かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

柳田国男の山人論からアソシエーションへ

* 柳田国男の山人論

 
日本民俗学の祖、柳田国男はその初期において『後狩詞記』(1909)『遠野物語』(1910)をはじめとする一連の民間伝承に関する論考を発表していますが、そこでのテーマとしているものの一つに「山人」の問題があります。ここでいう「山人」とは日本列島に先住していた狩猟採集民で、後に農耕民によって山に追いやられた存在であるとされます。この「山人」はその実在を確かめることはできず、彼らは多くの場合「天狗」のような妖怪として表象されています。
 
この「山人」の問題についての柳田の主な関心は「山人」の存在が一般の人々の信仰生活にどのような影響を及ぼしているかにありました。柳田は日本列島の先住民である「山人」の持っていた「山の神」に対する信仰が一般の人々の信仰生活に一定の影響を与えているとして、日本人の宗教意識の原像を明らかにするには、それを構成している一つの要素として「山人」の生活と信仰を捉える必要があると考えていました。
 
そして、この「山人」をめぐる柳田の総決算的な著作である『山の人生』(1926)では『遠野物語』に収録された伝承を関連する各地の伝承も参照しながら理論的な検討が行われています。ところが、それ以後どういうわけか柳田は「山人」の問題を直接的には扱わなくなってしまいます。このことから戦後、1970年代以降においてポスト構造主義やポスト・コロニアリズムの観点から「山人」への関心を放棄した柳田の民俗学は彼が「常民」と呼ぶ稲作農民に偏重した民俗学であり、当時のナショナリズムと深く結びついた「一国民俗学」であるという批判を呼ぶことになります。
 
こうした批判の中、文芸批評家の柄谷行人氏は「柳田国男論」(1986)という論考において柳田が「常民」と呼ぶものは本来、農民だけではなく漂泊民や芸能民や被差別民も含む概念であることから、柳田のいう「常民」を農民中心主義だとして批判するのは不当であると主張しました。そして、比較的近年の著作である『遊動論 柳田国男と山人』(2014)において柄谷氏はあらためてこれまでの柳田批判に答える形で、確かに柳田は山人について論じるのをやめたけれども、それは山人論を放棄することを意味していないと主張しました。ここで鍵となるのが氏が同書で提示する「遊動性」という概念です。
 

* 農政論と山人論のあいだ

柳田は1900年(明治33年)に24歳で東京帝国大学を卒業して農商務省に入省しますが、同時に早稲田大学で「農政学」の講義を始め、1902年には法制局参事官となり農政学の研究に専念します。
 
柳田が官僚になった当時、支配的であった農政論は東京帝国大学教授、横井時敬が説く「農業国本論」でした。言うまでもなく明治国家の政策は根本的には「富国強兵」にありましたが、横井の考えでは「富国」に必要なものが商工業であり「強兵」のため不可欠なものが農業ということになります。それゆえに横井は「小農(小作人)」の保護政策を唱えましたが、それは現実には「大農(不在地主)」を容認することにつながりました。
 
これに対して、柳田の構想した農業政策は農家が国家に依存せず協同組合による「協同自助」を図ろうとするものです。そして柳田はそのような「協同自助」の理想形を調査旅行で訪れた宮崎県西北部の椎葉村に見出しました。同村につき柳田は「此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピヤ』の実現で、一の奇蹟であります」とまで書いています。
 
このような椎葉村の人々との邂逅を契機に柳田は「山人」に関心を持ち始めるようになります。もちろん椎葉村の人々は焼畑と狩猟に従事する「山民」でしたが、日本列島の先住民たる「山人(の末裔)」ではありません。しかし「山民」における「協同自助」の観念は「山人」の持っていた「遊動性」に由来してます。
 
その後、先述のように柳田は山人について論じるのを(表面上は)やめますが、柄谷氏によれば柳田の山人論には二つの意味があります。第一にそれは先住民、異民族を意味しています。第二にそれは柳田がかつて椎葉村にみた遊動性・ユートピア性を意味しています。柳田は山人論を放棄したという場合、通常は第一の意味で語られます。しかし第二の意味では柳田は山人論を放棄しておらず、むしろ絶えずそれを追求していたと氏はいいます。
 

* 柳田の固有信仰論

 
そして柄谷氏によれば、柳田は山人に迫る手がかりを日本における「固有信仰」に求めようとしていました。すなわち、柳田のいう「固有信仰」とは稲作農民の社会が成立する以前の狩猟採集段階に由来するものであり、それゆえに「固有信仰」の探究とは実は「山人」の探求に他ならないということです。
 
柳田が推定する固有信仰とは次のようなものです。人は死んで間もない時は強い穢れを持つ「荒みたま」ですが、子孫の供養や祭りをうけて浄化され、やがて「御霊」となり、この御霊の融合体である祖霊神は「氏神」と呼ばれます。
 
祖霊は故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守ります。生と死の二つの世界の往来は自由であり、祖霊は盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となります。また個別的な霊は一つの御霊に融合してもその個別性がなくなることはなく、御霊は現世に生まれ変わってくることもあります。
 
柳田のいう固有信仰の特徴は祖霊は血縁の遠近や、あるいは生前の地位や貢献度とは関係なく平等に扱われる点にあり、その核心は祖霊と生者の相互的信頼にあります。そして柳田が特に重視したのは祖霊がどこにも行けるにもかかわらず、生者のいるところから離れないという点にあり、それは子孫の祀りや供養に応えてそうするのではなく、自発的にそうするとされています。
 
すなわち、そこには何かしらの見返りを期待する互酬的な関係ではなく、何も見返りを期待しない家族愛的な関係を見出すことができます。ここに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に注目する最大の理由があります。
 

*「外部」「他者」としての「山人」と交換様式論

 
こうした一連の議論は柳田国男の再評価にとどまらず、柳田のいう「山人」がこれまで柄谷氏が一貫して追求してきた「他者」や「外部」といったテーマを体現する存在であったことと深く結びついています。
 
柄谷氏はデビュー作『畏怖する人間』(1972)において小林秀雄江藤淳吉本隆明に続く次世代を担う評論家として注目されますが、氏にとって文芸批評とは単なる文学作品の解釈でなく、あくまで自身の実存的な危機意識に基づく「存在の自覚」「自己の資質の検証」というべき思索であり、やがて氏は文芸批評そのものからの脱却を試みるようになり、この脱却作業において「他者」や「外部」といった概念が提出されることになります。さらに、こうした「他者」や「外部」の問題は後期になると、それらとの邂逅や交流の問題へとシフトして、ついには共同体と共同体のあいだの「交換」という問題に行き着きます。
 
柄谷氏は後期の主著である『世界史の構造』(2010)において「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」という3つの「交換」のあり方から社会や歴史を論じています。ここでいう「交換様式A(互酬)」とは北アメリカの北西岸に広がる「ポトラッチ」のように互いに贈与をし合う「交換」をいい「交換様式B(略取-再配分)」とは王と臣民の関係のように征服者が略取によって得た富をあらためて自分に従う側に再配分する「交換」をいい「交換様式C(商品交換)」とは近代市民社会に広く流布している貨幣を媒介とする「交換」をいいます。
 
このような「交換」の三つ組の概念はもともと経済人類学者カール・ポランニーによって社会統合の基礎概念として提出されたものですが、柄谷氏はこの概念を利用しながらもポランニーとは異なった独自の構想を発展させていくことになります。この点、柄谷氏によればこれら3つの「交換」はそれぞれが持つ固有の権力に基づいた社会を構成することになります。すなわち、まず「交換様式A(互酬)」は「掟」に基づく「ネーション」を構成します。次に「交換様式B(略取-再配分)」は「暴力(武力)」に基づく「国家」を構成します。そして「交換様式C(商品交換)」は「貨幣」に基づく「資本」を構成します。そして近代社会においてはこれらの3つの「交換」が三位一体として一つの複合体を構成しており、このような「交換」の複合体を柄谷は「ボロメオの環」に準えています。
 

* 遊動民とアソシエーション

 
このように柄谷氏は近代における「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」からなる共時的な相補的構造を論じるとともに、同じ交換様式論を使って近代に至るまでの社会構成体の通時的な展開過程を説明します。
 
ここで氏はカール・マルクスが『経済学批判』で挙げている初期氏族社会の無階級原始社会、農業と専制を特徴とするアジア的生産様式、古代の奴隷制社会、中世の封建制ブルジョワ的資本主義的生産様式といった5つの発展形態を踏まえつつ、自身の立てた交換様式論に照合して社会構成体の展開過程を次のように分類します。
 
すなわち⑴交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体と⑵交換様式B(略取-再分配)を特徴とするアジア的社会構成体、古典古代社会構成体、封建的社会構成体と⑶交換様式C(商品交換)を特徴とする資本主義的社会構成体という分類です。その上で氏は交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体において「定住」を強調します。つまり、論理的にはそれ以前には「定住」がなかった遊動的な段階があることを想定しています。
 
こうして交換様式Aの彼岸に「遊動民」という特別な観念が立ち上がることになります。そしてこのような「遊動民」によって行われる「交換」のあり方を氏は「交換様式D(氏はしばしこれをXと表現しています)」として位置付けます。
 
この新たに立てられた「交換様式D(ないしX)」には「交換様式A」と同じく互酬の原理が当てられていますが「交換様式D」は「交換様式A」への単純な回帰ではなく、それを否定しつつも、高次元において回復するものであると氏はいいます。そして、このような「交換様式D」に対応する社会構成体ないし運動体を氏は「アソシエーション」と呼びます。すなわち、氏はこの「アソシエーション」の理念を体現する「遊動民」の範例を柳田が探求した山人論ないし固有信仰論に見出していたということです。
 

* 観光客と分析家のディスクール

 
このように、交換様式Dとは定住を開始する前の遊動民にみられる「交換」のあり方です。遊動民においては生産物を蓄積することができないため、その生産物は共同体間で平等に分配されることになります。また他の部族と遭遇した場合に戦争を避けるために贈与を行うことがあったとしても、その遭遇は一期一会のものであるため、返礼の義務は発生しません。このように遊動民は交換様式Bや交換様式Cとは無縁であり、つまり交換様式Dは資本制的な結合体に回収されないものとなります。
 
もっとも柄谷氏自身は具体的にこの「交換様式D」につきあいまいな規定しか明示しておらず、氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」とはいかなる実践を表すのかという問いはいまだに開かれています。
 
例えば東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)においてナショナリズムグローバリズムからなる二層構造を往還する誤配の主体として「観光客」という概念を提唱し、そのアイデンティティを「市民社会」と「国家」の後に回帰してくる「家族」の脱構築的な新たなあり方に求めています。
 
そして東氏は柄谷氏のいう「ネーション」「国家」「資本」とは、それぞれ氏のいう「家族」「国家」「市民社会」に対応するものであるとして、柄谷氏のいう「アソシエーション」を「家族」の「高次元での回復」として捉え直しています。こうした観点から氏は『観光客の哲学』の続編である『訂正可能性の哲学』(2023)において「家族」という概念をあらゆる訂正可能性に開かれた解釈共同体として提示しています。
また松本卓也氏は『享楽社会論』(2018)においてフランスの精神分析ジャック・ラカンの理論を援用し柄谷氏のいう「交換様式D」はちょうどラカンが「分析家のディスクール」を「資本主義からの出口」と評したことに対応するとしています。
 
この点、現代ラカン派において「分析家のディスクール」とは精神分析の始祖ジークムント・フロイトが唱えた「エディプス・コンプレックス」のような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体性愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれた一つのシニフィアン(S1)の析出を目指していると考えられています。
 
そして、このシニフィアン(S1)は新たな主体化の核となり、己の人生を非エディプス的な特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能とするものとして、それは人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な圧力に抗い「すべてではない(すなわち、決して「すべて」を構成しない)」という生のあり方を発明し、その生のあり方を生きることにつながるであろうと氏は述べています。
 
確かに柄谷氏が柳田の山人論ないし固有信仰論に見出そうとした「アソシエーション」の核心にある「遊動性」とはナショナリズムグローバリズムからなる二層構造や、人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力を訂正あるいは撹乱する潜勢力を持っているように思えます。そうであれば、こうした現代思想において提示された視座から改めて、柳田民俗学が描き出した軌跡を辿り直してみることもできるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

柳田国男と氏神信仰

* 学問救世としての民俗学

 
日本民俗学創始者柳田国男は1875年(明治8年)に兵庫県の神東群辻川村(現在の神崎郡福崎町)に生まれ、1900年(明治33年)に東京帝国大学卒業と同時に農商務省に入省し、それからほぼ20年ものあいだ官僚として農業政策に携わり、その間には産業組合など農業団体との関係で講演や視察のため全国各地をまわり、いくつかの農政論の著作を発表する傍らで、今日知られる代表的著作の一つである『遠野物語』(1910)をはじめとする民間伝承に関する著作や論考を書いています。
 
 
1913年(大正2年)からほぼ4年間、柳田は『郷土研究』という雑誌を発行し、そこに農政論的視点からの農民生活についての論考と一連の民間伝承に関する論考を執筆します。このような柳田の郷土研究(農村生活研究)は農民生活の現状と農業改革の現実的可能性を追求するという農政論的な問題意識につながるものであり、こうした観点から柳田は安定的な経営が可能な自作小農によって日本農業が担われるべく様々な政策的提言を行います。
 
けれども柳田の提言は当時の農政主流において受け入れられず、1919年(大正8年)に貴族院議長徳川家達との確執により貴族院書記官長を辞職した柳田は官界から離れることになり、その翌年、当時、国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の勧めで国際連盟委任統治委員に就任しジュネーヴに赴任します。
 
この渡欧は柳田にとって大きな転機となりました。ヨーロッパ滞在中、ジュネーヴ大学の講義を聴講するとともにヨーロッパ各地を訪れた柳田は、そこで欧米の人文社会科学の最先端と本格的に接触し、それまでの自身の学問を新たな方法でもう一度立て直そうとします。
 
1922年(大正12年)、関東大震災の報を受けた柳田は委任統治委員の職を辞して急遽、帰国し、災後の人々の生活の惨状を目の当たりにしたことで「本筋の学問のために起つ」と決意し、日本における民俗学の方法的確立と研究者の組織化にむけて力を注いで行きます。そこには学問の力で人々を救い、より良い社会を作っていこうとする「学問救世」という柳田の強い願いがあり、この願いこそが柳田民俗学を駆動させるモチーフとなります。
 
そして、このような経緯から立ち上げられた柳田民俗学の枢要部に位置するものが「氏神信仰」という民間信仰研究です。ここでいう「氏神信仰」とは各地域に大体一つは存在する小さな神社に祀られている「氏神さま」「産土さま」「お宮さま」などと呼ばれる神様(氏神)に対する信仰をいいます。柳田はこのような「氏神信仰」こそが日本人の宗教意識の原基形態をなし、人々の内面的な倫理意識と深く関わるものであるとみていました。
 

* 氏神信仰における神観念

 
氏神」とは各々の家の代々の祖霊の融合体を神として祀ったものであり、しばしば「御先祖様」とも呼ばれます。この点、ある地域の氏神は家系の違う人々によって共同で信仰されていますが、古代ではひとつの集落の住民はだいたい単一の家系としての「氏」によって構成されており、個々の氏はそれぞれが集落を形成しながら各々の氏神を信仰していたと柳田は見ています。
 
柳田によれば本来、氏神は血縁的な氏族集団と彼らが占有してる一定の土地との結合を保障するものと考えられており、その意味で氏神は氏族の土地の境を守り、氏族の成員を守護する神とみられていました。ふつう氏神は特定の名前を持たないか、そうでない場合でもその名を口にすることは禁じられていました。なお氏神を「ウブスナ」と呼ぶことがありますが、これは本居にいます神、産土に祭られたまう神、つまり生まれ在所の神という意味です。
 
先述のように氏神は代々の祖霊の融合したものですが、人々は死後すぐに祖霊と融合して神になるわけではなく、死後一定期間ののち、死のけがれから清まり浄化されてから氏神に融合し一体化するものと観念されていました。その期間に年数は各地に様々な伝承がありますが、柳田はほぼ30年前後と推定しています。それゆえに死者の霊には氏神に融合した「みたま」とその年限に達していない「荒忌のみたま」があり、その中でも死後1年未満のものは「荒年の初みたま」「新精霊」などと呼ばれています。また子孫に供養されない霊や怨念を持った霊などの霊は一般に「外精霊」「無縁」と呼ばれ、病虫害や天候不良や伝染病などの災厄をもたらすとされています。
 
そして浄化された霊が融合していく氏神は柳田によれば現世から完全には断絶せず、氏人の居住地からあまり遠くない山の頂きに止まっており、年々時を定めて子孫の家に行き通い長く家の成員をまもり郷土をまもるものと信じられていました。このように氏神信仰は子孫が絶えず、家系が続いていく「家の永続」が重要な意味を持っていました。この「家の永続」の問題が人々の生きがいや価値観に軽視しえない影響を与えており、日本人のいわゆる家族主義の根幹を成していると柳田はみていました。
 
柳田によれば氏神はもともと他の神と一緒にまつられ合祀されることが可能な性質を持っており、こうしたことから「八幡」「天神」「祇園」「賀茂」「春日」「鹿島」「香取」「諏訪」「白山」「熊野」「住吉」「稲荷」「出雲」「愛宕」といった有名な大神をそれぞれの氏神と一緒に祀るという風習が一般化していったとされます。しかし、それは祭神の交代を意味するものではなく、もとの氏神に合祀された神が融合した一体の神と見做されていました。そして、このような氏神信仰を柳田はしばし日本独自の「固有信仰」であるといいます。
 

* 氏神信仰における信仰儀礼

 
このような「氏神信仰」における信仰儀礼について柳田は「祭日」「神地」「神供」「神屋」「神態」に分けて議論を展開しています。
 
「祭日(神事が行われる期日)」における大祭としての春祭と秋祭があります。春祭は本来農作の豊凶を占い豊作を祈願する信仰行事であり、ほぼ田植まえ苗代の支度に取り掛かろうとする頃に行われていました。秋祭は秋の稲の収穫された後に行われるもので、農作物も豊かで供物の品も揃い、もともとは1年もうちでもっとも大きく賑やかな祭でした。
 
また夏祭は元は稲の成長の災いを防ぐ年中行事の一つでしたが、中世ごろから市街地への人口集中などによって流行した疫病が農村に入ってくると、都市で発生した御霊信仰による華やかな祭礼の形式の夏祭が農村に流入するようになります。夏祭に各地で行われる「盆踊り」については稲の病虫害や疫病をもたらす悪霊を足踏み荒らかに追い払おうとしたものがもとかたちであるといわれています。そのほか節句その他の種々の年中行事も元は神祭を基礎にしたものとされています。
 
「神地(神事が執り行われる場所)」は一般に村にある神社とされていますが、かつては常設の神社はなく、ふだん山の上にとどまっている氏神を祭礼時に里の清浄な地に迎え、そこに臨時の仮屋を立ててまつるのが一般的でした。氏神の祭は特定の自然物、ふつうは特殊な樹が神の憑く依代とされ、主要な神事はおもにその樹のもとでなされ、氏神はそこからさらに神の代人として託宣を語る巫女に憑依するものと考えられていました。
 
「神供(神への供物)」については柳田のみるところ、神の食物として様々な収穫を供えるだけでなく、神と人々が食事をともにするためのものでした。この神に供え物をすすめ、それを神と人とが一緒に食する相饗(直会)は氏神信仰において神祭の必須の要件をなしています。例えば3月3日の「桃の節句」や5月5日の「端午の節句」など、1年の節目節目に行われる節句とは「節供(節日の供物)」であり、必ず何らかの供物をささげて神と人とが共同で飲食する行事でした。
 
そして神供の中でも特に稲は特殊な意味を担っており、これは稲に力の根源となり得るものが宿っているという古い信仰に由来します。また米から作られる酒も神供として、とりわけ相饗における聖なる飲物として重視されていました。
 
「神屋(神事を主宰する者)」は柳田によれば、大家族制のもとでは正統直系の血縁系譜を持つ家父長とその妻たる主婦(家刀自)に祭祀執行権があり、殊に主婦が氏神の託宣を語る巫女として重要な位置を占めていました。もっともその後、氏神への有力な神々の勧請に伴い、専門職としての巫女集団が各地で勢力を拡大するようになり、さらにその後、託宣自体があまり行われなくなると巫女の役割も周辺的付随的なものへと位置付けられていくようになります。
 
「神態(神事の具体的内容)」は、神をたたえその来歴をかたる「神歌」「神語り」が最も枢要な部分を構成しており、柳田によればこの神語りは原初的には氏神信仰における神話といいうるものでした。しかしながら、この氏神信仰における神話はかなり古い時期に忘れ去られ、もはやそのままのものとしては残っておらず、僅かに「昔話」「伝説」「語り物」などのかたちでその残影をとどめています。
 

* 氏神信仰と国家神道

 
こうして柳田は神観念と信仰儀礼の両面から氏神信仰の全体像を明らかにしようとしましたが、それは彼にとって一つの「神道」として把握されています。しかし、この柳田が探求した神道としての氏神信仰は当時のいわゆる「国家神道」とはその性質を異にするものとして位置付けられています。
 
第二次世界大戦終結まで大日本帝国の事実上の国教とされてきた国家神道は地域の神社に対する人々の氏神信仰を制度的にその体系の一環として組み込んでいましたが、柳田の研究は人々の氏神信仰をこの国家神道の体系から切り離そうとするものでした。
 
柳田にとって氏神信仰こそが日本における「固有信仰」であり、日本人の心性をその内奥において規定しているものでした。村々の氏神信仰は現実には仏教や道教修験道などの後世の様々な文化の影響を受けて様々なかたちに変容していますが、柳田によれば祖霊、祖神をまつるという氏神信仰本来の姿は古くから「固有信仰」として全国に共通のもので、何らかのかたちでその痕跡を残しており、現在(柳田が生きていた当時)もなお村落の人々をはじめ国民の大多数によって信じられ、人々の生き方の核として連綿として持続してきたものであるとされています。
 
もちろんこのような柳田の主張については様々な異論があります。中でも氏神とは祖霊ではなく、異界から訪れる「まれびと」ではないかという折口信夫の批判がよく知られています。ただ少なくとも近代日本における氏神信仰を神観念と信仰儀礼の両面から描き出した点では柳田の業績にかわるものは現在のところ見当たらず、いずれにせよ近世以降における日本人の精神生活を理解する上で氏神信仰の問題は軽視し得ない重要性を持っていることは疑いないでしょう。
 

* 生命論としての柳田民俗学

 
このようにしてみると、柳田のいう「氏神」とは共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者であり、彼が詳らかにした「固有信仰」とは「氏神」によって共同体を基礎付ける「大きな物語」に他なりません。すなわち、柳田はこうした「固有信仰=大きな物語」から日本社会における精神性を担保しようとしていました。
 
もちろん、ポストモダン状況が加速する現代において、こうした柳田のいう「固有信仰」が「大きな物語」として機能する余地はもはや無いと言わざるを得ないでしょう。けれども柳田の残した一連の仕事はまったく別の観点から読み直すことができるように思えます。すなわち、それは「生命」という観点です。
 
例えば精神病理学者である木村敏氏はその「生命論的転回」の嚆矢となった著作『あいだ』(1988)において次のような仮説を提示します。
 
この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。
 
木村敏『あいだ』より)
生命の実体や起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることはいうまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学によって解明される「生きているもの(生命物質の生命活動)」としての生命とはまた別の位相で「生きていること(生命それ自身の存在様式)」としての生命をいかに捉えるかは依然としてひとつの哲学的な課題であり続けるでしょう。こうした観点から木村氏が仮設する「生命一般の根拠とのつながり」の一つの顕現として柳田の議論は読み直せるようにも思えます。
 
そして、こうした意味で柳田のいう「固有信仰」を生命論的観点から捉え直し、より普遍的なモデルとして更新した想像力として『同時代ゲーム』(1979)から『懐かしい年への手紙』(1987)を経て『燃えあがる緑の木』(1993〜1995)へと至る大江健三郎氏の一連の仕事が挙げられます。
大江氏は『同時代ゲーム』の単行本付録の対談において柳田への強い共感を表明しており、同作で大江氏が描き出した《村=国家=小宇宙》はかつて柳田が『遠野物語』で描き出した遠野盆地を想起するものがあります。そして大江氏は『懐かしい年への手紙』において主人公である「K」の導き手である「ギー兄さん」に柳田のいう「固有信仰」を語らせており、さらにその事実上の続編である『燃えあがる緑の木』ではこうした「固有信仰」が、より普遍的な「世界モデル」へと純化されることになります。
 
「人々は、この谷に生まれ育ち、一度は多様な世界である谷間の外に出るが、やがてふたたび源としての谷に帰ってきます。谷間に流れる川は、本来の地形にあわせて流れると同時に、登場人物の動きからすれば、逆にも流れています。仮想された地形には逆勾配があるのです。「流出」の勾配と同時に、「帰還」の勾配があります。」
 
「なぜ、逆の勾配が発生するのでしょうか。「四国の谷の森」に、この谷に生まれた人びとが死を迎えると、魂は森の樹木の根から、空に向かって昇っていくからです。森には、人を帰還させる力がある。そのように「場所に力がある」のです。つまり、Kは、流出=生、帰還=死という〈生と死の場〉の仮想された地形を構築しています。それが、Kが描出したひとつの「世界モデル」なのです。」
 
大江健三郎『燃えあがる緑の木』より)
 
こうしてみると柳田における「固有信仰」の探究とは「生命一般の根拠とのつながり」としての「世界モデル」の探究であったともいえるものであり、今後はこうしたより根源的なパースペクティヴから柳田の仕事は捉え直されていくのではないでしょうか。そしてその試みは、かつて柳田の志した「学問救世」という理念につながっていくものであるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭和のジョゼ、平成のジョゼ、令和のジョゼ--田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

* 女性障害者の恋愛と性

 
芥川賞作家、田辺聖子氏が1984年に発表した短編小説「ジョゼと虎と魚たち」は原作発表から19年後の2003年に実写映画化(監督:犬童一心)されたことがきっかけで注目を集め、さらにその17年後の2020年にはアニメーション映画化(監督:タムラコータロー)を果たし、いまや時代を超えた普遍性を獲得し、日本文学史上において特異的な輝きを放つ作品の一つとなりました。僅か30頁足らずの分量ながら極めて耽美的かつ退廃的な世界観を持った珠玉の小品として知られる本作はおそらく日本で初めて女性障害者の恋愛と性を描き出し、可視化されづらい障害者のジェンダーセクシュアリティの問題に文学表現としていち早くアプローチを試みた作品でもあります。
本作のあらすじは次のようなものです。本作の主人公、ジョゼ(山村クミ子)は下肢に原因不明の麻痺があり、幼い頃から車椅子生活を送っています。ジョゼの母親は彼女が赤ん坊の時に家を出てしまっており、一時期は父親とその再婚相手の女性と連れ子の4人で暮らしていましたが、継母から鬱陶しがられた彼女は施設に入れられて、その後、17歳の時に祖母に引き取られ、25歳に至るまで世間から隔絶した孤独な生活を送っていました。
 
ある夜、祖母が目を離した隙に通りすがりの不審者によって車椅子ごと坂道に突き落とされたジョゼはたまたま通りかかった大学生の恒夫に助けられ、この出来事をきっかけに恒夫はジョゼの家に顔を出すようになります。
 
ジョゼは恒夫よりも2歳上ですが小柄で市松人形のような少女然とした外見をしており、その性格は人見知りで情緒不安定。読書好きで「ジョゼ」という自称もフランスの作家、フランソワーズ・サガンの小説のヒロインに由来します。けれどもその反面、ジョゼは就学免除で学校に通っていなかったことから、その知識にはかなり偏りがあります。
 
これまで家と施設以外の世界を知らなかった彼女にとって恒夫は外の風を運んでくれる存在となりました。ジョゼは恒夫だけには常に高飛車な物言いをしますが、恒夫はその「いばり」は「甘えの裏返し」なのではないかと推測していました。
 
その後、就職活動のためしばらくジョゼと疎遠になっていた恒夫が久しぶりにジョゼの家を訪ねると、祖母はすでに亡くなっており、ジョゼは引っ越していることが判明します。転居先のアパートを訪ねた恒夫の前にやつれ果てたジョゼが現れ、心配する恒夫に対して「来ていらん!もう来んといて!」と激昂したかと思えば、帰ろうとする恒夫に「帰ったらいやや」と縋りつき、その夜、二人は結ばれます。
 
翌日、ジョゼは「虎を見たい」と恒夫にせがみ、二人は動物園に行きます。檻の前で虎の咆哮に怯えるジョゼは恐ろしさで身震いしながら恒夫にすがりつき「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに」といいます。
 
その後、ジョゼと恒夫は「新婚旅行」という名目で九州の海底水族館に行きます。ジョゼは水族館の海底トンネルの美しさに「恐怖に近い陶酔」を覚えます。その夜更け、カーテンを払った窓から月光が差し込み、まるで海底洞窟の水族館のような部屋の中でジョゼは「アタイたちは死んだんや」と独りごちます。
 
それからずっと、恒夫はジョゼと「共棲み」という名の同棲生活を続けています。ジョゼは家事をゆっくりとこなし、お金を大事に貯め、一年に一度、恒夫と二人で旅に出ます。恒夫がいつジョゼの下から去るかわからないけれども、側にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思っています。そしてジョゼが幸福を考えるとき、それは死と同義語であり、ジョゼにとっての「完全無欠な幸福は、死そのもの」でした。
 

* ケアの倫理という視点

 
2003年の実写映画化を契機として本作を本格的に論じる批評が数多く現れるようになりますが、そこで本作はもっぱら女性障害者が自己肯定や生きる強さを獲得する物語として、もしくは障害者と非障害者との理想的な共生のあり方を映し出す物語として読み解かれてきました。
 
こうした従来の評価を踏まえつつ、武内佳代氏は「田辺聖子ジョゼと虎と魚たち」--ケアの倫理と読むことの倫理(『クィアする現代日本文学』(2022)所収)」において本作結末においてジョゼが辿り着いた「完全無欠な幸福は、死そのもの」という心境を改めて「ケアの倫理」という観点から読み直しています。
 
一般的に「ケア」とは子ども、高齢者、障害者、病人などに対する世話、気遣い、介助、介護、看護といったことを指す言葉であり、多かれ少なかれケアされる側の依存とニーズが伴うものです。そのため自律的な市民を要請する近代リベラリズムにおいてはケアされる側は依存的で自律的ではない存在として社会的・政治的価値を切り下げられてきました。こうした傾向は1980年代以降から個人の自由と市場原理を称揚するネオリベラリズムの世界的な高まりによりさらに拍車がかかることになります。そうした中でむしろ積極的に依存を包摂する社会構築を目指す考え方が「ケアの倫理 the cthics of care 」です。
 
「ケアの倫理」はアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンが1982年に公刊した『もうひとつの声』で提唱して以来、哲学、政治学社会学といったさまざまな学問領域に影響を及ぼした考え方です。同書においてギリガンは道徳発達に関する調査結果を近代以降の社会で道徳的発達の指標とされてきた「正義の理念」ではなく「ケアの倫理」という観点からその再評価を行いました。ここでいう「正義の理念」とは自由意志をもった自律的な道徳的主体を前提として公平と普遍性を重視しています。これに対してギリガンの提唱した「ケアの倫理」は関係性の網の目のなかで個々人は決して完全に自律的ではなく常に相互依存の関係を結んでいることを前提と捉え、その人その人が置かれた具体的・個別的な文脈と関係性を重視しています。
 
そのため「ケアの倫理」は近代社会で必ずしも自律的な主体ではないケアされるものとして子ども、高齢者、障害者、病人などの存在や彼らのケアを負担する存在のニーズにどう答えていくかといった「正義の理念」からは導かれない問いを積極的に引き受けることになります。換言すれば「ケアの倫理」とは互いにケアし合い依存し合う関係性を中心化することによって、いかなる者であろうとも取り残すことはない非抑圧的・非暴力的な平等社会を構想する思考であり、この理念のもとで個々人は「具体的他者のニーズへの応答」を引き受けることになります。
 

* 1980年代における障害者へのまなざし

 
まず同書はジョゼの「アタイ」という自称に注目します。ジョゼが自身を「アタイ」と呼ぶのはもともとは継母の連れ子の真似から始まっており、そこには自分も連れ子のように実父と継母に可愛がられたい、すなわち「ケアされたい」という切実なニーズがあります。しかし実父と継母のもとでこのニーズは決して満たされることはありませんでした。
 
またジョゼを施設から引き取った祖母は実父や継母に比べればまだ優しかったものの、(たとえ孫を好奇の目に晒すまいという温情かもしれないにせよ)障害者に対する差別的なまなざしを世間と共有し、ジョゼの行動を厳しく制限していました。そして何よりジョゼ自身もこれまでの生い立ちから「ケアされたい」というニーズを主張することに対して強い後ろめたさを抱え込んでいました。
 
現在でこそ、障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)の見地から「障害」を従来のように個人的な心身の機能障害(インペアメント)とみなす「医療モデル(個人モデル)」を相対化するモデルとして障害を社会的に構築された障壁(ディスアビリティ)とみなす「社会モデル」が打ち出され、従来は障害者個人の「わがまま」としか見做されなかったさまざまなニーズが社会的に承認され、障害者と非障害者の社会的分断の解消を目指すノーマライゼーションの取り組みが推進されつつあります。
 
けれども本作発表当時の1980年代前半はまだこのような「社会モデル」による障害の概念が社会に根付いておらず、障害者の日常的な不自由の原因はあくまで障害者個人に帰すべきものと見做されていました。それゆえにジョゼがケアされたいというニーズの表明を断念し、孤立した生活を送ってきたのはこのような当時の障害をめぐる社会のまなざしと表裏の関係にあるといえます。
 
とりわけ祖母との外出中に通りすがりの何者かがジョゼを車椅子ごと坂道に押し出した事件はジョゼが障害者であるがため社会から「悪意」を常時向けられ続けていることを如実に物語っています。この「悪意」はジョゼを「生きるに値しない命」とみなす優生思想的なまなざしに他ならず、こうした「生きるに値しない命」としての自己像を内面化していたからこそ彼女は社会に対するニーズの表明を断念するようになったともいえます。
 

* ディスアビリティとジェンダー

 
けれどもジョゼは見知らぬ他者から明確な「悪意」を向けられたまさにその出来事において通りがかりの別の見知らぬ他者である恒夫に命を救われることになります。これはおそらくジョゼにとって初めて見知らぬ他者から与えられた「生きるに値する生」としての承認を意味したはずです。
 
その後、ジョゼは恒夫にだけはそれこそ「わがまま」に映るほどのニーズを表明していきます。これに対して恒夫はジョゼの高飛車な物言いを障害者の「わがまま」とは捉えず、その言葉に裏にあるジョゼが直接的には表明できない潜在化されたニーズを読み取っていき、ジョゼの室内移動用の器具をこしらえたり、トイレの補助台などの取り付けについて業者に掛け合うなど、いつの間にかジョゼの具体的なニーズに応じて、その生活上のディスアビリティを取り除いていくケアを実践していきます。
 
もっとも、ジョゼにとって恒夫は何よりも「異性のパートナー」としてのケア役割を担う存在に他なりません。本書が指摘するように女性障害者はディスアビリティとジェンダーという二重拘束による抑圧状況の下、しばし性的な存在として搾取される一方で性的な存在であることを否認されるという理不尽な困難に直面します。例えば本作においてジョゼは一人暮らしを始めた後、同じアパートに住む「お乳房さわらしてくれたらなんでも用したる」と言い寄ってくる中年男性に悩まされていました。その一方でかつて継母から「ややこしい」と疎まれ施設に放り込まれた理由はジョゼに生理が始まったことが原因であり、このことはジョゼが恋愛、結婚、出産といった性的な身体とは切り離されて捉えられていたことを物語っています。
 
けれどもジョゼは恒夫との性体験を経て女性としての性的主体性を獲得し、彼女にとって「一ばん怖いもの」である「虎」を恒夫と一緒に見にいくことで健常者中心主義的な社会の「悪意」から守ってくれる男性が自分の傍らにいるという女性像の獲得に至ります。
 
しかしながらその一方で、ジョゼは恒夫と夫婦のような生活を始めてからも、恒夫を「夫」とは呼ばず「管理人」と呼んでいます。すなわち、ジョゼが同棲相手の恒夫に表立って期待できる役割はあくまで自身の介護をしてくれる施設の「管理人」であり、その意味でこの「管理人」という呼称はジョゼが恒夫との結婚を自ら主体的に断念していることの証左であるともいえます。
 
そして現実においても1983年に行われた聞き取り調査によれば当時、結婚を諦めている肢体不自由な女性障害者が数多くいたことがわかっています。つまり、パートナーを「管理人」と呼び、結婚したいというニーズを断念し、意識化さえ拒否しようとするジョゼは当時の女性障害者そのものの表象ともいえるでしょう。
 

* 完全無欠な幸福の彼岸

 
ともあれ恒夫との「共棲み」においてジョゼは料理や洗濯といった家事労働を通して「夫」をケアする「妻」の役割を仮初ながらも引き受けることで「完全無欠な幸福」を覚えるに至ります。ここでジョゼのニーズは十全に満たされたかにも見えます。しかし問題はジョゼはこうした「完全無欠な幸福」を「死そのもの」であると感じている点にあります。
 
確かにこのような「完全無欠な幸福」と「死」を連結させる本作の語りは究極の甘美な感情を文学的に表現したものにすぎないとも読めなくもないでしょう(フランスの精神分析ジャック・ラカンもある時期においては、快原則の彼岸としての「享楽」を「死」と同義のものとして捉えていました)。けれども、この恒夫との「共棲み」といういつ終わるともしれない刹那的な関係は「結婚」に対するニーズの意識化さえ拒否された結果であるとも読めます。
 
すなわち、ここでジョゼはこのような恒夫との刹那的な関係を意識の上では「完全無欠な幸福」と感じてはいるけれど、その無意識下における絶望的な閉塞感の痕跡が「死そのもの」という言葉として回帰しているともいえます。そして、この逆説的なジョゼの「幸福」な姿は、1980年代の女性障害者に背負わされた絶望的な閉塞感を表象するものと読めるでしょう。
 
もっとも、その一方で、このようなジョゼが直面する絶望的な閉塞感の裏側には当時は意識化自体が困難であったであろう「妻」という固定的なジェンダー役割、ひいては女性というジェンダー・アイデンティそのものからも解放された多様なニーズの顕在可能性が胚胎していたとも言えるでしょう。
 
換言すれば本作は同時代的には当事者にも非当事者にも誰にも認知できないような「非認知ニーズ」をも顕在化させる倫理的な可能性に開かれた作品であったということです。こうした意味で「昭和のジョゼ」というべき原作小説が胚胎していた多様なニーズの顕在可能性に対する優れた回答こそが、あるいは「平成のジョゼ」としての2003年の実写映画であり、さらには「令和のジョゼ」である2020年のアニメーション映画であったといえるでしょう。
 

*「共棲み」の「重み」を描いた「平成のジョゼ」

 
まず2003年の実写映画はストーリーの大きな流れとしてはおおむね原作を踏まえたシナリオとなっていますが、原作にはない恒夫とジョゼの「共棲み」の顛末までが描かれています。この点、原作の「新婚旅行」は映画では恒夫が実家の法事にジョゼを連れて行き両親に紹介するという状況に置き換えられています。そして、その出発前に児童福祉施設時代の幼馴染から恒夫と結婚するのかと問われたジョゼは「あるわけないがなそんなこと」とにべもなく返します。
果たしてジョゼが直感した通り、帰省する途中で心境の変化が生じた恒夫は土壇場で法事への参加を取りやめてしまいます。その後、ジョゼは宿泊先を探している最中にたまたま見かけた「お魚の館」という名前のラブホテルに泊まりたいと言い出し、困惑する恒夫に向かって「ごほうびにこの世の中でいちばんエッチなことしてもええよ」などと言い募ります。
 
「お魚の館」での性行為の後、貝殻を模したベッドで眠りこける恒夫の横でジョゼは回遊魚の立体映像を見つめながら「深い深い海の底、ウチはそっから泳いできたんや」「いつかアンタがおらんようになったら、迷子の貝殻みたいに一人ぼっちで海の底をころころころころ転がり続けることになるんやろ」と静かに呟きます。ここでも原作同様に結婚に対するニーズの断念が反復して描かれています。
 
その数ヶ月後、恒夫はジョゼとの「共棲み」を解消することになり、その理由として彼は「僕が逃げた」と回想します。この点、先の旅行中、恒夫が車椅子を拒否するジョゼをおぶって移動する場面が象徴的に描かれていますが、結局のところ恒夫は障害を抱え「(祖母のいうところの)こわれもん」であるジョゼを「家族」として背負って生きていく「重み」に耐えられなかったということなのでしょう。
 
そして映画の結末においてジョゼから「逃げた」恒夫はその喪失感、あるいはその罪悪感からこれみよがしに泣き崩れます。けれども当のジョゼは恒夫が去った後の日常を電動車椅子を使って淡々と生きていきます。この映画の結末は原作における「完全無欠な幸福=死」に閉じられた世界から、多様な生の可能性に開かれた世界に彼女がその一歩を踏み出していったことを示しているようにも思われます。
 

* 新境地を開いた「令和のジョゼ」

 
いずれにせよ2003年の実写映画が原作小説の持つ世界観を損なうことなく拡張し、なおかつ深化させることに成功した素晴らしい映画であったことは確かです。だからこそ「ジョゼ」がアニメーションとして再び映画化されるという話を聞いた時は本当に驚きました。いまさら何を作ろうというのか、どう考えてもあの映画以上のものが創れるはずがないと、普通にそう思いました。
 
けれども他方でティザービジュアルとして提示された、気だるそうに机に突っ伏していながら強い何かを宿したまなざしをこちらへ向けてくるジョゼの姿にはどこか惹かれるものがありました。そのうち、もしかしてこの映画はただの懐古趣味ではなく、これまでの「ジョゼ」を打ち破る全く新しい「ジョゼ」を本気で描き出そうとしているのではないかという、そんな気もしてきました。
 
 
本作の中盤までのあらすじはこうです。海洋生物学を専攻する大学生、恒夫(鈴川恒夫)は、自身の夢である海外留学の資金を貯めるため、バイトを掛け持ちする日々を送っていました。そんなある日、バイト帰りの恒夫は車椅子ごと坂道を転げ落ちてきたジョゼを偶然助け出します。
 
これまで祖母(山村チヅ)の庇護の下、ずっと閉じた世界の中で生きてきたジョゼにとって外の世界とは「恐ろしい猛獣ばかり」の世界でしかありませんでした。けれどもチヅからジョゼの世話を託された恒夫は「管理人」としてジョゼを外の世界に連れ出していき、恒夫とともに世界のさまざまな騒めきと彩りを知ったジョゼはやがて「外は怖いだけやない」と思い至るようになります。
 
この点、原作小説からおよそ36年後に公開された映画である本作では世界観設定が大幅に更新され、とりわけ中盤以降はこれまでにないまったく新たな展開が描き出されることになります。何より本作の大きな変更点としてジョゼに「絵が描ける」という特技が追加されており、海外留学を目指す恒夫の夢に感化されたジョゼはやがて自身も「絵を仕事にしたい」という夢を懐くようになります。そして、このジョゼが描く絵から紡ぎ出される「物語」こそが恒夫を、そしてジョゼ自身を救うことになります。
 

* 物語を紡ぎ直すということ

  
祖母の死後、ジョゼから「管理人」の「最後の仕事」として再び海に連れて行くよう頼まれた恒夫はその帰路でジョゼを庇って交通事故に遭い、重傷を負います。その結果、恒夫は医師から脚と手に障害が残る可能性を告げられ、折角まとまりかけていた留学の話も白紙となってしまいます。
 
ここで恒夫はこれまで自身を基礎付けてた「物語」を完全に喪失することになります。人が世に棲まいその生を基礎付けるためには、その人にとっての内的幻想である「物語」を必要とします。こうした意味での「物語」は人の過去と現在の出来事を了解する媒介であると同時に未来へ歩むための道標となります。
 
それゆえに恒夫が機能回復訓練をやり抜き、留学のチャンスを再び掴むには新しい「物語」が必要でした。そうした中で、ジョゼが優しい絵と共に紡ぎ出したのはまさしく、恒夫のこれからの生を基礎付けるための新たな「物語」でした。
 
そして同時に、こうした「物語」の創造はジョゼにとっても大きな転機になりました。祖母亡き後、独りで生きていかなければならない現実に直面したジョゼは「絵で生きていく」という夢を手放し「自立」の道を模索することになります。けれども恒夫を救うため「物語」を創造する中で、自らの夢を再発見したジョゼはその夢を手放さないままにこの現実を生きていく「自立」の道を選び取ります。すなわち、ジョゼもここで祖母の死を乗り越え、自らの「物語」を様々なめぐりあわせの中で紡ぎ直していくことになります。
 

* 昭和のジョゼ、平成のジョゼ、令和のジョゼ

 
物語を紡ぎ直すということ。それは「ケアの倫理」にまっすぐに応える実践に他なりません。ジョゼは恒夫からケアされることで自身の中に眠っていた「非認知ニーズ」である「絵を仕事にしたい」という夢を懐くことができました。そして彼女はまさしくその絵から紡ぎ直される「物語」によって恒夫をケアし、さらには自分自身をケアするに至ります。ここにはまさしく互いにケアし合い依存し合う理想的な「共棲み=自立」を見出すことができるでしょう。
 
いまにしてみれば「昭和のジョゼ」というべき原作小説は当時としては優れた「ケアの倫理」を体現する作品でしたが、そこにはやはり当時の社会状況を反映したディスアビリティとジェンダーをめぐる二項対立が温存されたままになっていました。これに対して「平成のジョゼ」としての2003年の実写映画はこうした二項対立の限界性を暴き出した作品であるといえます。
 
そして「令和のジョゼ」である本作はこうした二項対立を見事に脱構築したその先で、原作小説がもともと胚胎させていた「共棲み=自立」という名のケアの可能性を現代に相応しいかたちで瑞々しく描き出した作品であったといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

民俗学とはいかなる実践か

* 民俗学という知

 
民俗学はまずイギリスに起こりました。1846年、イギリスの作家、ウィリアム・トムスが従来の古俗や古謡の総称としてフォークロアの術語を提唱し、その内容は「伝統的信仰伝説および庶民のあいだに行われている風習、生活様式、慣習、宗教儀礼、民謡、諺」を包含するものでした。1878年、ロンドンに民俗学協会が発足し、次いでスペイン、フランス、ドイツ、アメリカに順次、民俗学の研究団体が作られ、次第にその学問的基盤が整備されていきます。
 
一方で日本の民俗学は江戸時代中期の本居宣長平田篤胤などの国学の系譜に連なるものであり、大正から昭和にかけて在野の研究者を糾合する形で柳田國男(1875〜1962)が体系化を果たした学問であるとされています。昭和10年代の柳田による日本民俗学の体系化は『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史民俗学』(1935)の中で説かれています。
 
日本民俗学の基礎概念の一つに「常民」があります。この「常民」を一つの文化概念としてみるならば、それは水田耕作農耕民の日常生活文化の総体を捉えている概念であり、この「常民」の分析概念として用意されたのが「ハレ」と呼ばれる非日常時空間と「ケ」と呼ばれる日常的時空間です。
 
このようにいうと民俗学とはいかにも一昔前の農村部における庶「民」の風「俗」を分析する「学」のようにも思えます。確かに例えば戦後民俗学の泰斗、宮田登氏の手による入門書『民俗学』(1990)を見ると「ムラとイエ」「稲作と畑作」「盆と正月」「カミとヒト」「妖怪と幽霊」といったテーマが並んでおり、こうしたイメージは完全に間違いとはいえないでしょう。けれどもそのようなイメージは少なくとも現代においては民俗学の学問的本質ではありません。
 

*「普通の人々」の「日々の暮らし」を解き明かすということ

 
一般に学問分野はその対象によって定義づけられていると思われています。例えば経済を対象とするのが経済学、物理を対象とするのが物理学ということです。ですが、これは必要条件であっても十分条件ではありません。例えば『万葉集』という歌集がありますが、これを古代和歌として研究するなら日本文学ですが、古代日本語として研究すれば日本語学であり、歌謡の内容から古代社会を研究するなら日本史学となります。
 
このように学問分野はその対象だけでは決まりません。どんな目的で、どんな対象を、どんな方法で研究するのか、その相関関係が学問分野を決定します。ということは民俗学は民俗を研究する学問だというだけではなお不十分であり、何のためにどのような方法で民俗を研究するのか、その相関こそが問われなければならないということです。
 
では、まず民俗学の目的は何でしょうか。この点、菊地暁氏は『民俗学入門』(2022)において「普通の人々」の「日々の暮らし」が現在に至った来歴を解き明かすことである、というのが柳田の考えであったといいます。世の中をより良く改めるには、現状がいかにして生み出され、問題点がどこにあるかを踏まえることが不可欠であり、その認識なくしては改良することもおぼつきません。すなわち、民俗学の目的とは「未来をより良くするために現在とそれを生み出した過去を正しく知ること」にあります。
 

* 民俗学における資料

 
もっとも、この「未来をより良くするために現在とそれを生み出した過去を正しく知ること」という目的は民俗学のみならず歴史科学、さらには人文・社会科学一般にも当てはまりそうな課題設定であり、このレベルでの民俗学の独自性はほとんどないようにも見えます。しかしながら民俗学の独自性は目的そのものではなく、この課題に対する「対象」と「方法」の設定にあります。
 
この点、時を超えて伝わる資料は「文字」「モノ」「記憶」の三種類に大別できます。そして「文字」を扱うのが文献史学(歴史学)で「モノ」を扱うのが考古学であり、これに対して「記憶」を扱うのが民俗学ということもできるでしょう。では、このような様々な資料のうち「普通の人々」の「日々の暮らし」が現在に至った来歴を解明するのにふさわしいものは果たしてどれでしょうか。通常、歴史を調べる際に用いられるのは史料(文字資料)です。だがそこから「普通の人々」の「日々の暮らし」を辿ることができるのかという問いに柳田は明確に「否」と答えました。
 
「愛すべきわが邦の農民の歴史を、ただ一揆嗷訴と風水虫害の連続のごとくしてしまったのは、遠慮なく言うならば記録文書主義の罪である」(『国史民俗学』)と柳田はいいます。これはまさに卓見というべきでしょう。すなわち、近世の農民について書き残すのは読み書き能力を有していた支配者階級がほとんどですが、彼らの関心事はもっぱら自身の収入源である年貢の納入にあり、それゆえに彼らは何かアクシデントが生じるとやれ「一揆嗷訴」だの「風水虫害」だのと大慌てで収入源の危機を文字として記録し、ここからステレオタイプな「天災に苦しみ一揆に荒れ狂う」という農民像が出来上がります。つまり文字資料は「特別な人々」による「特別な出来事」の記録であり、ここから「普通の人々」の「日々の暮らし」を捉えることはできないということです。
 

* 資料としての私(たち)

 
こうした文字資料の限界を突破すべく見出されたのが「民俗資料」です。それは「普通の人々」の「日々の暮らし」そのものであり、極論すればそうした暮らしを営む私(たち)自身のことです。箸を使って食事をしたり、畳の上で正座をしたり、日本語でコミュニケーションをするといった私たちの「日々の暮らし」における様々な日常的営みは生物学的本能ではなく後天的学習によって獲得されます。しかもこうした所作は今現在の行為でありながら確実に過去の人々から受け継がれた「歴史」を有しています。
 
それゆえに私(たち)自身が「歴史」を宿した「資料」であるといえます。そしてその「歴史」は単体からは不可視ですが、大量のデータの比較を通じて空間差から時間差を抽出することで可視化することができます。ここに「特別な人々」の「特別な出来事」の記録たる文字資料の不完全性を補完しうる「普通の人々」の「日々の暮らし」そのものである「資料としての私(たち)」という可能性が立ち上がります。このような「私(たち)が資料である」というコペルニクス的転回こそが、民俗学という学問による最大の方法論的貢献であると菊地氏は述べています。
 
 
この点、柳田はこのような「民俗資料」を「有形文化」「言語芸術」「心意現象」に分類しています。これは「三部分類」と呼ばれています。その第一部「有形文化」は日々の暮らしの物質的側面であり、物体として可視的に存在するゆえに目によって観察ができるため、それは誰でも採集が可能なものです。その第二部「言語芸術」は暮らしの中にある言葉の営みであり、口から語られ耳で聴き取られるものであるため、それは当該言語を理解する者によって採集されます。
 
そして、その第三部「心意現象」は人の心に刻まれ心で感じるものであることから、それは「同郷人」によって採集されることになります。なお、ここでいう「心意現象」の典型は「〇〇をしてはいけない」という「禁忌」であり、また「同郷人」とはこのような「心意現象」を共有できる広い意味での当事者を意味しています。
 

* 民俗学とはいかなる実践か

 
このように民俗学では「資料としての私(たち)」から出発する学問です。そのためには自らに刻み込まれた「歴史」を解き放つべく、自らの五感を研ぎ澄ました観察力を練成する必要があると同時に「歴史」を刻み込まれた他者との比較が必須となります。それゆえに「資料保持者」としての私(たち)の一人ひとりが「研究分担者」として採集と比較の実践に参加することが要請されます。
 
それゆえに民俗学とは自らの資料性を媒介として認識を立ち上げる方法論的挑戦であり、それがとりもなおさず、そのような方法的主体の連携を構築する運動論的挑戦ともなるのであると菊池氏は述べています。いわば民俗学とは「普通の人々」の「日々の暮らし」の底にある「歴史」に降り立つことで、いまここの日常を多重化していくための知であるといえるでしょう。
 
また、こうしてみると民俗学はどこか精神分析に通じるところがあるように思えます。精神分析が何かしらの症状を通じて分析主体に宿る「(他者の)欲望」を詳らかにするように、民俗学も例えば「禁忌」といった日常的な風習を通じて「資料としての私(たち)」に宿る「(他者の)歴史」を詳らかにしていきます。
 
そして、こうした自身のうちに宿る「歴史」を詳らかにすることにより、我々の日常を規定する様々な思考や観念を改めて俯瞰的に捉え直すことが可能になるでしょう。こうした意味で民俗学は我々の日常に根ざした「歴史」を解き明かすことで、その「歴史」から自由になるための実践であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

西田幾多郎と京都学派

* 西田幾多郎とは何者なのか

 
日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870年〜1945年)の前半生は意外と波乱に満ちたものとなっています。金沢の旧制四高をその校風に反発して中退した西田は、1894年に東京帝国大学の選科生(現代でいうところの聴講生)を修了後、しばらく地方の尋常中学や旧制高校の講師職を転々として、ようやく機縁を得て四高教授となりますが、その間、実生活において妻との離別、自身の病、娘の夭逝といった数々の受難が降り掛かります。そして1910年、40歳の時に京都帝国大学助教授へ唐突に抜擢された西田はその翌年、旧制高校での講義録をもとにした1冊の本を公刊します。これが後に日本哲学史に巨大なインパクトをもたらすことになる記念碑的著作『善の研究』です。
同書は当時、無名の哲学徒の書いたものとされ、ほどなくして絶版の憂き目を見ることになりますが、大正期に一世を風靡した評論家の倉田百三(1891〜1942)が同書の一節を引用したことが契機で再版を求める声が殺到し、1923年に同書は版元を弘道館から岩波書店に移して再版されることになります。その後、周知のように西田の名は広く世に知れ渡り、その独創的な思索にはやがて「西田哲学」の名が冠されるようになり、戦後発売された岩波書店の全集は発売日前から購買者が列をなしたという伝説が残っています。そして現代においても夥しい数の解説書や研究書が公刊され、西田哲学に対する関心は今後もますます高まっていくものと思われます。
 
この点、檜垣立哉氏は『西田幾多郎の生命哲学』(2005)において「西田幾多郎には、およそ哲学者が魅力的であるための条件がすべてそなわっている」といい、その「魅力」として「到底まっとうに読みこなせない奇怪な文体、固有なジャルゴンやいい回しの無神経なほどの乱用と繰り返し。そして、彼をとりまく人々の、今となっては異様ともみえかねない熱狂。目新しい海外思想のたんなる輸入や受容ではない、本邦初の独自の思索という過剰なまでの期待と賛辞」「それに何よりも、幾度にも及ぶ自分の思考の書きなおし。徹底的な立場の変更。にもかかわらず、つねに同一のテーマを、いささか読む側が呆れ果ててしまうほどまでに何度も何度も反復しながら書き連ねる強靭さ。それでいて、興味が赴くままに多様な領域に自己の思考を展開していく、まさに脱領域的ですらある奔流のような知性。京都帝国大学退官後、年齢的には老年期にさしかかってからのテクスト群の膨大さ。だがそこでさえ、幾度も自分の立場をさまざまに変更しながら、しかしあいも変わらず同一の問題を追究しつづけるという欲望としての思考」を挙げています(このような破格的ともいえる評価をほとんど手放しで行える20世紀の思想家は西田以外ではおそらくフランスの精神分析ジャック・ラカンくらいしか見当たらないのではないかとも思います)。
そして氏は西田哲学の特徴を考える上での視点として西洋と東洋が遭遇した「近代」という「時代」と首都東京に対するアンチテーゼとして機能した「京都」という「場所」とともに、その思想における「世界同時性」という布置を挙げています。すなわち、西田がその哲学を展開した20世紀初頭という時代は世界的に見ればジークムント・フロイト精神分析を立ち上げ、フェルデナン・ド・ソシュール記号論を構想し、エトムント・フッサール現象学を創設し、そして西田にも大きな影響を与えたアンリ・ベルクソン生の哲学という潮流を生み出した時期に相当します。彼らが20世紀初頭に生み出した思想はその後さまざまな紆余曲折を経ながらも21世紀の思想を決定づける役割を果たしていることはもはや疑いがなく、こうした思想なくして今日においてこの世界の根源を思考することはますます困難になっており、こうした意味で西田哲学もまた確実にこれらの布置の中に位置付けられることになるでしょう。
 

* 純粋経験の諸相

 
善の研究』の「序」において西田は「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有って居た考であった」と述べています。ここでいう「実在」とは「実際に存在するもの」「物事の真の姿」「最も確かなもの」といった意味で用いられており、こうした意味での「実在」を西田は「純粋経験」と呼びます。この点、西田によれば常識的な意味での「経験」には常にその「経験」をした当事者の先入観や判断といった「思慮分別」が入り込んでいるとされます。これに対して西田のいう「純粋経験」とは、そのような「思慮分別」が少しも加えられていない「経験そのままの状態」をいいます。
 
我々の常識的なものの見方では主観と客観との二分法に立っています。すなわち、まず「私」という個人がまず存在して、その外側に「私」を取り巻く世界が存在していると考えます。しかし西田はこうした主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」こそが「実在」にほかならないといいます。
 
このように主客未分などというと何か神秘体験のような特異な体験を連想してしまいますが、西田のいう「純粋経験」は日常生活からかけ離れたものではなく、むしろ生活の至るところに生じるものであるとさえいえます。そして、こうした「純粋経験」から「私」という自己が生まれてきます。つまり、西田が「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的である」と述べるように「私」という意識は「純粋経験」に主観と客観の区切りを入れることで生じるものであるということです。
 
この点『善の研究』で論じられる「純粋経験」には一見すると雑多とも思える多様な意識状態が含まれています。これらの意識状態は大きくいえば三つに分けられます。まず⑴新生児の場合のような子どもの発達初期の自他未分化な意識の状態です。次に⑵「色を見、音を聞く刹那」といわれる様な判断以前の直接的な意識の状態です。そして⑶芸術家や宗教家の「知的直観」といわれるものや熟達した技能を演じる際の高度に統一された意識の状態です。
 
こうした様々な純粋経験を総合すると我々の意識の発達プロセスは次の様に考えることができます。第一に主観と客観が別れていない⑴や⑵のような意識状態があります。第二に主客未分の純粋経験が発展して主観と客観が別れた意識状態が生まれます。第三にこうした主客分離の状態のさらに先に主観と客観が再び一つになった⑶のような理想的な意識の状態が考えられます。そして、こうした理想的な意識の統一の状態としての純粋経験において現れる「自己」ないし「人格」こそが西田のいう「善」に他なりません。
 

* 自覚から場所へ

 
その後、西田はこの「純粋経験」をさらに追求していくことになります。1917年に発表された『自覚に於ける直感と反省』においては『善の研究』における「純粋経験」に相当する状態を「直感」と呼び、この直感を外側から主観と客観の二分法で捉えた状態を「反省」といい、この両者の関係を「自己の中に自己を写す」という「自覚」という概念で捉えています。
 
そしてこのような「自覚」における「自己の中に自己を写す」というイメージとして西田は英国にいて「完全なる英国の地図」を写すという例を挙げています。英国にいる人間が英国の完全な地図を写すには、地図を写している当の自分自身も地図の中に書き込む必要があり、そして何より自分が写してる地図自体もそこに書き込む必要があり、さらにその「地図の中の地図」もやはり「完全な地図」でなければならないことから、地図の中に地図を写す作業が果てしなく続いていく事になります。
 
すなわち、一つの直感が反省され、その状態からさらに新たな反省が生まれてくるというプロセスはどこまでも続いていく可能性があります。「自覚」とはこのように「直感」と「反省」の両方ともに含んで無限に発展していくプロセスをいいます。
 
そしてこの「自覚」の探求を突き進めた先に西田の哲学的思索は一つの完成を見ることになります。1927年に発表された『働くものから見るものへ』において西田は「有」を根本とする西洋文化に対して、東洋文化の根底にはいわば「無」の考え方が潜んでいるとした上で、この「無」という考え方を「場所」という概念に結びつけて論じています。
 
まず西田によれば我々の世界を構成する事物はもちろん、我々が生きている時間や空間も「有」です。つまり形あるもの、対象化できるもの、意識できるもの、これらはすべて「有」です。これに対して、形もなく、対象化もできず、意識もできないものが「無」です。そして西田の考え方は「有」であるすべてのものの根底に「無」を考える立場であり、その極限に想定されているのが「絶対無」の場所と呼ばれます。
 

* 絶対無の場所

 
ここで西田は「あらゆる物事は何らかの場所に於いてある」と考えます。ここでいう「場所」とは空間に位置を占める物理的な場所にとどまらず「AはB」であるといった判断が成立する論理的な場所、さらにそれら物理的な場所や論理的な場所を意識する際の意識という場所など、多様な意味を含んでいます。
 
この点、西田は物理的な場所に還元できない判断が成立する論理的な場所について「述語の論理」と呼ばれる判断の形式から説明します。つまり「SはPである」という判断においてS(主語)はP(述語)に対して特殊なものでありP(述語)はS(主語)に対して一般的といえます。つまり「SはPである」という判断はSという特殊なものがPという一般的なものによって包摂されることを意味しています。西田はこのような包摂判断において述語Pは主語Sがそこにおいて存在する「場所」という意味を持っています。
 
このような西田の「述語の論理」はアリストテレスによる「主語の論理」にヒントを得て考えられたものです。アリストテレスは「主語となって述語とならないもの」を「基体(個物)」と考え、述語は主語に所属する様々な性質として捉えらていました。これに対して西田はこのアリストテレスの発想を逆転させ「述語となって主語にならないもの」を考えたということです。
 
我々の思考内容は例えば「『◯◯』というのは私の意識である」というようにことごとく「私の意識」を述語として判断することができます。つまり「判断」という立場から「意識」を定義するなら、それはどこまでも「述語となって主語とならないもの」ということができます。
 
こうした意味で「『◯◯』というのは私の意識である」という「意識された意識」を「意識する意識」はどこまで行ってもたどり着くことができません。「「「『◯◯』というのは私の意識である」というのは私の意識である」というのは私の意識である・・・」というメタレベルの判断が無限に反復されるだけに過ぎません。そして、このような包摂判断における一般的方向、述語的方向をどこまでも押し進めていった先に想定される極限的なメタレベルである「述語となって主語にならないもの」こそが西田のいう「絶対無」の場所に他なりません。
 

* 行為的直観と絶対矛盾的自己同一

 
ここから西田はさらにこの「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の世界へと向かい、その「個物」における相互限定からなるポイエシス的作用を「行為的直観」と呼びます。このような「行為的直観」において「個物」は自己が何であるかを「個物」相互の関係によって決定し、そうしながら世界や他の「個物」そのものが何であるかを規定していくことになります。
 
こうした「個物」の範例といえる存在が「生命」です。すなわち、ある「個物=生命」とはその内的-外的な環境によって「作られるもの」でありながらも、同時にこの「個物=生命」はその内的-外的な環境をポイエシス的に「作るもの」でもあるというそれ自身まさに矛盾の同一を示す境界になっているということです。ここから「身体」「歴史」「種」といったこれまで西田にとって語られてこなかったテーマ群が「個物」にとっての具体的な「媒介者」として次々と現れてくることになります。
 
そして西田はこうした「個物」が「行為的直観」によって相互限定する世界全体を「絶対矛盾的自己同一」として描き出します。この点、西田は「多の一」としての世界を「機械的世界」と捉え「一の多」としての世界を「合目的的世界」と捉えています。ここでいう「機械的世界」とは「個物的多(原因)」が「全体的一(結果)」を帰結する機械論的世界観であり「合目的的世界」とは「全体的一(目的)」へ「個物的多(手段)」が収束していく目的論的世界観です。
 
けれども西田は「行為的直観」の場面である「個物」と「個物」との相互限定の世界を「他の一(機械論的世界観」でも「一の多(目的論的世界観)」でもない、むしろ「一(内包)」と「多(外延)」がそのままに結びついていく世界として描き出します。これが「絶対矛盾的自己同一」という世界です。
 
そして、このような「絶対矛盾的自己同一」としての世界は我々の前に「課題」として与えられていると西田はいいます。すなわち「生きる」とは畢竟、こうした「世界=課題」を解き続け、その時その場所その都度における色とりどりの「解答」を示し続けていくということに他ならないということなのでしょう。
 

* 京都学派とは何だったのか

 
以上のように西田は『善の研究』において提示された「純粋経験」から出発し、その後「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達し、ここからさらに「絶対無」を破断的に内在させた「個物=生命」が相互限定しあう「行為的直観」からなる「絶対矛盾的自己同一」としての世界を描き出していきました。
 
そして、このような西田哲学を中心に形成された知的ネットワークを「京都学派」といいます。同学派の範囲をどこで画するかはその文脈次第ですが、ひとまず同学派を包括的に論じた菅原潤氏の『京都学派』(2018)に依拠するのであれば「京都学派」とは西田が創始し、田辺元(1985〜1962)がこれを継承して、西谷啓治(1900〜1990)、高坂正顕(1900〜1965)、高山岩男(1905〜1993)、鈴木成高(1907〜1988)といういわゆる「京大四天王」が展開した哲学研究の学派のことを指しています。ここで挙げた6人はいずれも京都大学を根城にして活動していたため、同学の所在地を冠して彼らは「京都学派」と呼ばれています。
まず西田の後継的存在である田辺は1919年に東北大学から京大に赴任し、当初は西田の意を受けて自身の専門である数理哲学の研究に勤しんでいましたが、やがて1930年に発表した「西田先生の教を仰ぐ」という論文において西洋哲学史全体の中に西田哲学を位置付けた上で、その根本的批判を展開しました。しかしこうした田辺の批判こそがむしろ西田哲学が世界水準に達したことを示す証左と見做されたのではないかと菅原氏は述べています。
 
そして西田と田辺の後に続く西谷、高坂、高山、鈴木からなる京大四天王は西田哲学を出発点としつつ、当時の最先端の思想を積極的に摂取してそれぞれが独自の哲学体系を構築し、その業績は当時の世界最高水準とも評価されています。
 
にもかかわらず今日において京都学派の評判が良くないのは彼ら京大四天王が太平洋戦争直前に行われた「世界史的立場と日本」という座談会などにおいて先の戦争を正当化する発言を行ったことに起因します。このことが敗戦後厳しく追及されたことで京都学派の哲学は戦時中の負の遺産とされ、長い間顧みられることはありませんでした。
 
けれども当時は多くの知識人や文化人が「戦争協力」に手を染めているのであって、その責めを京都学派のみに帰するのは性急であると菅原氏はいいます。なお2000年には「大島メモ」なる戦時中の京都学派と海軍の長期にわたる極秘会合を記録した文書が発見され、その発見者でもある大橋良介氏は『京都学派と日本海軍』(2001)において同会合では陸軍主導の戦争方針の是正し東条内閣打倒を含む戦争終結のための和平工作が画策されていたと述べています。もしそうであれば京都学派の行った「戦争協力」の意味合いは、今日においてまったく異なった様相を帯びてくるでしょう。
 

* ポストモダンにおける西田哲学

 
いずれにせよ近年において西田哲学がこうした国内のコンテクストとは関係なく西洋哲学の限界を打破する潜勢力を持つものとして海外で評価されるようになり、これを受けて日本においても京都学派の持っていた先見性が見直されつつあります。
 
この点、檜垣氏は京都学派の思想家たちは西洋哲学の同時代的な流れを敏感に察知しながらも、それをまさに自分たちの「問題」そのものとして素手で捉え、プラグマティズム生の哲学現象学や解釈学、ニーチェ的な古代への帰還などが示す諸概念を、アイデアの「おもちゃ箱」のようにひっかき回し、そこに日本的な言葉を実験的に組み込んでいたように見えなくもなく、それは期せずしてポストモダン状況における脱近代的な模索と重なってしまう部分があると述べており、それゆえに西田哲学および京都学派は「すでに古典化されたポストモダン思想のバッググラウンド」として読むことができるといいます。
 
確かに檜垣氏が『西田幾多郎の生命哲学』で論じているように西田のいう「純粋経験」は同時代のベルクソンの「純粋持続」に通じ、さらに「場所」はやはりベルクソンの「純粋記憶」と関連します。そして「行為的直観」「絶対矛盾的自己同一」はフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家ジル・ドゥルーズが主著『差異と反復』(1968)でベルクソン哲学の乗り越えを企図して展開した時間論(とりわけ第3の時間の総合)を先取りしたものとしても読めるでしょう。そうであれば、このようなベルクソンドゥルーズの議論を参照枠として、今日においてますます加速しつつあるポストモダン状況のなかに西田哲学や京都学派を位置付け直すことで、ここから日本における現代思想のまったく新たな地平を開くことができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

分かり合えなさのなかで手をつなぐ--『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』

*「まどか」の名を冠するに相応しい物語

 
魔法少女まどか☆マギカ新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏をはじめ、スタジオシャフト、劇団イヌカレー梶浦由記氏といった多彩な才能のコラボレーションによって生み出された同作は2011年、東日本大震災の翌月に放映されたTVアニメーション最終話が大きな反響を呼び起こし、批評誌『ユリイカ』で総特集が組まれるなどアニメーションというジャンルを超えて現代表象文化に多大なインパクトをもたらしました。そして翌々年に公開された映画『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』も絢爛豪華な映像と衝撃的な結末が話題を集め、これまた期待に違わない大ヒットを成し遂げました。
  
こうして、まどか達の物語は一旦は幕を下ろしました。その後、続編の構想が幾度なく再浮上する過程で企画されたスマートフォン向けアプリゲームが本作『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』です。
 
本作は2016年9月に「〜シャフト40周年記念〜MADOGATARI展」において製作が発表され、2017年8月22日にiOSアプリとAndroidアプリがリリースされました。原作アニメのプロデューサーである岩上敦弘氏は本作の企画の経緯について「アニメの新作までまだもう少し時間がかかりそうなため『まどか☆マギカ』のキャラクターが活躍するタイトルを作りたいというアイデアがきっかけ」と語っています。
 
正直なところをいえば、当初このゲームには大して期待していませんでした。なぜなら本作には「まどか」のシナリオを担当した虚淵玄氏が参加していなかったからです。けれど実際にゲームをやってみると思いのほか、そのシナリオの高い完成度に驚かされました。本作は名実共に「まどか」の名を冠するに相応しい物語だったと断言できます。そしてこの度「マギレコ」は2024年7月31日をもってサービス終了となり、約7年の歴史に幕を閉じることになります。
 

* ソーシャルゲームの運命とマギレコの立ち位置

本作のサービス終了につき発売元のアニプレックスは「現状においてサービスの品質を維持した運営の継続が困難であるという判断になった」と説明しています。この点、ソーシャルゲームの「平均寿命」はだいたい2年半から3年とされていますが、この「平均寿命」あたりできっちりサービス終了となるタイトルは意外と少なく、長期にわたり運用されるタイトルと短期の運用でサービス終了となるタイトルに二極化されているともいわれます。
 
そもそもソーシャルゲームを運用する上での目標はひとまずはリクープ(投資費用の回収)にありますが、短期の運用でサービス終了となるケースはこのリクープが早々に不可能であると判断された場合です。利益が出ていない場合はもちろん、たとえ利益が出ていてもリクープに数年を要することが見込まれる場合は開発リソースを有効活用する必要があることから、当該タイトルはサービス終了となります。
 
つまりリクープが比較的早期に見込めると判断された場合、そのタイトルは長期にわたり運用されることになります。けれども、たとえリクープに到達した後でも今後の利益がマイナスにしかならないことが見込まれるのであれば、やはり当該タイトルはサービス終了となり、ユーザーは資本主義の諸行無常を垣間見ることになります。
 
もっとも、今冬に11年ぶりの新作映画である『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の公開を控えたこのタイミングでの本作のサービス終了はこうした単純な運用上の問題だけではないようにも思えます。
 
もちろん現在のマギレコの収支状況がどのようになっているかは分かりませんが、すでに本作のメインストーリーが完結してから1年10ヶ月が経過しており、そのサービス終了の告知に先立ち、その後継的な位置にある新作アプリゲーム『魔法少女まどか☆マギカ Magia Exedra』のリリースが予告されていることから、本作のこのタイミングでのサービス終了はまどか☆マギカというコンテンツ全体の中でいえば、むしろこの先のシリーズ展開を見据えた上での満を持して迎えたサービス終了であったともいえるかもしれません。
 

* 魔法少女の真実とドッペル

 
「まどか」という作品が斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあります。そこで描き出されるのは「夢や正義の象徴としての魔法少女」ではなく「システムとしての魔法少女」でした。
 
「まどか」の原作アニメのあらすじは次のようなものです。物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開けます。その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやか魔法少女巴マミに救われ、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受けることになります。街の人々を守るため魔女と戦うマミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱きますが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺されることになります。
 
まどかが魔法少女への憧れとその現実の間で葛藤を繰り返す一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となります。そこに新たな魔法少女佐倉杏子が現れ、ほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされ、刻々と悪化する情況の中で、やがて「魔法少女の真実」が徐々に明かされていきます。
 
キュゥべえの正体はインキュベーターという地球外生命体であり、彼らは宇宙の寿命を伸ばす為にエントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」がもたらす感情エネルギーに着目し、そのエネルギーを効率的に搾取する為のシステムを開発します。これが「魔法少女」です。
 
キュゥべえインキュベーターと契約し、一つの願いと引き換えに魔法少女となった少女は、その魂を身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されます。そして極限まで穢れを溜め込んだソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移します。かくて魔法少女は魔女となり、インキュベーターはその際に生まれる莫大な感情エネルギーを回収するわけです。
 
つまり、魔法少女とはその敵であると思っていた魔女のまさしく前駆体的存在であったということです。これが「魔法少女の真実」です。ところが本作ではこうした魔法少女の悲劇的な運命に終止符を打つかの如き革命的なシステムが発明されます。これが「ドッペル」です。
 

* 魔法少女たちの仁義なき抗争

 
本作の第1部「幸福の魔女編」のあらすじは次のようなものです。本作の主人公である環いろははあるときから頻繁に見知らぬ少女が出ている夢を見るようになり、その夢の真相を知るべく夢を見るきっかけとなった新興都市「神浜市」を訪れます。そこでキュゥべえの特異的個体である「小さいキュゥべえ」に触れ、夢に出てきた少女が自身の記憶からなぜか消去されてしまっていた妹、環ういであったことを思い出したいろはは妹を探し出すことを決意します。
 
その一方でいろはは七海やちよ、由比鶴乃、深月フェリシア、二葉さなをはじめとした神浜市の魔法少女らと懇意となり、彼女らと共に神浜市に出現する「ウワサ(うわさ)」と呼ばれる謎の現象を解決するうちに魔法少女結社「マギウス」を名乗る魔法少女たちと邂逅し、あの「魔法少女の真実」を聞かされます。そして、魔法少女を魔女化の運命から解放すべくマギウスが開発したシステムが「ドッペル」です。
 
「ドッペル」とは端的にいえば「魔女化の代替行為」です。ソウルジェムに極限まで溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく魔女の力を制御できます。このようにしてみると、ドッペルは全ての魔法少女をその運命から解放する福音のようにも思えます。
 
けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮は目的に至るための手段でしかなく、その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にします。こうしたことから、いろは達はマギウスと対峙することになります。
 
そして、さらに本作の第2部「集結の百禍編」においてはこのような「ドッペル」の基盤となる「自動浄化システム」をめぐり、いろは達の「神浜マギアユニオン」は「プロミスドブラッド」「時女一族」「ネオマギウス」といったそれぞれが異なる主義主張を掲げる魔法少女勢力との間で熾烈な抗争を展開することになります。
 

* 現代政治哲学の縮図としての「まどか」

 
このようにしてみると本作における「いろはの物語」とは畢竟、様々なクラスターによる友敵の分断が加速する2010年代以降における現実の反映といえます。そして、こうした現実を踏まえた上で「いろはの物語」は「まどかの物語」に対して批評的応答を試みているようにも思えます。
 
この点「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもありました。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁しています。
 
こうした中、まどかは最終話においてすべての魔法少女が魔女になる前に消滅する世界を願います。そして続けて彼女は次のように言います。「神様でもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる」と。
 
このようなまどかの願いは現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場から読み解くことができます。コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、個人を基礎づける「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされますが、まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の「共通善」を称揚したといえるでしょう。
 

* 分かり合えなさのなかで手をつなぐ

 
しかしながら様々な主義主張を掲げた魔法少女勢力が友敵に別れて仁義なき抗争を繰り返す本作は「まどかの物語」が称揚した魔法少女の「共通善」など幻想に過ぎないことを突きつけます。こうした中、特定の「共通善」によることなく魔法少女同士の連帯を基礎付けようとする「いろはの物語」は現代政治哲学においてリチャード・ローティに代表される「ネオプラグマティズム」に相当するといえるでしょう。
 
ローティは初の単著である『哲学と自然の鏡』(1979)において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々の「ことばづかい」によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであると主張しました。そして代表的著作である『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)において「偶然性」に規定された「わたしたち」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「わたしたちの拡張」の結果として「連帯」が生じるとして、人々の「ことばづかい」をめぐるコミュニケーション実践こそが現代における哲学に課された使命であるとしました。
 
そして、本作においていろはが様々な魔法少女と繰り返してきた真摯な対話はまさにこうした「ことばづかい」の違いによる互いの「分かり合えなさ」を分かり合い、手をつなぐためのコミュニケーション実践であったようにも思えます。こうした意味で本作は2010年代以降の現実に誠実に対峙した想像力によって、かつてまどかが願った「希望」の在り処をより高い解像度で描き出した物語を展開してきたといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コミットメントとコンステレーション--村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』試論

 

*「読書」が「ノイズ」となった時代

 
文芸評論家の三宅香帆氏は近著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)において、近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」は「ノイズ」になったと論じています。
そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。当時「立身出世」の野心を抱いた多くの青年の間では読書によって自身の精神を練成する「修養」の思想が広まりました。ついで大正期になると全国的な図書館の増設、出版界における再販売価格維持制度の導入、高等教育の拡大などによって読書人口は爆発的に増加する一方で「サラリーマン」と呼ばれる新中間層の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」の思想が流行するようになりました。さらに戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がり、高度経済成長期には空前の教養ブームが到来することになります。このように日本においてはもともと「労働」と「読書」は相互に接続された関係にありました。
 
ところが高度経済成長が終焉した1970年代以降「労働」と「読書」の関係性は次第に揺らぎ始めます。そしてバブル崩壊後の長期不況により経済成長神話の崩壊が決定的となった1995年前後において「読書」と「労働」は決定的に切り離されることになります。そして、この時期から本格的な「読書離れ」が進行する一方で、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。この点、同書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものは「ノイズ」として捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであるといいます。さらにこうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降「ノイズ」を徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
 
このような1995年前後における「労働」と「読書」をめぐる傾向変化を同書は〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への変化として捉えます。すなわち、これまでの〈政治の時代〉においては〈政治〉を通じて社会を変革できるという素朴な信念がありましたが、新たな〈経済の時代〉においては〈経済〉という目の前の波をいかにうまく乗りこなすかが重視されるようになったということです。そして、このような「読書」が「ノイズ」となり始めた1995年前後の転換期において村上春樹氏が世に問うた小説が『ねじまき鳥クロニクル』です。
 

* デタッチメントからコミットメントへ

村上氏の8作目の長編小説となる本作は氏が「デタッチメント」から「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換した作品として知られています。村上氏は河合隼雄氏との対談集『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(1996)においてこの転換の経緯をおおよそ次のように語っています。
 
そもそも村上氏が小説を書き始めたきっかけは「自己治療のステップ」であり、その結果生まれたデビュー作『風の歌を聴け』(1979)は「文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか、それまで日本の小説で、ぼくが読んでいたものとまったく違った形のもの」となりましたが、これから小説家としてやっていくためにはそれだけでは足りないと感じていた氏はその「デタッチメント」の部分をだんだんと「物語」に置き換えていくようになります。
 
その試みは初の本格的な長編である『羊をめぐる冒険』(1982)を経て氏の代表作の一つとなる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)へと結実しました。そして、ここから氏がさらに作家としてもう一段階の成長を遂げるべく「個人的実験」として「リアリズムの文体」を追求した作品が氏の5作目の長編小説であり、村上春樹という作家の代名詞ともなるベストセラー小説『ノルウェイの森』(1987)です。
 
そして本作『ねじまき鳥クロニクル』は自身にとって第三ステップであったと氏はいいます。すなわち、まず「デタッチメント」があって、次に「物語」を語るという段階があって、やがて、それでも何かが足りないというのが自分でわかってきて、そこの部分で「コミットメント」ということが関わってきたということです。
 
この点、氏はここでいう「コミットメント」とは「人と人との関わり合い」であるとしつつも、続けて「これまでにあるような、『あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう』というのではなくて、『井戸』を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです」と述べます。
 
そして、この村上氏の発言を受けて河合氏は次のように述べています。「コミットメントという点でいうと、いま何かにコミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」。
 
本作が完結したこの1995年はオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年としても記憶され、国内批評においては戦後日本社会が大きな転換を迎えた年であると位置付けられています。この点、河合氏が述べるようにオウムとは「何かにコミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たち」に対して「コミット」すべき「答え」をある意味では三宅氏のいうところの「ノイズ」を除去した先鋭化した形で提示したともいえます。では、こうした時代状況の中で村上氏は『ねじまき鳥クロニクル』という小説においていかなる回路によって「コミットメント」を描こうとしたのでしょうか?
 

*「ノイズ」としての「歴史」

 
本作は長大で複雑な構造を持つ作品ですが、そのメインの物語だけを抜き出して要約すれば以下のようになります。本作の主人公、岡田トオルは妻、クミコと世田谷の一軒家でそれなりに平穏な生活を過ごしていましたが、2人の結婚を機に飼い始めた猫が失踪したことをきっかけに夫婦間に不穏な空気が漂い始め、ある日突然クミコは失踪してしまいます。
 
妻の失踪の理由にまるで心当たりのないトオルは深いショックを受けますが、その一方でトオルの前にはクミコが失踪する前後から、次々に奇妙な人物たちが現れ始め、やがてクミコ失踪の裏には彼女の実兄である綿谷ノボルの暗躍があることを突き止めます。
 
新進気鋭の政治家として今や時代の寵児であるノボルには人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っており、果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていました。クミコの声にならない声を聴き取ったトオルは、クミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべくノボルと対決することを決意します。そしてそれは具体的には「井戸」を使った「壁抜け」として遂行されます。
 
クミコの行方を探す上で現実的なアプローチの限界を悟ったトオルはある日、近所の曰く付きの空き家の枯れた井戸の底に降りて思索に耽っていたところ、現実世界とは位相を異にする精神世界へと入り込む超常的な能力を獲得します。そしてこの「井戸」を使った「壁抜け」により精神世界へと入り込んだトオルはそこでクミコ(の幻影)と邂逅し、バットを手にしたトオルはノボル(の幻影)を「完璧なスイング」で捉えて撲殺します。その後、現実世界に帰還したトオルは、現実世界でもノボルが突然、脳溢血を起こし再起不能になっている事を知ることになります。
 
このように本作はメインの物語に限っていえば、それは要するに主人公が敵と戦い奪われたヒロインを取り戻すという極めてシンプルな物語であるといえます。ところが本作はこのようなメインの物語から独立した複数の物語が複雑な形で組み込まれています。いわば本作は雑多な「ノイズ」に溢れた小説といえます。そして、そのような「ノイズ」の最たるものとして「歴史」をめぐる物語があげられます。
 
本作では第二次世界大戦期の満州国を舞台とする「歴史」をめぐる物語が随所で語られます。その一つが1938年のノモンハンにおける「皮剥ぎ」の物語であり、もう一つは1945年の新京における「動物園襲撃」と「中国人虐殺」の物語です。これらの「歴史」をめぐる物語においてはいずれも極めて苛烈な形で「暴力」が描かれることになります。では、このような「歴史」における「暴力」はメインの物語といかなるかたちで関わっているのでしょうか?
 

* リトル・ピープルの時代における「歴史」と「暴力」

 
この点、宇野常寛氏は戦後日本社会というパースペクティヴから村上作品を論じた著作『リトル・ピープルの時代』(2011)において「このような『歴史』を扱う手つきは村上春樹という作家が発揮した想像力の中でもっとも射程の長いものだろう」と述べています。
 
同書は社会共通の「大きな物語」を生み出す社会構造と「大きな物語」なき後に発生する不可避的な力をそれぞれ「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」と名指し、ここから戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1968年以前)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968年〜1995年)」「リトル・ピープルの時代(1995年以降)」に区分し、村上氏のいう「デタッチメント」から「コミットメント」への転換を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」から「リトル・ピープルへのコミットメント」への転換として位置付けています。
 
そして同書は『ねじまき鳥クロニクル』という作品において村上氏は「大きな物語」としての機能を停止した「歴史」を連続性のある「物語」ではなくフラットな「データベース」として再び機能させようとしているとして、このような「データベース」としての「歴史」は「『物語』とは異なる方法で『暴力』の存在を浮き彫りにすることができる」といい『ねじまき鳥クロニクル』を「その猥雑さ、ハイブリッドな表現がまるで建て増しと改築を繰り返した結果奇形的な進化を遂げた建築物のような魅力を生んでいる小説」であり「その中でもっとも小説としての想像力の行使のダイナミズムを味わうことができるのが、この『歴史』へのアプローチだろう」と評価しています。
 
しかしその一方で同書はその小説世界に再召喚された「(新しい)歴史」と「(新しい)暴力」を村上氏は「やや持て余している」といいます。その一つの理由が綿谷ノボルという「敵」の造形の甘さです。彼は当時のニュー・アカデミズムの流れを汲む知識人や台頭しつつあった新保守系の政治家を強く想起させるものがありますが、その卑俗なイメージはオウム真理教が体現するリトル・ピープルの時代における現実の暴力を捉えきれていないということです。
 
そしてもう一つの理由が同作で村上氏が提示した「コミットメント」の形式にあります。同作が提示する「コミットメント」とは村上氏がこれまでの作品で洗練させてきた「他者性なき他者」としての傷を抱えたヒロインが無条件に主人公に承認を与えるという「ナルシシズムの記述法」を応用したものとなっていますが、ここには主人公のコミットメントのコストがヒロインに転嫁されるという「性暴力的な構造」が露呈してしまっており、リトル・ピープルにおける暴力に対するコミットメントのモデルとしては安易に思えると同書はいいます。
 
このような同書の論旨についてはもちろん賛否が分かれるところもあるかとは思いますが、少なくとも本作で描かれる「歴史」はメインの物語の展開と因果的連関においてつながっておらず、その意味でいえば本作は確かに「歴史」を「ノイズ」として「やや持て余している」ともいえます。しかし、その一方で本作において「歴史」は因果的連関とは「別のしかた」でメインの物語に関わっているとも考えられます。
 

*「絵空事(フィクション)」としての「歴史」?

 
まず、そもそもなぜ本作には「歴史」が登場するのでしょうか?この点、加藤典洋氏は『村上春樹は、むずかしい』(2015)において次のような二つの要因をあげています。
第一が「個」からの出発によるものです。本作は氏が客員研究員として滞在するアメリカ東部プリンストンの大学町で執筆されることになりますが、同書は氏がアメリカから日本を外から眺めることで、自分と日本の結びつきが新たに意識されるようになり、ここから「個」の自覚に立った社会的(歴史的)責任感、コミットメントへの意欲が生じたといいます。
 
第二が「個」の溶解によるものです。同書は本作執筆時の氏にとって「物語」とは、これまでのように「個」と「モラル」と「ロジック」によって構築されるものではなく、むしろ逆に「個」を溶解して無意識へと降りていくためのツールへと変化しており、その無意識の底に「歴史」が現れてきたといいます。
 
そして同書はこのような「個」からの出発と溶解という逆向きにも見える二つの要因を「歴史」に向かう一つの動線として把握します。つまり⑴それまであいまいで無定型的な「日本社会」から逃れて「個」を守ろうとしていたけれども⑵個人主義アメリカに来たらその必要がなくなり⑶今度は「個」を前提にその先を考えていこうとした結果⑷それは「個」への沈潜という企てへと深まっていったということです。
 
では、このような村上氏と「歴史」との関わり合いは従来の歴史認識や戦争の記憶の継承とはどのように異なるのでしょうか?この点、本作の描きだす満州、蒙古の記述は現実の東アジアからは遊離した架空のイメージに過ぎないとしばし批判されますが、加藤氏はこのような批判を踏まえた上で、本作が描き出す「歴史」は「いまや絵空事であることによって、逆に新しい現在の『記憶』された歴史の「生々しい」現実性に迫っている」と見る方が正しいのではないかとして「現実のもつ現実性が時の経過のなかでリアルな意味をすり減らしてしまう。そういうばあい、その現実性は、いまやフィクションを通じてしか、リアルな意味を回復できないのである」と述べます。
 
絵空事(フィクション)」でしか「歴史」の「リアルな意味」を回復できないとはどういうことなのでしょうか?この一見不可解な逆説を考える上では「歴史」における「暴力」として表出する「悪」をいかに捉えるかというパースペクティブを導入する必要があるように思われます。そこで以下の議論は『ねじまき鳥クロニクル』という作品からいったん離れ、現実の「歴史」へと潜行します。
 

* 侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館から考える

 
この先で検討するのは東浩紀氏の「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題(『ゲンロン10』(2019)所収)」という論考です。本論考の前提には東氏が「ソルジェニーツィン試論」で批評家としてデビューして以来長年抱いてきた「ひとはなぜ、かくも高い知性をもち、かくも豊かな感情を備えながら、かくも残酷で愚かな悪をなしてしまうのか」という問いがあります。
しかしこの問いはその解答が困難であるばかりか、問いへの接近そのものが困難であると氏はいいます。そこで本論考ではその準備作業として、いかにして「悪の愚かさ」を「記憶」するかが問われ、その手がかりとして東氏が以前訪れたという中国黒竜江省の中心都市ハルビン郊外にある「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」が論じられます。
 
この「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」とはその名の通り、第二次大戦期に日本の関東軍が運営していた細菌戦の研究機関である「関東軍防疫給水部本部」、通称「七三一部隊(石井機関)」の「罪証」を展示する博物館であり、七三一部隊の本部があった場所に建てられています。この点、氏は七三一部隊の人体実験については日本では今でも「反日勢力」による「捏造」であるという声が強く、それゆえにか罪証陳列館の展示はまず「実証」に力点が置かれているとして、その「実証」には大きく4つのタイプがあるといいます。
 
第1の「実証」はモノによる証明であり、実験室や機材の発掘、再現がそれにあたります。第2の「実証」はひとによる証明であり、元軍医や元隊員の証言がそれにあたります。
 
そして第3の「実証」は文献による証明で、人体実験の医学的記録や犠牲者の逮捕記録がそれにあたります。ここで東氏は犠牲者の逮捕記録における「特移扱」という特殊な言葉に注目しています。この「特移扱」とは七三一部隊への「特別移送」の指示を意味しています。
 
この点、七三一部隊は人体実験の犠牲者を「マルタ(丸太)」と呼称しており、彼らは犠牲者を「1人、2人」ではなく「1本、2本」と数えていたそうです。つまり、ここで犠牲者は名前を奪われたただの物理的な身体でしかなく、それゆえにその死には何の固有性も意味も与えられていないということです。
 
このような固有性と意味の剥奪を東氏は「数値化の暴力」と呼び、こうした七三一部隊による「数値化の暴力」に抵抗する上で犠牲者の逮捕記録である「特移扱」のリストは有効な武器となるといいます。この「特移扱」のリストを辿ることで犠牲者の氏名がある程度は判明するからです。それゆえにこの「特移扱」の記録を展示する部屋の中心には犠牲者の名前を記した高さ5メートルを超えるインスタレーションがあたかも墓標のように聳え立っており、この部屋全体が犠牲者に対する「祈りの場」として機能していると氏はいいます。
 
そして東氏はこの部屋の存在こそが罪証陳列館の哲学的な本質を示しているといいます。先述のように罪証陳列館の展示はまずは「実証」に力点が置かれています。しかし七三一部隊の本質は「数値化の暴力」にあります。したがって、その「数値化の暴力」に抗うには「実証」だけでは不十分であり、犠牲者が再びその固有性を、名前を取り戻す必要があります。すなわち、罪証陳列館は単なる「実証」のみならず、犠牲者の死の「意味の回復」を目的とする博物館であるということです。
 
さらにこのような理解は第4の「実証」としての歴史的背景に関する展示の充実とも合致していると氏はいいます。すなわち、罪証陳列館は七三一部隊の非人道的行為の背後には旧日本軍が組織的に進めていた巨大な生物戦構想があったという歴史観=物語を示すことで、七三一部隊の残虐性に意味を与え、そのことにより犠牲者の死にも意味を与えようとしていたということです。
 

*「悪の愚かさ」をいかに記憶するのか

 
このように罪証陳列館の展示は七三一部隊の人体実験の背後には日本政府と関東軍が進めた巨大な生物戦構想があったという歴史観を前提に構成されています。しかしながら現在においてはむしろ七三一部隊は有名なわりには軍事的な成果をあげなかった組織だという評価がなされています。こうした評価からすれば罪証陳列館の展示は戦前に日本と関東軍の力をむしろ過大評価しているともいえるでしょう。
 
しかしそれでも罪証陳列館は七三一の人体実験の背後に大きな計画や構想を見出さざるを得ないと東氏はいいます。なぜなら、そうでないと犠牲者たちはマルタとして無意味に死んでしまったことになり、その死に意味を回復させることができないからです。
 
ここから東氏は「加害の愚かさを認めることは、時に加害の反復になる」というテーゼを引き出します。そしてこれは七三一部隊に固有の問題ではありません。戦争やテロリズムはもちろんのこと、いじめやハラスメントといった我々の社会に遍在するさまざま加害の「意味」をめぐる問題といえるでしょう。
 
このように罪証陳列館は「数値化の暴力」に対して「意味の回復」で抵抗する施設であったといえます。すなわち「悪」はまずは「意味」によって記憶されるということです。けれども、その一方で加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないという問題があります。ではその時、加害の無意味さの記憶は、言い換えれば「悪の愚かさ」の記憶はいったいどこにいってしまうのでしょうか。
 
すなわち「悪」をどう記憶するかという問題につき「実証」が第一段階で「意味の回復」が第二段階だとすれば、おそらくはその先にもう一つまた別の戦略が第三段階として必要となってくるということです。
 

*「大量死」と「大量生」をつなぐものとしての「文学」

 
ところで東氏はこの「罪証陳列館」を訪れた際、施設の周囲には賑やかな郊外住宅地があり、バスが行き交う大きな並木通りがあり、ショッピングモールや地下鉄の駅があり、跡地の公園は市民の憩いの場になっており、その敷地内には6階建の団地が3棟食い込んでいることに気づきます。また「罪証陳列館」のシンボルとして知られる赤煉瓦と緑の屋根が特徴的な七三一部隊の本部棟は戦後のある時期まで中学校の校舎に転用されていたことがあるそうです。
 
氏はかつての悲劇の土地が市街地化している現実に戸惑いを覚えますが、似たような戸惑いは以前訪れたポーランドクラクフウクライナのキーウでも感じたことがあるといいます。例えばクラクフの中心近くには『シンドラーのリスト』の舞台として知られるプワシュフ強制収容所跡地がありますが、氏によればこの跡地は現在、公園として整備されており、ここでもまた収容所の敷地の一部が団地用地に転用されているそうです。またキーウでは第二次大戦期にナチスドイツによるユダヤ人の虐殺が市内のバビ・ヤールという谷で日常的に行われていたことで知られていますが、氏によれば現在のバビ・ヤールはその近くにあったスィレツ強制収容所の敷地を住宅地に転用したときに出た大量の土砂ですっかり埋め立てられてしまっているとのことです。
 
ここにはいわば「(広義の)収容所」の跡地の周囲に「(広義の)団地」が建っているという共通の構図を見出すことができるでしょう。そこで氏はここから批評家の笠井潔氏の提示する「大量死=大量生」という概念を手がかりとして、この「収容所」と「団地」の関係についての考察を深めていきます。
 
笠井氏は自身も小説家で「探偵小説(推理小説やミステリ)」の歴史について多くの評論を発表していることで知られています。一般的に探偵小説の起源はエドガー・アラン・ポーに求められますが、笠井氏によればその本当の起源は第一次大戦にあるとされます。この第一次大戦は人類がはじめて経験した総力戦であり、この戦争で多くの人々が集団的かつ匿名的に殺されました。笠井氏はこの現象を「大量死」と呼び、探偵小説はこの「大量死」への抵抗として生まれたジャンルであると主張しました。
 
そして一般的に探偵小説は人間の描写があまりにも記号的であるとされ、文学的には高く評価されない傾向があります。けれども笠井氏は探偵小説が人間を記号的にしか描けない/描かないのは作者の力量不足ではなく、それは人間が記号的に処理される20世紀社会の現実の反映に他ならないと主張します。そして笠井氏は現代社会において「大量死」に等値される「大量生」を見出し、このような「大量生」の現実の反映として1980年代から1990年代に生じた探偵小説の第三の波と言われる「新本格派」の台頭を位置付けました。
 
ここでいう「大量死=大量生」は東氏が「数値化の暴力」と呼んできたものと深く関係しています。世界をすべて数値化する能力、それは決して「大量死」を可能とするだけではなく「大量生」もまた可能にします。つまり「数値化の暴力」があるからこそ大量の人々をモノのように処理して収容所に送り込むことができますし、同じようにその暴力があるからこそ大量の商品を安価に生産し、大量の人々を規格化された団地に住まわせることができるわけです。
 
このような「数値化の暴力」による「大量死=大量生」が可能となった時代において笠井氏は「大量死」に対して従来のような自然主義文学で抵抗するのではなく「大量死」と「大量生」を探偵小説によって接続するという新たな文学的可能性を提示したことになります。すなわち「大量死」の暴力に対して「意味の回復(自然主義文学)」で抵抗するのではなく、その暴力が生み出した「意味喪失(探偵小説)」こそを記憶し、その上で「大量死」と「大量生」を連続的に考えるということです。つまりここで「悪」の記憶の問題は「実証」という第一段階と「意味の回復」という第二段階に続き、記号的でパズル的な「文学=探偵小説」に担われることになります。
 
先述のようにハルビンでもクラクフでもキーウでも「(広義の)収容所」の跡地の周囲には「(広義の)団地」が建設され「大量死」の場は「大量生」の場にすっかり変わってしまっていました。そしてこのような「大量死」から「大量生」への連続性は日本でも似たようなことがいえます。東京の市街地は空襲による虐殺の跡地の上に広がり、広島と長崎の市街地は原爆による虐殺の跡地の上に広がっています。
 
そしてだからこそ、この「大量死」から「大量生」への連続性を逆にたどることで我々は「大量生」から「大量死」の過去あるいは地下へと降りていけるのではないかと東氏は述べます。そしてそのような読解の可能性を検証するため東氏が本論考において読解を試みる作品こそが他ならぬ『ねじまき鳥クロニクル』です。
 

* 事実とは限らない真実をいかに語るか

 
本作はもちろんジャンル的にいえば「探偵小説」ではありません。しかし村上作品は確かに東氏が指摘するように「彼の小説はしばしば探偵小説に近い作風だと受け取られ、そのせいで商業的に成功もしてきたし、また批判もされてきた」という側面があります。そして東氏は本作のメインの物語とノモンハンや新京の「歴史」とのつながりの中心には「井戸のイメージ」があるといいます。
 
先述のように本作におけるメインの物語とノモンハンや新京の「歴史」とのあいだに因果的連関を見出すことができません。けれども小説内ではなんらかの関係があるかのように描かれています。ここで東氏は「というよりも、村上はまさに、そのような関係を描くために小説という技法を用いている」と述べます。
 
この点、村上氏は主人公であるトオルに次のように語らせています。「ものごとはまるで三次元のパズルのように複雑に入り組んでもつれている。そこでは真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」と。そして本作における「井戸」とは精神分析のいう「無意識」の領域を指す「イド id」のメタファーであり、まさに「真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」関係を言語化するための装置として導入されています。
 
このような本作の構成は村上氏が現在と過去の関係について、あるいは歴史の語りかたや記憶のありかたについて、歴史家やジャーナリストとはかなり異なった考えを持っていることを示していると東氏はいいます。
 
本作では一方に平和な現在(1980年代)の東京があり、他方に血塗られた過去の満洲があります。この両者は時間的にはもちろんつながっています。本作の主題は確かにその連続性にあります。しかしにもかかわらず、その連続性を事実にもとづく因果的連関によって再構成しようとすると、それは突然に難しくなります。
 
だからこそ村上氏はトオルを「井戸=無意識」に送り込み、文学の力で「大量死=大量生」を因果的連関とは別のしかたで言語化しようと試みます。つまり『ねじまき鳥クロニクル』とは「事実とは限らない」「真実」を文学の力でいかに語り切れるかというテーマを真正面から問い直した作品であるといえるでしょう。
 

*「井戸=無意識」に潜ることで「悪」の記憶に触れるということ

 
そしてこのことは本作が公刊された当時の村上氏の作家としての立ち位置を考えればより明確なものとなります。いまでこそ日本を代表する作家とみなされている村上氏ですが、本作公刊当時はむしろポストモダンな消費社会にどっぷり浸かった、いわば「大量生」の時代を代表するいささか軽薄なベストセラー作家とみなされていました。それゆえに少なからぬ批評家が彼の作風を批判しました。その代表的な例として柄谷行人氏による論考「村上春樹の『風景』」(1989)があります。
 
柄谷氏はこの論考において村上氏の初期作品では「固有名」が避けられ「数」が頻出することに注目します。ここでいう「数」とは例えば『風の歌を聴け』における「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる」というような一見して意味がありそうであまり意味のない数字です。実際のところ、こうした「数」は小説内ではほとんど何の役割も果たしていません。
 
こうしたことから柄谷氏は村上氏の想像力が、すべてを「任意的なもの」に変えてしまう「アイロニー」にあるとして、彼の小説は「無意味なものに根拠なく熱中してみせることによって、意味や目的をもって何かに熱中している者への優越性を確保するといった姿勢において存する超越論的な自己意識」を生み出すために書かれているといい、それは畢竟「『現実性』からの逃亡であり、ロマン派的な拒絶である」と批判します。
 
なかなか難しい言い回しですが、要するに柄谷氏はここでいわば村上氏の「数値化の暴力」に対して「意味の回復」を訴えているともいえます。これに対して村上氏は本作において「数値化の暴力」に対して単純に「意味の回復」で抗うのではなく「井戸=無意識」に潜るという回答を示したといえます。そして、加藤氏のいう「絵空事(フィクション)」でしか「歴史」の「リアルな意味」を回復できないとはまさにこのことを意味しているのではないでしょうか。
 
「大量死」の場である「収容所」は犠牲者を数字に変えて忘却します。これに対して「罪証陳列館」のような「博物館」は犠牲者の名を取り戻し「意味の回復」を図ります。「悪」の記憶について語られる時、普通はこの加害と被害の二つだけが対置されます。けれども東氏は「収容所」の上に建てられた「博物館」の周囲にはしばし「団地」が建てられていることに注目し、おそらく「悪」については加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるといいます。
 
「大量生」の場である「団地」の住民は「大量死」の過去を忘れています。けれども彼らは「井戸=無意識」に潜ることで「悪」の記憶に触れることができます。そしてそのような視点を手にすることで初めて人は「悪」について忘却するのでもなく非難するのでもなく「考える」ことができると東氏はいいます。それこそが『ねじまき鳥クロニクル』で示された文学的可能性であるということです。
 

* コンステレーションを読み出す物語

 
このように本作は「井戸=無意識」を導入することで現在と過去を因果的連関ではなく、いわば共時的布置でつなげています。
 
分析心理学の創始者であるスイスの精神科医カール・グスタフユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を想定し、ある個人の「自我」が自らの「自己」と対決すべき時期が到来した時、そこで生じている内的現実に呼応するような外的現実が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種の精神の不調かもしれないし、あるいは人生における挫折や喪失といった出来事かもしれません。しかしいずれにせよ、そのような内的現実と外的現実のめぐりあわせのなかには「自我」がいよいよ「自己」との対決を試みている努力の表れを見出すことができます。こうしたことからユングは、このような内的現実と外的現実のめぐりあわせを「自己実現の過程」に向けたひとつなぎの「コンステレーション」として把握することを重視しました。
 
もっとも、このようなコンステレーション言語化は極めて困難であることも確かです。例えばユング派分析家でもある河合氏は村上氏との対談の補足で「しかし、実際はわたしのしている心理療法の過程を言語化し、それを一般に通じる形にすることは困難極まりない」と述べています。けれども河合氏は続けて「むしろ、そんな点で村上さんの『ねじまき鳥クロニクル』などは、わたしの仕事の内容に非常に近いことを書いてもらった、という気がしています」と述べています。こうした意味で本作はコンステレーション言語化を「物語」というかたちで試みた作品であるといえるでしょう。
 

*「ノイズ=他者の文脈」をつなげていくということ

 
それではここで冒頭で取り上げた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が提示する現代において「読書」が「ノイズ」となってしまったという問題に戻ってみたいと思います。同書で三宅氏は読書とは「文脈」によって紡がれるものであるといいます。ふつう我々はいまの自分が置かれている「文脈」から本を読もうとしますが、1冊の本にはさまざまな「他者の文脈」が収められており、現代において人はそのような「他者の文脈」を、しばし「ノイズ」として感じてしまうわけです。
 
そして、これまでの議論を踏まえると『ねじまき鳥クロニクル』という作品はまさにこのような「読書」が「ノイズ」となるという「文脈」から読み解くことができます。本作はトオルが現在置かれている「失踪したクミコを探す」という「文脈」の中に「歴史」をはじめとする様々な「ノイズ=他者の文脈」が入り込んできます。これらの「文脈」は因果的連関によっては決してつながることはありません。けれども本作は「井戸=無意識」を導入し、これらの「ノイズ=他者の文脈」をコンステレーションによってつなげることで、ここから新たな「文脈=物語」を自己増殖的に紡ぎ出していくという極めてアクロバティックな想像力を展開させているといえるでしょう。
 
村上氏が河合氏との対談で「『ねじまき鳥クロニクル』という小説がほんとうに理解されるのには、まだ少し時間がかかるのではないかという気がするのです」と述べているように、本作は多様多彩な「文脈」が複雑なかたちで張り巡らされた作品であり、そのすべてを詳らかにする読解などおそらく不可能でしょう。
 
しかし少なくとも「読書」が「ノイズ」になるという「文脈」から『ねじまき鳥クロニクル』という作品を読み解くのであれば、本作はまさにそのような「ノイズ=他者の文脈」をつなげていくための想像力を見事に発揮した作品であるといえます。こうした意味で本作は現代日本社会におけるアクチュアルな問題に対してまさしく「まったくつながるはずのない壁を越えてつながる」というコミットメントを試みた作品であったといえるのではないでしょうか。