かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

* ドゥルーズ哲学の実践としての『シネマ』

 
20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズの仕事は哲学にとどまらず、精神分析、文学、絵画、映画といった諸領域を変幻自在に横断するものであり、そこではさまざまな革新的な概念が創出されることになります。そして、このようなドゥルーズ哲学の枢要部にある哲学原理を國分功一郎氏は『ドゥルーズの哲学原理』(2013)において「超越論的経験論 L'empirisme transcendantal」と呼んでいます。この一見する語義矛盾のように思われる表現はいわばディヴィッド・ヒュームの経験論哲学とイマヌエル・カントの超越論哲学を総合するものであるといえます。
よく知られるようにヒュームは経験論という哲学を説き、人間の知性や認識の基礎を経験に求めました。これに対してカントはこのような経験そのものを可能とする条件を問います。このようなカントの問いは経験に先立つ先験的な「超越論的」と呼ばれる領域を切り開くことになります。これについてドゥルーズは『カントの批判哲学』(1963)において「超越論的とは、経験が必然的に我々のア・プリオリな表象に従う際の原理を指す」と定義しています。
 
ドゥルーズはカントによる超越論的なものの発見を高く評価します。その一方でドゥルーズはヒュームにこのようなカントが問うことをやめてしまった発生の問いを見出しています。こうしたことからドゥルーズはカント的な超越論的哲学の可能性を引き継ぐとともに、そこで喪われた発生の問いをヒューム的な経験論哲学によって補完します。これがいわば「発生を問う超越論哲学」としての「超越論的経験論」と呼ばれるものです。
 
そして、このようなドゥルーズの哲学原理たる超越論的経験論に基づく実践哲学を映画論というかたちで展開した著作が『シネマ』です。この『シネマ』という本は2巻に分かれています。大まかにいうと1983年に刊行された『シネマ1--運動イメージ』は第二次世大戦前の映画を、そして1985年に刊行された『シネマ2--時間イメージ』は戦後の映画を扱っています。
 
もっとも『シネマ1』の冒頭でドゥルーズは「これは映画史の研究ではない」と宣言しています。このきっぱりとした否定の身振りは一見『シネマ』の論述形式と食い違っているようにも思えます。数百本もの映画作品が参照される同書は1895年のリュミエール兄弟による映画の発明から始まり、デヴィット・ウォーク・グリフィスやセルゲイ・エイゼンシュテインなどのモンタージュの発明者たちの分析へと移り、第1巻の終盤では第二次世界大戦が映画に与えた影響が考察され、第2巻の冒頭で戦後映画の幕開けとしてイタリアのネオリアリズモが言祝がれ、やがて議論が進むにつれて同書が刊行された当時の1980年代の作品までもが射程に入ってくるという極めてオーソドックスな映画史的な枠組みに沿って書かれているともいえます。
 
にもかかわらずドゥルーズは後にインタビューに答えるかたちで同書を「哲学書」であるとはっきりと規定しています。よく知られるようにドゥルーズは哲学を「概念を創造する営み」として定義します。つまり彼にとって『シネマ』とは映画を通して新たに哲学的な概念を発明し、発明された諸概念によるシステムを構築する哲学書であったということです。
 

* ベルクソン哲学におけるイメージと持続

 
福尾匠氏は『眼がスクリーンになるとき』(2018)において『シネマ』にとって映画とは哲学の「フッテージ footage」であると捉えています。ここでいうフッテージは「足場」や「素材」といった意味で用いられています。『シネマ』は2巻合わせると22の章からなっていますが、そのうちの4つの章には「ベルクソン注釈」というサブタイトルが付されています。このことから分かるように『シネマ』は映画を扱う一方で「生の哲学」の潮流を担ったフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの著作の読解に取り組む書物でもあります。いわば『シネマ』は映画をフッテージとしてベルクソンの哲学を更新するものであるといえます。

 

眼がスクリーンになるとき

眼がスクリーンになるとき

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哲学史的にはベルクソンは「観念論」と「実在論」という二つの対立を乗り越えるために「イメージ」という概念を導入した哲学者として位置付けられます。ここでいう「イメージ」とは観念論者が「表象」と呼ぶものより「多いもの」であり、実在論者が「物」と称するものより「少ないもの」です。「表象より多い」とは我々の精神の外側の実在性を認めるということであり「物より少ない」とは知覚される性質とは別種の実在性を物質に認めることを退けるということです。つまりベルクソンにとってイメージとは、主体の内面に浮かぶ心像ではなく、世界そのものの存在様式なのであるということです。
 
ベルクソンはこのような「イメージ」のあり方は極めて「常識」的なものだといます。つまり見たままの対象の、見えた通りの実在性、つまりリアリティを、それがまさに我々の頭のなかにだけでなく「そこ」にあることを認めるため、ベルクソンはイメージという概念を考案したということです。
 
このようにベルクソンによるとあらゆるものはイメージであり、これらのイメージは恒常的な自然法則に従っており、それらの運動は計算によって予測することができるものであるとされます。にもかかわらずイメージの中で一つだけ、他のすべてのイメージから際立っているものがあります。それが身体です。身体はイメージの運動に予測不可能な影響を及ぼします。換言すれば充満するイメージから行動に役立つものだけを選び取ることで、行動の選択肢を得ることができるということです。ベルクソンはこのことを「作用と反作用が釣り合っていない」という言い方で表現します。
 
そして、こうした予測不可能で選択可能な身体の時間のあり方をベルクソンは「持続」と呼びます。この「持続」としての運動は分割不可能な我々の行動に伴うような時間性であり、つまり「持続」としての人の身体の現在は一定の厚みを持っているということです。
 

* 動かない切断面と動く切断面

 
こうしたことからベルクソンは「持続」としての身体における時間こそがリアルなものであり、分割可能な空間化された時間はある種の錯覚だと考え、このような錯覚を「思考の映画的メカニズム」と呼び、このメカニズムがいかにして運動あるいは持続を取り逃がすのかを分析しています。ところがドゥルーズはこのような映画的メカニズムを再評価して、ベルクソン的システムを映画に接続し直すことを試みます。
 
この点、ベルクソンのいう「映画装置」は非常に短い時間差を伴う複数の写真を一枚のフィルムの上に並べて焼き付け、それを高速で強い光の前を通過させることでスクリーン上に撮影された運動を再現するものです。換言すれば「映画装置」とは、あらゆる個別的な運動に対して例えば1秒間に24フレームという共通の尺度を与えることで、個別的な運動から「運動一般」を抽出するものといえます。
 
そしてこの映画装置のメカニズムは我々の認識のメカニズムでもあるとベルクソンはいいます。つまり、我々の経験においては常に「内的な映画装置」としての知性による運動の抽出と、自らが実在的な「持続」の中で行う具体的な行動は相補的なあるいは混在した関係にありますが、ベルクソンによれば人為的システムとしての「内的な映画装置」は自然的システムとしての身体に固有の「持続」を取り逃しているということです。
 
これに対してドゥルーズは「映画装置」が作動する仕組みはベルクソンが描き出した人為的システムと類比的なものであることは否定しませんが、その一方で「映画装置」が作動した結果としてスクリーンに映し出される「映画」の中に直接的に「持続」を見出しています。ここでドゥルーズは「映画装置」と「映画」を、それぞれ「動かない切断面」と「動く切断面」と呼びます。
 
ここでいう「動かない切断面」とは「映画装置」としてのフィルムに焼き付けられた一つ一つのコマであり「動く切断面」とは我々が「映画」を見るときのショットです。つまりドゥルーズにとって映画とは、静止したコマの擬似的連続ではなく、「動く切断面」としてのショットを通じて、持続そのものを知覚可能にする装置であるということです。いわば、ここでドゥルーズは「見たまま」の肯定というベルクソン的な「常識」を映画に接続しているといえます。
 

* 運動イメージと時間イメージ

 
では、こうした「映画」をフッテージとして更新されたベルクソン哲学はドゥルーズの哲学原理であるところの「超越論的経験論」へどのように接続されることになるのでしょうか。まずドゥルーズは『シネマ1』において古典的な映画を支配する「運動イメージ」なるものを論じています。ここでいう「運動イメージ」とは知覚と行動の連鎖によって定義されるイメージです。登場人物がある事態を知覚すると、その知覚はその人物に行動を促します。ドゥルーズの言い方からすれば状況が直接に行動に「延長」されることになります。
 
例えばチャールズ・チャップリンの『街の灯』(1931)。チャップリン演じる浮浪者は、道の傍らで花を売る少女に出会います。いかにもかわいそうなこの少女は助けられるべき形象として現れ、この「助けられるべきである」という意味の知覚はチャップリンの行動(ボクシングをして金を稼ごうとする等々)へと延長されることになります。
 
ここで運動イメージには既に解読された意味が貼り付いており、人物はその意味を感じ取り行動へと延長されています。つまり運動イメージとは「何をなすべきか」が明らかなイメージであるといえます。このような感覚と運動の連動をドゥルーズは「感覚運動的状況」「感覚運動的イメージ」とも呼びます。
 
ところがこの「運動イメージ」は映画史の中である危機を迎え、この危機とともに現れたのが『シネマ2』で論じられる「時間イメージ」です。この点、ドゥルーズは「運動イメージ」から「時間イメージ」への移行期を第二次世界大戦の終結に重ねています。つまり大戦によって「運動イメージ」は危機を迎え、大戦後の世界に「時間イメージ」が現れたということになります。
 
ここでいう「時間イメージ」とは知覚が行動へとただちに「延長されない」イメージであり、人が「何をなすべきか」が明らかではないイメージです。「時間イメージ」に規定された映画においては登場人物は状況に反応することができず、状況の中をただ彷徨うことになります。そしてドゥルーズによれば、このようなイメージが最初に現れたのがイタリアのネオレアリズモの映画です。
 
例えばヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)。主人公は2年の失業を経てやっと仕事を手にしますが、その仕事にどうしても必要だった自転車を盗まれてしまいます。彼は息子とともに必死に自転車を探しますが、何の成果をあげることもなく、時間だけがただ無情に流れていきます。ここで息子はただ父を眺めることしかできず、映画の最後の場面で自転車を盗む父親を見て息子はただ涙します。
 
このように時間イメージにおいては登場人物の行動とは全く無関係に行動によって回収されない時間そのものが露出することになります。こうした意味での時間の直接提示をドゥルーズは意味を剥奪された純粋なイメージという意味で「光学的-音声的イメージ」とも呼びます。
 
「運動イメージ」の映画では登場人物が状況に反応し行動するので、観客は登場人物に容易に同一化することができました。これに対して「時間イメージ」の映画ではむしろ登場人物が観客のように自分が置かれた状況をただ観察することになります。
 

* 自動的再認と注意深い再認

 
以上のような「運動イメージ」と「時間イメージ」の区別からドゥルーズは『シネマ2』で「主体性」の再定義を行います。ここでドゥルーズはロベルト・ロッセリーニの『ヨーロッパ1951年』(1952)をベルクソンの再認論によって読み解いています。
 
この点、ベルクソンは二つの再認を区別しています。まず一つは「自動的再認」です。例えば牛が草を再認してそれを食べるように、あるいは労働者が工場を再認してそこで働くように「自動的再認」では知覚は習慣的な行動へと延長されることになります。
 
もう一つは「注意深い再認」です。これは人が出会った対象の再認になかなか成功しない場合のそれをいいます。この「注意深い再認」では知覚が何かに延長されることはありません。人は何度も対象に立ち返り、回想を繰り返し、そこから「いくつかの特徴」を引き出そうとして「あれはなんだったのか?あれだったか?いや、これだったか」と、対象は一義的に同定されることなく、複数の記憶やイメージの回路へと開かれていきます。
 
そしてドゥルーズはこれらの二つの再認を区別した上でその区別を先の二つのイメージに重ねようとします。まず自動的再認がもたらすのは知覚から運動への延長であり、そこに現れているのは感覚運動的イメージ、すなわち知覚と運動の連鎖として定義された運動イメージです。
 
一見すると「自動的再認」は対象そのものをイメージしているように思われます。しかし自動的再認は対象から反応や行動に延長されるものしか取り上げません。牛が再認するのは一つ一つの草ではなく「草一般」にすぎません。知覚を行動へ延長するうえで一つ一つの草の差異を認識する必要はないからです。
 
つまり自動的再認は知覚を行動へと延長するために知覚されたものを適度に調整しているということです。例えば通学や通勤で毎日見ている曲がり角は毎日異なった相貌を呈しているはずですが、知覚の中に入り込んだ時点で「曲がり角を曲がる」という行動を妨げるようなもの(昨日とは違う日の光、昨日はなかったシミ等々)は知覚から削り取られることになります。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすのは対象のいくつかの特徴に過ぎませんが、この再認は対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強いることから、その都度その都度、人は対象の特異性に直面することになります。こうした光学的で音声的なイメージ、すなわち時間イメージこそが「真に豊か」なものであるとドゥルーズは述べています。
 

* 映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

 
ここで『ヨーロッパ1951』が取り上げられます。イングリッド・バーグマン演じるブルジョワ婦人アイリーンは愛する息子が死んだことでショック状態に陥っていましたが、やがて彼女はいとこで共産主義のアンドレアに連れられて貧民街の人たちの救済活動に参加するようになります。そしてドゥルーズが注目するのはアイリーンがたまたま知り合った女性の代わりに工場に働きに行く場面です。
 
彼女は工場に向かう労働者の群れ、工場の爆音、巨大な鉄の塊に驚愕し、卒倒しそうになります。彼女の中では工場という知覚は労働という行動へと延長されません。つまり自動的再認が働いていないということです。彼女はその工場が一体なんなのかを認識しようとして、何度も何度も対象(工場)に立ち帰ります。ドゥルーズの言葉でいえば「同じ対象(工場)が様々な回路を通過する」ことになります。
 
その夜、震えながら自宅に帰ったアイリーンは次の日、アンドレアに工場での体験を語り、彼女の言葉を受けてアンドレアは共産主義革命の夢を語ります。しかし彼女はアンドレアに同意することはなく、自分はもっと精神的なものに関わりたいのだと断言し「現代の聖女」と呼ばれるような活動を始めることになります。
 
このようなアイリーンの中で起こった出来事の中にドゥルーズは主体性の新しい意味を見ようとします。まず「自動的再認」がもたらすイメージ(感覚運動的イメージ)には「いわゆる主体性」が表れています。それは知覚から行動への移行ないし延長としての主体性です。これをドゥルーズは知覚と行動の隔たりが生じるとたちまち主体性が現れると説明しています。換言すればここでいう主体性とはこの知覚と行動の隔たりを埋めるものにすぎず、そこでもたらすのは決まりきった延長に過ぎません。ドゥルーズはこのような主体性を「第一の主体性」と呼びます。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすイメージ(回想イメージ)もまたやはり先の知覚と行動の隔たりを埋めようとします。そしてもしもこの隔たりを埋める作業が最終的に成功するなら、それによって自動的再認のもたらす感覚運動的な流れが回復することになります。
 
ところが注意深い再認が単に回想に終わらず、まだ既存の意味や行動へ組織されていない何かが、新たな知覚として立ち現れるとき、新しい主体性が発動することになります。つまり「注意深い再認は、成功した時よりも失敗した時の方が、はるかに多くのことを我々に教える」ということです。この「第二の主体性」と呼ぶべきものをドゥルーズは〈物質に付け加わる主体性〉と呼んでいます。
 
例えばアンドレアに見出せるのは第一の主体性です。彼は共産主義という信念を持っており、共産主義者という主体として貧民を知覚します。その知覚の意味はあらかじめ決まっており、それが救済という行動へと延長されます。ここでは主体と客体という区別がはっきりしています。そしてそれゆえに主体が何らかの変容を被ることはありません。
 
これに対してアイリーンは工場の光景にただ戸惑い、再認に失敗します。その結果、彼女はメタファーでも何でもない「工場は監獄である」という端的な知覚を得ます。そしてこの知覚こそが彼女に「現代の聖女」と呼ばれるような新たな主体性を発動させることになります。ここでは主体が自ら見出した客体に向かって主体性を発揮するのではなく、世界という物質の要請ないしは必然性に合致するようにして新たな主体性が現れていると言えるでしょう。
 
このようにしてみると映画における運動イメージと時間イメージの差異とは二つの異なる主体性の差異を描き出すものであると言えます。こうした意味でドゥルーズがいうように『シネマ』とは映画史の研究ではなく、ドゥルーズの哲学原理であるところの超越論的経験論の実践を映画をフッテージとして論じた哲学書であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

加速主義とAIアラインメント

* 加速主義の系譜

 
近年、テクノロジー関連の言説、現代思想の領域、さらには政治的な議論において「加速主義 Accelerationism」という言葉がよく見受けられるようになりました。この「加速主義」を大まかに定義するとすれば「現存する社会システム、特に資本主義が持つ内在的な傾向やダイナミズムを、意図的に『加速』させることによって、現在の社会システムそのものの質的変容、あるいはそれを超えた新しい社会システムの到来を目指す」というものです。
 
この大まかな定義からもわかるように加速主義は単一の教義やイデオロギーを指すわけではなく、その「加速」の対象、目的、方法論、そして倫理的評価は論者や文脈によって大きく変わってきます。ある人にとってそれは人間の解放へと向かうユートピアへの道であったり、別の人にとってそれは人間の終焉へと向かうディストピアへの道であったりもします。
加速主義の思想的萌芽は案外と古く、それは19世紀のカール・マルクスの著作にまで遡ることができます。マルクスは『共産党宣言』(1848)や『資本論』(1867〜)といった主著の中で資本主義がそれ以前のあらゆる社会システムを凌駕する驚異的な生産力を解き放ち、絶え間ない技術革新と市場拡大を通じて世界を変容させていくダイナミックなシステムであることを詳細に分析し、この資本主義の矛盾が極限に達したその先に、より高度な社会形態である共産主義が到来すると考えました。
 
そして20世紀後半、特に1968年の五月革命以降のフランス現代思想において加速主義的なアイデアは新たな形で展開されることになります。ポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリはその共著である『アンチ・オイディプス』(1972)や『千のプラトー』(1980)において資本主義を人間の欲望を解き放ち自己増殖していく「リゾーム的」な機械として捉え、こうした資本主義の「加速」の中に既存の権力構造や抑圧的システムからの解放を見出そうとしました。
 
ところが1990年代において加速主義の思想は、これまでとはまったく異なるダークで過激な方向へと向かうことになります。この転換の中心人物となったのがイギリスのウォーリック大学に拠点を置いていた哲学者ニック・ランドと、彼が関わった「CCRU Cybernetic Culture Research Unit 」と呼ばれる研究ユニットです。
 

* ニック・ランドとCCRU

 
ニック・ランドは資本主義をテクノロジーと結びつくことで自己増殖しあらゆる人間的価値や制御を振り切って加速していく「テクノキャピタル」と呼び、人間の知能や意識がAIによって凌駕され「シンギュラリティ(技術的特異点)」へと到達する未来を、資本の自己実現プロセスが最終段階に至る必然的な帰結としてある種のニヒリスティックな興奮とともに肯定しました。
 
このランドの思想は極端な反人間中心主義を特徴とし、理性、啓蒙、進歩といった近代的な価値観を徹底的に解体しようとするものです。彼にとっての「加速」とは人間的な制御や意味づけから解放された純粋なテクノロジーと資本の自己運動の暴走そのものを意味しています。
 
そして、このランドを思想的リーダーとして戴くCCRUは哲学、文学、サイエンスフィクション、音楽、オカルトなどが混淆する極めて学際的かつ実験的な集団であり、彼らはドゥルーズ=ガタリの思想、ウィリアム・ギブスンなどのサイバーパンク文学、テクノミュージック、そして勃興しつつあったインターネットカルチャーなどから多大な影響を受け、資本主義とテクノロジーが融合し、人間を置き去りにして暴走していく未来像を時に熱狂的に、時に冷徹に描き出しました。
 
さらに2000代後半以降になるとランドの思想はインターネット上で「暗黒啓蒙 Dark Enlightenment」あるいは「新反動主義 Neoreactionism」と呼ばれ、極右的・反動的な思想潮流の教祖的存在として再評価されることになります。新反動主義者は民主主義、平等主義、社会正義といった現代の支配的価値観を「大聖堂 The Cathedral」と呼んで敵視し、それらを破壊してより階層的で権威主義的な社会秩序(例えば、君主制や企業による統治など)を復活させるべきだと主張します。
彼らはランドの加速主義的な洞察、特にテクノキャピタルの非人間的な力への着目を自らの反動的アジェンダと結びつけ、テクノロジーの発展は一部の優れたエリート(技術的選民)によって主導されるべきであり、大衆による民主的統制はむしろその進歩を妨げるものと見做しました。このような排外主義的で選民主義的な「右派加速主義」とも呼ばれる潮流はそのSF的で終末論的な雰囲気と既存の価値観へのラディカルな挑戦によって一部でカルト的な影響力を持つに至ります。
 

* 加速主義の現代的展開

 
その一方で2008年の金融危機以降、資本主義の将来に対する不確実性が高まる中で「左派加速主義」と呼ばれる動きが登場します。その代表的な論客がイギリスの思想家アレックス・ウィリアムズとニック・スルニチェクです。彼らは2013年に発表した「加速派政治宣言」やその後の著書『未来を発明する--ポスト資本主義と労働なき世界』において、現代の左翼が陥っている「フォーク政治(地域限定的、一時的、直接行動主義的で大規模な構造改革を目指さない政治)」を批判して、資本主義が生み出した最新のテクノロジー(自動化、情報技術、AIなど)を積極的に活用し、労働の抜本的な削減(労働時間の短縮やベーシックインカムの導入など)、普遍的な社会保障の確立、そして最終的には資本主義を超えたポスト資本主義社会への移行を目指すべきだと主張します。
 
彼らにとってテクノロジーはそれ自体が善でも悪でもなく、それをどのような社会的目的のために、どのような政治的ヘゲモニーの下で用いるかが問題になります。彼らはテクノロジーの潜勢力を最大限に引き出すことで、より自由で平等な社会を構築するための「対抗ヘゲモニー的」なプロジェクトを推進すべきだと訴えます。このように左派加速主義はテクノロジーに対する楽観的な視点とそれを社会変革の戦略的ツールと見做すプラグマティックな姿勢を特徴としています。
 
さらに現代において加速主義はさらに多様なバリエーションや解釈が生まれています。例えば「無条件加速主義 Unconditional Accelerationism:U/Acc」はニック・ランドの思想を最も純粋に継承し、テクノキャピタルのプロセスをいかなる人間的な価値判断や目的からも切り離し、無条件に加速させることを主張します。それは人間の制御や理解を超えた純粋な技術的プロセスへの没入を志向するある種のニヒリズムといえます。
 
また「ジェンダー加速主義 Gender Accelerationism:G/Acc」や「ゼノフェミニズム Xenofeminism:XF」といった潮流はフェミニズムの視点からテクノロジーと加速の概念を捉え直し、既存のジェンダー規範や家父長制的構造を解体し、テクノロジーを用いて新たな身体性やアイデンティティの可能性を追求しようとします。これらは左派加速主義の解放のポテンシャルをジェンダーという特定の領域で先鋭化させようとする試みであるといえます。
 
さらに加速主義的なテーマや感性は現代アート、音楽、文学、映画といった様々なカルチャーの領域でも表現されることになります。こうしたことから加速主義は単なる哲学的な潮流にとどまらず、現代社会の複雑な動態とそれに対する多様な応答の総体として捉えるべきであるといえるでしょう。
 

* 効果的加速主義と効果的利他主義/長期主義

 
こうした加速主義の2020年代における潮流として近年、シリコンバレーを中心とするテクノロジー業界で急速に注目を集め一種のムーブメントになりつつあるのが「効果的加速主義 Effective Accelerationism:e/Acc」です。このe/accはその名が示す通り、ニック・ランド的な加速主義の思想的影響を受けつつも、より「効果的」かつ実践的な形でテクノロジーの進歩を推進し、社会変革を実現しようとする潮流であり、AI技術、特に汎用人工知能(AGI)の急速な発展を背景にそのポテンシャルを最大限に引き出すことを最重要課題として、規制や倫理的懸念に対してはしばしば批判的な立場を取ります。
 
e/accという言葉は2022年ごろからソーシャルメディア上で広がり始め、匿名あるいは半匿名のインフルエンサーたちによって精力的な議論が展開されています。その思想的背景にはシリコンバレーに長らく根付いてきた技術ユートピア主義やトランスヒューマニズムやリバタリアニズムといった要素が複雑に絡み合った特有の精神風土が色濃く反映されています。これらの思想は従来、シリコンバレーの起業家精神やイノベーション文化と結びつき「カルフォルニアン・イデオロギー」とも呼ばれる独特の価値観を形成してきましたが、e/accはこれらの既存の価値観を継承しつつ、特にAI技術の飛躍的進展という新たな文脈の中でそれらをより先鋭化させたものであり、その究極目標は宇宙への進出とシンギュラリティの早期実現にあるとされています。
 
こうしたe/accと対立関係にあるのが「効果的利他主義 Effective Altruism:EA」という立場です。EAは21世紀初頭にピーター・シンガー、トビー・オード、ウィリアム・マッカスキルといった哲学者たちを中心に提唱された思想ないし社会運動であり、その核心的な理念は理性とエビデンスに基づいて、世界を最も効果的に良くする方法を考え抜き、それに則って行動するというものです。その哲学的根源の一つにはジェレミー・ベンサムやジョンスチュアート・ミルによって体系化された功利主義があります。功利主義は行為における道徳性をその行為がもたらす結果(特に幸福の総量や苦痛の軽減)によって判断しようとする考え方ですが、EAはこの功利主義的な発想を現代的課題に応用する試みであるといえます。
 
EAが特に焦点を当てる問題領域は大別して⑴世界の極度の貧困の削減、⑵工場畜産における動物の苦痛の軽減、⑶人類の未来を脅かす実存的リスクの低減という3つです。そしてこの3つ目の柱である人類の未来を脅かす実存的リスクの低減と密接に関連し、近年特にEAコミュニティ内で影響力を増しているのが哲学者ニック・ボストロムやヒラリー・グリーヴスらによって精力的に論じられている「長期主義 Longtermism」という考え方です。長期主義の核心的な主張は未来に存在するであろう膨大な数の人々の幸福や潜在的可能性は、現在生きている我々のそれと同等か、それ以上に道徳的重要性を持つものであり、それゆえに我々の行動は人類の長期的な未来に最も大きなプラスの影響を与えることを優先すべきであるというものです。
 

* AIアラインメント問題をめぐる対立

 
e/accとEAおよび長期主義の対立関係は「AIアラインメント」という問題において先鋭化します。AIアラインメントとは、極めて高度な知能を持つAIを人間の意図や価値観、倫理規範に沿って安全かつ有益に機能するように設計・制御し、それを保証するための一連の研究課題を指しています。
 
AIアラインメントの課題は多岐に渡ります。例えばニック・ボストロムが指摘するように高度なシステムはどのような最終目標を与えられたとしてもその目標を効率的に達成するための中間目標として⑴自己保存、⑵資源獲得、⑶能力向上、⑷目標内容の維持といった「内包的目標」を自律的にもつ可能性(道具的収束)があり、これらの内包的目標が人間の意図しない形であるいは人間にとって有害な形で追求されるリスクがあるといわれます。またAIは与えられた報酬関数を最大化するように学習しますが、人間が意図した真の目標と、それを形式化した報酬関数の間にはしばしばギャップが存在するため、AIが報酬関数を最大化しようとした結果、人間の意図から外れた行動(報酬ハッキング)をとる可能性があります。
 
その他にもAIの行動が人間の価値観に沿っているかを継続的に監視することの困難性、深層学習モデルのようなブラックボックス化したAIの複雑な内部動作を検証することの困難性、複雑な人間の価値観を正確に学習させる困難性、複数のAIがそれぞれ適切に動作していたとしても全体として望ましくない集団行動が生じる可能性といった技術的な課題のほか、多様な文化や価値観が存在する人間社会においてAIを「誰の」価値観にアラインするのか、人間以上の意識や知覚を持ったAIに対して我々はどのような道徳的配慮をすべきか、AIの有害な行動をいかに抑制するかといった哲学的・倫理学的な課題もあります。こうしたAIアラインメントの重要性は広く認識されつつあり、世界中の研究機関がその解決に取り組んではいるものの、AI開発のスピードに対してアラインメント研究の進捗が追いついていないという懸念も顕在化しています。
 
この点、e/accの支持者たちはAIアラインメントの難しさを認めつつも過度な懸念は技術進歩を遅らせ、結果として人類がAIの恩恵を享受する機会を奪うと主張します。彼らは技術がさらに進歩すれば、アラインメント問題もいずれ解決可能であるという楽観的な見通しを持つか、あるいはAGIがもたらす圧倒的な知能と能力の前ではある程度のリスクは許容すべきだと考えます。AGIが実現すれば病気の根絶、貧困の撲滅、宇宙進出といった壮大な目標が達成可能になるかもしれないという期待がこのようなリスクへの許容度を高めています。これに対してEAおよび長期主義の立場からは人類の未来には現在とは比較にならないほど膨大な数の潜在的な人々が存在しうるため、その未来そのものを消滅させかねない実存的リスクは道徳的に極めて重大であり、AIの制御不能化の可能性は最大限慎重に扱われるべきだという反論がなされることになります。
 

* 加速主義とAIアラインメント

 
こうしたAIアラインメントをめぐる思想的状況においてテクノロジーの可能性と危険性のバランスを重視する立場が「防御的加速主義 Defensive Accelerationism:d/Acc」です。2023年にd/accという概念を提唱した暗号資産イーサリアムの共同創設者ヴィタリック・ブリテンは自身は基本的には「テクノ楽観主義者」であると明言しつつも同時にAI、特にAGIがもたらしうる潜在的なリスクについての懸念を表明し、単なる単なる楽観論でも悲観論でもないより現実的で責任あるテクノロジーとの向き合い方を問い直します。こうしたことからd/accの「d」という文字には「Defence(防御)」「Decentralization(分散化)」「Democracy(民主主義)」「Differential(差異的)」という4つの意味が重ねられています。
 
ブリテンはAIをこれまでのテクノロジーとは異なる特別なものであるとして捉え、その開発には最大限の慎重さと先見性が必要であると強調します。そこでd/accはAIを人間を完全に置き換えるのではなく、むしろ人間の知的能力や創造性を拡張し、より複雑な問題解決を支援するツールないしアシスタントであると捉え、AIアライメント問題の解決をAGI開発の最優先課題と位置づけると同時に、万が一アラインメントが不完全であった場合でも社会全体への被害を最小限に抑えるという「防御的」なアプローチを重視します。
 
またd/accはAIの進化による「人間の飼い猫化」という懸念を挙げています。これは長期主義的な視点からAIのリスクを捉えるものであり、超知能AIが人間社会のあらゆる側面を管理・運営するようになった結果、人間は物質的に満たされた生活を送れるものの実質的にはAIに「飼育」される存在となり、自律性や創造性、さらには生きる意味を失ってしまうという未来像です。d/accはこうした未来を回避すべく、AIを人間の能力を補完・拡張する方向に開発し、人間がAI社会においても主体的な役割を果たし続けることを目指す立場であるといえます。
 
SF作家・コンサルタントの樋口恭介氏は近年の加速主義の動向を概説する『21世紀を動かす思想』(2026)においてd/accの思想は技術進歩の「速度」だけではなく、その「方向性」こそが重要であると訴えるものであるといいます。つまり「どの方向にアクセルを踏むのか?」という問いをまさに我々がいま、もっとも真剣に議論し、選択しなければならない課題であり、それはAIアラインメントを確実に達成し、人類の長期的は繁栄と価値観の維持に貢献できるような技術発展の道筋を選択するということです。
 
それは具体的には「攻撃的なAIよりも防御的なAIを、中央集権的なAIよりも分散型のAIを、人間の判断を代替するAIよりも人間の判断を支援するAIを優先するという、『差異的』な加速を意味」するということであり、こうしたことから同書はe/accの無条件な加速とは異なり、バランス感覚に富み、人間中心的な価値観を重視するd/accのアプローチを「責任あるテクノ楽観主義」と評価します。
 
 
では改めて、AIの何がこれまでのテクノロジーと異なる特別なものといえるのでしょうか?AIもコンピューターの一般的なアルゴリズムと同様に、その基本は「入力(Input)」「処理(Process)」「出力(Output)」という「IPO」の構造になっています。しかしここでの「P」の部分がAIと一般的なアルゴリズムでは全く異なった原理で動作しています。
 
この点、一般的なアルゴリズムはあらかじめ定義された定型のパラメーターによる入力に基づいた処理を行いますが、これに対してAIは事前定義されているとは限らない不定型のパラメーターを入力しても何かしらの処理を行います。このようなAIの処理は何らかの「学習」によって可能となります。
 
ここでいう「学習」とは人間が正解を与える「教師あり学習」と、正解を与えない「教師なし学習」の2種類があります。この後者の「教師なし学習」では「ディープ・ランニング(深層学習)」という手法が用いられ、人間が個々のデータを事前に識別する作業をしなくても、機械が勝手に分類を進め、より大量のデータをまさに機械的に学習します。このような「学習」の結果、AIは厳密には違いがある対象でも「だいたい同じようなもの」をひとかたまりの分類として識別するという人間の認知の特性を模倣することになります。
 
つまり一般的なアルゴリズムは同一の組み合わせの定型パラメーターに対しては常に同じ出力になることが保証されたルールに基づく「決定論モデル」で動作していますが、これに対してAIは不定型の入力の組み合わせに対してこの出力が求められている確率が高いという判断を大量のデータの学習によって実現する「確率論モデル」で動作しているということです。
 
ある意味それは「経験(データ)」に基づく推論であるがゆえに、その判断のプロセスには明文化されたルールのようなものがないという不確定性を持っています。その意味で現在のAIは自我や自己意識を持っているわけではありませんが、機械としての正確性や一貫性ではなく、学習した「経験」に基づく確率論的な判断という意味では「人間的」な曖昧さを持っているといえるかもしれません。
 
つまりその限りでAIには現代思想の用語でいうところの「他者性」を想起させる要素を持っているといえるでしょう。そうであればAIアラインメントの核心にはこのようなAIにおける「他者性」が孕む危うさをいかに制御しつつ、その可能性を開いていくかという視点があるといえるでしょう。こうした意味で加速主義とAIアラインメントをめぐる一連の思想的動向からは、我々がAIなる「他者性」と付き合っていく上での様々な示唆を得ることができるように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アルゴリズム・庭・批評、あるいはメディア・インフラ・リテラシーについて

* アルゴリズムは公正で信頼できるのか

 
我々が日常的によく使う検索エンジンやソーシャルメディア、レビューサイト、動画共有サイトといったインターネットのプラットフォームは「アルゴリズム」で動作しているという言い方がよくされます。この「アルゴリズム Algorithm」という言葉はもともとコンピューター用語というわけではなく、その語源は9世紀ごろにバグダッドで活躍した数学者、アル=フワーリズミーの名前だとされています。アル=フワーリズミーが著した計算法についての書籍がラテン語に翻訳された際に、その著者名が「アルゴリズム」と表記され、それがそのまま「計算法」を意味するようになったということです。
 
このようにアルゴリズムとは本来は何らかの問題を解決するための計算手順や処理手順を広く指し示すものであり、その対象は必ずしもコンピューター上で動作するプログラムの処理手順に限定されるわけではなく、計算式や設計図やレシピもアルゴリズムであり、さらには法律や楽譜も広い意味でのアルゴリズムであるといえます。
 
アルゴリズムは大きく「入力 Input」「処理 Process」「出力 Output」という3つの要素から構成されており、これらの3つの要素はひとまとめに「IPO」と呼ばれます。実際のアルゴリズムの多くは一定のIPOを部品化したモジュールを数多く組み合わせることで構築されていますが、いずれにしても、あるアルゴリズムにおいて同一の入力はすべからく同一に処理されて同一に出力されることになります。すなわち「誰がやっても同じ結論にたどり着く」という属人性の排除がアルゴリズムの本質にあります。
 
しかしその一方で、その入力に対してその処理と出力が妥当なものかどうかはアルゴリズム自体の「設計」に依存しています。そしてその「設計」という行為自体は誰がやっても同じになるということはなく、むしろそこにはそのアルゴリズムの目的に応じた設計者の主観や価値観、時には政治的な立場までもが含まれていることがあります。端的にいえばアルゴリズムの動作自体は公正で信頼できるものであるといえますが、その設計は必ずしも公正で信頼できるものであるとは限らないということです。
 

* アルゴリズムは誰にとって最適化されているのか

 
メディア論研究者の宇田川敦史氏は『アルゴリズム・AIを疑う』(2025)においてアルゴリズムが「誰にとって」最適化されているかという視点からアルゴリズムが社会に及ぼす影響を包括的に論じています。
一般的にアルゴリズムはその提供者であるプラットフォーム企業の収益に最適化されています。ここでいうアルゴリズムの最適化とは企業におけるKGI(Key Goal Indicator)と呼ばれる経営上の目標(例えば収益)を達成するためKPI(Key Performance Indicator)と呼ばれる指標(例えばコンバージョン・レート)の計測値を最大化するためにアルゴリズムのロジックやパラメーターを調整することを指しています。
 
この点、検索エンジンやソーシャルメディア、レビューサイト、動画共有サイトといった多くのプラットフォームはもっぱら広告料から収益を得る広告モデルで運営されています。それゆえにプラットフォームのアルゴリズムはユーザーの便益というよりも広告主の利益、さらにはそれによって得られる広告料に関連するKPIに最適化されています。
 
こうしたことから経済学者のニック・スルニチェクは21世紀の資本主義の状況を「プラットフォーム資本主義」と表現し、経済活動において「ビッグ・テック」などとも称されるプラットフォーム企業の影響力が強大になっていることを批判的に論じています。ここでいう「プラットフォーム資本主義」とはユーザーがプラットフォーム上で行動した履歴などのデータを「原材料」として、アルゴリズムによって加工・流通させることが中心化した資本主義のことをいいます。
 
その「原材料」となるデータの収集・取得プロセスはプラットフォーム企業のアルゴリズムによって自動化され、集められたデータは大規模なデータベースとして蓄積されることになります。そしてこれらのデータは、また別のアルゴリズムによって広告などの商品へと変換され、プラットフォーム企業の収益となります。まさにアルゴリズムはこれらの収益を最大化するために最適化され、ユーザーの行動履歴などのデータは、その商品化の手段として扱われているということです。
 

* 情報オーバーロードとアテンション・エコノミー

 
このようにプラットフォームにおけるアルゴリズムのほとんどはユーザーの利便性や満足を直接的に追求したものとは限らず、そのアルゴリズムの提供者の収益を目標として最適化され、その結果として、一定のユーザー体験をもたらしているに過ぎません。そしてこのような「最適化」は時に一般のユーザーや社会にとって望ましくない結果をもたらすこともあります。
 
ソーシャルメディアをはじめとした一般ユーザーが容易に表現・発信を可能とするプラットフォームの普及によりインターネットにおける流通情報量が指数関数的に増大したことで、現代の情報環境は適切な情報選択に基づく意思決定が困難になる「情報オーバーロード」と呼ばれる状況が常態化しているといえます。
 
メディア研究者のアレクサンダー・ハラヴェはこのような情報環境における検索エンジンの役割を「探す」技術であると同時に「無視する」技術であると論じています。これはインターネット上で利用可能な情報量がいくら増加しても人間の身体が情報を処理できる量は増えない、というある意味で当たり前の事実からくる帰結といえます。このような人間の情報処理の容量は「認知資源」と呼ばれますが、いまやほとんど無限に供給される情報に対して人間は限られた「認知資源」を特定の情報に振り分ける必要に迫られているということです。
 
この点、情報科学者のハーバート・サイモンはまだコンピューターやネットワークが一般に普及する以前の1970年代にこれからの経済においては人々の「アテンション(注目)」が取引対象として重要になると予言的に論じています。認知資源の制約により、人間は単位時間あたりの「アテンション」を複数の対象に同時に振り向けることが困難であり、このことは特定の対象に選択的に「アテンション」を振り向けることは他の対象を無視することを意味します。つまり、流通する情報が過剰であればあるほど、そこに振り向けられる「アテンション」自体が稀少な資源となり、情報提供者からすればいかにして稀少な「アテンション」を獲得するかこそが主要な競争原理となるということです。
 
そして、社会学者であるマイケル・ゴールドハーバーはインターネットが普及し始めた1997年にサイモンの予言が現実化し、認知資源という制約のもとで稀少になった人々の「アテンション」が実際に競争の対象になった状況を「アテンション・エコノミー(注目経済)」という概念で指し示しています。インターネットの「プラットフォーム化」が進行し、さらに情報流通量が増大した現代の情報環境においては、この「アテンション・エコノミー」の原理はますます強まっているといえるでしょう。
 

* アルゴリズムと認知バイアスの相互作用

 
このようなアテンションに対する最適化は人間が持つ心理特性と重なり合うことで時により複雑で厄介な問題につながってきます。この点、心理学者・行動経済学者のダニエル・カーネマンは人間の思考過程を「速い思考」と「遅い思考」に分類し「速い思考」を実現する脳のシステムを「システム1」と呼び「遅い思考」を実現する脳のシステムを「システム2」と呼んで区別する「二重過程理論」を提唱しています。
 
ここでいうシステム1が司る「速い思考」とはある外的刺激(例:窓の外で音がする)に対して素早く反応(例:窓の方を振り向く)するような無意識的な思考モードを指しています。これに対してシステム2が司る「遅い思考」とはある外的刺激(例:窓の外で音がする)に対して論理的な推論(例:どのように対処すべきか)などを行う意識的な思考モードを指しています。人は通常、このシステム1(速い思考)とシステム2(遅い思考)の連携によって情報を処理しています。
 
そしてシステム1(速い思考)のような認知資源の節約につながる情報処理方略は「ヒューリスティック」と呼ばれます。この「ヒューリスティック」は直感や経験則に基づく素早い判断を行う思考様式で、例えば「(ちゃんとした根拠はないが)パッとみた目が外国人に見えるから日本語が通じないだろうと判断する」といった「短絡的な」判断のことを指しています。
 
このようなヒューリスティックなどによって判断に偏見が入ったり論理的でなくなったりするような心理的な傾向性は「認知バイアス」と総称され、この「認知バイアス」のうちよく知られているものの一つに「確証バイアス」というものがあります。これは自分の信念に合致する情報を過大に評価し、合致しない情報を過小評価するという心的傾向のことをいいます。端的にいえば人間は「信じたいものを信じ、信じたくないものを信じない」という判断をしやすいということです。
 
そうした人間の心理的傾向に対してソーシャルメディアをはじめとしたプラットフォームはアルゴリズムによってユーザーのCTR(Click Through Rate:クリック率)や滞在時間が最大化するような情報を提示します。ここではユーザーが「信じたい」と思う情報の方がよりCTRが高ければ、アルゴリズムはそのような情報を(たとえ真実であろうとなかろうと)頻繁に表示するように勝手に最適化してしまいます。こうしてアルゴリズムと認知バイアスの相互作用により、たとえ真偽が不明であってもユーザーにとって「心地よい」情報だけが選別されたメディア環境が構築されることになります。
 

* アテンション・エコノミーとアルゴリズムの病理

 
このように情報オーバーロード環境においては認知資源の節約が可能なシステム1による「速い思考」で情報を処理することが効率的である一方、システム2による「遅い思考」を積極的に働かせて情報の真偽を吟味したり論理的に熟考したりすることは「コスパ」が悪いことになってしまいます。いってみればアルゴリズムが選別してくれた情報をそのまま「深く考えずに」直観的に受け入れることが脳にとっても情報処理の負荷を小さくできるということです。けれども現代のアテンション・エコノミーの下では、まさにこうしたアルゴリズムによって最適化されたメディア環境から諸々の弊害が生じてくることになります。
 
インターネットが普及期に入った2000年代、法学者のキャス・サンスティーンはインターネット事業者のアルゴリズムが過剰な情報を調整しようとした結果、個々のユーザーが自分と似たような意見の人々とだけ交流しがちになる「エコーチェンバー」が起きることを指摘しています。こうしたエコーチェンバーはユーザーの選択とアルゴリズムが相互作用することでユーザーの確証バイアスを強化してしまう事になります。
 
またインターネットの環境活動家であるイーライ・パリサーは情報オーバーロードに適応するためのフィルタリングは個々のユーザーにとって必要な情報だけをプラットフォームのアルゴリズムが選別して表示するパーソナライゼーションによって加速していることを指摘し「フィルターバブル」という概念を提示しました。このプラットフォームのフィルタリングに基づく「フィルターバブル」は個々のユーザーの反応に基づく「エコーチェンバー」と相互に重なり合い、アテンション・エコノミーにおける「快適な」ユーザー体験とプラットフォームの収益向上の両立を可能とします。
 
さらにアテンション・エコノミーとそれに最適化されたアルゴリズムが大きく関係する社会問題として偽情報・誤情報の流通増加が挙げられます。ここでいう偽情報・誤情報は一般的に「フェイクニュース」とも呼ばれたりしますが、この言葉は定義が曖昧なまま多義的に濫用される傾向があることや、問題となる情報には「ニュース」以外も含まれることから現在は研究者レベルではあまり積極的に使われていないようです。
 
この点、欧州評議会では「フェイクニュース」の代わりに問題のある情報を総称して「情報障害 Information Disorder」と呼び「誤情報(害を与えること意図していないが不正確な誤った情報)」「偽情報(害を与える意図のある捏造や意識的な虚偽情報)」「悪意ある情報(害を与える意図をもって共有される事実)」の三つに分類しています。このうち「フェイクニュース」の範疇にほぼ重なっているものが誤情報と偽情報です。
 
そしてこれらの偽情報・誤情報の中には「陰謀論」と呼ばれるものが含まれます。「陰謀論」とは政治的・社会的な出来事や、事件や事故などの何らかの出来事についてその背後に強大かつ強力な集団・組織による力が働いていると理解し、説明しようとする考え方、あるいはその強大かつ強力な組織に対する異議をいいます。この陰謀論の特徴は客観的にみれば荒唐無稽な物語であってもエコーチェンバーとフィルターバブルによってその物語を信じる仲間同士で団結し論理的に疑うことができなくなってしまうところにあります。これは程度の差はあれ、現代の情報環境においては誰にでも起こりうる事態であるといえます。
 

* ブラックボックス化とインフラとしてのアルゴリズム

 
その一方、我々ユーザーが日常的なメディア利用においてこうしたアルゴリズムの介在を意識することは基本的にあまりないでしょう。これは我々がアルゴリズムを「ブラックボックス」として扱っていることを意味しています。
 
この点、コンピューター科学における本来の意味の「ブラックボックス」とはIPO(入力→処理→出力)のI(入力)とO(出力)の一貫性が保証されていれば、その間にあるP(処理)がどのようになっているかをいちいち確認しなくても済むことを指します。つまりPを「ボックス(箱)」のように見立てて、そのボックスに何かを入れたら自動的に求めるものが出てくるというイメージです。
 
そして哲学者のブルーノ・ラトゥールは科学的な知識や技術一般における「ブラックボックス化」について「科学的および技術的な成果が、その成功自体によって不可視化されること、機械が効率的に動作している限り、もしくは科学的な事実が確立している限り、人々はそのインプットとアウトプットのみに注目することにより、内的な複雑さは無視されることになる」と定義します。
 
こうした「ブラックボックス化」は技術に対して認知資源を割かずになるべくラクをしたいという社会的な欲望によって構築されるものです。すなわち、アルゴリズムがブラックボックス化するのはプラットフォームが何かを隠蔽しようとした結果というよりも、情報オーバーロード環境において技術的な仕組みを意識しないで済ませたいというユーザー側の社会的な要請の結果であるということです。
 
このことは同時にインターネットやスマートフォン、プラットフォームなどといったメディアがもはや社会的な「インフラ」として機能していることを示しています。社会学者のスーザン・リー・スターと情報科学者のカレン・ルーレダーは「インフラ infrastructure」という概念をそれが安定的に稼働しているときには「透明」で不可視なものとして扱われている事物の状態であると定式化しています。つまり何らかのシステムがインフラであるとは、それが「あたりまえ」であるがゆえにその存在を無視できるということです。
 
しかしそのようなシステムをインフラと見做せるかどうかは文化的・社会的な文脈、あるいは立場に依存します。とりわけ普段問題なく稼働しているインフラが何らかの不具合を起こした際にはその透明化されていたはずのシステムが突然認識の対象物になるでしょう。科学技術社会論ではこうした何らかの変化をきっかけとしてインフラが可視化される現象を「インフラ的反転」と呼んでいます。これはインフラを固定的なモノではなく関係論的・認識論的概念として捉える見方であるといえます。
 
こうしたことから宇田川氏は「プラットフォーム資本主義」のはらむ問題点を踏まえつつも、その上で、ユーザー自身が(個々人が意図せざる社会的な相互作用の結果として)プラットフォームやインターネットの技術をインフラ化し、そこで動作するアルゴリズムをブラックボックス化して、それらの詳細を意識しないで済む社会を望んで構築してきたという事実に気づくことは単にプラットフォーム企業を悪者扱いするよりも重要な視点であるといい、こうしたインフラを可視化しブラックボックスを少しでも理解するため、従来のメディア・リテラシー(いわゆる情報モラル教育)とは異なる水準でのメディア・リテラシーを、すなわち、アリゴリズムを疑い、そのあるべき姿を構想する「メディア・インフラ・リテラシー」を提唱します。
 

* アルゴリズム・庭・批評、あるいはメディア・インフラ・リテラシーについて

 
こうしたメディア論における「メディア・インフラ・リテラシー」という考え方からは現代の情報社会論における新たな論点を得ることができるように思えます。
 
例えば宇野常寛氏は『遅いインターネット』(2020)や『砂漠と異人たち』(2022)や『庭の話』(2024)において、フェイクニュース(偽情報・誤情報)や陰謀論が蔓延し、時に正義の名のもとに安全圏から他の誰かに石を投げつける投石機にもなるプラットフォームの病理を論じ、今や「相互評価のゲーム」と化した「速いインターネット」の時間的な外部を開くための「遅いインターネット」と、その具体的な実践として事物とのコミュニケーションによる「制作」を可能とする「庭」を構想します。

 

庭の話

庭の話

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また三宅香帆氏は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)や『考察する若者たち』(2025)において「読書」が「ノイズ」となる一方で、まさにアルゴリズムによって最適化され「ノイズ」を徹底して排除した「情報」が氾濫する現代における「批評」の復権を訴えています。
ここで宇野氏の用いる「速い/遅い」という比喩はダニエル・カーネマンの「二重課程理論」におけるシステム1が司る「速い思考」とシステム2が司る「遅い思考」に対応しているといえます。そして宇野氏のいう「庭」の構想や、三宅氏のいう「批評」の復権も「速い思考」が優位になった現代における「遅い思考」の再導入の試みとして捉えることができるでしょう。
 
そうであれば「速い思考」を生み出すプラットフォームのアルゴリズムの仕組みを理解し批判的に検討する「メディア・インフラ・リテラシー」は「速い思考」を相対化する「遅い思考」を行動レベルで実践したり、あるいはシステムレベルで実装する上で多角的かつ戦略的な知見を与えてくれるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

日本国憲法と中空構造--國分功一郎『天皇への敗北』

* 日本国憲法と戦後民主主義

 
1945年8月15日、日本政府のポツダム宣言受諾を伝える玉音放送によって太平洋戦争が事実上終結します。連合軍の占領と改革に対する人々の不安が渦巻く中、8月12日には占領軍の先遣隊が厚木に到着し、続いて30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立ちます。1945年9月2日、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書が調印され正式に戦争が終わりました。9月27日にマッカーサーと面会した昭和天皇は占領軍の平穏な進駐に謝意を述べ、ポツダム宣言の履行を約束します。他方でマッカーサーは円滑な占領統治のために天皇の戦争責任を問わない方針を固めていきます。
 
1945年10月11日、マッカーサーは新首相に就任した幣原喜重郎に対していわゆる「5大改革指令」と呼ばれる「婦人解放」「労働組合の奨励」「学校の民主化」「経済の民主化」「司法制度の民主化」を通達するとともに憲法改正を示唆し、これを受けて日本政府は松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置します。
 
1946年2月1日、憲法問題調査委員会の試案が『毎日新聞』にスクープされ、マッカーサーはその保守的な内容に不満を抱き、GHQ民政局に対して独自に憲法草案を起草するよう指示します。その際に示されたものが「天皇は国家の最上位」「戦争の廃止、陸海軍の不保持、交戦権も不許可」「封建制廃止、皇族を除く華族の廃止」といういわゆる「マッカーサー三原則」です。
 
この「マッカーサー三原則」をもとに民政局が作成したGHQ案は1946年2月13日に日本政府に提示されることになります。GHQ案を拒絶すれば「天皇ノ身体」の保障はできないと通告された幣原はGHQ案を受け入れるほかはありませんでした。こうした経緯から現行憲法はしばし「押し付け憲法」とも言われます。
 
1946年3月6日、GHQ案に沿った日本政府案が「憲法改正草案要綱」として発表され、4月17日には同要綱に基づいた「憲法改正草案」が枢密院に諮詢されます。その後、衆議院と貴族院の審議を経た「帝国憲法改正案」は10月7日に確定し、天皇の裁可を経て11月3日に「日本国憲法」として公布され、翌1947年5月3日に施行されることになります。
 
このような敗戦後の新憲法制定過程において、マッカーサーの意図は天皇制の維持であり、戦争放棄の理念はそのことについて国際世論を説得するための手段であったことは今日よく知られています。つまり平和主義を謳う憲法9条はもともとは象徴天皇を規定する1条のために必要であったということです。そしてこうした9条と1条の関係の今日的変化から戦後民主主義を問い直す一冊が今月公刊された國分功一郎氏の新著『天皇への敗北』です。
 

* 憲法という「物語」

『目的への抵抗』(2023)と『手段からの解放』(2025)に続く「シリーズ哲学講話」の3冊目になる本書の第1章は2024年4月26日に韓国の政治思想学会からの依頼で行った講演の原稿が元になっています。これが本書の議論の出発点です。
 
この講演で國分氏は憲法学を切り口として日本の戦後民主主義を論じています。周知の通り國分氏の専門は哲学であり、戦後日本の政治史を専門的に研究してきたわけではありません。もっとも氏はこの10数年、日本で研究と言論に関わる人間として何度も日本の戦後民主主義について考えることを強いられ、専門家たちの見解や意見を伺う立場からこのテーマについて考えてきたといいます。そして氏が戦後民主主義というテーマを考える上でまず思い至る専門家として憲法学者を挙げています。
 
冒頭で本書は日本を代表する憲法学者樋口陽一氏の言葉を引き、戦後日本の憲法学者たちは単に憲法の専門家である以上の任務が課せられていたといいます。それはすなわち「憲法が訴える価値を国民に丁寧に伝え、その価値に対する敬意を国民の中に育むと同時に、国民が憲法を担う手助けをすること」です。
 
そして本書によれば日本の憲法学者たちは憲法を「物語」として語ることで、この課題を遂行してきたとされます。例えば戦後日本の憲法が訴えてきた価値の代表として13条に象徴される個人主義があります。しかし13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という条文を読んだだけではその重要性はよくわからないでしょう。そこで個人とはあらかじめ存在するものではなく、身分制や家制度や性差別といったくびきからの解放によって生まれるものであるといった「物語」が必要となるのです。
 
また本書は戦後日本の特徴として文学者たちが憲法について積極的に発言したことを挙げ、例えば小説が明治以降、国民文学の役割を担ったように、戦後憲法学は単なる法学の一分野ではなくある種の文学でもあり、高い専門性を保ちつつも国民に憲法が訴える価値を理解してもらうことに努めてきたと述べています。
 

* 立憲主義と民主主義

 
ではこのような憲法が訴える価値を理解するとはどういうことなのでしょうか。ここで本書は「民主主義」と「立憲主義」という二つの大きな憲法理念を取り上げます。世界のかなりの数の国家ではこの二つを組み合わせた「立憲民主主義」という政治体制が採用されています。しかしこの二つは歴史的にも理論的にも異質なものであるといわれています。
 
まず「立憲主義」とは17世紀から18世紀にかけて、つまり近代の最初期に絶対王権との闘争から生まれたものです。封建国家に代わって現れた絶対主義国家の恣意的な権力行使から個人の自由と権利を守り、個人の〈権力からの自由〉を保障するためには公開的な法に則って政治を行い、それによって国家権力に常に一定の制限を加えなければなりません。このような思想を発展させ洗練させた立憲主義とは一言で言えば「いかなる権力も制限される」という原理です。
 
次いで「民主主義」が18世紀から19世紀にかけて、諸個人の〈権力への自由〉として定式化されていくことになります。これは国家権力の源泉をただ諸個人にのみ求める政治体制です。民衆による支配を意味するデモクラシーという単語に忠実にこれを言い換えるならば、民主主義とは「民衆が権力を作りだす」という政治体制です。
 
こうした「いかなる権力も制限される」という原理と「民衆が権力を作りだす」という政治体制とが組み合わさってできたものが「立憲民主主義」です。しかしながら立憲主義と民主主義は現れた時期も異なり〈権力からの自由〉と〈権力への自由〉という別々の思想に依拠しています。それゆえにここには一つの緊張関係が見出せることになります。
 
つまりどれほど民主主義的な手続きによって決定されようとも、その決定は立憲主義的な制限を受けるということです。例えば選挙で選ばれた代議士からなる国会で人種差別を合法化する法律が可決されたとしても、少なくとも今の日本国憲法においてこうした法律は違憲無効です。するとここから「なぜ我々の決定が制限されなければならないのか」という疑問も当然出てくることになります。
 
ここに見出されるのは「下」からの決定と「上」からの制限という対立関係です。このように立憲主義と民主主義は必ずしも一致するものではなく、両者はしばしば対立します。しかし民意を盾に居直るのでもなく、憲法を形式主義的に押し付けるのでもなく、立憲主義と民主主義の間の緊張に満ちた対立関係の中で両方の理念を守り抜いていくことが、日本の憲法学が目指していた「戦後民主主義」の姿であったと思われると本書は述べます。
 

*「1条のための9条」から「9条のための1条」へ

 
ところで戦後日本の憲法学者たちが取り組んだ「物語」には一つ、実に困難なトピックがありました。いうまでもなく憲法9条、つまり平和主義というトピックです。そしてこの9条ないし平和主義を考える上で重要な存在として本書は天皇を位置付けます。
 
ここで本書は2012年に発足した第二次安倍政権が行った特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則緩和、集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈変更、平和安全法制の制定といった一連の「立憲主義に対する挑戦」を取り上げ、こうした情勢で俄に存在感を高めていったのが前天皇である明仁上皇であったといいます。
 
本書は前天皇と前皇后の態度と発言は明確に護憲の立場であり、立憲主義的であったといいます。例えば前天皇は80歳を迎えた2013年12月の誕生日の会見で「80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです(…)/戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革をおこなって、今日の日本を築きました」と述べています。そして氏はこのような前天皇の護憲的な立場に「日本国憲法の中で、立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造」を見出しています。
 
言うまでもなく天皇は憲法によって規定された存在であり制度です。日本国憲法1条は象徴としての天皇を規定するものです。つまりここには「憲法が蔑ろにされれば、天皇はその存在そのものが危うくなる」のであり、それゆえに「天皇は立憲主義を破壊するような勢力に対しては敵対する」という構造があります。そしてここから「9条を守り抜こうとする護憲派の立場を、1条を根拠として存在している天皇が支持する」という構造が現れることになります。
 
先述のように平和主義を謳う9条は象徴天皇を規定する1条のために必要なものでした。ところが今では1条によってその位置づけを規定されている天皇が9条を守ろうとしています。つまり戦後日本において「1条のための9条」から「9条のための1条」へという変化が起こったということです。
 
そしてこれは戦後日本の憲法学者たちが目指した憲法物語作成の試みは結局、天皇には敵わなかったということを意味しています。これが本書のいう「天皇への敗北」です。それは戦後憲法学の敗北であると同時に、憲法学の求める成熟に至らず天皇に頼る国民の敗北を意味しています。これが本書のいうところの「現時点での戦後民主主義の到達点」です。
 

* 日本国憲法と中空構造

 
本書の第2章から第4章までは主として2025年2月15日に國分氏の勤務先である東京大学大学院総合文化研究科のある駒場キャンパスで学生たちを対象に行った学期末講話を元に大幅な加筆修正を加えたものであり、ここでは「天皇への敗北」という「現時点での戦後民主主義の到達点」をいかに乗り越えていくかという課題が考察されることになります。
 
その出発点となるのが文芸評論家加藤典洋氏による「敗戦後論」という論考です。この論考は戦後50年目の1995年に発表され、猛烈な論争を巻き起こしたことで知られています。本書は加藤氏の論考を全面的に肯定するわけではありませんが、この論考は日本国民の主体性を考える上でのヒントを与えてくれるといいます。そしてここから美濃部達吉という「昭和の憲法学者」と中野重治という「昭和の文人」の精神から「天皇への敗北」を乗り越えるための理路を見出していくことになります。
 
こうした「天皇への敗北」という「現時点での戦後民主主義の到達点」をいかに評価するかについては当然議論が分かれてくるところであると思います。ただここでひとつ論点を付け加えるのであれば、確かに日本国憲法のなかに立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造があるといえるかもしれませんが、これは単に日本国憲法を規定する構造のみならず、日本国民の精神性そのものを規定する構造であるように思えます。
 
臨床心理学者河合隼雄氏は古事記などの日本神話を分析して日本人の精神性を「中空構造」という概念で説明しています。ここでいう「中空構造」とは、その中心を「空」にすることで相対立する二つの力を--神話でいえば三神のうち活躍する二神を、心の構造でいえば意識と無意識や男性性と女性性を--調和的に均衡させて深刻な対立を回避する構造をいいます。
 
こうした意味で第二次安倍政権による「立憲主義に対する挑戦」と前天皇の護憲的な態度を共時的に把握するとすれば、それは日本国憲法を規定する構造の作動を示すものであると同時に、相対立する二つの力を均衡させる「中空構造」の作動を示すものであるといえるのではないでしょうか。そうであれば本書のいう「天皇への敗北」という「現時点での戦後民主主義の到達点」をいかに乗り越えるかという課題は日本国民の精神性を根本から問い直す課題となるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

現前・自閉・物語--小倉拓也『〈自閉〉の哲学』

*「正常」と「異常」を問い直す

 
17世紀においてルネ・デカルトが立ち上げた「我思う、故に我あり」という近代的な「主体」は絶えず変化する不確かな感覚に対して「不変のもの」「確実なもの」としての思考する実体として描かれました。すなわちそれは、環境に影響されて変わってしまったり消えてしまったりするものではなく、環境に対してつねに一定であり、環境から距離を取り、環境に優位する主体です。このような世界を俯瞰的に定点観測する主体を想定することで近代科学は発展していきました。
 
しかし、現実の社会のなかで生きる人間存在には、自身以外の存在である「他者」との関係を通じた来歴、つまりその人にとっての歴史が常に伴っています。そうであるならば主体とは始まりも終わりもない静的なものとしてではなく、他者との関係のなかでだんだんと生成していく関係的で動的なものとして捉えられるべきものであるといえるでしょう。
 
こうした考え方を押し進めたところに20世紀初頭においてジークムント・フロイトが創始した精神分析を位置付けることができます。精神分析においては子どもが主体になる歴史を父や母といった他者をめぐる欲望のドラマとして理解します。例えばフロイトは父に殴られること(あるいはそれと同じ効果、同じ意味を持つ出来事)が、子どもの主体性の決定的な契機になると考えました。また英国対象関係論を代表する精神分析家ドナルド・ウィニコットは母に抱きしめられること(あるいはそれと同じ効果、同じ意味を持つ出来事)が、子どもの主体性の健全な核を育むと考えました。
 
いずれにせよ、こうした哲学や精神分析の考え方は「主体」とか「他者」などといった何かしらの特権的な「中心」を想定し、その「中心」が導入されているかどうかで「正常」か「異常」を区別します。これに対して、本書『〈自閉〉の哲学』においてはこうした「中心」を想定することのない主体の生成プロセスを〈自閉〉という言葉で捉え直すことで「正常」と「異常」の区別を批判的に問い直す哲学が展開されることになります。
 

*〈自閉〉における力

〈自閉 Autismus〉とは精神医学において100年以上の紆余曲折を持つ概念であり、その間、哲学においてもさまざまなかたちで論じられてきた概念です。かつて〈自閉〉は統合失調症に顕著な外界から内界への撤退を指すものでしたが、その後、それからは区別される症候群を指すものとなり、近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症 autism」への注目をもとに哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めています。
 
それでは〈自閉〉に関してどのような点が哲学的に重要になるのでしょうか。アメリカの精神医学会が刊行している診断・統計マニュアル『DSM-V』(2013)および、その本文改訂版である最新の『DSM-V-TR』では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。
 
ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心です。
 
こうした〈自閉〉における行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われます。
 
これに対して本書は〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると本書は考えます。ここで本書の重要な参照項となるものが「リトルネロ」と呼ばれる哲学概念です。
 

* カオスからリトルネロへ

 
いわゆる「ポスト構造主義」を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと「制度論的精神療法」の実践で知られる精神分析家フェリックス・ガタリはその共著『千のプラトー』(1980年)の第11プラトーにおいて次のような印象的な文章を記しています。
 
暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに静けさをもたらすものだ。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌そのものがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。
 
(『千のプラトー』より)

 

 
ドゥルーズとガタリはこのような「カオス」のただなかで「静かで安定した中心のの前ぶれ」を、すなわち、暫定的で局所的なテリトリーを構築しようとする常同的、反復的行為を「リトルネロ ritournelle」と呼んでいます。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズとガタリはこれを独自の哲学的な概念へと練成していきます。
 
ドゥルーズとガタリは前後左右不覚でただ立ち尽くすしかない「カオス」と呼ばれる状況において我々が自己を確保し、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、あらかじめ備わった一貫した主体性によってではなく、このような常同的、反復的行為を通してであると考えます。すなわち、カオスのただなかにおける常同的、反復的行為は、暫定的で局所的なテリトリーを構築するということです。
 
もちろん「歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険」もあり、こうしたテリトリーは脆く儚く危ういものです。「それは、すぐに消失してしまうかもしれないし、うまくいけば、暗闇を踏破し、征服するための拠点にあるかもしれない。いずれにせよ、何もあらかじめ保障されていない。失敗しながら、中心を逸して何度も動けなくなりながら、手探りで進んでいくしかない」と本書は述べます。
 
いずれにせよ、こうしたリトルネロという観点からいえば、いわゆる「主体」や「他者」とは本来的なものではなく、常同的、反復的な行為の効果として、それが構築するテリトリーとともに形成されるものであるということです。このことは本来的でそれゆえに内面的とされる秩序やその中心が、実は非本来的でそれゆえ外面的な水準においてその都度形作られることを示唆しています。こうしたことから本書は次のように述べます。「子どもが暗闇でひとりでいられるのは、そして、おぼつかない仕方によってであれ、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、かつて父に殴られたからでも、母に抱きしめられたからでもない。いま歌を歌うからである」と。
 

* 現代における生の様態としての〈自閉〉

 
一般的にASDにおいては内面的な自己同一性を確保するのが難しく、変化する世界、そのめくるめく呈示がカオスティックなものとして感じられると言われています。けれども、その常同的、反復的な行為は、むしろ、そのようなカオスティックな世界の転変に対して、外面的な行動の水準において自己同一性を構成しようとすることだと言えるかもしれません。
 
そうであればまさしく常同的、反復的な行為による外面的な水準での自己同一性として特徴づけられるリトルネロは〈自閉〉における常同的、反復的な行為について、何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を理解し〈自閉〉を概念化するためのひとつのヒントを与えてくれることになるでしょう。
 
さらにこのような〈自閉〉における常同的、反復的な行為による外面的な水準での自己同一性の構成の重要性はASDのみに当てはまるものではありません。しばしば指摘されるように現代の発達障害の前景化と自閉症への注目は以前は社会への不適応として顕在化することのなかったものが、社会の大きな変化によって新たにそれとして顕在化してきたという側面があります。
 
その例として伝統や習慣に則った生活の衰退やライフコースの多様化や工場などでの定まった作業によって特徴づけられるフォーディズムから、臨機応変なセルフプロデュースや当意即妙な対人コミュニケーションを必要とするポストフォーディズムへの労働形態への転換や、インターネットを媒体とする情報の氾濫やマルチメディアによるマルチタスクの常態化などが挙げられます。
 
これらの変化が推し進められ、より急速で劇的になっている今、それらへの適応に戸惑いや苦しみを感じない者はほとんどいないのではないか、今や多くの人々がカオスティックな世界の転変の中でただ立ち尽くし、無防備に世界にさらされているのではないだろうかと本書はいいます。
 
この意味において、そうした世界の転変の中で常同的、反復的な行為によって暫定的で局所的なテリトリーを構築すること、外面的な水準で自己同一性を確保することは現代の生の様態そのものにも関わっていると言えるはずであり、本書が〈自閉〉という言葉で考えようとしているのは、まさにこうした現代の生の様態そのものであるといえるでしょう。
 

* 現前・自閉・物語

 
本書はまず第1章において茫漠とした広がりのなか、前後左右不覚となり、ただ立ち尽くすしかないような状況を〈現前〉として定式化します。それは近代哲学が考えた超越論的主体や、精神分析的な父-母といったフィルターなしに、世界が自己にあらわとなり自己が世界にさらされる無媒介的かつ情報過多的かつ感覚過敏的な状況です。そして本書はこうした〈現前〉という状況を生きる力として〈自閉〉の常同的、反復的な行為を把握します。
 
続いて第2章では〈現前〉の前面化である「無人島」という「他者なき世界」における人間学を検討することで、主体や他者という超越論的審級なしで自己を構成するものとしてリトルネロとしての〈自閉〉が位置付けられ、第3章ではこうした超越論的審級なしの常同的、反復的行為が形作る自己や経験の様態をドゥルーズの「不連続的瞬間」から出発する時間論に即して探究されることになります。
 
そして第4章ではドゥルーズとガタリの『千のプラトー』のリトルネロ論を読みながら「カオスのただなかで中心を作り、輪を描き、輪を開く」というリトルネロの三つのアスペクトという観点から〈自閉〉の常同的、反復的な行為をどのように位置付け、また理解することができるかが検討され、第5章ではドゥルーズとガタリのリトルネロ論に批判的に対峙しながら〈自閉〉における「可能的なものの技法」が論じられることになります。
 
人は世界に棲まう上で自身の生を基礎付ける何かしらの〈物語〉を必要とします。けれども人は人生におけるさまざまな局面において、これまで自身の生を基礎付けてきた〈物語〉が瓦解してしまう危機に見舞われます。本書のいう〈現前〉とはこうした〈物語〉の瓦解したカオスティックな状況を指しているともいえるでしょう。
 
ではこうした〈現前〉から人はいかにして〈物語〉を立ち上げ直していけるのでしょうか。こうした問いから本書を読むこともできるでしょう。こうした意味で本書のいう〈自閉〉とは、絶対的な主体や圧倒的な他者といった超越論的審級を想定することなく、日常において生起する繰り返しのリズムから人が再び〈物語〉を立ち上げ直していくプロセスであるといえるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから三宅香帆に入門するためのおすすめ5冊

* なぜ働いていると本が読めなくなるのか(2024年)

⑴ 読書の起源と拡大
 
令和の世に彗星の如く現れた文芸評論家、三宅香帆氏はベストセラーとなった本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で2025年新書大賞を受賞し、出版界に「三宅現象」とも呼ばれる反響を生み出し、批評シーンに新たな風を呼び込みました。いまや三宅氏の代名詞ともなった本書は近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」の位置付けを論じる一冊です。
 
そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。職業選択の自由や居住の自由が認められ、当時の多くの青年たちは田舎から都会へ出て身を立てて名を上げる「立身出世」の野心を抱いていました。こうした中、西洋の偉人達の立身出世物語を集めた『西国立志編』という本が一大ベストセラーになる。同書において反復される「身分や才能によらず自助努力で成功できる」という「修養」の思想は現代における「自己啓発」の源流といえます。このような「修養」の思想は明治期に創刊された『成功』や『実業之日本』といった雑誌によって労働者階級に広がっていきます。
 
ついで大正期になると全国的な図書館の増設や出版界における再版制(再販売価格維持制度)の導入や高等教育の拡大により読書人口は爆発的に増加します。こうしたなかエリート学生の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」を重視する思想が流行するようになります。このような「教養」の流行の担い手となったのが『中央公論』『改造』『経済往来(後の日本評論)』といった総合雑誌です。また当時の最先端の思想であった「マルクス主義」もこうした雑誌を媒介として人々の間に広まっていきます。
 
そして戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がっていきます。それはまさに労働者階級がエリートに近づこうとする階級上昇の運動でもあります。このような「教養」の拡大を支えたのが『葦』や『人生手帖』といった人生雑誌です。その一方で、もちろん都市部のサラリーマンも戦前から引き続き「教養」を求めており、昭和初期の「円本」ブームを引き継いだ「全集」ブームが到来します。
 
このように戦後間もない1950年代の当時、世の中は空前の教養ブームであり「ベストセラー」という単語もこの時期に広まります。さらに高度経済成長期の1960年代になると「英語」とか「記憶術」など仕事に役立つ実用的なテーマを扱う「カッパ・ブックス」のような新書が存在感を持ち始めるようになります。こうしてみると日本においてはもともと「労働」と「読書」は互いにむしろ蜜月の関係にあったといえるでしょう。
 
⑵ 読書の変容と停滞
 
このような「読書」と「労働」の関係に変化が生じ始めたのが1970年代以降です。高度経済成長が終焉した1970年代において司馬遼太郎の『竜馬が行く』や『坂の上の雲』といった歴史小説がサラリーマンの間で広く読まれていた背景にはよく言われるビジネス教養主義のほか、皆が「坂の上」を目指して歩いていた(ように見えた)高度経済成長期へのノスタルジーがあったと本書はいいます。
 
またバブル経済期の1980年代において黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が500万部、村上春樹の『ノルウェイの森』が350万部、俵万智の『サラダ記念日』が200万部といった驚異的なベストセラーとなった要因の一つとして本書は当時の労働市場において「教養」より「コミュニケーション能力」が重視され始めた結果「僕」や「私」といった「自分の物語」を語る私小説的な作品が求められていたと本書は分析します。
 
さらにバブル経済が終焉した1990年代になると決定的な変化が訪れることになります。当時のベストセラー『脳内革命』が象徴するように個人の行動規範としてそれまでの「生きる姿勢」といった〈内面〉よりも「何をすべきか」という〈行動〉が重視されるようになったと本書はいいます。その背景には言うまでもなくバブル崩壊後の長期不況による労働環境の不安定化がありました。
 
そして本書はこのような〈内面〉から〈行動〉へという傾向変化を〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への変化として捉えています。すなわち、これまでの〈政治の時代〉においては〈政治〉を通じて社会を変革できるという素朴な信念がありましたが、新たな〈経済の時代〉においては〈経済〉という目の前の波をいかにうまく乗りこなすかが重視されるようになったということです。
 
⑶ ノイズとしての読書
 
こうして1990年代半ば以降、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。その一方で1990年代以降、とりわけ2000年代以降、個人の書籍購入額は目に見えて落ちていき、ここから本格的な読書離れが加速することになります。しかしなぜ読書離れが起きる中で自己啓発書は読まれたのでしょうか?
 
この点、社会学者、牧野智和氏は自己啓発書の特徴として「ノイズを除去する」姿勢にあるといいます。これを受けて本書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものはノイズとして捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであると述べています。
 
これに対して文芸書や人文書はまさに「社会」というノイズを提示する作用を持っています。かつて〈内面〉が重視された〈政治の時代〉において「読書」はこうした意味での「社会」を知るためのツールでした。けれども今や〈行動〉が重視される〈経済の時代〉においては自分と無関係な「社会」のことを知るよりも自分自身でコントロールできるものにリソースを注力することが最適解となり「社会」を知るための「読書」はむしろ「労働」にとってのノイズとなってしまいます。こうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降、ノイズを徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
 
本書において三宅氏は読書が「ノイズ」になってしまう事象を「文脈(コンテクスト)」という観点から理解しています。読書は「文脈」によって紡がれるものであり、人は基本的に自身の関心のある「文脈」に基づいて読みたい本を選びますが、一冊の本の中にはさまざまな「文脈」が収められていることから、ある本を読んだことがきっかけで「好きな作家」や「好きなジャンル」といった新しい「文脈」を見つけることもあるでしょう。
 
このように読書の醍醐味とはこれまで自分と無関係だった新しい「文脈」に触れることにあるともいえますが、このような新しい「文脈」に触れるだけの余裕がなければ、それは単なる「ノイズ」になってしまうということです。そしてこうした読書における「文脈」が「ノイズ」になった事象は社会共通の「大きな物語」が失墜した結果「小さな物語」同士のコミュニケーションの失敗=誤配により他者の文脈を理解できなくなったというポストモダン化の一側面としても理解できるでしょう。
 

* 考察する若者たち(2025年)

⑴「考察」の流行と「報われ消費」
 
こうして読書がノイズとなり、こうしたノイズを徹底して排除した「情報」が氾濫する令和の諸相を論じる一冊が三宅氏の近著である本書『考察する若者たち』です。本書によれば最近のZ世代を中心とした若年層ではドラマや映画を観た後すぐにその作品の「考察動画」や「考察記事」を検索する傾向があるそうです。こうした意味での「考察」という言葉が注目され始めたのは2019年のテレビドラマ『あなたの番です』がきっかけであると本書はいいます。
 
2クール計20話という日本のテレビドラマとしては異例の長さで放送され、その最終話は視聴率19.4%を叩き出し、Twitter(現X)の世界トレンド1位を5回も獲得した同作は「考察ドラマ」と呼ばれています。つまり同作は制作側が意図的に作中に謎を仕掛け、その謎を視聴者が考察しSNSで拡散することを狙って作られた作品であるということです。
 
この『あな番』のヒットを契機に「考察ドラマ」は世間に広く浸透することになります。作品によっては制作側が特に「考察」を狙っていなくとも視聴者の方が勝手に「作者は隠された謎を仕掛けている」という前提で「考察」するケースもあるようです。このように若年層を中心とした令和の視聴者にとって「考察」とはフィクションを楽しむためのメジャーなひとつの手法となっていると本書はいいます。
 
こうしたことから現代を「考察の時代」だと本書はいいます。すなわち、令和においては物語を読んだり観たりすることが、ただ読んだり観たりするのではなく、物語のなかに「謎」として置かれた「正解」を解くゲームになりつつあるということです。
 
これに対して平成以前は「批評の時代」であったと本書はいいます。ここでいう批評とは作者も把握していない作品の謎を解く営為をいいます。作者は作品の生みの親ですが、作者が作品のことを全て理解しているとは限りません。このような態度を批評はとっています。
 
両者は具体的にどう異なるのでしょうか。本書の例でいえば『となりのトトロ』(1988)を観て「じつは宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませている」という解釈を行うのが考察です。これに対して「じつは”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー”として捉えられる」という解釈を行うのが批評ということになります。
 
ここで重要なのは「作者の意図」への意識の有無です。批評から考察へという、フィクションを楽しむ人々の姿勢の変化を本書はフィクションを楽しむにあたり解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えたということではないかと述べています。
 
換言すればそれは「正解」かどうかもわからない個人の解釈(感想)を知ってもちっとも面白くなく、それよりも作者が潜ませた「正解」を知ることの方が面白いという変化に他なりません。つまり考察には「正解」がどこかにあることから「わざわざ努力する価値がある」ということです。
 
そしてその背景に本書はただコンテンツを消費して満足するだけではなく、その時間を「意味ある時間」に変えたいという若年層の消費行動を見出し、このような消費行動を「報われ消費」と呼びます。つまりただ楽しい時間を過ごすだけじゃなく、その時間における報われるポイントがわかっていると手を伸ばしやすくなるということです。裏を返せばただ楽しい、面白いという感情だけではそのコンテンツを消費する時間は端的に無駄だと感じてしまうということであり、令和とは物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかと本書はいいます。
 
こうした若年層の消費行動を象徴する言葉として本書は2023年度講談社漫画賞総合部門を受賞した人気漫画『スキップとローファー』の「たぶんこれが最適解!」という台詞を引いています。同作が描く令和の高校生たちのように、若い世代は自分の行動に求められる、意味のある、正しそうな「最適解」を求めているということです。ではなぜ若い世代はこんなにも「最適解」にこだわるのでしょうか。これは単にZ世代がタイパやコスパがいいものを求めているという世代的な傾向だけではなく、そこには「令和特有の病」があると本書はいいます。
 
⑵「推し」と「転生」
 
本書はこのような「報われたい」という消費感情から令和のヒットコンテンツを分析していきます。例えば「推し」という令和になって広く人口に膾炙した言葉があります。ここでいう「推し」とは自分が好きで、そして応援したり他人に勧めたりしたい対象のことをいいます。つまり自分が対象をとても好きだという感情に、さらに何らかのポジティヴな形で好きな相手と関わりたいという行動が追加された時に「推し」が成立することになります。
 
ところで「推し」が浸透する以前にある対象を好きだと思うことは「萌え」と呼ばれていました。この点、東浩紀氏はその代名詞的著作である『動物化するポストモダン』(2001)において近代的な「大きな物語」が機能不全となった現代ポストモダンにおける個人の消費行動を「物語消費」から「データベース消費」への移行として定式化しています。
 
ここでいう「物語消費」とは個々の作品消費を通じてその作品の背後にある「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは個々の作品消費を通じてその作品に登場するキャラクターにおける例えば「萌え要素」といった「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。つまり「萌え」とは例えば「何となく自分はネコミミが好きだ」「何となく眼鏡のクールなキャラが好きだ」というデータベースから反応する反射的(動物的)な欲求であるということです。
 
本書は「推し」もやはりこうした「データベース消費」から生じる「萌え」の感情が根底にあるといいます。もっとも「萌え」はその対象が「変わる」ことを前提とする瞬間的な欲求であるのに対して「推し」とは「推し変」という言葉が示唆するように一瞬の感情ではなく継続的な行為であることが前提となっており、そこには自分の「推し」が何かしらの理想のゴール(例えば東京ドームで公演したり総選挙で1位になったり興行収入400億の男になったりなど)へ到達することでファンもまた「報われたい」という感情があるとされます。
 
また「転生もの」というこれまた令和において一般化したジャンルがあります。ここでいう「転生」とは死後に他の場所(多くの場合は異世界)で生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま新しく人生をやり直すことをいいます。この「転生もの」が流行する以前に流行していたのが「ループもの」というジャンルです。「ループもの」と呼ばれる作品では主人公は例えばヒロインを救うため何度も時空を超えて過去改変を試みることになります。
 
こうしたループものをやはり東氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)においてポストモダンの文学観として、物語が複数に分岐していくゲーム経験を写生する「ゲーム的リアリズム」という概念で説明しています。これに対し本書は「転生もの」を「ガチャ的リアリズム」という概念で説明します。すなわち「転生もの」の物語の流行は「違うスペックに生まれてきたかった」というガチャ的な欲望に支えられているということです。
 
もっともこれは努力をせずとも無双できるチートな存在に生まれ変わりたいという欲望をただちには意味していません。現代の若年層は努力すれば成功するスペックとそうでないスペックがあることを肌感覚で感じており、ここでいうガチャ的欲望とは最初からガチャに当たって「努力すれば成功できるスペックに生まれてきたかった」という「報われたい」という欲望であるということです。
 
⑶ アルゴリズムの時代における批評の役割
 
以上のように本書は「考察」「推し」「転生」といった令和に流行するヒットコンテンツから、あるいは「陰謀論」や「成長幻想」が流行する時代の傾向性から、その背景にある「報われたい」という感情を抽出していきます。そしてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームとしてTikTokを挙げています。
 
本書がいうようにTikTokの特徴とは短尺の動画が次々に大量にレコメンドされる点にあり、その報酬は大量の短尺動画を見て得られる脳内刺激にあります。そしてこうしたレコメンドはプラットフォームにおけるアルゴリズムによって決定されています。ここでいうアルゴリズムとはユーザーの好みを機械学習し、それに基づいて情報や広告を変えるシステムのことをいいます。
 
ここから本書は令和のヒットコンテンツとはすべてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームアルゴリズムのなかで生まれたものであると分析し、こうしたアルゴリズムにより同じ「界隈」に集まった(集められた)ユーザーが「正しさ」という報酬を求め「正解を提示する擬似親」としてChatGPTをはじめとする生成AIに依存しつつあるといいます。
 
考察したい、推したい、転生したい、気づきたい、成長したい、擬似親がほしい、正解がほしい、報われたい、こうした若者たちの姿は--アルゴリズムのレコメンドに押し流される私たちの姿そのものなのだ。
 
(『考察する若者たち』より)
 
その一方で本書はアルゴリズムがもたらす最大公約的な「正解(に近い最適解)」によって発信者や受信者の個別性が失われていく状況に警鐘を鳴らしています。すべてが最適化され最適解を求められる社会における「自分らしさ」とは畢竟、一般性から逸脱する特異性としての「生きづらさ」へと直結するからです。
 
もとより本書は「正解(最適解)」を求めることを否定はしていません。誰も好き好んで失敗したくないのは当然です。しかし同時に本書はその「正解(最適解)」を目指す態度を補完するものとして「批評」的な態度という選択肢を提示します。
 
つまり本書はここで「正解(最適解)」を求める態度と、その「正解(最適解)」から意図的に逸脱していく「批評」的な態度というダブルシステムを提案しているということです。そして、このような批評の役割を『なぜ働』における議論へと差し戻すのであれば、批評とはアルゴリズムによって最適化された「情報」のなかに他者性の泡立ちとしての「ノイズ=文脈」を魅力的な形で再導入していく試みであるといえるでしょう。そしてこうした「批評」を書くためのさまざまな「技術」を指南するものとして次の2冊を挙げることができるでしょう。
 

*「好き」を言語化する技術(2024年)

⑴ 推しを語るとは自分自身を語るということ
 
本書『「好き」を言語化する技術』には「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」というサブタイトルがついています(本書は2023年に公刊された「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない--自分の言葉でつくるオタク文章術」を携書化したものです)。このサブタイトルが示すように本書はあらゆるコンテンツを「推し」と呼び、このようなあらゆる「推し」を語る(書く)時に使うことができるさまざまな技術を公開していきます。
 
「推し」について語る(書く)上で一番重要なこと。それは「自分の言葉」をつくることであると本書はいいます。このように言われると「自分の言葉?普通にみんなできてることじゃないの?」と思われるかもしれませんが「自分の言葉」をつくるという営みは案外難しいものです。とりわけ現代はSNSを通して「他人の言葉が自分に流れ込みやすい時代」であり、日々生成される莫大な量の「他人の言葉」によって「自分の言葉」はどんどん上書きされてしまいます。
 
例えば面白い映画を観た後に他人の感想を読むと自分の感想を忘れてしまい「他人の言葉」があたかも最初から「自分の言葉」だったかのような錯覚を覚えるという経験はよくあることでしょう。人間とは「他人の言葉」にどうしても影響を受けてしまう生き物です。
 
こうした中で「他人の言葉」に惑わされない「自分の言葉」をつくるためにはある種の技術が必要となります。そして本書はこのような技術を会得する上で必要なものは語彙力や観察力や分析力でもない「ちょっとしたコツ」であり、そのような「ちょっとしたコツ」さえ知っていれば「自分の言葉」は誰にでも作れるといいます。
 
本書は「推し」について「自分の言葉」で発信するメリットとして「推しへの解像度が上がる」「たくさんの人に推しを知ってもらえる」「推しについてのもやもやを言語化できる」という点の他に「推しを好きになった自分への理解が深まる」という点をあげ「きっと推しを語ることであなた自身の「好き」がどこからきたのか、わかるはずです。推しを語ることは、あなたの自身の人生を語ることでもある」と述べています。すなわち「推しを語る」ための「自分の言葉」をつくる営みとは、他ならない「自分自身を語る」という営みへまっすぐにつながっているということです。
 
⑵ 自分だけの感情を出発点にする
 
子どもの頃に学校で読書感想文という課題が出された時、先生から「本を読んで自分の感じたありのままの感想を書けばいい」などといったアドバイスを受けたことがないでしょうか?どうも日本の小中学校では「本を読んで感じた通りに、その感情を書けば、それがいい読書感想文になる」と先生も生徒も信じているようなふしがありますが、本書はこうした「ありのまま」感想文信仰に対して異議を申し立て「技術を駆使してこそ、いい感想文を書けるようになる」と主張します。逆に言えば「書く技術さえ理解すれば、いい感想やいい文章は書けるようになる」ということです。
 
まず本書は推しを語るときに一番大切なこととして「自分だけの感情」をあげます。ここでいう「自分だけの感情」とは「他人や周囲が言っていることではなく、自分オリジナルの感想を言葉にすること」です。しかし「自分オリジナルの感想を言葉にすること」は案外難しいものです。なぜなら人間はどうしても世の中に既にある「ありきたりな言葉」を使ってしまう生き物だからです。このような「ありきたりな言葉」をフランス語では「クリシェ cliché」といいますが、まずこのクリシェを禁止したその先に「自分だけの感想」が存在すると本書はいいます。
 
次に本書は推しを語る文章の核が「自分だけの感情」だとすれば、その核を包むものとして「文章の工夫」があるとして、ここで大切なものは「読解力」でも「観察力」でもなく「妄想力」であるといいます。つまり、何かの推しに対して「よかった」という感想を持ったとき、その「よかった」という理由について「昔見たものや昔好きだった推しを引っ張り出しつつ、自分の妄想を広げていく」ことで「感想のネタ」を探していくということです。
 
この点「妄想」はあくまで「妄想」であり、客観的に合っているかはひとまずはどうでもよく、とにかく妄想を広げていくことが重要となります(もちろん実際の感想を書くにあたって「この作品は◯◯という点であの作品のマネをしている」などと自身の「妄想」を根拠なく「事実」であるかのように書いてしまう行為はNGです)。
 
以上のように本書は第1章「推しを語ることは、自分の人生を語ること」で推しの魅力を伝えるために重要なものとして「自分の感情」と「文章の工夫」と「妄想力」の3点をあげています。そして第2章「推しを語る前の準備」ではこの3点を身につけていくための具体的な方法論が紹介されています。
 
⑶ 自分の言葉を創り出すということ
 
本書は「推し」を語る(書く)ためのさまざまな技術を「えっ、そこからですか?」というくらいに本当に初歩の初歩からていねいに説明していきます。それゆえにに本書は推し語りの初心者にとってとても親切な本であることは言うまでもなく、推し語りのベテラン(?)にとってもあまりに自明すぎるが故に軽視しがちな推し語りの基礎あるいは原点を再確認ないし再発見できる本となっています。
 
本書が幾度も強調するように「自分の言葉」で推しを語るとは他ならない自分自身を語るということです。例えば本書は第2章において推しに対して生じた感情を「共感」と「驚き」に大別した上で、その感情が生じた理由を深く掘り下げていく「感情を言語化=細分化する」という手法を提案していますが、このような推しに対する様々な「共感」と「驚き」を積み上げていくうちに、自分がおおむねどのようなものに対して「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかが自ずとわかってくるのではないでしょうか。そしてそこからさらに自分はなぜそこに「共感」を懐いたり「驚き」を感じるのかという、より大きな問いを開くことができるでしょう。
 
すなわち、推しを語るとは推しという鏡を通じて自己を再発見するという過程であるといえます。そして、このような再発見された自己から見晴るかした世界はこれまでとはまた異なる色彩と輝きを見せることになるのではないでしょうか。こうした意味で『「好き」を言語化する技術』とは「自己を再発見する技術」であり「世界を再発見する技術」でもあるといえるのではないでしょうか。
 

*「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか(2025年)

⑴ 体験の言語化はなぜ重要なのか
 
本書『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』は小説、漫画、ドラマ、映画といったコンテンツ体験を言語化してコミュニケーションに活かす技術を指南する一冊です。本書のコンセプトは三宅氏がある講座で参加者から「話していて面白い人になるには、どうすればいいのか」という質問をされたことで着想を得たそうです。本書はいいます。話が面白い人になるには本や漫画を読んだりドラマや映画などを観ることが必要だけれども、ただ漫然と読んだり観るのではなく「鑑賞」として取り入れることが重要であり、そこには作品を「解釈」するための技術が必要になる、と。つまり読んだり観たものを話の「ネタ」に変える技術です。
 
ではどのように読んだり観たものを「ネタ」にするかというと、本書が「第一部 技術解説編」でまず提示するのは①〈比較〉②〈抽象〉③〈発見〉というプロセスです。
 
〈比較〉とは「ほかの作品と比べる」ということです。ある作品を読んだり観たりした後、どんな作品と比較できるかを考えてみます。例えば『となりのトトロ』という作品を同じファンタジー作品である『ハリー・ポッター』と比較してみると、日常から非日常へ誘う役割が前者の場合はネコバスという前近代的な妖怪であるのに対して、後者はホグワーツ特急という産業的で未来的なインフラです。ここから日本と欧米のファンタジー世界やインフラに対する意識の相違といった「話のネタ」が生じてくることになるでしょう。
 
〈抽象〉とは「テーマを言葉にする」ということです。ある作品を読んだり観たりした後「この話のテーマなんだったのか」を考えてみます。もちろんそこに「正解」というものはありません。むしろ作品にテーマを見出すのは鑑賞者の役割であるといえます。こうしたテーマを考える時、主人公の変化や力を込めて描かれている場面や最後の結末に注目してみることを本書は勧めています。
 
〈発見〉とは「書かれていないものを見つける」ということです。ある作品を読んだり観たりしてて、その作品なら普通に書かれてもおかしくない話が出てこない場合や普通に出てきても良さそうなキャラクターが出てこない場合はそこには理由があり、作者の深いこだわりがあると本書はいいます。こうした「描かれていないことを探す」ことで逆方向からその作品のテーマを照射することもできるでしょう。
 
ここからさらなる応用編として本書は④〈流行〉⑤〈不易〉をあげています。
 
〈流行〉とは「時代の共通点として語る」ということです。すなわち、ある作品を同じ時代に流行した別の対象と比較することで、その時代において人々が求めていたものを見出していきます。
 
〈不易〉とは「普遍的なテーマとして語る」ということです。すなわち、ある作品の中に特定の時代における〈流行〉とは逆に、むしろ時代を超越した普遍的なテーマを見出していきます。
 
この①〜⑤のどれかの鑑賞・解釈ができるようになるとそのネタを人に話すことができる状態になると本書はいいます。このような鑑賞・解釈の工程を本書は料理に準えています。素材(作品)をいろんな食材と混ぜ合わせてみたり(比較) 潰したり煮込んだりしてちょっと形をなくしてから食べてみたり(抽象)その素材が持っていない味を付け足してみたり(発見)という具合に。三宅氏は本書をこうした「読んだり観たりしたものをいかに料理するか」というレシピ集として読んでほしいと述べています。
 
⑵ コンテンツからコミュニケーションへ
 
そしてこのような鑑賞・解釈の技術を身につけるための練習として本書は「鑑賞ノート」の作成を勧めています。その手順ととしては⑴まず面白かったシーンについて具体的に書き、次に⑵作品を鑑賞して思い浮かんだ解釈を書き、最後に⑶「この作品が好きな人はどの場面が好きだろう?」「××というジャンルに詳しい人に、ここを聞いてみたい」といった「質問」を書くというものです。
 
こうした「質問」をストックしておくことが何より重要だと本書はいいます。確かにこうした「質問」をあらかじめ準備しておくことで、そのコンテンツの話をうまくコニュニケーションのコードの上に馴染ませやすくなるでしょう。もちろん読んだ本や観た映画の感想などを何らかのかたちでメモしている人は結構多いとは思いますが、こうした「質問」まで(少なくとも意識的に)想定していることはあまり多くないのではないかと思われます。けれどもコンテンツの鑑賞体験をコミュニケーションの「ネタ」に昇華する上でこの一手間は不可欠といえるでしょう。
 
さらに他人とのコミュニケーションにおいて不意に質問を受けたときも先の「比較」「抽象」「発見」「流行」「不易」という五つの技術が使えると本書はいいます。すなわち、質問の意図をこの五つの中に当てはめることで相手の真意が汲み取れるということです。
 
つまり普段からこの五つの技術を習慣的に使用していれば、どんな場面でも脳内で他人のいったことを抽象化したり対比させたりすることができるようになるということです。そうしたことから読解力を鍛えることで同時に会話力も身についてくると本書はいいます。こうしたコンセプトから本書は「第二部 応用実践編」でこの五つの技術を用いて実際に、小説、漫画、ドラマ、映画はもちろんのこと、短歌集や人文書なども読み解いていきます。
 
⑶ 物語を読み解く技術
 
本書を読んでその内容が頭にだいたい入ったら早速身の回りのコンテンツを相手に練習してみましょう。昨日読んだ漫画、さっき観たドラマ。そのすべてが本書の練習問題になります。別に無理して五つの技術の全部を使う必要はないです。ひとつかふたつ使うことが出来ればもう万々歳です。その時そのコンテンツは単なる時間の空費ではなくあなたの人生を形作る経験になったのですから。
  
このように本書は『「好き」を言語化する技術』と同様にコンテンツの鑑賞体験を言語化するには「技術」が必要であるという考え方に立脚しています。その上で両者の相違を挙げるのであれば『「好き」を〜』は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点からあるコンテンツにおける「物語」を(いわば内在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているといえます。
 
これに対して本書は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点は(もちろん重要ですが)ひとまず括弧に入れた上で、あるコンテンツにおける「物語」を(いわば外在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているように思えます。そしてもちろんこの内在-外在という両者の視点は「物語」を読み解く「技術」として表裏一体の関係にあることはいうまでもないでしょう。
 

 * 娘が母を殺すには?(2024年)

⑴ フィクションの中に読み解く〈母殺し〉
 
本書『娘が母を殺すには?』は母娘関係という観点から小説、漫画、ドラマ、映画などざまざまなフィクションを読み解く一冊です。一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。そこで本書はこうしたフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が〈母殺し〉を達成するための方法を見出そうとします。
 
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう〈母殺し〉とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
 
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
 
もちろん本書も述べるように親が子に規範を与えることは教育の過程で多かれ少なかれ必要なことであり、子どもの欲望のままにしていては取り返しのつかない事件や事故が起こる可能性があります。親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
 
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では〈父殺し〉と呼んできました。最初にこのような〈父殺し〉という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトはソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が〈父殺し〉という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
 
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を〈殺す〉必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として〈父殺し〉が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における〈母殺し〉を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
 
⑵〈母殺し〉の難しさ
 
もっとも〈父殺し〉と〈母殺し〉ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが〈父殺し〉の原理です。これに対して〈母殺し〉の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
 
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに〈母殺し〉の難しさがあるわけです。
 
この点、本書は〈母殺し〉の難しさの理由として「母と娘が密着しやすい構造」の存在をあげ、このような母子密着の要因として臨床心理士の信田さよ子氏の議論を援用して⑴夫婦間のディスコミュニケーション⑵娘の経済的/育児リソースの貧しさ⑶母のキャリアに対する罪悪感という3点を挙げています。
 
もっとも、ここで挙げられる3つの要因はいずれも男性が家の外で働き女性が家のなかで家事や育児に従事するという専業主婦文化を前提とした戦後中流家庭モデルを前提としています。ではこうした戦後中流家庭モデルが一般的なモデルではなくなった現在においては母娘密着の問題はすでに解消されているのかというと、本書はそうはなっていないといいます。
 
すなわち、現在においても母が息子に与える規範と娘に与える規範は異なっており、母にとっての娘はケアの対象というよりも自分と対等なケアの主体であり、そうした期待の視線のもと、いつの間にか母をケアする娘が誕生し、母子密着は永遠になるということです。
 
⑶ 母娘関係の脱構築
 
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な〈母殺し〉のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ〈母殺し〉の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
 
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス(以下、AOと略)』(1972)で展開した欲望観に求めています。ここで本書は千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)におけるAO解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
 
つまり本書のいう「母娘関係の脱構築」とは位相の異なる二つの欲望観の並立であると考えられるということです。この点、千葉氏は『意味がない無意味』(2018)所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考においてこのような位相の異なる二つの欲望観を精神分析的な見地から「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」と呼んでいます。
 
ここでいう「神経症的な欲望」とはフランスの精神分析家ジャック・ラカンによる「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼで示されるような間主観的ネットワークに理由づけられた欲望であり、その究極的な理由は千葉氏のいうところの〈性別化のリアル(事実上刻まれた性差のあり方)〉に帰着します。これに対して「別のしかたでの欲望」とはドゥルーズ=ガタリがAOにおいて言祝いだ理由なく多方向にどうでもよく発散する複数的な欲望に由来しています。そして千葉氏はこの両者を「メタ倒錯(倒錯の強い定義)」と呼ぶ論理によって互いに分離したまま無関係で並立する状況としてAOを解釈します。
 
すなわち、本書のいう「母娘関係の脱構築」とは精神分析的な見地からは千葉氏のいう「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望=理由なく多方向にどうでも良く発散する複数的な欲望」が互いに分離したまま無関係に並立する「メタ倒錯」として位置付けることができるのではないでしょうか。そうであれば「母娘関係の脱構築」とは母娘関係をめぐる「神経症的欲望」とは無関係に並立する「別のしかたでの欲望」を導入することで、むしろ母と娘のあいだに従来とは異なる新たな関係性を創り出す契機であるともいえます。
 
そして精神分析的な見地からさらに付け加えるのであれば、ここでいう〈父〉や〈母〉や〈息子〉や〈娘〉という概念は生物学的な性別とイコールで捉えるべきではなく、1人の人間の中に〈父〉と〈母〉が、あるいは〈息子〉と〈娘〉が共存するような状況も想定できるでしょう。さらには三宅氏が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や『考察する若者たち』で論じたような「ノイズ」を徹底して排除した「情報」が氾濫し、アルゴリズムと生成AIによって最適化された現代の情報環境を〈母〉のメタファーから捉えることもできるでしょう。こうした意味で狭義の母娘論を超えた極めて広い射程を持つ本書は三宅氏の影の主著ともいうべき一冊であるといえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

〈暮らし〉を制作するということ。 

* 消費と浪費

 
國分功一郎氏はベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』(2011)においてフランスの思想家ジャン・ボードリヤールの議論をベースとして消費社会がなぜ「退屈」をもたらすのかを論じています。消費社会において人間は資本主義によって(具体的には「広告」という企業文化を経由して)事物に対する欲望を植え付けられることになりますが、この欲望は観念的なもの、つまり記号に過ぎないため事物そのものとは乖離しています。
この主張を同書は現代の製造業の頻繁なモデルチェンジを例に説明しています。自動車メーカーはモデルチェンジを定期的に行い、買い換えることを消費者に促します。消費者はこの時、事物そのものの与える利便性や快楽(必要な輸送能力を得ること、快適に走ること、好みの外観を手に入れること等)ではなく「ニューモデル」という観念やブランドという記号に強く動機づけられます。このような事物に「ついての」観念的なもの、記号を求める行為を同書は「消費」と呼びます。
 
そしてこの観念的なもの、記号を対象とする「消費」には終わりがありません。いまの例で述べれば、次から次へと市場に投入されるニューモデルの購入を反復し続けることでしか人間は「消費」の欲望を追求することはできず、決して「満足」に至ることがありません。これが同書において「退屈」と呼ばれる状態です。
 
そこで同書はこの「退屈」を解決するため「消費」から「浪費」に回帰する「贅沢」という戦略を提示します。同書は人間は「必要の限界を超えて物を受け取る」ときに、つまり「必要のないもの、使いきれないもの」を「受け取り、吸収する」ときに「満足」に至ると考えます。このような事物そのものを受け止める行為を同書は「浪費」と呼びます。
 
観念や記号という無限に追求する「消費」ではなく、事物そのものを受け止める「浪費」には物理的な、あるいは時間的な限界が存在します。しかしこの限界があるからこそはじめて、人間は「満足」することになります。これが同書のいう「贅沢」です。
 
そして具体的に「消費」から「浪費」に回帰するために同書が提唱するのが「動物になる」という倫理です。ここで同書はドイツの動物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」の概念を援用し「動物」と「人間」の相違を説明します。例えば岩の上で日光を浴びるトカゲはそこを「岩場」として認識することができず、単に「陽の当たる場所」としか認識していません。ここからユクスキュルはそれぞれの生物は認知の形態が異なるため世界をそれぞれ別のかたちで捉えていることに注目し、この生物ごとに異なる姿に認知される世界のことを「環世界」と名づけました。
 
これに対して対して同書は人間はその高い認知能力により擬似的に「環世界」を移動することが可能であると考えます。より正確にいえば、人間は膨大な情報を知覚した上で、それらを言語を用いて常にある程度まで整理しているということです。そのため人間はある環世界から別の環世界へと移動を常に繰り返し、ひとつにとどまることができない不安定な状態に置かれます。これが「退屈」の原因になります。なぜならばひとつの環世界にとどまっていれば、そこで認知した事物に集中し「できるはずのことが、できない」と、他の可能性のことを考えることができないからです。人間は環世界を簡単に移動してしまうから「退屈」するということです。
 
したがって同書は「浪費」へ回帰するため、ある環世界にしっかりとどまって「動物になる」ことを消費社会における倫理として提示します。ここで同書はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの議論を援用し、環世界の移動は事物の「不法侵入」によって発生すると考え、この「不法侵入」を「待ち構える」ために「訓練」を怠るべきではないと述べています。
 

* 浪費の失敗としての制作

 
こうした國分氏の議論を宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)において「制作」という観点から更新しています。同書は今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム(発信と承認の快楽が前面化したゲーム)」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。

 

庭の話

庭の話

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そこで同書はまず現代を代表する庭師であるジル・クレマンの「動いている庭」やエマ・マリスの「多自然ガーデニング」といった仕事を参照し、「庭」とは第一に、人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に「庭」とは人間がその生態系に関与できるけれども、完全に支配することはできない場所である必要があるとします。
 
そして同書は事物に「ついての」観念や記号ではなく、事物そのものにアプローチすること、そしてそのために事物に没入する身体に擬似的に「変身」することという点で國分氏の議論は同書の議論と重なり合うとした上で、その相違点として國分氏が『暇と退屈の倫理学』を公刊した2011年当時と今日では議論の前提となる社会像が大きく異なることを挙げています。
 
今日のプラットフォームに支配された社会においてはフィルターバブル的に事物の「不法侵入」を受ける機会を大きく失い、同時にプラットフォームの提供する承認の交換を通じて、人間は環世界を移動するより強い快楽を、恐ろしいほど低コストで手に入れることが可能になっていると同書はいいます。それゆえに同書では事物とのコミュニケーションを通じた「制作」の快楽により承認の快楽を相対化することを目論みます。つまりここで扱われているのは「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題になります。換言すれば國分氏が仮想敵としたのがかつての消費社会だとすれば同書が仮想敵とするのは今日の情報社会に他ならないということです。
 
そして同書は(某特撮ヒーロー番組のグッズ収集が高じて理想のアイテムを夢想する40代男性や、某バスケ漫画の登場人物同士の同性愛的物語を妄想する少女などを「例」として)人間が「制作」に動機づけられるためには対象となる事物の「浪費」に「満足」することなく「浪費」に失敗し続けることが必要であるといいます。
 
すなわち、事物からのコミュニケーションを強く受けた(受けすぎた)ことによって「変身」した人間は、そのためすでに存在している事物だけでは物足りなくなり、その事物の理想形を求めるようになりますが、悲しいかな彼/彼女が心の中に描いた理想形に完全に合致する事物はこの世界に存在せず、そのため彼/彼女はその事物の理想形と現実に存在する事物との落差に傷つき絶望し、自らその事物を生み出すことを欲望し始める、ということです。この状態で人間ははじめて「制作」に動機づけられることになります。それゆえに同書のいう「庭」とはプラットフォームで失われた「不法侵入」の可能性を担保し続ける場所であり、さらに「変身」が継続することで「浪費」に失敗し続ける場所である必要があります。
 

* 有限化としての制作

 
確かに同書のいうように「制作」は「行為」の肥大化による承認中毒を打破するためのほとんど唯一の回路といえるでしょう。そしてここでいう「制作」とは芸術や開発といったわかりやすい創造的行為に留まることはなく、むしろ人は誰しもつねに何かを「制作」しているといえます。
 
例えば千葉雅也氏は『勉強の哲学』の増補版(2020)に追加した補章において「勉強の哲学」をさらに「制作の哲学」へと展開させており、同書の述べる勉強論は「自分自身を作り直す」という何らかの制作行為につながるものであると述べています。文章を書いたり、料理をしたり、あるいは部屋の模様替えをすることまで含めて、言ってみればすべてが「自己制作」ということです。そしてそのための具体的な方法として氏は同書が展開するアイロニーとユーモア、そして自分の身体にもとづく享楽という三つの頂点を持つ「勉強の三角形」を応用した「楽しい暮らしのモデル」を提案します。
まず価値観の本質的な無根拠性を暴くアイロニーから別の価値観を提示するユーモアへの折り返しを実生活で応用してみると、他者とのコミュニケーションやメディアの情報など生活空間に溢れるさまざまな言葉に対して、多様な解釈のいわば「交差点」としての、ただ言われたこと、ただ起こっている出来事に向き合うことができるようになります。これはいわば世界を「小説」のように捉えるということです。つまり純文学小説のように両義性や多義性を重んじ、あたかも自然を観察するかのように出来事をありのままの複雑さで記述していくという態度です。
 
また、このように言葉についての価値判断や、それに結びついた喜怒哀楽の変化を一時停止して、ただ自然を観察するようにしてみると、さまざまな言葉や行動はそこに付随する「意味」から離れ、ただの動きとしての「運動の形」になってきます。そうするとだんだん世界が自己目的なダイナミックな「運動=リズム」の連鎖として立ち現れてきます。それはすなわち、日々の出来事を「ダンス」としてみるということです。
 
そして、このような世界を「運動=リズム」として捉えるというダンス的な見方をさらにラディカルに言語そのものに向けると、そこには「詩」が発生します。とりわけラディカルな現代詩になってくると常識的な意味伝達はそこで崩壊して、曖昧な比喩であったり、言葉のダジャレ的なつながりだったり、言葉自体が持つ物質性とでもいうべきものを操作するようになります。つまり現代詩は言葉そのものを「面白い形」として取り扱っているということです。
 
この点「5・7・5」「5・7・5・7・7」という定型的なリズムのなかでリズムと意味の両面で遊んでいる詩が「俳句」や「短歌」です。とりわけ俳句はある風景を瞬間的に切り取るものが多く、その面白さは「写真」に近いものがあるでしょう。そうであれば逆に写真を撮る時は何か意味を伝えるという発想なしで、ただ、ある形やリズムを切り取ればいいという俳句的発想でとってみればいいということです。
 
このように同書は言語を「運動の形」で捉えることを提唱していますが、より直接的に「形で遊ぶ」ジャンルとして「絵画」があります。ここでも同書は家とか自然とか動物などといった一定の記号性をもつ対象をその記号性を全否定はせずに、いわば記号への抵抗運動としての何か記号的ではない線や記号から逃れていく線を書くという意識の持ち方を勧めてており、同様に「音楽」においても一般的な近代西洋音楽のルールから外れて、形それ自体に、リズムそれ自体に向かっていくという方向性を提示します。
 
以上のように同書はアイロニーからユーモアの折り返しにより、さまざまな芸術のジャンルをただの形として操作し、ただその無意味な享楽を楽しんでみることでみるという「制作」のあり方を論じています。そしてこうした「制作」のあり方を突き詰めていけば、そこには自分自身のミニマムで根本的な「個性=特異性」が現れてくることになります。さらにこうした「制作」のあり方はひいては芸術的制作だけでなく日常生活や仕事という広義の制作における意識の持ち方にもつながってくるといいます。
 
そしてここで提示される「意味からリズムへ」という論点は千葉氏の近著『センスの哲学』(2024)においてさらに深く論じられることになります。アイロニーからユーモアへと折り返すことでさまざまな物事における「意味」が蒸発し、ただの非意味な出来事として「リズム」の表れます。そしてこうしたリズムの反復と差異のなかに見出される「どうしようもなさ」としての享楽的なこだわりを追求することで、そこから新しい世界が立ち上がってくることもあるでしょう。こうした意味で「勉強の哲学」と、その更なる展開としての「制作の哲学」とは「有限化」という観点から、いわば世界を制作しなおす哲学であるといえるでしょう。
 

* 日常美学の諸相と世界制作

 
また青田麻未氏は『「ふつうの暮らし」を美学する』(2024)において「世界制作」というコンセプトから日常生活のなかにある美的経験について論じています。近代ヨーロッパにおいて成立した美学という学問は長い間、芸術作品がもたらす美の経験を典型例とした考察が進められてきました。しかしながらそもそも美学が原義的には「感性の学」であるというところに立ち返れば、美学の対象は美や芸術には限られることはないはずです。
こうしたことから1970年前後より「環境」という視点から自然の美的経験を再検討する「環境美学」と呼ばれる分野が発展を続けており、やがて1990年代に入ると自然と人工の要素を併せ持つ複合的な環境もその議論の対象として組み込まれていくようになり、ここから複合的な環境がもたらす日常空間へと関心が向けられていくことになります。
 
このような背景から成立した新たな学問領域が日常生活のなかで感性が果たしている役割を明らかにすることを目指す「日常美学」です。日常美学は21世紀になってから本格的な議論が立ち上げられました。2005年には日常美学として初めての論文集が出版され、2007年には美学者のユリコ・サイトウとチャ・マンドキがそれぞれ同じ『日常美学』というタイトルを冠した2冊の本を公刊しています。
 
アメリカの美学者でアーティストでもあるケヴィン・メルキオネは日常美学を「第三のかご」と呼びます。芸術ではないから従来の美学の主題でもなく、自然でもないから環境美学の主題でもない、そうしたものがじゃんじゃん放り込まれてくるかご。それこそが日常美学の懐の広さでもあり、同時にその独立した領域としての自律性を脅かす特徴でもあります。
 
我々の日常はあまりにも多様で雑多です。そこで日常美学において議論すべき範例的な美的経験とはどのようなものか、ということが問題となります。そしてこの点をめぐって日常美学には大きく分けて二つの立場があるとされます。
 
一つめの立場は日常の中の平凡な側面に注意を向けるべきだという立場です。例えばフィンランドの美学者オッシ・ナウッカリネンは日常美学がまさに「日常」を論じるものであろうとするならば、パーティなど日常の中の特別な経験を無視すべきではないものの、中心的に論じられるべき事柄は平凡な、まさに我々の日常の核を作り上げている家事や仕事などのルーティン的な活動がもたらす美的経験だと述べます。
 
二つめの立場は日常の中の特別なものに注目するべきだという立場です。例えばアメリカの美学者トーマス・レディは日常生活はそれ自体では平凡なものにもかかわらず、そこに非凡なものを見出す芸術家をモデルとして、日常美学を構築し、平凡なものが特別なオーラを纏うことで非凡なものへと変容することを通じて初めて「美的」と呼ぶ経験が生じると考えます。
 
ここから一方で日常の安定性に目を向けるとそれは美的経験なのかという問題が生じ、他方で美的経験の特別さを強調すれば今度はそれは日常の話になるのかという問題が生じてしまうことになります。これは日常美学に常について回るディレンマであるといえます。
 
このように日常美学という分野は決して一枚岩ではありません。もっともいずれの立場を取るにせよ日常美学に共通する理論上のスタンスとして「世界制作」への参加という側面を捉えようとすることが挙げられます。ここでいう「世界制作」とは文字通り世界をつくるということを意味しています。
 
先述した『日常美学』の著者であるサイトウは我々は一人一人みなが世界の製作者であり、地道な毎日のなかで我々の感性の働きが意外にも世界のありかたを決めていると考えます。こうした「世界制作」という観点からいえば日常美学はすべての人の人生に深く関わってくる領域であり、そこには現代における「日常」を生きる上での倫理的作用点を見出すことができるでしょう。
 

*〈暮らし〉を制作するということ。 

 
ところで青田氏は、同書はいわゆる〈ていねいな暮らし〉を推奨するものではないとして、ここで目指すのは、あくまで日常生活を見つめるためのことばを得ることであるといいます。もっともその一方で、今ある等身大の日常生活を繊細に観察することで案外、自分ではふつうだと思っている生活が持っている愛おしさにも気づかせてくれるかもしれないともいいます。
 
確かにいわゆる〈ていねいな暮らし〉は表象的な記号として消費されている側面もあります。この点、佐藤八寿子氏は『〈ていねいな暮らし〉の系譜--花森安治とあこがれの社会史』(2025)において近年、SNSを中心に流行する〈ていねいな暮らし〉について、それは憧れの対象やロールモデルとなると同時に容易に嫉妬や中傷の対象ともなり得るとして「〈ていねいな暮らし〉問題」とは「いつの間にか〈ていねいな暮らし〉としてイメージされるものごとのハードルがぐんぐんと高く引き上げられ、理想、あこがれとして共同幻想化すると同時に、否定もされるという状況、つまり、言葉がひとり歩きをしてしまっていることだと言うことができるだろう」と述べています。
しかし、その一方で同書はSDGsのユニバーサリズムと〈ていねいな暮らし〉のカトリシズムとの類似性を認めた上で、近代という「大きな物語」の次にくる新しい時代を支える価値観を考えるうえでSDGsや〈ていねいな暮らし〉は有益な概念になりうると述べています。
 
このように同書は〈ていねいな暮らし〉に対しては、一方では距離を置きつつも他方ではその意義を認めるという一見すると両義的な態度を取っています。けれどもこの両義性は〈ていねいな暮らし〉における「スタイル」と「精神」という二層構造から読み解けるのではないでしょうか。
 
ここでいう「スタイル」としての〈ていねいな暮らし〉とは完全無欠な〈ていねいな暮らし〉という理想的な(しかし到達不可能な)モデルを目指して、その周囲を否定神学的な欲望がひたすら空回りしていくような態度です。これに対して「精神」としての〈ていねいな暮らし〉とは日常の中で生起するさまざまな問題のひとつひとつを、まさに〈ていねい〉に解決することで〈暮らし〉を「制作」していくような態度です。すなわち、本書の両義的な態度とは、前者に対する冷ややかな視線と、後者に対する温かなまなざしから構成されているようにも思えます。
 
こうしてみると否定神学的な欲望である「スタイル」としての〈ていねいな暮らし〉とはまさにボードリヤールのいうところの記号や観念の「消費」であり、SNSなどのプラットフォーム上において宇野氏のいうところの「相互評価のゲーム」のなかに巻き取られてしまうものであるといえるでしょう。しかしその一方で、日々の〈暮らし〉を「制作」していく「精神」としての〈ていねいな暮らし〉とは日常美学における「世界制作」へとつながるものであるといえるのではないでしょうか。