かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

正しさとことばづかい--朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』

* 分極化の時代における哲学の使命

 
西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった古代ギリシャの哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。
 
近代哲学の礎を築いたルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に認識できるか」を問い、近代哲学を確立したイマヌエル・カントは人間は何が認識できて何が認識できないのかという理性の限界を確定しようとしました。そして現代哲学においては言語やコミュニケーションの論理的な分析を主題とする分析哲学(言語哲学)が台頭することになります。
 
このように哲学はその長い歴史において中心的な主題が時代ごとに変遷してきましたが、その一方で哲学とは世界の真理を探究する学問であるという大きな前提は時代を問わず共有されてきました。しかしながら、もし仮に哲学とは世界の真理を探究する営みであるとすれば、いつの日かその真理への探究が終われば、その時点でそれ以上の「会話(コミュニケーション)」の継続は不要になるはずです。
 
ところが、このような伝統的な哲学観を問い直し、哲学の使命とは「会話」を終わらせることではなく、むしろ「会話」を守ることにあると主張したのが米国の哲学者リチャード・ローティです。そしてこのようにローティの哲学の平易な入門書であると同時にソーシャルメディア時代における公共性を再考する一冊が本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』です。
 
本書が「はじめに」で述べるように現代は「分極化」が加速する時代であるといえます。ここでいう「分極化」とは2000年代以降のアメリカにおいて民主党支持者である「リベラル/左派」と共和党支持者である「保守/右派」の間で分断があまりにも進んだ結果、それぞれが互いに「われら」「やつら」と名指し合うような政治状況を論じる言葉として登場しました。そしてこうした「われら/やつら」を決定的に分けてしまう分極化の感覚は二大政党制ではない日本においても深く浸透してしまっているといえるでしょう。
 
こうした「分極化」が加速する現代において本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』は「会話」を守ることを哲学の使命と考えたローティとともに「否応なくバラバラな世界で、バラバラなまま、しかし共に生きるために、どんなことばを使うべきなのか」を問い直していきます。
 

* 歴史主義と偶然性

ローティは当時、隆盛を極めていた分析哲学の中心地プリンストン大学でキャリアをスタートさせ、自身も長らく分析哲学的なスタイルで論文を書いていましたが、初の単著『哲学と自然の鏡』(1979)では分析哲学への反旗を翻し周囲を驚かせます。
 
ローティは同書において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々のボキャブラリー(ことばづかい)によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであるとする「歴史主義」を主張しました。
 
では真理の探究を放棄したときに哲学には果たして何ができるのでしょうか?会話(コミュニケーション)を続けることにどのような意味があるのでしょうか?『哲学と自然の鏡』で残されたこれらの問いに対してローティが自ら答える形で書かれた著作が『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)です。
 
同書においてまずローティは言語や自己や社会の「偶然性」について論じています。すなわち、人がどのようなボキャブラリー(ことばづかい)を使うかは歴史的な偶然性の産物であり、そうであればボキャブラリー(ことばづかい)によって表現される個人や、個人の集合によって構成される社会もまた偶然性の産物であるということです。
 
それゆえにローティはこうした「偶然性」の産物たる社会においては、その正しさを保証してくれるものは何もなく、そこで個人はひとえに互いを傷つけないという最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかないとします。これは『哲学と自然の鏡』でみられた「歴史主義」の徹底であるといえます。
 

* リベラル・アイロニストとは何か?

 
そして、このような言葉や自己や社会の別様の可能性に開かれた態度が「アイロニー」です。ローティはアイロニストの条件として自分がいま使っている「終極の語彙」を徹底的に疑うことを挙げています。ここでいう「終極の語彙」とは自身の行為、信念、生活を正当化する一連のボキャブラリーを指しています。そして、このような「終極の語彙」は大抵「理性」とか「人間性」などといった普遍的な言葉よりも「イングランド」とか「革命」などといった地域性を強く帯びた言葉になることが多いといわれます。
 
ローティはこうしたボキャブラリーが具体的な姿をとって現れたものが個人や社会であると考えます。このようなローティの人間観、社会観を本書は「人や社会は、受肉化したボキャブラリーである」とテーゼ化しています。
 
いずれにせよ、人はみな、自分を説明したり世界を語ったりするために自分が大事だと思う「終極の語彙」を持っていますが、その「終極の語彙」は絶対のものではなく、常に他人の「終極の語彙」の影響を常に受けており、それは常に「アイロニー」による「再記述」の可能性に開かれています。けれどもその一方で、誰もが皆がみな自分を再記述したいわけではなく、他者を勝手に再記述する行為は時として暴力的な「残酷さ」をもたらします。
 
このように「アイロニー」は自由さや風通しの良さをもたらす一方で、それに伴う「再記述」は時に「残酷さ」をもたらします。そこでアイロニストとは同時に「リベラル・アイロニスト」でなければならないとローティはいいます。
 
通常「リベラル」という言葉は「自由」とか「公正」などといった意味で用いられますが、ここでローティのいう「リベラル」とは「残酷さ」の回避という意味を帯びています。つまり「リベラル・アイロニスト」とは自らの信念は何らかの本質と必然的に結びつかない偶然性を認める一方で、社会における「残酷さ」を減少させていくこと望む人物像です。
 

* バザールとクラブ

 
ここからローティは「公」と「私」は統合する必要はないという一見奇妙とも思える主張を行います。常識的に考えれば「公」と「私」が一貫した人こそが信頼できる人であり、そうでない人は信頼に値しないように思えます。なぜローティはこのように主張するのでしょうか。
 
こうした主張をローティは「バザールとクラブ」という比喩で説明します。ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』ではなく別の論文でこの「バザールとクラブ」を老若男女問わず人種も民族も宗教も異なる人々が行き交う「バザール」で生活のために嫌な客にも作り笑いをしながら商売をしている人が一日の仕事を終えて馴染みの人々が集う「クラブ」で昼間の客の愚痴を吐くといった挿話として描き出しています。
 
ここでは公共空間としての「バザール」と私的空間である「クラブ」が対比されています。公共空間としてのバザールにおいては言いたいことが言えなかったり、作り笑いをしたりと色々としんどいことがあるけれど、そのしんどさを皆が多かれ少なかれグッと堪えていることで安全さが保たれています。一方で私的空間のクラブは言いたいことが遠慮なく言えるという魅力が確かにありますが、場合によっては差別的な言動や公共空間ではとても口にできないような言葉が飛び交う危うさがあります。
 
バザールは安全だけどしんどい、クラブは魅力的だけど危うい。その両面がどちらも「いいとこどり」はできないものとしてこの挿話では描かれています。人が生きる上で生活のためのバザールも息抜きのためのクラブもどちら必要ですが、それゆえに両者は別々に分かれていなければならないということです。
 
このように「公(バザール)」と「私(クラブ)」は別々かつ同時に存在しなければならず、決して統合されてはならないとローティはいいます。なぜならば「公」と「私」を統一しようとする態度は「公」だけが絶対的に正しいという立場にせよ「私」だけが絶対的に正しいという立場にせよ、いずれも人々の会話を終わらせることを目的とした営みであり、これは「リベラル」が避けるべき「残酷さ」に他ならないからです。つまり「残酷さ」を避けるという「リベラル」の目的を実現するためにも公私を一致させるという理想を棄て去るというアイロニズムが必要となってくるということです。
 

* 正しい建前と正しくないかもしれない本音

 
一方でこのバザールとクラブの話には比喩であるがゆえの限界もあります。現実の社会においては公共空間と私的な空間はこのようにきれいには分かれておらず、実際のところはひとつの時空間が同時にバザール性とクラブ性をグラデーション的に持っていることが多いでしょう。
 
ではこの比喩は無意味なのかというと、もちろんそんなことはなく、その眼目はむしろ一人の人間の中に「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」があり、その二つは矛盾しているかもしれないけれども、それでもその人のなかで併存していてよいのだという点にあります。
 
こうしたことからローティは時と場所によって、この「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」を人は使い分けてもよい、むしろ使い分けた方がよいと主張します。この観点からいえば公の立場にある人が何かしらの問題発言をした場合、問題とすべきはその人の思想信条ではなく、私的な場(=クラブ)ではなく公共的な場(=バザール)でそんな発言をした点にあるといえるでしょう。
 
こうしたローティの提言は公共的な安全と私的な欲望をともに尊重するものであるといえ、残る問題は本書がいうように、どこを「公共的」「私的」な場と認定するかにあります。さらにこの問題はあらゆる場所がパブリックな空間として認定される傾向にある現代においては、いかに私的空間や私的ボキャブラリーを確保するかがむしろ課題ではないかという視点を浮上させることになるでしょう。
 
さらに本書はこの「バザールとクラブ」というローティの比喩自体の公共性を問い直します。この比喩は具体的には中東のクウェートのバザールとイギリスの会員制紳士クラブを念頭においているようですが、多様なものが渦巻くカオス的な状況の比喩として中東のバザールを持ち出すことは西洋の目で東洋を固定的に描くオリエンタリズムとも無縁でないでしょう。それゆえに、ここから「多様性の比喩として中東のバザールを持ち出していいのか」と問うこともまた、ローティ的な哲学の営みであると本書は述べています。
 

* われわれの拡張としての連帯

 
ではどうすれば我々はリベラル・アイロニストとして「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのでしょうか。ローティはその手がかりを小説のようなフィクションやエスノグラフィ、あるいはジャーナリズムに求めています。このような理論ではなく感情に訴える文芸や報道にこそなしうる役割をローティはのちに「感情教育」と呼んでいます。
 
またフィクションには我々の中にある「残酷さの芽」というべきものに意識を向けさせる役割を担っているとローティはいいます。つまりフィクションは悲惨な出来事を描くことで被害者への共感性を育むことができると同時に我々が「加害者にもなりうること」への想像力の醸成にも役に立つということです。そしてこうした共感性や想像力こそが「われわれの拡張」としてのローティいう「連帯」を可能にする条件となります。
 
ローティのいう「連帯」とは、例えば「理性」とか「国家」とか「人権」などといった普遍的(に見える)特定の原理によって基礎付けられるものではなく、個別の人間が抱える苦しさや痛みに対する共感性や想像力といった小さな断片たちを手がかりに創り上げられるものです。
 
すなわち「われわれ」は「同じ」だから連帯できるのではなく、むしろ「われわれ」の「違い」から連帯が始まるのであり、換言すれば「偶然性」に規定された「われわれ」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「われわれの拡張」として結果的に「連帯」が生じるということです。ここで「偶然性」「アイロニー」「連帯」が全てつながってくることになります。
 
『偶然性・アイロニー・連帯』における中心的なテーゼを端的に表すのであれば、日々の「ことばづかい」を変えることによって人は変わり、世界も変わるということです。こうした「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションをローティはのちに「文化政治としての哲学」と呼ぶようになります。このような「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションの実践こそが真理の探究を放棄した後の哲学に課された使命であるということです。
 

* 動物化する公共圏

 
こうしたローティの哲学を一貫して評価するのが東浩紀氏です。例えば『一般意志2.0』(2011)において氏は従来は私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基盤となり、逆にいままでは公的であった精神的な自己完成や自己陶治こそが私的領域に閉じ込められるというローティの描く逆転の構図を同書が提示する大衆の私的な行動(データベース)が情報技術により集約化/可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約するという「一般意志2.0」の構図と重ね合わせて論じています。
 
また『観光客の哲学』(2017)においては公的な振る舞いと私的な信念の分裂を受けれるべきだというローティの提案を同書が提示する「動物」と「人間」の層に分裂した「二層構造」と重ね合わせ、ローティの提案はそのような分裂を「アイロニー」で縫合する試みであったと捉えます。
 
そして『訂正可能性の哲学』(2023)では「偶然性」に規定された「われわれ」から出発しながら、その共感性や想像力の範囲をいくらでも拡張していくことができるというローティの思想を同書が提示する「訂正可能性」に規定された共同体としての「家族」の構成原理である「強制性」「偶然性」「拡張性」と重ね合わせています。
 
このようにローティのいう「公」と「私」の分裂は東氏のいう「動物」と「人間」の分裂と重なり合っています。この点、普通は「人は人間であると同時に動物である」という時、およそ「人間」が公的な領域に割り振られ「動物」が私的な領域にそれぞれ割り振られがちですが、東氏は動物的な振る舞いこそが公的な領域を創り出し、人間的な信念は私的な領域に囲い込まれるという逆転から、動物的な連帯による人間的な対立の「訂正可能性」という理路を提示します。
 
さらには「正しい建前(=公)」と「正しくないかもしれない本音(=私)」を時と場合で使い分けた方がいいというローティの哲学を実際に運用する上で東氏のいう「訂正可能性」という視点は不可欠であるともいえるでしょう。少し考えればわかるように、これまでずっと「クラブ」だと思い込んでいた場所がある日突然「じつはバザールだった」というように遡及的に「訂正」されてしまう事態はいつでも起こり得るからです。こうした意味でこの社会とはバザール性とクラブ性が常に揺らぎあう訂正可能性を孕んだ時空間であるといえるでしょう。
 

* 正しさとことばづかい

 
本書は第1章から第5章にかけてローティの哲学を概観していきます。そして最終章である第6章においては現代における「リベラル」のあり方を論じています。日本ではこの10年、左派あるいはリベラルと呼ばれる勢力が退潮し続けています。インターネット上でもリベラルへの反発は年々激化しています。本書もまた、こうした現状認識から出発します。
 
よくあるリベラルに対する批判的言説として、リベラルを自認する人間は自分達の側に無謬の「正しさ」があることを前提としており、こうした「正しさ」から現実の「正しくなさ」を見出しては一方的に糾弾し、裁く権利を有しているかのような傲慢な振る舞いをしているというものがあります。ソーシャルメディア上で「ポリコレ」とか「キャンセル」などといった表現を用いてなされる非難はだいたいこうしたロジックに基づくものであるといえます。
 
これに対して本書はローティと共にこうした「正しさ」に依拠した「いわゆるリベラル」とは一線を画した「ことばづかい」に重きをおく「リベラル・アイロニスト」としての「リベラル」のあり方を提示していきます。
 
分極化したバラバラな世界を生きる我々はさまざまに異なる「正しさ=正しくなさ」を踏まえながらも、それでも共に生きていくための仕組みと、個々人としての都度の振る舞いを考えていかなければならず、そしてそれは唯一絶対の「正しさ」に収斂されることのない、どこまでも終わりのない営みとなります。
 
こうした本書の提示する「リベラル」とは、何かしらの特定の立場や思想ではなく、日々の「ことばづかい」を問い直しながらも、こうしたバラバラで色とりどりな道なき道を一歩一歩確かめながら歩もうとする姿勢、あるいは生き方であるといえるでしょう。こうした意味で本書は平易なローティの入門書であると同時に「リベラル」という「ことばづかい」の「訂正」を試みる一冊であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから加速主義へ入門するためのおすすめ5冊

* 加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義(木澤佐登志)

⑴ 異色の哲学者
 
近年、テクノロジー関連の言説、現代思想の領域、さらには政治的な議論において「加速主義 Accelerationism」という言葉がよく見受けられるようになりました。この「加速主義」を大まかに定義するとすれば「現存する社会システム、特に資本主義が持つ内在的な傾向やダイナミズムを、意図的に『加速』させることによって、現在の社会システムそのものの質的変容、あるいはそれを超えた新しい社会システムの到来を目指す」というものです。
 
この大まかな定義からもわかるように加速主義は単一の教義やイデオロギーを指すわけではなく、その「加速」の対象、目的、方法論、そして倫理的評価は論者や文脈によって大きく変わってきます。ある人にとってそれは人間の解放へと向かうユートピアへの道であったり、別の人にとってそれは人間の終焉へと向かうディストピアへの道であったりもします。
 
こうした「加速主義」という潮流を近年のシリコンバレー界隈で注目を集める「新反動主義」という切り口から概説する一冊が本書『加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義』です。ここでいう「新反動主義」とは反民主主義を徹底し統治の効率性を追求したリバタリアニズムの一形態を指しています。
 
本書はまず第1章でこの「新反動主義」の形成に寄与したと思われる重要人物としてPayPal創業者、ピーター・ティールを取り上げた後、第2章で「新反動主義」の中心人物であるカーティス・ヤーヴィンの思想を紹介する「暗黒啓蒙」というテクストに注目します。このテクストの著者こそが加速主義の始祖と目されるイギリスの哲学者、ニック・ランドです。
 
第3章ではこの異色の哲学者の経歴と思想に光が当てられます。ランドは1987年から1998年までの約10年間、イギリスのウォーリック大学で教鞭を取り、専門は主に大陸哲学とフランス現代思想で1992年には『絶滅への渇望』というジョルジュ・バタイユをテーマとした著作も執筆しています。ランドは1989年に発表した最初期のテクストにあたる「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において現代にまで至る西洋列強の植民地主義による第三世界に対する経済的搾取は近代のあり方そのものと深く関わっているとして、その思想的淵源をイマヌエル・カントの超越論哲学に求めています。
 
カントが創始した超越論哲学の要諦とはすなわち、我々は対象(=他者)を直接認識しているのではなく、対象の「表れ」を認識しているに過ぎず、それゆえに対象(=他者)はそれ自体(=物自体)としてありのままに認識することは不可能であり、主観側の総合作用によって表象として現象することになります。これがランドのいうところの「抑制された総合」という作用です。つまりランドによればカントによる「抑制された総合」とは他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、そうである限りで近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったとみなされます。
 
そしてランドは同論文においてこのグローバルな帝国主義システムを内破させる潜勢力を「フェミニストの効果的な暴力」に見出しており、同論文は「この近代の終わりに到達するために、我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という言葉で締め括られます。ところが以降のランドの仕事においてこのフェミニズム的暴力という主題は徐々に後景に退き、代わりにランドは近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになります。
 
⑵ 脱領土化とシンギュラリティ
 
1990年代に入るとランドはカント主義を乗り越えるための参照項をポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著である『アンチ・オイディプス』に見出します。1968年に起きたパリ5月革命の影響下で書かれた同書でドゥルーズ=ガタリは西洋近代の成果物である精神分析におけるエディプス・コンプレックスと呼ばれるセントラル・ドグマを批判し、代わりに無意識における多様な欲望の流れと相互接続を肯定する分裂分析を打ち立てました。
 
この点、ランドは同書における「脱領土化 Deterritorialization」と「再領土化 Reterritorialization」という対概念に注目します。ここでいう「脱領土化」とは解体のプロセスであり、例えば資本主義における資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体などを指しています。これに対して「再領土化」とは総合のプロセスであり、例えば資本の再配分に基づく福祉資本主義などは一旦、脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みといえます。すなわち、現代のグローバルな資本主義システムと国家システムはこのような脱領土化と再領土化の反復によって維持されているということです。
 
ランドはこの「脱領土化」と「再領土化」という対概念において「脱領土化」のみを徹底的に推し進めるべきであるという立場を取ります。「カント、資本、そして近親相姦の禁止」における「抑制された総合」とはドゥルーズ=ガタリの「再領土化」とある程度符合すると本書は述べます。すなわち、再領土化あるいはカント主義に規定された近代を解体するためにはあらゆる限界を突き抜けて未来の果てまでも加速しなければならないというのがランドの立場であり、同時にこの点においてあの「暗黒啓蒙」における「生物工学の地平」が現れることになります。
 
こうしたことからランドは1994年に発表した「メルトダウン」において未来から到来する〈外部〉としての〈シンギュラリティ(特異点)〉が国家、民主主義、ヒューマニズム等々の近代的秩序を溶解させていくさまを黙示録的な筆致で叙述していきます。
 
神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、惑星規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を堕落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が招来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータ(xenodate)をハックするのを待っている。
 
(ニック・ランド「メルトダウン」)
 
⑶ CCRUという実践
 
そして、このような主体を構成するあらゆる体制の「脱領土化」を推し進めるというランドの哲学的プログラムの実践のうちの一つが「サイバネティック文化研究ユニット Cybernetic Culture Research Unit:CCRU」における活動です。
 
CCRUとは1995年にランドが公私ともにパートナーであったサディ・プラントと共にウォーリック大学の哲学部内に設立した大陸哲学やSFやオカルティズムやクラブカルチャーなどを学際的に横断する研究組織です。このCCRUは後に批評家として活躍することになるマーク・フィッシャー、思弁的実在論で知られることになるイアン・ハミルトン・グラントとレイ・ブラシエ、kode9名義で音楽家として活躍することになるスティーヴ・グッドマン、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めることになるロビン・マッケイなどが参加しています。
 
けれど設立から2年後の1997年には共同設立者のサディ・プラントがウォーリック大学を退職し、大学当局からもその存在を煙たがられていたCCRUはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に活動拠点を移し、その外界から隔絶されたラボでアレイスター・クロウリーの魔術、数秘学、ヴードゥー教、ラヴクラフトといった擬似カルト的な思索に耽ることになります。こうしたCCRUの哲学的実践はアカデミズムの内部ではなくむしろその外部において影響力を持っていました。
 
他方でランドは自身の「解体」のプロセスを着実に加速させていき、睡眠も取らず使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら数秘術めいた数学実験にのめり込んでいきます。ロビン・マッケイはこの時期のランドを回想して「端的に言って彼は発狂したのだ」と総括しています。
 
やがて度重なる不眠と身体的疲労によって自身を消尽させていったランドは1998年、大学を辞職して上海に移住してしまいます。ある意味でアカデミズムと西洋近代からの二重のイグジットです。そしてゼロ年代に入るとランドは上海在住のジャーナリスト兼ブロガーとして再び現代思想シーンの表舞台に返り咲くことになります。
 
⑷  悪くなればなるほど、良くなる?--加速主義、その可能性の中心について
 
本書が第4章で述べるように、このようにランドが90年代に展開した黙示録的な思想はやがて「加速主義」という名前が与えられる事になります。この加速主義という造語を命名したのは批評家のベンジャミン・ノイズであり、2010年の著書『The Persistence of the Negative』で彼は加速主義を「もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる。我々はこの傾向を加速主義と呼ぶ」と定義づけています。
 
ところがノイズはこのランド的加速主義を身も蓋もなく「大学院生の病」であると総括しています。つまり、これから否応なく資本主義リアリズムの世界に放り出される大学院生たちにとって「資本主義を加速させよ」と呼びかける加速主義はある種のストックホルム症候群(防衛本能による無意識的な加害者への連帯や共感)をもたらすイデオロギーとして作用するということです。
 
これに対して本書は以上のような加速主義の現代的潮流を概観する中で「加速主義、それは未来のユートピアをもはや純粋に信じることができない現代の私たちのためのユートピア思想なのだ」と述べます。すなわち、加速主義とは冷戦構造の終焉により共産主義の最終的破算と新自由主義のグローバルな勝利が確定し、もはや「大きな物語(リオタール)」はありえず、未来の可能性を喪った「歴史の終わり(フクヤマ)」のただなかにおいて、共産主義とは別のかたちで未来を思考するとはどのようなことかを問うた「共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想」であるということです。
 
そして本書は〈増補新版〉に追加した第5章において、いまやミームと化した加速主義における「可能性の中心」として「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せえざるを得ない『脱階層化のプロセス』を加速させる」ことを挙げていますが、ここでいう「脱階層化」とは資本家/労働者といった「階級」に限定されない、文字通りの意味におけるあらゆる階層型システムに適用されるものとされます。
 
確かにランドにしてみてもそもそもは西洋近代を規定したカント主義における自己/他者という階層型システムからの脱領土化=脱階層化を企てる思想から出発したわけです。そうであれば、加速主義という思想とは(少なくとも初期ランド的な発想からすれば)「資本主義を加速させよ」という単なるアジテーションというより、むしろそのプロセスを通じてあらゆる階層型システムの脱領土化=脱階層化を志向する思想として理解できるのではないでしょうか。そしてこのような脱領土化=脱階層化という「可能性の中心」こそが加速主義という思想に様々に立場を異にする多くの人々が魅了され続けてきた所以のようにも思われます。
 

* 現代思想2019年6月号 特集=加速主義

⑴ 左派加速主義の登場
 
先述のように1990年代にニック・ランドが展開した思想はやがて「加速主義」と呼ばれるようになります。2010年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで「加速主義」をめぐるイベントが開催され、このイベント後に「加速主義」という名は一気に広まることになります。2014年に出版されたアンソロジー『加速主義読本』の序論において同書の編集者であるロビン・マッケイとアルメン・アヴァネシアンは「加速主義」を次のように定義しています。
 
加速主義は政治的異端である。その主張はこうである。資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、それを中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである
 
(『加速主義読本』より)
 
要するに「加速主義」の主題は資本主義社会にいかにコミットメントするかにあり、その戦略の特徴は資本主義の矛盾を批判したり抑制しようせず、むしろ資本主義のプロセスをさらに「加速」させることでその〈外部〉へ突き抜けようとする点にあります。もっとも何をもって〈外部〉と見做すかは加速主義者の間でも大きな対立があります。本書『現代思想2019年6月号 特集=加速主義』はこのようなランド以降から2010年代までの加速主義の動向と論点を深く知る上で今なお有益な一冊といえます。
 
2010年代において形成された加速主義の分派のうちの一つが「左派加速主義」です。左派加速主義の代表的な論者であるニック・スルネックとアレックス・ウィリアムスは2013年にオンラインで発表した「加速派政治宣言」において2011年のオキュパイ運動に象徴されるローカルな政治的直接行動を素朴政治として批判し、来るべきポスト資本主義に向けてテクノロジーの発展を明確なビジョンのもとでコントロール可能な形で加速させる「加速主義政治」が必要になると主張します。
 
同時に彼らはランド流の黙示録的な加速主義とも距離を置き、2015年に上梓した『未来を発明する:ポスト資本主義と労働なき世界』においては⑴ロボットやAIの発展による製造の全的オートメーション、⑵それに伴う労働時間の漸進的削減、⑶市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入、⑷労働倫理の衰退といった社会変革によって人間が労働から解放された「ポスト労働の世界」という〈外部=未来〉が提示されます。
 
彼らにとってテクノロジーはそれ自体が善でも悪でもなく、それをどのような社会的目的のために、どのような政治的ヘゲモニーの下で用いるかが問題になります。彼らはテクノロジーの潜勢力を最大限に引き出すことで、より自由で平等な社会を構築するための「対抗ヘゲモニー的」なプロジェクトを推進すべきだと訴えます。このように左派加速主義はテクノロジーに対する楽観的な視点とそれを社会変革の戦略的ツールと見做すプラグマティックな姿勢を特徴としています。
 
⑵ マーク・フィッシャーと資本主義リアリズム
 
左派加速主義を語る上で避けて通れない思想家としてマーク・フィッシャーが挙げられます。フィッシャーは90年代にはランドのCCRUに所属しており、その問題意識を共有しつつも左派的な立場から一貫して新たなコミュニズムの可能性を探り、スルネックらに大きな影響を与えました。フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べています。
 
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものです。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指しています。
 
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものです。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入です。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態でした。
 
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものです。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べます。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができます。
 
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈外部=未来〉を想像する能力を喪失することになります。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになります。
 
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れます。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されています。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていたのでした。
 
⑶ 加速主義の現代的展開
 
その一方で、ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対しては明確に批判的な立場を取ります。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えますが、ランドからすれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーの加速は不可能であるとします。もっともランド自身も90年代と微妙に思想的立ち位置を変えており、ヤーヴィンの新反動主義を支持する現在のランドの立場はいわば「右派加速主義」と呼べるものです。
 
さらに現代において加速主義はさらに多様なバリエーションや解釈が生まれています。例えば「無条件加速主義 Unconditional Accelerationism:U/Acc」は90年代のランド思想とCCRUへの忠実な回帰を志向し、資本主義がテクノロジーが結びつき自己増殖していくプロセスをいかなる人間的な価値判断や目的からも切り離し、無条件に加速させることを主張します。それは人間の制御や理解を超えた純粋な技術的プロセスへの没入を志向するある種のニヒリズムといえます。
 
また「ジェンダー加速主義 Gender Accelerationism:G/Acc」や「ゼノフェミニズム Xenofeminism:XF」といった潮流はフェミニズムの視点からテクノロジーと加速の概念を捉え直し、既存のジェンダー規範や家父長制的構造を解体し、テクノロジーを用いて新たな身体性やアイデンティティの可能性を追求しようとします。これらは左派加速主義の解放のポテンシャルをジェンダーという特定の領域で先鋭化させようとする試みであるといえます。
 
さらに加速主義的なテーマや感性は現代アート、音楽、文学、映画といった様々なカルチャーの領域でも表現されることになります。こうしたことから加速主義は単なる哲学的な潮流にとどまらず、現代社会の複雑な動態とそれに対する多様な応答の総体として捉えるべきであるといえるでしょう。
 

* ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学(岡本裕一朗)

⑴ 加速主義と思弁的実在論
 
14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきましたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していました。ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自明性を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき事態を招来することになります。
 
本書『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学』(2021)はこうした「ポスト・ヒューマニズム」を体現する思想として加速主義とともに「思弁的実在論 Speculative Realism:SR」と呼ばれる哲学的潮流を位置付けます。そして後述するように、この両者は極めて密接な関係を持っています。
 
「思弁的実在論」とは狭義には2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行われた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端として主にインターネット上で急拡大した哲学的潮流を含んでいます。
 
周知のように「実在論」とは哲学的には「観念論」と対立する概念です。すなわち、人間が事物を認識するとき心の中に何かしらの「観念」を抱くことになりますが、その「観念」とは独立した事物の存在を肯定するのが「実在論」であり、これに対して「観念」とは独立した事物の存在を否定するのが「観念論」です。
 
そして「思弁的」とは「反常識的」であることを意味します。つまり「思弁的実在論」とはこの世界を構成する事物の「実在」を「思弁的」といえる反常識的な理路によって捉え直そうとする新種の実在論ということになります。
 
もっとも「思弁的実在論」という名称はこのワークショップ向けの妥協案として選択されたものであり、その内部においてそれぞれの論者の主張は大きく異なっており、その後、数年も経たず彼らは内部分裂してしまいます。この点「思弁的実在論」という名称を提案したブラシエは2011年のインタビューで「『思弁的実在論』なるものは、私が全く共感を抱かないアジェンダを掲げるブログ執筆者たちが抱く妄想の中にしか存在しません」と語っています。
 
こうして現時点から振り返ると「思弁的実在論」とは学派やグループではなく2007年の開催されたワークショップの「イベント名」と理解した方が適当かもしれないでしょう。結局のところ彼らは「思弁的実在論」という名の下で果たして一体、何を目指していたのでしょうか。
 
⑵ 相関主義批判
 
思弁的実在論において共有されていた問題意識とは端的にいえば「相関主義批判」にあります。「相関主義」とは一般的に思弁的実在論の代表格とみなされるメイヤスーがその著書『有限性の後で』(2006)において使った言葉であり、ハーマンは同じ意味で「アクセスの哲学」と呼んでいます。
 
この点、メイヤスーによれば近代哲学を確立したイマヌエル・カント以後の哲学はすべて--現象学であれ分析哲学であれポストモダニズムであれ--いずれもカントのいう「物自体(客観世界)」にはアクセスが禁止されており、メイヤスーのいう「思考と存在の相関(主観世界)」のみにアクセスが可能とされていたといいます。そして彼はこうした「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」を持つカント以後の哲学を「相関主義」と名指しました。
 
そして、メイヤスーは「相関主義」は非合理な「信仰主義」の拠点になるといいます。要するに不可視の「物自体」の位置に非合理なテーゼを勝手に代入して、まさにそれこそが世界の真実であるなどと主張する陰謀論に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的相対主義がもたらされることになるということです。それゆえにメイヤスーは今日における常識的な自然科学的世界観を擁護するには「相関主義」を超克する必要性があると訴えますが、その理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなっています。
 
この点、メイヤスーは相関主義をスペクトラム的に捉える議論を展開しています。具体的にいえば「素朴実在論(我々の精神から独立した世界が存在するという立場)」と「思弁的観念論(我々の精神が世界のすべてを包摂するという立場)」を両極として、その中間に「弱い相関主義(カントのように「物自体」を認識はできないが思考はできるという立場)」と「強い相関主義(ハイデガーやウィトゲンシュタインのように「物自体」を認識もできなければ思考もできないという立場)」という二つの相関主義を位置付けています。
 
そして、メイヤスーは「強い相関主義」における「思考=世界」の「事実性(非理由律)」を経由することで「絶対的なもの(他のものとは独立にそれ自体が存在するということ)」としての非相関的な世界を想定し、このような理由も必然性もない「ただあるだけ」のこの世界は数理的思考によってのみ記述可能であると主張しました。
 
このようにメイヤスーは世界の揺るぎない客観性を数学をはじめとした科学的言説に依拠する一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、この世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出すことになります。いわばメイヤスーは(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高次元での相対主義をもって対抗する理論を提出しているといえるでしょう。
 
⑶ 自然・根源・オブジェクト--思弁的実在論の諸相
 
2007年に思弁的実在論のワークショップが開催された当時はもっぱらメイヤスーに注目が集まり、メイヤスーの考えが思弁的実在論の共通見解かのように理解されがちでした。しかし先述のように思弁的実在論の名を掲げる各論者の見解は鋭い対立を孕んでいます。以下、他の論者の見解の概要を示しておきます。
 
まずレイ・ブラシエ。彼の思想のキーワードは「自然主義」と「ニヒリズム」です。ここでいう「自然主義」とは要するに認知科学をはじめとする自然科学に基づいて哲学を進めるという態度です。そしてこの「自然主義」が世界から「意味」とか「価値」を剥ぎ取った「ニヒリズム」としての「実在」を極大化させることになります。
 
次にイアン・ハミルトン・グラント。彼の思想のキーワードは「自然」です。もっともグラントのいう「自然」とはブラシエのような自然科学的な意味での「自然主義」ではなく、思考に先立ちかつ思考を生産する根源的な存在としての「自然」を指しています。こうした意味でグラントの実在論はメイヤスーのスペクトラムでいう「思弁的観念論」にかなり近い位置にあります。
 
そしてグレアム・ハーマン。ハーマンは思弁的実在論のスポークスマンとしてメイヤスーとは違った形で注目されてきました。この点、ハーマンは彼独自の哲学を「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と呼んでいます。ここでいう「オブジェクト」とは「(主観と関係する)対象」というよりも端的な「(主観と無関係な)モノ」といった方が良いでしょう。すなわち「オブジェクト指向存在論」とはいわば「モノに定位した存在論」であるということです。
 
こうしたことからハーマンはメイヤスーと逆にカントの「弱い相関主義」を評価します。ハーマンはカントのいう「物自体」を「モノ」の独立性や超越性として位置付けており、さらにここでいう「モノ」とは創作物や概念としての「モノ」も含まれています。こうした色々な「モノ」に定位することでハーマンは人間と世界が「主観とその対象」といった形で関わるのではなく、いろいろな「モノ」たちが存在し、そうした「モノ」たち同士がさまざまに関係したり関係しなかったりする状況を想定します。
 
すなわち、あらゆるモノは本来、人の意識に決して現れることなく、一つ一つ絶対的にバラバラに存在しており、それ自体の中に引きこもっている=退隠しており、そして、その無関係性こそが本来の一次的なもののあり方であり、関係性というのは二次的で現象的なものに過ぎず、まさに世界を構成するひとつひとつのモノが他からアクセスできない孤独な闇であり、世界は様々な異質な闇によって構成されているということです。
 
こうしてみると四者四様、見事にその主張はバラバラであり、むしろ何で一時期でも活動を共にしていたかが不思議なくらいにも思えますが、いずれにせよ思弁的実在論がかろうじて共有していたテーマである「相関主義批判」はいわば「人間との相関物としての世界」の破棄を志向しており、こうした意味で思弁的実在論は従来の「人間中心主義」としての「ヒューマニズム」への根本的批判となる「ポスト・ヒューマニズム」の哲学を提示しようとしていたといえるでしょう。
 
ではこうした思弁的実在論は加速主義といかなる関係に立つのでしょうか。まず、2007年のゴールドスミス・カレッジのワークショップに登壇した4名のうち、ブラシエとグラントは先述のようにかつてはCCRUのメンバーであり、ランドの思想から大きな影響を受けています。
 
そしてランドによれば先述のようにカント以降の哲学スキームにあっては、我々は「物自体」を認識できないことになっています。すなわち、我々がアクセスできるのは概念的なカテゴリーや論理形式を通じて主観の上に構築された表象のみであり、このようなアプリオリに条件づけられた認識論的枠組みを指して「超越論的なもの」と呼ばれます。
 
換言すれば我々は事物のあり方それ自体を直接問うことはできず、問うことができるのは我々の超越論的な思考の枠組みと、事物がそれに従ってどのように現象するかといった表象作用のみとなります。このような事物は超越論的なものと関わる限りで問題化することができるという立場を相関主義という。
 
こうした議論はすでにランドの「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において部分的に先取りされてきたとも言えるでしょう。ランドによればモノを認識に従属させるカントの超越論哲学においては他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化されることにあり、こうしたカント的な相関主義は外部を際限なく内部に繰り込んでいく帝国主義とグローバリズムとも軌を一にするものであるということです。つまりランドと思弁的実在論は両者ともいかにこの相関的循環の外部に抜け出て、物自体=未知の他者と遭遇するかという問題意識を共有しているといえるでしょう。
 

* 21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング(樋口恭介)

⑴ 効果的加速主義と効果的利他主義/長期主義
 
本書『21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング』(2026)は望ましい未来を構想する「未来学」の観点から、現代社会におけるテクノロジーの急速な進展とそれがもたらす未来像について主に加速主義とプルラリティという二つの大きな思想的潮流が考察されます。今年(2026年)公刊された本書は2020年代における加速主義の動向を俯瞰的に知る上でも最適な一冊であるといえます。
 
加速主義の2020年代における潮流として近年、シリコンバレーを中心とするテクノロジー業界で急速に注目を集め一種のムーブメントになりつつあるのが「効果的加速主義 Effective Accelerationism:e/Acc」です。このe/accはその名が示す通り、ニック・ランド的な加速主義の思想的影響を受けつつも、より「効果的」かつ実践的な形でテクノロジーの進歩を推進し、社会変革を実現しようとする潮流であり、AI技術、特に汎用人工知能(AGI)の急速な発展を背景にそのポテンシャルを最大限に引き出すことを最重要課題として、規制や倫理的懸念に対してはしばしば批判的な立場を取ります。
 
e/accという言葉は2022年ごろからソーシャルメディア上で広がり始め、匿名あるいは半匿名のインフルエンサーたちによって精力的な議論が展開されています。その思想的背景にはシリコンバレーに長らく根付いてきた技術ユートピア主義やトランスヒューマニズムやリバタリアニズムといった要素が複雑に絡み合った特有の精神風土が色濃く反映されています。これらの思想は従来、シリコンバレーの起業家精神やイノベーション文化と結びつき「カルフォルニアン・イデオロギー」とも呼ばれる独特の価値観を形成してきましたが、e/accはこれらの既存の価値観を継承しつつ、特にAI技術の飛躍的進展という新たな文脈の中でそれらをより先鋭化させたものであり、その究極目標は宇宙への進出とシンギュラリティの早期実現にあるとされています。
 
こうしたe/accと対立関係にあるのが「効果的利他主義 Effective Altruism:EA」という立場です。EAは21世紀初頭にピーター・シンガー、トビー・オード、ウィリアム・マッカスキルといった哲学者たちを中心に提唱された思想ないし社会運動であり、その核心的な理念は理性とエビデンスに基づいて、世界を最も効果的に良くする方法を考え抜き、それに則って行動するというものです。その哲学的根源の一つにはジェレミー・ベンサムやジョンスチュアート・ミルによって体系化された功利主義があります。功利主義は行為における道徳性をその行為がもたらす結果(特に幸福の総量や苦痛の軽減)によって判断しようとする考え方ですが、EAはこの功利主義的な発想を現代的課題に応用する試みであるといえます。
 
EAが特に焦点を当てる問題領域は大別して⑴世界の極度の貧困の削減、⑵工場畜産における動物の苦痛の軽減、⑶人類の未来を脅かす実存的リスクの低減という3つです。そしてこの3つ目の柱である人類の未来を脅かす実存的リスクの低減と密接に関連し、近年特にEAコミュニティ内で影響力を増しているのが哲学者ニック・ボストロムやヒラリー・グリーヴスらによって精力的に論じられている「長期主義 Longtermism」という考え方です。長期主義の核心的な主張は未来に存在するであろう膨大な数の人々の幸福や潜在的可能性は、現在生きている我々のそれと同等か、それ以上に道徳的重要性を持つものであり、それゆえに我々の行動は人類の長期的な未来に最も大きなプラスの影響を与えることを優先すべきであるというものです。
 
⑵ AIアラインメント問題をめぐる対立
 
e/accとEAおよび長期主義の対立関係は「AIアラインメント」という問題において先鋭化します。AIアラインメントとは、極めて高度な知能を持つAIを人間の意図や価値観、倫理規範に沿って安全かつ有益に機能するように設計・制御し、それを保証するための一連の研究課題を指しています。
 
AIアラインメントの課題は多岐に渡ります。例えばニック・ボストロムが指摘するように高度なシステムはどのような最終目標を与えられたとしてもその目標を効率的に達成するための中間目標として⑴自己保存、⑵資源獲得、⑶能力向上、⑷目標内容の維持といった「内包的目標」を自律的にもつ可能性(道具的収束)があり、これらの内包的目標が人間の意図しない形であるいは人間にとって有害な形で追求されるリスクがあるといわれます。またAIは与えられた報酬関数を最大化するように学習しますが、人間が意図した真の目標と、それを形式化した報酬関数の間にはしばしばギャップが存在するため、AIが報酬関数を最大化しようとした結果、人間の意図から外れた行動(報酬ハッキング)をとる可能性があります。
 
その他にもAIの行動が人間の価値観に沿っているかを継続的に監視することの困難性、深層学習モデルのようなブラックボックス化したAIの複雑な内部動作を検証することの困難性、複雑な人間の価値観を正確に学習させる困難性、複数のAIがそれぞれ適切に動作していたとしても全体として望ましくない集団行動が生じる可能性といった技術的な課題のほか、多様な文化や価値観が存在する人間社会においてAIを「誰の」価値観にアラインするのか、人間以上の意識や知覚を持ったAIに対して我々はどのような道徳的配慮をすべきか、AIの有害な行動をいかに抑制するかといった哲学的・倫理学的な課題もあります。こうしたAIアラインメントの重要性は広く認識されつつあり、世界中の研究機関がその解決に取り組んではいるものの、AI開発のスピードに対してアラインメント研究の進捗が追いついていないという懸念も顕在化しています。
 
この点、e/accの支持者たちはAIアラインメントの難しさを認めつつも過度な懸念は技術進歩を遅らせ、結果として人類がAIの恩恵を享受する機会を奪うと主張します。彼らは技術がさらに進歩すれば、アラインメント問題もいずれ解決可能であるという楽観的な見通しを持つか、あるいはAGIがもたらす圧倒的な知能と能力の前ではある程度のリスクは許容すべきだと考えます。AGIが実現すれば病気の根絶、貧困の撲滅、宇宙進出といった壮大な目標が達成可能になるかもしれないという期待がこのようなリスクへの許容度を高めています。これに対してEAおよび長期主義の立場からは人類の未来には現在とは比較にならないほど膨大な数の潜在的な人々が存在しうるため、その未来そのものを消滅させかねない実存的リスクは道徳的に極めて重大であり、AIの制御不能化の可能性は最大限慎重に扱われるべきだという反論がなされることになります。
 
⑶ 防御的加速主義とプルラリティ
 
こうしたAIアラインメントをめぐる思想的状況においてテクノロジーの可能性と危険性のバランスを重視する立場が「防御的加速主義 Defensive Accelerationism:d/Acc」です。2023年にd/accという概念を提唱した暗号資産イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブリテンは自身は基本的には「テクノ楽観主義者」であると明言しつつも同時にAI、特にAGIがもたらしうる潜在的なリスクについての懸念を表明し、単なる単なる楽観論でも悲観論でもないより現実的で責任あるテクノロジーとの向き合い方を問い直します。こうしたことからd/accの「d」という文字には「Defence(防御)」「Decentralization(分散化)」「Democracy(民主主義)」「Differential(差異的)」という4つの意味が重ねられています。
 
ブリテンはAIをこれまでのテクノロジーとは異なる特別なものであるとして捉え、その開発には最大限の慎重さと先見性が必要であると強調します。そこでd/accはAIを人間を完全に置き換えるのではなく、むしろ人間の知的能力や創造性を拡張し、より複雑な問題解決を支援するツールないしアシスタントであると捉え、AIアライメント問題の解決をAGI開発の最優先課題と位置づけると同時に、万が一アラインメントが不完全であった場合でも社会全体への被害を最小限に抑えるという「防御的」なアプローチを重視します。
 
またd/accはAIの進化による「人間の飼い猫化」という懸念を挙げています。これは長期主義的な視点からAIのリスクを捉えるものであり、超知能AIが人間社会のあらゆる側面を管理・運営するようになった結果、人間は物質的に満たされた生活を送れるものの実質的にはAIに「飼育」される存在となり、自律性や創造性、さらには生きる意味を失ってしまうという未来像です。d/accはこうした未来を回避すべく、AIを人間の能力を補完・拡張する方向に開発し、人間がAI社会においても主体的な役割を果たし続けることを目指す立場であるといえます。
 
この点、本書はd/accの思想について技術進歩の「速度」だけではなく、その「方向性」こそが重要であると訴えるものであるといいます。つまり「どの方向にアクセルを踏むのか?」という問いをまさに我々がいま、もっとも真剣に議論し、選択しなければならない課題であり、それはAIアラインメントを確実に達成し、人類の長期的は繁栄と価値観の維持に貢献できるような技術発展の道筋を選択するということです。
 
それは具体的には「攻撃的なAIよりも防御的なAIを、中央集権的なAIよりも分散型のAIを、人間の判断を代替するAIよりも人間の判断を支援するAIを優先するという、『差異的』な加速を意味」するということであり、こうしたことから同書はe/accの無条件な加速とは異なり、バランス感覚に富み、人間中心的な価値観を重視するd/accのアプローチを「責任あるテクノ楽観主義」と評価します。
 
そして、こうしたd/accが提唱する分散型技術や民主的ガバナンスの重視は本書が提示するもう一つの未来像である「プルラリティ」とも極めて親和性が高いものがあります。この「プルラリティ」とは台湾の初代デジタル担当大臣オードリー・タンとアメリカの経済学者E・グレン・ワイルが共同で描き出した21世紀型公共圏構築のための設計思想です。
 
プルラリティという言葉は「多元性」「複数性」「多様性」といった日本語に対応していますが、その核心は社会や文化におけるさまざまな「差異」を単に容認したり尊重したりするだけでなく、それらの差異をむしろ創造的なエネルギーの源泉として捉え、多様なアクターが互いに協力しあい、共通の課題解決や価値創造に取り組むための新しいテクノロジー、制度、そして文化を積極的に設計・構築していくというダイナミックで実践的な志向性にあります。
 
こうしたことからプルラリティはAIを人間社会の協調と意思決定を支援するツールとして位置付け、そのAIが人間の多様な価値観とアラインされていることを前提としており「誰の価値観にアラインするか」という問いに対してプルラリティは民主的で熟議的なプロセスを通じて社会的な合意を形成しようとします。このようにd/accとプルラリティは現状の社会システムに対する問題意識(非効率性、不公正性、分断など)と、テクノロジーがそれらの解決に貢献しうるという期待感を共有しているという点においては根底で繋がっているといえるでしょう。
 

* 暗黒の啓蒙書(ニック・ランド)

⑴ ヴォイスからイグジットへ
 
2012年、オンライン上に「暗黒啓蒙 The Dark Enlightenment」と題された長大な論考が発表されました。著者はイギリスの哲学者ニック・ランド。そのPART1「新反動主義者はイグジットへの向かう」の中でランドは電子決済サービスPayPalの創業者として知られるピーター・ティールが2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿した「リバタリアンの教育」というエッセイから「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」という印象的なフレーズを引いています。
 
この論考のタイトルからも窺い知れるように、ティールの思想の根底にはリバタリアニズム(自由至上主義)という思想があります。リバタリアニズムとは個人の自由を最優先し、国家や政府による介入や規制を最小限に抑えるべきだという思想ですが、ティールはエッセイでリバタリアニズムと〈政治〉が根底において和解不可能であるという見方を示しています。そして、こうしたティールの「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」というテーゼに霊感を受けたランドの「暗黒啓蒙」では近代啓蒙思想の批判と新しい形でのリバタリアニズム思想が展望されることになります。それは畢竟〈政治〉からの脱出に他なりません。
 
同論考においてまずランドは「ヴォイス Voice」と「イグジット Exit」という二項対立を示します。この「ヴォイス」と「イグジット」の二項対立はティールのいう「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものです。ランドによれば「ヴォイス(民主主義)」の起源はジャン=ジャック・ルソーにまで遡り、この体制下で国家は国民の意志を表象するものとみなされ、現在の政治に不満がある人々はデモや選挙において現状を変えていきます。これに対してランドの支持する「イグジット(自由)」とは「ヴォイス(民主主義)」の体制下で愚直に声を上げるのではなく、黙ってその体制から立ち去り、新しいフロンティアを開拓していくという態度です。
 
ここでランドはこのような「イグジット」の向こう側のビジョンを「新官房学(ネオカメラリズム)」として明確に描き出した論者としてカーティス・ヤーヴィンを召喚します。アメリカの実業家にしてソフトウェア・エンジニアであるヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームで言論活動を行っており、彼のブログ「Unqualified Reservations」ではその特異かつ反近代主義的なリバタリアニズム思想が断続的に開陳され、この一連の議論は2010年にやはりリバアリアン系ブロガーであるアーノルド・クリングによって「新反動主義 NRx」と命名されています。
 
ヤーヴィンのいうところの「新官房学」とは国家は企業のように運営されるべきであるという主張です。すなわち、国家=企業において国民=株主は一人の君主=CEOを投票によって選出し、選ばれた君主=CEOは国家=企業に対する一切の所有権が与えられますが、君主=CEOは国民=株主のために自身が保有する国家=企業の利潤を最大化するよう務めなければならず、もし君主=CEOが国家=企業の経営に失敗した場合、国民=株主の多くはその君主=CEOが治める国家=企業を去り、別の君主=CEOが治める国家=企業に移住することになるでしょう。つまりここでは、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生することになります。
 
またヤーヴィンは進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義などといった今日における「グローバルな民主主義的イデオロギー」を〈普遍主義〉と呼び、これらの元を辿ればプロテスタンティズム、とりわけイギリス国教会に抵抗してアメリカ新大陸に渡ってきたピュータリタンの系譜に端を発しているとして、現在の西洋社会は〈普遍主義〉という名の〈カテドラル--大聖堂〉の支配下にあると主張します。
 
⑵ 生物学的多様性と分離主義
 
つづくPART2「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かっていく」ではギリシャを例にもっぱら経済的な面から民主主義の相対化が行われますが、その半ばからその歴史が辿られ始め、モールドバグの議論に依拠して民主主義が持つ根本的な宗教性が指摘され、この議論の過程でランドは民主主義、人種問題、宗教という三つの項目を一つなぎにして提示します。
 
そしてタイトルが欠如したPART3では民主主義、人種問題、宗教の三項に加えさらに国家権力の拡大という四つ目の項を接続します。またこのパートでランドはやはりモールドバグの議論を応用する形で、いわゆるヘイト・スピーチやヘイト・クライムの背景にある「憎悪(ヘイト)」という感情とは大聖堂への攻撃それ自体であり、その精神的導きに対する拒絶であり、この世界のあからさまな宗教的流れに対する精神的な反抗を意味していると主張します(なお、このパートのみタイトルを欠如させた理由としてはリベラル派が圧倒的に優位なこの状況下において、ここでの議論を一言でまとめることなど恐ろしくてとてもできないというある種のパフォーマンスであるといわれています)。
 
もっともこれは単なるレイシズムとは一線を画していることをランドは主張したいらしく続くPART4「ふたたび破滅へと向かっていく白色人種」ではホワイト・ナショナリスト(白人至上主義者)の議論を批判的に取り上げ、自身の依拠する新反動主義がいかにそれとは異なるかが説明されるが、その一方でランドは新反動主義者はある一点において彼らを評価するといいます。
 
その一点とはつまり「人間の生物学的多様性」なる観点です。要するにこれは知性にしろ外見にしろ何にしろ人は一人一人異なったものだ、という極めて当たり前の事実を科学的なデータに基づいて公理化したものであり、ここからランドは白人至上主義者や新反動主義者はそれを根拠にして例えば白人は黒人とは離れて生活するべきだといったような「分離主義」を展開します。
 
こうしたPART4での議論を受け4a以降では全体の議論からの「脱線」という形で執筆当時のアメリカを騒がせていたダービーシャー事件が取り上げられます。これはジョン・ダービーシャーというジャーナリストが科学的人種主義を含む新反動主義的な分離主義を主張する記事を公開したことで保守派の大手論説誌をクビになった事件でです。
 
そして最後の4f「生物工学的な地平へのアプローチ」においてランドはオクティヴィア・E・バトラーというSF作家の作品を参照して、遺伝子によって規定された「生物工学の地平」という存在論的限界を乗り越えるテクノロジーとしてゲノム編集に注目し、このようなゲノム編集が一般化すれば人種や性別といった概念は過去のものになり、人間はいまや自らが自分自身を創り上げる「怪物」になると主張します。ここではテクノロジーの力が社会や人間観のパラダイムを根本から変革するであろうとするランドの加速主義的な立場が打ち出されています。
 
⑶ 暗黒啓蒙の功罪
 
以上のようなランドの主張は当時アメリカで勢いを増していた「ティー・パーティー運動」と呼ばれる白人中流層を主な担い手とした保守運動を焚き付ける檄文として書かれたものです。従ってその内実は哲学のテクストというより政治的なアジテーションに近いものがあります。
 
それは要するに、彼らが「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶ民主主義や平等主義やポリティカル・コレクトネスといったリベラル的な価値観を破壊して、極大化した新自由主義の下で「特異点(シンギュラリティ)」に向かって資本主義とテクノロジーを猛然と加速させよということです。
 
このようなランドの介入が現実政治の中で実際のところどれだけ機能したかはよくわかりません。しかし、ドナルド・トランプ政権の誕生に象徴されるように、少なくともその後のアメリカ社会においてはリバタリアニズムへの期待とリベラルへの不信が高まったことは確かでしょう。
 
もちろん、どう好意的に解釈してもこのランドの主張に全面的に賛同することは難しいと言わざるを得ないでしょう。しかしながらこのようなテクストが一定程度、支持される要因の一つにリベラルが掲げる金科玉条的な「正しさ」への反発があることは明らかです。そうであれば「大聖堂」と名指されるリベラル的な「正しさ」も常に問いに付されなければならないこともまた確かであるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

セカイ・崇高・人文知--渡邉大輔『セカイ系入門』

* セカイ系の現在地

 
ゼロ年代における文芸批評シーンを賑わした「セカイ系」という言葉の出自は2002年10月31日に「ぷるにえブックマーク」というウェブサイトの管理人だった「ぷるにえ」という人物の執筆した「セカイ系って結局何なのよ」という掲示板のスレッドに遡ると言われています。そこでは「ぷるにえが一人で勝手に使っている言葉で大した意味はない」「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる」「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから『セカイ系』という名称になった」と説明されています。
 
その後、この「セカイ系」という言葉は文芸批評の分野において「物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」として定義されることになり、その代表作として高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』(1999〜2001)、新海誠氏のアニメーション『ほしのこえ』(2002)、秋山瑞人氏のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』(2001〜2003)が挙げられるようになります。
 
こうして「セカイ系」という言葉はゼロ年代半ばから後半にかけてオタク系文化の枠を超えて現代文化や現代社会を考えるためのキーワードとして広く注目を集めるようになります。その後、2010年代に入るとセカイ系に関する議論もいったんは落ち着きを見せる事になりますが、セカイ系作品の代表的作家の一人とみなされていた新海氏が手がけた長編アニメーション映画『君の名は。』(2016)の歴史的な大ヒットがきっかけとなり、再び「セカイ系」という言葉が注目を集めるようになります。
 
そして2020年代の現在でも「セカイ系」という言葉は現代におけるポップカルチャーを象徴するキーワードの一つとして廃れることなく使われ続けています。このように登場してから四半世紀が過ぎ、今やそれなりの歴史の厚みを持った「セカイ系」という言葉を現在の時点から改めて光を当て直して概説する一冊が本書『セカイ系入門』です。
 

* 改めてセカイ系とは何か、あるいは新世紀エヴァンゲリオン

本書はその第一章においてゼロ年代のセカイ系について包括的な整理と検討を加えた先行文献である前島賢氏の『セカイ系とは何か』(2010)を参照し、いま一度「セカイ系」という言葉の定義について再考します。『セカイ系とは何か』において前島氏はセカイ系をめぐる二つの難点に注目するところから話を始めています。
 
その一つ目は同書が執筆されたゼロ年代末の時点でセカイ系という言葉が大きな盛り上がりを見せていながら、その言葉の意味する内容が曖昧で混乱を招いている状況があるというものであり、その二つ目は先述したセカイ系の一般的な定義がその代表作と見做される個々の作品群に必ずしも正確に当てはまらないというものです。
 
前島氏はこうしたセカイ系理解をめぐる混乱を整理するために、当初のセカイ系という言葉に込められていた一つの歴史的文脈に注目します。それが最初にセカイ系という言葉が登場したスレッドで発案者のぷるにえ氏が記していた「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があ」る作品、つまり「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」という意味合いです。
 
ここでいう「エヴァ」とは言うまでもなく、1990年代のポップカルチャーを代表するテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜1996)を指しています。周知の通りエヴァは90年代後半に社会現象と呼べるほどの熱狂的なブームを巻き起こし、後続のさまざまなコンテンツに絶大な影響を及ぼすことになりました。
 
「ここで描かれるのは監督・庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものであったようにも見える」「観客へのサービス精神を放棄し、自分の内面に目を向けたことで、かえって幅広い共感を呼び、外に開かれてしまうという皮肉な事態は、内省の時代、自分探しの時代だった90年代を象徴する出来事と言えるだろう」と前島氏は述べています。
 
こうした歴史的文脈を踏まえ前島氏はセカイ系的な想像力を「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と新和的なジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」として再定義します。
 

* ゼロ年代セカイ系論壇再考

 
このようにセカイ系はいわば「ポスト・エヴァ」という歴史的文脈から出発した言葉でした。ところがセカイ系という言葉の定義については2003年前半ごろまでのネットでの議論のなかで当初の「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」から徐々に「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」へと変化していき、こうしたネット上の流行としてのセカイ系はこの2003年前半がピークであり、その流行は年末には早くも収束してしまいます。しかしその直後あたりからセカイ系は文芸批評の分野でにわかに注目され「延命」していくことになります。
 
この点、前島氏は『セカイ系とは何か』において当時の笠井潔氏、東浩紀氏、佐々木敦氏らの議論を確認し「2004年の時点で、セカイ系は、すでにぷるにえの定義を離れ、エヴァっぽい=自意識ではなく、構造によって規定され、またその典型も『イリヤ』になっている点が確認できる」と総括し、当時のセカイ系論壇において「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点が欠けるようになってしまっている」「結果としてセカイ系は、それぞれが自身の肯定(あるいは否定)したい作品につけるマジックワードと化し、そしてまた各々の論者が、その意味づけをめぐって独自の論を立て合う言葉となってしまった」と指摘しています。
 
こうした前島氏が描き出したセカイ系史観は現在のセカイ系理解に大きな影響力を与えています。これに対して本書は「2004年の時点で、セカイ系は、すでにぷるにえの定義を離れ、エヴァっぽい=自意識ではなく、構造によって規定され」「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点が欠けるようになってしまっている」とは必ずしも言えないといい、ここから前島氏が参照している笠井氏らの文献を改めて細かく読み直し、当時のセカイ系論壇においても少なくともセカイ系の意義をはっきりとエヴァとのつながりにおいて語っていたことを確認して行きます。
 
こうした再検討を経て本書は2002年に誕生したセカイ系という言葉が持っていた「ポスト・エヴァ」的なニュアンスが、その後のセカイ系評論の盛り上がりの中で完全に非歴史化されてしまったわけではなく、少なくとも2000年半ばごろまでは「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点」がはっきりと加味されていたと述べています(なお本書の見立てではセカイ系論壇から「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点」がかなり明確に抜け落ちていくのはもっと後の2007年ごろだとされます)。
 

* ポストモダンとセカイ系

 
いずれにせよ2020年代の現在においてもセカイ系の一般的な定義は相変わらず「きみとぼく」といった小さな日常と「世界の終わり」といった大きな非日常が直結して、その中間項が抜け落ちている物語として理解されています。なぜかくもこうした一見すると奇妙な定義がいまだに大きな影響力を持ち続けているのでしょうか。この点、本書はこの定義が平成期の現代思想や文化批評で支配的パラダイムとなっていた「大きな物語の終焉」というポストモダン論の主張と極めて重なるところがあったからであるといいます。
 
ここでいう「大きな物語の終焉」とはフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件』(1979)で提起した概念で、社会をひとつに束ねる超コード的な理念や価値の体系(=大きな物語)が急速に力を失った状態を指しています。そして、こうした「大きな物語の終焉」はゼロ年代のセカイ系論壇において、やはりポストモダン論に大きな影響を及ぼしたフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提示した「想像界・象徴界・現実界」という審級区分における「象徴界の機能不全」として捉えられることになります。
 
こうしたことからセカイ系の一般的な定義はラカンのいう象徴界(中間項)が機能不全を起こした結果、想像界(きみとぼく)と現実界(世界の終わり)が直結している状態として把握され、ここからセカイ系はただのサブカルチャー界隈における一時的な流行ではなく、ポストモダン状況が加速する現代の世界像を見事に反映した物語であるという議論が出てくることになります。セカイ系の一般的な定義がこれまで広く支持されてきた理由とはこうした思想的背景に求めることができるでしょう。
 
もっとも本書も指摘するように、このような現在流通するセカイ系の一般的な定義に通じる要素はもともとぷるえに氏の定義の中に内包されていたと言ってよいでしょう。そもそもぷるにえ氏はセカイ系を「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」と並び「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向があ」ると説明しています。ここでいう「たかだか語り手自身の了見」が「『世界』という誇大な言葉」で表現されてしまうとは、まさに想像界と現実界の短絡に他ならないでしょう。
 

* セカイ・崇高・人文知

 
以上のような第一章の議論を踏まえて本書はセカイ系の一般的な定義を「セカイ系」と記し、これに対して前島氏が『セカイ系とは何か』で提唱した「ポスト・エヴァ」という歴史的文脈に基づいた狭義の定義を〈セカイ系〉と記し、この区分を前提として、続く第二章と第三章においてはゼロ年代から現在に至るまでのセカイ系の歴史を改めて追っていくことになります。
 
さらにここから本書ではセカイ系という言葉をオタク系文化という文脈から離れて、より広いパースペクティヴにおいて批評的に捉え直す議論が展開されます。第四章と第五章においては前半で示した見取り図を踏まえて「セカイ系的なもの」の歴史の再構築が文学や映画の分野から試みられます。このように本書はセカイ系という言葉をゼロ年代に流行ったいちジャンルという枠組みから解き放ち、普遍的な批評概念へ練成していく試みであるともいえます。
 
そして最後の第六章では2020年代=令和の時代における「セカイ系的なもの」の可能性が近代美学における「崇高 subline」という概念との関連から論じられる事になります。ここでいう「崇高」とは西洋の伝統的な美学的カテゴリー(美的範疇)の一つであり、一般的にそれは巨大な対象、恐ろしい対象、曖昧な対象などを目にした際の人間の感情に結び付けられ、18世紀以降ロマン主義の思潮の中でしばし「美」の対概念として定式化され、エドマンド・バーグやイマヌエル・カントらの思想家によって論じられてきたものです。
 
本来「世界の終わり」や「この世の終わり」という抽象的なセカイに直面する「きみとぼく」を描くセカイ系は絶対的な超越性や畏怖の念を含む「崇高」の概念と親和性があるといえるでしょう。しかし今日の文化的な想像力やコンテンツの本質にはそうしたかつての超越性や崇高の手触りが希釈化されており、ここに本書は現代のセカイ系的なものの変容の兆候を見てとっています。
 
ここから本書は哲学研究者の岩内章太郎氏の議論を参照し、これを「高さ」の喪失として論じる一方で、美学研究者の星野太氏の議論を参照し「いわゆる崇高=超越的な崇高」とは別に西洋の崇高論の中に垣間見える「内在的な崇高」という概念から2020年代における(ポスト)セカイ系の想像力を論じます。
 
こうした一連の議論は「セカイ系」という言葉で刺し止められる感性の働きが伝統的な美学や哲学のパラダイムを問い直す契機になっていることを示しているといえます。こうした意味で本書『セカイ系入門』は文字通りのセカイ系入門であると同時に、現代における人文知のパラダイムを更新する新たな可能性を照らし出す一冊であるともいえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

孤独・趣味・ネガティヴ・ケイパビリティ--谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』

*「一人であること」と現代情報環境

 
20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アーレントは「一人であること」を〈孤立 isolation〉と〈孤独 solitude〉と〈寂しさ loneliness〉という三つの様式に分けて論じています。ここでいう〈孤立〉とは何かに集中して取り組むため誰にも邪魔されずにいる状態を指し、こうした〈孤立〉を前提とした〈孤独〉とは心静かに自分自身と対話するように「思考」している状態を指しています。
 
これに対して〈寂しさ〉とはいろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じており、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態を指しています。そして、こうしたアーレントのいう〈孤立〉と〈孤独〉と〈寂しさ〉からなる「一人であること」の意味ないし意義を「ネガティヴ・ケイパビリティ」というキーワードから再考する一冊が本書『スマホ時代の哲学』です。
 
本書は19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェの「君たちはみんな激務が好きだ。速いことや新しいことや見慣れないことが好きだ」という言葉から出発します。ここでニーチェのいう「激務」とは仕事のみならず、生活あるいは人生全般に当てはまるものです。
 
人は生きることの不安から逃れるため、日々を「激務」で取り囲もうとするとニーチェは考えました。そしてスマートフォンやタブレットを通じて文字、音声、画像、動画などのメディア化された無数のコンテンツにいつでも触れることができる現代の情報環境において人は日々を簡単に即時的な感覚刺激やコミュニケーションという名の「激務」で満たすことができます。
 
その一方、本書はマーク・フィッシャーや東畑開人氏の議論を援用し現代においては複雑で不明瞭でスッキリしない「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を伴う事柄は好まれない傾向にあることを指摘します。ではこうした「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を伴う事柄といかに向き合うべきなのでしょうか。これが本書が提示する〈スマホ時代の哲学〉における問いとなります。
 

* 孤独と趣味

本書が〈スマホ時代の哲学〉を始めるにあたってまず参照するMITの心理学者シェリー・タークルは、携帯電話など持ち歩けるデバイスを使って、ここではないどこかで別の情報を得たり、別のコミュニケーションに参加したりすることが可能になった状況を「常時接続の世界」と呼びます。この常時接続の世界において生活をマルチタスクで取り囲んだ結果、何一つ集中できていないという状態について、タークルは特に人間関係の希薄さを念頭に「繋がっていても一人ぼっち」と表現します。
 
そして本書はこうしたタークルの論を受け、アテンション・エコノミーが加速する現代においてはアーレントのいう〈孤立〉と〈孤独〉が失われているといいます。情報の内実や質よりも、人の注目それ自体が価値を持つアテンション・エコノミーにおいては、あらゆるコンテンツがアテンションを奪うことに最適化されていき、その結果、他者から切り離されて何かに集中する〈孤立〉や、自分自身と対話する〈孤独〉を維持することが困難になってしまうということです。
 
またタークルがインタビューした一人の少女は「仲間はずれになることや、何かを見逃すことも怖いから」SNSは常にチェックするほかないと語っており、このような恐怖はFear Of Missing Out(見逃す/取り残されることへの恐怖)の頭文字を取って「FOMO」と呼ばれることがありますが、このFOMOはアーレントのいう〈寂しさ〉の別名に他なりません。つまり常時接続の世界が常態化した現代は〈孤立〉や〈孤独〉が失われ〈寂しさ〉が加速する時代であるということになります。
 
こうした〈寂しさ〉ないしFOMOとうまく折り合いをつけながら、なおかつ〈孤立〉と〈孤独〉を確保するための術として本書は『新世紀エヴァンゲリオン』における加持リョウジのスイカ栽培を例にとり〈趣味〉の重要性を説きます。
 
ここで本書のいう〈趣味〉とは何かを作ったり育てたりする営み一般を指しています。こうした〈趣味〉に没頭することでその「何か」が我々にとって他者性を帯びた謎として立ち現れてくることになり、こうした謎との自己対話が〈孤独〉をもたらすことになります。そしてこうした自己対話を成立させるために必要な能力こそが「ネガティヴ・ケイパビリティ」と呼ばれるものです。
 

* ネガティブ・ケイパビリティとは何か

 
この「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念はジョン・キーツというイギリスの詩人が提示したものです。キーツがこの言葉を使ったのは独特な世界を描き出したウィリアム・シェイクスピアの創作の秘密を説明するためでした。シェイクスピアは物語に登場する不思議なモチーフや不合理な展開や説明に安易な説明や議論を与えず、謎や神秘をそのまま宙吊りにして物語を育ていきます。シェイクスピアが比類なき作家になりえたのはこうした創作姿勢にあったとキーツは考えました。
 
つまり、優れた作家は何か特定の仕方でしか解釈できないものを提示するわけではなく、読み手に色々な解釈を許す謎を提示して、そこから様々な場所へと歩いていける十字路のようなものを独自の仕方で組み合わせて物語を創っているということです。そしてこのキーツが提示した「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念それ自体もまた、魅力的な謎として人々を惹きつけ、様々なかたちで解釈されていきます。
 
例えばキーツの死後半世紀以上経ってから生まれた精神分析家ウィルフレッド・ビオンはこのネガティヴ・ケイパビリティを精神分析家に必要な能力として読み替えました。ビオンはネガティヴ・ケイパビリティに相当するものを「砲撃の下で考える」というフレーズで表現しています。彼は診察室での精神分析家は戦場における兵士と同様に、患者の反応や訴えという不確実で予測もコントロールもしきれない「砲撃の下」で考え続ける役割を負っていると考えました。
 
また精神科医の帚木蓬生氏はこの概念を再解釈し、性急に結論を出さずに棚上げすることの創造性を説きながら、観察と想像を通して他者の体験の革新に迫っていくためのヒントをネガティヴ・ケイパビリティに求めています。そして、文学者の小川公代氏は帚木氏の議論を参照し、この概念を文学やケアとの関連で再提示しています。
 

* モヤモヤをモヤモヤのまま抱えていくということ

 
以上のような議論から本書はネガティヴ・ケイパビリティは「創造(キーツ)」と「理解(ビオン、帚木、小川)」という二つの文脈から把握されていることを指摘します。まず一つ目の「創造のネガティヴ・ケイパビリティ」とは生み出しつつあるものを安易に意味づけて特定の位置に落ち着け、単一のイメージに追い込むようなことをしないために必要な力であるといえます。次に二つ目の「理解のネガティヴ・ケイパビリティ」とは謎や問題に触れたとき、それを素早く説明したり、簡単に納得したりせず、常に滲み出す謎の存在を感じたまま、謎や問いを自分と一緒に連れて歩くという姿勢であるといえます。
 
そして、この二つの文脈のいずれの場合も消化しきれず、理解しきれず、落ち着くことのできないモヤモヤをモヤモヤしたまま抱えるというイメージが共通しています。こうしたことから本書は「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」といったものを腹の中に抱えておく能力を「ネガティヴ・ケイパビリティ」として概念化します。
 
一方で「創造のネガティヴ・ケイパビリティ」は謎を謎のまま生み出すものであるという点で何かを作り、育てるという〈趣味〉にとっても大切な能力です。他方で「理解のネガティヴ・ケイパビリティ」は作り育てつつあるものを観察したり、自分の感覚を振り返ったりして、制作や創作のやり方を調整あるいは再構成する時に重要となります。
 
もちろんこれは概念上の区分であり、現実の作業においてはこの二つはほとんど同時に円環的に働いているといえるでしょう。いずれにせよネガティヴ・ケイパビリティは〈趣味〉が可能にする自己対話が対話として成立するために避け難く必要な能力であるということです。
 

* ネガティヴ・ケイパビリティと哲学の効用

 
スマホ時代が加速させる〈寂しさ〉と折り合いをつけて〈孤立〉と〈孤独〉を確保するためには〈趣味〉を持ってネガティヴ・ケイパビリティを発揮せよ。ここまでの議論をごく単純に要約すれば差し当たりこういうことになるでしょう。これだけ読むと「いやいや、そんなことはわかってるし、それがカンタンにできれば誰も苦労はしないだろ!」と言いたくなる方もいらっしゃるかもしれません。もちろんその通りだと思います。ネガティヴ・ケイパビリティを身につけるには練習が必要です。そしては本書はこうしたネガティヴ・ケイパビリティを身につけるための練習として哲学書を読むことを勧めています。
 
哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは西洋の哲学的伝統の特徴を説明するにあたり「西洋哲学はプラトンに対する一連の注釈からなる」と述べたことがあります。つまり哲学にはプラトン以来、2500年分の議論の蓄積があり、哲学するとはこのプラトンが始めた一連の豊かな会話に参加することでもあります。
 
哲学と聞くと大抵は「小難しい」とか「抽象的」といった感想が先立つかもしれませんが、哲学者は意味もなく小難しく抽象的なことを考えたわけではなく、たとえどれだけ小難しく抽象的に思えたとしても、哲学の様々な議論はその時代時代における具体的で切実な問題に対する応答に他なりません。例えばアーレントの提示した〈孤立〉と〈孤独〉と〈寂しさ〉の三区分にしても「ナチズムのような全体主義はなぜ発生したのか」という具体的な問題意識からきたものです。
 
このように2500年にわたる哲学の議論の中では様々なアイデアや視点や思考パターンが試されており、この莫大な英知が湧出する泉は、我々がこの日常において生起する様々な問題と向き合う上で大きな力になってくれるはずです。そしてこうした哲学をする上でネガティヴ・ケイパビリティは欠かせません。
 
本書は哲学書を読むとき「自分なりに理解する」のではなく、その主導権をいったんは哲学者の側に置く必要があるといいます。これは別にその哲学者に「共感」しろというわけではなく、その哲学者が用いる概念(知識と想像力の組み合わせ)や思考システム(概念のネットワーク)を把握することを目指して読むということです。もちろんその読解は一筋縄ではいかず様々な箇所で「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を感じることになり、結果的にこうしたプロセスがネガティヴ・ケイパビリティを育んでいきます。
 
こうした意味で本書もまた先述の単純な要約とは裏腹にかなり複雑で豊穣な議論を繰り広げている哲学書であるといえます。本書を読む過程で読み手は様々な箇所で「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を感じることがあるでしょう。しかしこうした「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」こそが〈孤独〉における自己対話としての思考を促すことになります。そうであれば本書が示す〈スマホ時代の哲学〉の実践は本書を読み始めた時に既に始まっているといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ニック・ランドと加速主義

* ヴォイスからイグジットへ

 
2012年、オンライン上に「暗黒啓蒙 The Dark Enlightenment」と題された長大な論考が発表されました。著者はイギリスの哲学者ニック・ランド。その第1章「新反動主義者はイグジットを目指す」の中でランドは電子決済サービスPayPalの創業者として知られるピーター・ティールが2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿した「リバタリアンの教育」というエッセイから「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」という印象的なフレーズを引いています。
この論考のタイトルからも窺い知れるように、ティールの思想の根底にはリバタリアニズム(自由至上主義)という思想があります。リバタリアニズムとは個人の自由を最優先し、国家や政府による介入や規制を最小限に抑えるべきだという思想ですが、ティールはエッセイでリバタリアニズムと〈政治〉が根底において和解不可能であるという見方を示しています。そして、こうしたティールの「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」というテーゼに霊感を受けたランドの「暗黒啓蒙」では近代啓蒙思想の批判と新しい形でのリバタリアニズム思想が展望されることになります。それは畢竟〈政治〉からの脱出に他なりません。
 
同論考においてまずランドは「ヴォイス Voice」と「イグジット Exit」という二項対立を示します。この「ヴォイス」と「イグジット」の二項対立はティールのいう「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものです。ランドによれば「ヴォイス(民主主義)」の起源はジャン=ジャック・ルソーにまで遡り、この体制下で国家は国民の意志を表象するものとみなされ、現在の政治に不満がある人々はデモや選挙において現状を変えていきます。これに対してランドの支持する「イグジット(自由)」とは「ヴォイス(民主主義)」の体制下で愚直に声を上げるのではなく、黙ってその体制から立ち去り、新しいフロンティアを開拓していくという態度です。
 
ここでランドはこのような「イグジット」の向こう側のビジョンを「新官房学」として明確に描き出した論者としてカーティス・ヤーヴィンを召喚します。アメリカの実業家にしてソフトウェア・エンジニアであるヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームで言論活動を行っており、彼のブログ「Unqualified Reservations」ではその特異かつ反近代主義的なリバタリアニズム思想が断続的に開陳され、この一連の議論は2010年にやはりリバアリアン系ブロガーであるアーノルド・クリングによって「新反動主義」と命名されています。
 
ヤーヴィンのいうところの「新官房学」とは国家は企業のように運営されるべきであるという主張です。すなわち、国家=企業において国民=株主は一人の君主=CEOを投票によって選出し、選ばれた君主=CEOは国家=企業に対する一切の所有権が与えられますが、君主=CEOは国民=株主のために自身が保有する国家=企業の利潤を最大化するよう務めなければならず、もし君主=CEOが国家=企業の経営に失敗した場合、国民=株主の多くはその君主=CEOが治める国家=企業を去り、別の君主=CEOが治める国家=企業に移住することになるでしょう。つまりここでは、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生することになります。
 
またヤーヴィンは進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義などといった今日における「グローバルな民主主義的イデオロギー」を〈普遍主義〉と呼び、これらの元を辿ればプロテスタンティズム、とりわけイギリス国教会に抵抗してアメリカ新大陸に渡ってきたピュータリタンの系譜に端を発しているとして、現在の西洋社会は〈普遍主義〉という名の〈カテドラル--大聖堂〉の支配下にあると主張します。
 
このように第1章においてヤーヴィンの議論を概観したランドは第2章以降において〈カテドラル〉と〈普遍主義〉がどのように機能して現代のリベラル社会を覆い尽くしているかを検証し、第4章以降では主に人種に関する論争的問題にシフトしていきます。
 
そして「生物工学の地平が近づいていくる」と題された最終章でランドはオクティヴィア・E・バトラーというSF作家の作品を参照して、遺伝子によって規定された「生物工学の地平」という存在論的限界を乗り越えるテクノロジーとしてゲノム編集に注目し、このようなゲノム編集が一般化すれば人種や性別といった概念は過去のものになり、人間はいまや自らが自分自身を創り上げる「怪物」になると主張します。ここではテクノロジーの力が社会や人間観のパラダイムを根本から変革するであろうとする思想、すなわち「加速主義 Accelerationism」と呼ばれるランドの思想が表明されているといえます。
 

* 西洋近代とカント主義

 
「暗黒啓蒙」の著者ニック・ランドは1989年に発表した最初期のテクストにあたる「カント、資本、そして近親相姦の禁止」ですでに「啓蒙」を問題にしています。ランドによれば西洋による植民地主義と現代にまで至る第三世界に対する経済的搾取は近代のあり方そのものと深く関わっています。
 
植民地主義に始まる西洋列強の外部世界への拡大志向とは、換言すれば他者(=異民族、先住民族、黒人、第三世界、女性等々)を自己(=西洋)の内部へ際限なく取り込むことを意味していますが、他者との相対は常に自身の自己同一性を揺るがす危険な経験であり、それゆえに西洋における近代の課題とはいかに自身の自己同一性を保ったまま他者を自己の内部に「同化」させるかということになります。こうした同化プログラムが〈啓蒙〉と呼ばれるものの内実に他なりません。
 
しかし他者を自己に同化させた瞬間、それはすでに本来的な意味の他者ではなくなります。これをランドは「啓蒙のパラドックス」と呼びます。そしてこのように他者から他者性を抜き取りながら自己の内部に取り込むという啓蒙=近代のプログラムを完成させた哲学者がイマヌエル・カントであった、とランドはいいます。
 
カントが創始した超越論哲学の要諦はすなわち、我々は対象(=他者)を直接認識しているのではなく、対象の「表れ」を認識しているに過ぎず、対象は我々の主観を構成する認識作用を経て現象するというものです。従って対象(=他者)はそれ自体(=物自体)をありのままに認識することは不可能であり、主観側の総合作用によって表象として現象することになります。
 
これがランドのいうところの「抑制された総合」という作用です。つまりランドによればカントによる「抑制された総合」とは他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、そうである限りで近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったとみなされます。
 
そしてランドは「カント、資本、そして近親相姦の禁止」においてこのグローバルな帝国主義システムを内破させる潜勢力を「フェミニストの効果的な暴力」に見出しており、同論考は「この近代の終わりに到達するために、我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という言葉で締め括られます。ところが以降のランドの仕事においてこのフェミニズム的暴力という主題は徐々に後景に退き、代わりにランドは近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになります。
 

* 脱領土化とシンギュラリティ

 
1990年代に入るとランドはカント主義を乗り越えるための参照項をポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著である『アンチ・オイディプス』に見出します。1968年に起きたパリ5月革命の影響下で書かれた同書でドゥルーズ=ガタリは西洋近代の成果物である精神分析におけるエディプス・コンプレックスと呼ばれるセントラル・ドグマを批判し、代わりに無意識における多様な欲望の流れと相互接続を肯定する分裂分析を打ち立てました。
 
この点、ランドは同書における「脱領土化 Deterritorialization」と「再領土化 Reterritorialization」という対概念に注目します。ここでいう「脱領土化」とは解体のプロセスであり、例えば資本主義における資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体などを指しています。これに対して「再領土化」とは総合のプロセスであり、例えば資本の再配分に基づく福祉資本主義などは一旦、脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みといえます。すなわち、現代のグローバルな資本主義システムと国家システムはこのような脱領土化と再領土化の反復によって維持されているということです。
 
ランドはこの「脱領土化」と「再領土化」という対概念において「脱領土化」のみを徹底的に推し進めるべきであるという立場を取ります。「カント、資本、そして近親相姦の禁止」における「抑制された総合」とはドゥルーズ=ガタリの「再領土化」とある程度符合すると本書は述べます。すなわち、再領土化あるいはカント主義に規定された近代を解体するためにはあらゆる限界を突き抜けて未来の果てまでも加速しなければならないというのがランドの立場であり、同時にこの点においてあの「暗黒啓蒙」における「生物工学の地平」が現れることになります。
 
こうしたことからランドは1994年に発表した「メルトダウン」において未来から到来する〈外部〉としての〈シンギュラリティ(特異点)〉が国家、民主主義、ヒューマニズム等々の近代的秩序を溶解させていくさまを黙示録的な筆致で叙述していきます。
 
神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、惑星規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を堕落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が招来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータ(xenodate)をハックするのを待っている。
 
(ニック・ランド「メルトダウン」)

 

* CCRUという実践

 
では、このような主体を構成するあらゆる体制の「脱領土化」を推し進めるというランドの哲学的プログラムはどのように実践されたのでしょうか。あらためてこの哲学者の経歴を振り返ってみましょう。ランドは1987年から1998年までの約10年間、イギリスのウォーリック大学で教鞭を取っています。専門は主に大陸哲学とフランス現代思想で1992年には『絶滅への渇望』というジョルジュ・バタイユをテーマとした著作も執筆しています。
 
しかしランドにとってカント主義という正統派教義を打ち破り〈外部〉へアクセスするためのプログラムは同時に哲学的思索の内部にとどまらない行動を伴う実践でなければなりませんでした。その実践のうちの一つが「サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit:CCRU)」における活動です。
 
CCRUとは1995年にランドが公私ともにパートナーであったサディ・プラントと共にウォーリック大学の哲学部内に設立した大陸哲学やSFやオカルティズムやクラブカルチャーなどを学際的に横断する研究組織です。このCCRUは後に批評家として活躍することになるマーク・フィッシャー、思弁的実在論で知られることになるイアン・ハルミントン・グラントとレイ・ブラシエ、kode9名義で音楽家として活躍することになるスティーヴ・グッドマン、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めることになるロビン・マッケイなどが参加しています。
 
CCRUのメンバーたちはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に部屋を借り、そこを活動拠点にして魔術、数秘学、ブードゥー教、ラヴクラフト、アレイスター・クロウリーといった秘教的思索に耽りました。大学当局がこのような組織の存在をあまり快く思っていなかったことは言うまでもないことですが、CCRUの哲学的実践はアカデミズムの内部ではなくむしろその外部において影響力を持っていました。
 
他方でランドは自身の「解体」のプロセスを着実に加速させていき、睡眠も取らず使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら数秘術めいた数学実験にのめり込んでいきます。ロビン・マッケイはこの時期のランドを回想して「端的に言って彼は発狂したのだ」と総括しています。
 
こうして1998年、ランドは大学を退職するのと同時に上海に移住します。ある意味でアカデミズムと西洋近代からの二重のイグジットです。そしてゼロ年代に入るとランドは上海在住のジャーナリスト兼ブロガーとして再び現代思想シーンの表舞台に返り咲くことになります。
 

* 加速主義という潮流

 
このようにランドが90年代に展開した黙示録的な思想はやがて「加速主義」という名前が与えられる事になります。加速主義という造語を命名したのは批評家のベンジャミン・ノイズであり、2010年の著書『The Persistence of the Negative』で彼は加速主義を「もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる。我々はこの傾向を加速主義と呼ぶ」と定義づけています。そして2010年代において加速主義は様々な分派を形成するに至ります。その一つが「左派加速主義」です。
 
左派加速主義の代表的な論者であるニック・スルネックとアレックス・ウィリアムスは2013年にオンラインで発表した「加速派政治宣言」や2015年に上梓した『未来を発明する:ポスト資本主義と労働なき世界』において、2011年のオキュパイ運動に象徴されるローカルな政治的直接行動を素朴政治として批判しつつ、同時にニックランド流の黙示録的な加速主義とも距離を置き、来るべきポスト資本主義に向けてテクノロジーの発展を明確なビジョンのもとでコントロール可能な形で加速させる「加速主義政治」が必要になると主張し、製造の全的オートメーション、それに伴う労働時間の漸進的削減、市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入などを提唱しています。
 
また左派加速主義を語る上で避けて通れない思想家としてマーク・フィッシャーが挙げられます。フィッシャーは90年代にはランドのCCRUに所属しており、その問題意識を共有しつつも左派的な立場から一貫して新たなコミュニズムの可能性を探り、スルネックらに大きな影響を与えました。しかし2008年に公刊した主著『資本主義リアリズム』においてフィッシャーは資本主義に代わるオルタナティヴな社会を想像することすらできない現在の閉塞した社会状況を「資本主義リアリズム」と呼び、その例としてメンタルヘルスの問題が労働環境や社会構造を考慮されることなく、個人の自己責任という新自由主義的な倫理に回収されてしまうことでさらにメンタルヘルスが悪化するという悪循環を「再帰的無能感」と呼び、自身もまた長年うつ病と格闘しながら2017年にみずから命を絶つことになります。
 
その一方、ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対しては明確に批判的な立場を取ります。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えますが、ランドからすれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーの加速は不可能であるとします。もっともランド自身も90年代と微妙に思想的立ち位置を変えており、ヤーヴィンの新反動主義を支持する現在のランドの立場はいわば「右派加速主義」と呼べるものです。これに対して90年代のランド思想とCCRUへの忠実な回帰を志向する立場は「無条件加速主義」と呼ばれます。
 
なお近年におけるAIの台頭とともに現れた新たな加速主義の潮流として「効果的加速主義(Effective Accelerationism:e/acc)」が挙げられます。効果的加速主義とは端的に言えばAGI(汎用人工知能)の開発推進を基調イデオロギーとするテクノ楽観主義に右派加速主義を接続したものであり、その論理は「想像できる限りの技術革新を、コストを問わず加速させよ」へと要約できます。
 
AGIを巡る人類存亡リスク(X-risk)については近年活発に議論が行われており、大きく分ければ「AGIの開発は人類の存続に関わるリスクを孕んでおり、国際的な規制・監視・安全確保の仕組みが必要だ」と主張する規制派と「AGIの開発は人類の発展・解放・繁栄への鍵であり、過剰な規制は技術革新を妨げる」という規制反対派の二つの立場が存在し、効果的加速主義は言うまでもなく後者の立場です。
 

* 加速主義における「可能性の中心」について

 
ところで加速主義の命名者であるノイズはランド的加速主義を身も蓋もなく「大学院生の病」であると総括しています。つまり、これから否応なく資本主義リアリズムの世界に放り出される大学院生たちにとって「資本主義を加速させよ」と呼びかける加速主義はある種のストックホルム症候群(防衛本能による無意識的な加害者への連帯や共感)をもたらすイデオロギーとして作用するということです。
 
これに対して木澤佐登志氏は『加速主義〈増補新版〉--ニック・ランドと新反動主義』において以上のような加速主義の現代的潮流を概観する中で「加速主義、それは未来のユートピアをもはや純粋に信じることができない現代の私たちのためのユートピア思想なのだ」と述べます。
 
すなわち、加速主義とは冷戦構造の終焉により共産主義の最終的破算と新自由主義のグローバルな勝利が確定し、もはや「大きな物語(リオタール)」はありえず、未来の可能性を喪った「歴史の終わり(フクヤマ)」のただなかにおいて、共産主義とは別のかたちで未来を思考するとはどのようなことかを問うた「共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想」であるということです。
そして同書は〈増補新版〉に追加した「加速主義再考」という章において、いまやミームと化した加速主義における「可能性の中心」として「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せえざるを得ない『脱階層化のプロセス』を加速させる」ことを挙げていますが、ここでいう「脱階層化」とは資本家/労働者といった「階級」に限定されない、文字通りの意味におけるあらゆる階層型システムに適用されるものとされます。
 
確かにランドにしてみてもそもそもは西洋近代を規定したカント主義における自己/他者という階層型システムからの脱領土化=脱階層化を企てる思想から出発したわけです。そうであれば、加速主義という思想とは(少なくとも初期ランド的な発想からすれば)「資本主義を加速させよ」という単なるアジテーションというより、むしろそのプロセスを通じてあらゆる階層型システムの脱領土化=脱階層化を志向する思想として理解できるのではないでしょうか。そしてこのような脱領土化=脱階層化という「可能性の中心」こそが加速主義という思想に様々に立場を異にする多くの人々が魅了され続けてきた所以のようにも思われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

* ドゥルーズ哲学の実践としての『シネマ』

 
20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズの仕事は哲学にとどまらず、精神分析、文学、絵画、映画といった諸領域を変幻自在に横断するものであり、そこではさまざまな革新的な概念が創出されることになります。そして、このようなドゥルーズ哲学の枢要部にある哲学原理を國分功一郎氏は『ドゥルーズの哲学原理』(2013)において「超越論的経験論 L'empirisme transcendantal」と呼んでいます。この一見する語義矛盾のように思われる表現はいわばディヴィッド・ヒュームの経験論哲学とイマヌエル・カントの超越論哲学を総合するものであるといえます。
よく知られるようにヒュームは経験論という哲学を説き、人間の知性や認識の基礎を経験に求めました。これに対してカントはこのような経験そのものを可能とする条件を問います。このようなカントの問いは経験に先立つ先験的な「超越論的」と呼ばれる領域を切り開くことになります。これについてドゥルーズは『カントの批判哲学』(1963)において「超越論的とは、経験が必然的に我々のア・プリオリな表象に従う際の原理を指す」と定義しています。
 
ドゥルーズはカントによる超越論的なものの発見を高く評価します。その一方でドゥルーズはヒュームにこのようなカントが問うことをやめてしまった発生の問いを見出しています。こうしたことからドゥルーズはカント的な超越論的哲学の可能性を引き継ぐとともに、そこで喪われた発生の問いをヒューム的な経験論哲学によって補完します。これがいわば「発生を問う超越論哲学」としての「超越論的経験論」と呼ばれるものです。
 
そして、このようなドゥルーズの哲学原理たる超越論的経験論に基づく実践哲学を映画論というかたちで展開した著作が『シネマ』です。この『シネマ』という本は2巻に分かれています。大まかにいうと1983年に刊行された『シネマ1--運動イメージ』は第二次世大戦前の映画を、そして1985年に刊行された『シネマ2--時間イメージ』は戦後の映画を扱っています。
 
もっとも『シネマ1』の冒頭でドゥルーズは「これは映画史の研究ではない」と宣言しています。このきっぱりとした否定の身振りは一見『シネマ』の論述形式と食い違っているようにも思えます。数百本もの映画作品が参照される同書は1895年のリュミエール兄弟による映画の発明から始まり、デヴィット・ウォーク・グリフィスやセルゲイ・エイゼンシュテインなどのモンタージュの発明者たちの分析へと移り、第1巻の終盤では第二次世界大戦が映画に与えた影響が考察され、第2巻の冒頭で戦後映画の幕開けとしてイタリアのネオリアリズモが言祝がれ、やがて議論が進むにつれて同書が刊行された当時の1980年代の作品までもが射程に入ってくるという極めてオーソドックスな映画史的な枠組みに沿って書かれているともいえます。
 
にもかかわらずドゥルーズは後にインタビューに答えるかたちで同書を「哲学書」であるとはっきりと規定しています。よく知られるようにドゥルーズは哲学を「概念を創造する営み」として定義します。つまり彼にとって『シネマ』とは映画を通して新たに哲学的な概念を発明し、発明された諸概念によるシステムを構築する哲学書であったということです。
 

* ベルクソン哲学におけるイメージと持続

 
福尾匠氏は『眼がスクリーンになるとき』(2018)において『シネマ』にとって映画とは哲学の「フッテージ footage」であると捉えています。ここでいうフッテージは「足場」や「素材」といった意味で用いられています。『シネマ』は2巻合わせると22の章からなっていますが、そのうちの4つの章には「ベルクソン注釈」というサブタイトルが付されています。このことから分かるように『シネマ』は映画を扱う一方で「生の哲学」の潮流を担ったフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの著作の読解に取り組む書物でもあります。いわば『シネマ』は映画をフッテージとしてベルクソンの哲学を更新するものであるといえます。

 

眼がスクリーンになるとき

眼がスクリーンになるとき

Amazon

 

哲学史的にはベルクソンは「観念論」と「実在論」という二つの対立を乗り越えるために「イメージ」という概念を導入した哲学者として位置付けられます。ここでいう「イメージ」とは観念論者が「表象」と呼ぶものより「多いもの」であり、実在論者が「物」と称するものより「少ないもの」です。「表象より多い」とは我々の精神の外側の実在性を認めるということであり「物より少ない」とは知覚される性質とは別種の実在性を物質に認めることを退けるということです。つまりベルクソンにとってイメージとは、主体の内面に浮かぶ心像ではなく、世界そのものの存在様式なのであるということです。
 
ベルクソンはこのような「イメージ」のあり方は極めて「常識」的なものだといます。つまり見たままの対象の、見えた通りの実在性、つまりリアリティを、それがまさに我々の頭のなかにだけでなく「そこ」にあることを認めるため、ベルクソンはイメージという概念を考案したということです。
 
このようにベルクソンによるとあらゆるものはイメージであり、これらのイメージは恒常的な自然法則に従っており、それらの運動は計算によって予測することができるものであるとされます。にもかかわらずイメージの中で一つだけ、他のすべてのイメージから際立っているものがあります。それが身体です。身体はイメージの運動に予測不可能な影響を及ぼします。換言すれば充満するイメージから行動に役立つものだけを選び取ることで、行動の選択肢を得ることができるということです。ベルクソンはこのことを「作用と反作用が釣り合っていない」という言い方で表現します。
 
そして、こうした予測不可能で選択可能な身体の時間のあり方をベルクソンは「持続」と呼びます。この「持続」としての運動は分割不可能な我々の行動に伴うような時間性であり、つまり「持続」としての人の身体の現在は一定の厚みを持っているということです。
 

* 動かない切断面と動く切断面

 
こうしたことからベルクソンは「持続」としての身体における時間こそがリアルなものであり、分割可能な空間化された時間はある種の錯覚だと考え、このような錯覚を「思考の映画的メカニズム」と呼び、このメカニズムがいかにして運動あるいは持続を取り逃がすのかを分析しています。ところがドゥルーズはこのような映画的メカニズムを再評価して、ベルクソン的システムを映画に接続し直すことを試みます。
 
この点、ベルクソンのいう「映画装置」は非常に短い時間差を伴う複数の写真を一枚のフィルムの上に並べて焼き付け、それを高速で強い光の前を通過させることでスクリーン上に撮影された運動を再現するものです。換言すれば「映画装置」とは、あらゆる個別的な運動に対して例えば1秒間に24フレームという共通の尺度を与えることで、個別的な運動から「運動一般」を抽出するものといえます。
 
そしてこの映画装置のメカニズムは我々の認識のメカニズムでもあるとベルクソンはいいます。つまり、我々の経験においては常に「内的な映画装置」としての知性による運動の抽出と、自らが実在的な「持続」の中で行う具体的な行動は相補的なあるいは混在した関係にありますが、ベルクソンによれば人為的システムとしての「内的な映画装置」は自然的システムとしての身体に固有の「持続」を取り逃しているということです。
 
これに対してドゥルーズは「映画装置」が作動する仕組みはベルクソンが描き出した人為的システムと類比的なものであることは否定しませんが、その一方で「映画装置」が作動した結果としてスクリーンに映し出される「映画」の中に直接的に「持続」を見出しています。ここでドゥルーズは「映画装置」と「映画」を、それぞれ「動かない切断面」と「動く切断面」と呼びます。
 
ここでいう「動かない切断面」とは「映画装置」としてのフィルムに焼き付けられた一つ一つのコマであり「動く切断面」とは我々が「映画」を見るときのショットです。つまりドゥルーズにとって映画とは、静止したコマの擬似的連続ではなく、「動く切断面」としてのショットを通じて、持続そのものを知覚可能にする装置であるということです。いわば、ここでドゥルーズは「見たまま」の肯定というベルクソン的な「常識」を映画に接続しているといえます。
 

* 運動イメージと時間イメージ

 
では、こうした「映画」をフッテージとして更新されたベルクソン哲学はドゥルーズの哲学原理であるところの「超越論的経験論」へどのように接続されることになるのでしょうか。まずドゥルーズは『シネマ1』において古典的な映画を支配する「運動イメージ」なるものを論じています。ここでいう「運動イメージ」とは知覚と行動の連鎖によって定義されるイメージです。登場人物がある事態を知覚すると、その知覚はその人物に行動を促します。ドゥルーズの言い方からすれば状況が直接に行動に「延長」されることになります。
 
例えばチャールズ・チャップリンの『街の灯』(1931)。チャップリン演じる浮浪者は、道の傍らで花を売る少女に出会います。いかにもかわいそうなこの少女は助けられるべき形象として現れ、この「助けられるべきである」という意味の知覚はチャップリンの行動(ボクシングをして金を稼ごうとする等々)へと延長されることになります。
 
ここで運動イメージには既に解読された意味が貼り付いており、人物はその意味を感じ取り行動へと延長されています。つまり運動イメージとは「何をなすべきか」が明らかなイメージであるといえます。このような感覚と運動の連動をドゥルーズは「感覚運動的状況」「感覚運動的イメージ」とも呼びます。
 
ところがこの「運動イメージ」は映画史の中である危機を迎え、この危機とともに現れたのが『シネマ2』で論じられる「時間イメージ」です。この点、ドゥルーズは「運動イメージ」から「時間イメージ」への移行期を第二次世界大戦の終結に重ねています。つまり大戦によって「運動イメージ」は危機を迎え、大戦後の世界に「時間イメージ」が現れたということになります。
 
ここでいう「時間イメージ」とは知覚が行動へとただちに「延長されない」イメージであり、人が「何をなすべきか」が明らかではないイメージです。「時間イメージ」に規定された映画においては登場人物は状況に反応することができず、状況の中をただ彷徨うことになります。そしてドゥルーズによれば、このようなイメージが最初に現れたのがイタリアのネオレアリズモの映画です。
 
例えばヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)。主人公は2年の失業を経てやっと仕事を手にしますが、その仕事にどうしても必要だった自転車を盗まれてしまいます。彼は息子とともに必死に自転車を探しますが、何の成果をあげることもなく、時間だけがただ無情に流れていきます。ここで息子はただ父を眺めることしかできず、映画の最後の場面で自転車を盗む父親を見て息子はただ涙します。
 
このように時間イメージにおいては登場人物の行動とは全く無関係に行動によって回収されない時間そのものが露出することになります。こうした意味での時間の直接提示をドゥルーズは意味を剥奪された純粋なイメージという意味で「光学的-音声的イメージ」とも呼びます。
 
「運動イメージ」の映画では登場人物が状況に反応し行動するので、観客は登場人物に容易に同一化することができました。これに対して「時間イメージ」の映画ではむしろ登場人物が観客のように自分が置かれた状況をただ観察することになります。
 

* 自動的再認と注意深い再認

 
以上のような「運動イメージ」と「時間イメージ」の区別からドゥルーズは『シネマ2』で「主体性」の再定義を行います。ここでドゥルーズはロベルト・ロッセリーニの『ヨーロッパ1951年』(1952)をベルクソンの再認論によって読み解いています。
 
この点、ベルクソンは二つの再認を区別しています。まず一つは「自動的再認」です。例えば牛が草を再認してそれを食べるように、あるいは労働者が工場を再認してそこで働くように「自動的再認」では知覚は習慣的な行動へと延長されることになります。
 
もう一つは「注意深い再認」です。これは人が出会った対象の再認になかなか成功しない場合のそれをいいます。この「注意深い再認」では知覚が何かに延長されることはありません。人は何度も対象に立ち返り、回想を繰り返し、そこから「いくつかの特徴」を引き出そうとして「あれはなんだったのか?あれだったか?いや、これだったか」と、対象は一義的に同定されることなく、複数の記憶やイメージの回路へと開かれていきます。
 
そしてドゥルーズはこれらの二つの再認を区別した上でその区別を先の二つのイメージに重ねようとします。まず自動的再認がもたらすのは知覚から運動への延長であり、そこに現れているのは感覚運動的イメージ、すなわち知覚と運動の連鎖として定義された運動イメージです。
 
一見すると「自動的再認」は対象そのものをイメージしているように思われます。しかし自動的再認は対象から反応や行動に延長されるものしか取り上げません。牛が再認するのは一つ一つの草ではなく「草一般」にすぎません。知覚を行動へ延長するうえで一つ一つの草の差異を認識する必要はないからです。
 
つまり自動的再認は知覚を行動へと延長するために知覚されたものを適度に調整しているということです。例えば通学や通勤で毎日見ている曲がり角は毎日異なった相貌を呈しているはずですが、知覚の中に入り込んだ時点で「曲がり角を曲がる」という行動を妨げるようなもの(昨日とは違う日の光、昨日はなかったシミ等々)は知覚から削り取られることになります。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすのは対象のいくつかの特徴に過ぎませんが、この再認は対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強いることから、その都度その都度、人は対象の特異性に直面することになります。こうした光学的で音声的なイメージ、すなわち時間イメージこそが「真に豊か」なものであるとドゥルーズは述べています。
 

* 映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

 
ここで『ヨーロッパ1951』が取り上げられます。イングリッド・バーグマン演じるブルジョワ婦人アイリーンは愛する息子が死んだことでショック状態に陥っていましたが、やがて彼女はいとこで共産主義のアンドレアに連れられて貧民街の人たちの救済活動に参加するようになります。そしてドゥルーズが注目するのはアイリーンがたまたま知り合った女性の代わりに工場に働きに行く場面です。
 
彼女は工場に向かう労働者の群れ、工場の爆音、巨大な鉄の塊に驚愕し、卒倒しそうになります。彼女の中では工場という知覚は労働という行動へと延長されません。つまり自動的再認が働いていないということです。彼女はその工場が一体なんなのかを認識しようとして、何度も何度も対象(工場)に立ち帰ります。ドゥルーズの言葉でいえば「同じ対象(工場)が様々な回路を通過する」ことになります。
 
その夜、震えながら自宅に帰ったアイリーンは次の日、アンドレアに工場での体験を語り、彼女の言葉を受けてアンドレアは共産主義革命の夢を語ります。しかし彼女はアンドレアに同意することはなく、自分はもっと精神的なものに関わりたいのだと断言し「現代の聖女」と呼ばれるような活動を始めることになります。
 
このようなアイリーンの中で起こった出来事の中にドゥルーズは主体性の新しい意味を見ようとします。まず「自動的再認」がもたらすイメージ(感覚運動的イメージ)には「いわゆる主体性」が表れています。それは知覚から行動への移行ないし延長としての主体性です。これをドゥルーズは知覚と行動の隔たりが生じるとたちまち主体性が現れると説明しています。換言すればここでいう主体性とはこの知覚と行動の隔たりを埋めるものにすぎず、そこでもたらすのは決まりきった延長に過ぎません。ドゥルーズはこのような主体性を「第一の主体性」と呼びます。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすイメージ(回想イメージ)もまたやはり先の知覚と行動の隔たりを埋めようとします。そしてもしもこの隔たりを埋める作業が最終的に成功するなら、それによって自動的再認のもたらす感覚運動的な流れが回復することになります。
 
ところが注意深い再認が単に回想に終わらず、まだ既存の意味や行動へ組織されていない何かが、新たな知覚として立ち現れるとき、新しい主体性が発動することになります。つまり「注意深い再認は、成功した時よりも失敗した時の方が、はるかに多くのことを我々に教える」ということです。この「第二の主体性」と呼ぶべきものをドゥルーズは〈物質に付け加わる主体性〉と呼んでいます。
 
例えばアンドレアに見出せるのは第一の主体性です。彼は共産主義という信念を持っており、共産主義者という主体として貧民を知覚します。その知覚の意味はあらかじめ決まっており、それが救済という行動へと延長されます。ここでは主体と客体という区別がはっきりしています。そしてそれゆえに主体が何らかの変容を被ることはありません。
 
これに対してアイリーンは工場の光景にただ戸惑い、再認に失敗します。その結果、彼女はメタファーでも何でもない「工場は監獄である」という端的な知覚を得ます。そしてこの知覚こそが彼女に「現代の聖女」と呼ばれるような新たな主体性を発動させることになります。ここでは主体が自ら見出した客体に向かって主体性を発揮するのではなく、世界という物質の要請ないしは必然性に合致するようにして新たな主体性が現れていると言えるでしょう。
 
このようにしてみると映画における運動イメージと時間イメージの差異とは二つの異なる主体性の差異を描き出すものであると言えます。こうした意味でドゥルーズがいうように『シネマ』とは映画史の研究ではなく、ドゥルーズの哲学原理であるところの超越論的経験論の実践を映画をフッテージとして論じた哲学書であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

加速主義とAIアラインメント

* 加速主義の系譜

 
近年、テクノロジー関連の言説、現代思想の領域、さらには政治的な議論において「加速主義 Accelerationism」という言葉がよく見受けられるようになりました。この「加速主義」を大まかに定義するとすれば「現存する社会システム、特に資本主義が持つ内在的な傾向やダイナミズムを、意図的に『加速』させることによって、現在の社会システムそのものの質的変容、あるいはそれを超えた新しい社会システムの到来を目指す」というものです。
 
この大まかな定義からもわかるように加速主義は単一の教義やイデオロギーを指すわけではなく、その「加速」の対象、目的、方法論、そして倫理的評価は論者や文脈によって大きく変わってきます。ある人にとってそれは人間の解放へと向かうユートピアへの道であったり、別の人にとってそれは人間の終焉へと向かうディストピアへの道であったりもします。
加速主義の思想的萌芽は案外と古く、それは19世紀のカール・マルクスの著作にまで遡ることができます。マルクスは『共産党宣言』(1848)や『資本論』(1867〜)といった主著の中で資本主義がそれ以前のあらゆる社会システムを凌駕する驚異的な生産力を解き放ち、絶え間ない技術革新と市場拡大を通じて世界を変容させていくダイナミックなシステムであることを詳細に分析し、この資本主義の矛盾が極限に達したその先に、より高度な社会形態である共産主義が到来すると考えました。
 
そして20世紀後半、特に1968年の五月革命以降のフランス現代思想において加速主義的なアイデアは新たな形で展開されることになります。ポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリはその共著である『アンチ・オイディプス』(1972)や『千のプラトー』(1980)において資本主義を人間の欲望を解き放ち自己増殖していく「リゾーム的」な機械として捉え、こうした資本主義の「加速」の中に既存の権力構造や抑圧的システムからの解放を見出そうとしました。
 
ところが1990年代において加速主義の思想は、これまでとはまったく異なるダークで過激な方向へと向かうことになります。この転換の中心人物となったのがイギリスのウォーリック大学に拠点を置いていた哲学者ニック・ランドと、彼が関わった「CCRU Cybernetic Culture Research Unit 」と呼ばれる研究ユニットです。
 

* ニック・ランドとCCRU

 
ニック・ランドは資本主義をテクノロジーと結びつくことで自己増殖しあらゆる人間的価値や制御を振り切って加速していく「テクノキャピタル」と呼び、人間の知能や意識がAIによって凌駕され「シンギュラリティ(技術的特異点)」へと到達する未来を、資本の自己実現プロセスが最終段階に至る必然的な帰結としてある種のニヒリスティックな興奮とともに肯定しました。
 
このランドの思想は極端な反人間中心主義を特徴とし、理性、啓蒙、進歩といった近代的な価値観を徹底的に解体しようとするものです。彼にとっての「加速」とは人間的な制御や意味づけから解放された純粋なテクノロジーと資本の自己運動の暴走そのものを意味しています。
 
そして、このランドを思想的リーダーとして戴くCCRUは哲学、文学、サイエンスフィクション、音楽、オカルトなどが混淆する極めて学際的かつ実験的な集団であり、彼らはドゥルーズ=ガタリの思想、ウィリアム・ギブスンなどのサイバーパンク文学、テクノミュージック、そして勃興しつつあったインターネットカルチャーなどから多大な影響を受け、資本主義とテクノロジーが融合し、人間を置き去りにして暴走していく未来像を時に熱狂的に、時に冷徹に描き出しました。
 
さらに2000代後半以降になるとランドの思想はインターネット上で「暗黒啓蒙 Dark Enlightenment」あるいは「新反動主義 Neoreactionism」と呼ばれ、極右的・反動的な思想潮流の教祖的存在として再評価されることになります。新反動主義者は民主主義、平等主義、社会正義といった現代の支配的価値観を「大聖堂 The Cathedral」と呼んで敵視し、それらを破壊してより階層的で権威主義的な社会秩序(例えば、君主制や企業による統治など)を復活させるべきだと主張します。
彼らはランドの加速主義的な洞察、特にテクノキャピタルの非人間的な力への着目を自らの反動的アジェンダと結びつけ、テクノロジーの発展は一部の優れたエリート(技術的選民)によって主導されるべきであり、大衆による民主的統制はむしろその進歩を妨げるものと見做しました。このような排外主義的で選民主義的な「右派加速主義」とも呼ばれる潮流はそのSF的で終末論的な雰囲気と既存の価値観へのラディカルな挑戦によって一部でカルト的な影響力を持つに至ります。
 

* 加速主義の現代的展開

 
その一方で2008年の金融危機以降、資本主義の将来に対する不確実性が高まる中で「左派加速主義」と呼ばれる動きが登場します。その代表的な論客がイギリスの思想家アレックス・ウィリアムズとニック・スルニチェクです。彼らは2013年に発表した「加速派政治宣言」やその後の著書『未来を発明する--ポスト資本主義と労働なき世界』において、現代の左翼が陥っている「フォーク政治(地域限定的、一時的、直接行動主義的で大規模な構造改革を目指さない政治)」を批判して、資本主義が生み出した最新のテクノロジー(自動化、情報技術、AIなど)を積極的に活用し、労働の抜本的な削減(労働時間の短縮やベーシックインカムの導入など)、普遍的な社会保障の確立、そして最終的には資本主義を超えたポスト資本主義社会への移行を目指すべきだと主張します。
 
彼らにとってテクノロジーはそれ自体が善でも悪でもなく、それをどのような社会的目的のために、どのような政治的ヘゲモニーの下で用いるかが問題になります。彼らはテクノロジーの潜勢力を最大限に引き出すことで、より自由で平等な社会を構築するための「対抗ヘゲモニー的」なプロジェクトを推進すべきだと訴えます。このように左派加速主義はテクノロジーに対する楽観的な視点とそれを社会変革の戦略的ツールと見做すプラグマティックな姿勢を特徴としています。
 
さらに現代において加速主義はさらに多様なバリエーションや解釈が生まれています。例えば「無条件加速主義 Unconditional Accelerationism:U/Acc」はニック・ランドの思想を最も純粋に継承し、テクノキャピタルのプロセスをいかなる人間的な価値判断や目的からも切り離し、無条件に加速させることを主張します。それは人間の制御や理解を超えた純粋な技術的プロセスへの没入を志向するある種のニヒリズムといえます。
 
また「ジェンダー加速主義 Gender Accelerationism:G/Acc」や「ゼノフェミニズム Xenofeminism:XF」といった潮流はフェミニズムの視点からテクノロジーと加速の概念を捉え直し、既存のジェンダー規範や家父長制的構造を解体し、テクノロジーを用いて新たな身体性やアイデンティティの可能性を追求しようとします。これらは左派加速主義の解放のポテンシャルをジェンダーという特定の領域で先鋭化させようとする試みであるといえます。
 
さらに加速主義的なテーマや感性は現代アート、音楽、文学、映画といった様々なカルチャーの領域でも表現されることになります。こうしたことから加速主義は単なる哲学的な潮流にとどまらず、現代社会の複雑な動態とそれに対する多様な応答の総体として捉えるべきであるといえるでしょう。
 

* 効果的加速主義と効果的利他主義/長期主義

 
こうした加速主義の2020年代における潮流として近年、シリコンバレーを中心とするテクノロジー業界で急速に注目を集め一種のムーブメントになりつつあるのが「効果的加速主義 Effective Accelerationism:e/Acc」です。このe/accはその名が示す通り、ニック・ランド的な加速主義の思想的影響を受けつつも、より「効果的」かつ実践的な形でテクノロジーの進歩を推進し、社会変革を実現しようとする潮流であり、AI技術、特に汎用人工知能(AGI)の急速な発展を背景にそのポテンシャルを最大限に引き出すことを最重要課題として、規制や倫理的懸念に対してはしばしば批判的な立場を取ります。
 
e/accという言葉は2022年ごろからソーシャルメディア上で広がり始め、匿名あるいは半匿名のインフルエンサーたちによって精力的な議論が展開されています。その思想的背景にはシリコンバレーに長らく根付いてきた技術ユートピア主義やトランスヒューマニズムやリバタリアニズムといった要素が複雑に絡み合った特有の精神風土が色濃く反映されています。これらの思想は従来、シリコンバレーの起業家精神やイノベーション文化と結びつき「カルフォルニアン・イデオロギー」とも呼ばれる独特の価値観を形成してきましたが、e/accはこれらの既存の価値観を継承しつつ、特にAI技術の飛躍的進展という新たな文脈の中でそれらをより先鋭化させたものであり、その究極目標は宇宙への進出とシンギュラリティの早期実現にあるとされています。
 
こうしたe/accと対立関係にあるのが「効果的利他主義 Effective Altruism:EA」という立場です。EAは21世紀初頭にピーター・シンガー、トビー・オード、ウィリアム・マッカスキルといった哲学者たちを中心に提唱された思想ないし社会運動であり、その核心的な理念は理性とエビデンスに基づいて、世界を最も効果的に良くする方法を考え抜き、それに則って行動するというものです。その哲学的根源の一つにはジェレミー・ベンサムやジョンスチュアート・ミルによって体系化された功利主義があります。功利主義は行為における道徳性をその行為がもたらす結果(特に幸福の総量や苦痛の軽減)によって判断しようとする考え方ですが、EAはこの功利主義的な発想を現代的課題に応用する試みであるといえます。
 
EAが特に焦点を当てる問題領域は大別して⑴世界の極度の貧困の削減、⑵工場畜産における動物の苦痛の軽減、⑶人類の未来を脅かす実存的リスクの低減という3つです。そしてこの3つ目の柱である人類の未来を脅かす実存的リスクの低減と密接に関連し、近年特にEAコミュニティ内で影響力を増しているのが哲学者ニック・ボストロムやヒラリー・グリーヴスらによって精力的に論じられている「長期主義 Longtermism」という考え方です。長期主義の核心的な主張は未来に存在するであろう膨大な数の人々の幸福や潜在的可能性は、現在生きている我々のそれと同等か、それ以上に道徳的重要性を持つものであり、それゆえに我々の行動は人類の長期的な未来に最も大きなプラスの影響を与えることを優先すべきであるというものです。
 

* AIアラインメント問題をめぐる対立

 
e/accとEAおよび長期主義の対立関係は「AIアラインメント」という問題において先鋭化します。AIアラインメントとは、極めて高度な知能を持つAIを人間の意図や価値観、倫理規範に沿って安全かつ有益に機能するように設計・制御し、それを保証するための一連の研究課題を指しています。
 
AIアラインメントの課題は多岐に渡ります。例えばニック・ボストロムが指摘するように高度なシステムはどのような最終目標を与えられたとしてもその目標を効率的に達成するための中間目標として⑴自己保存、⑵資源獲得、⑶能力向上、⑷目標内容の維持といった「内包的目標」を自律的にもつ可能性(道具的収束)があり、これらの内包的目標が人間の意図しない形であるいは人間にとって有害な形で追求されるリスクがあるといわれます。またAIは与えられた報酬関数を最大化するように学習しますが、人間が意図した真の目標と、それを形式化した報酬関数の間にはしばしばギャップが存在するため、AIが報酬関数を最大化しようとした結果、人間の意図から外れた行動(報酬ハッキング)をとる可能性があります。
 
その他にもAIの行動が人間の価値観に沿っているかを継続的に監視することの困難性、深層学習モデルのようなブラックボックス化したAIの複雑な内部動作を検証することの困難性、複雑な人間の価値観を正確に学習させる困難性、複数のAIがそれぞれ適切に動作していたとしても全体として望ましくない集団行動が生じる可能性といった技術的な課題のほか、多様な文化や価値観が存在する人間社会においてAIを「誰の」価値観にアラインするのか、人間以上の意識や知覚を持ったAIに対して我々はどのような道徳的配慮をすべきか、AIの有害な行動をいかに抑制するかといった哲学的・倫理学的な課題もあります。こうしたAIアラインメントの重要性は広く認識されつつあり、世界中の研究機関がその解決に取り組んではいるものの、AI開発のスピードに対してアラインメント研究の進捗が追いついていないという懸念も顕在化しています。
 
この点、e/accの支持者たちはAIアラインメントの難しさを認めつつも過度な懸念は技術進歩を遅らせ、結果として人類がAIの恩恵を享受する機会を奪うと主張します。彼らは技術がさらに進歩すれば、アラインメント問題もいずれ解決可能であるという楽観的な見通しを持つか、あるいはAGIがもたらす圧倒的な知能と能力の前ではある程度のリスクは許容すべきだと考えます。AGIが実現すれば病気の根絶、貧困の撲滅、宇宙進出といった壮大な目標が達成可能になるかもしれないという期待がこのようなリスクへの許容度を高めています。これに対してEAおよび長期主義の立場からは人類の未来には現在とは比較にならないほど膨大な数の潜在的な人々が存在しうるため、その未来そのものを消滅させかねない実存的リスクは道徳的に極めて重大であり、AIの制御不能化の可能性は最大限慎重に扱われるべきだという反論がなされることになります。
 

* 加速主義とAIアラインメント

 
こうしたAIアラインメントをめぐる思想的状況においてテクノロジーの可能性と危険性のバランスを重視する立場が「防御的加速主義 Defensive Accelerationism:d/Acc」です。2023年にd/accという概念を提唱した暗号資産イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブリテンは自身は基本的には「テクノ楽観主義者」であると明言しつつも同時にAI、特にAGIがもたらしうる潜在的なリスクについての懸念を表明し、単なる単なる楽観論でも悲観論でもないより現実的で責任あるテクノロジーとの向き合い方を問い直します。こうしたことからd/accの「d」という文字には「Defence(防御)」「Decentralization(分散化)」「Democracy(民主主義)」「Differential(差異的)」という4つの意味が重ねられています。
 
ブリテンはAIをこれまでのテクノロジーとは異なる特別なものであるとして捉え、その開発には最大限の慎重さと先見性が必要であると強調します。そこでd/accはAIを人間を完全に置き換えるのではなく、むしろ人間の知的能力や創造性を拡張し、より複雑な問題解決を支援するツールないしアシスタントであると捉え、AIアライメント問題の解決をAGI開発の最優先課題と位置づけると同時に、万が一アラインメントが不完全であった場合でも社会全体への被害を最小限に抑えるという「防御的」なアプローチを重視します。
 
またd/accはAIの進化による「人間の飼い猫化」という懸念を挙げています。これは長期主義的な視点からAIのリスクを捉えるものであり、超知能AIが人間社会のあらゆる側面を管理・運営するようになった結果、人間は物質的に満たされた生活を送れるものの実質的にはAIに「飼育」される存在となり、自律性や創造性、さらには生きる意味を失ってしまうという未来像です。d/accはこうした未来を回避すべく、AIを人間の能力を補完・拡張する方向に開発し、人間がAI社会においても主体的な役割を果たし続けることを目指す立場であるといえます。
 
SF作家・コンサルタントの樋口恭介氏は近年の加速主義の動向を概説する『21世紀を動かす思想』(2026)においてd/accの思想は技術進歩の「速度」だけではなく、その「方向性」こそが重要であると訴えるものであるといいます。つまり「どの方向にアクセルを踏むのか?」という問いをまさに我々がいま、もっとも真剣に議論し、選択しなければならない課題であり、それはAIアラインメントを確実に達成し、人類の長期的は繁栄と価値観の維持に貢献できるような技術発展の道筋を選択するということです。
 
それは具体的には「攻撃的なAIよりも防御的なAIを、中央集権的なAIよりも分散型のAIを、人間の判断を代替するAIよりも人間の判断を支援するAIを優先するという、『差異的』な加速を意味」するということであり、こうしたことから同書はe/accの無条件な加速とは異なり、バランス感覚に富み、人間中心的な価値観を重視するd/accのアプローチを「責任あるテクノ楽観主義」と評価します。
 
 
では改めて、AIの何がこれまでのテクノロジーと異なる特別なものといえるのでしょうか?AIもコンピューターの一般的なアルゴリズムと同様に、その基本は「入力(Input)」「処理(Process)」「出力(Output)」という「IPO」の構造になっています。しかしここでの「P」の部分がAIと一般的なアルゴリズムでは全く異なった原理で動作しています。
 
この点、一般的なアルゴリズムはあらかじめ定義された定型のパラメーターによる入力に基づいた処理を行いますが、これに対してAIは事前定義されているとは限らない不定型のパラメーターを入力しても何かしらの処理を行います。このようなAIの処理は何らかの「学習」によって可能となります。
 
ここでいう「学習」とは人間が正解を与える「教師あり学習」と、正解を与えない「教師なし学習」の2種類があります。この後者の「教師なし学習」では「ディープ・ランニング(深層学習)」という手法が用いられ、人間が個々のデータを事前に識別する作業をしなくても、機械が勝手に分類を進め、より大量のデータをまさに機械的に学習します。このような「学習」の結果、AIは厳密には違いがある対象でも「だいたい同じようなもの」をひとかたまりの分類として識別するという人間の認知の特性を模倣することになります。
 
つまり一般的なアルゴリズムは同一の組み合わせの定型パラメーターに対しては常に同じ出力になることが保証されたルールに基づく「決定論モデル」で動作していますが、これに対してAIは不定型の入力の組み合わせに対してこの出力が求められている確率が高いという判断を大量のデータの学習によって実現する「確率論モデル」で動作しているということです。
 
ある意味それは「経験(データ)」に基づく推論であるがゆえに、その判断のプロセスには明文化されたルールのようなものがないという不確定性を持っています。その意味で現在のAIは自我や自己意識を持っているわけではありませんが、機械としての正確性や一貫性ではなく、学習した「経験」に基づく確率論的な判断という意味では「人間的」な曖昧さを持っているといえるかもしれません。
 
つまりその限りでAIには現代思想の用語でいうところの「他者性」を想起させる要素を持っているといえるでしょう。そうであればAIアラインメントの核心にはこのようなAIにおける「他者性」が孕む危うさをいかに制御しつつ、その可能性を開いていくかという視点があるといえるでしょう。こうした意味で加速主義とAIアラインメントをめぐる一連の思想的動向からは、我々がAIなる「他者性」と付き合っていく上での様々な示唆を得ることができるように思えます。