かぐらかのん

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【読書】「『ひと』として大切なこと(渡辺和子)」--置かれた場所で咲くための「人格論」講義

 

「ひと」として大切なこと PHP文庫

「ひと」として大切なこと PHP文庫

 

 

 

* あの伝説の「人格論」講義を完全収録

 
かの200万部のベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」をお読みになった方であれば、著書の渡辺和子シスターが学長を務めていたノートルダム清心女子大学で毎年行なっていた「人格論」という講義はご存知でしょう。
 
本書はこの「人格論」を完全収録したいわばLIVE実況中継本です。昭和60年頃の講義が当時の語り口などもそのままに収録されています。
 
「人格論」という言葉から何か「正しい生き方」を一方的に押し付ける「お説教」のようなものを想像しがちですが、もちろんそうではなく、講義は主に臨床心理学方面の知見に基づいており、そこで示されるのはむしろ、自由で多様性のある豊かな生を送るための方法論です。
 
本書は「置かれた場所で咲きなさい」で語られた実践を理論的、体系的に補完する隠れた名著といえるでしょう。
 
 

* 「人格」とパーソナリティ

 
講義のはじめの方で「人格(Person)」の定義が2つ挙げられています。
 
まず一つ目は、人格とは「理性的性質の個体的実体」であるという、6世紀にボエチウスというイタリアの哲学者が述べた定義です。
 
そして二つ目は、人格とは「自ら判断し、判断に基づいて決断し、その決断に対してはあくまで責任を取る存在」であるという、20世紀のフランスの哲学者ガブリエル・マルセルの述べる定義です。
 
マルセルの定義はボエチウスの定義を現代的に洗練させたものと言えます。そしてマルセルは「付和雷同するようでは単なる人間であって人格とは言い難い」と付け加えます。ここで「人格」と「人間」が区別されています。
 
このように、人格とは「考える力(理性)」と「選ぶ力(自由意志)」を備え「責任」を引き受ける主体ということになります。
 
もちろん、何かの障害などの事情でこうした能力が十分に備わっていない人を「人格ではない」と蔑んだり、排除して良いという意味ではありません。シスターも厳重に釘を刺しているように、人の尊厳・価値は人格の尊厳とは無関係であることはいうまでもありません。
 
これは別の意味でいうと「人格」として生きることと「人格者かどうか」とは無関係であるということです。
 
この点、人格から生じてくるものを「人格性(Personality)」といいます。心理学者、ゴードン・オルポートの定義によれば人格性とは「個人の内部にあって、その人の特徴的な行動と思考を決定するところの精神、身体的体系の動的組織」をいいます。これはアドラー心理学でいうところの「ライフスタイル」の概念に重なります。
 
「動的」とは「変化する」ということです。我々は生まれてこのかた不断にこの人格性、パーソナリティを形成し続けている。その結果、社会適応的なパーソナリティが形成される事もあるし、不適応なパーソナリティが形成される事もあります。
 
 

* パーソナリティの形成要素

 
こうした、パーソナリティの形成要素は第一に遺伝が関係しており、そして第二に環境が関係すると言われています。
 
この点、心理学者、ウィリアム・シュテルンはパーソナリティ形成において、この遺伝と環境の輻輳説を唱えます。これに対して本書は遺伝や環境を超越するものとして「自己」という第三の要素を強調します。
 
すなわち、人のパーソナリティは必ずしも遺伝や環境の産物に還元されるものではない。人格としてよりよく生きるにはまず「自己」を深く知る「自己理解」が大事になるということです。
 
 

* 二つの「自己」

 
この点、本書がいう「自己」とはおそらく「カウンセリングの神様」と呼ばれる来談者中心療法の創始者、カール・ロジャーズに依拠したものと思われます。
 
ロジャーズによれば「自己」には「理想の自己」と「現実の自己」の二種類があります。
 
まず、我々は「こうありたい自分」「自分から見た自分」という「理想の自己」を持っている。これを「自己概念」と言います。
 
発達論的観点からいうと、こういう「理想の自己」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンのいう「鏡像段階(生後6ヶ月〜18ヶ月)」にて形成されると言われてます(精神分析ではこれを「理想自我」と言います)。
 
そして、こうした「理想の自己」とは別に、我々は「ありのままの自分」「他人からみた自分」という「現実の自己」に直面します。これを「経験的自己」と言います。
 
例えば「自分は知的でクールに振舞っている」という自己概念を持ってる人が他人から「お前は暗くて空気が読めない奴だな」などと言われると深く傷つくでしょう。要するに「理想の自己」と「現実の自己」の間に齟齬があると苦しいわけです。そこで両者を近づけていく営みが重要となります。
 
 

* 「自己一致」と「泥かぶら」

 
つまり「自己理解」の営みにおいては、まずは「理想の自己」を「現実の自己」の方へ引き寄せる努力をする一方で「現実の自己」を「理想の自己」へと引き上げていく努力も重要となるわけです。こうした先にあるものがロジャーズのいう「自己一致」です。
 
ここで引き合いに出されるのが後年もシスターが好んで引用する「泥かぶら」という寓話です。
 
この話は眞山美保さんという劇作家の方が昭和20年代に創作した戯曲で、容姿が醜く「泥かぶら」と呼ばれて村中でつまはじきにされていた女の子が、ある日、通りすがりの旅人から「村一番の美人」になる秘訣を教わり、本当に「村一番の美人」になるという話です。
 
旅人が女の子に教えた秘訣はたった三つです。
 
「いつもにっこり笑うこと」「人の身になって思うこと」「自分の顔を恥じないこと」
 
この三つの教えを真摯に実行することで、彼女は「泥かぶら」と呼ばれる容姿のまま、村中から愛される「美しさ」を手に入れるわけです。
 
もちろん現実はお話のように上手くいかないでしょう。けれどこの寓話は「自己理解」における一つの指針を示しています。
 
すなわち、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉でいう「変えられるものを変える勇気」「変えられないものを受け止める心の静けさ」「その両者を見極める英知」。この3つの要素が揃って初めて人はより良く自らを知る事ができるわけです。
 
 

* 聖所をもって生きるということ

 
「自己」を深化させる上では「自己理解」とともに「他者理解」も重要になります。
 
この点、本書は他者との間に100パーセントの理解は不可能であると言います。自分は自分でしかない。他人は他人でしかない。シスター自身が言うようにこれはある意味で「淋しい考え」なのかもしれません。
 
けれども人格論の根本はまさにこの「淋しさ」からの超越にあります。こうしたあり方をシスターは「聖所をもって生きる」と表現します。
 
人には相互に理解できない部分、すなわち「聖所」がある。自分は他人をわかり尽くせないし、他人は自分をわかり尽くせない。その互いに理解しあえない「淋しさ」を受け止め、味わい、澱まで飲み干していく。
 
「聖所」というのはある意味で「心の闇」を持つという事です。本書は「あかりをつけたら闇がもったいない」と言います。闇には闇の価値がある。
 
こうした闇と向き合う過程がその人に深みを与えていく。孤独を知った人だけが持つことができる優しさ、微笑み、強さ、そういうものが生まれてくるという事です。
 
 

* 「ごたいせつ」としての愛のまなざし

 
このように人と人は完全にはわかりあえない。その現実を引き受けた上で、他者と成熟した関係性を構築していかなければならない。それがほかならない「愛の実践」です。
 
「愛」という言葉がいたるところに溢れかえる世の中ですが「愛」とは一体なんでしょうか?「愛」と「好き」はどのように違うのでしょうか?本書では3つの愛の定義を挙げています。
 
まず極めて一般的な定義によれば、愛とは「ある人とって価値ありとされた対象によってその人が引きつけられた時に起きる精神的過程」である(世界大百科事典)。
 
ここでいう「価値」を何に見出すかは人それぞれです。そして時にとんでもないものに「価値」を見出してしまった人が凄惨な事件やテロを起こすわけです。このように「愛」という感情は人の欲望を駆動させる取り扱いが厄介なものです。
 
一方、本書は2番目に、我が国のハンセン病治療に尽力されたことで知られる神谷恵美子先生の定義を示します。神谷先生によれば愛とは「互いにかけがえのないものとして、相手を愛おしむ心、相手の生命を、その最も本来的使命に向かって、伸ばそうとする心である」ということになります。
 
なかなか美しい定義です。一般的な定義が精神的過程を記述しているのに対して、神谷先生の定義はどちらかといえば人と人の間の関係性に主眼をおいています。
 
そして本書は愛の3番目の定義として愛とは「ごたいせつ」であるといいます。16世紀にキリスト教布教の為来日した宣教師たちは「神の愛」という概念を日本人に説明するため「デウスのごたいせつ」という言葉を使ったと言われています。
 
つまり「ごたいせつ」としての愛は、たとえどんなにどうしようもない人であっても、一人一人が価値のある代え難い存在として慈しんでいく態度です。
 
以上の3つの愛の定義を重ね合わせる事で「愛」を「好き」とは異なる概念として取り出す事が可能となります。
 
すなわち、感情的、生理的な「好き」と、意志的、人格的な「愛」は截然と区別可能であり、ここで我々は「好きでないけども愛する事はできる」という態度を獲得します。
 
このように「愛」を捉える時、人はありもしない桃源郷に囚われる苦しみから自由になり、むしろなんでもない日常のあたり前を輝かせる力を得ることができる。まさしく、エーリッヒ・フロムが言うように「愛すると言うことは、単なる熱情ではない。それは一つの決意であり、判断であり、約束である」という事です。
 
 

* 置かれた場所で咲くということ

 
「置かれた場所で咲きなさい」の大ヒットは渡辺人格論にようやく時代が追いついた証左ではないでしょうか。
 
ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」が凋落した現代においては、もはや人は好むと好まざると何がしかの「小さな物語」を選択して生きていくしかない。
 
すなわち、もはや社会共通の「正しい価値」が失われれた今、我々はそれぞれが信じる価値を決断と責任を持って主体的に引き受けていく、「人格」としての生き方が求められている。これがまさに「置かれた場所で咲く」という事です。
 
いかなる価値を選ぶかは人それぞれです。けれどもその結果、こんなはずじゃなかったと後悔する確率を少しでも下げる為の幅広い視野と見識は持っておかなければならない。こうした意味で本書が示すのは、比較不能な価値が跋扈する現代を生き伸びる為の教養そのものだと言えるでしょう。
 
 

【感想】「Fate/stay night [Heaven’ s Feel] II. lost butterfly」--幸福と正義の間

 

 

 

* Fate/stay nightの裏街道にして到達点

 
2004年にTYPE-MOONより発売された「Fate/stay night」はゼロ年代を代表するPCゲームの一つとして、これまでも様々なメディアミックスが展開され、その度に幅広い支持層を開拓してきました。
 
映像化に関しても第1のセイバールート(Fate)が早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化されています。
 
こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)でした。桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道にして到達点と言えます。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。
 
こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていましたが、ついに満を持して2017年より劇場3部作として広く世に問われることになります。本作はその3部作中の第2章になります。
 
 
(以下、ネタバレあり)
 
 
 
 

* あらすじ

 
とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。
 
10年前の第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた衛宮切嗣への憧憬からいつか切嗣のような「正義の味方」となり、誰もが幸せな世界を作るという理想を追いかけていた。
 
そんなある日、士郎は偶然にサーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「セイバー」と呼ばれる見目麗しい少女であった。
 
聖杯戦争の説明を受けるため、遠坂凛に連れられて監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。
 
「喜べ少年、君の願いはようやく叶う」
 
「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ」
 
 

* 不人気ヒロインから銀幕の大女優へ

 
以上が原作序盤の展開となります。しかし映画ではなんとこの肝心な部分の大半がばっさり省略されており、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成となっています。
 
おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFateの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないでしょう。そしてこの映画が凄まじいのは、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てを、間桐桜という業の深い少女のヒロイン性を深化させるというそのただ一点に投入してしまっているところです。
 
何というか、桜ちゃんという子は諸般の事情もあり長らく、どちらかといえば不人気ヒロインの不遇を託っていたわけですが、この映画においては桜びいきで知られる須藤友徳監督の狂気的ともいえる愛情により、圧倒的な儚さと昏さと妖艶さを持つ銀幕の大女優に生まれ変わっています。
 
そういうわけで本作第1章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないわけですが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの歪みによって生み出されているわけです。
 
 

* 脱構築される正義

 
こうした第1章の続編である本作は士郎がセイバーを喪ったところから始まります。そしてその序盤、はたして桜はサーヴァント「ライダー」のマスターであり、さらに凛の妹であったと言う事実が判明します。
 
この点、凛は冬木を管理する魔術師としての体面を優先し、暴走する可能性のある桜を処分すると言う。これに対して士郎は「桜だけの正義の味方になる」と言う。しかし士郎はこの時点ではまだ、それはどういうことかを本当の意味で理解してはいない。
 
桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他なりません。セイバールートでひとまず示された「正義」の形は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいて脱構築されます。そしてそれは衛宮士郎が「衛宮切嗣の呪い」を解毒していく過程でもあります。
 
 

* 決断主義

 
Fate/stay nightという作品はゼロ年代初頭におけるポスト・セカイ系の潮流、宇野常寛氏の言うところの「決断主義」の系譜に属しています。
 
社会共通の価値観である「大きな物語」が喪われもはや何が正しいのかわからなくなった時代、最もわかりやすい選択肢としては「君と僕の優しいセカイ」に縋りつく態度です。このような想像力が色濃く現れている「セカイ系」と呼ばれる作品群が2000年前後に一世を風靡しました。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。ゼロ年代に入り、米同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくる。もはや何が正しいのかわからないのであれば自分の信じられるものを正義とみなすしかない。こうしてセカイとセカイが正義を奪い合う「決断主義」の時代が幕を開ける。
 
この作品がセカイ系を退けて支持を集めた背景にはこうした時代情勢の変化があることは疑いないでしょう。先程の言峰綺礼の台詞はまさに決断主義の本質を端的に言い表しています。
 
 

* 幸福と正義の間

 
こうしたFate/stay nightの持つ決断主義傾向が最も先鋭に現れるのがまさにこの桜ルートです。本作終盤で黒幕の間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。「万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ」と。
 
桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。
 
ここで第1章冒頭の前日譚がじわじわと効いてきます。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「ゲームの設定」ではなく「感情を伴う体験」として知ってしまっている。
 
ゆえに我々はここでの士郎の決断に「変節」とか「挫折」などとという言葉で軽々しく非難できない重さがある事を痛いほど理解できるし、むしろその決断の尊さに心からの共感を寄せる事さえもできるわけです。
 
こうして「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答える士郎の姿に我々は借り物でも偽善でもない、まさしく決断主義者の正義をはっきりと見て取ることができるでしょう。
 
そして周知の通り、ここから物語はさらに救いようの無い方向へ転がり落ちていき、最後に示されるのは二つの結末です。果たして映画はどのような結末にたどり着くのか。ここで2020年代Fate/stay nightの新たな世界観を示してくれるのでしょうか。来年の春に公開される最終章が待ち遠しいところです。
 
 
 
 

【読書】「風の帰る場所(宮崎駿)」〜「綺麗な嘘」を全力で吐くということ

 

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

 

 

 

 

* ニヒリズムヒューマニズムの再接続

 
「その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくとも子どもに向けて作品を作りたいっていうふうに思った時から、そういう部分で映画を作るのはやりたくないと思ってます。映画だけじゃないです。他のものでもそうです。それは大人に向けて作るときは、また違うでしょう。大人に向けて作ったら、多分『あなたは生きてる資格がないよ』ってことをね(笑)、力説するような映画を作るかも知れませんけど」
 
(本書より〜Kindle位置:158)

  

本書は宮崎監督が「千と千尋の神隠し」までの作品について語ったインタビュー集です。今年の夏はなんとなくずっと宮崎映画を観返していたりしていたんですがそういう縁から手にとってみました。
 
インタビュアーを務めるのは「rockin'on」や「Cut」の創刊を手掛けた渋谷陽一氏です。渋谷氏はあえて挑発的な質問を投げたりして、ニヒリストとしての宮崎氏の側面を遠慮なく暴き出しています。
 
宮崎駿氏の華々しいフィルモグラフィは氏の中にある「公と私」「政治と文学」の断絶を再接続するための試行錯誤の軌跡としてみることもできるでしょう。
 
すなわち、一方で「もはや世界は何も変わらない」というニヒリズムがあり、他方で「それでも世界を肯定しなければならない」というヒューマニズムがあるということです。
 
 

* 「母性へのロマンティシズム」と「イノセントな少女性」

 
ニヒリズムヒューマニズム。こうした氏の中にある断絶を再接続するための回路として機能しているのが、宮崎映画を根底で駆動させている「母性へのロマンティシズム」「イノセントな少女性」というファンタスムです。
 
まず一方の極である「母性へのロマンティシズム」が前景化された作品としては、スタジオジブリ体制になってからの初作品である「天空の城ラピュタ(1986)」や、宮崎映画の裏の代表作ともいって差し支えない「紅の豚(1992)」などが挙げられます。
 
紅の豚」というのは宮崎氏自身の中では当時の自身の問題意識を整理するために作った作品らしくて、本書でも「豚」についてかなり熱く語っています。こうした「母性へのロマンティシズム」という回路は今の所の最新作である「風立ちぬ(2013)」まで連綿と引き継がれています。
 
そして他方の極をなす「イノセントな少女性」を高度経済成長前の日本の村落共同体と結びつけ「喪われた原風景」として描き出す事に成功したのが「となりのトトロ(1988)」ということになります。
 
いまや不朽の名作としての評価を揺るぎなく確立した本作が当時の興行的には全く振るわなかったという事実は「虚構の時代」と言われる80年代の空気感を裏から照射しておりこれはこれで興味深いものがあります。
 
けれども現代においてサブカルチャーを支配する想像力は、かつてのような現実から虚構への逃走ではなく、むしろ虚構により現実を拡張していきます。こうした「拡張現実」的な想像力から改めて「トトロ」を観返した時、おそらくそこには単なる昭和ノスタルジーを超えた新たな輝きがあると思います。
 
 

* 「ナウシカ」から「もののけ姫」へ

 
本書によれば宮崎氏の中で当初アニメーション作家としてやりたいと思っていた事は「トトロ」まででひとまず大体やり尽くしたそうです。その後は映画制作と並行して氏のもう一つのライフワークともいうべき「風の谷のナウシカ」の漫画版を描き進めていくわけですが、このナウシカ漫画版の最後に辿り着く、全てを引き受けて前に進むといった東アジア的生命観をひとまず映画として形にしたのが「もののけ姫(1997)」です。
 
周知の通り本作は宮崎駿スタジオジブリの名前を不動の国民的スターダムに押し上げた記念碑的作品です。本作のキャッチコピーは同年に公開された劇場版エヴァンゲリオンとわかりやすい対照をなしているわけですが、結局、これが全てを表してると思うんだと思います。
 
ジャパン・アズ・ナンバーワンが失墜し、地下鉄サリン事件などで若者の「生きづらさ」が前景化したあの当時は、大きな物語が失墜するポストモダンが次のフェイズに入った時代であり、生を意味付ける物語無き所で人はいかに生のリアリティを獲得していくかというのは当時の一つの問題意識でもあった。
 
そういう意味からすると、もののけ姫と劇場版エヴァの着地点というのは極めて近い所にあるようにも思われます。
 
 

* 「生まれてきてくれてよかったんだ」

 
こうして「もののけ姫」で形にした新たな価値観は次作「千と千尋の神隠し(2001)」でより純粋化した形で示されます。
 
本作の主人公の少女、荻野千尋はふとしたきっかけで迷い込んだ異界で仲良くなったハクを救うため、それまで自分を邪魔してきたカオナシや坊と一緒に鈍行電車に乗って銭婆の家に向かう。
 
本作では宮崎映画の代名詞である「空を飛ぶ」というモチーフは前景化されません。けれども千尋は幻想と現実の両方を自分のものとして引き受けてきちんと前に進んでいきます。
 
よく知られるように宮崎氏は本作の制作にあたり千尋と同世代の少女に向けて、ナウシカのように空なんか飛べなくても皆そのくらいの力は持っているんだと、その事をきちんと言える映画を作りたかったと言います。
 
あの「電車に乗る」シーンというのはどこまで「空を飛ぶ」ということなく、どれだけ同時代を生きる10歳の子供達にとってリアリティのある転換ができるかという宮崎氏の挑戦でもあり、そこで示されるのはこの閉塞感に満ちた現代において子供達と世界とのつながりを肯定するための「生まれてきてくれてよかったんだ」というメッセージです。
 
 

* 「綺麗な嘘」を全力で吐くということ

 
「子どもたちがどんなに鼻でせせら笑ったり、不信の目で肩をそびやかしても、実は本当はーーーよく言われてた、いまではもうすっかり泥まみれになってしまった、愛とか正義とか友情とか、なんか自分が生きてきたことを肯定してくれるものを本気で喋ってくれないかなあって、みんな待ってるんだと思います。それだけは確かです。」
 
(本書より〜Kindle位置:593)

 

 
やっぱり宮崎さんというのは「綺麗な嘘」を全力で吐く側に賭けている人なんだと思います。押井守氏が自著で宮さんは建前に準じた映画を作り、自分は本質に準じた映画を作っているんだという趣旨の事を書いてますが、この宮崎さんと押井さんの態度の違いはどっちが正しいとかじゃなくて結局は役割分担の違いなんでしょう。
 
最近つくづく人の成熟というのは、まずはまっとうに希望を懐いて次にしっかりと絶望を引き受けて、それでも世界に自分なりのイエスを言う欲望を奪還するっていう、そのプロセスにこそあるんじゃないのか、などと思ったりもするんですが、最近はこの最初の「希望を懐く」という部分がどんどん難しくなっているわけです。
 
そういう世の中だからこそ宮崎さんは多分、世界がくだらない事は百も承知だけど、映画を観に来てくれる子供達にはだから世界はくだらないんだよとは言いたくないんだろうなと、そんな風にも思えるわけです。それはある意味で戦後日本的なアイロニズムなのかも知れませんが、宮崎映画がなんだかんだと言われながら広く愛されるホピュラリティの源泉はまさにこの点にあるのでしょう。
 
 

 

再起動するセカイ〜「イリヤの空、UFOの夏」から考える。

 

 

 

* 「セカイ系」なるもの

 
新海誠監督の最新作「天気の子」の公開を機に最近再びそこらかしこで「セカイ系」というワードをよく耳にするようになりました。そこで改めてこの言葉の意味を問い直してみることもそう無益ではないでしょう。言うまでもなく「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。この言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」
 
ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。
 
ゼロ年代サブカルチャー文化圏においては「セカイ系」を巡る華々しい論争が繰り広げられてきたわけですが、この「セカイ系」というのはなかなか不思議な言葉でして、例えば、ある作品が「セカイ系」とも「アンチ・セカイ系」とも評されたり、あるいは「セカイ系」であるがために批判され、また逆に評価されたりするという事態が起こっていたわけです。
 
 

* ポスト・エヴァンゲリオン症候群

 
セカイ系」とは別名「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」などと言われます。周知の通り「新世紀エヴァンゲリオンTVシリーズ最終話では碇シンジが延々と自意識の悩みについての問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に到達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎えます。
 
エヴァTV版が放映された1995年は、現代思想史的には「大きな物語(社会全体が共有する価値観)」が崩壊し、ポストモダン状況がより加速した年として位置づけられます。一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件が象徴するように若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された。結果、これまで信じられてきた社会的自己実現への信頼低下が起こり、何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けます。
 
この点、エヴァTV版が示したのは「あえて正しいことがあるとすれば、それは何もしないことである」というある種の否定神学であり、これがまた見事に時代の気分とシンクロしてしまう。かくしてエヴァは社会現象となるわけです。
 
こうした状況に対する庵野秀明氏のアンサーが97年に公開された新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」でした。あの有名なシンジがアスカに「キモチワルイ」と拒絶される結末は、庵野氏なりの時代に向けたメッセージなのでしょう。
 
すなわち、確かに不安と閉塞に満ちた世の中かもしれないが、結局のところ人は互いに傷つけ合うことを受け入れて、他者と共存して生きて行くしかないんだということです(付言すれば同年公開された宮崎駿氏の「もののけ姫」も遠回しに同じようなことを言っているように思えます)。
 
このメッセージは確かに疑いなく正しい。けれども疑いなく正しいというのは別言すれば何も言っていないのと同じでしかない。こうしてエヴァ劇場版の示す「厳しい回答」は「エヴァの子供達」から拒絶され、エヴァTV版的想像力を濃厚に引き継ぐ作品群が一世を風靡することになる。
 
これが「セカイ系」と呼ばれる潮流です。いわばセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」ということになります。こうしたセカイ系作品の典型と言われるのが「最終兵器彼女」「ほしのこえ」、そして本作「イリヤの空、UFOの夏」です。
 
 

* 本作のあらすじ

 
本作は第二次世界大戦終了直後に史実から分岐した世界が舞台となっており、冷戦集結後も日米は「北」と呼称される国家との敵対関係が続いている。「北」の脅威に備え、航空自衛軍アメリカ合衆国空軍が常駐する園原空軍基地の近辺ではUFOの目撃談が後を絶たなかった。
 
園原中学校二年生、浅羽直之は非公式のゲリラ新聞部に所属し、部長である水前寺邦博と共に夏休みの間、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。しかし夏休み全てを費やしても何の成果も得られなかった。
 
夏休み最後の夜、学校のプールへと忍び込んだ浅羽は伊里野加奈と名乗る謎めいた少女と遭遇する。そして翌日の始業式の日、伊里野は転校生として浅羽のクラスに編入してくる。こうしてあの夏の終わりが始まった。
 
 

* 「セカイ系批評」としてのイリヤ

 
この点、本作は先に述べたように「最終兵器彼女」や「ほしのこえ」と共に「三大セカイ系作品」として位置付けられてはいます。けれども前二者が結果的にセカイ系と呼ばれたのに対して、本作はセカイ系構造自体に相当に自覚的であり、むしろ「セカイ系批評」という側面すら併せ持っています。
 
本作はクライマックスまでは、まさに見事なまでのセカイ系展開となっています。果たしてイリヤの正体は地球侵略を目論むUFOに唯一対抗できる超音速戦闘機ブラックマンタの最後のパイロットであった。しかし浅羽へ恋心を抱いたイリヤの中には、初めて「死にたくない」という感情が芽生えていた。こうして少年少女と世界の命運は直結し「世界か少女か」の二択が示される。
 
ここで浅羽は世界ではなくイリヤを選ぶ。そしてイリヤはそんな浅羽を守るためブラックマンタでUFOへ特攻をかける。こうして世界は救われイリヤは最期を迎えます。
 
しかし話はここで終わりません。本作は最後の最後の「エピローグ」にて大きなどんでん返しを用意していました。それまで描き出してきた浅羽とイリヤの関係性自体が「子犬作戦」なる組織的陰謀であり、結局「浅羽とイリヤの小さな物語」は大人たちによって仕組まれた出来レースにすぎなかったという事実が明らかになります。
 
 

* セカイ系とデータベース消費

 
本作はセカイ系構造を十分に意識して物語を設計しているため、セカイ系の特徴がきれいに描き出されています。
 
まず、セカイ系作品最大の特徴は、組織や敵の設定が極めて希薄な「世界観の排除」にあります。こうした特徴は「データベース消費」と極めて高い親和性を有しています。
 
哲学者の東浩紀氏は「動物化するポストモダン」においてポストエヴァ世代の作品受容態度の変化を指摘します。すなわち「物語消費からデータベース消費」という変化です。
 
エヴァ以前のいわゆるオタク第2世代においては、例えば「機動戦士ガンダム」といった「個々の作品」を通じて、例えば「宇宙世紀」といった「大きな物語(世界観設定)」を消費する「物語消費(世界観消費)」が主流でした。ところがポストエヴァ以降のオタク第3世代においては、作品の背景にある世界観に代わり、例えば「萌え」「燃え」「泣き」などといった情報を消費する「データベース消費」が主流化します。
 
こうした「データベース消費」の時代においては動物的欲求に最適化された形で出力されたシュミラークルが世に氾濫するという「物語回帰(ドラマ消費)」が起きることになります。つまり、セカイ系とは世界観設定という「夾雑物」を排除しひたすら「萌え」「燃え」「泣き」のドラマに特化する事で、データベース消費に(結果として)いち早く対応したジャンルであるとも言えるわけです。
 
 

* 「社会」の欠如というアイロニズム

 
こうした事からしばし、セカイ系作品には「社会」が欠如しており、故に「社会」と向き合う事から逃げる幼稚な想像力だと批判されます。しかし、こうした批判とセカイ系作品はむしろ共依存関係にあります。
 
セカイ系作品群においては何かしらの形で「社会」の欠如が言及されており、ここから「ああ全く同感だ、極めてバカバカしい。だがしかし、そのバカバカしさの中にこそ価値がある」というアイロニズムが生み出されます。こうなると先のような批判はむしろ作品に倫理的強度を与える作用を引き起こしてしまうことになります。
 
本作がセカイ系に批判的視点を持った小説であるにもかかわらず、むしろ典型的セカイ系として位置付けられる理由がまさにここにあります。すなわち、セカイ系というジャンルは作者の自覚無自覚にかかわらず「社会」が欠如しているという批判をすでに織り込み済みのものとして成立しているわけです。
 
 

* 自己反省の欲望

 
このようなセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。
 
90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていました。
 
すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代だということです。こうした時代の転換によりアイデンティティ不安に曝されることになった人々は、ひとまずの生存戦略として「母」の承認の下で生き延びようとした。セカイ系が受け入れられた背景にはこうした需要があったわけです。
 
この点、評論家の宇野常寛氏はセカイ系の最大の問題点を「レイプファンタジー」であると指摘します。つまり、セカイ系作品においては「無垢な少女(母)」に守られる「無力な少年(父になれなかった人々=読者/視聴者/観客といった受け手)」が自らの矮小さを「自己反省」するという構図があります。
 
この「自己反省」という「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことで、受け手側は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となる。
 
こうしたセカイ系受容の中に内在する「自己反省の欲望」を宇野氏は「レイプファンタジー」なるセンセーショナルな言葉で暴きだしたわけです。
 
 

* 再起動するセカイ

 
宇野氏の批判はひどくもっともだと思います。ただ、前島賢氏が的確に指摘するように、こうした「レイプファンタジー」なる構造というのは別にセカイ系特異なものではないでしょう。
 
例えば、ロボットアニメの視聴者というのは、端的にロボットに乗って戦う破壊の快楽を消費しているわけですが、正面からその快楽は肯定できないわけです。そこで作中に「僕は好きで戦っているわけじゃないんだ」的なメッセージを導入し、予め「自己反省」しておくことで、視聴者は安心して破壊の快楽を娯楽的に消費することができるわけです。
 
こうしてみると宇野氏のセカイ系批判というのは単なるジャンル批判を超えた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」といった一般性と特異性に関するより広範な射程を持った問題提起とも言えます(実際、氏はこうした問題を近著「母性のディストピア」で正面から論じています)。
 
こうした観点からセカイ系を捉えた場合、それは畢竟、1995年を節目とした時代の変化により生じた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」の分裂を「無垢な少女」とか「無力な少年」などという回路を用いて再接続しようとした試みであった事がわかります。
 
もちろんそれは方法論としては極めていびつであったことは否めません。故にこれを引きこもりの想像力だと批判するのはたやすいでしょう。けれどもセカイ系は時代の急性期を乗り切るひとまずの処方箋としての機能を果たし「決断主義」や「日常系」といった次代の想像力を育んだ揺籠ともなったこともまた事実です。
 
この点「天気の子」はこうした「ゼロ年代の想像力」の変遷を踏まえてセカイ系というジャンルを更新し、再起動させる試みともいえます。これを機会に本作を始めとする過去のセカイ系作品群を一つのポストモダン文学として読み返してみる価値はあるのではないでしょうか。
 
 

「観光客の哲学(東浩紀)」〜「二層構造の時代」を生きるということ

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 

* 「観光客」とは何か

 
かつての「オタクの批評家・東浩紀」というイメージからはなんとも程遠いタイトルですが、別に本書は観光学の教本でもないし観光客の心理分析の本ではありません。ましていわんや、いろんな観光名所に出かけていってたくさんの知らない人とお友達になりましょうとか、そういう「リア充の勧め」でももちろんない。本書はあくまで哲学書であり、ここで論じられる「観光客」とは人の在り方、世界との向き合い方を示すひとつの概念です。
 
 

* 二層構造の時代

 
まず本書は現代を「二層構造の時代」と位置づけます。現代社会では政治の領域においてはナショナリズム、経済の領域においてはグローバリズムという二つの秩序原理が駆動しています。
 
ナショナリズムは共同体の善を追求するコミュニタリアニズムを思想的基盤とします。これに対してグローバリズムは自由と快楽を追求するリバタリアニズムを思想的基盤とします。つまりこの二つの層は「人間の層」と「動物の層」とも言い換えることができます。
 
現代におけるグローバリズムの進行は従来の国家間の合従連衡とは全く別の秩序を生み出します。アントニオ・ネグリマイケル・ハートゼロ年代初頭、その共著「〈帝国〉」において、従来の「国民国家の体制」とは別にグローバル経済圏をスムーズに機能させるため生み出された新たな秩序を「帝国の体制」と名付けました。ここでいう「国民国家の体制」はナショナリズムの秩序に「帝国の体制」はグローバリズムの秩序に相当します。
 
重要なのは「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なるという事です。ミシェル・フーコーの分類で言えば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となり、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力」が優位となります。
 
こうして世界は二つの異なった原理と秩序を持つ階層に切り分けられる。政治と経済、ナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、人間と動物、国民国家と帝国、規律訓練と生権力。
 
このような「二層構造の時代」において人を人たらしめる為の抵抗の基点は何処にあるのか。これが本書の問題設定となります。
 
 

* ヘーゲル的人間観とマルチチュード

 
この点、ヘーゲル的人間観を基礎とする近代哲学はグローバリズムを基本的に「望ましくないもの」として位置づけます。
 
すなわちヘーゲルによれば、人はまず家族の中に特異的存在(即自)として生まれ、次に市民社会に普遍的存在(対自)として参入し、最後に国民として国家なるものを内面化することで特異性と普遍性を統合した存在(即自かつ対自)になる事ができるとされます。
 
こうした立場からすれば、国家という存在は人を人たらしめる絶対条件であり、当然、グローバリズムなど国家を侵食するものとして排撃すべきであるということになります。こうした論理を徹底したのが、かつてナチスドイツのイデオローグとして機能したカール・シュミットが唱える「友敵理論」です。もちろんこれは本書のとる立場ではありません。
 
他方で、先述した「〈帝国〉」の著者であるネグリ達は「帝国の体制」への反作用として「マルチチュード」なる概念を提唱します。「マルチチュード」とは従来「衆愚」といった消極的ニュアンスで用いられていましたが、ネグリ達はスピノザドゥルーズの哲学を参照しつつ、こうした「マルチチュード」をグローバリズム内部から生まれる市民運動として積極的にとらえ直します。
 
本書は「マルチチュード」を哲学的概念として肯定的に評価しつつも同時にその理論的難点をも指摘しています。つまり、ネグリ的なマルチチュードとは本質的には「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学」であり、その運動論の内実は「愛」「素朴」「無垢」「快活」「歓び」などというよくわからないものを恃む感動的だが無意味な信仰告白でしかないという事です。
 
本書は「否定神学マルチチュード」とは別の可能性を提示します。これが「観光客」という名の「郵便的マルチチュード」です。
 
 

* 「観光客=郵便的マルチチュード」が引き起こす「誤配の再上演」

 
否定神学マルチチュード」がデモに行くとすれば「観光客」は物見湯山に出かける。否定神学マルチチュード」がコミュニケーションなく連帯するとすれば「観光客」は連帯なくコミュニケーションする。
 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。ここで「観光客」は「誤配」を生じさせる「郵便的マルチチュード」の役割を演じることになります。
 
「郵便」とは「誤配(コミュニケーションの失敗)の可能性を多く含む状態」をいい、超越論的なものについて語る際に「否定神学」と対置される概念です。
 
「郵便的マルチチュード」は「連帯は端的に言えば存在しない。しかし連帯の失敗=誤配により、事後的に連帯が存在するかのように見える」という錯覚を引き起こします。
 
これはあくまでも錯覚にすぎません。しかし、そのような錯覚の集積こそが次の連帯の試みを後押しすると本書は言います。
 
この点、本書は現代ネットワーク理論の知見を導入し「観光客=郵便的マルチチュード」の発生機序と戦略を論じます。
 
すなわち、人間社会というネットワークは「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」という特徴を持っています。「スモールワールド」は「国民国家」に「スケールフリー」は「帝国」に相当します。そしてこれらの特徴はネットワークの頂点に接続する辺の「つなぎかえ=誤配」によって生じています。
 
つまり「国民国家」も「帝国」も共にネットワークの「つなぎかえ=誤配」から生じたものである以上、人が人であるための抵抗の起点もまさにこの誤配の空間にあるのではないか。すなわち「国民国家」と「帝国」の間で誤配を演じ直すということ。こうした「誤配の再上演」こそが本書の説く観光客の哲学です。
 
 

* おわりに

 
言うまでもなく世界は不平等です。我々の日常でも理不尽な格差がそこらかしこに満ち溢れている。けれども現代ネットワーク理論の知見が明らかにしたのはこうした格差は構造的搾取ではなく偶然的誤配の結果として生じるというものでした。つまりすべては確率論の問題であり、再誤配を引き起こす可能性はあらゆる人に開かれているということです。
 
本書はそれなりに高度な議論を扱っているにも関わらず文章はとても読みやすく、哲学にあまり縁のない読者にもきちんと噛み砕いて説明しようとする叙述には東さんの誠実さを感じました。
 
また本書で展開される議論は「原作=住民」「二次創作=観光客」「ゲーム的リアリズム=ダークツーリズム」といった風に東さんの過去の議論ともきちんと接続されてます。むしろこれまでなされた議論を集大成したのが本書であると言えるでしょう。
 
 
 

【感想】「天気の子」が描き出した想像力

 

天気の子

天気の子

 

 

 
 
 
 

* あなたとともに乗り越える

 
「天気」という題材は、繊細な美術や光の表現において他の追随を許さない新海作品にとってはまさに独壇場といえるでしょう。実際に本作における灰色の雨天を切り裂き、突き抜けるような青空が現れるシーンのコントラストは息をのむほど美しい。このシーンだけでも観に行く価値はあると思います。
 
また本作では歓楽街や廃虚といったこれまでの新海作品ではあまり描かれなかった「猥雑な風景」や「退廃的な風景」がクローズアップされているのも特徴です。これは本作の扱うテーマと深く関係しているものと思われます。
 
本作の副題である「Weathering with you」。これは「天気」という意味と何かを「乗り越える」というダブルミーイングになっています。本作の物語に照らし合わせれば「あなたとともに乗り越える」という訳がふさわしいのでしょう。
 
(以下、ネタバレありの文章です。結論として本作は観た方がいいか観なくてもいいかと言うと、もちろん観た方がいいです。少しでも気になると思われたらぜひ劇場へ。)
 
 
 
 
 
 
 
 

* あらすじ

 
令和3年夏、関東地方は降りしきる雨の日々が続いていた。高校1年生の森嶋帆高は離島を飛び出し上京するも、ネットカフェ暮らしの末、経済的に困窮。上京途中のフェリーで偶然知り合った須賀圭介が営む零細編集プロダクションでオカルト雑誌のライターとして雇われる。そこで耳にしたのは「100%の晴れ女」という都市伝説であった。
 
とあるきっかけで帆高が出会った天野陽菜という少女。果たして彼女こそが短時間、局地的にせよ、確実に晴れ間を呼び寄せる「100%の晴れ女」であった。
  
本作の序盤のあらすじはこういう感じです。昔からシナリオの緩さに関しては定評のある新海映画ですが、本作でも、そもそも主人公が家出してきた理由がよくわからなかったり、義務教育の姉弟二人暮らしを児童相談所が長らく放置していたり、終盤で女装した弟君が瞬間移動してきたりなどと、相変わらず色々と炸裂しています。
 
というか、もともと新海さんという人はシナリオがガバガバなのはあまり気にしない人のような気がします。むしろ最近は確信的な炎上マーケティング狙いでやってる節すらあります。ご自身の作品が別にシナリオの整合性によって評価されてるわけではない事は百も承知なんでしょう。
 
 

* 「世界か少女か」

 
既に多くの人が指摘するように本作は「雲のむこう、約束の場所」への再挑戦とも言えます。本作のクライマックスにおいては、あの古典的なセカイ系二択、すなわち「世界か少女か」という問いが更新されることになります。
 
新海作品初の長編映画として2004年に公開された「雲のむこう、約束の場所」はまさにセカイ系の臨界点に位置する作品です。ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義である。ここに「世界か少女か」というセカイ系的二択が示されます。
 
この点、主人公の藤沢浩紀はあくまで二兎を追うわけです。自作飛行機ヴェラシーラを3年越しで完成させ、南北開戦の間隙を縫って佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で見事破壊する。
 
ここでは一見、浩紀は世界も佐由理もどちらも救ったかのように見えます。けれども、佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。
 
これに対して今作の帆高には二兎を追う選択など微塵もありません。帆高は迷いなく陽菜のセカイを救い、その代償として世界を狂わせることになります。
 
ただ、ここでのポイントは本作が世界を「完全に」壊したのではなく「部分的に」壊した点にあります。
 
つまり本作が問うているのは「世界か少女か」などという青臭い二択ではないということです。端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いがここにはあるということです。
 
 
 

* 狂った世界でセカイを生きる

 
新海作品の真骨頂はゲーム的リアリズムによって紡ぎ出される「風景の発見」にあります。東浩紀氏が提唱した環境分析的読解ではないですが、仮に本作を「18禁PCゲーム/天気の子・劇場版」として観た場合、シナリオの整合性はもちろん、結末に対する印象もだいぶ変わるのではないでしょうか。
 

togetter.com

 
 
また、本作が示す結末はゼロ年代に台頭した決断主義的系想像力を経由した上でのセカイ系的想像力の側からの回答のようにも感じました。
 
宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」の図式から言えば、社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降、人は誰もが無自覚的に、あるいはあえて特定の価値観を選択し、それぞれの「小さな物語」の中で生きていることになります。
 

 

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 
この点「セカイ系」が、母性的承認という極めて単純な「小さな物語」の中に引きこもるポスト・エヴァンゲリオン的想像力であったとすれば、一方の「決断主義」は、複数の「小さな物語」同士が他者との間で正義の奪い合いに明け暮れるデスノート的想像力です。
 
決断主義」をいかに乗り越えるかというのは2010年代の想像力における一つの論点です。確かに一面において我々は決断主義者として正義なき時代に正義を執行していくことを強いられている。そして、誰かにとっての正義は誰かにとっての悪でしかない。つまり問題は「正しいか正しくないか」という単純な白黒ではなく「正しくなさ」同士の共存の在り方なのです。
 
世界は狂っている。そんなことは今更改めていうまでもない。我々は日々生起する理不尽な現実に直面する。本作の公開直前には本当にとても悲しくて残念で、痛ましい事件がありました。けれどそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。
 
新海さん自身が事前に言っている通り、確かに結論につき賛否はあると思う。けれどもむしろ、こうした賛否を巻き起こすこと自体が本作の狙いということなのでしょう。
 
本作は「貧困」「暴力」「正義」といった重いテーマに切り込んでいるにもかかわらず、作品を満たす空気感はどこか瑞々しく爽やかです。「君の名は。」とはまた別の意味で新海映画の到達点を見せてくれたと思います。
 
 

「君の名は。(新海誠)」〜「断絶とすれ違い」から「断絶とめぐり合い」へ

 

君の名は。

君の名は。

 

 

 

* 現代アニメーションにおける「風景の発見」

 
新海映画を特徴付けるもの。それは言うまでもなくあの緻密なまでに構築された美しい「風景」でしょう。
 
柄谷行人氏が「近代日本文学の起源」で述べるように、明治20年代の言文一致から始まった日本近代文学はごくありふれた無意味な風景を「写生」することで、その中に固有の意味を投射する「内面」を備えた〈わたし〉という鏡像を転倒した形で見い出そうとしました。
 
これがいわゆる「風景の発見」と言われるものです。新海誠氏の作家的特異性はセカイ系という文脈を通じて現代アニメーションの中に新たな形での「風景の発見」をもたらした点にあるのは疑いないでしょう。
 
 

* 「不可能性」と「拡張現実」

 
では、なぜ新海映画の「風景」はこうまで時代を捉えてやまないのでしょうか?その理由の一つは新海映画における「風景」が現代における「反現実」というべき想像力を照応するからなのでしょう。
 
我が国の社会学を長らくリードしてきた見田宗介氏は「現実」は「反現実」に規定されるといい、そうした観点から戦後日本史を「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と3つの「反現実」によって区分した。
 
そしてポストモダン状況が一段階進行したと言われる1995年以降の現代社会における「反現実」について、大澤真幸氏は「現実中の現実というべき虚構」を希求する「不可能性」であるといい、これに対し、宇野常寛氏は「現実の多重化」を希求する「拡張現実」にあるといいます。
 
「不可能性」と「拡張現実」。この2つはおそらく本質的に対立するものではなく、現代という時代を表裏の関係で言い表しているのでしょう。
 
この2つの「反現実」を共に照応しているのが新海映画における「風景」です。写真資料をもとにトレースされたその背景美術は正確な空間性と細密なディテール感からなる莫大な情報量を持ちつつも、現実の風景に含まれる余計なノイズを周到にオミットする事で高度な美的緊張と独特の叙情を生み出している。こうして新海映画における「風景」は「現実中の現実というべき虚構」と「現実の多重化」という現代の反現実を照応するものとして我々観客の前に立ち現われるわけです。
 
 

* 「横切っていくもの」とストーリーテリングの変化

 
そして、新海映画における「風景」の最大の特徴が「横切っていくもの」にあることはこれまた論を待たないでしょう。「雲のむこう、約束の場所」における「塔」然り、「秒速5センチメートル」におけるNASDAのロケット然り。キャラクターと背景美術が複雑にレイヤードされたその画面の上を一つの軌跡が突き抜けていくあのダイナミズム感溢れる構図です。
 
もっとも、初期新海作品おいて「横切っていくもの」は専ら「遥か彼方にある憧憬」を象徴する役割を担っていました。けれども「君の名は。」におけるティアマト彗星は「今、ここにある危機」を象徴するものとして描かれているのが興味深いところです。
 
このような変化は新海作品におけるストーリーテリング作用点が変化した事と決して無関係ではないように思えます。
 
 

* 反復される「少年少女の関係性の断絶」

 
本作のあらすじはこうです。東京に住む男子高校生の立花瀧と飛騨の山村に住む女子高校生の宮水三葉はある日、お互いの体が入れ替わってしまう。以来、突如始まった週何度か訪れる「入れ替わり生活」を戸惑いつつもそれなりに楽しむ2人。しかしこうした生活に突然終止符が訪れる。
 
三葉の身を案じた瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチを頼りに飛騨へ向かう。果たして三葉の住む糸守町は3年前にティアマト彗星の破片が直撃し、三葉を含めた住民500人以上が死亡していた。瀧は時空を超えて生前の三葉と入れ替わっていたのである。
 
「少年少女の関係性の断絶」。初期新海作品で幾度となく反復されたモチーフです。この点、初期の主人公達が取る態度は自己完結的なデタッチメントでした。「ほしのこえ」の昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐え「雲のむこう、約束の場所」の浩紀はヴァイオリンに佐由理の面影を求め「秒速5センチメートル」の貴樹は明里を想いながら宛先のないメールを打ち続けることになる。
 
 

* コミットメントする主人公とヒロイン

 
これに対して本作の瀧と三葉は中期新海作品の流れを汲む「コミットメントする主人公とヒロイン」といえます。
 
糸守の消滅と三葉の死という現実に直面してもなお諦めない瀧はかつて入れ替わり時に「口噛み酒」を奉納した糸守山上にある「あの世」ーーー宮水神社の御神体へ向かい、三葉の遺した「口噛み酒」の力を借り再び三葉と入れ替わりを果たす。そして彗星落下当日の糸守町での奮闘した後に「かたわれどき」において三葉と時空を超えて邂逅する。ここで見せる瀧の執念は「星を追う子ども」において、亡妻リサを蘇らせるため地下世界アガルタの果てを目指す森崎を想起します。
 
そして瀧と再び入れ替わった三葉は町長である父親を説き伏せ全町民の避難に成功。こうして大惨事は紙一重で回避される。ここでの三葉も泥臭いまでにコミットメントするヒロイン振りを演じる。こうした三葉の姿は「星を追う子ども」でアガルタを駆け回る明日菜や「言の葉の庭」で孝雄に追いすがる百香里に通じるものがあります。
 
 

* 「断絶とすれ違い」から「断絶とめぐり合い」へ

 
ここに我々は新海映画における「デタッチメントからコミットメントへ」という変遷を見る事ができるのではないでしょうか。こうして、かつての秒速5センチメートルにおいて描き出された「断絶とすれ違い」の構図は、本作ラストにおいて「断絶とめぐり合い」の構図として更新されるわけです。
 
このように本作は、新海作品の原点であるセカイ系構造を基盤としつつも、ストーリーテリング作用点をデタッチメントからコミットメントへと転回することで、作家性を手放すことなく幅広い共感を紡ぎ出すことに成功した、文字通りの現時点での到達点です。最新作「天気の子」の公開を機にぜひ本作をはじめとした過去の新海映画をおさらいしてみてはどうでしょうか。