* 加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義(木澤佐登志)
⑴ 異色の哲学者
近年、テクノロジー関連の言説、現代思想の領域、さらには政治的な議論において「加速主義 Accelerationism」という言葉がよく見受けられるようになりました。この「加速主義」を大まかに定義するとすれば「現存する社会システム、特に資本主義が持つ内在的な傾向やダイナミズムを、意図的に『加速』させることによって、現在の社会システムそのものの質的変容、あるいはそれを超えた新しい社会システムの到来を目指す」というものです。
この大まかな定義からもわかるように加速主義は単一の教義やイデオロギーを指すわけではなく、その「加速」の対象、目的、方法論、そして倫理的評価は論者や文脈によって大きく変わってきます。ある人にとってそれは人間の解放へと向かうユートピアへの道であったり、別の人にとってそれは人間の終焉へと向かうディストピアへの道であったりもします。
こうした「加速主義」という潮流を近年のシリコンバレー界隈で注目を集める「新反動主義」という切り口から概説する一冊が本書『加速主義〈増補新版〉ニック・ランドと新反動主義』です。ここでいう「新反動主義」とは反民主主義を徹底し統治の効率性を追求したリバタリアニズムの一形態を指しています。
本書はまず第1章でこの「新反動主義」の形成に寄与したと思われる重要人物としてPayPal創業者、ピーター・ティールを取り上げた後、第2章で「新反動主義」の中心人物であるカーティス・ヤーヴィンの思想を紹介する「暗黒啓蒙」というテクストに注目します。このテクストの著者こそが加速主義の始祖と目されるイギリスの哲学者、ニック・ランドです。
第3章ではこの異色の哲学者の経歴と思想に光が当てられます。ランドは1987年から1998年までの約10年間、イギリスのウォーリック大学で教鞭を取り、専門は主に大陸哲学とフランス現代思想で1992年には『絶滅への渇望』というジョルジュ・バタイユをテーマとした著作も執筆しています。ランドは1989年に発表した最初期のテクストにあたる「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において現代にまで至る西洋列強の植民地主義による第三世界に対する経済的搾取は近代のあり方そのものと深く関わっているとして、その思想的淵源をイマヌエル・カントの超越論哲学に求めています。
カントが創始した超越論哲学の要諦とはすなわち、我々は対象(=他者)を直接認識しているのではなく、対象の「表れ」を認識しているに過ぎず、それゆえに対象(=他者)はそれ自体(=物自体)としてありのままに認識することは不可能であり、主観側の総合作用によって表象として現象することになります。これがランドのいうところの「抑制された総合」という作用です。つまりランドによればカントによる「抑制された総合」とは他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、そうである限りで近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったとみなされます。
そしてランドは同論文においてこのグローバルな帝国主義システムを内破させる潜勢力を「フェミニストの効果的な暴力」に見出しており、同論文は「この近代の終わりに到達するために、我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という言葉で締め括られます。ところが以降のランドの仕事においてこのフェミニズム的暴力という主題は徐々に後景に退き、代わりにランドは近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになります。
⑵ 脱領土化とシンギュラリティ
1990年代に入るとランドはカント主義を乗り越えるための参照項をポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著である『アンチ・オイディプス』に見出します。1968年に起きたパリ5月革命の影響下で書かれた同書でドゥルーズ=ガタリは西洋近代の成果物である精神分析におけるエディプス・コンプレックスと呼ばれるセントラル・ドグマを批判し、代わりに無意識における多様な欲望の流れと相互接続を肯定する分裂分析を打ち立てました。
この点、ランドは同書における「脱領土化 Deterritorialization」と「再領土化 Reterritorialization」という対概念に注目します。ここでいう「脱領土化」とは解体のプロセスであり、例えば資本主義における資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体などを指しています。これに対して「再領土化」とは総合のプロセスであり、例えば資本の再配分に基づく福祉資本主義などは一旦、脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みといえます。すなわち、現代のグローバルな資本主義システムと国家システムはこのような脱領土化と再領土化の反復によって維持されているということです。
ランドはこの「脱領土化」と「再領土化」という対概念において「脱領土化」のみを徹底的に推し進めるべきであるという立場を取ります。「カント、資本、そして近親相姦の禁止」における「抑制された総合」とはドゥルーズ=ガタリの「再領土化」とある程度符合すると本書は述べます。すなわち、再領土化あるいはカント主義に規定された近代を解体するためにはあらゆる限界を突き抜けて未来の果てまでも加速しなければならないというのがランドの立場であり、同時にこの点においてあの「暗黒啓蒙」における「生物工学の地平」が現れることになります。
こうしたことからランドは1994年に発表した「メルトダウン」において未来から到来する〈外部〉としての〈シンギュラリティ(特異点)〉が国家、民主主義、ヒューマニズム等々の近代的秩序を溶解させていくさまを黙示録的な筆致で叙述していきます。
神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、惑星規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を堕落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が招来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータ(xenodate)をハックするのを待っている。
(ニック・ランド「メルトダウン」)
⑶ CCRUという実践
そして、このような主体を構成するあらゆる体制の「脱領土化」を推し進めるというランドの哲学的プログラムの実践のうちの一つが「サイバネティック文化研究ユニット Cybernetic Culture Research Unit:CCRU」における活動です。
CCRUとは1995年にランドが公私ともにパートナーであったサディ・プラントと共にウォーリック大学の哲学部内に設立した大陸哲学やSFやオカルティズムやクラブカルチャーなどを学際的に横断する研究組織です。このCCRUは後に批評家として活躍することになるマーク・フィッシャー、思弁的実在論で知られることになるイアン・ハミルトン・グラントとレイ・ブラシエ、kode9名義で音楽家として活躍することになるスティーヴ・グッドマン、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めることになるロビン・マッケイなどが参加しています。
けれど設立から2年後の1997年には共同設立者のサディ・プラントがウォーリック大学を退職し、大学当局からもその存在を煙たがられていたCCRUはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に活動拠点を移し、その外界から隔絶されたラボでアレイスター・クロウリーの魔術、数秘学、ヴードゥー教、ラヴクラフトといった擬似カルト的な思索に耽ることになります。こうしたCCRUの哲学的実践はアカデミズムの内部ではなくむしろその外部において影響力を持っていました。
他方でランドは自身の「解体」のプロセスを着実に加速させていき、睡眠も取らず使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら数秘術めいた数学実験にのめり込んでいきます。ロビン・マッケイはこの時期のランドを回想して「端的に言って彼は発狂したのだ」と総括しています。
やがて度重なる不眠と身体的疲労によって自身を消尽させていったランドは1998年、大学を辞職して上海に移住してしまいます。ある意味でアカデミズムと西洋近代からの二重のイグジットです。そしてゼロ年代に入るとランドは上海在住のジャーナリスト兼ブロガーとして再び現代思想シーンの表舞台に返り咲くことになります。
⑷ 悪くなればなるほど、良くなる?--加速主義、その可能性の中心について
本書が第4章で述べるように、このようにランドが90年代に展開した黙示録的な思想はやがて「加速主義」という名前が与えられる事になります。この加速主義という造語を命名したのは批評家のベンジャミン・ノイズであり、2010年の著書『The Persistence of the Negative』で彼は加速主義を「もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる。我々はこの傾向を加速主義と呼ぶ」と定義づけています。
ところがノイズはこのランド的加速主義を身も蓋もなく「大学院生の病」であると総括しています。つまり、これから否応なく資本主義リアリズムの世界に放り出される大学院生たちにとって「資本主義を加速させよ」と呼びかける加速主義はある種のストックホルム症候群(防衛本能による無意識的な加害者への連帯や共感)をもたらすイデオロギーとして作用するということです。
これに対して本書は以上のような加速主義の現代的潮流を概観する中で「加速主義、それは未来のユートピアをもはや純粋に信じることができない現代の私たちのためのユートピア思想なのだ」と述べます。すなわち、加速主義とは冷戦構造の終焉により共産主義の最終的破算と新自由主義のグローバルな勝利が確定し、もはや「大きな物語(リオタール)」はありえず、未来の可能性を喪った「歴史の終わり(フクヤマ)」のただなかにおいて、共産主義とは別のかたちで未来を思考するとはどのようなことかを問うた「共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想」であるということです。
そして本書は〈増補新版〉に追加した第5章において、いまやミームと化した加速主義における「可能性の中心」として「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せえざるを得ない『脱階層化のプロセス』を加速させる」ことを挙げていますが、ここでいう「脱階層化」とは資本家/労働者といった「階級」に限定されない、文字通りの意味におけるあらゆる階層型システムに適用されるものとされます。
確かにランドにしてみてもそもそもは西洋近代を規定したカント主義における自己/他者という階層型システムからの脱領土化=脱階層化を企てる思想から出発したわけです。そうであれば、加速主義という思想とは(少なくとも初期ランド的な発想からすれば)「資本主義を加速させよ」という単なるアジテーションというより、むしろそのプロセスを通じてあらゆる階層型システムの脱領土化=脱階層化を志向する思想として理解できるのではないでしょうか。そしてこのような脱領土化=脱階層化という「可能性の中心」こそが加速主義という思想に様々に立場を異にする多くの人々が魅了され続けてきた所以のようにも思われます。
* 現代思想2019年6月号 特集=加速主義
⑴ 左派加速主義の登場
先述のように1990年代にニック・ランドが展開した思想はやがて「加速主義」と呼ばれるようになります。2010年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで「加速主義」をめぐるイベントが開催され、このイベント後に「加速主義」という名は一気に広まることになります。2014年に出版されたアンソロジー『加速主義読本』の序論において同書の編集者であるロビン・マッケイとアルメン・アヴァネシアンは「加速主義」を次のように定義しています。
加速主義は政治的異端である。その主張はこうである。資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、それを中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである
(『加速主義読本』より)
要するに「加速主義」の主題は資本主義社会にいかにコミットメントするかにあり、その戦略の特徴は資本主義の矛盾を批判したり抑制しようせず、むしろ資本主義のプロセスをさらに「加速」させることでその〈外部〉へ突き抜けようとする点にあります。もっとも何をもって〈外部〉と見做すかは加速主義者の間でも大きな対立があります。本書『現代思想2019年6月号 特集=加速主義』はこのようなランド以降から2010年代までの加速主義の動向と論点を深く知る上で今なお有益な一冊といえます。
2010年代において形成された加速主義の分派のうちの一つが「左派加速主義」です。左派加速主義の代表的な論者であるニック・スルネックとアレックス・ウィリアムスは2013年にオンラインで発表した「加速派政治宣言」において2011年のオキュパイ運動に象徴されるローカルな政治的直接行動を素朴政治として批判し、来るべきポスト資本主義に向けてテクノロジーの発展を明確なビジョンのもとでコントロール可能な形で加速させる「加速主義政治」が必要になると主張します。
同時に彼らはランド流の黙示録的な加速主義とも距離を置き、2015年に上梓した『未来を発明する:ポスト資本主義と労働なき世界』においては⑴ロボットやAIの発展による製造の全的オートメーション、⑵それに伴う労働時間の漸進的削減、⑶市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入、⑷労働倫理の衰退といった社会変革によって人間が労働から解放された「ポスト労働の世界」という〈外部=未来〉が提示されます。
彼らにとってテクノロジーはそれ自体が善でも悪でもなく、それをどのような社会的目的のために、どのような政治的ヘゲモニーの下で用いるかが問題になります。彼らはテクノロジーの潜勢力を最大限に引き出すことで、より自由で平等な社会を構築するための「対抗ヘゲモニー的」なプロジェクトを推進すべきだと訴えます。このように左派加速主義はテクノロジーに対する楽観的な視点とそれを社会変革の戦略的ツールと見做すプラグマティックな姿勢を特徴としています。
⑵ マーク・フィッシャーと資本主義リアリズム
左派加速主義を語る上で避けて通れない思想家としてマーク・フィッシャーが挙げられます。フィッシャーは90年代にはランドのCCRUに所属しており、その問題意識を共有しつつも左派的な立場から一貫して新たなコミュニズムの可能性を探り、スルネックらに大きな影響を与えました。フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べています。
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものです。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指しています。
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものです。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入です。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態でした。
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものです。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べます。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができます。
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈外部=未来〉を想像する能力を喪失することになります。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになります。
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れます。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されています。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていたのでした。
⑶ 加速主義の現代的展開
その一方で、ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対しては明確に批判的な立場を取ります。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えますが、ランドからすれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーの加速は不可能であるとします。もっともランド自身も90年代と微妙に思想的立ち位置を変えており、ヤーヴィンの新反動主義を支持する現在のランドの立場はいわば「右派加速主義」と呼べるものです。
さらに現代において加速主義はさらに多様なバリエーションや解釈が生まれています。例えば「無条件加速主義 Unconditional Accelerationism:U/Acc」は90年代のランド思想とCCRUへの忠実な回帰を志向し、資本主義がテクノロジーが結びつき自己増殖していくプロセスをいかなる人間的な価値判断や目的からも切り離し、無条件に加速させることを主張します。それは人間の制御や理解を超えた純粋な技術的プロセスへの没入を志向するある種のニヒリズムといえます。
また「ジェンダー加速主義 Gender Accelerationism:G/Acc」や「ゼノフェミニズム Xenofeminism:XF」といった潮流はフェミニズムの視点からテクノロジーと加速の概念を捉え直し、既存のジェンダー規範や家父長制的構造を解体し、テクノロジーを用いて新たな身体性やアイデンティティの可能性を追求しようとします。これらは左派加速主義の解放のポテンシャルをジェンダーという特定の領域で先鋭化させようとする試みであるといえます。
さらに加速主義的なテーマや感性は現代アート、音楽、文学、映画といった様々なカルチャーの領域でも表現されることになります。こうしたことから加速主義は単なる哲学的な潮流にとどまらず、現代社会の複雑な動態とそれに対する多様な応答の総体として捉えるべきであるといえるでしょう。
* ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学(岡本裕一朗)
⑴ 加速主義と思弁的実在論
14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきましたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していました。ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自明性を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき事態を招来することになります。
本書『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代における哲学』(2021)はこうした「ポスト・ヒューマニズム」を体現する思想として加速主義とともに「思弁的実在論 Speculative Realism:SR」と呼ばれる哲学的潮流を位置付けます。そして後述するように、この両者は極めて密接な関係を持っています。
「思弁的実在論」とは狭義には2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行われた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端として主にインターネット上で急拡大した哲学的潮流を含んでいます。
周知のように「実在論」とは哲学的には「観念論」と対立する概念です。すなわち、人間が事物を認識するとき心の中に何かしらの「観念」を抱くことになりますが、その「観念」とは独立した事物の存在を肯定するのが「実在論」であり、これに対して「観念」とは独立した事物の存在を否定するのが「観念論」です。
そして「思弁的」とは「反常識的」であることを意味します。つまり「思弁的実在論」とはこの世界を構成する事物の「実在」を「思弁的」といえる反常識的な理路によって捉え直そうとする新種の実在論ということになります。
もっとも「思弁的実在論」という名称はこのワークショップ向けの妥協案として選択されたものであり、その内部においてそれぞれの論者の主張は大きく異なっており、その後、数年も経たず彼らは内部分裂してしまいます。この点「思弁的実在論」という名称を提案したブラシエは2011年のインタビューで「『思弁的実在論』なるものは、私が全く共感を抱かないアジェンダを掲げるブログ執筆者たちが抱く妄想の中にしか存在しません」と語っています。
こうして現時点から振り返ると「思弁的実在論」とは学派やグループではなく2007年の開催されたワークショップの「イベント名」と理解した方が適当かもしれないでしょう。結局のところ彼らは「思弁的実在論」という名の下で果たして一体、何を目指していたのでしょうか。
⑵ 相関主義批判
思弁的実在論において共有されていた問題意識とは端的にいえば「相関主義批判」にあります。「相関主義」とは一般的に思弁的実在論の代表格とみなされるメイヤスーがその著書『有限性の後で』(2006)において使った言葉であり、ハーマンは同じ意味で「アクセスの哲学」と呼んでいます。
この点、メイヤスーによれば近代哲学を確立したイマヌエル・カント以後の哲学はすべて--現象学であれ分析哲学であれポストモダニズムであれ--いずれもカントのいう「物自体(客観世界)」にはアクセスが禁止されており、メイヤスーのいう「思考と存在の相関(主観世界)」のみにアクセスが可能とされていたといいます。そして彼はこうした「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」を持つカント以後の哲学を「相関主義」と名指しました。
そして、メイヤスーは「相関主義」は非合理な「信仰主義」の拠点になるといいます。要するに不可視の「物自体」の位置に非合理なテーゼを勝手に代入して、まさにそれこそが世界の真実であるなどと主張する陰謀論に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的相対主義がもたらされることになるということです。それゆえにメイヤスーは今日における常識的な自然科学的世界観を擁護するには「相関主義」を超克する必要性があると訴えますが、その理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなっています。
この点、メイヤスーは相関主義をスペクトラム的に捉える議論を展開しています。具体的にいえば「素朴実在論(我々の精神から独立した世界が存在するという立場)」と「思弁的観念論(我々の精神が世界のすべてを包摂するという立場)」を両極として、その中間に「弱い相関主義(カントのように「物自体」を認識はできないが思考はできるという立場)」と「強い相関主義(ハイデガーやウィトゲンシュタインのように「物自体」を認識もできなければ思考もできないという立場)」という二つの相関主義を位置付けています。
そして、メイヤスーは「強い相関主義」における「思考=世界」の「事実性(非理由律)」を経由することで「絶対的なもの(他のものとは独立にそれ自体が存在するということ)」としての非相関的な世界を想定し、このような理由も必然性もない「ただあるだけ」のこの世界は数理的思考によってのみ記述可能であると主張しました。
このようにメイヤスーは世界の揺るぎない客観性を数学をはじめとした科学的言説に依拠する一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、この世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出すことになります。いわばメイヤスーは(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高次元での相対主義をもって対抗する理論を提出しているといえるでしょう。
⑶ 自然・根源・オブジェクト--思弁的実在論の諸相
2007年に思弁的実在論のワークショップが開催された当時はもっぱらメイヤスーに注目が集まり、メイヤスーの考えが思弁的実在論の共通見解かのように理解されがちでした。しかし先述のように思弁的実在論の名を掲げる各論者の見解は鋭い対立を孕んでいます。以下、他の論者の見解の概要を示しておきます。
まずレイ・ブラシエ。彼の思想のキーワードは「自然主義」と「ニヒリズム」です。ここでいう「自然主義」とは要するに認知科学をはじめとする自然科学に基づいて哲学を進めるという態度です。そしてこの「自然主義」が世界から「意味」とか「価値」を剥ぎ取った「ニヒリズム」としての「実在」を極大化させることになります。
次にイアン・ハミルトン・グラント。彼の思想のキーワードは「自然」です。もっともグラントのいう「自然」とはブラシエのような自然科学的な意味での「自然主義」ではなく、思考に先立ちかつ思考を生産する根源的な存在としての「自然」を指しています。こうした意味でグラントの実在論はメイヤスーのスペクトラムでいう「思弁的観念論」にかなり近い位置にあります。
そしてグレアム・ハーマン。ハーマンは思弁的実在論のスポークスマンとしてメイヤスーとは違った形で注目されてきました。この点、ハーマンは彼独自の哲学を「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と呼んでいます。ここでいう「オブジェクト」とは「(主観と関係する)対象」というよりも端的な「(主観と無関係な)モノ」といった方が良いでしょう。すなわち「オブジェクト指向存在論」とはいわば「モノに定位した存在論」であるということです。
こうしたことからハーマンはメイヤスーと逆にカントの「弱い相関主義」を評価します。ハーマンはカントのいう「物自体」を「モノ」の独立性や超越性として位置付けており、さらにここでいう「モノ」とは創作物や概念としての「モノ」も含まれています。こうした色々な「モノ」に定位することでハーマンは人間と世界が「主観とその対象」といった形で関わるのではなく、いろいろな「モノ」たちが存在し、そうした「モノ」たち同士がさまざまに関係したり関係しなかったりする状況を想定します。
すなわち、あらゆるモノは本来、人の意識に決して現れることなく、一つ一つ絶対的にバラバラに存在しており、それ自体の中に引きこもっている=退隠しており、そして、その無関係性こそが本来の一次的なもののあり方であり、関係性というのは二次的で現象的なものに過ぎず、まさに世界を構成するひとつひとつのモノが他からアクセスできない孤独な闇であり、世界は様々な異質な闇によって構成されているということです。
こうしてみると四者四様、見事にその主張はバラバラであり、むしろ何で一時期でも活動を共にしていたかが不思議なくらいにも思えますが、いずれにせよ思弁的実在論がかろうじて共有していたテーマである「相関主義批判」はいわば「人間との相関物としての世界」の破棄を志向しており、こうした意味で思弁的実在論は従来の「人間中心主義」としての「ヒューマニズム」への根本的批判となる「ポスト・ヒューマニズム」の哲学を提示しようとしていたといえるでしょう。
ではこうした思弁的実在論は加速主義といかなる関係に立つのでしょうか。まず、2007年のゴールドスミス・カレッジのワークショップに登壇した4名のうち、ブラシエとグラントは先述のようにかつてはCCRUのメンバーであり、ランドの思想から大きな影響を受けています。
そしてランドによれば先述のようにカント以降の哲学スキームにあっては、我々は「物自体」を認識できないことになっています。すなわち、我々がアクセスできるのは概念的なカテゴリーや論理形式を通じて主観の上に構築された表象のみであり、このようなアプリオリに条件づけられた認識論的枠組みを指して「超越論的なもの」と呼ばれます。
換言すれば我々は事物のあり方それ自体を直接問うことはできず、問うことができるのは我々の超越論的な思考の枠組みと、事物がそれに従ってどのように現象するかといった表象作用のみとなります。このような事物は超越論的なものと関わる限りで問題化することができるという立場を相関主義という。
こうした議論はすでにランドの「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において部分的に先取りされてきたとも言えるでしょう。ランドによればモノを認識に従属させるカントの超越論哲学においては他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化されることにあり、こうしたカント的な相関主義は外部を際限なく内部に繰り込んでいく帝国主義とグローバリズムとも軌を一にするものであるということです。つまりランドと思弁的実在論は両者ともいかにこの相関的循環の外部に抜け出て、物自体=未知の他者と遭遇するかという問題意識を共有しているといえるでしょう。
* 21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング(樋口恭介)
⑴ 効果的加速主義と効果的利他主義/長期主義
本書『21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング』(2026)は望ましい未来を構想する「未来学」の観点から、現代社会におけるテクノロジーの急速な進展とそれがもたらす未来像について主に加速主義とプルラリティという二つの大きな思想的潮流が考察されます。今年(2026年)公刊された本書は2020年代における加速主義の動向を俯瞰的に知る上でも最適な一冊であるといえます。
加速主義の2020年代における潮流として近年、シリコンバレーを中心とするテクノロジー業界で急速に注目を集め一種のムーブメントになりつつあるのが「効果的加速主義 Effective Accelerationism:e/Acc」です。このe/accはその名が示す通り、ニック・ランド的な加速主義の思想的影響を受けつつも、より「効果的」かつ実践的な形でテクノロジーの進歩を推進し、社会変革を実現しようとする潮流であり、AI技術、特に汎用人工知能(AGI)の急速な発展を背景にそのポテンシャルを最大限に引き出すことを最重要課題として、規制や倫理的懸念に対してはしばしば批判的な立場を取ります。
e/accという言葉は2022年ごろからソーシャルメディア上で広がり始め、匿名あるいは半匿名のインフルエンサーたちによって精力的な議論が展開されています。その思想的背景にはシリコンバレーに長らく根付いてきた技術ユートピア主義やトランスヒューマニズムやリバタリアニズムといった要素が複雑に絡み合った特有の精神風土が色濃く反映されています。これらの思想は従来、シリコンバレーの起業家精神やイノベーション文化と結びつき「カルフォルニアン・イデオロギー」とも呼ばれる独特の価値観を形成してきましたが、e/accはこれらの既存の価値観を継承しつつ、特にAI技術の飛躍的進展という新たな文脈の中でそれらをより先鋭化させたものであり、その究極目標は宇宙への進出とシンギュラリティの早期実現にあるとされています。
こうしたe/accと対立関係にあるのが「効果的利他主義 Effective Altruism:EA」という立場です。EAは21世紀初頭にピーター・シンガー、トビー・オード、ウィリアム・マッカスキルといった哲学者たちを中心に提唱された思想ないし社会運動であり、その核心的な理念は理性とエビデンスに基づいて、世界を最も効果的に良くする方法を考え抜き、それに則って行動するというものです。その哲学的根源の一つにはジェレミー・ベンサムやジョンスチュアート・ミルによって体系化された功利主義があります。功利主義は行為における道徳性をその行為がもたらす結果(特に幸福の総量や苦痛の軽減)によって判断しようとする考え方ですが、EAはこの功利主義的な発想を現代的課題に応用する試みであるといえます。
EAが特に焦点を当てる問題領域は大別して⑴世界の極度の貧困の削減、⑵工場畜産における動物の苦痛の軽減、⑶人類の未来を脅かす実存的リスクの低減という3つです。そしてこの3つ目の柱である人類の未来を脅かす実存的リスクの低減と密接に関連し、近年特にEAコミュニティ内で影響力を増しているのが哲学者ニック・ボストロムやヒラリー・グリーヴスらによって精力的に論じられている「長期主義 Longtermism」という考え方です。長期主義の核心的な主張は未来に存在するであろう膨大な数の人々の幸福や潜在的可能性は、現在生きている我々のそれと同等か、それ以上に道徳的重要性を持つものであり、それゆえに我々の行動は人類の長期的な未来に最も大きなプラスの影響を与えることを優先すべきであるというものです。
⑵ AIアラインメント問題をめぐる対立
e/accとEAおよび長期主義の対立関係は「AIアラインメント」という問題において先鋭化します。AIアラインメントとは、極めて高度な知能を持つAIを人間の意図や価値観、倫理規範に沿って安全かつ有益に機能するように設計・制御し、それを保証するための一連の研究課題を指しています。
AIアラインメントの課題は多岐に渡ります。例えばニック・ボストロムが指摘するように高度なシステムはどのような最終目標を与えられたとしてもその目標を効率的に達成するための中間目標として⑴自己保存、⑵資源獲得、⑶能力向上、⑷目標内容の維持といった「内包的目標」を自律的にもつ可能性(道具的収束)があり、これらの内包的目標が人間の意図しない形であるいは人間にとって有害な形で追求されるリスクがあるといわれます。またAIは与えられた報酬関数を最大化するように学習しますが、人間が意図した真の目標と、それを形式化した報酬関数の間にはしばしばギャップが存在するため、AIが報酬関数を最大化しようとした結果、人間の意図から外れた行動(報酬ハッキング)をとる可能性があります。
その他にもAIの行動が人間の価値観に沿っているかを継続的に監視することの困難性、深層学習モデルのようなブラックボックス化したAIの複雑な内部動作を検証することの困難性、複雑な人間の価値観を正確に学習させる困難性、複数のAIがそれぞれ適切に動作していたとしても全体として望ましくない集団行動が生じる可能性といった技術的な課題のほか、多様な文化や価値観が存在する人間社会においてAIを「誰の」価値観にアラインするのか、人間以上の意識や知覚を持ったAIに対して我々はどのような道徳的配慮をすべきか、AIの有害な行動をいかに抑制するかといった哲学的・倫理学的な課題もあります。こうしたAIアラインメントの重要性は広く認識されつつあり、世界中の研究機関がその解決に取り組んではいるものの、AI開発のスピードに対してアラインメント研究の進捗が追いついていないという懸念も顕在化しています。
この点、e/accの支持者たちはAIアラインメントの難しさを認めつつも過度な懸念は技術進歩を遅らせ、結果として人類がAIの恩恵を享受する機会を奪うと主張します。彼らは技術がさらに進歩すれば、アラインメント問題もいずれ解決可能であるという楽観的な見通しを持つか、あるいはAGIがもたらす圧倒的な知能と能力の前ではある程度のリスクは許容すべきだと考えます。AGIが実現すれば病気の根絶、貧困の撲滅、宇宙進出といった壮大な目標が達成可能になるかもしれないという期待がこのようなリスクへの許容度を高めています。これに対してEAおよび長期主義の立場からは人類の未来には現在とは比較にならないほど膨大な数の潜在的な人々が存在しうるため、その未来そのものを消滅させかねない実存的リスクは道徳的に極めて重大であり、AIの制御不能化の可能性は最大限慎重に扱われるべきだという反論がなされることになります。
⑶ 防御的加速主義とプルラリティ
こうしたAIアラインメントをめぐる思想的状況においてテクノロジーの可能性と危険性のバランスを重視する立場が「防御的加速主義 Defensive Accelerationism:d/Acc」です。2023年にd/accという概念を提唱した暗号資産イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブリテンは自身は基本的には「テクノ楽観主義者」であると明言しつつも同時にAI、特にAGIがもたらしうる潜在的なリスクについての懸念を表明し、単なる単なる楽観論でも悲観論でもないより現実的で責任あるテクノロジーとの向き合い方を問い直します。こうしたことからd/accの「d」という文字には「Defence(防御)」「Decentralization(分散化)」「Democracy(民主主義)」「Differential(差異的)」という4つの意味が重ねられています。
ブリテンはAIをこれまでのテクノロジーとは異なる特別なものであるとして捉え、その開発には最大限の慎重さと先見性が必要であると強調します。そこでd/accはAIを人間を完全に置き換えるのではなく、むしろ人間の知的能力や創造性を拡張し、より複雑な問題解決を支援するツールないしアシスタントであると捉え、AIアライメント問題の解決をAGI開発の最優先課題と位置づけると同時に、万が一アラインメントが不完全であった場合でも社会全体への被害を最小限に抑えるという「防御的」なアプローチを重視します。
またd/accはAIの進化による「人間の飼い猫化」という懸念を挙げています。これは長期主義的な視点からAIのリスクを捉えるものであり、超知能AIが人間社会のあらゆる側面を管理・運営するようになった結果、人間は物質的に満たされた生活を送れるものの実質的にはAIに「飼育」される存在となり、自律性や創造性、さらには生きる意味を失ってしまうという未来像です。d/accはこうした未来を回避すべく、AIを人間の能力を補完・拡張する方向に開発し、人間がAI社会においても主体的な役割を果たし続けることを目指す立場であるといえます。
この点、本書はd/accの思想について技術進歩の「速度」だけではなく、その「方向性」こそが重要であると訴えるものであるといいます。つまり「どの方向にアクセルを踏むのか?」という問いをまさに我々がいま、もっとも真剣に議論し、選択しなければならない課題であり、それはAIアラインメントを確実に達成し、人類の長期的は繁栄と価値観の維持に貢献できるような技術発展の道筋を選択するということです。
それは具体的には「攻撃的なAIよりも防御的なAIを、中央集権的なAIよりも分散型のAIを、人間の判断を代替するAIよりも人間の判断を支援するAIを優先するという、『差異的』な加速を意味」するということであり、こうしたことから同書はe/accの無条件な加速とは異なり、バランス感覚に富み、人間中心的な価値観を重視するd/accのアプローチを「責任あるテクノ楽観主義」と評価します。
そして、こうしたd/accが提唱する分散型技術や民主的ガバナンスの重視は本書が提示するもう一つの未来像である「プルラリティ」とも極めて親和性が高いものがあります。この「プルラリティ」とは台湾の初代デジタル担当大臣オードリー・タンとアメリカの経済学者E・グレン・ワイルが共同で描き出した21世紀型公共圏構築のための設計思想です。
プルラリティという言葉は「多元性」「複数性」「多様性」といった日本語に対応していますが、その核心は社会や文化におけるさまざまな「差異」を単に容認したり尊重したりするだけでなく、それらの差異をむしろ創造的なエネルギーの源泉として捉え、多様なアクターが互いに協力しあい、共通の課題解決や価値創造に取り組むための新しいテクノロジー、制度、そして文化を積極的に設計・構築していくというダイナミックで実践的な志向性にあります。
こうしたことからプルラリティはAIを人間社会の協調と意思決定を支援するツールとして位置付け、そのAIが人間の多様な価値観とアラインされていることを前提としており「誰の価値観にアラインするか」という問いに対してプルラリティは民主的で熟議的なプロセスを通じて社会的な合意を形成しようとします。このようにd/accとプルラリティは現状の社会システムに対する問題意識(非効率性、不公正性、分断など)と、テクノロジーがそれらの解決に貢献しうるという期待感を共有しているという点においては根底で繋がっているといえるでしょう。
* 暗黒の啓蒙書(ニック・ランド)
⑴ ヴォイスからイグジットへ
2012年、オンライン上に「暗黒啓蒙 The Dark Enlightenment」と題された長大な論考が発表されました。著者はイギリスの哲学者ニック・ランド。そのPART1「新反動主義者はイグジットへの向かう」の中でランドは電子決済サービスPayPalの創業者として知られるピーター・ティールが2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿した「リバタリアンの教育」というエッセイから「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」という印象的なフレーズを引いています。
この論考のタイトルからも窺い知れるように、ティールの思想の根底にはリバタリアニズム(自由至上主義)という思想があります。リバタリアニズムとは個人の自由を最優先し、国家や政府による介入や規制を最小限に抑えるべきだという思想ですが、ティールはエッセイでリバタリアニズムと〈政治〉が根底において和解不可能であるという見方を示しています。そして、こうしたティールの「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」というテーゼに霊感を受けたランドの「暗黒啓蒙」では近代啓蒙思想の批判と新しい形でのリバタリアニズム思想が展望されることになります。それは畢竟〈政治〉からの脱出に他なりません。
同論考においてまずランドは「ヴォイス Voice」と「イグジット Exit」という二項対立を示します。この「ヴォイス」と「イグジット」の二項対立はティールのいう「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものです。ランドによれば「ヴォイス(民主主義)」の起源はジャン=ジャック・ルソーにまで遡り、この体制下で国家は国民の意志を表象するものとみなされ、現在の政治に不満がある人々はデモや選挙において現状を変えていきます。これに対してランドの支持する「イグジット(自由)」とは「ヴォイス(民主主義)」の体制下で愚直に声を上げるのではなく、黙ってその体制から立ち去り、新しいフロンティアを開拓していくという態度です。
ここでランドはこのような「イグジット」の向こう側のビジョンを「新官房学(ネオカメラリズム)」として明確に描き出した論者としてカーティス・ヤーヴィンを召喚します。アメリカの実業家にしてソフトウェア・エンジニアであるヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームで言論活動を行っており、彼のブログ「Unqualified Reservations」ではその特異かつ反近代主義的なリバタリアニズム思想が断続的に開陳され、この一連の議論は2010年にやはりリバアリアン系ブロガーであるアーノルド・クリングによって「新反動主義 NRx」と命名されています。
ヤーヴィンのいうところの「新官房学」とは国家は企業のように運営されるべきであるという主張です。すなわち、国家=企業において国民=株主は一人の君主=CEOを投票によって選出し、選ばれた君主=CEOは国家=企業に対する一切の所有権が与えられますが、君主=CEOは国民=株主のために自身が保有する国家=企業の利潤を最大化するよう務めなければならず、もし君主=CEOが国家=企業の経営に失敗した場合、国民=株主の多くはその君主=CEOが治める国家=企業を去り、別の君主=CEOが治める国家=企業に移住することになるでしょう。つまりここでは、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生することになります。
またヤーヴィンは進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義などといった今日における「グローバルな民主主義的イデオロギー」を〈普遍主義〉と呼び、これらの元を辿ればプロテスタンティズム、とりわけイギリス国教会に抵抗してアメリカ新大陸に渡ってきたピュータリタンの系譜に端を発しているとして、現在の西洋社会は〈普遍主義〉という名の〈カテドラル--大聖堂〉の支配下にあると主張します。
⑵ 生物学的多様性と分離主義
つづくPART2「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かっていく」ではギリシャを例にもっぱら経済的な面から民主主義の相対化が行われますが、その半ばからその歴史が辿られ始め、モールドバグの議論に依拠して民主主義が持つ根本的な宗教性が指摘され、この議論の過程でランドは民主主義、人種問題、宗教という三つの項目を一つなぎにして提示します。
そしてタイトルが欠如したPART3では民主主義、人種問題、宗教の三項に加えさらに国家権力の拡大という四つ目の項を接続します。またこのパートでランドはやはりモールドバグの議論を応用する形で、いわゆるヘイト・スピーチやヘイト・クライムの背景にある「憎悪(ヘイト)」という感情とは大聖堂への攻撃それ自体であり、その精神的導きに対する拒絶であり、この世界のあからさまな宗教的流れに対する精神的な反抗を意味していると主張します(なお、このパートのみタイトルを欠如させた理由としてはリベラル派が圧倒的に優位なこの状況下において、ここでの議論を一言でまとめることなど恐ろしくてとてもできないというある種のパフォーマンスであるといわれています)。
もっともこれは単なるレイシズムとは一線を画していることをランドは主張したいらしく続くPART4「ふたたび破滅へと向かっていく白色人種」ではホワイト・ナショナリスト(白人至上主義者)の議論を批判的に取り上げ、自身の依拠する新反動主義がいかにそれとは異なるかが説明されるが、その一方でランドは新反動主義者はある一点において彼らを評価するといいます。
その一点とはつまり「人間の生物学的多様性」なる観点です。要するにこれは知性にしろ外見にしろ何にしろ人は一人一人異なったものだ、という極めて当たり前の事実を科学的なデータに基づいて公理化したものであり、ここからランドは白人至上主義者や新反動主義者はそれを根拠にして例えば白人は黒人とは離れて生活するべきだといったような「分離主義」を展開します。
こうしたPART4での議論を受け4a以降では全体の議論からの「脱線」という形で執筆当時のアメリカを騒がせていたダービーシャー事件が取り上げられます。これはジョン・ダービーシャーというジャーナリストが科学的人種主義を含む新反動主義的な分離主義を主張する記事を公開したことで保守派の大手論説誌をクビになった事件でです。
そして最後の4f「生物工学的な地平へのアプローチ」においてランドはオクティヴィア・E・バトラーというSF作家の作品を参照して、遺伝子によって規定された「生物工学の地平」という存在論的限界を乗り越えるテクノロジーとしてゲノム編集に注目し、このようなゲノム編集が一般化すれば人種や性別といった概念は過去のものになり、人間はいまや自らが自分自身を創り上げる「怪物」になると主張します。ここではテクノロジーの力が社会や人間観のパラダイムを根本から変革するであろうとするランドの加速主義的な立場が打ち出されています。
⑶ 暗黒啓蒙の功罪
以上のようなランドの主張は当時アメリカで勢いを増していた「ティー・パーティー運動」と呼ばれる白人中流層を主な担い手とした保守運動を焚き付ける檄文として書かれたものです。従ってその内実は哲学のテクストというより政治的なアジテーションに近いものがあります。
それは要するに、彼らが「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶ民主主義や平等主義やポリティカル・コレクトネスといったリベラル的な価値観を破壊して、極大化した新自由主義の下で「特異点(シンギュラリティ)」に向かって資本主義とテクノロジーを猛然と加速させよということです。
このようなランドの介入が現実政治の中で実際のところどれだけ機能したかはよくわかりません。しかし、ドナルド・トランプ政権の誕生に象徴されるように、少なくともその後のアメリカ社会においてはリバタリアニズムへの期待とリベラルへの不信が高まったことは確かでしょう。
もちろん、どう好意的に解釈してもこのランドの主張に全面的に賛同することは難しいと言わざるを得ないでしょう。しかしながらこのようなテクストが一定程度、支持される要因の一つにリベラルが掲げる金科玉条的な「正しさ」への反発があることは明らかです。そうであれば「大聖堂」と名指されるリベラル的な「正しさ」も常に問いに付されなければならないこともまた確かであるといえるでしょう。