かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「悪の凡庸さ」と「語り口」の問題

* イェルサレムのアイヒマン

 
20世紀を代表する政治哲学者、ハンナ・アーレントには1963年に公刊した『イェルサレムのアイヒマン』という大変有名な著作があります。ここでいう「アイヒマン」とは、ナチスの戦犯であるアドルフ・アイヒマンのことです。アイヒマンは第二次世界大戦中にユダヤ人の強制収容所への大量移送で指導的な役割を果たしており、戦後はアルゼンチンに潜伏していたところ、1960年5月にイスラエルの秘密警察に拘束され、1961年にエルサレムで裁判にかけられ、同年12月に第一審で死刑判決が下され、控訴審を経た翌年5月に絞首刑となっています。
 
アーレントはアイヒマンの裁判が行われるというニュースを聞いて、知人だったアメリカの有力な週刊誌『ニューヨーカー』の編集者に「裁判レポーターをしたい」と申し出ます。1941年に亡命ユダヤ人としてアメリカへ渡ったアーレントは1951年には最初の主著となる『全体主義の起源』を公刊し、同年にアメリカの市民権を獲得します。そして1958年には第二の主著にして彼女の代名詞的著作となる『人間の条件』を公刊し、この時点ですでに政治哲学者として高い評価を獲得していました。
 
こうして『ニューヨーカー』誌の特派員としてアイヒマンの裁判を傍聴したアーレントはそのルポタージュを1963年2月から同誌に5回にわたって連載し、同年5月には一連の連載をもとに『イェルサレムのアイヒマン』を公刊します。
 
このアーレントのルポタージュは雑誌連載中から大きな反響を呼ぶことになります。しかしその反響のほとんどはアーレントへの非難の声でした。中山元氏は『アレント入門』(2017)において、このアーレントの非難には二つの大きな軸があったといいます。
 
まず第一の軸はアーレントが同書のサブタイトルとした「悪の凡庸さ」という考え方にかかわるものです。アーレントはナチスの立案したユダヤ人の絶滅計画を実行した中心人物が、予想されていたような典型的な悪人ではなく、あるいは狂信的なナチス党の党員でもなく、驚くほど凡庸な官僚であったことに強い衝撃をうけたことから、この「悪の凡庸さ」という表現を選んでいます。しかし人々はこの表現からアーレントがナチスの犯した悪を軽視し、それを擁護していると思い込んだのでした。
 
そして第二の軸はこの絶滅計画にユダヤ人がどのように関与しているかという問題にかかわるものです。アーレントは同書においてヨーロッパのユダヤ人の指導機関である「ユダヤ人評議会」が一部の特権的なユダヤ人を国外に脱出させるために多くの一般のユダヤ人を収容所に送ることでナチスに協力していたことを明らかにしています。ユダヤ人の虐殺を実行したのがナチスであることは間違いないにせよ、結果的にはユダヤ人たちもまた消極的な形でそれに協力してしまっていたということです。
 
とりわけこの第二の軸が世界のユダヤ人組織がユダヤ人女性であるアーレントをこぞって非難するきっかけとなりました。被害者であるユダヤ人たちにもその絶滅計画の責任を負わせ得るかのように思えるアーレントの文章に対してユダヤ人組織が一斉に非難の声を上げ、それから数年もの間、激しい反アーレント・キャンペーンが欧米を席巻することになります。
 

* アーレントとショーレムの往復書簡

 
こうした『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる非難の嵐の中でアーレントは一度だけ、正面から批判に応答する形で本格的な論争を行っています。それが1963年に行われたゲルショム・ショーレムと彼女の往復書簡です。ショーレムは1923年にパレスチナに渡り、1925年以来ヘブライ大学でユダヤ思想史を講じるヘブライ学の第一人者にしてユダヤ人問題の専門家です。アーレントにとってもショーレムは親シオニズムの運動を通じ年来畏敬してきた年長の友人の一人でした。
 
この書簡においてショーレムはアーレントに「わたしたちの民族の娘」と呼びかけ、この『イェルサレムのアイヒマン』という書物には「ユダヤ人への愛がほとんど見受けられない」ことを咎めます。そしてこの書物で採用されている「語り口」について次のように批判します。
 
「あなたが本のなかで非常に頻繁に用いている語り口、英語ならば軽薄さ(フリッパンシー)という言葉で表現されるような語り口には、わたしは共感できません。この語り口は、あなたが語っている事柄には、あまりに不適切なのです。このような状況においては、ドイツ語の慎み深い〈心の礼儀〉という言葉で表現しうるようなもののための場所があってもいいのではないでしょうか」
 
これに対してアーレントはこの書簡の返信において、ショーレムのこれらの規定と非難に対して順に答えています。第一に「わたしたちの民族の娘」というショーレムの呼びかけについてアーレントは「わたしには似合わないレッテル」として明確に拒否しています。ユダヤ人女性であることはアーレントのアイデンティティの核心ではありましたが、それは否応なく引き受けざるを得ない運命なのであり、あたかも親に何かしらの義務を負うような「娘」の立場に立つことを意味するものではありませんでした。
 
第二に「ユダヤ人への愛」に欠けているという非難についてアーレントは「わたしはいままでの人生において、ただの一度も、なんらかの民族あるいは集団を愛したことはありません。ドイツ人、フランス人、アメリカ人、労働者階級など、そのたぐいの集団を愛したことはないのです。わたしはただ自分の友人〈だけ〉を愛するのであり、わたしが知っており、信じてもいる唯一の愛は個人への愛です」と述べています。アーレントにとってユダヤ人であるということはアイデンティティの問題、あるいは運命の問題ではあっても「愛」の問題ではないということです。
 
第三に文体における「慎み深さ」についてアーレントはユダヤ人にとって好ましくないことを語る人はつねにこうした「慎み深さ」の欠如という非難を浴びせかけられると指摘しています。確かに「ある不愉快な事実をただ報告するだけの人間が、魂がない、あるいはあなたがおっしゃるように〈心の礼儀〉がないと責められる」ことは避けられません。しかしアーレントは「慎み深さ」が時に「感情が実際の真実を隠すために使われる」こともあるがゆえに、こうした〈心の礼儀〉によって真実を語ることを控えるつもりはなかったといいます。
 

*「悪の凡庸さ」と「語り口」の問題

 
この往復書簡でアーレントはショーレムのいう「語り口」について直接は答えてはいませんが、後に彼女は1964年にドイツで行われたテレビ・インタビュー(いわゆるガウス・インタビュー)において次のように明確に述べています。
 
私はほんとうにアイヒマンは道化役者のようだと思いました。3600ページに及ぶ警察の尋問書をきわめて綿密に読みとおしましたが、読みながら、何度笑ったことでしょうか。しかも声をあげてです。こういう反応のことで人々は私にたいする感情を害するのです。それにたいして私は何もできません。しかし私は、自分が死ぬ間際まで、それについて笑えるだろうと思っています。それが私の語り口だそうですが、私の語り口はもちろん十分に皮肉っぽいものです。それはまったくおっしゃる通りです。この場合、語り口は本当に人間そのものです。私がユダヤ民族を告発しているかのようにいう非難ならば、それは悪意のある偽りのプロパガンダ以外の何物でもありませんが、語り口についての異論は私という人間にたいする抗議である以上は、どうすることもできないのです。
 
アーレントはこうした「慎み深さ」のない語り口を採用したことの背景に、本来「極悪人」であるはずの(あるいは、そうであるべきの)アイヒマンが道化役者のような人物に過ぎなかったという意外な事実の発見があることを明らかにしています。警察の調書から浮かび上がってくるアイヒマンの滑稽さにアーレントは笑いを抑えることができなかったのであり、その結果、このルポタージュの文体の基調が皮肉な語り口となってしまっているということです。そしてこのことは「悪の凡庸さ」と深い関係にあります。
 
「悪の凡庸さ」とはアイヒマンの犯した行為が、その「悪」が、凡庸であると主張するものではありません。この「悪」は筆舌し難い空前絶後の巨悪であることは間違いありません。問題はこの「悪」を犯した当の人物がごく凡庸な人物であったということです。
 
アドルフ・アイヒマンという人物はドイツ西部のゾーリンゲンの典型的な中産階級の家庭に生まれ、オーストリアで青年期を過ごした後、石油会社のセールスマンとして真面目に働き、ナチスに入党してからはそれまでのサラリーマンとしての才能を発揮して委ねられたユダヤ人移送の仕事に専念しています。ここでの彼の最大の関心事は自身の職務をいかに円滑に遂行するかということであり、その職務がいかなる「悪」をもたらすかを想像することも思考することもしませんでした。
 
こうしたことからアーレントはアイヒマンの人間的な特性として想像力の欠如と思考の停止を挙げています。そうであれば組織の論理に埋没し、他人の立場に立って想像し、思考するという営みをやめたとき、人は誰でもアイヒマンのように「悪」をなしながらも平然としていられるようになるかもしれないといえるでしょう。
 

*「語り口」をめぐる共同性と公共性⑴

 
ところで文芸評論家の加藤典洋氏は『敗戦後論』(1997)に収録されたその名も「語り口の問題」という論考で、このアーレントとショーレムの論争を「語り口」をめぐる共同性と公共性の問題として読み直しています。まず加藤氏は同論考において1995年に発表した「敗戦後論」の要旨を概ね次のようにまとめています。
 
⑴戦後日本が抱えることになった問題の一つは例えば軍事力の行使を世界に率先して放棄することを謳った現行憲法が軍事力を背景にした圧力のもとに押し付けられるという矛盾、また戦争に関し、開戦の詔勅の上に捺印の上これを発布した最高責任者である天皇が戦争裁判で免責され、下僚が代わりに絞首刑に処せられるという矛盾などに顔を見せている、一つの「ねじれ」を敗戦占領とその後の推移により日本の社会、政治、道義がその根源に抱え込むことにになったことである。
 
⑵この「ねじれ」はその後、日本社会をいわば「歴史を形成する主体」をもてない分裂した人格にした。つまり本来ならこの憲法の理念に賛同し、これを肯定する側がこれを真に自分のものとするため、この「ねじれ」を問題にし、その克服を目指さなければならないところ、この「ねじれ」は逆にそれに目をつむる護憲派と、それを理由にこれをまたもや戦前型の「自主憲法」にとって代えることでその克服ならぬ解消を目指す改憲派との出口のない(ジキル氏とハイド氏的な)人格分裂の動因となったのである。
 
⑶天皇の信従者についても同じことが言える。彼らこそこの戦後の一時期の安定のため将来に禍根を残すような選択はすべきでなく、道義の根を日本社会に残すため、戦後、退位すべきことを天皇に勧めなければならなかったところ、ここでもこの「ねじれ」は道義を超越している天皇に戦争責任を問うのは間違っているとして日本の侵略責任に目をつむる天皇信奉者たちと、アジア解放の大義の夢が破れた後、一転して侵略した先の国々への懺悔を全身に現し、今は天皇の戦争責任を追求してやまない元天皇信奉者たちという二者へと分裂した。
 
⑷この人格分裂は「歴史を引き受ける主体」が戦後日本に形成されていないという事態を意味している。ではどうすればこの人格分裂をできるのか。その鍵は「死者の弔い方」にある。戦争の死者の弔い方においてこの人格分裂は、日本の侵略戦争がもたらしたアジアのよその国の二千万の死者への謝罪と、自国の間違った戦争のもとで無意味に死んだ三百万の死者への哀悼の分裂という形で現れている。
そして氏はこの根源にある問題とは「侵略戦争のために無意味に死んだ自国の死者を無意味なままに深く弔う仕方をわたし達がいまだに見つけられていないでいる」ということではないかといい、次のように述べます。
 

 

悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。
 
そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。
 
そのようなあり方がはたして可能なのか。
 
ここではっきりしていることは、ここでも、この死者とわたし達の間の「ねじれ」の関係を生ききることがわたし達に不可能なら、あの敗戦者としてのわたし達の人格分裂は最終的に克服されないということだ。
 
ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。
 

*「語り口」における共同性と公共性⑵

 
周知のように「敗戦後論」が発表された後、加藤氏は激しい批判を浴びることになります。特に加藤氏に対して最も激しい批判を行ったのが哲学者の高橋哲哉氏です。加藤氏と高橋氏の間の応酬はのちに「歴史主体論争」と呼ばれることになります。高橋氏が「汚辱の記憶をめぐって」と題する「敗戦後論」を批判した戦争責任論における「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」という一節はよく知られています。
 
ここで高橋氏は『イェルサレムのアイヒマン』をめぐるアーレントとショーレムの論争を取り上げており、たとえ「同胞」に対してであっても「判断する=裁く」という責任を回避することはできないというアーレントの主張を論拠に加藤氏の主張を自国の死者を「かばう」ものを内向きの態度として批判しています。これに対して加藤氏は「その選択は、興味深い視点を提供している」といいます。
 
加藤氏によればアーレントにおける公共性の概念とは個人に立脚する近代原理からではなく、古代ギリシャや古代ローマにおける「名誉、誇り、政治」といった「反個人主義的な、近代以前の思考を母胎」としているとされます。その理由として氏は「いわばユダヤ民族の民族性、その思想の共同性を殺すため、ここでその対置物として、公共性という古典古代の概念を、自分に必要としてる」という点を挙げ「その核心をわたしの関心にひきよせていえば、それはある種の共同性をどうすれば解体できるか、という問題」であると述べます。
 
ここから加藤氏は自国の死者への追悼を「先に」置く他国の死者への謝罪と哀悼という死者の弔い方について、これは「どうすれば死者との共同性を解体してわたし達の死者との関係を公共化できるかという戦後日本にとって未知の課題」であるといいます。なぜならば戦後日本における人格分裂は分裂するそれぞれの半身がアジアの二千万の死者、あるいは日本の三百万の死者との共同性に起因しているため、この共同性からの自立が歴史を引き受ける主体形成の鍵であるからです。
 
さらに加藤氏は高橋氏の考え方への「最大の疑念」は「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続ける」といった、その「語り口」にあるといいます。加藤氏は高橋氏のショーレム的な「一枚岩的な語り口」に「その言明の語ることがらが言明の仕方の精密を求めることだけに、もっとも大きな異議をおぼえる」として、そしてそれは高橋氏に限らず「それはいわゆる日本の戦後の『良心的』知識人がしばしばこれまでとってきた」「共同的な語り口」であり「このような語り口で語られる限り、何がいわれようと、あの戦後日本の人格分裂はけっして克服されない」といいます。
 
「共同的ではない語り口だけが、共同性を殺す」と加藤氏はいいます。すなわち『イェルサレムのアイヒマン』においてアーレントは「共同性という彼女の前に立ちふさがるものから、その語り口をとりだしてくる」ということです。そうであればアーレントにおける「悪の凡庸さ」をめぐる「語り口」もまた、共同性を内破して公共性を開くための理路として要請されたものであったといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

暮し・ねじれ・戦後民主主義

* 戦後民主主義と花森安治

 
山本昭宏氏は『戦後民主主義』(2021)において日本における戦後民主主義を次のように総括しています。「戦後民主主義」の前提にあるのは当たり前ですが「民主主義」です。ここでいう「民主主義」における「民」とは誰のことを指すのかという問題は一つの大きな論点ではありますが、本書は民主主義を「自分たちのことは自分たちで決めるという広義の「自治」を求める政治参加の試み」として理解しています。そして、このような「民主主義」という言葉の上に「戦後」が加わるとき、次の3点が焦点化されることになります。
第一に戦争体験に結びついた平和主義です。平和主義を謳う現行憲法が広く受け入れられた要因として先の戦争における空襲や引揚げなどの戦争体験があったことは確かでしょう。第二に直接的民主主義への志向性です。これは換言すれば社会運動と地方議会を重視する姿勢を指しています。第三に平等主義です。とりわけ同書は経済と教育の平等を重視します。
 
このことを踏まえ同書は「戦後民主主義の精神が、いまほど求められている時代はないのではないか」といいます。すなわち「戦後民主主義は、民主主義が「統治」の手段ではなく、「参加」を通した「自治」の手段であること」を教えており、その根幹には「選挙以外の場での政治的意思表示から、コミュニティや集団に関わってより良い運営を模索する粘り強い社会的実践まで、生活の至るところに民主主義があるという感覚」があるということです。
 
そして同書はこうした意味での「戦後民主主義の精神」を批判的に継承したひとつの実践例として『暮しの手帖』の初代編集長として知られる花森安治の仕事を位置付けています。花森安治とは一体何者なのでしょうか?以下では津野海太郎氏による『花森安治伝』(2013)を参考に彼の生涯とその仕事を概観してみたいと思います。
 

* 編集者になるんや

花森安治は1911年(明治44年)、神戸市の須磨に6人兄弟の長男として生まれました。幼少期より絵を描くのが好きな子どもだったそうです。旧制兵庫県立第三神戸中学校を経て1年浪人後、1930年(昭和5年)に旧制松江高等学校に進学し校友会雑誌の編集に参加します。19歳のときに母、よしのを心臓病で亡くします。死の床にある母から「あんた、将来どうするつもり」と尋ねられた花森は「新聞記者か編集者になるんや」と答えたそうです。
 
松江高校を卒業した花森は1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。「帝国大学新聞」の編集に携わる一方で、大学在学中に、老舗の化粧品会社である伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わります。就職により生活の目途が立ったことから、大学在学中に学生結婚しています。
 
1937年3月、25歳で東京帝国大学を卒業。卒業論文のテーマは、「社会学的美学の立場から見た衣粧」。タイトルにある「衣粧」とは、「衣裳」と「化粧」を合成したものであり、花森による造語だそうです。そしてこの年の4月には長女が誕生しています。
 
同年、徴兵検査を受けて甲種合格。陸軍に入隊後、北満州の部隊に配属されますが、翌年2月、結核に冒されたため満州の陸軍病院に入院し、病状が良くならなかったことから内地に戻り、和歌山県の陸軍病院で療養生活を送った後に1940年に疾病を理由として除隊となります。
 
1941年、帝国大学新聞時代の先輩から誘われて大政翼賛会宣伝部に籍を置くことになります。この頃、花森は本の装丁やイラストでもその力量を認められるようになりますが、そうはいってもそれはほんの一握りの人々のあいだでの評判に過ぎず、社会的にはまだほとんど無名の存在でした。そして1945年の敗戦を迎えます。この時、花森33歳。
 
敗戦の2ヶ月前、それまで勤めていた大政翼賛会が急に解散になり、失職した花森は妻子を抱えてたちまち日々の生活に追われ、雑誌のカット描きなどで食いつなぎながら、かつての仕事仲間と新しい広告会社を発足させようと忙しく駆け回っていたようです。
 
そんな折、松江高校から東京帝国大学にかけての親しい友人で『日本読書新聞』の編集長だった田所太郎に声をかけられた花森は週に何度か、お茶の水の文化アパートにあった同紙の編集室に顔を出してカットを描くようになります。ここで花森は一人の若き女性編集者と出会うことになります。彼女こそが後に花森とともに「暮しの手帖社」を立ち上げることになる大橋鎭子です。
 

* ぼくには責任がある

 
当時、若干25歳の大橋は1920年(大正9年)に東京で生まれ、府立第六高女(現・都立三田高校)を卒業後、日本興業銀行勤務を経て日本女子大に入学するも病気で中退し、1941年(昭和16年)の春に日本読書新聞社に入社します。しかし同年12月の太平洋戦争勃発に伴い同社は内閣情報局のもとで戦時下の出版物の統制と検閲にあたる日本出版文化協会(のちの日本出版会)という国策機関に統合されることになります。
 
こうして『日本読書新聞』は日本出版文化協会の機関紙になり、大橋も協会の秘書室に移りますが、やがて戦争の激化につれて編集長の田所以下編集部員たちが次々と戦場に送られ、同紙はあっけなく休刊に追い込まれてしまいます。そして敗戦の年の11月、復員した部員たちの手によって『日本読書新聞』が復刊し、大橋も編集室に復帰します。なお、田所が花森に声をかけたのもこの時期だと思われます。
 
『日本読書新聞』復刊号の校了直後、おそらく1945年末ごろ、大橋は田所に「女の人たちのための出版をやりたい」と相談を持ちかけます。これに対して田所は「それだったら、いま編集部に見えている花森安治さんは、そのほうに力のある人だから相談したらいい」とすすめ、大橋から相談を受けた花森は大橋がこれからやろうとする仕事に協力することを決意します。
 
1946年春、花森と大橋は米軍の空爆によって一面の焼野原と化した銀座で「衣裳研究所」という小さな出版社を発足させます。その2年後の1948年9月、彼らは社名を「暮しの手帖社」にかえ、社長・大橋と編集長・花森のコンビで『美しい暮しの手帖』を創刊します。「女の人たちのための出版をやりたい」という大橋から相談を受けた花森は、次のような言葉で答えたとされています。
 
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起きなかったと思う。だから、君の仕事にぼくは協力しよう。」
 
「『暮しの手帖』と半世紀」

 

もしも花森が実際にそう述べたのだとしたら、ここで彼のいう「責任」とは何を意味しているのでしょうか。それはおそらく、戦争中に彼が行った(とされる)一連の仕事と無関係ではないでしょう。
 

* ぜいたくは敵だ!

 
1940年(昭和15年)、陸軍を除隊になった花森は伊東胡蝶園に復帰することになりますが、もはや日本の社会には化粧品などにうつつを抜かすことを許さない重苦しい空気が生まれていました。この年の7月7日には奢侈品等製造販売制限規則、いわゆる「七・七禁令」が施行され、イヤリング、指輪、半袖、腰紐、帯締め、櫛など「ぜいたく品」とみなされた商品の製造や販売にきびしい規制がかけられました。当然、派手な宣伝などやりようもなく、そんな時期にあって花森が手がけた仕事としてまことしやかに噂されるものが「ぜいたくは敵だ!」というあの悪名高い国策標語の作成です。
 
「七・七禁令」の背景にはもはや前線も銃後もない、自国が保有する労働力(国民)と物資のすべてをあげて戦争を戦い抜くのだというナチス・ドイツ流の総力戦思想がありました。その実現を目指して、すでに1937年(昭和12年)に第一次近衛文麿内閣のもとで国民精神総動員実施要項が閣議決定され、時をおかず国民精神総動員中央連盟(精動)が発足し、翌38年には国家総動員法が正式に制定されます。
 
そして1940年7月、陸軍との軋轢で短命に終わった米内光政内閣に続いて第二次近衛内閣が発足。同じ時期に精動は贅沢全廃委員会を発足させ「奢侈贅沢品の使用抑制徹底方策」を決定。東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋の六大都市を重点地域として「贅沢廃止運動」が展開されることになります。この時、東京市内には1500本もの「ぜいたくは敵だ!」や「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」といった標語が大書された立て看板が立つことになります。
 
この「ぜいたくは敵だ!」という標語は戦後になっても、あの時代の息苦しさを端的に象徴する一行として人々の記憶に染みつくことになります。この標語は一説ではパピリオ広告部が精動の外郭団体の依頼を受けて花森が書いたと戦後間もない頃からまことしやかに噂されていました。このことについて花森は何も語らず、真偽の程は定かではありません。もっとも当時の花森は後年のような断固たる反戦派ではなく、当時のごく平均的な日本人の1人に過ぎなかったことは確かです。のちに花森は1978年に死去する少し前に次のように語っています。
 
「ぼくは、ぼくなりにやね、受けた教育と、それで、とにかく日本という国を守らんならん、とね。それには、戦争始めた以上は勝たなならん、と。それに一生懸命やったんや、と。いま、それがね、間違いやったということがわかったけども、その時は一生懸命やったんで、それを今さらね、いいかげんにしとったんや、ご都合主義でやっとったとか、ケチなことは言わん、と。ぼくの全生命を燃焼さして戦った、と。協力した、と。そいで、それだけにショックが大きい、と。それだけに、ぼくは、これからはね、絶対に戦争の片棒はかつがん、と。それだけが償いや、と。まあ、しっかり、これからのぼくを見とってくれ、と。」
 
『われわれは一体何をしておるのか』

 

* 過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている

 
1941年(昭和16年)の春、花森は伊東胡蝶園をやめ、前年に第二次近衛内閣の下で発足したばかりの大政翼賛会宣伝部に転職します。いま大政翼賛会ときくと、反射的に一国一党のナチス型全体主義国家による強力な統制機関のイメージを思い浮かべるかもしれませんが、発足時のイメージは必ずしもそうではなく、発足時の大政翼賛会には台頭する軍部の力を抑え、急速に強化されていく言論統制に歯止めをかけるという防波堤としての一面が少なからず期待されていたらしく、花森もまたこの「新体制」に期待した1人であったようです。
 
ところが、発足後間も無く大政翼賛会は強大化した軍部や内務省を中心とした諸官庁の手に落ち、1941年4月には共産主義者を排除する改組運動が行われ、ほどなく総裁も近衛から東條英機に変わってしまいます。そして同年12月8日、日本海軍機動部隊による真珠湾攻撃によって対米英の太平洋戦争の火蓋が切って落とされます。
 
戦後において大政翼賛会宣伝部員としての花森は「あの旗を射て」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などといった一連の戦意昂揚スローガンを作った人物として語られる傾向があります。しかし実際にはのちに酒井寛氏が『花森安治の仕事』(1988)で明らかにしたように「あの旗を射て」は1942年に広告人集団「報道技術研究会」が花森の注文を受けて作ったものでしたし、また「欲しがりません勝つまでは」や「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」も同年、大政翼賛会が主催する「国民決意の標語」への応募作から花森が選んだものです。
 
このことについてもやはり、花森は明確には語っていません。しかし花森は仕事とはいえ、こうした標語を依頼したり選んだりすることで戦争に協力してしまった自身の過ちを明確に自覚していたのではないでしょうか。そうであれば敗戦後、花森が大橋に述べたとされる「ぼくには責任がある」という言葉の裏には、こうした過ちに対する悔恨があったのではないでしょうか。実際、花森はこの時の心情を後年、次のように語っています。
 
「ボクは、たしかに戦争犯罪を犯した。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対にだまされない、だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている。」
 
1971年『週刊朝日』
 

* 暮し・ねじれ・戦後民主主義

 
花森と大橋が創刊した『美しい暮しの手帖』はやがて『暮しの手帖』とタイトルを変え、他誌とは一線を画する独自の誌面作りによって一時期、その発行部数は百万部を超え「新しい国民雑誌」と呼ばれるほどの影響力を持つに至ります。
 
同誌の名物企画に1954年から始まった商品テストがあります。これは日用品や生活家電を独自にテストし、生活者の視点から長所と短所を論評して企業に改善を求めるという企画です。この商品テストは高度成長期における日本の工業製品の品質改善のきっかけになったとも言われています。
 
花森は権威を監視し、採点する機能がない社会は不健全な社会だと考え、商品批評によって大企業をチェックし続けようとしました。彼の掲げた「一人ひとりが自分の暮しを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中に」という理念と「暮しの変革を理念よりも日常生活の実践を通して」という方針に貫かれた『暮しの手帖』はただのライフスタイル誌ではなく、反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった立場を旗幟鮮明に打ち出した非常に尖った雑誌であったといえます。ここには確かに「生活の至るところに民主主義があるという感覚」という戦後民主主義の実践をみることができるでしょう。
 
「一軒の家の味噌汁の作り方を変えることは、一つの内閣を倒すよりもむずかしい」--僕はこう考えています。内閣は投票で倒すことができるけれど、ある家庭の味噌汁の作り方は当人たちがまずいと感じていても、変ない(ママ)ものなのです。ぼくらが料理にちからを入れているのも、そこなのです。
 
花森安治「民主主義と味噌汁」『中央公論』1965年9月号
 
こうして花森は1978年(昭和53年)に66歳で急死するまで『暮しの手帖』というただ一つの砦に編集長として立て篭もり続けます。毎号、多くの記事やキャッチコピーを書くのはもちろん、イラスト、描き文字、レイアウト、写真撮影、新聞広告や電車の吊り広告まで、そうしたすべてを花森は自分ひとりで、決して他人にはマネのできないクセの強い仕方でやってのけます。こうした一連の仕事は花森自身の「過去の罪」に対する彼なりの「責任」の取り方だったのかもしれません。
 
文芸評論家の加藤典洋氏は「敗戦後論」において、先の戦争に対する「ねじれ」とでも呼ぶべきものが戦後日本の中に残り続けていると主張したことで知られています。この加藤氏のいう「ねじれ」は憲法に関するものや死者(戦没者)に関するものなどがありますが、國分功一郎氏が近著『天皇への敗北』(2026)において指摘しているように、加藤氏が「ねじれ」と呼んだ戦後日本における問題の根幹には自身の加害行為に向き合えない「被害者意識」があるといえます。
 
こうした観点からいえば「たしかに戦争犯罪を犯した」と言い切り、人々の「暮し」をより良くするという「実践」によって、その「責任」を取ろうとした花森の生き方は個人が自身のうちに抱える「ねじれ」にいかに向き合うのかという問題に対して地に足のついたかたちで示された一つの回答でもあるといえるでしょう。そして、このような花森の生き方はいまや色褪せたかにみえる戦後民主主義という物語を新たな角度から、あるいは別の仕方で読み直すための大きな手掛かりを示しているようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

戦後民主主義と訂正可能性

* 戦後民主主義の到達点

 
國分功一郎氏は新著『天皇への敗北』(2026)において戦後憲法学を切り口として日本の戦後民主主義を論じています。同書はその冒頭で日本を代表する憲法学者樋口陽一氏の言葉を引き、戦後日本の憲法学者たちは単に憲法の専門家である以上の任務が課せられていたといいます。それはすなわち「憲法が訴える価値を国民に丁寧に伝え、その価値に対する敬意を国民の中に育むと同時に、国民が憲法を担う手助けをすること」です。
 
そして同書によれば日本の憲法学者たちは憲法を「物語」として語ることで、この課題を遂行してきたとされます。また戦後日本の特徴として文学者たちが憲法について積極的に発言したことを挙げ、例えば小説が明治以降、国民文学の役割を担ったように、戦後憲法学は単なる法学の一分野ではなくある種の文学でもあり、高い専門性を保ちつつも国民に憲法が訴える価値を理解してもらうことに努めてきたと同書は述べています。
ところで戦後日本の憲法学者たちが取り組んだ「物語」には一つ、実に困難なトピックがありました。いうまでもなく憲法9条、つまり平和主義というトピックです。そしてこの9条ないし平和主義を考える上で重要な存在として同書は天皇を位置付け、2012年に発足した第二次安倍政権が行った特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則緩和、集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈変更、平和安全法制の制定といった一連の「立憲主義に対する挑戦」のさなかで俄に存在感を高めていった前天皇である明仁上皇の護憲的な立場に「日本国憲法の中で、立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造」を見出しています。
 
言うまでもなく天皇は憲法によって規定された存在であり制度です。日本国憲法1条は象徴としての天皇を規定するものです。つまりここには「憲法が蔑ろにされれば、天皇はその存在そのものが危うくなる」のであり、それゆえに「天皇は立憲主義を破壊するような勢力に対しては敵対する」という構造があります。そしてここから「9条を守り抜こうとする護憲派の立場を、1条を根拠として存在している天皇が支持する」という構造が現れることになります。
  
そしてこれは戦後日本の憲法学者たちが目指した憲法物語作成の試みは結局、天皇には敵わなかったということを意味しています。これが同書のいう「天皇への敗北」であり、それは戦後憲法学の敗北であると同時に、憲法学の求める成熟に至らず天皇に頼る「国民の敗北」を意味しています。ここから同書ではこのような「天皇への敗北」ないし「国民の敗北」という「現時点での戦後民主主義の到達点」をいかに乗り越えていくかという課題が考察されることになります。その出発点となるのが文芸評論家加藤典洋氏による「敗戦後論」という論考です。
 

* 戦後日本における「ねじれ」

戦後50年目となる1995年に世に問われた加藤氏の論考「敗戦後論」の出発点にあるのは日本は戦争中にアジア諸国に対して行った様々な侵略行為の責任をとっていないという問題提起です。つまり日本はアジア諸国に謝罪しなければならないけれど、いまの日本は謝罪しようにも謝罪が可能になる地点に立っていないというのが加藤氏の認識です。なぜならば日本が戦争責任について謝罪するために必要な「ナショナルなもの」としての「わたし達日本国民」とでも呼ぶべき単位が成立していないからです。
 
ではどうしてその単位が成立していないのでしょうか。加藤氏は戦後日本の中にある「ねじれ」が原因であるといいます。ここでいう「ねじれ」とは「自己欺瞞」とも言い換えることができます。その「ねじれ/自己欺瞞」のひとつの証左として加藤氏は現行憲法を取り巻く状況を取り上げます。つまり日本が敗戦し、米国に占領され現行憲法を押し付けられたという事実を日本国民が正面から受け止めずに知らぬ振りしてきたという「ねじれ/自己欺瞞」です。
 
現行憲法が米国によって強制されたものであるとすれば「わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる」けれど、もし平和憲法を「大本で、自らのものとしている」と考えるのであれば、強制されたものであるにもかかわらず、それは自分で欲したものであると「わたし達は自分をいつわるしかなくなる」のであるということです。そこで加藤氏はこうした「ねじれ」に立脚して、強制された憲法を「もう一度、選び直す」という立場を打ち出します。
 
しかし戦後日本における「ねじれ」は単に現行憲法をめぐる状況にとどまりません。加藤氏はさらに死者をめぐる「ねじれ/自己欺瞞」を問題にします。日本は太平洋戦争で特にアジア諸国に甚大な被害を及ぼし、兵士や民間人を含めた二千万人とも言われる人々が戦争によって亡くなりました。先述の通り「敗戦後論」の出発点にあるのは日本はこの侵略戦争の責任をとっていないし、アジア諸国の被害者たちに対して謝罪を行うことができていないという問題提起です。
 
「敗戦後論」が世に出た1995年は戦後50年という区切りの年であり、東西冷戦も終わり、湾岸戦争を経て全く新しい世界秩序が模索されていた時期です。このような状況の中で日本の外交はアジア諸国と新たな関係を構築する必要を迫られており、そのためには先の戦争について踏み込んだ謝罪が必要だという機運が高まっていました。
 
同年の8月15日、当時の首相であった村山富市氏がいわゆる「村山談話」を発表し、かなり踏み込んだ表現での謝罪がなされています。しかしながら加藤氏が「敗戦後論」で示したものとは、いくら日本がかたちだけの謝罪をしてみせてもそれは謝罪にならず、いまだ日本は謝罪が可能になる地点に至っていないという認識でした。なぜなのでしょうか。
 
加藤氏によれば「日本がまず謝罪すべき死者として二千万のアジアの死者をあげているが、そこで一方三百万の自国の死者、特に兵士として逝った死者たちへの自分たちの哀悼が、この謝罪とどのような関係におかれるかを、明示することはしていない」からであるということです。ここから加藤氏は事実上、こうした「ねじれ」を克服すべく、まず日本は自国の三百万人の死者を哀悼すべきであり、それによって初めて、彼らを含めた謝罪の主体としての「わたし達日本国民」が成立し、アジアの死者二千万人への謝罪と哀悼も可能になるといった趣旨の主張をすることになります。
 

* 国民的欲望としての被害者意識

 
周知のように「敗戦後論」が発表された後、加藤氏は激しい批判を浴びることになります。特に加藤氏に対して最も激しい批判を行ったのが哲学者の高橋哲哉氏です。加藤氏と高橋氏の間の応酬はのちに「歴史主体論争」と呼ばれることになります。高橋氏が「汚辱の記憶をめぐって」と題する「敗戦後論」を批判した戦争責任論における「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」という一節はよく知られています。
 
國分氏はこの高橋氏の批判が妥当であることは認めつつも、記憶が保持されていたとしてもそれに「恥じ入る」ことができない場合があることを指摘します。責任が忘却されないよう事実を突きつけても一向に責任感が生まれない場合があるということです。人は罰されたからといって必ずしも自分が悪かったとは思うとは限りません。そして加藤氏は「敗戦後論」の「最良の部分」において、そのような問題提起をしていたと國分氏は述べています。どういうことでしょうか?
 
この点、國分氏は加藤氏が死者をめぐる「ねじれ」において「決して日本が行った侵略戦争の責任を否定するわけではないが、やはりまずは自国の死者を追悼すべきだし、追悼したい」という日本国民の一部にあるであろう「国民的な欲望」とでも呼ぶべき問題に触れているにもかかわらず「それをそのようには語らなかった」として、こうした「国民的な欲望」が表現しているのは「自分たちはむしろ被害者だ」という被害者意識に他ならないと指摘します。
 
この被害者意識を温存したままでは日本は戦争について責任を取ることはできないし、謝罪する地点に到達することもできない。したがって加害者としての日本は自らの被害者意識を直視しなければならない。けれども日本はまるで「戦争によって生まれ変わったかのような顔」をしてきた。本当は自分たちが被害者だと思っているのに、それに目を向けようとしない自己欺瞞。これこそが加藤氏のいう「ねじれ」の意識の欠如です。
 
ところが加藤氏は「それに接近しつつも、誰を先に哀悼すべきかという問題」に向かってしまいます。日本の戦争責任を問うことにおいて最も大切なことは「日本が二度と戦争や侵略行為を起こさないようにすること、日本に再犯させないこと」であり「ねじれ」の指摘はあくまで「加害者たる日本が自らの加害に向き合えない原因として指摘される限りにおいて意味がある」のですが、加藤氏の議論においてはこの「日本に再犯させないという点が忘れられている」ということです。
 
当然ながらここには「なんで加害者についてそんなことまで考えてあげなければならないのか」という自然な反発が予想されるでしょう。しかし、こうした反応を繰り返してきたことで「むしろ日本国民の被害者意識は温存されてしまった」ともいえるでしょう。
 
「平和憲法」によって自分たちは生まれ変わったのだという顔をしてながら「それを堅持することが我々の反省の証しである」と自分たちに言い聞かせることはある意味では楽なことではあります。なぜならば敗戦を経た日本は本当は何も変わっていないのに、米国による占領によって与えられた価値観に便乗することで「自分たちは変わったのだ」「自分たちは反省している」と信じることができるからです。これこそ加藤氏が「ねじれ」という言葉を通じて言いたかったことの核心ではないか、と國分氏は述べています。
 

* 昭和の憲法学者

 
こうした視点から國分氏は加藤氏が「敗戦後論」で取り上げる憲法学者、美濃部達吉に注目します。天皇機関説で知られる美濃部は一般に戦時中も立憲主義的でリベラルな思想を貫いた学者という評価を受けています。戦前において美濃部は時代の反動化が進む中、天皇機関説が国体に反すると軍部や右派勢力に非難され貴族院議員を辞職することになるが、その信念を曲げることはありませんでした。
 
もっとも加藤氏が注目するのは美濃部が敗戦後、憲法改正に対して取った態度です。1946年3月、占領軍の総司令部案をもとにした「憲法改正草案要項」が発表されますが、この憲法改正案を審議する枢密院の帝国憲法改正案審査委員会の席上で、美濃部はこれを審査することに異議を唱え、この憲法案に対する激烈な反対論を展開します。それまでの大日本帝国憲法よりもぐっと立憲主義的でリベラルになったはずの新憲法になぜ美濃部は反対するのでしょうか。
 
美濃部によればその理由は3点あります。「一、憲法改正を定めた帝国憲法の第七三条は、日本政府がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である」「一、憲法改正案でその存在が不適当であるとして廃止をめざされている枢密院が、その改正を審議するというのは、不可解である」「一、前文に「日本国民が制定する」旨明言されている改正案が、勅命により、政府の起草、議会の協賛、天皇の裁可で交付されるのは、「虚偽の声明」である」というものです。
 
こうしたことから憲法改正案に対して美濃部はたった一人で反対します。しかし結局は賛成多数で議決され、改正案は枢密院の本会議に回されますが、そこでも美濃部は一人反対します。さらに改正案は衆議院、貴族院での修正を経て、再度枢密院に諮詢されますが、その会議にもう美濃部の姿はありませんでした。こうした美濃部の立居振舞いにつき加藤氏は「ここで美濃部が戦争に負けるということをそのまま引き受けようとしているところに、その対応の最も高度な思想的意味はある」と述べています。
 
では美濃部はどのような憲法ならよいと考えたのでしょうか。美濃部は先の枢密院での諮詢に先立つ1945年11月、幣原内閣の憲法問題調査委員会に顧問として参加し、そこでいわゆる「美濃部意見書」というものを提出していますが、ここで美濃部は憲法の改正は部分的なものであるべきか、それとも全面的なものであるべきかという論点に続き、降伏の結果としての現在の被占領状態を基礎とすべきか、それとも将来における国家としての独立を基礎とすべきかという論点を検討し、現在の被占領状態を基礎とすべきであれば、その第一条は「日本帝国ハ聯合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」という趣旨に修正すべきであると述べています。
 
「美濃部は、少なくともここでは、国の基礎である憲法を欺瞞の具にだけはしてならないという立場に立っている。その意味では、不如意があれば不如意が、ねじれがあればねじれがそのまま映る歪みのない鏡で、憲法はあらねばならない、ということである」と加藤氏はいいます。そして、このように美濃部や加藤氏のように「降伏」や「敗戦」という観点から考えるとは「戦後」という観点で考えないことを意味していると國分氏は述べます。
 
「戦後」という言葉にはどうしても、それまでのすべてがリセットされたゼロの出発点のようなものが、どうしても含意されてしまいます。そうであればそこには主体として「戦前」を引き受けるという態度は出てこなくなります。つまり「戦後」という観点は実に巧みに「戦前」からのつながりを切断し「戦前」を反省したことにできる仕組みを作り出してしまっているということであり、加藤氏による「ねじれ」の指摘とは、この仕組みに対する抗いであったといえるでしょう。
 

* 昭和の文人

 
こうした「戦後」という観点から國分氏はやはり加藤氏が「敗戦後論」で取り上げる中野重治という「昭和の文人」に注目します。中野重治は1902生まれの小説家であり、プロレタリア文化運動の中心人物でした。1932年4月にプロレタリア文化運動に対する弾圧の中で中野も逮捕され、以後約2年間獄中にあり、1934年5月に「日本共産党員であったことを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」して懲役2年執行猶予5年の判決を受けて即日出所しています。
 
中野という作家を語る上で避けて通れないのが「転向」です。「転向」とは一般的に「これまでいだいてきた思想や主義主張などを権力の強制などのために変えること」をいいますが、とりわけ昭和初年以来、治安維持法による官権の弾圧によって共産主義者、社会主義者などがその思想を放棄したことを指しています。
 
こうした意味での「転向」の戦前におけるもっとも有名な例が「佐野・鍋山転向」です。日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が1929年に治安維持法違反で捕まり、1932年に一審で無期懲役の判決が出ます。ところが1932年6月に佐野と鍋山の二人が「共同被告同士に告る書」という声明を獄中から発表します。
 
この声明は日本の左翼労働運動がコミンテルンから脱却して、日本独自の道を切り拓くべしという内容のものであり、ここでは「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が労働者大衆の胸底にある」と述べ、明確に天皇制支持の態度が打ち出されています。この声明の影響は大きく、雪崩を打ったように他の共産党員幹部も続々と転向を宣言するに至ります。
 
國分氏はこの「佐野・鍋山転向」を「最悪」と評しています。佐野と鍋山は日本共産党内で然るべき地位に就いていて「共産主義革命万歳」と旗を振っていたのに「日本の各地で人々がどのような生活をしていて、何を大事にしているか」を知ろうともせず「頭でっかちに共産主義の理論ばかりを振りかざし」ながらも、治安維持法違反で逮捕されると獄中で「最低の覚醒」をして、それまで信奉していた共産主義を捨て「天皇主義者」になります。國分氏は「彼らが自分たちの足下を見ていなかったことは間違いない」として、それゆえに「彼らと並べた時、中野の『転向』の奇妙さが際立っている」といいます。
 

* やはり書いて行きたいと思います

 
中野が「転向」について正面から向き合った小説が「村の家」です。これは中野が「転向」を表明した翌年、1935年に発表された作品です。この「村の家」では明らかに中野自身をモデルとした「勉次」という主人公がいて、中野と同様に刑務所に収容され、懲役2年執行猶予5年の判決を受けます。出所した勉次は父の孫蔵に乞われて郷里の福井に帰ります。
 
孫蔵は勉次に「いったいどうしるつもりか」「これから何をしるんか」と問い「おとつぁんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」「今までで書いてものを生かしたけれゃ筆捨ア捨てて終え」といい、これからは「百姓をせえ」と勧めます。しかし勉次は孫蔵に「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答えます。
 
このようなやりとりを國分氏は勉次は孫蔵の「人情」をよく理解した上で「自らが身を投じてきた政治活動」という「もう一つの真理を自分はやはり捨てることはできない」というある種の「弁証法」があると解釈します。
 
文芸評論家の江藤淳はこの小説を取り上げた『昭和の文人』(1989)において、中野のように「一身にして二生を経るが如」き「昭和の文人」を「戦後文学」との対比において評価します。ここでいう「戦後文学」における「戦後」とはそれまでのすべてがリセットされたゼロの出発点としてのあの「戦後」のことです。
 
國分氏はこのような「昭和の文人」と「戦後文学」の対比を、美濃部のような「昭和の憲法学者」と「戦後憲法学」の対比に重ね合わせ「昭和の文人(中野)」と「昭和の憲法学者(美濃部)」のとった「ごまかすな」「筋の通らないことをやり過ごすな」という態度から戦後憲法学が直視できなかった「天皇への敗北」を論じることになります。
 

* 戦後民主主義と訂正可能性

 
以上のような加藤氏と國分氏の議論をまとめると戦後日本の出発点には「敗戦」に起因する明らかな「ねじれ」があったにもかかわらず、その「ねじれ」は何となくうやむやにされ続けて今日に至っており、こうしたうやむやな態度の帰結として「天皇への敗北」という「戦後民主主義の到達点」があるということです。
 
これはまさしく戦後民主主義という物語がこれまで目を逸らし続けてきたクリティカル・ポイントを射抜くものであるといえるでしょう。しかしそれにしても、なぜこれまで戦後民主主義はこのような明らかな「ねじれ」を抱えつつも、あたかも「ねじれ」など最初からなかったかのような態度を取り続けることが可能だったのでしょうか。
 
ここで思い起こされるのが加藤氏が「敗戦後論」の冒頭に置いた印象的な挿話です。加藤氏が小学校2年生くらいの頃、遠足の途中で別の小学校の遠足の集団と出くわし、両校から代表者が出て相撲を取ることになったそうです。加藤氏たちの代表者は土俵際につめられて、こらえきれずに腰を落としたところ、偶然に足が相手の腹にかかり、その動作が図らずも「巴投げ」を仕掛けたかのような構図を呈します。
 
その時、加藤氏の学校の生徒は一斉に拍手をして囃し立てます。ここで一瞬のうちに「相撲」は「柔道」に変わることになります。加藤氏は「その時の後ろめたさを忘れない」といい、敗戦時に起きた「ねじれ」の本質もまた「あれだ」と述べます。この挿話は人間のコミュニケーションに伴い不可避的に生じる条件を見事に描き出しています。
 
東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023年)においてコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照して理論化しています。

 

訂正可能性の哲学

訂正可能性の哲学

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20世紀を代表する哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。そして、クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。
 
人間は言語を使ってゲームをしており、そのルールはゲームのただなかで「じつは」の論理で良くも悪くも刻々と訂正されていくことになります。つまりそこでは、相撲だと思っていたものが「じつは柔道だった」と訂正され、押し付けられたものが「じつは欲していたもの」と訂正され、加害者が「じつは被害者だった」と訂正され、ねじれが「じつはねじれなどなかった」と訂正されてしまうこともあり得ます。換言すれば戦後民主主義とはこうした「じつは」という「訂正可能性」の論理から出発しているといえるでしょう。
 
このような「訂正可能性」は良いとか悪いとかいった問題以前にコミュニケーションの条件として不可避的に生じるものです。こうした意味で加藤氏と國分氏の議論は単に戦後民主主義の負の側面を問い直すだけではなく、社会の諸領域におけるコミュニケーションの条件して良くも悪くも不可避的に生じる「訂正可能性」の中で、それでもなお「じつは」と訂正してはならない「訂正不可能性」の領域を問い直すものであったといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

物語を制作するということ--村上春樹『夏帆 The Tale of KAHO』

* リトル・ピープルと母性のディストピア

 
現代を代表する批評家の一人である宇野常寛氏は『リトル・ピープルの時代』(2011)において村上春樹氏が2009年にエルサレム賞の授賞式で行った「壁と卵」と呼ばれるスピーチにおける「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という一節を引き「春樹の『壁』と『卵』の比喩の用い方にある種の性急さを感じずにはいられない」と述べています。
 
すなわち、かつて村上春樹という作家は「壁(システム)」と「卵(個人)」の共犯関係に「悪」を見出し、その共犯関係からの「デタッチメント」という「倫理」を志向していましたが、いまの彼は翻って「壁」と「卵」の間を分断し「壁」という「悪」から「卵」を守るために極めて強い意志をもって「コミットメント」という「正義」を志向しているということです。
しかし同書は「その試みはあまりうまくいっていない」といいます。「壁」と「卵」の共犯関係は今やますます強固になり、むしろ両者は複雑に融合しており、安易に切り分けることはできないからです。ここで同書は「壁」の変化を「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という独自の概念から説明します。
 
ここでいう「ビッグ・ブラザー」とは国民国家イデオロギーという「かつての壁」であり、ジョージ・オールウェルの小説『1984』(1949)に登場する国民統合の象徴としての疑似人格体に由来する概念です。かたや「リトル・ピープル」とはグローバル資本主義のネットワークがもたらす不可視の力という「新たな壁」であり、村上氏の小説『1Q84』(2009〜2010)に登場する超自然的幽体に由来する概念です。
 
こうした観点から同書は戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1945〜1968)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968〜1995)」「リトル・ピープルの時代(1995/2001〜)」という時代区分から捉え直します。このような「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を無根拠に掲げる「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味しています。
 
そしてこの時代区分を前提に、同書は村上作品における「デタッチメント」から「コミットメント」へという転回を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」と「リトル・ピープルへのコミットメント」として位置付けます。まず村上氏は1979年のデビュー作『風の歌を聴け』において「ビッグ・ブラザーへのデタッチメント」から作家としてのキャリアを出発させますが、その後、1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』以降、その倫理的作用点を「リトル・ピープルへのコミットメント」へと転回します。
 
ところが、こうした村上氏の提示した「コミットメント」はリトル・ピープルの本質を的確に捉え切れていないと同書はいいます。すなわち村上作品における「コミットメント」とは、ヒロインへそのコストを転嫁することで主人公を「父」にさせる男性的ナルシシズムに規定された想像力ですが、ビッグ・ブラザーという偉大な父が死に絶えて、リトル・ピープルという非人格的システムが支配するこの世界においては、もはや「父」になるとかならないとかではなく、自動的に機能してしまう「複数の父達」の衝突を調整する想像力が求められるということです。こうしたことから同書は村上氏はビッグ・ブラザーの衰退については誰よりも敏感であったけれども、このリトル・ピープルに対応する想像力はいまだに提出できてないと結論します。
 
その一方で宇野氏は戦後アニメーションを論じた『母性のディストピア』(2017)においてリトル・ピープルの時代であるところの現代の情報環境を〈父性〉と〈母性〉というメタファーを使って詳らかにしてます。同書は「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本における「成熟(あるいは成熟の仮構)」を規定した「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を「母性のディストピア」と呼び、その上でスマートフォンやソーシャルメディアが普及した現代においては、都合の良い物語を求め承認欲求に溺れる「矮小な父性」たちを「肥大化した母性」としての情報環境が支援する新たな「母性のディストピア」が出現しているといいます。
 
こうしてみると現代とは「偉大なる父性(ビッグ・ブラザー)」が解体され「矮小な父性(リトル・ピープル)」と「肥大化した母性(母性のディストピア)」が結託した時代であるといえます。そうであれば現代における「成熟」とは何らかの意味での「母殺し」が伴わなければならないということになります。そして村上氏が今月公刊した最新長編小説『夏帆 The Tale of KAHO』はこうした「母殺し」をモチーフとして現代の情報環境におけるコミットメントのあり方を問い直す物語として読めるでしょう。
 

* 衝撃のブラインド・デート

本作の第一章「夏帆とモーターサイクルの男」は次のようなシーンから始まります。本作の主人公、夏帆は26歳の絵本作家です。ある日、これまで2年くらい付き合っていた恋人と別れたばかりの夏帆は知己の編集者のセッティングにより面識のない男とブラインド・デート(みたいなこと)をします。
 
相手の男は夏帆よりおそらく10歳は年上で、身なりも清潔でそつなく(特に夏帆の好みというわけではないけれど)いかにも育ちが良さそうな整った顔立ちで(夏帆が評するに)もう少し身長があればあるいは俳優になれたかもしれない、などといったルックスを持った人物として描かれています。
 
食事の後、コーヒーが運ばれてくるあいだ、その男は夏帆に向かっていきなり「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言い放ちます。幼少期からこのかた、自身の容姿にあまり関心を持たなかった夏帆はあまりに唐突に言い放たれた侮辱的な発言に困惑しますが、腹が立つ以上に「純粋な驚き」と「好奇心」が湧いてきます。
 
ブラインド・デートで相手のことが気に入らなければ、その後、連絡を取らなければいいだけのことであり、面と向かって相手を侮辱する必要はないはずなのに、にもかかわらず目の前の男はなぜわざわざ、そんなことを口にするのでしょうか。
 
そんな夏帆の心を読んだように男はいいます。「じゃあ、どうしてそんな醜い相手と、というか顔立ちが気に入らない相手と、最後まで食事を共にしたのか?最初のグラス・ワインだけ飲んで、適当に軽く切り上げることもできたはずなのに。1時間半もかけてコース・ディナーをとるなんて、どう考えたって時間の無駄じゃないか。そしてまた、どうして最後の最後になってそんな話を持ちださなくてはならなかったのか?」と。
 
続けて男はいいます。「好奇心が抑えられなかったのだと思う」「君のような不器量な女性がどんなことを考えているか、不器量だという事実が君の人生にいかなる影響を与えているか。たぶん僕はそういうことを知りたかったのだろう」。さらに男は、そしてその好奇心は満たされたのかしらという夏帆の心をまた読むように「そしてその好奇心は満たされたか?」といいます。
 
まるでありくいがその細長い舌の先でシロアリの巣ををきれいに舐め尽くすみたいに--自分の心の動きを瞬時に残らず読み取っているような不気味な男を前にして夏帆はなぜか実物のありくいを連想します。そこで思い浮かべたのは黒くて大きな雌のありくいです。そしてそのありくいは夏帆に向かって問いかけます。あなたはこんなところで何をしているの?と。
 
そんな益体のない連想を夏帆が繰り広げているうちに、男は「いや、満たされていない」とひとりで勝手に結論に達し、ウェイターを呼び、勘定を済ませ、夏帆に軽く会釈をして去っていきます。そのあとには、夏帆と(比喩としての)雌のありくいだけが残されることになります。
 

* 本作の主人公は誰か?

 
本作の特設サイトを見ると「女性を主人公にした初の長編小説」というキャッチコピー(?)が置かれています。意外な感もしないでもないですが、確かに『スプートニクの恋人』(1999)のすみれや『アフターダーク』(2002)の浅井マリなど事実上、女性が主人公であるともいえそうな作品も過去にはあるにはありますが、形式的には前者の主人公は男性の語り手である「ぼく(K)」であり、後者の主人公は不可視の語り手である「私たち」となっています。
 
では、ここにきてなぜ名実とともに女性を主人公したのでしょうか?ここでは穿った見方とシンプルな見方の両方を示しておきたいと思います。まず穿った見方として本作の「真の」主人公とは本作の冒頭で夏帆を侮辱する「モーターサイクルの男」こと佐原であるというものです。どういうことでしょうか?
 
この点、宇野氏は比較的近著である『砂漠と異人たち』(2022)においても再度村上作品を論じています。ここでも『リトル・ピープルの時代』と同様に「デタッチメントからコミットメントへ」の転回とその挫折が語られることになりますが、その一方で同書はその村上論を締めくくるにあたり「おそらく、村上は行き詰まりに自覚的だ」といい、その「迷い」が端的に現れた作品として2014年に公刊された短編集『女のいない男たち』をあげています。

 

砂漠と異人たち

砂漠と異人たち

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この短編集はタイトルにあるように妻や恋人のいない、もしくはそうした女性に去られようとしている男性たちの物語を集めたものです。しかし宇野氏はこの短編集に相応しいタイトルは『男のいない男たち』だと主張します。なぜならばこの短編集に収録された作品は基本的に何らかの理由で魅力的な男友達と仲良くなるけどうまくいかないという物語だからです。
 
例えば「ドライブ・マイ・カー」では妻を亡くした主人公の男が妻の生前の浮気相手の男性に興味を持ち、ちょっとした復讐を企てて近づいていきます。主人公にとって彼は器量がよく、裏表もない好人物ですが「たいしたやつじゃない」人物とみなされます。しかしその凡庸さが主人公の内省を適切に促すことになります。
 
あるいは「イエスタデイ」「独立器官」にはそれぞれの事情からエキセントリックな言動を見せる男性の友人が登場します。「イエスタデイ」では幼馴染でもある恋人と大人になってから距離を測り直すことができず、そのために性的な関係を結ぶことのできない若者が登場し「独立器官」にはある独身主義者のプレイボーイを気取る中年の紳士がある人妻に心を奪われ、心身ともに衰弱していくさまが描かれます。
 
彼らの逸脱的な言動はこれまでの村上春樹的主人公には不可能です。それは村上春樹的主人公がこうした逸脱を見せた時、その男性的ナルシシズムは破壊されてしまうからです。それゆえに『女のいない男たち』ならぬ『男のいない男たち』において村上春樹的主人公たちは自分の「鏡」としてこのような男性たちを必要とします。「そう、村上春樹はここで自分の代わりにこれまで彼が築きあげてきたナルシスティックで、男性的な規範から逸脱してくれる男の友人を求め始めているのだ」。
 
もちろんこうした傾向は今に始まったことではありません。そもそも村上氏はデビュー作である『風の歌を聴け』から始まる初期三部作において新たな時代に適応していこうとする主人公である「僕」の傍らに、時代に取り残された存在である「鼠」を友人として配置し、彼が失われることで逆説的に主人公の選択が肯定されるという構造から出発しています。その後も村上作品においては初期三部作の続編である『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)や比較的近年の作品である『騎士団長殺し』(2017)においてもやはり「鼠」のように主人公の「鏡」のような存在として「五反田くん」や「免色」といった男性の友人が登場します。
 
このように村上作品では多くの場合は、男性の友人は主人公より劣った人物として、あるいは歪みや欠落を抱えた人物として描かれます。彼らは主人公に概ね好意を持って接触し、主人公は彼の存在に多かれ少なかれ、何らかの形で救われます。しかし主人公は彼を尊敬することはなく、主人公は彼を遠ざけるか、彼らが主人公から遠ざかることになります。ここには同性の友人に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがないまぜになった感情として描かれていると、宇野氏は述べています。
 
こうした中で『女のいない男たち』における実質的な最後の作品になる「木野」だけはやや事情が異なっています。ここでは主人公の経営するバーの常連としてカミタという男性が登場します。このカミタは従来の村上作品おいてもっぱら女性キャラクターが担ってきた現実の世界ともう一つの世界(異界)を結ぶ蝶番的な存在として描かれます。すなわちここで村上氏は男性キャラクターを従来のような「鏡」ではなく、世界につながるための「蝶番」として位置付け直そうとしているようにも思えます。
 
こうしてみると本作もまた、この『女のいない男たち』と似たような発想に立脚しているのではないでしょうか。つまり本作における佐原もまた、従来の村上春樹的主人公から逸脱した存在としての男性キャラクターの系譜に連なっているということです。そうであれば本作においては、このような村上春樹的主人公から逸脱した存在であり、もっといえばこの令和の世においては完全に政治的に正しくない存在というしかない佐原という特異なキャラクターを従来のように遠ざけることなく真正面から対峙して描き出すために、逆算的に夏帆という女性主人公が設定されたという読みもありうるでしょう。
 
これに対してシンプルな見方としては、とりあえず短編の主人公として描いてみた夏帆というキャラクターが思いのほか魅力的に動くので、その続編を書いて長編に仕立て上げたというものです。本書の第一章に相当する部分が2024年5月に「夏帆」というタイトルで文芸誌「新潮」に掲載された後、約1年の間をおいて第二章、第三章、第四章に相当する部分が同誌に断続的に掲載されたという経緯を見てみると、こうした見方も充分に成り立つように思われます。いずれにせよ夏帆は「女性を主人公にした初の長編小説」という看板を背負うに相応しいキャラクターとして描かれています。そんな夏帆が本作の中盤以降にいよいよ直面するテーマが「母殺し」です。
 

*「母殺し」の諸相

 
一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。この点、三宅香帆氏は近著『娘が母を殺すには?』(2024)において小説、漫画、ドラマ、映画といった、さまざまなフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が「母殺し」を達成するための方法を見出そうとします。
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう「母殺し」とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
 
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
 
もちろん親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
 
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では「父殺し」と呼んできました。最初にこのような「父殺し」という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトはソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が「父殺し」という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
 
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を「殺す」必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として「父殺し」が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における「母殺し」を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
 
もっとも「父殺し」と「母殺し」ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが「父殺し」の原理です。これに対して「母殺し」の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
 
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに「母殺し」の難しさがあるわけです。
 
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な「母殺し」のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ「母殺し」の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
 
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス』(1972)で展開した欲望観に求めた上で、千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)における解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
 

* 物語を制作するということ

 
もっともこのような三宅氏が整理する「母殺し」のモデルに照らし合わせてみると、本作において夏帆が遂行する「母殺し」はやや特殊な位置にあることがわかります。まず夏帆は絵本作家として精神的にも経済的にも自立しており、母親の規範に縛られておらず、すでに「母娘関係の脱構築」としての「母殺し」を通過した地点に至っているとみられます。
 
では、本作において夏帆が殺そうとする「母」とは一体、何なのでしょうか?物語の中盤、実家に帰った夏帆は母親の言動や身なりが以前とまったく違ってきていることに気が付きます。そして以前とは比べ物にならないほど活動的になった母親と反比例するように夏帆の父親は急速に老いを深めていっていました。果たして夏帆の母親には「シロアリの女王」が取り憑いていることが判明し、夏帆は母親(と父親)を救うためにこの「シロアリの女王」へのコミットメントを余儀なくされます。
 
かつて村上氏が描き出した「壁=悪」とは『ねじまき鳥クロニクル』におけるワタヤ・ノボルや『1Q84』における教団さきがけのリーダーのように「タテのヒエラルキー」で個人を支配するカルト的な「父」でしたが、本作における「壁=悪」であるシロアリの女王は「ヨコのゾーン」で個人を支配する環境としての「母」であり、それはまさしく現代において「リトル・ピープル」の上に君臨する「母性のディストピア」に他ならないといえるでしょう。そうであれば村上氏は本作において「壁=悪」へのコミットメントを「母殺し」というモチーフによって更新しようと試みているといえるでしょう。
 
そして本作におけるコミットメントの基盤となるのが「物語」の力です。夏帆はシロアリの女王との対決と並行してミソラという10歳の少女を主人公とする絵本「ミソラの物語」を紡ぎ始めます。家族と一緒にハイキングで森の奥に来たミソラは昼食後、深く眠り込んでしまい、目覚めた時は一人ぼっちになっていました。自分はおそらく家族に捨てられたのだとミソラは思います。しかしなぜ?いずれにせよあたりが暗くなる前にどこか安全に夜を過ごせる場所を探さなければなりません・・・このような場面から立ち上げられる夏帆の紡ぐ「ミソラの物語」はやがて現実と奇妙な形でリンクし始める事になります。
 
こうした「物語」を基盤とするコミットメントのアプローチは既に『1Q84』において提示されています。同作においては「ふかえり」という不思議な少女が書いた「空気さなぎ」という物語をリトル・ピープルに対抗する抗体として位置付けています。もっとも本作では物語そのものではなく、物語を紡ぎ出すプロセスとしての「制作」に重心が置かれています。換言すれば本作は現代における「壁=悪」である「母性のディストピア」に対して物語を「制作」する力で抗おうとするものであるといえるでしょう。
 
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントはその主著『人間の条件』(1958)においてよく知られるように人々がおこなうさまざまな営為を「労働 labor」「制作 work」「活動 action」という三つの大きなカテゴリーに分類し、これらを総称して「活動性 activity」と呼んでいます。
 
ここでいう「労働」(とその産物である「消費」)とは人間が自分の生命を維持するためのもっとも基本的な活動性であり「制作」とは人間が個人の生存を超えた永続的な「世界」を創り出すための活動性であり「活動」とは人間が言論によって他者に働きかけ、この「世界」をよりよいものとしていくための活動性です。そしてアーレントはこれらの中で「活動」を重視した、と一般的には理解されています。
 
しかしながらプラットフォーム資本主義におけるアテンション・エコノミーの下でエコーチェンバーやフィルターバブルが加速する一方でフェイクニュースや陰謀論が蔓延する現代における情報環境においては、こうしたアーレントが提示した(とされる)「活動」の優位という序列は揺らぎをみせています。こうしたことから、近年においてアーレントの思想は「制作」という観点から読み直されつつあります。
 
例えば東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023)においてアーレントの示す「公共性」の定義を手がかりとして「活動」は「開放性」としての「公共性」に結びつくとしつつも、その一方で「制作」を「持続」としての「公共性」を結びつける議論を展開しています。また宇野氏も『砂漠と異人たち』において現代における情報環境の病理を「相互評価のゲーム」と名指し、その続編である『庭の話』(2024)においてこうした「相互評価のゲーム」に抗う拠点としての「庭」における事物の「制作」を軸とした「人間の条件」のアップデートを試みています。
 
こうした観点からいえば本作も「母殺し」というモチーフから今日の情報環境におけるコミットメントのあり方を「制作」という観点から更新し、現代における公共性と人間の条件を多角的に描き出そうとした物語であったといえるでしょう。そして同時に本作の最大の魅力は、どこかユーモラスな語り口でありながらも、まるで夏の昼下がりに食べる西瓜のように歯切れよく瑞々しいその文体にあったように思えました。本作は現代日本を代表する不世出の作家、村上春樹のこれまでにない新境地を拓く一冊であるといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

正しさとことばづかい--朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』

* 分極化の時代における哲学の使命

 
西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった古代ギリシャの哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。
 
近代哲学の礎を築いたルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に認識できるか」を問い、近代哲学を確立したイマヌエル・カントは人間は何が認識できて何が認識できないのかという理性の限界を確定しようとしました。そして現代哲学においては言語やコミュニケーションの論理的な分析を主題とする分析哲学(言語哲学)が台頭することになります。
 
このように哲学はその長い歴史において中心的な主題が時代ごとに変遷してきましたが、その一方で哲学とは世界の真理を探究する学問であるという大きな前提は時代を問わず共有されてきました。しかしながら、もし仮に哲学とは世界の真理を探究する営みであるとすれば、いつの日かその真理への探究が終われば、その時点でそれ以上の「会話(コミュニケーション)」の継続は不要になるはずです。
 
ところが、このような伝統的な哲学観を問い直し、哲学の使命とは「会話」を終わらせることではなく、むしろ「会話」を守ることにあると主張したのが米国の哲学者リチャード・ローティです。そしてこのようにローティの哲学の平易な入門書であると同時にソーシャルメディア時代における公共性を再考する一冊が本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』です。
 
本書が「はじめに」で述べるように現代は「分極化」が加速する時代であるといえます。ここでいう「分極化」とは2000年代以降のアメリカにおいて民主党支持者である「リベラル/左派」と共和党支持者である「保守/右派」の間で分断があまりにも進んだ結果、それぞれが互いに「われら」「やつら」と名指し合うような政治状況を論じる言葉として登場しました。そしてこうした「われら/やつら」を決定的に分けてしまう分極化の感覚は二大政党制ではない日本においても深く浸透してしまっているといえるでしょう。
 
こうした「分極化」が加速する現代において本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』は「会話」を守ることを哲学の使命と考えたローティとともに「否応なくバラバラな世界で、バラバラなまま、しかし共に生きるために、どんなことばを使うべきなのか」を問い直していきます。
 

* 歴史主義と偶然性

ローティは当時、隆盛を極めていた分析哲学の中心地プリンストン大学でキャリアをスタートさせ、自身も長らく分析哲学的なスタイルで論文を書いていましたが、初の単著『哲学と自然の鏡』(1979)では分析哲学への反旗を翻し周囲を驚かせます。
 
ローティは同書において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々のボキャブラリー(ことばづかい)によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであるとする「歴史主義」を主張しました。
 
では真理の探究を放棄したときに哲学には果たして何ができるのでしょうか?会話(コミュニケーション)を続けることにどのような意味があるのでしょうか?『哲学と自然の鏡』で残されたこれらの問いに対してローティが自ら答える形で書かれた著作が『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)です。
 
同書においてまずローティは言語や自己や社会の「偶然性」について論じています。すなわち、人がどのようなボキャブラリー(ことばづかい)を使うかは歴史的な偶然性の産物であり、そうであればボキャブラリー(ことばづかい)によって表現される個人や、個人の集合によって構成される社会もまた偶然性の産物であるということです。
 
それゆえにローティはこうした「偶然性」の産物たる社会においては、その正しさを保証してくれるものは何もなく、そこで個人はひとえに互いを傷つけないという最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかないとします。これは『哲学と自然の鏡』でみられた「歴史主義」の徹底であるといえます。
 

* リベラル・アイロニストとは何か?

 
そして、このような言葉や自己や社会の別様の可能性に開かれた態度が「アイロニー」です。ローティはアイロニストの条件として自分がいま使っている「終極の語彙」を徹底的に疑うことを挙げています。ここでいう「終極の語彙」とは自身の行為、信念、生活を正当化する一連のボキャブラリーを指しています。そして、このような「終極の語彙」は大抵「理性」とか「人間性」などといった普遍的な言葉よりも「イングランド」とか「革命」などといった地域性を強く帯びた言葉になることが多いといわれます。
 
ローティはこうしたボキャブラリーが具体的な姿をとって現れたものが個人や社会であると考えます。このようなローティの人間観、社会観を本書は「人や社会は、受肉化したボキャブラリーである」とテーゼ化しています。
 
いずれにせよ、人はみな、自分を説明したり世界を語ったりするために自分が大事だと思う「終極の語彙」を持っていますが、その「終極の語彙」は絶対のものではなく、常に他人の「終極の語彙」の影響を常に受けており、それは常に「アイロニー」による「再記述」の可能性に開かれています。けれどもその一方で、誰もが皆がみな自分を再記述したいわけではなく、他者を勝手に再記述する行為は時として暴力的な「残酷さ」をもたらします。
 
このように「アイロニー」は自由さや風通しの良さをもたらす一方で、それに伴う「再記述」は時に「残酷さ」をもたらします。そこでアイロニストとは同時に「リベラル・アイロニスト」でなければならないとローティはいいます。
 
通常「リベラル」という言葉は「自由」とか「公正」などといった意味で用いられますが、ここでローティのいう「リベラル」とは「残酷さ」の回避という意味を帯びています。つまり「リベラル・アイロニスト」とは自らの信念は何らかの本質と必然的に結びつかない偶然性を認める一方で、社会における「残酷さ」を減少させていくこと望む人物像です。
 

* バザールとクラブ

 
ここからローティは「公」と「私」は統合する必要はないという一見奇妙とも思える主張を行います。常識的に考えれば「公」と「私」が一貫した人こそが信頼できる人であり、そうでない人は信頼に値しないように思えます。なぜローティはこのように主張するのでしょうか。
 
こうした主張をローティは「バザールとクラブ」という比喩で説明します。ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』ではなく別の論文でこの「バザールとクラブ」を老若男女問わず人種も民族も宗教も異なる人々が行き交う「バザール」で生活のために嫌な客にも作り笑いをしながら商売をしている人が一日の仕事を終えて馴染みの人々が集う「クラブ」で昼間の客の愚痴を吐くといった挿話として描き出しています。
 
ここでは公共空間としての「バザール」と私的空間である「クラブ」が対比されています。公共空間としてのバザールにおいては言いたいことが言えなかったり、作り笑いをしたりと色々としんどいことがあるけれど、そのしんどさを皆が多かれ少なかれグッと堪えていることで安全さが保たれています。一方で私的空間のクラブは言いたいことが遠慮なく言えるという魅力が確かにありますが、場合によっては差別的な言動や公共空間ではとても口にできないような言葉が飛び交う危うさがあります。
 
バザールは安全だけどしんどい、クラブは魅力的だけど危うい。その両面がどちらも「いいとこどり」はできないものとしてこの挿話では描かれています。人が生きる上で生活のためのバザールも息抜きのためのクラブもどちら必要ですが、それゆえに両者は別々に分かれていなければならないということです。
 
このように「公(バザール)」と「私(クラブ)」は別々かつ同時に存在しなければならず、決して統合されてはならないとローティはいいます。なぜならば「公」と「私」を統一しようとする態度は「公」だけが絶対的に正しいという立場にせよ「私」だけが絶対的に正しいという立場にせよ、いずれも人々の会話を終わらせることを目的とした営みであり、これは「リベラル」が避けるべき「残酷さ」に他ならないからです。つまり「残酷さ」を避けるという「リベラル」の目的を実現するためにも公私を一致させるという理想を棄て去るというアイロニズムが必要となってくるということです。
 

* 正しい建前と正しくないかもしれない本音

 
一方でこのバザールとクラブの話には比喩であるがゆえの限界もあります。現実の社会においては公共空間と私的な空間はこのようにきれいには分かれておらず、実際のところはひとつの時空間が同時にバザール性とクラブ性をグラデーション的に持っていることが多いでしょう。
 
ではこの比喩は無意味なのかというと、もちろんそんなことはなく、その眼目はむしろ一人の人間の中に「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」があり、その二つは矛盾しているかもしれないけれども、それでもその人のなかで併存していてよいのだという点にあります。
 
こうしたことからローティは時と場所によって、この「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」を人は使い分けてもよい、むしろ使い分けた方がよいと主張します。この観点からいえば公の立場にある人が何かしらの問題発言をした場合、問題とすべきはその人の思想信条ではなく、私的な場(=クラブ)ではなく公共的な場(=バザール)でそんな発言をした点にあるといえるでしょう。
 
こうしたローティの提言は公共的な安全と私的な欲望をともに尊重するものであるといえ、残る問題は本書がいうように、どこを「公共的」「私的」な場と認定するかにあります。さらにこの問題はあらゆる場所がパブリックな空間として認定される傾向にある現代においては、いかに私的空間や私的ボキャブラリーを確保するかがむしろ課題ではないかという視点を浮上させることになるでしょう。
 
さらに本書はこの「バザールとクラブ」というローティの比喩自体の公共性を問い直します。この比喩は具体的には中東のクウェートのバザールとイギリスの会員制紳士クラブを念頭においているようですが、多様なものが渦巻くカオス的な状況の比喩として中東のバザールを持ち出すことは西洋の目で東洋を固定的に描くオリエンタリズムとも無縁でないでしょう。それゆえに、ここから「多様性の比喩として中東のバザールを持ち出していいのか」と問うこともまた、ローティ的な哲学の営みであると本書は述べています。
 

* われわれの拡張としての連帯

 
ではどうすれば我々はリベラル・アイロニストとして「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのでしょうか。ローティはその手がかりを小説のようなフィクションやエスノグラフィ、あるいはジャーナリズムに求めています。このような理論ではなく感情に訴える文芸や報道にこそなしうる役割をローティはのちに「感情教育」と呼んでいます。
 
またフィクションには我々の中にある「残酷さの芽」というべきものに意識を向けさせる役割を担っているとローティはいいます。つまりフィクションは悲惨な出来事を描くことで被害者への共感性を育むことができると同時に我々が「加害者にもなりうること」への想像力の醸成にも役に立つということです。そしてこうした共感性や想像力こそが「われわれの拡張」としてのローティいう「連帯」を可能にする条件となります。
 
ローティのいう「連帯」とは、例えば「理性」とか「国家」とか「人権」などといった普遍的(に見える)特定の原理によって基礎付けられるものではなく、個別の人間が抱える苦しさや痛みに対する共感性や想像力といった小さな断片たちを手がかりに創り上げられるものです。
 
すなわち「われわれ」は「同じ」だから連帯できるのではなく、むしろ「われわれ」の「違い」から連帯が始まるのであり、換言すれば「偶然性」に規定された「われわれ」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「われわれの拡張」として結果的に「連帯」が生じるということです。ここで「偶然性」「アイロニー」「連帯」が全てつながってくることになります。
 
『偶然性・アイロニー・連帯』における中心的なテーゼを端的に表すのであれば、日々の「ことばづかい」を変えることによって人は変わり、世界も変わるということです。こうした「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションをローティはのちに「文化政治としての哲学」と呼ぶようになります。このような「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションの実践こそが真理の探究を放棄した後の哲学に課された使命であるということです。
 

* 動物化する公共圏

 
こうしたローティの哲学を一貫して評価するのが東浩紀氏です。例えば『一般意志2.0』(2011)において氏は従来は私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基盤となり、逆にいままでは公的であった精神的な自己完成や自己陶治こそが私的領域に閉じ込められるというローティの描く逆転の構図を同書が提示する大衆の私的な行動(データベース)が情報技術により集約化/可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約するという「一般意志2.0」の構図と重ね合わせて論じています。
 
また『観光客の哲学』(2017)においては公的な振る舞いと私的な信念の分裂を受けれるべきだというローティの提案を同書が提示する「動物」と「人間」の層に分裂した「二層構造」と重ね合わせ、ローティの提案はそのような分裂を「アイロニー」で縫合する試みであったと捉えます。
 
そして『訂正可能性の哲学』(2023)では「偶然性」に規定された「われわれ」から出発しながら、その共感性や想像力の範囲をいくらでも拡張していくことができるというローティの思想を同書が提示する「訂正可能性」に規定された共同体としての「家族」の構成原理である「強制性」「偶然性」「拡張性」と重ね合わせています。
 
このようにローティのいう「公」と「私」の分裂は東氏のいう「動物」と「人間」の分裂と重なり合っています。この点、普通は「人は人間であると同時に動物である」という時、およそ「人間」が公的な領域に割り振られ「動物」が私的な領域にそれぞれ割り振られがちですが、東氏は動物的な振る舞いこそが公的な領域を創り出し、人間的な信念は私的な領域に囲い込まれるという逆転から、動物的な連帯による人間的な対立の「訂正可能性」という理路を提示します。
 
さらには「正しい建前(=公)」と「正しくないかもしれない本音(=私)」を時と場合で使い分けた方がいいというローティの哲学を実際に運用する上で東氏のいう「訂正可能性」という視点は不可欠であるともいえるでしょう。少し考えればわかるように、これまでずっと「クラブ」だと思い込んでいた場所がある日突然「じつはバザールだった」というように遡及的に「訂正」されてしまう事態はいつでも起こり得るからです。こうした意味でこの社会とはバザール性とクラブ性が常に揺らぎあう訂正可能性を孕んだ時空間であるといえるでしょう。
 

* 正しさとことばづかい

 
本書は第1章から第5章にかけてローティの哲学を概観していきます。そして最終章である第6章においては現代における「リベラル」のあり方を論じています。日本ではこの10年、左派あるいはリベラルと呼ばれる勢力が退潮し続けています。インターネット上でもリベラルへの反発は年々激化しています。本書もまた、こうした現状認識から出発します。
 
よくあるリベラルに対する批判的言説として、リベラルを自認する人間は自分達の側に無謬の「正しさ」があることを前提としており、こうした「正しさ」から現実の「正しくなさ」を見出しては一方的に糾弾し、裁く権利を有しているかのような傲慢な振る舞いをしているというものがあります。ソーシャルメディア上で「ポリコレ」とか「キャンセル」などといった表現を用いてなされる非難はだいたいこうしたロジックに基づくものであるといえます。
 
これに対して本書はローティと共にこうした「正しさ」に依拠した「いわゆるリベラル」とは一線を画した「ことばづかい」に重きをおく「リベラル・アイロニスト」としての「リベラル」のあり方を提示していきます。
 
分極化したバラバラな世界を生きる我々はさまざまに異なる「正しさ=正しくなさ」を踏まえながらも、それでも共に生きていくための仕組みと、個々人としての都度の振る舞いを考えていかなければならず、そしてそれは唯一絶対の「正しさ」に収斂されることのない、どこまでも終わりのない営みとなります。
 
こうした本書の提示する「リベラル」とは、何かしらの特定の立場や思想ではなく、日々の「ことばづかい」を問い直しながらも、こうしたバラバラで色とりどりな道なき道を一歩一歩確かめながら歩もうとする姿勢、あるいは生き方であるといえるでしょう。こうした意味で本書は平易なローティの入門書であると同時に「リベラル」という「ことばづかい」の「訂正」を試みる一冊であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから加速主義へ入門するためのおすすめ5冊

* 加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義(木澤佐登志)

⑴ 異色の哲学者
 
近年、テクノロジー関連の言説、現代思想の領域、さらには政治的な議論において「加速主義 Accelerationism」という言葉がよく見受けられるようになりました。この「加速主義」を大まかに定義するとすれば「現存する社会システム、特に資本主義が持つ内在的な傾向やダイナミズムを、意図的に『加速』させることによって、現在の社会システムそのものの質的変容、あるいはそれを超えた新しい社会システムの到来を目指す」というものです。
 
この大まかな定義からもわかるように加速主義は単一の教義やイデオロギーを指すわけではなく、その「加速」の対象、目的、方法論、そして倫理的評価は論者や文脈によって大きく変わってきます。ある人にとってそれは人間の解放へと向かうユートピアへの道であったり、別の人にとってそれは人間の終焉へと向かうディストピアへの道であったりもします。
 
こうした「加速主義」という潮流を近年のシリコンバレー界隈で注目を集める「新反動主義」という切り口から概説する一冊が本書『加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義』です。ここでいう「新反動主義」とは反民主主義を徹底し統治の効率性を追求したリバタリアニズムの一形態を指しています。
 
本書はまず第1章でこの「新反動主義」の形成に寄与したと思われる重要人物としてPayPal創業者、ピーター・ティールを取り上げた後、第2章で「新反動主義」の中心人物であるカーティス・ヤーヴィンの思想を紹介する「暗黒啓蒙」というテクストに注目します。このテクストの著者こそが加速主義の始祖と目されるイギリスの哲学者、ニック・ランドです。
 
第3章ではこの異色の哲学者の経歴と思想に光が当てられます。ランドは1987年から1998年までの約10年間、イギリスのウォーリック大学で教鞭を取り、専門は主に大陸哲学とフランス現代思想で1992年には『絶滅への渇望』というジョルジュ・バタイユをテーマとした著作も執筆しています。ランドは1989年に発表した最初期のテクストにあたる「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において現代にまで至る西洋列強の植民地主義による第三世界に対する経済的搾取は近代のあり方そのものと深く関わっているとして、その思想的淵源をイマヌエル・カントの超越論哲学に求めています。
 
カントが創始した超越論哲学の要諦とはすなわち、我々は対象(=他者)を直接認識しているのではなく、対象の「表れ」を認識しているに過ぎず、それゆえに対象(=他者)はそれ自体(=物自体)としてありのままに認識することは不可能であり、主観側の総合作用によって表象として現象することになります。これがランドのいうところの「抑制された総合」という作用です。つまりランドによればカントによる「抑制された総合」とは他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、そうである限りで近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったとみなされます。
 
そしてランドは同論文においてこのグローバルな帝国主義システムを内破させる潜勢力を「フェミニストの効果的な暴力」に見出しており、同論文は「この近代の終わりに到達するために、我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という言葉で締め括られます。ところが以降のランドの仕事においてこのフェミニズム的暴力という主題は徐々に後景に退き、代わりにランドは近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになります。
 
⑵ 脱領土化とシンギュラリティ
 
1990年代に入るとランドはカント主義を乗り越えるための参照項をポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著である『アンチ・オイディプス』に見出します。1968年に起きたパリ5月革命の影響下で書かれた同書でドゥルーズ=ガタリは西洋近代の成果物である精神分析におけるエディプス・コンプレックスと呼ばれるセントラル・ドグマを批判し、代わりに無意識における多様な欲望の流れと相互接続を肯定する分裂分析を打ち立てました。
 
この点、ランドは同書における「脱領土化 Deterritorialization」と「再領土化 Reterritorialization」という対概念に注目します。ここでいう「脱領土化」とは解体のプロセスであり、例えば資本主義における資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体などを指しています。これに対して「再領土化」とは総合のプロセスであり、例えば資本の再配分に基づく福祉資本主義などは一旦、脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みといえます。すなわち、現代のグローバルな資本主義システムと国家システムはこのような脱領土化と再領土化の反復によって維持されているということです。
 
ランドはこの「脱領土化」と「再領土化」という対概念において「脱領土化」のみを徹底的に推し進めるべきであるという立場を取ります。「カント、資本、そして近親相姦の禁止」における「抑制された総合」とはドゥルーズ=ガタリの「再領土化」とある程度符合すると本書は述べます。すなわち、再領土化あるいはカント主義に規定された近代を解体するためにはあらゆる限界を突き抜けて未来の果てまでも加速しなければならないというのがランドの立場であり、同時にこの点においてあの「暗黒啓蒙」における「生物工学の地平」が現れることになります。
 
こうしたことからランドは1994年に発表した「メルトダウン」において未来から到来する〈外部〉としての〈シンギュラリティ(特異点)〉が国家、民主主義、ヒューマニズム等々の近代的秩序を溶解させていくさまを黙示録的な筆致で叙述していきます。
 
神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、惑星規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を堕落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が招来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータ(xenodate)をハックするのを待っている。
 
(ニック・ランド「メルトダウン」)
 
⑶ CCRUという実践
 
そして、このような主体を構成するあらゆる体制の「脱領土化」を推し進めるというランドの哲学的プログラムの実践のうちの一つが「サイバネティック文化研究ユニット Cybernetic Culture Research Unit:CCRU」における活動です。
 
CCRUとは1995年にランドが公私ともにパートナーであったサディ・プラントと共にウォーリック大学の哲学部内に設立した大陸哲学やSFやオカルティズムやクラブカルチャーなどを学際的に横断する研究組織です。このCCRUは後に批評家として活躍することになるマーク・フィッシャー、思弁的実在論で知られることになるイアン・ハミルトン・グラントとレイ・ブラシエ、kode9名義で音楽家として活躍することになるスティーヴ・グッドマン、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めることになるロビン・マッケイなどが参加しています。
 
けれど設立から2年後の1997年には共同設立者のサディ・プラントがウォーリック大学を退職し、大学当局からもその存在を煙たがられていたCCRUはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に活動拠点を移し、その外界から隔絶されたラボでアレイスター・クロウリーの魔術、数秘学、ヴードゥー教、ラヴクラフトといった擬似カルト的な思索に耽ることになります。こうしたCCRUの哲学的実践はアカデミズムの内部ではなくむしろその外部において影響力を持っていました。
 
他方でランドは自身の「解体」のプロセスを着実に加速させていき、睡眠も取らず使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら数秘術めいた数学実験にのめり込んでいきます。ロビン・マッケイはこの時期のランドを回想して「端的に言って彼は発狂したのだ」と総括しています。
 
やがて度重なる不眠と身体的疲労によって自身を消尽させていったランドは1998年、大学を辞職して上海に移住してしまいます。ある意味でアカデミズムと西洋近代からの二重のイグジットです。そしてゼロ年代に入るとランドは上海在住のジャーナリスト兼ブロガーとして再び現代思想シーンの表舞台に返り咲くことになります。
 
⑷  悪くなればなるほど、良くなる?--加速主義、その可能性の中心について
 
本書が第4章で述べるように、このようにランドが90年代に展開した黙示録的な思想はやがて「加速主義」という名前が与えられる事になります。この加速主義という造語を命名したのは批評家のベンジャミン・ノイズであり、2010年の著書『The Persistence of the Negative』で彼は加速主義を「もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる。我々はこの傾向を加速主義と呼ぶ」と定義づけています。
 
ところがノイズはこのランド的加速主義を身も蓋もなく「大学院生の病」であると総括しています。つまり、これから否応なく資本主義リアリズムの世界に放り出される大学院生たちにとって「資本主義を加速させよ」と呼びかける加速主義はある種のストックホルム症候群(防衛本能による無意識的な加害者への連帯や共感)をもたらすイデオロギーとして作用するということです。
 
これに対して本書は以上のような加速主義の現代的潮流を概観する中で「加速主義、それは未来のユートピアをもはや純粋に信じることができない現代の私たちのためのユートピア思想なのだ」と述べます。すなわち、加速主義とは冷戦構造の終焉により共産主義の最終的破算と新自由主義のグローバルな勝利が確定し、もはや「大きな物語(リオタール)」はありえず、未来の可能性を喪った「歴史の終わり(フクヤマ)」のただなかにおいて、共産主義とは別のかたちで未来を思考するとはどのようなことかを問うた「共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想」であるということです。
 
そして本書は〈増補新版〉に追加した第5章において、いまやミームと化した加速主義における「可能性の中心」として「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せえざるを得ない『脱階層化のプロセス』を加速させる」ことを挙げていますが、ここでいう「脱階層化」とは資本家/労働者といった「階級」に限定されない、文字通りの意味におけるあらゆる階層型システムに適用されるものとされます。
 
確かにランドにしてみてもそもそもは西洋近代を規定したカント主義における自己/他者という階層型システムからの脱領土化=脱階層化を企てる思想から出発したわけです。そうであれば、加速主義という思想とは(少なくとも初期ランド的な発想からすれば)「資本主義を加速させよ」という単なるアジテーションというより、むしろそのプロセスを通じてあらゆる階層型システムの脱領土化=脱階層化を志向する思想として理解できるのではないでしょうか。そしてこのような脱領土化=脱階層化という「可能性の中心」こそが加速主義という思想に様々に立場を異にする多くの人々が魅了され続けてきた所以のようにも思われます。
 

* 現代思想2019年6月号 特集=加速主義

⑴ 左派加速主義の登場
 
先述のように1990年代にニック・ランドが展開した思想はやがて「加速主義」と呼ばれるようになります。2010年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで「加速主義」をめぐるイベントが開催され、このイベント後に「加速主義」という名は一気に広まることになります。2014年に出版されたアンソロジー『加速主義読本』の序論において同書の編集者であるロビン・マッケイとアルメン・アヴァネシアンは「加速主義」を次のように定義しています。
 
加速主義は政治的異端である。その主張はこうである。資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、それを中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである
 
(『加速主義読本』より)
 
要するに「加速主義」の主題は資本主義社会にいかにコミットメントするかにあり、その戦略の特徴は資本主義の矛盾を批判したり抑制しようせず、むしろ資本主義のプロセスをさらに「加速」させることでその〈外部〉へ突き抜けようとする点にあります。もっとも何をもって〈外部〉と見做すかは加速主義者の間でも大きな対立があります。本書『現代思想2019年6月号 特集=加速主義』はこのようなランド以降から2010年代までの加速主義の動向と論点を深く知る上で今なお有益な一冊といえます。
 
2010年代において形成された加速主義の分派のうちの一つが「左派加速主義」です。左派加速主義の代表的な論者であるニック・スルネックとアレックス・ウィリアムスは2013年にオンラインで発表した「加速派政治宣言」において2011年のオキュパイ運動に象徴されるローカルな政治的直接行動を素朴政治として批判し、来るべきポスト資本主義に向けてテクノロジーの発展を明確なビジョンのもとでコントロール可能な形で加速させる「加速主義政治」が必要になると主張します。
 
同時に彼らはランド流の黙示録的な加速主義とも距離を置き、2015年に上梓した『未来を発明する:ポスト資本主義と労働なき世界』においては⑴ロボットやAIの発展による製造の全的オートメーション、⑵それに伴う労働時間の漸進的削減、⑶市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入、⑷労働倫理の衰退といった社会変革によって人間が労働から解放された「ポスト労働の世界」という〈外部=未来〉が提示されます。
 
彼らにとってテクノロジーはそれ自体が善でも悪でもなく、それをどのような社会的目的のために、どのような政治的ヘゲモニーの下で用いるかが問題になります。彼らはテクノロジーの潜勢力を最大限に引き出すことで、より自由で平等な社会を構築するための「対抗ヘゲモニー的」なプロジェクトを推進すべきだと訴えます。このように左派加速主義はテクノロジーに対する楽観的な視点とそれを社会変革の戦略的ツールと見做すプラグマティックな姿勢を特徴としています。
 
⑵ マーク・フィッシャーと資本主義リアリズム
 
左派加速主義を語る上で避けて通れない思想家としてマーク・フィッシャーが挙げられます。フィッシャーは90年代にはランドのCCRUに所属しており、その問題意識を共有しつつも左派的な立場から一貫して新たなコミュニズムの可能性を探り、スルネックらに大きな影響を与えました。フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べています。
 
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものです。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指しています。
 
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものです。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入です。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態でした。
 
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものです。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べます。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができます。
 
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈外部=未来〉を想像する能力を喪失することになります。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになります。
 
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れます。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されています。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていたのでした。
 
⑶ 加速主義の現代的展開
 
その一方で、ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対しては明確に批判的な立場を取ります。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えますが、ランドからすれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーの加速は不可能であるとします。もっともランド自身も90年代と微妙に思想的立ち位置を変えており、ヤーヴィンの新反動主義を支持する現在のランドの立場はいわば「右派加速主義」と呼べるものです。
 
さらに現代において加速主義はさらに多様なバリエーションや解釈が生まれています。例えば「無条件加速主義 Unconditional Accelerationism:U/Acc」は90年代のランド思想とCCRUへの忠実な回帰を志向し、資本主義がテクノロジーが結びつき自己増殖していくプロセスをいかなる人間的な価値判断や目的からも切り離し、無条件に加速させることを主張します。それは人間の制御や理解を超えた純粋な技術的プロセスへの没入を志向するある種のニヒリズムといえます。
 
また「ジェンダー加速主義 Gender Accelerationism:G/Acc」や「ゼノフェミニズム Xenofeminism:XF」といった潮流はフェミニズムの視点からテクノロジーと加速の概念を捉え直し、既存のジェンダー規範や家父長制的構造を解体し、テクノロジーを用いて新たな身体性やアイデンティティの可能性を追求しようとします。これらは左派加速主義の解放のポテンシャルをジェンダーという特定の領域で先鋭化させようとする試みであるといえます。
 
さらに加速主義的なテーマや感性は現代アート、音楽、文学、映画といった様々なカルチャーの領域でも表現されることになります。こうしたことから加速主義は単なる哲学的な潮流にとどまらず、現代社会の複雑な動態とそれに対する多様な応答の総体として捉えるべきであるといえるでしょう。
 

* ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学(岡本裕一朗)

⑴ 加速主義と思弁的実在論
 
14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきましたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していました。ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自明性を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき事態を招来することになります。
 
本書『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学』(2021)はこうした「ポスト・ヒューマニズム」を体現する思想として加速主義とともに「思弁的実在論 Speculative Realism:SR」と呼ばれる哲学的潮流を位置付けます。そして後述するように、この両者は極めて密接な関係を持っています。
 
「思弁的実在論」とは狭義には2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行われた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端として主にインターネット上で急拡大した哲学的潮流を含んでいます。
 
周知のように「実在論」とは哲学的には「観念論」と対立する概念です。すなわち、人間が事物を認識するとき心の中に何かしらの「観念」を抱くことになりますが、その「観念」とは独立した事物の存在を肯定するのが「実在論」であり、これに対して「観念」とは独立した事物の存在を否定するのが「観念論」です。
 
そして「思弁的」とは「反常識的」であることを意味します。つまり「思弁的実在論」とはこの世界を構成する事物の「実在」を「思弁的」といえる反常識的な理路によって捉え直そうとする新種の実在論ということになります。
 
もっとも「思弁的実在論」という名称はこのワークショップ向けの妥協案として選択されたものであり、その内部においてそれぞれの論者の主張は大きく異なっており、その後、数年も経たず彼らは内部分裂してしまいます。この点「思弁的実在論」という名称を提案したブラシエは2011年のインタビューで「『思弁的実在論』なるものは、私が全く共感を抱かないアジェンダを掲げるブログ執筆者たちが抱く妄想の中にしか存在しません」と語っています。
 
こうして現時点から振り返ると「思弁的実在論」とは学派やグループではなく2007年の開催されたワークショップの「イベント名」と理解した方が適当かもしれないでしょう。結局のところ彼らは「思弁的実在論」という名の下で果たして一体、何を目指していたのでしょうか。
 
⑵ 相関主義批判
 
思弁的実在論において共有されていた問題意識とは端的にいえば「相関主義批判」にあります。「相関主義」とは一般的に思弁的実在論の代表格とみなされるメイヤスーがその著書『有限性の後で』(2006)において使った言葉であり、ハーマンは同じ意味で「アクセスの哲学」と呼んでいます。
 
この点、メイヤスーによれば近代哲学を確立したイマヌエル・カント以後の哲学はすべて--現象学であれ分析哲学であれポストモダニズムであれ--いずれもカントのいう「物自体(客観世界)」にはアクセスが禁止されており、メイヤスーのいう「思考と存在の相関(主観世界)」のみにアクセスが可能とされていたといいます。そして彼はこうした「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」を持つカント以後の哲学を「相関主義」と名指しました。
 
そして、メイヤスーは「相関主義」は非合理な「信仰主義」の拠点になるといいます。要するに不可視の「物自体」の位置に非合理なテーゼを勝手に代入して、まさにそれこそが世界の真実であるなどと主張する陰謀論に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的相対主義がもたらされることになるということです。それゆえにメイヤスーは今日における常識的な自然科学的世界観を擁護するには「相関主義」を超克する必要性があると訴えますが、その理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなっています。
 
この点、メイヤスーは相関主義をスペクトラム的に捉える議論を展開しています。具体的にいえば「素朴実在論(我々の精神から独立した世界が存在するという立場)」と「思弁的観念論(我々の精神が世界のすべてを包摂するという立場)」を両極として、その中間に「弱い相関主義(カントのように「物自体」を認識はできないが思考はできるという立場)」と「強い相関主義(ハイデガーやウィトゲンシュタインのように「物自体」を認識もできなければ思考もできないという立場)」という二つの相関主義を位置付けています。
 
そして、メイヤスーは「強い相関主義」における「思考=世界」の「事実性(非理由律)」を経由することで「絶対的なもの(他のものとは独立にそれ自体が存在するということ)」としての非相関的な世界を想定し、このような理由も必然性もない「ただあるだけ」のこの世界は数理的思考によってのみ記述可能であると主張しました。
 
このようにメイヤスーは世界の揺るぎない客観性を数学をはじめとした科学的言説に依拠する一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、この世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出すことになります。いわばメイヤスーは(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高次元での相対主義をもって対抗する理論を提出しているといえるでしょう。
 
⑶ 自然・根源・オブジェクト--思弁的実在論の諸相
 
2007年に思弁的実在論のワークショップが開催された当時はもっぱらメイヤスーに注目が集まり、メイヤスーの考えが思弁的実在論の共通見解かのように理解されがちでした。しかし先述のように思弁的実在論の名を掲げる各論者の見解は鋭い対立を孕んでいます。以下、他の論者の見解の概要を示しておきます。
 
まずレイ・ブラシエ。彼の思想のキーワードは「自然主義」と「ニヒリズム」です。ここでいう「自然主義」とは要するに認知科学をはじめとする自然科学に基づいて哲学を進めるという態度です。そしてこの「自然主義」が世界から「意味」とか「価値」を剥ぎ取った「ニヒリズム」としての「実在」を極大化させることになります。
 
次にイアン・ハミルトン・グラント。彼の思想のキーワードは「自然」です。もっともグラントのいう「自然」とはブラシエのような自然科学的な意味での「自然主義」ではなく、思考に先立ちかつ思考を生産する根源的な存在としての「自然」を指しています。こうした意味でグラントの実在論はメイヤスーのスペクトラムでいう「思弁的観念論」にかなり近い位置にあります。
 
そしてグレアム・ハーマン。ハーマンは思弁的実在論のスポークスマンとしてメイヤスーとは違った形で注目されてきました。この点、ハーマンは彼独自の哲学を「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と呼んでいます。ここでいう「オブジェクト」とは「(主観と関係する)対象」というよりも端的な「(主観と無関係な)モノ」といった方が良いでしょう。すなわち「オブジェクト指向存在論」とはいわば「モノに定位した存在論」であるということです。
 
こうしたことからハーマンはメイヤスーと逆にカントの「弱い相関主義」を評価します。ハーマンはカントのいう「物自体」を「モノ」の独立性や超越性として位置付けており、さらにここでいう「モノ」とは創作物や概念としての「モノ」も含まれています。こうした色々な「モノ」に定位することでハーマンは人間と世界が「主観とその対象」といった形で関わるのではなく、いろいろな「モノ」たちが存在し、そうした「モノ」たち同士がさまざまに関係したり関係しなかったりする状況を想定します。
 
すなわち、あらゆるモノは本来、人の意識に決して現れることなく、一つ一つ絶対的にバラバラに存在しており、それ自体の中に引きこもっている=退隠しており、そして、その無関係性こそが本来の一次的なもののあり方であり、関係性というのは二次的で現象的なものに過ぎず、まさに世界を構成するひとつひとつのモノが他からアクセスできない孤独な闇であり、世界は様々な異質な闇によって構成されているということです。
 
こうしてみると四者四様、見事にその主張はバラバラであり、むしろ何で一時期でも活動を共にしていたかが不思議なくらいにも思えますが、いずれにせよ思弁的実在論がかろうじて共有していたテーマである「相関主義批判」はいわば「人間との相関物としての世界」の破棄を志向しており、こうした意味で思弁的実在論は従来の「人間中心主義」としての「ヒューマニズム」への根本的批判となる「ポスト・ヒューマニズム」の哲学を提示しようとしていたといえるでしょう。
 
ではこうした思弁的実在論は加速主義といかなる関係に立つのでしょうか。まず、2007年のゴールドスミス・カレッジのワークショップに登壇した4名のうち、ブラシエとグラントは先述のようにかつてはCCRUのメンバーであり、ランドの思想から大きな影響を受けています。
 
そしてランドによれば先述のようにカント以降の哲学スキームにあっては、我々は「物自体」を認識できないことになっています。すなわち、我々がアクセスできるのは概念的なカテゴリーや論理形式を通じて主観の上に構築された表象のみであり、このようなアプリオリに条件づけられた認識論的枠組みを指して「超越論的なもの」と呼ばれます。
 
換言すれば我々は事物のあり方それ自体を直接問うことはできず、問うことができるのは我々の超越論的な思考の枠組みと、事物がそれに従ってどのように現象するかといった表象作用のみとなります。このような事物は超越論的なものと関わる限りで問題化することができるという立場を相関主義という。
 
こうした議論はすでにランドの「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において部分的に先取りされてきたとも言えるでしょう。ランドによればモノを認識に従属させるカントの超越論哲学においては他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化されることにあり、こうしたカント的な相関主義は外部を際限なく内部に繰り込んでいく帝国主義とグローバリズムとも軌を一にするものであるということです。つまりランドと思弁的実在論は両者ともいかにこの相関的循環の外部に抜け出て、物自体=未知の他者と遭遇するかという問題意識を共有しているといえるでしょう。
 

* 21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング(樋口恭介)

⑴ 効果的加速主義と効果的利他主義/長期主義
 
本書『21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング』(2026)は望ましい未来を構想する「未来学」の観点から、現代社会におけるテクノロジーの急速な進展とそれがもたらす未来像について主に加速主義とプルラリティという二つの大きな思想的潮流が考察されます。今年(2026年)公刊された本書は2020年代における加速主義の動向を俯瞰的に知る上でも最適な一冊であるといえます。
 
加速主義の2020年代における潮流として近年、シリコンバレーを中心とするテクノロジー業界で急速に注目を集め一種のムーブメントになりつつあるのが「効果的加速主義 Effective Accelerationism:e/Acc」です。このe/accはその名が示す通り、ニック・ランド的な加速主義の思想的影響を受けつつも、より「効果的」かつ実践的な形でテクノロジーの進歩を推進し、社会変革を実現しようとする潮流であり、AI技術、特に汎用人工知能(AGI)の急速な発展を背景にそのポテンシャルを最大限に引き出すことを最重要課題として、規制や倫理的懸念に対してはしばしば批判的な立場を取ります。
 
e/accという言葉は2022年ごろからソーシャルメディア上で広がり始め、匿名あるいは半匿名のインフルエンサーたちによって精力的な議論が展開されています。その思想的背景にはシリコンバレーに長らく根付いてきた技術ユートピア主義やトランスヒューマニズムやリバタリアニズムといった要素が複雑に絡み合った特有の精神風土が色濃く反映されています。これらの思想は従来、シリコンバレーの起業家精神やイノベーション文化と結びつき「カルフォルニアン・イデオロギー」とも呼ばれる独特の価値観を形成してきましたが、e/accはこれらの既存の価値観を継承しつつ、特にAI技術の飛躍的進展という新たな文脈の中でそれらをより先鋭化させたものであり、その究極目標は宇宙への進出とシンギュラリティの早期実現にあるとされています。
 
こうしたe/accと対立関係にあるのが「効果的利他主義 Effective Altruism:EA」という立場です。EAは21世紀初頭にピーター・シンガー、トビー・オード、ウィリアム・マッカスキルといった哲学者たちを中心に提唱された思想ないし社会運動であり、その核心的な理念は理性とエビデンスに基づいて、世界を最も効果的に良くする方法を考え抜き、それに則って行動するというものです。その哲学的根源の一つにはジェレミー・ベンサムやジョンスチュアート・ミルによって体系化された功利主義があります。功利主義は行為における道徳性をその行為がもたらす結果(特に幸福の総量や苦痛の軽減)によって判断しようとする考え方ですが、EAはこの功利主義的な発想を現代的課題に応用する試みであるといえます。
 
EAが特に焦点を当てる問題領域は大別して⑴世界の極度の貧困の削減、⑵工場畜産における動物の苦痛の軽減、⑶人類の未来を脅かす実存的リスクの低減という3つです。そしてこの3つ目の柱である人類の未来を脅かす実存的リスクの低減と密接に関連し、近年特にEAコミュニティ内で影響力を増しているのが哲学者ニック・ボストロムやヒラリー・グリーヴスらによって精力的に論じられている「長期主義 Longtermism」という考え方です。長期主義の核心的な主張は未来に存在するであろう膨大な数の人々の幸福や潜在的可能性は、現在生きている我々のそれと同等か、それ以上に道徳的重要性を持つものであり、それゆえに我々の行動は人類の長期的な未来に最も大きなプラスの影響を与えることを優先すべきであるというものです。
 
⑵ AIアラインメント問題をめぐる対立
 
e/accとEAおよび長期主義の対立関係は「AIアラインメント」という問題において先鋭化します。AIアラインメントとは、極めて高度な知能を持つAIを人間の意図や価値観、倫理規範に沿って安全かつ有益に機能するように設計・制御し、それを保証するための一連の研究課題を指しています。
 
AIアラインメントの課題は多岐に渡ります。例えばニック・ボストロムが指摘するように高度なシステムはどのような最終目標を与えられたとしてもその目標を効率的に達成するための中間目標として⑴自己保存、⑵資源獲得、⑶能力向上、⑷目標内容の維持といった「内包的目標」を自律的にもつ可能性(道具的収束)があり、これらの内包的目標が人間の意図しない形であるいは人間にとって有害な形で追求されるリスクがあるといわれます。またAIは与えられた報酬関数を最大化するように学習しますが、人間が意図した真の目標と、それを形式化した報酬関数の間にはしばしばギャップが存在するため、AIが報酬関数を最大化しようとした結果、人間の意図から外れた行動(報酬ハッキング)をとる可能性があります。
 
その他にもAIの行動が人間の価値観に沿っているかを継続的に監視することの困難性、深層学習モデルのようなブラックボックス化したAIの複雑な内部動作を検証することの困難性、複雑な人間の価値観を正確に学習させる困難性、複数のAIがそれぞれ適切に動作していたとしても全体として望ましくない集団行動が生じる可能性といった技術的な課題のほか、多様な文化や価値観が存在する人間社会においてAIを「誰の」価値観にアラインするのか、人間以上の意識や知覚を持ったAIに対して我々はどのような道徳的配慮をすべきか、AIの有害な行動をいかに抑制するかといった哲学的・倫理学的な課題もあります。こうしたAIアラインメントの重要性は広く認識されつつあり、世界中の研究機関がその解決に取り組んではいるものの、AI開発のスピードに対してアラインメント研究の進捗が追いついていないという懸念も顕在化しています。
 
この点、e/accの支持者たちはAIアラインメントの難しさを認めつつも過度な懸念は技術進歩を遅らせ、結果として人類がAIの恩恵を享受する機会を奪うと主張します。彼らは技術がさらに進歩すれば、アラインメント問題もいずれ解決可能であるという楽観的な見通しを持つか、あるいはAGIがもたらす圧倒的な知能と能力の前ではある程度のリスクは許容すべきだと考えます。AGIが実現すれば病気の根絶、貧困の撲滅、宇宙進出といった壮大な目標が達成可能になるかもしれないという期待がこのようなリスクへの許容度を高めています。これに対してEAおよび長期主義の立場からは人類の未来には現在とは比較にならないほど膨大な数の潜在的な人々が存在しうるため、その未来そのものを消滅させかねない実存的リスクは道徳的に極めて重大であり、AIの制御不能化の可能性は最大限慎重に扱われるべきだという反論がなされることになります。
 
⑶ 防御的加速主義とプルラリティ
 
こうしたAIアラインメントをめぐる思想的状況においてテクノロジーの可能性と危険性のバランスを重視する立場が「防御的加速主義 Defensive Accelerationism:d/Acc」です。2023年にd/accという概念を提唱した暗号資産イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブリテンは自身は基本的には「テクノ楽観主義者」であると明言しつつも同時にAI、特にAGIがもたらしうる潜在的なリスクについての懸念を表明し、単なる単なる楽観論でも悲観論でもないより現実的で責任あるテクノロジーとの向き合い方を問い直します。こうしたことからd/accの「d」という文字には「Defence(防御)」「Decentralization(分散化)」「Democracy(民主主義)」「Differential(差異的)」という4つの意味が重ねられています。
 
ブリテンはAIをこれまでのテクノロジーとは異なる特別なものであるとして捉え、その開発には最大限の慎重さと先見性が必要であると強調します。そこでd/accはAIを人間を完全に置き換えるのではなく、むしろ人間の知的能力や創造性を拡張し、より複雑な問題解決を支援するツールないしアシスタントであると捉え、AIアライメント問題の解決をAGI開発の最優先課題と位置づけると同時に、万が一アラインメントが不完全であった場合でも社会全体への被害を最小限に抑えるという「防御的」なアプローチを重視します。
 
またd/accはAIの進化による「人間の飼い猫化」という懸念を挙げています。これは長期主義的な視点からAIのリスクを捉えるものであり、超知能AIが人間社会のあらゆる側面を管理・運営するようになった結果、人間は物質的に満たされた生活を送れるものの実質的にはAIに「飼育」される存在となり、自律性や創造性、さらには生きる意味を失ってしまうという未来像です。d/accはこうした未来を回避すべく、AIを人間の能力を補完・拡張する方向に開発し、人間がAI社会においても主体的な役割を果たし続けることを目指す立場であるといえます。
 
この点、本書はd/accの思想について技術進歩の「速度」だけではなく、その「方向性」こそが重要であると訴えるものであるといいます。つまり「どの方向にアクセルを踏むのか?」という問いをまさに我々がいま、もっとも真剣に議論し、選択しなければならない課題であり、それはAIアラインメントを確実に達成し、人類の長期的は繁栄と価値観の維持に貢献できるような技術発展の道筋を選択するということです。
 
それは具体的には「攻撃的なAIよりも防御的なAIを、中央集権的なAIよりも分散型のAIを、人間の判断を代替するAIよりも人間の判断を支援するAIを優先するという、『差異的』な加速を意味」するということであり、こうしたことから同書はe/accの無条件な加速とは異なり、バランス感覚に富み、人間中心的な価値観を重視するd/accのアプローチを「責任あるテクノ楽観主義」と評価します。
 
そして、こうしたd/accが提唱する分散型技術や民主的ガバナンスの重視は本書が提示するもう一つの未来像である「プルラリティ」とも極めて親和性が高いものがあります。この「プルラリティ」とは台湾の初代デジタル担当大臣オードリー・タンとアメリカの経済学者E・グレン・ワイルが共同で描き出した21世紀型公共圏構築のための設計思想です。
 
プルラリティという言葉は「多元性」「複数性」「多様性」といった日本語に対応していますが、その核心は社会や文化におけるさまざまな「差異」を単に容認したり尊重したりするだけでなく、それらの差異をむしろ創造的なエネルギーの源泉として捉え、多様なアクターが互いに協力しあい、共通の課題解決や価値創造に取り組むための新しいテクノロジー、制度、そして文化を積極的に設計・構築していくというダイナミックで実践的な志向性にあります。
 
こうしたことからプルラリティはAIを人間社会の協調と意思決定を支援するツールとして位置付け、そのAIが人間の多様な価値観とアラインされていることを前提としており「誰の価値観にアラインするか」という問いに対してプルラリティは民主的で熟議的なプロセスを通じて社会的な合意を形成しようとします。このようにd/accとプルラリティは現状の社会システムに対する問題意識(非効率性、不公正性、分断など)と、テクノロジーがそれらの解決に貢献しうるという期待感を共有しているという点においては根底で繋がっているといえるでしょう。
 

* 暗黒の啓蒙書(ニック・ランド)

⑴ ヴォイスからイグジットへ
 
2012年、オンライン上に「暗黒啓蒙 The Dark Enlightenment」と題された長大な論考が発表されました。著者はイギリスの哲学者ニック・ランド。そのPART1「新反動主義者はイグジットへの向かう」の中でランドは電子決済サービスPayPalの創業者として知られるピーター・ティールが2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿した「リバタリアンの教育」というエッセイから「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」という印象的なフレーズを引いています。
 
この論考のタイトルからも窺い知れるように、ティールの思想の根底にはリバタリアニズム(自由至上主義)という思想があります。リバタリアニズムとは個人の自由を最優先し、国家や政府による介入や規制を最小限に抑えるべきだという思想ですが、ティールはエッセイでリバタリアニズムと〈政治〉が根底において和解不可能であるという見方を示しています。そして、こうしたティールの「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」というテーゼに霊感を受けたランドの「暗黒啓蒙」では近代啓蒙思想の批判と新しい形でのリバタリアニズム思想が展望されることになります。それは畢竟〈政治〉からの脱出に他なりません。
 
同論考においてまずランドは「ヴォイス Voice」と「イグジット Exit」という二項対立を示します。この「ヴォイス」と「イグジット」の二項対立はティールのいう「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものです。ランドによれば「ヴォイス(民主主義)」の起源はジャン=ジャック・ルソーにまで遡り、この体制下で国家は国民の意志を表象するものとみなされ、現在の政治に不満がある人々はデモや選挙において現状を変えていきます。これに対してランドの支持する「イグジット(自由)」とは「ヴォイス(民主主義)」の体制下で愚直に声を上げるのではなく、黙ってその体制から立ち去り、新しいフロンティアを開拓していくという態度です。
 
ここでランドはこのような「イグジット」の向こう側のビジョンを「新官房学(ネオカメラリズム)」として明確に描き出した論者としてカーティス・ヤーヴィンを召喚します。アメリカの実業家にしてソフトウェア・エンジニアであるヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームで言論活動を行っており、彼のブログ「Unqualified Reservations」ではその特異かつ反近代主義的なリバタリアニズム思想が断続的に開陳され、この一連の議論は2010年にやはりリバアリアン系ブロガーであるアーノルド・クリングによって「新反動主義 NRx」と命名されています。
 
ヤーヴィンのいうところの「新官房学」とは国家は企業のように運営されるべきであるという主張です。すなわち、国家=企業において国民=株主は一人の君主=CEOを投票によって選出し、選ばれた君主=CEOは国家=企業に対する一切の所有権が与えられますが、君主=CEOは国民=株主のために自身が保有する国家=企業の利潤を最大化するよう務めなければならず、もし君主=CEOが国家=企業の経営に失敗した場合、国民=株主の多くはその君主=CEOが治める国家=企業を去り、別の君主=CEOが治める国家=企業に移住することになるでしょう。つまりここでは、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生することになります。
 
またヤーヴィンは進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義などといった今日における「グローバルな民主主義的イデオロギー」を〈普遍主義〉と呼び、これらの元を辿ればプロテスタンティズム、とりわけイギリス国教会に抵抗してアメリカ新大陸に渡ってきたピュータリタンの系譜に端を発しているとして、現在の西洋社会は〈普遍主義〉という名の〈カテドラル--大聖堂〉の支配下にあると主張します。
 
⑵ 生物学的多様性と分離主義
 
つづくPART2「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かっていく」ではギリシャを例にもっぱら経済的な面から民主主義の相対化が行われますが、その半ばからその歴史が辿られ始め、モールドバグの議論に依拠して民主主義が持つ根本的な宗教性が指摘され、この議論の過程でランドは民主主義、人種問題、宗教という三つの項目を一つなぎにして提示します。
 
そしてタイトルが欠如したPART3では民主主義、人種問題、宗教の三項に加えさらに国家権力の拡大という四つ目の項を接続します。またこのパートでランドはやはりモールドバグの議論を応用する形で、いわゆるヘイト・スピーチやヘイト・クライムの背景にある「憎悪(ヘイト)」という感情とは大聖堂への攻撃それ自体であり、その精神的導きに対する拒絶であり、この世界のあからさまな宗教的流れに対する精神的な反抗を意味していると主張します(なお、このパートのみタイトルを欠如させた理由としてはリベラル派が圧倒的に優位なこの状況下において、ここでの議論を一言でまとめることなど恐ろしくてとてもできないというある種のパフォーマンスであるといわれています)。
 
もっともこれは単なるレイシズムとは一線を画していることをランドは主張したいらしく続くPART4「ふたたび破滅へと向かっていく白色人種」ではホワイト・ナショナリスト(白人至上主義者)の議論を批判的に取り上げ、自身の依拠する新反動主義がいかにそれとは異なるかが説明されるが、その一方でランドは新反動主義者はある一点において彼らを評価するといいます。
 
その一点とはつまり「人間の生物学的多様性」なる観点です。要するにこれは知性にしろ外見にしろ何にしろ人は一人一人異なったものだ、という極めて当たり前の事実を科学的なデータに基づいて公理化したものであり、ここからランドは白人至上主義者や新反動主義者はそれを根拠にして例えば白人は黒人とは離れて生活するべきだといったような「分離主義」を展開します。
 
こうしたPART4での議論を受け4a以降では全体の議論からの「脱線」という形で執筆当時のアメリカを騒がせていたダービーシャー事件が取り上げられます。これはジョン・ダービーシャーというジャーナリストが科学的人種主義を含む新反動主義的な分離主義を主張する記事を公開したことで保守派の大手論説誌をクビになった事件でです。
 
そして最後の4f「生物工学的な地平へのアプローチ」においてランドはオクティヴィア・E・バトラーというSF作家の作品を参照して、遺伝子によって規定された「生物工学の地平」という存在論的限界を乗り越えるテクノロジーとしてゲノム編集に注目し、このようなゲノム編集が一般化すれば人種や性別といった概念は過去のものになり、人間はいまや自らが自分自身を創り上げる「怪物」になると主張します。ここではテクノロジーの力が社会や人間観のパラダイムを根本から変革するであろうとするランドの加速主義的な立場が打ち出されています。
 
⑶ 暗黒啓蒙の功罪
 
以上のようなランドの主張は当時アメリカで勢いを増していた「ティー・パーティー運動」と呼ばれる白人中流層を主な担い手とした保守運動を焚き付ける檄文として書かれたものです。従ってその内実は哲学のテクストというより政治的なアジテーションに近いものがあります。
 
それは要するに、彼らが「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶ民主主義や平等主義やポリティカル・コレクトネスといったリベラル的な価値観を破壊して、極大化した新自由主義の下で「特異点(シンギュラリティ)」に向かって資本主義とテクノロジーを猛然と加速させよということです。
 
このようなランドの介入が現実政治の中で実際のところどれだけ機能したかはよくわかりません。しかし、ドナルド・トランプ政権の誕生に象徴されるように、少なくともその後のアメリカ社会においてはリバタリアニズムへの期待とリベラルへの不信が高まったことは確かでしょう。
 
もちろん、どう好意的に解釈してもこのランドの主張に全面的に賛同することは難しいと言わざるを得ないでしょう。しかしながらこのようなテクストが一定程度、支持される要因の一つにリベラルが掲げる金科玉条的な「正しさ」への反発があることは明らかです。そうであれば「大聖堂」と名指されるリベラル的な「正しさ」も常に問いに付されなければならないこともまた確かであるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

セカイ・崇高・人文知--渡邉大輔『セカイ系入門』

* セカイ系の現在地

 
ゼロ年代における文芸批評シーンを賑わした「セカイ系」という言葉の出自は2002年10月31日に「ぷるにえブックマーク」というウェブサイトの管理人だった「ぷるにえ」という人物の執筆した「セカイ系って結局何なのよ」という掲示板のスレッドに遡ると言われています。そこでは「ぷるにえが一人で勝手に使っている言葉で大した意味はない」「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる」「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから『セカイ系』という名称になった」と説明されています。
 
その後、この「セカイ系」という言葉は文芸批評の分野において「物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」として定義されることになり、その代表作として高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』(1999〜2001)、新海誠氏のアニメーション『ほしのこえ』(2002)、秋山瑞人氏のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』(2001〜2003)が挙げられるようになります。
 
こうして「セカイ系」という言葉はゼロ年代半ばから後半にかけてオタク系文化の枠を超えて現代文化や現代社会を考えるためのキーワードとして広く注目を集めるようになります。その後、2010年代に入るとセカイ系に関する議論もいったんは落ち着きを見せる事になりますが、セカイ系作品の代表的作家の一人とみなされていた新海氏が手がけた長編アニメーション映画『君の名は。』(2016)の歴史的な大ヒットがきっかけとなり、再び「セカイ系」という言葉が注目を集めるようになります。
 
そして2020年代の現在でも「セカイ系」という言葉は現代におけるポップカルチャーを象徴するキーワードの一つとして廃れることなく使われ続けています。このように登場してから四半世紀が過ぎ、今やそれなりの歴史の厚みを持った「セカイ系」という言葉を現在の時点から改めて光を当て直して概説する一冊が本書『セカイ系入門』です。
 

* 改めてセカイ系とは何か、あるいは新世紀エヴァンゲリオン

本書はその第一章においてゼロ年代のセカイ系について包括的な整理と検討を加えた先行文献である前島賢氏の『セカイ系とは何か』(2010)を参照し、いま一度「セカイ系」という言葉の定義について再考します。『セカイ系とは何か』において前島氏はセカイ系をめぐる二つの難点に注目するところから話を始めています。
 
その一つ目は同書が執筆されたゼロ年代末の時点でセカイ系という言葉が大きな盛り上がりを見せていながら、その言葉の意味する内容が曖昧で混乱を招いている状況があるというものであり、その二つ目は先述したセカイ系の一般的な定義がその代表作と見做される個々の作品群に必ずしも正確に当てはまらないというものです。
 
前島氏はこうしたセカイ系理解をめぐる混乱を整理するために、当初のセカイ系という言葉に込められていた一つの歴史的文脈に注目します。それが最初にセカイ系という言葉が登場したスレッドで発案者のぷるにえ氏が記していた「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があ」る作品、つまり「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」という意味合いです。
 
ここでいう「エヴァ」とは言うまでもなく、1990年代のポップカルチャーを代表するテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜1996)を指しています。周知の通りエヴァは90年代後半に社会現象と呼べるほどの熱狂的なブームを巻き起こし、後続のさまざまなコンテンツに絶大な影響を及ぼすことになりました。
 
「ここで描かれるのは監督・庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものであったようにも見える」「観客へのサービス精神を放棄し、自分の内面に目を向けたことで、かえって幅広い共感を呼び、外に開かれてしまうという皮肉な事態は、内省の時代、自分探しの時代だった90年代を象徴する出来事と言えるだろう」と前島氏は述べています。
 
こうした歴史的文脈を踏まえ前島氏はセカイ系的な想像力を「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と新和的なジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」として再定義します。
 

* ゼロ年代セカイ系論壇再考

 
このようにセカイ系はいわば「ポスト・エヴァ」という歴史的文脈から出発した言葉でした。ところがセカイ系という言葉の定義については2003年前半ごろまでのネットでの議論のなかで当初の「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」から徐々に「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」へと変化していき、こうしたネット上の流行としてのセカイ系はこの2003年前半がピークであり、その流行は年末には早くも収束してしまいます。しかしその直後あたりからセカイ系は文芸批評の分野でにわかに注目され「延命」していくことになります。
 
この点、前島氏は『セカイ系とは何か』において当時の笠井潔氏、東浩紀氏、佐々木敦氏らの議論を確認し「2004年の時点で、セカイ系は、すでにぷるにえの定義を離れ、エヴァっぽい=自意識ではなく、構造によって規定され、またその典型も『イリヤ』になっている点が確認できる」と総括し、当時のセカイ系論壇において「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点が欠けるようになってしまっている」「結果としてセカイ系は、それぞれが自身の肯定(あるいは否定)したい作品につけるマジックワードと化し、そしてまた各々の論者が、その意味づけをめぐって独自の論を立て合う言葉となってしまった」と指摘しています。
 
こうした前島氏が描き出したセカイ系史観は現在のセカイ系理解に大きな影響力を与えています。これに対して本書は「2004年の時点で、セカイ系は、すでにぷるにえの定義を離れ、エヴァっぽい=自意識ではなく、構造によって規定され」「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点が欠けるようになってしまっている」とは必ずしも言えないといい、ここから前島氏が参照している笠井氏らの文献を改めて細かく読み直し、当時のセカイ系論壇においても少なくともセカイ系の意義をはっきりとエヴァとのつながりにおいて語っていたことを確認して行きます。
 
こうした再検討を経て本書は2002年に誕生したセカイ系という言葉が持っていた「ポスト・エヴァ」的なニュアンスが、その後のセカイ系評論の盛り上がりの中で完全に非歴史化されてしまったわけではなく、少なくとも2000年半ばごろまでは「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点」がはっきりと加味されていたと述べています(なお本書の見立てではセカイ系論壇から「『エヴァ』によるパラダイムシフトという視点」がかなり明確に抜け落ちていくのはもっと後の2007年ごろだとされます)。
 

* ポストモダンとセカイ系

 
いずれにせよ2020年代の現在においてもセカイ系の一般的な定義は相変わらず「きみとぼく」といった小さな日常と「世界の終わり」といった大きな非日常が直結して、その中間項が抜け落ちている物語として理解されています。なぜかくもこうした一見すると奇妙な定義がいまだに大きな影響力を持ち続けているのでしょうか。この点、本書はこの定義が平成期の現代思想や文化批評で支配的パラダイムとなっていた「大きな物語の終焉」というポストモダン論の主張と極めて重なるところがあったからであるといいます。
 
ここでいう「大きな物語の終焉」とはフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件』(1979)で提起した概念で、社会をひとつに束ねる超コード的な理念や価値の体系(=大きな物語)が急速に力を失った状態を指しています。そして、こうした「大きな物語の終焉」はゼロ年代のセカイ系論壇において、やはりポストモダン論に大きな影響を及ぼしたフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提示した「想像界・象徴界・現実界」という審級区分における「象徴界の機能不全」として捉えられることになります。
 
こうしたことからセカイ系の一般的な定義はラカンのいう象徴界(中間項)が機能不全を起こした結果、想像界(きみとぼく)と現実界(世界の終わり)が直結している状態として把握され、ここからセカイ系はただのサブカルチャー界隈における一時的な流行ではなく、ポストモダン状況が加速する現代の世界像を見事に反映した物語であるという議論が出てくることになります。セカイ系の一般的な定義がこれまで広く支持されてきた理由とはこうした思想的背景に求めることができるでしょう。
 
もっとも本書も指摘するように、このような現在流通するセカイ系の一般的な定義に通じる要素はもともとぷるえに氏の定義の中に内包されていたと言ってよいでしょう。そもそもぷるにえ氏はセカイ系を「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」と並び「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向があ」ると説明しています。ここでいう「たかだか語り手自身の了見」が「『世界』という誇大な言葉」で表現されてしまうとは、まさに想像界と現実界の短絡に他ならないでしょう。
 

* セカイ・崇高・人文知

 
以上のような第一章の議論を踏まえて本書はセカイ系の一般的な定義を「セカイ系」と記し、これに対して前島氏が『セカイ系とは何か』で提唱した「ポスト・エヴァ」という歴史的文脈に基づいた狭義の定義を〈セカイ系〉と記し、この区分を前提として、続く第二章と第三章においてはゼロ年代から現在に至るまでのセカイ系の歴史を改めて追っていくことになります。
 
さらにここから本書ではセカイ系という言葉をオタク系文化という文脈から離れて、より広いパースペクティヴにおいて批評的に捉え直す議論が展開されます。第四章と第五章においては前半で示した見取り図を踏まえて「セカイ系的なもの」の歴史の再構築が文学や映画の分野から試みられます。このように本書はセカイ系という言葉をゼロ年代に流行ったいちジャンルという枠組みから解き放ち、普遍的な批評概念へ練成していく試みであるともいえます。
 
そして最後の第六章では2020年代=令和の時代における「セカイ系的なもの」の可能性が近代美学における「崇高 subline」という概念との関連から論じられる事になります。ここでいう「崇高」とは西洋の伝統的な美学的カテゴリー(美的範疇)の一つであり、一般的にそれは巨大な対象、恐ろしい対象、曖昧な対象などを目にした際の人間の感情に結び付けられ、18世紀以降ロマン主義の思潮の中でしばし「美」の対概念として定式化され、エドマンド・バーグやイマヌエル・カントらの思想家によって論じられてきたものです。
 
本来「世界の終わり」や「この世の終わり」という抽象的なセカイに直面する「きみとぼく」を描くセカイ系は絶対的な超越性や畏怖の念を含む「崇高」の概念と親和性があるといえるでしょう。しかし今日の文化的な想像力やコンテンツの本質にはそうしたかつての超越性や崇高の手触りが希釈化されており、ここに本書は現代のセカイ系的なものの変容の兆候を見てとっています。
 
ここから本書は哲学研究者の岩内章太郎氏の議論を参照し、これを「高さ」の喪失として論じる一方で、美学研究者の星野太氏の議論を参照し「いわゆる崇高=超越的な崇高」とは別に西洋の崇高論の中に垣間見える「内在的な崇高」という概念から2020年代における(ポスト)セカイ系の想像力を論じます。
 
こうした一連の議論は「セカイ系」という言葉で刺し止められる感性の働きが伝統的な美学や哲学のパラダイムを問い直す契機になっていることを示しているといえます。こうした意味で本書『セカイ系入門』は文字通りのセカイ系入門であると同時に、現代における人文知のパラダイムを更新する新たな可能性を照らし出す一冊であるともいえるでしょう。