として本書は「言語」に注目します。
 
そもそも人は「言語」を通じて特定の環境におけるノリを身につけます。けれども「言語それ自体」はこの現実(と思っている世界)とは異なる秩序に属してます。つまり、ある環境における言語の意味づけは必然的ではなく、その「意味」はいつでもバラしてしまうことが可能であるということです。こうしたことから本書のいう「深い勉強」とは言語の持つ解放的な力について考えるところから始まります。
 
この点、いわゆる一般的にいう「勉強」とはある「ノリ」から別の「ノリ」へ引っ越すという事を意味しています。これに対して本書は、このような「ノリ」と「ノリ」の「あいだ」に注目します。そこには「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての「言語」があります。そして本書はこの「ただの音」としての「言語」を様々な意味を生み出す可能性を秘めた「器官なき言語」と呼びます。
 
通常、人はある環境の中で言語を「道具的」に使用しています。しかし、そのような環境から切り離された時、人は言語を「玩具的」に使用できるようになります。すなわち「深い勉強」とはこうした意味での「言語」との出会い直しによって、これまでの環境のノリを引き剥がし、自己目的的なノリを獲得する「自己破壊」を目指す営みになるということです。
 
⑵ アイロニー・ユーモア・享楽
 
そして、このような本書のいう「深い勉強」は「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とする「勉強の三角形」によって成り立っています。
 
まず、ここでいう「アイロニー」とは、いわゆる「ツッコミ」のことです。日常の場面で生起する様々な「こういうもんだ」という「環境のコード」にツッコミを入れて、それをなるべく大きく抽象的なキーワードとして括り出して行くことで勉強のテーマを見つけていきます。
 
けれども、ここで注意すべきなのはアイロニーをやり過ぎないという事です。アイロニーによって「環境のコード」の根拠を疑った結果、その上位コードである「超コード」が出現し、この「超コード」に対してさらにアイロニーを入れると、さらなる「超コード」が出現するというように、そのプロセスは無限に遡行して、最終的に言語の意味づけは「無意味(言語なき現実のナンセンス)」に至ります。
 
そこで時に人は「アイロニーの有限化」により特定の価値観を絶対化してしまう「決断主義」に陥ります。もちろん、これは一つの精神安定のための処方箋としてはあり得るかもしれませんが、これはある種の「信仰」であって、決して「勉強」ではありません。そこで本書はこうした弊害に陥らないため「アイロニー」を突き詰める事を一旦やめて「ユーモア」に折り返すことを勧めます。
 
「ユーモア」とは、いわゆる「ボケ」のことです。ある「環境のコード」の中であえてボケてみることで、勉強のテーマは多重化されることになります。けれどもユーモアもやはり無限に飽和して、やはり最終的に言語の意味づけは「無意味(意味飽和のナンセンス)」を帰結します。そこで今度は思考をズレた方向に広げる「拡張的ユーモア」から思考のある特定のポイントに過度に集中する「縮減的ユーモア」に転回します。
 
そしてこの「縮減的ユーモア」を規定しているものが「意味」以前に自身に刻まれた偶然的で強度的な「享楽的こだわり」としての「非意味(形態のナンセンス)」です。すなわち、個々人が持つ「享楽的こだわり」がユーモアの飽和を非意味的に切断し有限化することで思考の足場をいわば「仮固定」するわけです。こうした「ユーモアの有限化」としての「仮固定」を千葉氏は「決断」との対置で「中断」と呼びます。そしてこの仮固定された享楽の場に再びアイロニーを入れていくことこそが本書のいう「深い勉強」であるということです。
 
⑶ そして「来たるべきバカ」へ
 
こうした「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とした「勉強の三角形」というべきサイクルを繰り返すことで、人は環境に振り回されるだけの「ただのバカ」ではなく、環境と距離を置きつつも上手くやる柔軟な思考を身につけた「来たるべきバカ」へと変身することができると本書はいいます。このような本書が示す「言語」から「享楽」へ旋回する「深い勉強」とはある種の自己精神分析の実践であるともいえるでしょう。
 
本書の後半は、上述したような前半の基礎理論を踏まえて、具体的に勉強を「有限化」する技術について詳細に述べられています。ここで述べられている諸々は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。けれども本書の提示するいわば「思考する快楽」としての「深い勉強」は我々が生きるこの世界に対する解像度を高めてくれる契機にきっとなってくれるのではないでしょうか。
 

* 現代思想入門(2022年)

⑴ 今なぜ現代思想
 
現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした『入門書』の決定版」とうたった本書は発売されるや瞬く間にベストセラーとなり、昨年2月には「新書大賞2023」を受賞しています。ここでいう「現代思想」とは1960年代から1990年代を中心に主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しており、2024年の「現代」からすればもはや「過去」の思想ということになります。それがなぜ、いま再び求められているのでしょうか?
 
この点、本書はそのイントロダクションである「今なぜ現代思想か」において現代思想を学ぶ今日的意義を述べています。それは端的にいうと、現代思想を学ぶことで「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになるということです。どういうことでしょうか?
 
我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」とか「ちゃんとしなければならない」といった「秩序化」が進む一方で、こうした「秩序化」に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。
 
こうした現代社会における「秩序化=単純化」という大きな傾向に対して、現代思想は「秩序化=単純化」から逸脱するものに注目します。その根底には例えば「多様性」とか「安心安全」などといった諸々の「政治的な正しさ」を表明する「きれいな言葉」によって過剰に「秩序化=単純化」された現代社会に対する警戒心や違和感があります。
 
もちろんこれは全てが無秩序な世界を称揚するものでもありません。要するに、一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で考えることこそが重要である、と本書はいいます。すなわち、現代思想を学ぶ今日的意義とは、このような「ダブルシステム」の思考法を涵養する点にあるという事です。
 
⑵ 二項対立と脱構築
 
こうした観点から本書はまず第一章〜第三章で「ポスト構造主義」の代表的思想家であるジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの思想を「脱構築」の視点から読み解いていきます。ここでいう「脱構築」とはもともとデリダの術語ですが、本書ではドゥルーズフーコーにも脱構築的な考え方があるとして、この三つ巴を抑える事でまずは現代思想の基本的な論理操作ともいえる「脱構築的な思考」を練成します。
 
通常、我々は世の中の様々な物事の価値を「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった「二項対立」で判断しています。二項対立の思考は世界をシンプルなものにしますが、その一方で世界の複雑さや猥雑さの中に隠れた豊かさを見過ごしてしまうことになります。そして人は時としてのその二項対立の枠組みから他人を非難したり自分を追い詰めたりします。
 
けれどもこうした二項対立もよくよく見ていけば、必ずしも一方が全面的に正しくて他方が全面的に間違っているとは限らず、その境界線はかなり曖昧だったりすることもよくあります。こうした世の中でなんとなくまかり通っている二項対立を根本から揺るがしていく知の技法がデリダのいう「脱構築」です。
 
本書では「脱構築」の手続きを次のように説明しています。
 
①まず、二項対立において一方をマイナスとされる暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるだけではありません。
 
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
 
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。
 
(『現代思想入門』より)

 

そして、こうしたデリダ脱構築(概念の脱構築)から「世界」を見晴るかすのであれば、全ての事象は「同一性/差異」という二項対立を超えて縦横無尽に接続され(かつ切断されながら)展開していくというドゥルーズ存在論(存在の脱構築)となります。さらにこのようなドゥルーズ存在論から「社会」に折り返すのであれば、近代社会における権力関係とは「支配者/被支配者」という二項対立ではなく支配者と被支配者相互の多方向の関係性として展開しているというフーコーの権力論(社会の脱構築)となります。そして、そこから人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理が提示されることになります。
 
⑶ 現代思想のつくり方
 
その後、本書は第四章で現代思想の源流まで遡り、続く第五章では現代思想の隣接領域ともいうべき精神分析に光が当てられます。そして特筆すべきはこれまでの総まとめとなる第六章、その名もずばり「現代思想のつくり方」です(なかなか挑発的なタイトルです)。
 
ここでは恐るべきことに、多様多彩な(はずの)現代思想の理論が「⑴他者性」「⑵超越論性」「⑶極端化」「⑷反常識」という四原則からなるある種のパターン(!)に還元されてしまいます。ここからさらに第七章ではある種の応用編としてフランスにおける「ポスト・ポスト構造主義」と日本における現代思想の比較検討を通じて「近代的有限性」のオルタナティブとしての「古代的有限性」が論じられることになります。
 
本書一冊で現代思想に入門するための基礎的素養をほぼ手に入れることができると思います。本書は「入門のための入門」という謙虚な位置付けになっていますが、随所ではかなり高度な内容にもさりげなく平易な言葉で踏み込んでおり、現代思想をひととおり抑えた中級者以上にも絶対にお勧めできる本であるといえます。
 

* センスの哲学(2024年)

⑴「センス」を育てていくということ
 
本書のテーマは「センス」です。「センス」などという一見してとらえどころのない言葉には例えば「あの人、がんばっているけど、センス悪いんだよね」というように、どこかトゲのある排他的な響きが含まれています。つまり、ある意味で「センス」とは努力ではどうしようもない部分のことを指していたりもします。
 
けれども、本書は「センス」とは努力ではどうにもならないものとは考えず、むしろ人を解放し、より自由にしてくれるようなものとして「センス」なるものを捉え直し、このような意味での「センス」を楽しみながら育てていくことを目指します。
 
本書は「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、音楽、ファッション、インテリア、美術、文学などなどといった様々な領域においてこの「直感的にわかる」を広げていきます。本書は一種の芸術論ですが、狭い意味での芸術だけを論じるのではなく、その狙いは芸術と生活とつなげる感覚を伝えることにあるといいます。
 
⑵ 意味からリズムへ
 
まず本書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで本書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると本書はいいます。
 
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を即物的に捉えるということです。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています(ここでいう「強度」も「反復と差異」もいずれもドゥルーズに由来する用語です)。そして、こうした「リズム」とは大体において多層的なもの、マルチトラック的なものとして現れます。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると本書はいいます。
  
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが本書のいうリズム経験であるということです。
 
⑶ さまざまな「有限化のかたち」に触れるということ
 
こうしたことから本書は作品における核心的なメッセージといった「大意味」ではなくその背後に騒めく様々な「小意味」のリズムのうねりに注目するモダニズム的な見方を提示し、さらに「意味」それ自体も「脱意味化」してしまい、ただの形としての「リズム」として捉えるフォーマリズム的な見方を導入します。
 
そして本書は芸術作品における「感動」について大意味に対する「大まかな感動」とは別の小意味のリズムの絡み合いの構造に対する「構造的感動」という概念を提唱します。つまり「センス」とは喜怒哀楽を中心とする「大まかな感動」を半分におさえて、色々な部分の面白さに注目できる「構造的感動」ができることになるということです。そのためには日常において生起する小さなささやかなことをきちんと言語化していく練習が必要となってくるわけです。
 
ここから本書は後半部においてリズム経験から生じる「差異=予測誤差」をキーワードにセンスの「良さ」についての考察を深めていきます。そして、このようなさまざまな偶然性に開かれたリズム経験を「仮固定」して「有限化」するということが作品を創るということです。つまりさまざまな芸術作品に触れるということは自分には思い付かないようなさまざまな「有限化のかたち」を知る契機となるということです。
 

* 動きすぎてはいけない(2013年)

⑴ 生成変化の哲学
 
第二次世界大戦後、長らく思想や文化における知的流行の最先端を担ったフランス現代思想の軌跡は一般的に「構造主義」から「ポスト構造主義へ」という流れで理解されています。1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
 
こうして1960年代中盤には構造主義の栄華は頂点に達しましたが、1960年代後半になると今度は「構造」それ自体に内在する構造を不安定化させる綻びから「構造の変化」を考えようとする「ポスト構造主義」という思潮が台頭し始めます。そして、こうした「ポスト構造主義」の思潮の中でもっとも大きなインパクトを放ったのがジル・ドゥルーズが立ち上げた生成変化の哲学です。
 
ドゥルーズの名はとりわけ精神分析家フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』(1972)によってフランス内外に衝撃を与えた事で知られています。同書は68年5月にフランスを揺さぶったいわゆる「5月革命」を駆動させた多様多彩な欲望を根源的に究明し、1970年代の大陸哲学において最大の旋風の一つを巻き起こしました。そして同書が提示した多様多彩な欲望のあり方はその続編となる『千のプラトー』(1980)において「リゾーム」という概念へと昇華されることになります。
 
ここでいう「リゾーム」とは「ツリー」に対する概念です。これまでの社会(近代)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー(樹木)」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム(根茎)」によって言い表せるということです。
 
ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが近代を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ=ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となりました。これが一般的な「いわゆるドゥルーズ」のイメージです。
 
そして、こうした「いわゆるドゥルーズ」は1980年代の日本において熱狂的に歓迎されました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の『構造と力』(1983)と『逃走論』(1984)です。これらの著作において浅田氏はドゥルーズ=ガタリに倣い近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へという生き方の転換を勧めます。こうした氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ・パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。
 
 ⑵「接続の原理」と「非意味的切断の原理」
 
本書はこうした従来の「いわゆるドゥルーズ」のイメージに対して一石を投じ、晩年のドゥルーズによる「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を導きの糸としてドゥルーズ哲学においてこれまで見逃されてきた面に光を当て直していきます。
 
この点『千のプラトー』における「リゾーム」の第一原理とはあらゆる事物が特権的な中心点を持たずに関係してあっていく「接続の原理」であり「いわゆるドゥルーズ」もまたこのような「接続の原理」から捉えられてきました。ところが『千のプラトー』においては「接続の原理」の裏に「非意味的切断の原理」が見え隠れしています。
 
ここでいう「非意味的切断」とは『千のプラトー』によれば「あまりに意味を持ちすぎる切断に対抗するもの」であるとされます。この点、本書は「哲学は、たいていは、絡まったものごとに有意味な切断をして、ものごとを理解するための営みであると思いなされている」が「意味を持ちすぎる理解ではない別のしかたで分かってしまうこと。このことを、改めて哲学しなければならないと思われる」と述べています。
 
つまり「ツリーからリゾームへ」の生成変化とは、まずツリーからリゾームへのイロニー的な切断(切断A)があり、さらにそのリゾーム自体のユーモア的な切断(切断B)があるということです。いわば浅田氏のいうところの「逃走」は二度加速する事になるわけです。
 
ここで本書は「いわゆるドゥルーズ」を〈接続的ドゥルーズ〉と呼び、これに〈切断的ドゥルーズ〉を対置させます。本書によれば〈接続的ドゥルーズ〉の背景には、存在全体の連続性における差異化のプロセスにあらゆる事物を内在させるベルクソン/スピノザ主義があり〈切断的ドゥルーズ〉の背景には、デビュー作の『経験論と主体性』以来、再浮上を繰り返すヒューム主義があるとされます。
 
そこで本書はその前半においてドゥルーズ哲学史的背景を丁寧に遡り〈接続的ドゥルーズ〉に対する〈切断的ドゥルーズ〉を際立たせた上で、その後半において「切断されながらの再接続」としての「個体化=器官なき身体」が論じられます。
 
⑶ 生成変化における「節約」
 
従来より様々に語られてきた「いわゆるドゥルーズ」の魅力とは「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれども本書によればドゥルーズはこのような華やかさと危うさの裏で「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という「慎重さ」をも求めていたということです。
 
あらゆる生成変化する事物が渾然一体となった「めちゃくちゃ」においてはもはや新たな生成変化は起こりようがありません。すなわち「或るめちゃくちゃ」から「別のめちゃくちゃ」へと持続可能な生成変化を行う上では、あらゆる事物への「接続過剰」の手前で「いい加/減な切断=非意味的切断」を行う「節約(エコノマイズ)」が必要となるということです。
 
そして、このような本書が打ち出す「存在の有限化」というべき「接続過剰から非意味的切断へ」という存在論的運動は、その後「知性の有限化(勉強の哲学)」という局面において「アイロニーからユーモアへ」として語られ「理性の有限化(現代思想入門)」という局面において「近代的有限性から古代的有限性へ」として語られ「判断力の有限化(センスの哲学)」という局面において「意味からリズムへ」として語られているように思えます。
 

* エレクトリック(2023年)

 

 

⑴ 私小説脱構築三部作
 
よく知られているように千葉氏は哲学者としての顔のほかに小説家としての顔も持っています。これまで公刊された単行本の表題作三作は何とすべて芥川賞候補にノミネートされています。これらの三作を合わせて千葉氏は「私小説脱構築三部作」と呼んでいます。
 
まず千葉氏の小説デビュー作『デッドライン』(2019)ではフランス現代思想を専攻するゲイの大学院生の日常が描かれます。主人公は修士論文のテーマをポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズに決めたもののその執筆過程において「動物への生成変化」という問題に突き当たります。ドゥルーズ(&ガタリ)は『千のプラトー』において支配的なマジョリティとしての「男性」からの逃走線として「動物への生成変化」と「女性への生成変化」を言祝いでいましたが、ここで主人公は「動物になること」をむしろ「男になること」へ引きつけて考えようとしています。けれども『千のプラトー』の枠内では支配的存在である「男性への生成変化」は想定されていないわけです。このような「テクストの現実」で主人公が立ち止まっているうちにみるみると修論の締切--デッドラインが迫ってきます。
 
この点、千葉氏は『動きすぎてはいけない』においてドゥルーズ&ガタリにおける生成変化とは「同一性」から逃走し匿名化(脱規定化)された〈知覚しえぬもの〉への生成変化であり、さらにここでいう〈知覚しえぬもの〉とは単一の「万物斉同」への匿名化ではなく「女性」「犬」「ネズミ」といった具体的な名辞によって示される複数的な匿名化を意味しているという解釈を提起していますが、こうした生成変化の複数性を言祝いでいくような解釈の背景にはもしかして上記のような問題意識があったのかもしれません。こうした意味で『デッドライン』という小説は『動きすぎてはいけない』の事実上の序説としても読めるでしょう。
 
次にこの『デッドライン』の事実上の続編が『オーバーヒート』(2021)です。紆余曲折を経て博士論文を書き上げ東京での学生生活を終えた主人公は京都の私立大学に准教授として着任し現在(2018年)に至っています。主人公はドゥルーズを論じた最初の著作『犠牲なしで節約すること』を公刊した後、どこか研究に行き詰まりを感じてしまっている一方でツイッター上で気鋭の論客として注目された事がきっかけであちこちにエッセイを書くようになり、今ではむしろそっちの方が本業になりかけています。もちろん主人公は学者としてのキャリアを軽んじてはおらず、今月頭から『現代思想入門』という往年のフランス現代思想を解説する入門書の執筆に取り組んでいますが、やはり原稿はあまり捗らず、今日も彼はiPhoneからツイッターを開くのでした。
 
この時、ツイッターでは数日前から自民党女性議員の「LGBTといった人々はやはり普通ではない」という発言が炎上し「#LGBTは普通」というハッシュタグが出回っていました。これに対して主人公は「同性愛はやはり「倒錯」である。異常と言ってもいい」などとツイートします。ゲイである主人公は数年前にツイッターでカミングアウトをしていますが、それは一般社会の関心となり始めていた同性愛の「社会的包摂」を当事者の立場からさらに押し進めるためとかではなく、むしろその「逆をいくため」であったといいます。彼はいまやリベラルで先進的だと見られたければLGBTを支持「しさえすればよい」という世間の空気に苛立っていました。
 
このように同作は一見して反ポリティカル・コレクトネス的な立場を打ち出しているようにも思えます。けれども千葉氏は『欲望会議「超」ポリコレ宣言』(2018)においてポリティカル・コレクトネスの理念は重要だが今日のポリコレ的な要求は必ずしもその理念に適うものではなく、むしろ反ポリコレ的とさえ言えるところがあるとして、ポリティカル・コレクトネスの再発明としての「超ポリコレ」を提唱しています。そして『現代思想入門』においても氏は秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で思考することを勧めています。こうした意味で同作は「超ポリコレ」を「ダブルシステム」で思考するとは如何なることかを問い直した作品であったように思えます。
 
そして、このような『デッドライン』や『オーバーヒート』の事実上の前日譚ともいえる作品が本作『エレクトリック』です。
 
⑵ 時に、西暦1995年
 
本作のあらすじはこうです。主人公の高校2年生、志賀達也は栃木県宇都宮市で祖父母、両親、妹と暮らしています。達也は進学校に通う生徒で文系科目は優秀ですがスポーツと理系科目が苦手であり、それはつまり「男らしいもの」が苦手なのだと、彼は認識していました。その一方で達也は美術に高い関心を抱いていますが、その将来性の乏しい関心をどうしたらいいのかわからないままでいました。
 
また同様に、同性に対する関心もわからないままです。達也が「男らしいもの」への嫌悪を募らせていくと、あるところでそれは強烈な欲望に裏返ります。彼は若い男への興味が持ち上がるたびに、それを半分認めつつも、もう半分は押し返そうとしていました。
 
時に、西暦1995年--阪神大震災地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は戦後日本社会が大きな曲がり角を迎えた年でした。この点、国内批評の主要な言説は「動物の時代(東浩紀)」や「不可能性の時代(大澤真幸)」や「リトル・ピープルの時代(宇野常寛)」といった様々なタームでこの1995年を日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けています。ここでいうポストモダン状況とは社会全体をまとめ上げる「大きな物語」が失効して個々の「小さな物語」が乱立する時代状況をいいます。
 
 もっとも、こうした分析は後の時代から1995年を捉え返した結果であり、当時の人々のほとんどはまさか今そのような大きな時代の変わり目に立ち会っているとは思いもよらなかったに違いありません。もちろん本作の達也もその1人であり、彼は彼なりにこの1995年を「異常な年」だと直感はしているものの、年明けに起きた神戸の震災も目下テレビを賑わしているオウム真理教関連のニュースもやはりどこか遠い非日常の出来事でしかありませんでした。しかし達也の日常にも「1995年」という「出来事」は「新世紀エヴァンゲリオン」とか「インターネット」といった身近な形で確実に侵食を始めていました。
 
⑶ 近代的欲望とポストモダン的欲望の並立
 
その一方で「エレクトリック」というタイトルが示すように、本作の「影の主役」ともいえる存在が「ウェスタン・エレクトリック」のオーディオです。そしてこのウェスタン・エレクトリックについて語る本作は〈父〉を語る物語でもあります。
 
達也の父は一代で立ち上げた広告代理店を経営する一方で、ウェスタン・エレクトリックのサウンドを偏愛する多趣味な人物として描かれています。達也にとって父は尊敬すべき「英雄」であり、彼は「常識の逆を行く」という父の哲学の継承者であろうとしています。けれどもその一方で達也は妹の涼子が撮った写真をめぐり広告的な観点から批評する父に対して「そういうことじゃない」と真っ向から対立したりもします。
 
この点、本作においてウェスタン・エレクトリックが古い時代(近代)の遺産たる「エレクトリック」だとすれば、エヴァやインターネットは新しい時代(ポストモダン)を告げる「エレクトリック」であるともいえそうです。そしてこの二つの時代をそれぞれ体現する「エレクトリック」の並立とは、達也の〈父〉を継承しようとする近代的欲望と〈父〉から離反していくポストモダン的欲望という二つの欲望の並立と重なり合っているかのように見えてきます。
 
この点、千葉氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義(『意味がない無意味』(2018)所収)」において、こうした二つの欲望をそれぞれ「神経症的欲望」と「別のしかたでの欲望」と名指し、その両者を後者が前者を「無効化せず否認する」という「メタ倒錯=倒錯の強い定義」で連結させています。こうした意味で本作はポストモダン状況が加速する時代に直面した思春期の少年が近代的欲望(神経症的欲望)を「無効化せず否認する」ことでその傍らにポストモダン的欲望(別のしかたでの欲望)を描き出していく生成変化の物語であるといえます。そして、ここにあるいは千葉哲学の原風景を見出すこともできるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ケアの倫理と再生産的未来主義--多和田葉子『献灯使』

* 文学におけるケアの倫理

 
一般的に「ケア」とは子ども、高齢者、障害者、病人などに対する世話、気遣い、介助、介護、看護といったことを指す言葉であり、多かれ少なかれケアされる側の依存とニーズが伴うものです。そのため自律的な市民を要請する近代リベラリズムにおいてはケアされる側は依存的で自律的ではない存在として社会的・政治的価値を切り下げられてきました。こうした傾向は1980年代以降から個人の自由と市場原理を称揚するネオリベラリズムの世界的な高まりによりさらに拍車がかかることになります。そうした中でむしろ積極的に依存を包摂する社会構築を目指す考え方が「ケアの倫理 the cthics of care 」です。
 
「ケアの倫理」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学社会学などのさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方です。ギリガンは道徳発達に関する調査結果を近代以降の社会で道徳的発達の指標とされてきた「正義の理念」ではなく「ケアの倫理」という観点からその再評価を行いました。ここでいう「正義の理念」とは自由意志をもった自律的な道徳的主体を前提として公平と普遍性を重視しています。これに対してギリガンの提唱した「ケアの倫理」は関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提と捉え、その人その人が置かれた具体的・個別的な文脈と関係性を重視しています。
 
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものとして子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになります。換言すれば「ケアの倫理」とはケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになります。
 
こうした「ケアの倫理」を障害者性やクィアの交点において描き出した小説にディストピア文学の傑作としても名高い多和田葉子氏の短編『献灯使』が挙げられます。本作は2011年3月に起きた東日本大震災による福島第一原発事故への応答として書かれたいわゆる「震災後文学」の系譜に属しています。もっとも震災や原発に対する多和田氏のより直接的な応答としては震災直後に発表された『不死の島』があります。そして本作もやはり『不死の島』と同様の世界観を引き継いでいますが、同作とは異なり直接的に震災や原発をテーマとしているわけではありません。しかしながらそれゆえに本作は「震災後文学」というカテゴリーには収まらない極めて広範な射程を持った作品となっています。
 

* 頑健な老人と脆弱な子どもたち

本作のあらすじはこうです。何らかの大災厄による複合的な環境汚染によって東京23区内は危険地区に指定されてしまい、危険地区から脱出した人々は郊外の仮設住宅で電化製品やインターネットを使わない生活を細々と営んでいます。生態系も著しく変化し、この国ではもうかなり前から野生動物を目にすることは無くなっています。
 
現在、日本の政府や警察は民営化され、諸外国との交流を断絶する「鎖国政策」が敷かれていることから、海外からの輸入も途絶えており外来語も使われなくなっています。また国内においても移動制限があり、北海道や沖縄ではその土地で収穫した農産物はその土地で消費されるため首都圏は常に食糧不足に陥っています。
 
そして何より災厄後の生態系の変化の結果、日本の高齢者たちは100歳を超えても死なない頑健な体になった一方で、子どもたちの身体は日に日に弱くなっています。本作の主人公である義郎と彼の曾孫である無名もまた例外ではありません。まもなく108歳になる義郎は小学2年生の無名の介助に明け暮れながら日々を過ごしています。
 
無名の世代の子どもたちは身体は細胞が破壊されたことでいつも微熱があり、固形物を摂取できず、骨も脆く歩くこともおぼつかず、介助器具に頼って生きています。またこの世代の子どもたちは生まれた時の性別が持続することはなく、誰でも人生のうち必ず一度か二度は性別の転換が起きるようになっています。こうしたことから一部の大人たちの間では子どもたちの健康を取り戻すべく優秀な子ども達を選抜してインドのマドラスにある「国際医学研究所」へ秘密裏に送り込む「献灯使」なるプロジェクトが持ち上がります。
 

* 不自由な身体と自由な創造力

 
本作は『不死の島』と同様に原発事故による放射能汚染をモチーフとしつつも、より広く環境汚染、気候変動、生態系変化といった地球規模の問題からグローバル化、東京一極化、少子高齢化といった日本社会の問題までをごった煮的に詰め込んだディストピア状況を描き出しています。
 
先述のように無名の世代の子どもたちの身体は脆弱で、その日常生活は常に義郎たち高齢者による介助を必要としてます。いわば無名たちは障害者的な身体を抱えた子どもたちであるといえます。こうした無名たちの身体環境は「健常者」である義郎から見れば苦しみに満ちているようにしか見えません。しかしながら無名たちにとって身体が感じる痛みとはただただ「純粋な痛み」であり、その痛みに「苦しむ」という気持ちからは解放されています。
 
すなわち、義郎と無名は同じ景色や現象を見ながらも異なった見方をしており、全く異なる生を生きているということです。義郎は毎朝、学校の支度をもたつく無名に対して何とか早く終わらせられないか何か手伝えないかとやきもきしています。義郎にとって朝の支度とはどこまでもルーティンの別名でしかありません。しかし無名にとっては朝はめぐりめぐるたびにみずみずしく楽しい時間として体験されています。無名はその想像力によってありきたりな日常を生き生きと異化し、いつも世界を新鮮なものとして捉えています。
 
義郎の基準で考えると無名はどこまでも「不自由」な存在であるといえるでしょう。しかし無名自身はその身体にどこまでも「自由」な想像力で向き合っています。この点につき岩川ありさ氏は「変わり身せよ、無名のもの--多和田葉子「献灯使」論(『物語とトラウマ』所収)」という論考において「義郎たちの世代にある速さへの信奉は無名たちの世代にはない。朝起きて、ものを食べて、排泄をするといった行為のすべての「遅さ」は、何百年、何千年もの間行われてきた慣習の「吟味」によって、新たな生のあり方を生み出す」と述べています。
 
すなわち、無名はその「遅さ」によって日常という空間的内部における時間的外部に立っているともいえます。そして義郎は自分たちの世代とは異なる「不思議な知恵」を持つ無名を前にしてこれまでの人生観そのものの転換が必要だと考えるようになります。
 

* 未来は子ども騙し?

 
また無名たちの世代における性別とはあってないようなものであり、無名の通う小学校では体育の授業をはじめトイレまで男女共通になっています。いわば無名たちは性自認性的指向が身体レベルで曖昧なクィアな様態を生きていると考えられます。そして、こうした無名たちのクィアな様態は現代社会における「子ども」の位置をいわば裏側から問い直すことになります。
 
この点、アメリカのクィア理論家であるリー・エーデルマンは1998年の論文「未来は子供騙し」において現存の保守的な右派の政治にせよ、リベラルな左派の政治にせよ「明るい未来」を「子ども」と象徴的に結びつけ「未来」を「子ども」に託そうとする面で変わりがないと批判しました。さらにエーデルマンは2004年に公刊した著書『No Future』においてそうした「子ども」に「未来」を形象化する政治的イデオロギーを「再生産的未来主義 reproductive futurism」と名指しています。
 
ここでエーデルマンが批判する再生産的未来主義とは生殖が前提化された(強制的)異性愛主義、および(強制的)健常主義の言い換えであると同時に、常に人口増加による経済の拡大を期待する資本主義、特に近年の強靭で有能な経済的主体が要請される新自由主義的なそれの言い換えであると見なせます。すなわち、エーデルマンは「子ども」の形象に「未来」を託す再生産的未来主義の政治に対する抵抗としてのクィアネスを主張しているということです。
 
こうした意味で本作が描き出す無名たちのクィアな様態は再生産的未来主義的な「未来」の担い手としての「子ども」への抵抗の表象として捉えることができます。これに対して「献灯使」なるプロジェクトを推進する大人たちはまさに再生産的未来主義的な「未来」を「子ども」に託しているともいえるでしょう。
 
本作における「献灯使」なるプロジェクトは一見して日本社会における閉塞に満ちた現状を打破する希望を象徴する存在として描かれています。しかし、武内佳代氏が「多和田葉子「献灯使」--未来主義の彼方へ(『クィアする現代日本文学』所収)」という論考で指摘しているように、この「献灯使」が向かおうとしている「マドラス」がインド初の完全国内建設の原子力発電所であるマドラス原発を想起させる土地であることから「献灯使」の行先は必ずしも大人たちの期待通りの「未来」に希望をつなぐものにはなりえないものであることを暗示しているかのようにも読めます。つまり大人たちが夢見る「未来」とは文字通りの「子ども騙し」かもしれないということです。
 

* ケアの倫理と再生産的未来主義

 
本作は障害者的かつクィアな身体性を経由することで「ケア」という関係性の中に胚胎する可能性を描き出していきます。確かに義郎は無名を物理的にケアする立場にあります。しかし同時に義郎もまた、無名の「不思議な知恵」から心理的なケアを受けているともいえます。このような互いに具体的なニーズに応答し合うという2人の関係性にはまさにギリガンのいうところの「ケアの倫理」が宿っているといえるでしょう。
 
すなわち、本作ではエーデルマンのいう「再生産的未来主義」に対するオルタナティヴとしての「未来」を障害者的かつクィアな身体性を包摂する「ケアの倫理」に見出してるといえるでしょう。そしてこうした「ケアの倫理」は現代思想の文脈でいうと例えば「生成変化」や「訂正可能性」という概念からも捉えることができると思います。こうした意味で本作においては日本社会がやがて迎えることになるかもしれないディストピアとしての「未来」における希望の在り処が問い直されているといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

母娘関係の脱構築--三宅香帆『娘が母を殺すには?』

*〈母〉なるものという病理

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は『母性社会日本の病理』(1976)において、ある社会や文化の持つ特性は父性原理と母性原理という相対立する二つの原理のバランスの取り方に規定されているとして当時、急増しつつあった登校拒否症やわが国に特徴的ともいわれる対人恐怖症の背景に日本社会における母性原理の優位性を指摘しています。
 
ここでいう父性原理とはすべてのものを主体と客体、善と悪、上と下などに分類=切断していく機能を持っています。これに対して母性原理とはすべてのものを包摂していく機能を持っていますが、ここには「生み育てる」という肯定的な側面と「呑み込む」という否定的な側面があります。
 
このような母性原理における二面性は世界各国の神話や昔話の中にも聖母や魔女といった形で現れており、このことに注目したスイスの精神科医カール・グスタフユングは人の心の深層域に〈母〉なるものの元型を仮定し、このような元型を〈グレート・マザー〉と名付けました。こうした意味で日本社会における精神性はその無意識下において〈母〉なるものによって極めて強く規定されているということです。
 
こうしたことから戦後日本の文芸批評において〈母〉なるものの克服は大きなテーマでした。例えば古くは江藤淳氏が『成熟と喪失』(1967)において当時の文学的潮流のひとつを成していた安岡章太郎氏や庄野潤三氏など「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を読み解く中で戦後日本における〈成熟〉の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張しました。
 
また近年においても宇野常寛氏が『母性のディストピア』(2017)において「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本における「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託からなる仮初めの〈成熟〉を「母性のディストピア」と名指し、宮崎駿氏、富野由悠季氏、押井守氏といった戦後アニメーションの巨匠たちの作品の読解を通じて現代の情報環境の中でますます肥大化する「母性のディストピア」の解除条件を論じています。
 
もっとも従来の議論ではもっぱら「母と息子」の関係における男性的な成熟が念頭に置かれていました。しかしながら、一般的にも「娘と母の関係はこじれやすい」としばし言われるように〈母〉なるものの呪縛はむしろ「母と娘」の関係においてより強力に現れることがあります。なぜ母娘関係は複雑になってしまうのか?どうしたらこの複雑さを解消できるのか?このような問いについて小説、漫画、ドラマ、映画などざまざまなフィクションを通じて考察した一冊が本書『娘が母を殺すには?』です。
 

* フィクションの中に読み解く〈母殺し〉

本書は母娘関係を主題としたフィクションを読み解く本です。一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。そこで本書はこうしたフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が〈母殺し〉を達成するための方法を見出そうとします。
 
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう〈母殺し〉とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
 
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
 

* 成熟のプロセスとしての〈父殺し〉と〈母殺し〉

 
もちろん本書も述べるように親が子に規範を与えることは教育の過程で多かれ少なかれ必要なことであり、子どもの欲望のままにしていては取り返しのつかない事件や事故が起こる可能性があります。親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
 
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では〈父殺し〉と呼んできました。最初にこのような〈父殺し〉という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が〈父殺し〉という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
 
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を〈殺す〉必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として〈父殺し〉が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における〈母殺し〉を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
 

*〈母殺し〉の難しさ

 
もっとも〈父殺し〉と〈母殺し〉ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが〈父殺し〉の原理です。これに対して〈母殺し〉の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
 
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに〈母殺し〉の難しさがあるわけです。
 
この点、本書は〈母殺し〉の難しさの理由として「母と娘が密着しやすい構造」の存在をあげ、このような母子密着の要因として臨床心理士信田さよ子氏の議論を援用して⑴夫婦間のディスコミュニケーション⑵娘の経済的/育児リソースの貧しさ⑶母のキャリアに対する罪悪感という3点を挙げています。
 
もっとも、ここで挙げられる3つの要因はいずれも男性が家の外で働き女性が家のなかで家事や育児に従事するという専業主婦文化を前提とした戦後中流過程モデルを前提としています。ではこうした戦後中流家庭モデルが一般的なモデルではなくなった現在においては母娘密着の問題はすでに解消されているのかというと、本書はそうはなっていないといいます。
 
すなわち、現在においても母が息子に与える規範と娘に与える規範は異なっており、母にとっての娘はケアの対象というよりも自分と対等なケアの主体であり、そうした期待の視線のもと、いつの間にか母をケアする娘が誕生し、母子密着は永遠になるということです。
 

* 母娘関係の脱構築

 
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な〈母殺し〉のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ〈母殺し〉の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
 
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズ精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス(以下、AOと略)』(1972)で展開した欲望観に求めています。ここで本書は千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)におけるAO解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
 
つまり本書のいう「母娘関係の脱構築」とは位相の異なる二つの欲望観の並立であると考えられるということです。この点、千葉氏は『意味がない無意味』(2018)所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考においてこのような位相の異なる二つの欲望観を精神分析的な見地から「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」と呼んでいます。
 
ここでいう「神経症的な欲望」とはフランスの精神分析ジャック・ラカンによる「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼで示されるような間主観的ネットワークに理由づけられた欲望であり、その究極的な理由は千葉氏のいうところの〈性別化のリアル(事実上刻まれた性差のあり方)〉に帰着します。これに対して「別のしかたでの欲望」とはドゥルーズ=ガタリがAOにおいて言祝いだ理由なく多方向にどうでもよく発散する複数的な欲望に由来しています。そして千葉氏はこの両者を「メタ倒錯(倒錯の強い定義)」と呼ぶ論理によって互いに分離したまま無関係で並立する状況としてAOを解釈します。
 
すなわち、本書のいう「母娘関係の脱構築」とは精神分析的な見地からは千葉氏のいう「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望=理由なく多方向にどうでも良く発散する複数的な欲望」が互いに分離したまま無関係に並立する「メタ倒錯」として位置付けることができるのではないでしょうか。そうであれば「母娘関係の脱構築」とは母娘関係をめぐる「神経症的欲望」とは無関係に並立する「別のしかたでの欲望」を導入することで、むしろ母と娘のあいだに従来とは異なる新たな関係性を創り出す契機であるともいえます。
 
そして精神分析的な見地からさらに付け加えるのであれば、ここでいう〈父〉や〈母〉や〈息子〉や〈娘〉という概念は生物学的な性別とイコールで捉えるべきではなく、1人の人間の中に〈父〉と〈母〉が、あるいは〈息子〉と〈娘〉が共存するような状況も想定できるでしょう。さらには宇野氏が『母性のディストピア』で論じているように現代の肥大化した情報環境を〈母〉のメタファーから捉えることもできるでしょう。こうした意味で本書の議論は狭義の母娘論を超えた極めて広い射程を持っているようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

正解なき問いを考えるために--北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』

*〈セカイ系〉という想像力

 
ゼロ年代初頭のオタク系文化において一世を風靡した〈セカイ系〉という言葉があります。この言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。そこで管理人のぷるにえ氏は〈セカイ系〉とは「エヴァっぽい作品」にわずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとして、これらの作品の特徴として「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べています。
 
ここでいう「エヴァ」とは言うまでもなく1995年に放映されたTVアニメーション新世紀エヴァンゲリオン』です。端的にいえば〈セカイ系〉とはエヴァ後半で前景化した「〈私〉とは何か」や「〈世界〉とは何か」といった「自意識」をめぐる問いへの返歌であるといえます。つまり、巨大ロボットや戦闘美少女やミステリーといったオタク系文化におけるジャンルコードの中で「自意識」を過剰に語る作品群こそが本来的な「セカイ系」と呼ばれるものです。ところがゼロ年代中盤以降、文芸批評の分野において注目を集めた〈セカイ系〉は次のように再定義されることになります。
 
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群
 

 

当時、オタク系文化において大きな影響力を行使していた批評家の東浩紀氏らが中心となり発刊された同人誌『美少女ゲームの臨界点』(2004)によるこの有名な定義はフランスの精神分析ジャック・ラカンがいうところの「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(イメージと言語の外部)」の三境域から発想されており、ここで〈セカイ系〉は「組織」とか「敵」といった「世界観設定=社会(象徴界)」を積極的に排除して「きみとぼく(想像界)」と「世界の終わり(現実界)」を直結させる構造として捉えられています。
 
このような〈セカイ系〉を代表する作品として高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』(2000)と秋山瑞人氏のライトノベルイリヤの空、UFOの夏』(2001)、新海誠氏の短編アニメーション『ほしのこえ』(2002)が挙げられます。そして〈セカイ系〉に対しては「きみとぼく」と「世界の終わり」の間に本来あるはずの「社会」における複雑な現実が描けていないといった批判や「きみ(ヒロイン)」だけが「世界の終わり」に対峙させられ「ぼく(主人公)」は傍観者の位置に留まる構造は男性中心社会における搾取構造をセンチメンタルに美化しているのではないかという批判が向けられてきました。
 
こうしたことから今日において〈セカイ系〉とはすでに乗り越えられた「古い想像力」という理解がオタク系文化の圏域においても主流となっています。けれどもその一方で、疫病の蔓延や戦争の長期化や大規模災害の頻発や社会不安の高まりといった2020年代の現実は「世界の終わり」を何かしらの意味で想起させるものがあります。こうした中でデジタルテクノロジーというこれまでにない切り口から〈セカイ系〉という「世界の終わり」をめぐる想像力を問い直そうとする一冊が本書『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』です。
 

*「半透明」な感覚としての「切なさ」--デジタルテクノロジーと〈セカイ系

まず第1章「セカイは今、どこにあるのか」では導入として2020年代の現在において〈セカイ系〉というテーマを扱うことの意味と意義がデジタルテクノロジーとの関連において提示されます。この点、本書も述べるように現在〈セカイ系〉と呼ばれる作品群が多数生み出された1990年代末からゼロ年代初頭という時代はユーザーフレンドリーなGUIを備えたMicrosoftWindows95/98やAppleiMacが登場し、インターネットへの常時接続を可能とするADSL光回線の普及が進んだ時期でもありました。
 
ここで本書はこうしたPCやインターネットなどのデジタルテクノロジーがもたらした「距離が近く」なればなるほど「世界が遠く」感じられるという逆接が〈セカイ系〉と呼ばれる作品の中には再発見できるとして、先述した〈セカイ系〉を代表する3作品の中でも当時のデジタルテクノロジーの申し子ともいえる『ほしのこえ』を参照しつつ〈セカイ系〉における「デジタルテクノロジーに媒介された二者関係」という側面に注目します。
 
次に、こうした「デジタルテクノロジーに媒介された二者関係」の外側に立つ「受け手(プレイヤー)」の立ち位置につき本書はゼロ年代前半に隆盛を極めた美少女ゲーム(ノベルゲーム)が備えていた構造と東氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において提唱した「半透明」という概念を参照しつつ『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』という〈セカイ系〉を代表する3作品はいずれも「受け手」を「透明」でも「反映」でもない第三項としての「半透明」な立ち位置へと誘導する構造を備えていたといいます。
 
さらに本書はデジタルテクノロジーがもたらした「距離」と「世界」の逆接から生じる「半透明」な感覚をかつての(スペック不足ゆえに動作が不安定であった)GUIを介したコンピュータ体験の中にも見出しながら、このような「半透明」な感覚を「作品=世界」として具現化したものとして〈セカイ系〉を位置付け、その「半透明」という曖昧な立ち位置において現れる両義的な感覚を「切なさ」と呼びます。
 

*「オペレーター」としての作家--〈セカイ系〉の現在地

 
第2章、第3章、第4章では〈セカイ系〉と見做される作品を手がけた作家であり、なおかつ2020年代に入ってもそのピークを更新し続けている作家として庵野秀明氏、新海誠氏、麻枝准氏の3人がクローズアップされます。
 
まず庵野氏の代名詞的作品ともいえるエヴァは周知のように『新劇場版』として『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』(2007)で再起動し『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021)をもって完結しました。この点『新劇場版』は『序』の時点では「REBUILD」と呼ばれる旧シリーズの物語や映像を一旦素材に還元し再構築する手法が強調されていましたが、このような制作手法を用いるクリエイターを本書はレフ・マノヴィッチのメディア理論を参照し「オペレーター(ソフトウェアと協働して世界の情報を取り込み新たな形に組み替えて出力する主体)」と呼びます。
 
ここから本書はデジタル時代における「作品=世界」はいかにして作られるかという問いを『シン・エヴァ』の物語において碇シンジが断片化された「モノ」から「ヒト」へと心を修復していく過程から抽出する一方で、従来の絵コンテの代わりにプリヴィズ(コンピュータ上での画面設計)が導入された『シン・エヴァ』では「ヒト」より「モノ」が優位になる制作手法が目指されていたとして、こうした『シン・エヴァ』に示されたビジョンにこれからたどるべき〈セカイ系〉の考察の行く先もまた示されているといいます。
 
この点、現代アニメーションにおける最も優れた「オペレーター」の1人といえる新海氏は『ほしのこえ』で世に出る前は日本ファルコムというゲーム会社で『イースⅡエターナル』というRPGのオープニングムービーを手がけており『ほしのこえ』もこのようなオープニングムービーの制作手法によって本編そのものが構成されています。
 
そこで本書は大塚英志氏が新海作品を評した「レイヤーの美学」という観点から、新海氏がソフトウェア上で行うレイヤー操作はリニアな時空間を切断してそこに音声という軸を通すことにより、本来つながらないものをねじれた形でつないでしまう「AMV(Anime Music Video)」的な手法でもあるとして、ここから新海作品における「AMVの美学」を詳らかにしていきます。
 
そして新海氏と同世代の作家である麻枝氏はビジュアルアーツ社傘下のゲームブランドKeyに所属するシナリオライターであり、ゼロ年代には『AIR』(2000)、『CLANNAD』(2004)、『リトルバスターズ』(2007)というノベルゲームの名作を世に送り出し、2010年代以降は『Angel Beats!』(2010)、『Charlotte』(2015)、『神様になった日』(2020)といったオリジナルアニメのシナリオを手がけ、現在はスマートフォンゲーム『ヘブンバーンズレッド』(2022年サービス開始)の開発に注力しています。
 
この点、麻枝氏が現在手がける『ヘブバン』には「最上の、切なさを。」というキャッチコピーが掲げられています。こうしたことから本書は東氏が近年提唱する「触視的平面」の議論などを参照し「情報に触れる」というGUIにもともと内包されていたコンセプトを実装したスマートフォンのタッチパネル上において「最上の切なさ」を実現しようとする『ヘブバン』の挑戦に目を向けることは、そのまま〈セカイ系〉の現在地を探ることにつながるだろうと述べます。
 

* 「切断」としての「作品=世界」を創るということ--拡散する〈セカイ系

 
第5章、第6章、第7章ではスマートフォン/ソーシャルメディア時代における創作活動のさまざまな領域で垣間見ることができる〈セカイ系〉の思考に光があてられます。
 
ここで本書はまずソフトウェアと協働する「オペレーター」のイメージを掴むための例として「ボーカロイド」を取り上げます。この点、初音ミクをはじめ多くのボーカロイド製品を開発するクリプトン・フューチャー・メディア社でチーフプロデューサーを務める佐々木渉氏は初音ミク登場以降の創作パラダイムの変化を「ポスト・ボカロ」と呼んでいます。そこで本書は中田健太郎氏が提唱した「セカイ系的主体」というボーカロイド概念をあらゆるオペレーターとソフトウェアとの関係へと拡張し「ポスト・ボカロ」とはこうした意味での「セカイ系的主体」の実在感覚が広く浸透した世界観を指すといいます。
 
また本書はTikTokのような投稿動画プラットフォームにおける加工動画の増殖を消費社会について考察した哲学者ボードリヤールに由来する「シュミラークル」の「脱中心性」から捉える一方で、このようなシュミラークルの増殖のなかに自身に固有のものとしての「身体」の再発見しようとする運動を見出し、その「浮遊するセルフイメージ」として〈セカイ系〉に通じる「半透明」な空気感を纏う「天使」をモチーフとした音楽やファッションを取り上げます。
 
さらにここから本書は現代アート作家布施琳太郎氏によるオンライン展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)を補助線として、ここまでの考察を踏まえながら「資本主義の残骸」「アルゴリズムの外側」としての〈セカイ系〉を現代において個人が社会を一時的に「切断」する「作品=世界」を生み出すための理論へ位置付けることを試みます。
 

* 正解なき問いを考えるために--「祈り」としての〈セカイ系

 
そして最終章となる第8章「セカイに向けて響く祈りの歌」ではソフトウェアと協働しながら「作品=世界」を生み出す「オペレーター」とスマートフォン/ソーシャルメディア時代に「切断」をもたらす「作品=世界」という〈セカイ系〉における二つの主題を体現する作家として映画監督、岩井俊二氏の作品を参照しつつ〈セカイ系〉においてしばし前景化する「祈り」が論じられます。
 
先述のように〈セカイ系〉と呼ばれる作品に対しては従来からヒロインだけが「世界の終わり」に対峙させられ主人公は傍観者の位置に留まっているという批判があります。確かにある水準においてこの批判は正しいといえます。しかしその一方でこのような〈セカイ系〉の構図からは「世界の終わり」とも言いたくなるような状況において人は果たして何ができるのかというよりラディカルな問いを引き出すことができるのではないでしょうか。
 
疫病の蔓延や戦争の長期化や大規模災害の頻発や社会不安の高まりなど、いまや2020年代の現実において我々は「世界の終わり」を何かしらの意味で想起せざるを得ない時代を生きています。そしてほとんど多くの人はこの状況を事実上ただ傍観する事しかできないでしょう。ではそんな時代において人は果たして何ができるのでしょうか?
 
そのひとつの答えが「祈り」なんだと思います。不可能性の中に可能性を、暗闇の中に光明を、絶望の中に希望を見出すための営みとしての「祈り」。
 
もちろんその「祈り」の具体的なかたちは人によって異なってくるでしょう。すなわち、ある人にとっての「祈り」とは本書がいうような「作品=世界」を「作る」ことであり、別のある人にとっての「祈り」とは世界に向けて何かしらの行動を起こすことであり、また別のある人にとっての「祈り」とは世界に向けて文字通り静かな祈りを捧げることなのかもしれません。
 
果たして我々は「世界の終わり」とも言いたくなるような状況でどのような「祈り」ができるのでしょうか?こうした正解なき問いを考える上で本書はきっと良き道標を示してくれるようにも思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

承認の時代におけるデタッチメント--宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』

* 異色の本屋大賞受賞作

 
本屋大賞とは2004年に設立された比較的新しい文学賞です。書店員有志が立ち上げたNPO法人である本屋大賞実行委員会が主催する同賞の特徴はノミネート作品および受賞作が全国の書店員の投票によって決定される点にあります。
 
同賞の対象作品は過去1年間に刊行された日本の小説で、その選考方法は全国書店員が1次投票で1人3作品を選び、その上位10冊をノミネート作品として2次投票を行い受賞作を決定します。なお2次投票ではノミネート10作品を全て読んだ上で推薦理由を記載し投票する必要があります。
 
年々縮小しつつある出版業界を本を売る現場から盛り上げようという趣旨から発案された同賞はその第1回受賞作である小川洋子氏の『博士の愛した数式』(2003)が受賞後に大幅に部数を伸ばしベストセラーになったことで注目を集め、以降、年に一度の本のお祭りとして同賞は幅広く認知されるようになります。
 
また同賞の受賞作の多くが「本屋大賞受賞作」の看板を背負って映画化されており、その知名度と影響力はいまや芥川賞に匹敵します。読書人口の縮小や書店文化の凋落が危惧される昨今において同賞の持つ社会的意義は極めて大きいものがあるといえるでしょう。
 
この点、一般的な文学賞の選考は作家や批評家や編集者など広い意味での「書き手」の目線から行われていますが、本屋大賞の決定は書店員という「売り手」の目線で行われることから、そのノミネート作品の多くは中高生をはじめとする若年層や普段あまり本を読まない人にとっても親しめるような作品が選ばれる傾向があります。そして、こうした本屋大賞の受賞作の中でも極めて異色ともいえる作品が今年度の受賞作となった本作『成瀬は天下を取りにいく』です。
 

* 島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う

本作は滋賀県大津市を舞台に主人公である成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの出来事を描く本編5編と外伝的な「階段は走らない」の全6編からなる連作短編集です。本作に収録された第1編目の「ありがとう西武大津店」は『小説新潮』2021年5月号に掲載され新潮社主催の「女による女のためのR-18文学賞」で史上初の三冠(大賞、読者賞、友近賞)を達成。デビュー作となる本作は2023年3月の公刊から半年で発行部数10万部を突破しています。
 
「ありがとう西武大津店」は次のようなあらすじです。成瀬あかりは14歳の夏休み前、幼馴染の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と唐突に告げます。成瀬はこれからコロナ禍の中で閉店を迎える西武大津店に閉店日まで毎日通い、夕方のローカル番組「ぐるりんワイド」の生中継に映るので島崎にはテレビをチェックしておいてほしいといいます。
 
島崎によれば成瀬は幼稚園に通っている頃から他の園児とは一線を画しており、走るのは誰よりも早く、絵を描くのも歌を歌うのも上手でひらがなもカタカナも正確に書け、その頃は誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃していましたが、小学校に上がると1人でなんでもできる成瀬はその悪気のない振る舞いが周囲から「感じが悪い」と受け取られてしまい、5年生にもなると女子からは明確に無視されるようになります。
 
けれども本人はそんな周囲の目を全く気にすることなく、唐突に「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」などと言い出したかと思えば、その数日後には「ぐるりんワイド」 に天才シャボン玉少女として出演したりと、自身の好奇心の赴くままに日々を過ごしています。そんな成瀬の性格をよく知っている島崎は今回の「夏を西武に捧げる」というプロジェクトも「成瀬がまた変なことを言い出した」と淡々と受け止めます。
 
こうしたことから成瀬は西武ライオンズのユニホームを着て西武大津店に通いだします。途中から島崎も成り行きで「行けたら行く」のスタンスで成瀬のプロジェクトに参加します。そして夏休みが終わり2学期が始まっても成瀬は西武大津店に通い続けますが・・・
 

* 成瀬あかりという「キャラクター」が持つ強度

 
近年の本屋大賞受賞作を見るとそこには例えば壮大な医療ファンタジーである『鹿の王』(2014)やサスペンスと感動を高次元で両立させた『かがみの孤城』(2017)であったり、現代における「正しさ」の病理を抉り出す『流浪の月』(2019)や「生きる」という営為そのものに迫る『汝、星のごとく』(2022)であったりと、いずれも極めて「重厚」といえるような作品が並んでいます。
 
ところが本作を最初に読んだ時の感想は正直なところ「えっ、これで終わり?」というものでした。しかしながらいま思い返すとこの時は本作の持つ「重厚」を完全に見誤っていたと思います。すなわち、本作が描き出す「重厚」とはその「物語」ではなく、主人公である「成瀬あかり」という「キャラクター」であり、本作は極めて「重厚」な「キャラクター小説」であるように思えます。
 
ここでいう「キャラクター小説」とは東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)においてライトノベルを定義する際に用いた「私小説」に対置される概念です。氏はライトノベルを「キャラクター(潜在的な行動様式の束)」のデータベースを環境として書かれる小説として定義しています。すなわち「私」という近代的現実を写生する小説を「私小説」と呼ぶならば「キャラクター」というポストモダン的虚構を写生する小説が「キャラクター小説」であるということです。
こうした観点からいえば本作における成瀬もいささか乱暴に類型化するのであれば、綾波レイ涼宮ハルヒを足して2で割ったようなキャラクターとしてひとまずは立ち上げられています(最近の作品だとフリーレンあたりが近い位置にいるといえそうです)。もっともキャラクターの持つ強度とはその想定された行動様式の束から逸脱していくことで生じる〈じつは〉という訂正のリズムによってもたらされます。こうした意味で本作は成瀬というキャラクターをありがちなデータベース的類型から出発させつつも、物語の中で〈じつは〉という訂正のリズムを繊細に刻んでいくことによってこれまでにない唯一無二の固有名として見事に描き切っているといえるでしょう。
 

*「承認の時代」から考える

 
ではなぜこのような成瀬のキャラクターは広く共感を呼んだのでしょうか。これは現代が「承認の時代」であることを考えてみる必要があります。例えば精神科医斎藤環氏は『承認をめぐる病』(2013)においてアブラハム・マズロー欲求段階説に依拠しつつ現代を承認欲求が前面化した時代であるとして、そのような「承認」が「キャラとしての承認」である点を問題視しています。
ここで斎藤氏のいう「キャラ」とは単に「性格」だけを意味せず、個人の意志とは無関係に設定されるコミュニケーション・ネットワークにおける位置付けをいい、その特徴は学校における「スクール・カースト」のように、その位置を自分で選択することはできず、ある中間集団の中で自生的に棲み分けと属性の決定がなされた結果として得られる点にあります。
 
このような意味での「キャラ」は当該中間集団における「承認のしるし」として機能することになりますが、氏は「キャラとしての承認」を求めるとは承認の根拠を全面的に他者とのコミュニケーションに依存することを意味しており、このような形で承認を他者に委ねることは極端な流動性に身を任せることに他ならないと述べています。そしてこのような傾向は同書の公刊以降も現在に至るまでますます拍車がかかっているといえます。
 
本作においてこのような「キャラとしての承認」を体現する存在が第4編「線がつながる」に登場する成瀬の高校のクラスメイトである大貫かえでです。これまで小学校でも中学校でも常にクラスの下位グループに甘んじていた彼女は人間関係がリセットされる高校では上位グループは無理でもせめて中位グループには入りたいと願っており、入学早々それも現実的には無理そうだとわかった後でもクラス内における自分の立ち位置を、すなわちスクール・カーストにおける自身の「キャラ」を慎重に見極めていました。
 
けれどもその一方で大貫は高校の入学式に坊主頭で登校してきた成瀬に衝撃を受け、以降、彼女の挙動が何かと気になってしまいます。そんなある日、大貫はオープンキャンパスで偶然、成瀬と鉢合わせになります。なぜ坊主頭にしたのかと問う大貫に対して成瀬は「人間の髪は1ヶ月に1センチ伸びると言うだろう」「入学前の4月1日に全部剃ったから、3月1日の卒業式には35センチになっているのか、検証しようと思ったんだ」と、こともなげに答えるのでした。
 

* 承認の時代におけるデタッチメント

 
シャボン玉を極めたり、西武大津店に通い詰めたり、坊主頭から髪の伸びる速さを検証したり等々。このような一見して脈絡のないように思われる成瀬の奇矯な行動に一貫して見出せる価値基準は常に他者からの「承認」ではなく、あくまで自身の「好奇心」です。
 
では彼女はまったく他者に興味がないのかというそんなことはなく、むしろ「承認」とは無関係なところで他者と関係し、時には他者に振り回されることもあります。そしておそらく、このような絶妙なバランスに支えられた成瀬というキャラクターが持つ特異的な強度こそが「承認の時代」におけるロールモデルとして幅広い共感を呼んだのではないでしょうか。
 
かつて村上春樹氏はデビュー作『風の歌を聴け』(1979)以降のいわゆる「鼠三部作」において社会共通の規範としての「大きな物語」に距離を置く「デタッチメント」という態度を打ち出しましたが、その後「大きな物語」の凋落と「小さな物語」が乱立する「大きなゲーム」の台頭という時代の変遷に伴い、この「大きなゲーム」がもたらす「悪」と対峙する「コミットメント」へとその態度を転換したことはよく知られています。
 
けれども、いまや「承認の時代」である現代における「悪」とはむしろ「大きなゲーム」における「コミットメント過剰」から生じているといえるのではないでしょうか。こうした意味で本作はかつて村上氏がその初期において打ち出した「デタッチメント」を令和の世に相応しいかたちでアップデートを果たした作品であったようにも思えました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

言語ゲームと物語--近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』

* 壁と卵

 
2009年2月15日、村上春樹氏はエルサレム賞の受賞式において「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを行っています。同賞はノーベル賞への登竜門として知られる一方、時のイスラエル政府の強い影響下にある極めて政治色の強い賞としても知られています。当時、イスラエル政府によるガザ侵攻が国際的に非難されており、授賞式当日、壇上に登った村上氏は周囲から「受賞を断った方がいい」という少なからぬ忠告を受けたことを明かし、受賞を辞退すべきか熟考を重ねた上で、それでも自分は小説家として、あえてエルサレムに赴くことを決意したのだと告げ、次のように述べました。
 
ひとつだけメッセージを言わせてください。個人的なメッセージです。これは私が小説を書いているときに、常に頭の中に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。
 
『もしここに硬くて大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。』
 
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
 
(略)
 
こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと、かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとって硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
 
私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに搦め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試みること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。
 
村上春樹『雑文集』より)」
 

 

 

 

村上氏のこのスピーチには内外から大きな賞賛を集める一方で「壁」とか「卵」などといったメタファーに頼ったその曖昧な意見表明を批判する声や、このスピーチ自体が安易な人気取りであると断じ去る声もありました。
 
けれども、いずれにせよ「壁=システム」によって傷つけられる「卵=個人」が存在することは確かであり、少なくともこのスピーチにおいて村上氏はそのような傷を抱えた「卵=個人」に光をあてていく「ケアとしての小説」を語っているといえます。そして、こうした村上氏のいうところの「壁=システム」を「言語ゲーム」と捉え直したところで極めて斬新かつ清新な「ケアの倫理」を語る一冊が本書『利他・ケア・傷の倫理学』です。
 

* 利他とケア

そのタイトルが示しているように本書のキーワードとして「利他」「ケア」「傷」が挙げられます。まず本書は「利他」を「自分の大切にしているものよりも、その他者が大切にしているものの方を優先すること」と定義します。
 
つまり、ある個人の行為を「利他」と呼ぶにはそこに「自分の大切にしているもの」と「他者が大切にしているもの」との間の矛盾、衝突、ためらい、逡巡といった何かしらの葛藤があるということです。そして、このような「自分の大切にしているもの」の中には自身が所属してる社会における「道徳」が含まれます。
 
ここでいう「道徳」とは「してはいけないからしない」「罰せられるからしない」という外在的な規範であり、これまで先人たちによって踏み固められてきた伝統的な判断をいいます。これに対して「倫理」とは「したくないからしない」「嫌だからしない」という内在的な規範であり、これまでの前例が通用しない局面におけるカッティングエッジ(最先端)な判断です。こうして「道徳」は「倫理」としばし衝突し、そこに葛藤が生じることになります。
 
けれども人は時として他者に導かれて「道徳」に反するにもかかわらず「利他」という「倫理」を選び取ります。こうしたことから本書は「利他」の定義に「他者に導かれて」という要件を加えます。そして、このような「にもかかわらず」というねじれが他者の「信頼」を生み出すことになります。
 
これに対して、明らかな葛藤があるわけではないけれども真っ直ぐに他者へ向けられた善き行いを本書は「利他」と区別して「ケア」と呼びます。そこで本書は「ケア」を「(他者に導かれて)その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」と定義します。
 
このような「ケア」の概念に「自分の従っている規範との衝突」すなわち「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先する」という条件が加わった時「ケア」は「利他」に変わります。つまり本書の定義によれば「ケア」の部分集合が「利他」であるということです。
 

* 現代における傷の多様性

 
このように利他ないしケアを考える際に中心的な役割を果たしているものが「大切にしているもの」というキーワードです。そしてこの「大切にしているもの」をめぐっては次のような二つのアポリアがあります。
 
まず第一に社会共通の「大きな物語」が失効し価値観の多様化した現代において「大切にしているもの」は人それぞれ違うということです。そのため良かれと思って行った行為がしばし相手にとってありがた迷惑になったりハラスメントになったりします。このような行き違いの根本にあるのは「相手は私と似た存在である」という認識に他なりません。つまり逆説的ですが現代におけるケアは「私とあなたは異なる存在である」という認識から始まるということです。
 
そして第二に他者が「大切にしているもの」が何であるかは目には見えないということです。星と星をつなぐ星座が目に見えないように、ある人の過去・現在・未来の出来事をつなぐ「物語」は目に見えません。けれどもその一方で「大切にしているもの」を大切にされなかった/できなかったことは目に見えます。なぜなら大切にしているものを大切にされなかった/できなかった時、人は傷つき、その「傷」は行為や言葉の中に現れるからです。
 
こうしたことから本書は「傷」を「大切にしているものを大切にされなかった/できなかった時に起こる心の動きおよびその記憶」と定義します。ここでいう「されなかった」とは「他傷」であり「できなかった」とは「自傷」ですが、より根本的なのは後者です。例えば「サバイバーズ・ギルド」のような現象のように、人はどのような他傷も自傷へと変換してしまう認知メカニズムが働くからです。
 
そして「傷」が違えば、当然ながら施される処置も異なります。だからこそケアとは目の前にある「傷」がどのような「傷」なのかを把握するところから始まります。
 

* バフとデバフから考える

 
現代のように価値観が多様化した時代とは裏返せば「傷」も多様化した時代であるともいえます。それゆえに我々はしばし相手のために良かれと思って行った「やさしさ」が却って相手の「傷」を深めてしまうという経験に遭遇してしまいます。こうした「やさしさ授受問題」の本質を本書は「バフ」と「デバフ」というソーシャルゲーム用語を用いて整理します。
 
ここでいう「バフ」とは例えば味方プレイヤーの攻撃力を高めたり、負傷した味方を治療したりというプラスの効果をもたらすものです。逆に「デバフ」とは例えば味方の走る速度を遅くしてしまうとか、敵からの攻撃に対する防御力を弱めてしまうというマイナスの効果をもたらすものです。より端的にいえば、あるゲーム内におけるミッションの達成に資する効果が「バフ」であり、ミッションの達成を阻害する効果が「デバフ」です。
 
このような「バフ/デバフ」という観点から見た場合「やさしさ授受問題」は原理的に起こり得ません。ゲーム内部においてバフは必ずバフであり、デバフは必ずデバフになり、バフがデバフに反転することは起こり得ません。なぜならばそもそもゲームの成立条件として「ミッションの達成=良いこと」という規範が既に織り込まれているからです。
 
すなわち、我々のいう「良い」とか「悪い」とかいった価値観は我々が目下行っているゲームに依存するということです。それゆえにもし仮にあるプレイヤーにとってのバフが別のプレイヤーにとってのデバフに反転する「やさしさ収受問題」が起こりうるとしたら、それは両者がそもそも同じゲームを営んでいないということになります。
 

* ウィトゲンシュタイン言語ゲーム

 
そして現実においても人は他者と関わる以上、つねにすでに「社会」という名のゲームに投げ込まれています。ここで本書は20世紀最大の哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した「言語ゲーム」というアナロジーを参照します。
 
周知の通りウィトゲンシュタインの哲学は『論理哲学論考』(1922)に代表される前期と『哲学探究』(1953)に代表される後期に大別されます。前期の彼は言語は世界を記述するためにあると考え、全ての言語=命題はその構造を分析して世界との対応関係を定めればその真偽が定まるはずだと主張しました。
 
ところが後期になると彼は人は言語を使ってゲームをしているだけに過ぎないと考えるようになりました。『哲学探究』はそのような状況を「言語ゲーム」と呼びます。そして彼はこの「言語ゲーム」においてプレイヤーは自分がいったい何のゲームをプレイしているか理解しないままにゲームをプレイしていると主張しました。
 
人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしています。そこでは複数のゲームが複雑に重なり合っています。そのためあるゲームをプレイしていたつもりが知らず知らずいつの間にか別のゲームの中に入り込んでしまうことがあります。それゆえに人はいま自分がプレイしているゲームのルールが何であるかを原理的には理解できないわけです。これがウィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」です。
 
このように考えると、あるソーシャルゲームにおいてバフは必ずバフであるように、ある言語ゲームにおいて「やさしさ」は必ず「やさしさ」として流通します。けれども価値観が多様化して「傷」も多様化した現代においては言語ゲームもまた多様化しています。ある言語ゲームにおける「やさしさ」は別の言語ゲームにおいては必ずしもそうではありません。それゆえに良かれと思って行った行為がしばし相手にとってありがた迷惑になったりハラスメントになったりするわけです。
 
けれどもそれは同時にある他者がいまどのような言語ゲームをプレイしているかを仮に知ることができれば、その他者の行動原理が理解できるということをも意味しています。こうしたことから本書は「他者の心を知ることは不可能ではない」という驚くべき主張を論証します。
 

* 物語を訂正するということ

 
このように本書はウィトゲンシュタイン言語ゲーム論をはじめとして宇沢弘文の社会的費用論やサン=テグジュペリ深沢七郎遠藤周作村上春樹の文学作品から『ワンピース』『鬼滅の刃』といったポップカルチャーに至る様々な領域を縦横に往還しながらケアの本質についての考察を深めていきます。
 
本書には東浩紀氏が「『訂正可能性の哲学』がケアの哲学だったことを、本書を読んで知った。ケアとは、あらゆる関係のたえざる訂正のことなのだ」という帯文を寄せています。ここで東氏が述べるように本書はケアの本質を言語ゲームに内在する「訂正可能性」を引き出す営みとして捉えています。

 

 

人はつねにすでに何らかの言語ゲームに投げ入れられています。このゲームは最初こそは明確にルールが定まっていませんが、次第にこのゲームに上手く適応したプレイヤーと上手く適応できないプレイヤーに分かれていくなかで「…すべし」とか「…してはならない」などといったルールが生成されていき、やがて皆がこのゲームにおける「正解」が書かれているルールブックを求め出します。
 
このような言語ゲームを支配する硬直化したルールの体系こそが村上氏のいうところの「壁=システム」です。氏が述べるように「壁=システム」は時に個人の魂を冷たく、効率よく、システマティックに傷つけます。このままではゲームに適応できない人たちやゲームから排除されようとしてる人たちには新たな「傷」が到来することになります。
 
けれどもケアは言語ゲームそのものを書き換えてしまいます。ケアは真っ直ぐに他者の「傷」へと向かい、その人の生きる言語ゲームを、その人がこれまで生きてきた物語を事後的かつ遡及的に〈じつは〉の論理で訂正します。あなたは初めから何も間違えていない、あなたの物語は〈じつは〉こういう物語だったのだと。
 
そして物語が書き換えられる時、過去の出来事の意味付けも変わります。かつての「不正解」が「正解」に変わります。すなわちケアとは人生の「正解」を不断に創造する営みであるといえるでしょう。さらにケアとは他者に導かれて自己変容が起きるという円環的な構造を持っています。ここから本書は「未来の自分」という他者を救い出す「セルフケア」の構造を析出します。
 
このようにしてみると本書は「壁=システム」における「言語ゲーム」という構造を逆手にとり「卵=個人」の物語を〈じつは〉と再発見していく臨床知としての哲学を語る試みであるようにも思えます。かつてネオプラグマティズムを代表する米国の哲学者、リチャード・ローティは現代における哲学の使命を「会話(コミュニケーション)を継続させること」として再定義しましたが、このようなローティが語った哲学の使命は「傷」をめぐる色とりどりのコミュニケーションの場である「ケア」においてこそ、その輝きを十全に放つのではないでしょうか。