かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

このディストピアを肯定するということ--「とある科学の超電磁砲(第1期/第2期)」

 

 

 

* 「サヴァイブ系」と「日常系」を架橋する想像力

 
周知の通り本作は「とある魔術の禁書目録」のスピンオフです。ゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流の中でいえば「禁書」がいわば典型的な「サヴァイブ系」の想像力をベースにしているのに対して、本作は禁書の世界観を引き継ぎつつも、そこに「日常系」の想像力を導入していると言えます。
 
本作が本家禁書を凌駕する人気を誇るのは「サヴァイブ系」への批判力としての「日常系」の台頭というゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流を物語レベルで内在化させる事に成功したからなのでしょう。
 
 

* 異質な他者の間における関係性のあり方

 
本作の舞台は総人口230万人の内8割を学生が占める「学園都市」。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。
 
本作の主人公、御坂美琴は、学園都市でも7人しかいないレベル5の1人であり「超電磁砲(レールガン)」の通り名を持つ。御坂は後輩の白井黒子初春飾利佐天涙子達と共に学園都市で起こる様々な事件を解決していく。
 
この点、御坂・白井と初春・佐天の間にはエリート/ノンエリートの断絶があり、また白井・初春と美琴・佐天の間にも風紀委員/一般人の断絶があります。
 
いわば超電磁砲メンバー4人はそれぞれが異なる世界を生きる他者といえます。本作が描き出すのはこうした異質な他者の間における関係性のあり方といえます。
 
 

* 園都市の光と闇

 
本作の舞台となる学園都市はICTやAI、再生エネルギーを駆使する未来都市というユートピア的側面と、厳格な監視社会、苛烈な格差社会というディストピア的側面を併せ持っている。
 
こうした学園都市の光と闇はグローバル資本主義環境管理型権力といったシステムが支配する現代社会の構図とパラレルに捉えることもできるできます。
 
このように捉えた場合、木山春生や布束砥信は己の正義からシステムに叛逆する点でテロリストの立ち位置に近く、テレスティーナ=木原や有冨春樹らスタディは己の欲望からシステムを利用する点でカルフォルニアン・イデオロギーの立ち位置に近い。
 
では、こうした中で御坂の立ち位置はどこにあるのでしょうか。
 
この点、第2期前半「妹編」での御坂は事態を一人で抱えこんでしまい学園都市の闇の中で孤軍奮闘するが、後半「革命未明編」での御坂は前回の反省から皆に事態の真相を打ち明けて助力を乞います。
 
このようなコントラストが表すように、本作が強調するのは他者間における連帯の可能性です。こうしたことから、本作における御坂達は「マルチチュード」の立ち位置に相当するように思えます。
 
 

* 「帝国の体制」と「マルチチュード

 
マルチチュード」とは、今世紀初頭に出版され世界的ベストセラーとなった「〈帝国〉」においてアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが概念化した現代における新しい市民運動のスタイルです。
 
まず、ネグリたちは現代においては「国民国家の体制(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国の体制(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつある指摘する。
 
この「帝国の体制」というフィールド上には、国家、国際機関、非営利組織、企業、個人などが並列的なプレイヤーとして配置されることになります。
 
そして、こうした「帝国の体制」を逆手にとり、帝国内部のインフラ、ネットワークを積極的に活用する新しい市民的連帯の形を、ネグリたちはスピノザの哲学を参照して「マルチチュード」という概念で肯定的に捉えました。
 
本作終盤においてテレスティーナが御坂に対して言い放った「学園都市は実験場、生徒はすべてモルモット」「その実験動物にすらなれない連中の闇がどれだけ深いか」という言葉は「帝国の体制」の本質の端的な比喩と言えます。
 
これに対して御坂は「それでも私はこの学園都市を嫌いになれない」と言う。そして超電磁砲メンバーを始め、ミサカネットワーク、婚后航空、さらには一般学生達といった学園都市内の多様なプレイヤー達と連携し、まさしく「帝国の体制」に「マルチチュード」の力で抗っていくわけです。
 
 

* このディストピアを肯定するということ

 
もちろん、こうした御坂達の奮闘にも関わらず学園都市の闇の深さはは1ミリも変わらない。これからも御坂達は学園都市という実験場でモルモットとして生きて行かなければならないわけです。
 
けれども祝祭感に満ちた最終話が象徴するように本作が打ち出すメッセージは世界の限りない肯定です。こうした本作の想像力は現代における幸福感と大きく共鳴しています。社会学者の古市憲寿氏は「絶望の国の幸福な若者たち」において、ゼロ年代以降前景化してきた若年世代の捉えどころのない幸福感の源泉を「コンサマトリー化」と「仲間の存在」にあると分析しています。
 
すなわち、この不安と閉塞に満ちたディストピア的現実を生き延びる最適解は「ここではない、どこか」を夢想することではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねていく幸福感受性の深化にあるということです。こうした現実が良いか悪いかは別として、いずれにせよ本作は「幸福の規制緩和」というべき今の時代に必要な想像力をウェルメイドな物語として示していると言えるでしょう。
 
 
 

「きずな」と「生きづらさ」の間--「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序・破・Q」

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]

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* エヴァとは何だったのか

 
戦後50年目にあたる1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。
 
この年においては、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。
 
この1995年以降、日本社会においてポストモダン状況がより加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールによれば「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定されます。
 
ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系を言います。消費化情報化の進展する現代社会においては、こうした「大きな物語」が機能しなくなり、何が正しいかわからない時代が幕を開ける。
 
そして、こうした時代の変わり目においてポストモダンにおける「他者」との関係性を正面から問うたのが新世紀エヴァンゲリオン」という作品だったと言えます。
 
 

* 「おめでとう」と「キモチワルイ」

 
周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。
 
TV版と劇場版。この二つのエヴァの物語において提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」のモデルでした。
 
この点「おめでとう」という他者は承認を与える「他者性なき他者」です。これに対して「キモチワルイ」という他者は拒絶を貫く「異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。
 
すなわち、もはや何が正しいか分からない中、人はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。
 
こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という命題、言うなれば「エヴァの命題」に規定されることになります。
 
 

* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

 
この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。
 
こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には、「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。
 
けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。
 
 

* エヴァとは「覚悟の話」

 
こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動した。庵野氏は所信表明においてエヴァとは「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと述べました。
 
まず第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、シンジやミサトの台詞の言い回しなどに僅かながら変化の兆しが見て取れます。
 
そしてその後「序」に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。
 
 

* 「きずなの物語」としての「破」

 
第2部「破(2009)」においては新たなキャラクター、マリが登場、またネブカドネザルの鍵など新たな謎も投入され、TV版と異なるストーリーが展開していきます。
 
しかし何より驚かされるのが「破」におけるシンジ、アスカ、レイの変化です。
 
かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていました。精神科医斎藤環氏は旧エヴァのシンジを「ひきこもり」、アスカを「境界性人格障害」、レイを「アスペルガー症候群」と評しています。
 
しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。端的にいうと今回の3人は「周りが見えている」という事です。
 
こうした「破」の変化は上に述べたゼロ年代サブカルチャー文化圏におけるセカイ系」から「ポスト・決断主義」に至る想像力の変遷と明らかに共鳴を示しています。
 
すなわち、エヴァは自らがかつて示した「物語において他者をいかに描くか」という命題に対する時代の回答を一旦は率直に受け入れて見せた。それが「破」の物語である。そういう言い方もできるかもしれません。
 
結果「破」は極めて洗練されたウェルメイドな「きずなの物語」に仕上がっている。世界は限りなく眩しく瑞々しい。この日常にこそ尊い価値がある。他者とは分かり合える、手を取り合える。「破」ではこうしたポジティブなメッセージが鮮明なまでに打ち出されています。
 
ここに我々はエヴァの物語を前に進めようとする庵野氏をはじめとする製作サイドの意思を見出すべきなのでしょうか?
 
しかし周知の通り、こうした「明るいエヴァ」のツケは次作できっちり払うことになる。ゆえにむしろ「破」で示された数々のポジティブなメッセージはすべて観客を欺く巨大なルアーであったという可能性も未だ否定できないわけです。
 
 

* 「生きづらさの物語」としての「Q」

 
第3部「Q(2012)」が描くのは前作から14年後の世界です。反NERV組織「ヴィレ」を結成したミサト達。「エヴァの呪縛」で成長しないアスカ。前作までのレイとは別人のアヤナミレイ(仮称)。「ゼーレの少年」と呼ばれる渚カヲル。旧姓が「綾波」に変更されたユイ。ゲンドウやユイの古い友人であることを匂わせるマリ。よくわからない謎が次々と現れ観客を困惑させる。
 
もっとも「Q」の物語自体は割とシンプルです。端的に言えば、本作で描かれるのは三幕形式で展開するシンジの絶望です。
 
序盤のシンジは「ヴィレ」のメンバーから疎外され絶望する。中盤のシンジは「ニアサードインパクト」で世界を破滅させていたばかりか、レイさえも救えていなかった事に絶望する。終盤のシンジは性急に槍を引き抜いた結果、カヲルが惨殺され「フォースインパクト」を発動させて絶望する。
 
こうした「Q」で描かれる徹底した絶望はゼロ年代的想像力へのアンチテーゼのようにも見えます。
 
前述したようにゼロ年代的想像力が開こうとしたのは「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく可能性でした。
 
こうした想像力はある種の社会的紐帯への希望を生み出すかもしれません。しかしその一方で、こうした想像力が様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断された現代日本社会の現実を隠蔽する装置として機能することもまた確かです。
 
すなわち「破」がゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」ゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。
 
この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。
 
ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。
 
 

* 時に、西暦2020年

 
そして前作から7年あまりが過ぎました。いま平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。
 
 

「居場所」を見出すということ--「この世界の片隅に(こうの史代)」

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

* 綿密に描き出される戦時下の日常

 
こうの史代さんという人は元々はかわいい女の子のゆるい日常を描く「萌えショートストーリー」のようなものが描きたくて漫画家なったらしく、本作も形式こそ4コマでは無いものの、そのテンポ感はいわゆるまんがタイムきらら的な「日常系」に極めて近いものを感じます。
 
本作は戦時下の日常を細やかに描きだし、その隙間に脱力した笑いを配置していきます。本作の数々の日常描写は当時の配給事情や食料事情の綿密な調査に基づいており「楠公飯」をはじめとした「戦時レシピ」はこうの氏自身が実際に作ったみたという徹底ぶりです。
 
本作の描く「日常」がどこまで当時の一般的な日常だったのかはわかりません。けれどもこうした描写のひとつひとつが「あの戦争」と今の時代は地続きの日常であるという当たり前の事実を我々に再認識させるわけです。
 

* あらすじ

 
昭和18年12月、18歳の浦野すずは草津の祖母の家で海苔すきの手伝いをしている時、突然縁談の知らせを受ける。
 
急ぎ帰宅したすずが窓際から覗き見た相手は、呉から来た北條周作という青年だった。翌年2月、呉の北條家に嫁いだすずの新しい生活がはじまる。
 
いつもぼんやりしていて危なっかしいすずは、北條家で失敗を繰り広げながらも、次第に周囲の人々に受け入れられていく。
 

* 居場所のなさ

 
原作中盤ですずは遊郭で生きる女性、リンと知り合い交流を深めます。リンはかつて幼き日のすずが祖母の家で遭遇した「ザシキワラシ」です。
 
栄養不足と過労による戦時下無月経症と診断され「ヨメのギム」を果たせるか悩むすずにリンは「誰でも何かが足りんでもこの世界にそうそう居場所は無うなりゃせんよ」と言う。
 
リンのこれまでの艱難辛苦の経験がそう言わせるのでしょう。そして、ここでリンが言う「居場所」という言葉は本作においては極めて重い意味を持ちます。
 
本作が前半で細やかに描き出した日常は、後半で容赦なく破壊されていく。すずは時限爆弾の爆発に巻き込まれ義理の姪である晴美を死なせてしまい、自身も右手を失ってしまいます。
 
異郷の嫁ぎ先ですずを慕ってくれる妹のようでも娘のようでもある晴美はすずに間違いなく「居場所」を差し出していた存在でした。また、すずは右手を失うことで絵が描けなくなり、世界の中に自らの「居場所」を描き出す手段を失ってしまったわけです。
 
よく知られているように、すずが右手を失って以降の本作の背景はほとんどが左手で描かれています。こうした左手で描き出された歪んだ世界の中で、すずが直面しているのはまさしく「居場所のなさ」です。
 
「居場所のなさ」。あの戦争が多くの人から奪ったのはまさしく「居場所」という人の生を規定する物語だったのではないかと。そう本作は問うているように思えるんです。
 
そして、こうした「居場所のなさ」から生じる感情が「生きづらさ」です。これは現代を生きる我々にもある程度、理解可能な感情ではないでしょうか。すなわち、本作は「生きづらさ」という比較的身近な感情を媒介項として「あの戦争」に思いを至らせることができるわけです。
 
 

* 「記憶の器」として在り続けるということ

 
故郷である広島への原爆投下。終戦を告げる玉音放送。破壊された日常、出会い損なった記憶、飛び去った正義。
 
様々な喪失をすずは「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事で乗り越える。忌まわしい記憶から目を背けず思い出を手放さないという選択です。
 
そして広島で偶然出会った原爆孤児を引き取ろうと決めた時、すずの世界は再び色彩を取り戻す。
 
このような本作の結末は戦後の一時期盛んだった原爆孤児国内精神養子運動とも大きく共鳴しています。すずと孤児を繋げたのは互いの境遇に想いを至らせる想像力でした。こうしてすずは新たなめぐりあわせを得ることで再び「居場所」を見出す事ができたわけです。
 

* 自然主義的リアリズムが生み出す共感

 
周知の通り、本作は2016年にクラウドファンディングという当時としては斬新な資金調達により映画化され、累計動員数は210万人、興行収入は27億円を突破。ミニシアター系作品としては異例の大ヒットを記録しました。
 
監督を務めた片渕須直氏は原作を読むや否や「これをアニメーションにしない手はないし、他のひとに委ねたくない、絶対に自分でやらなければいけない」と確信したらしく、映画の製作にあたっては徹底的な調査が行われ、当時の広島や呉の風景が恐るべき精密さでシュミレートされます。
 
このような「風景のリアリティ」を追求する手法は「アルプスの少女ハイジ(1974)」で高畑勲氏が確立した日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」に由来します。
 
自然主義的リアリズム」に基づく空間演出は写実的な背景と記号的なキャラクターの間にインタラクションを生み出すことで、キャラクターに「まさにそこに立っている」という確かな存在感、実在性を与えると言われます。そういった意味で本作映画は戦後の日本アニメーションが築き上げてきた伝統の到達点に位置しています。
 
こうして徹底的に再現された当時の風景は映画と現実の壁を融解させていく。いわば半ば戦時日常ドキュメンタリーというべき本作は、次第に遠ざかりつつある「あの戦争」とこの現代を歴史的記述でもイデオロギーでもない「共感」という名の想像力によって接続していると言えるでしょう。
 
 
 
 

正義に狂うということ--「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語」

 

 

 

* 傑作か?問題作か?

 
魔法少女まどか☆マギカ」。周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが生み出した現代アニメーションの総決算。
 
2011年、あの東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな社会的反響を呼び起こし、最終回放映後には特集記事が世に溢れかえり、同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。「まどかの物語」はまさしく記録と記憶の両方に残る作品となりました。
 
本作はその正統な続編となる完全新作劇場版であり、公開前から大きな注目を集めていました。果たして本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破した。
 
映画としてみれば本作は紛れもない圧倒的傑作と言うべきでしょう。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。
 
ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になります。
 
 

* あらすじ

 
鹿目まどか美樹さやか巴マミ佐倉杏子、そして暁美ほむらは5人組の魔法少女ユニット「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」として人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」退治に明け暮れていた。
 
見滝原で繰り広げられる多忙で騒がしくも、ある意味で幸せな日々。しかしほむらはこうした日々に徐々に違和感を覚え始める。
 
「私たちの戦いって、これで良かったんだっけ?」
 
(本作より)

 

 
真相を見極めるべく調査に乗り出すほむら。結果、この見滝原は「魔女の結界」の内部にある偽りの閉鎖空間であり、しかもそれを創り出したのは他でもなく、魔女となったほむら自身であったことが判明。そしてそこには効率的な感情エネルギーの収集方法の確立を目論むキュゥべえインキュベーターの思惑が関与していた。
 
かつて、ほむらとの会話の中で「魔女」と「円環の理」の存在を知ったインキュベーターはその存在を検証するべく、外部の干渉を遮断するフィールド内にほむらのソウルジェムを隔離して、その経過を観測していたのであった。
 
インキュベーターの目的は「円環の理」の制御である。キュゥべえは、ほむらに対して「円環の理」に救済を求めるよう促す。しかしインキュベーターの思惑に激昂したほむらは「円環の理」の救済を拒絶。ただ魔女としての破滅を選ぶ。
 
しかしその時、まどか、さやか、マミ、杏子、なぎさがほむらを救うべく動きだす。かつて魔女であったさやかとなぎさは「円環の理」の記憶と力を秘かに預かっていた。結果、干渉遮断フィールドは破壊され、インキュベーターの企みは失敗に終わる。
 
こうして「円環の理」の記憶と力はまどかに戻る。そして今まさに、ほむらは「円環の理」に導かれる----はずであった。
 
ところが物語はここから反転する。まどかが、ほむらのソウルジェムに手を差し伸べたその瞬間、ほむらは不敵な笑みを浮かべる。
 
「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」
 
(本作より)

 

 
あろうことか、ほむらは「円環の理」からまどかの人間としての記録を切り離してしまう。
 
そして、ほむらのソウルジェムはダークオーブへと変貌する。こうして「悪魔」となったほむらは世界を改変する。状況理解に苦しむキュゥべえに対してほむらは高らかに宣明する。
 
「あなたに理解できるはずもないわね、インキュベーター
 
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの----愛よ」
 
「たしかに今の私は魔女ですらない。あの神にも等しく聖なるものを貶めて蝕んでしまったんだもの」
 
「そんな真似ができる存在は----もう悪魔とでも呼ぶしかないんじゃないかしら」
 
(本作より)

 

 

* まどか奪還計画

 
本作のキーパーソンであるほむらの行動原理は解り辛いところがあり、一見、支離滅裂ですらあります。
 
ただ、ほむらの「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」という言葉を文字通り受け取るのであれば、ほむらはかなり以前から「まどか奪還」の計画を周到に準備していたと解釈したいところです(直前までほむらはこの記憶を喪失していたという理解です)。
 
つまり、ほむらは本作以前のどこかの時点で魔女化の際に生じる莫大なエネルギーを使って「円環の理」からまどかの記憶部分を切り離すというアイデアを思いついていた。
 
そこで「円環の理」に回収される前に魔女化を可能とする装置を開発させるべく、キュゥべえにそれとなく「魔女」と「円環の理」の存在を示唆しておいた(これが前作ラストです)。その後、果たしてキュゥべえは干渉遮断フィールドを完成させる。
 
もちろんほむらは魔女化後、干渉遮断フィールドを脱出する必要がある。そこでほむらは自らの結界に魔法少女達を召喚する(ただ、さやか達が円環の理の記憶を密かに預かっていなかった場合はどうするつもりだったのかという疑問はやはりあるわけでして、この辺は一種の賭けだったのかもしれません)。
 
結果、皆の力で干渉遮断フィールドは破壊され、ほむらは現実世界への脱出に成功する(この辺りでほむらの記憶は完全に戻る)。こうして、ほむらは満を持して「円環の理」と接触し、まどかの記憶部分を切り離す。
 
そしてその後は仕上げとして悪魔化のパフォーマンスでキュゥべえにトラウマを植え付け、以後「円環の理」に絶対に手出し出来ないようにした。
 
この解釈を取る場合、本作のほむらの行動原理の支離滅裂さもある程度は説明可能となります。このようにもし本作の筋書きが全ては初めからほむらの目論見通りであったとすれば、恐るべき周到さです。まさしく文字通りの、悪魔の所業としか言いようがないでしょう。
 
 

* ほむらの「愛」をどう読み解くか

 
もちろん上記のようにほむらの意図を解釈したところで、それでも普通に観る限りは本作が後味の悪い結末である事は変わりないでしょう。
 
本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られます。果たして本作は一体、何を示そうとしたのでしょうか?
 
ほむらはまどかが崇高な願いによって作りあげた秩序を自らの狂った欲望で破壊したわけです。そしてこれを事もあろうに、ほむらは「愛」などと嘯く。こんなものが愛であってたまるか。わけがわからないよ。
 
本作をコンスタンティヴ(事実確認的)に読解する限り、おそらくはこういう感想になるのではないでしょうか。
 
しかし本作をコンスタンティヴとは別の水準で、つまりパフォーマティヴ(行為遂行的)に読解した時、そこにはまた別の側面が見えて来るのではないでしょうか。
 
 

* 正義に狂うということ

 
ここで本作を理解する補助線となるのがフランスの哲学者、ジャック・デリダの「脱構築」の理論です。
 
デリダハイデガーの「解体」の概念をモチーフとして、様々な形而上学的二項対立の欺瞞性を暴露する「脱構築」というテクスト読解技法を提唱しました。
 
そしてデリダによれば法は脱構築可能であるが、正義は脱構築不可能であるといいます。
 
すなわち、法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで特定の秩序を構築する。しかし法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり創設した暴力的な営みに他ならない。デリダが言う所の「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」です。
 
つまり法とはいわば「決定不可能なもの」を暴力的に決定した産物に他ならない。そうであるがゆえに法は脱構築可能なものとなります。
 
一方、正義とはデリダによれば「まったき他者」への応答であり、普遍性と特異性の究極的両立の地平にあります。すなわち正義への到達とはもとより不可能な所業です。従って正義は脱構築不可能なアポリアであると言えます。
 
しかしデリダはこのアポリアを引き受ける事こそが正義の条件であるといいます。つまり、脱構築とはアポリアとしての「正義に狂う」という事です。
 
 

* 「ハッピーエンド」という欺瞞

 
まどかの作り出した「円環の理」はまさに「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」によって創設された「法」に他なりません。
 
すなわち「円環の理」とはいわば「希望と絶望の形而上学」であり、ほむらはこれを「愛」の名の下に脱構築したわけです。
 
結果、新たな世界の中で、まどかはもちろん、さやか達も日常へ還り、平凡で幸福な日々が戻ってきた。一方、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使される。
 
これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずです。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずです。
 
しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらの「欲望」はまどかの「秩序」にきっぱりと拒絶される。そして、ほむらはまどかと世界を狂わせた責任を引き受けてひとり「魔なる者」として孤独に生きていく。
 
こうして見ると本作の後味の悪さはむしろ「ハッピーエンドの物語」の形而上学的欺瞞を暴露していると言えるでしょう。
 
 

* 「正しくなさ」という正義

 
もはや社会全体を規定する共通の価値観である「大きな物語」が失墜した現代において人は無根拠を承知でそれぞれが任意の「小さな物語」に寄り縋って生きていくしかない。
 
いまや誰かを救うとは誰かを救わないことであり、誰かの希望は誰かの絶望でしかないことは自明の前提となった。
 
こうして何が「正しさ」なのかがわからなくなった時代における正義とは「正しさ」ではなく、むしろ「正しくなさ」を主体的責任の下で引き受ける決断に他ならない。
 
このような時代性の中で本作をパフォーマティヴに読解した時、我々はほむらの末路にひどく気高い正義の在り処を見る事ができるのではないでしょうか。
 
 
 
 

否定神学の特異点--「意味がない無意味(千葉雅也)」

 

意味がない無意味

意味がない無意味

 

 

 

* 〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉

 
「勉強の哲学」で一世を風靡したかと思えば「デッドライン」で野間文芸新人賞を受賞。自己啓発本から文学作品まで多彩な才能を発揮する気鋭の哲学者、千葉雅也氏の批評集です。
 
本書の核心となるキーワードは〈意味がない無意味〉です。その対概念となるのは〈意味がある無意味〉です。
 
〈意味がある無意味〉とは意味の多義性の源泉となります。我々は何についても何かしらの意味を見出してしまう。例えばトマトであれiPhoneであれ人生であれ、様々な見方次第で対象の意味は無限に生じます。
 
つまり、あらゆる対象は「意味が無限に過剰な多義的なもの」であり、我々が対象についてどれだけ語り倒そうが対象の意味を完璧に把握することは不可能であり「意味の残滓」は常に残るわけです。
 
 

* ラカン的構図

 
こうした〈意味がある無意味〉の典型例として本書が念頭に置くのはラカン精神分析理論です。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは、その独創的な理論により精神分析のみならず現代思想史にも絶大なインパクトを与えたことで知られています。
 
ラカンの理論展開は時期によってかなり変動していますが、ここで本書がさしあたり念頭に置いているのは1960年代までのラカン理論です。
 
ラカンは基本的に人の精神活動を次の3つの次元で捉えます。イメージの次元である「想像界」。言語の次元である「象徴界」。そして、イメージでも言語でも捉えられない「現実界」。
 
この「現実界」が本書のいう〈意味がある無意味〉に当たります。
 
つまり我々の認識システムは「現実界」という「穴」を中心にぐるぐると旋回しているということです。これを本書は「ラカン的構図」といいます。
 
ここでラカンのいう「現実界」とは、近代哲学の源流であるイマヌエル・カントがいう「現象」の外部に存在する「物自体」に相当します。
 
この点、ラカンは1964年に行われたセミネール「精神分析の四基本概念」において「対象 a 」という概念を使い「現実界」を制御するための理論を完成させています。
 
つまり、ここで示されたラカンの理論は、当時の最も革新的な精神分析理論であると同時に、最も洗練された近代哲学でもあったわけです。そしてその輝きと有効性は現在においても未だ失われてはいないでしょう。
 
 

* 〈意味のある無意味〉の限界性

 
けれども一方、グローバル化、ネットワーク化、ポストモダン化がますます加速する現代社会への哲学的対応としては、もはや「ラカン的構図」だけでは不十分であることもまた確かです。
 
まず「ラカン的構図」の中心にある〈意味のある無意味〉だけに囚われてしまった時、人は無限に増殖される意味の中で一歩も動けなくなります。
 
例えば亡き恋人との思い出にとらわれて新しい出会いに踏み切れない人というのはまさに〈意味がある無意味〉に取り憑かれた人です。
 
これならまだ美しい話なのかもしれませんが、問題はとんでもないものに〈意味がある無意味〉を見出してしまう場合です。
 
例えばカルト思想、ブラック企業、DV配偶者。こうしたものからなかなか抜け出せない縁が切れないという事例などを考えてみればわかるように〈意味がある無意味〉への執着は時に悲劇をもたらします。
 
そこまでいかなくても、例えば「一流大学を出て一流企業に入り、それなりの家庭を持つことこそが人生の幸福である」という昭和的なロールモデルに〈意味がある無意味〉を見出してしまい、そのプロセスのどこかで挫折した時、多くの場合、〈意味がある無意味〉は「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。
 
要するいまや〈意味がある無意味〉の哲学だけではかなり苦しいということです。
 
あらゆる状況や価値観が夥しく出現しては目まぐるしく流転していく現代社会においていまや、何かしらの特定の対象に〈意味がある無意味〉を見出し人生全てを預けてしまう如き態度は、相当にリスクを伴う生き方と言わざるを得ない。
 
こうしたことから現代においては〈意味がある無意味〉を相対化させるための哲学が要請されているわけです。
 
 

* 「否定神学システム」と「郵便的誤配」

 
この点、東浩紀氏は「存在論的、郵便的(1998)」において、上に述べたような「ラカン的構図」を「否定神学システム」と呼び「現実界」を相対化するための思考として「郵便的誤配」の概念を提出する。
 
ラカンはあらゆる意味が現実界を巡っていることの必然性を「手紙は常に宛先に届く」と表現しました。これに対して、ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者、ジャック・デリダは「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」と応答しています。
 
そして、東氏はある時期のデリダの著作の読解を通じて、単数的穴である「現実界」ではなく、複数的他者の交差する「端的な現実」におけるコミュニケーションの誤配(すれ違い)の中に超越性を見出すことでラカン否定神学システムの乗り越えを試みます。
 
 

* ゼロ年代のフランス現代思想

 
またゼロ年代のフランス現代思想の潮流も、東氏とは別のアプローチでラカン否定神学システムへの対抗軸を示しています。
 
例えば、千葉氏が師事したカトリーヌ・マラブーは脳神経に物質的な変化や障害が起きれば、その「可塑性(外因的変化)」によって精神は変容を強いられるといい、ラカンの「現実界」とは別に「物質界」を位置付けます。
 
また「思弁的実在論」の論者として有名なカンタン・メイヤスーは、カント的な認識論(つまりはラカン否定神学システム)を「相関主義」といい、この相関主義の外部にある「思考不可能な実在」が非合理的な「信仰主義」の拠点となるとする。
 
そして、メイヤスーは「思考不可能な実在」とは別に「思考不可能ではない実在(物質的世界)」を措定し、この世界のあり方に必然性はなく、全くの偶然性で別様の世界に変化する可能性もあるし、このまま世界が維持されるとしてもそれは偶然の結果に過ぎないという思弁的な結論を導き出す。
 
 

* 特異点としての〈意味がない無意味〉

 
マラブーにせよメイヤスーにせよ、共通するのはラカン否定神学システムの外側に特異点を見出しているという事です。
 
そして、同様の視点からポスト構造主義の代表格と目された哲学者、ジル・ドゥルーズを読み直す試みとして、千葉氏のデビュー作となる「動きすぎてはいけない」は位置付けられるでしょう。
 
氏はここで「意味過剰から非意味的切断へ」というテーマを強調する。つまり無限に展開する意味のネットワークを非意味的に切断することで有限の意味を切り出していく。
 
この「非意味的切断」が本書のいう〈意味がない無意味〉に相当します。
 
つまり〈意味がある無意味〉とは意味の世界のリミットを成すブラックホールのような穴です。この穴に向かって「意味の雨」が延々と降り続けている。あるいはこの穴の周りを空回りするようにして我々は日々「意味」を生産し続けている。
 
これに対して〈意味がない無意味〉とは〈意味がある無意味〉から生じる「意味の増殖」を止める端的な無意味です。いわばブラックホールの蓋のようなものです。
 
こうして〈意味がない無意識〉により事物の意味を有限化することで「これはこうだからこうする」という「行為」が可能となる。
 
そして「行為」とは「身体」によってなされます。すなわち、穴に向かって無限に降り注ぐ「意味の雨」を「身体」で跳ね返すということです。こうして本書は〈意味がない無意味〉の基点に「身体」を位置付けます(ここでいう「身体」とは肉体の他、物質、集合、形態を含む広義の「body」の事です)。
 
また「身体」とは「現実」とも言い換えられます(「現実界」ではない「端的な現実」)。ドゥルーズは潜在性と現実性のうち潜在性にプライオリティを見出していましたが、本書はこの構図を反転させエネルゲイア的現実にプライオリティを見出しているわけです。
 
 

* 「わからなさ」を「わかる」ということ

 
こうして〈意味がない無意味〉とは〈意味がある無意味〉を中心としたラカン否定神学システムの外側にある特異点であり、その基点となるのは本書によれば身体性であり現実性であるという事です。
 
こうした観点から本書ではフランシス・ベーコンの絵画、森村泰昌のセルフポートレイトからギャル男、ラーメン、プロレスに至るまで様々な対象が縦横に論じられ、そこでは「頭空っぽ性」「パラマウンド」「不気味ではないもの」といった斬新な概念が提出されます。
 
また、ここまでいわば「敵役」を務めてきたラカンですが、本書でも抜かりなく指摘されているようにラカンの理論はただ否定神学の一言で片付けられるほど単純なものではもちろんありません。
 
近年はラカン派内部でも、ラカンが1970年代に行ったセミネールの再検証が進んでおり、晩年のラカンもやはり否定神学システムの外側にある特異点精神分析終結条件を見出していた事が明らかになっています。
 
こうした事から現代ラカン派では無意識の「意味」ではなく「無意味」が重視されています。従って本書のいう〈意味のない無意味〉と現代ラカン派の潮流はかなり接近していると言えるでしょう。
 
本書の示すパラダイムシフトは「自己肯定」とか「他者理解」などといった我々の日常実践とも密接に関係しているでしょう。我々は無限に連関する意味の世界に縛られて生きていると言えます。けれど、もしもこの無限連関を自在に切断できたとすれば、そこにあるのは「わからなさ」を「わかる」という自由ではないでしょうか。
 
 

生きづらさの格差--「JOKER(2019)」

 

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* 現代における「悪」の病理

 
「悪」の病理というものは時代によって遷移してきました。かつて「国民国家」というイデオロギーが機能していた時代の「悪」は、例えば共産主義者のような対立的イデオロギーであり、やがて「国民国家」というイデオロギーが機能しなくなり始めた時代の「悪」は、例えば革命集団の残党やカルト宗教のような狂信的ファンタジーでした。
 
そして「国民国家」というイデオロギーが完全に「資本主義」というシステムに呑み込まれた現代における「悪」は、このシステムの反作用として出現します。
 
世界がグローバリズムとネットワークによって常時接続された今、ヒトやモノやカネの流動化・情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。
 
こうした「システムのコスト」を押し付けられた人がそのコストに耐えきれなかった時、そのコストは時に悲惨な形で無関係な人々にさらに転嫁される事になる。
 
これが現代における「悪」の病理です。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としての原理主義者のテロリズムとして、国内レベルで見れば格差社会の反作用としての「無敵の人」による無差別殺人事件として噴出しています。
 
本作の舞台は70年代のゴッサムシティですが、そういった意味で本作は極めて現代的な「悪」が生成される過程を描き出した作品と言えます。
 
 

* あらすじ

 
後にジョーカーとなるのは、ゴッサム・シティでピエロ派遣業として働くアーサー・フレックという青年です。
 
アーサーは感情が高ぶると突発的に笑いが止まらなくなる疾患--おそらく「PBA(情動調節障害)」ではないかと言われています--もあり、社会生活において様々な困難を抱えている。
 
認知症の母親を介護しつつ道化を演じる日々。それでもアーサーはいつかコメディアンになり多くの人を笑顔にするという夢があった。
 
かたやゴッサム・シティは今や財政が破綻。街はゴミにまみれ、人心は荒廃していた。ある日、仕事中に路上でチンピラ達から暴行を受けたアーサーは、同僚から押し付けられるように小さな銃をもらう。ところが小児病棟をピエロとして慰安訪問中、子供たちの前でその銃を落としてしまう。
 
結果、アーサーは失職。悪い事はさらに重なり、失意の帰宅中に地下鉄内でナンパをしていた男達の前で笑いの発作を起こしたアーサーは勘違いから暴行を受け、思わず持っていた銃で全員を殺害する。
 
ところが偶然にも被害者が大企業に勤める富裕層のサラリーマンだった為、図らずもアーサーは貧困層のヒーローへ祭り上げられてしまう。
 
 

* 危機感と共感が入り混じる評価

 
周知の通り、本作は社会への悪影響が懸念される中で記録的な大ヒットとなり、全世界興行収入R指定作品史上初の10億ドルを突破。アメリカでは警戒態勢下で上映が行われた劇場もある一方、ホワイトハウスで上映会が行われ、トランプ大統領が本作を気にいっているという関係者の談話が伝えられています。
 
こうした状況が象徴するように、本作に対する評価は、いわば「ジョーカーに対する危機感」と「アーサーに対する共感」が入り混じったものとなっています。
 
本作では、障害、貧困、虐待などアーサーの直面する様々な「生きづらさ」に光が当てられる。本作に多くの共感が集まるのは、多くの人が大なり小なりの「生きづらさ」を感じて生きているからなのでしょう。
 
もちろん当たり前ですが「生きづらさ」を盾にすれば何をしても良いわけではない。けれども、こうした「生きづらさ」は、社会構造から不可避的に生じる「システムのコスト」という側面もまた確実にあるわけです。
 
要するに、本作の評価がこうも様々なのは、本作の描く「生きづらさ」の問題が、どこまでが個人的適応の問題でどこからが社会構造の問題なのかという認識の相違によるものであり、換言すればこの領域に関するコンセンサスが未だ形成されていない事を図らずも示しているわけです。
 
 

* 生きづらさの格差

 
ただ、より正確にいうと本作は「生きづらさそれ自体」というよりも「生きづらさの格差」を描いた物語なんだと思うんです。
 
例えば、アーサーの妄想の恋人は「黒人女性のシングルマザー」という属性を持っている。こうしたポリティカル・コレクトネス的な「弱者」が抱える「わかりやすい生きづらさ」は比較的、共感のまなざしが集まり、社会的包摂の対象となりやすい。
 
けれども一方でアーサーのような「わかりにくい生きづらさ」にそういった救いは無い。あるのはもっぱら嘲笑のまなざしと社会不適合者のレッテルだけです。
 
ここで「わかりやすい生きづらさ」と「わかりにくい生きづらさ」との間で「生きづらさの格差」が生じるわけです。
 
こうして「わかりにくい生きづらさ」には「生きづらさそれ自体」から生じる苦しみに加え「生きづらさの格差」から生じる苦しみも加わる。
 
こうした苦しみは社会学において「相対的剥奪」と呼ばれます。こうして「生きづらさ」を抱える人々の中でもクラスターの寸断が加速し「わかりにくい生きづらさ」を持つ人々はどんどん孤立に追い込まれていく事になります。
 
 

* 感動ポルノと自己責任

 
もっともこうした「わかりやすい生きづらさ」と「わかりにくい生きづらさ」というのは結局コインの裏表の関係なのかもしれません。
 
一方で「わかりやすい生きづらさ」持つ人々を感動ポルノ的に消費する事で「優しいわたし」に陶酔し、他方で「わかりにくい生きづらさ」を持つ人々を自己責任という名で切り捨てる事で「正しいわたし」に安心する。
 
両者に共通するのは、世界を「内部/外部」という形而上学的二項対立で切り分けて、自分が「内部=普通」の側にいると見做したい欲望です。
 
こうして見ると「わかりやすい生きづらさ」への共感のまなざしと「わかりにくい生きづらさ」への嘲笑のまなざしは、ある意味で同一の欲望が異なる回路を経由して出力されているだけであるとも言えます。
 
 

*「いま、ここ」の光と陰

 
ポスト・構造主義を代表するフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、かつての社会を「砲丸投げ」に例えるのであれば、現代社会は「サーフィン」に例えられると言います。
 
要するに重要なのは「過去」や「未来」という「ここではない、どこか」ではなく、あくまで「現在」という「いま、ここ」であり、我々に絶え間なく目前の波を乗りこなすスマートでフレキシブルな生き方が要求されている。
 
こうした「生き方のパラダイムシフト」はもちろん肯定すべき流れだと思います。けれども他面において、アーサーのようにいくら頑張っても「いま、ここ」への適応ができない人々も確実にいるわけです。
 
これは別に他人事ではない。何となく我々は自分は「普通」だとか思い込んでいたりもするわけですが、それはたまたまこれまで運良く環境の巡り合わせが良かっただけで、もしかして、ほんのちょっとした変化でたちまちアーサーと同様の境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。
 
そういう意味で、本作が描く「悲劇」は我々の日常と地続きの問題とも言えるわけです。
 
この点、アーサーはジョーカーという「悪」となり、こうした「悲劇」を「喜劇」だと笑い飛ばすことで突き抜けた。まさしく「本当の悪は笑顔の中にある」ということです。
 
社会の「ババ」を押し付けられた存在として、あるいはもはや何も失うものがない「最強の存在」として、多くの人にドミノ的に災厄をばら撒く「悪い冗談」として。こうした何重の意味においてジョーカーは文字通りの「ジョーカー」として君臨する。
 
けれど我々はジョーカーになることなくシステムに抗う道を見つけなければならない。
 
すなわち、現代において必要な想像力とは「システムのコスト」をいかに収束させずに緩やかに拡散させて行く戦略と「分かりにくい生きづらさ」に光を当てて包摂していくための物語なんだと思います。
 
 

エヴァの命題--「おめでとう」と「キモチワルイ」の間にある他者の両義性

 
 

* 戦後ロボットアニメの総決算

 
戦後日本において奇形的とも言える「発展」を遂げたロボットアニメというジャンルはある意味で戦後日本の精神史と表裏の関係にあります。
 
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは、占領当時の日本を「12歳の少年」だと評しました。これは要するに、この国は民主的成熟度においては到底近代国家とは言えないという意味です。
 
その後、日本は経済的には肥大化していくわけですが、肝心の民主的成熟度に関しては相変わらず「12歳の少年」のままであった。
 
このような幼形成熟ネオテニー)」と呼ぶべき歪な状態をビルドゥングス・ロマンとして補償したのが、ロボットアニメというジャンルです。
 
鉄人28号」「マジンガーZ」といった初期ロボットアニメ作品においては少年が機械仕掛けの身体を得て悪と戦う(経済成長)」という素朴な「正義(成熟)」が描かれます。
 
つまりここでいう「正義(成熟)」とは「経済的に豊かになること=社会的自己実現」に他ならないわけです。こうしていわゆる「戦後ロボットアニメの文法」というべきものが一旦確立する。
 
ところが消費社会が爛熟する80年代に入ると、ロボットアニメにもリアリズムが導入される事になります。いわゆる「リアルロボット」です。
 
こうして「機動戦士ガンダム」では「宇宙世紀」と「モビルスーツ」という概念が導入され、ロボットは量産型の工業製品へと格下げされ、代わりにアムロやシャアといったキャラクターの自意識の問題がフォーカスされることになる。
 
更にその続編である「機動戦士Ζガンダム」では主人公のカミーユが最後に発狂し「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」ではアラサーになったアムロとシャアがお互い責任を虚しくなすりつけ合う姿が延々と描かれることになる。
 
ここで「戦後ロボットアニメの文法」は問いに付される事になる。もはや少年が機械仕掛けの身体を得て悪と戦う(経済成長)」こそが「正義(成熟)」というモデルが単純には信じられなくなっているわけです。
 
こうして1995年に放映された本作「新世紀エヴァンゲリオン」によって「戦後ロボットアニメの文法」は完全に破棄されます。こうした意味でエヴァは「戦後ロボットアニメの総決算」と言われます。
 
 

* エヴァの提示したもの

 
では、このあまりにも偉大な作品が「戦後ロボットアニメの文法」のオルタナティブとして提示したものは一体なんだったのでしょうか?これが本稿のひとまずの主題となります。
 
そうはいっても以下に述べるエヴァの理解は、おそらく深夜アニメなどにある程度詳しい方であれば、程度の差はあれ普通に感じている常識的な感覚だと思います。
 
ただ、そういった常識的な感覚を現代思想のタームなどで基礎付けていけば、深夜アニメ等のサブカルチャー作品に触れたり、解釈したりする上でのある種の「ものさし(理論装置)」を作り出す事も出来るのではないでしょうか。本稿はそういう一つの整理と思って頂ければ幸いです。
 
 

*「逃げちゃダメだ」から「僕はここにいてもいいんだ」へ

 
周知の通り、本作は1995年10月から全26話がテレビ東京系列で放送されました。原作はガイナックス。総監督は庵野秀明。舞台は「セカンド・インパクト」と呼ばれる大災害から15年後の西暦2015年。中学2年生の少年、碇シンジは、長年別居していた父、碇ゲンドウから突然、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット、エヴァンゲリオンに乗って「使徒」と呼称される謎の敵を倒すよう命じられる。葛藤の末、シンジは「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせてエヴァに乗る。
 
エヴァは当初「究極のオタクアニメ」として始まった。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞。随所に垣間見える、宗教、神話、小説、映画からの膨大な引用。こうした要素が渾然一体となり形成されたカルト的世界観はオタク層の快楽原則を最大限に刺激した。
 
ところが後半、制作スケジュールの逼迫からエヴァの物語は破綻をきたして行く。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまで散々ばら撒き散らした伏線は一切回収されることはなく、最後に物語は唐突に放棄される。
 
こうして最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」においては、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し続け、他のキャラクターとの問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいてもいいんだ」という結論(?)に達し、皆から「おめでとう」と祝福されるあの伝説的な結末を迎えることになる。
 
いわばエヴァは土壇場で「究極のオタクアニメ」から「究極のオタク文学」に唐突に転向したわけです。ここで展開される会話ゲーム的なダイアローグは、確かに大塚英志氏のあの有名な批判にあるように「自己啓発セミナー」のプログラムそのものです。
 
こうした幕切れは、当然のことながら多くの顰蹙を買う事になる。しかし一方で、もはや制作スケジュールは完全に破綻し、最終回を物語としてまとめることは現実的に不可能であった。
 
もはや何も手の内が残っていない以上、最終話では「エヴァに乗らないシンジ=物語を放棄した庵野氏自身」をそのままフィルムに曝け出すしかない。
 
この点、放送直後の庵野氏のインタビューや関係者座談会などにおいては、庵野氏の根本には「変わりたくないんだ」という自己愛があり、その補償作用としてあの「逃げちゃダメだ」という強迫観念があるのではないかという議論が見られます。
 
そうだとすればシンジの「僕はここにいてもいいんだ」という宣明は「変わりたくないんだ」という庵野監督の咆哮そのものでもあったと言えるでしょう。
 
 

*「おめでとう」という承認

 
しかし、こうした「エヴァの破綻」は図らずも時代との過剰なまでのシンクロを果たしてしまう。
 
エヴァTV版が放映された1995年は国内思想史における特異点に位置付けられています。この年、一方で平成不況の長期化による社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化する。
 
こうしてこの年を境にポストモダンの思想家として有名なフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールのいう「大きな物語」が失墜したポストモダン状況がさらに加速。何が「正しい生き方」なのかわからなくなる時代が幕を開ける。
 
この点、エヴァTV版が示したのが「おめでとう」という承認です。
 
本作では「エヴァに乗るのか乗らないのか」という主題が幾度も反復されます。これはまさしく戦後ロボットアニメの文法(=社会的自己実現)に対する葛藤そのものです
 
けれど、シンジが「逃げちゃダメだ」といって葛藤しながらもエヴァに乗る結果、アスカは心を壊し、トウジは片足を失い、カヲルは惨殺される。
 
要するにここで詳らかにされるのは「社会」へコミットすることで、不可避的に他者を傷つけてしまうという構図です。
 
こうして最終的にシンジは戦後ロボットアニメの文法を放り出し「僕はここにいていい」と宣明し、皆から「おめでとう」と承認される。
 
ここで示されるのは「何もしないことこそが正しいことである」という否定神学です。そしてこの結末は幸か不幸か、当時のアイデンティティ不安に陥った若年層への自己肯定のメッセージとして作用した。こうしてエヴァは「承認の物語」として大きな共感を産み出した。
 
 

* 第三者の審級の撤退

 
このようなエヴァの社会現象化については大澤真幸氏のいう「第三者の審級の撤退」という概念で捉える事が出来ます。
 
つまり大きな物語」を体現する「第三者の審級」という父権的存在が信用されなくなった結果、人々はアイデンティティの拠り所を「他者性なき他者」という母権的存在による無条件承認に求めだすという一種の母胎回帰が起きるという事です。
 
もとよりここで人は「他者性なき他者」などという不可能なものを求めている事になります。こうして大澤氏は1995年以降の時代を「不可能性の時代」と名付けます。
 
こうして見ると人類補完計画」なる人類の完全な単体生命(他者性なき他者による優しいセカイ)への進化を描く作は、まさしく「不可能性の時代」の幕開けに相応しい作品であったと言えます。
 
 

*「キモチワルイ」という拒絶

 
もちろんTV版の示す「おめでとう」という承認は所詮空虚な現実逃避でしかない。あたり前の話ですが、我々は「他者性なき他者」に満たされた虚構ではなく「異質な他者」と関わり合う現実を生きていかなければならないわけです。
 
この点、1997年夏に公開された「新世紀エヴァンゲリオン劇場版・Air/まごころを、君に」はエヴァTV版に対する鋭いカウンターでもありました。
 
劇場版においても、シンジは相変わらず心を閉ざし他者の恐怖を語り続けますが、土壇場において人類補完計画を拒絶する。
 
つまり、ここでのシンジは完全な単体生命(「他者性なき他者」による優しいセカイ)への進化ではなく、バラバラの群体(「異質な他者」と傷つけあって生きていく世界)に留まることを選択したわけです。こうしてシンジは、アスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎えるわけです。
 
このように劇場版においては、TV版とは真逆のモデルが示されます。すなわち、何が「正しい生き方」なのか分からない時代だからこそ、人は他者と互いに傷つけあいながらも、自分なりの生き方を試行錯誤していくしかないという事です。
 
 

* 終わりなき日常を生きろ

 
こうしたエヴァ劇場版が提出した倫理は、同時期に一世を風靡した宮台真司氏の著書「終わりなき日常を生きろ--オウム完全克服マニュアル」と共鳴するものがあります。
 
宮台氏によれば、90年代における「ブルセラ」と「サリン」の対立は80年代サブカルチャーを規定していた「終わりなき日常」と「核戦争後の共同性」という2つの終末観の対立の現実化であり、オウムの病理とは「終わりなき日常」に耐えかねて「ハルマゲドンという非日常」を夢想し、その夢想を現実化しようとした点にあると分析する。
 
従って氏はいま必要なのは「終わりなき日常を生きる知恵」であると言い、こうした「終わりなき日常」に最適化したモデルとして「ブルセラ女子高生」を挙げ、彼女達のような生き方を「まったり革命」と名付けました。
 
 

* けれど人はそんなに強くない

 
「異質な他者」との間で終わりなき日常」を生きていくしかないという、エヴァ劇場版や宮台氏の示す倫理は確かにメッセージとしては疑いなく正しいでしょう。けれども一方、人は実際問題、そんなに強くも軽やかにも出来ていない。
 
こうして、エヴァ劇場版はエヴァTV版に共感した「エヴァの子供達」に拒絶され、TV版的想像力を色濃く引き継ぐ「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡することになる。別言すれば「セカイ系」とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」です。
 
同様に、宮台氏のいう「終わりなき日常を生きる知恵」を体現していたはずの「ブルセラ女子高生」もやはり皆、大なり小なり心を病んでおり、後年、宮台氏が自ら認めるように決して「まったり」と生きていたわけではないことが明らかになる。
 
これらの事象に通じるのは「大きな物語」なきところで生じる「小さな物語」への回帰です。結局のところ、我々は「物語」から自由ではありえないということです。
 
たとえ「物語を選択しない」という立場をとったとしても、それは結局「『物語を選択しない』という物語の選択」でしかない。つまり問われるべきは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」にあるということなんでしょう。
 
 

「おめでとう」と「キモチワルイ」--他者の両義性

 
ともかくもこのようにTV版と劇場版というエヴァのふたつの物語は、ポストモダン状況が加速する時代の変わり目において「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」のモデルを示したわけです。
 
つまり、ここで明らかにされるのは「おめでとう=他者性なき他者(不可能性)」と「キモチワルイ=異質な他者(終わりなき日常)」という「他者の両義性」に他ならない。
 
そしてこうした「他者性なき他者」と「異質な他者」は実際のところ同一の他者の中に同居する。すなわち、我々は同じこの「他者の両義性」を前提として他者との間との関係性を構築していかなければならないということです。
 
こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という命題に規定される事になります。
 
ここで「他者性なき他者」を純粋に希求する想像力が「セカイ系」であり、これに対して「異質な他者」と真正面から対決する想像力が「サヴァイブ系」であり、さらにこの両者を止揚する形で「異質な他者」の中に「他者性なき他者」を発見する想像力が「日常系」や「なろう系」であると、やや図式的ですがひとまずはこのように言えるでしょう。
 
 

* 交響圏とルール圏

 
こういった他者観は戦後日本を代表する社会学者、見田宗介氏が提唱する「交響圏とルール圏」という社会構想論とも符合します。
 
氏によれば、社会の理想的なあり方を構想するには「他者の両義性」に対応した原的に異なった二つの発想様式があるという。
 
すなわち「歓びと感動の源泉としての他者(=他者性なき他者)」に対応する「交響圏」の創出と「不幸と制約の源泉としての他者(=異質な他者)」に対応する「ルール圏」の設定です。
 
氏はこの二つの社会構想の発想様式を対立的にではなく相補的に捉えた〈交響するコミューン・の・自由な連合〉という社会構想を提出し、この理念は「交響圏」と「ルール圏」が入り混じる現実社会においても「〈交響性〉と〈ルール性〉のドミナンス(相対的優位)」という理念的基軸として機能するというわけです。
 
 

* エヴァの命題

 
このようにTV放送から四半世紀近く経とうする現在においても、この国のサブカルチャー文化圏は依然としてエヴァという作品の影響下にあります。
 
この点、戦後サブカルチャー文化圏を規定する有名な命題として、大塚英志氏のいう「記号によって成熟を如何に描くか」という「アトムの命題」や、宇野常寛氏のいう「虚構によって現実を如何に描くか」という「ゴジラの命題」があります。
 
こうした観点から言えば、エヴァが示す「物語によって他者を如何に描くか」という命題は「アトムの命題」「ゴジラの命題」に続く第三の命題として、文字通り「エヴァの命題」と呼ぶこともできるのではないでしょうか。
 
最後になってやや風呂敷を広げすぎた感はありますが、要するにエヴァという作品は現在に至っても有効な「ものさし」として機能しているという事です。せっかく毎期毎期夥しい数の深夜アニメが放映されているわけです。より深く作品に触れる上でも、何かひとつはこういう「ものさし」を持っておきたいものです。そういうわけで以上、長々と私なりの「ものさし」について書かせて頂きました。ここまでお読み下さって有難うございます。