* 異色の本屋大賞受賞作
本屋大賞とは2004年に設立された比較的新しい文学賞です。書店員有志が立ち上げたNPO法人である本屋大賞実行委員会が主催する同賞の特徴はノミネート作品および受賞作が全国の書店員の投票によって決定される点にあります。
同賞の対象作品は過去1年間に刊行された日本の小説で、その選考方法は全国書店員が1次投票で1人3作品を選び、その上位10冊をノミネート作品として2次投票を行い受賞作を決定します。なお2次投票ではノミネート10作品を全て読んだ上で推薦理由を記載し投票する必要があります。
年々縮小しつつある出版業界を本を売る現場から盛り上げようという趣旨から発案された同賞はその第1回受賞作である小川洋子氏の『博士の愛した数式』(2003)が受賞後に大幅に部数を伸ばしベストセラーになったことで注目を集め、以降、年に一度の本のお祭りとして同賞は幅広く認知されるようになります。
また同賞の受賞作の多くが「本屋大賞受賞作」の看板を背負って映画化されており、その知名度と影響力はいまや芥川賞に匹敵します。読書人口の縮小や書店文化の凋落が危惧される昨今において同賞の持つ社会的意義は極めて大きいものがあるといえるでしょう。
この点、一般的な文学賞の選考は作家や批評家や編集者など広い意味での「書き手」の目線から行われていますが、本屋大賞の決定は書店員という「売り手」の目線で行われることから、そのノミネート作品の多くは中高生をはじめとする若年層や普段あまり本を読まない人にとっても親しめるような作品が選ばれる傾向があります。そして、こうした本屋大賞の受賞作の中でも極めて異色ともいえる作品が今年度の受賞作となった本作『成瀬は天下を取りにいく』です。
* 島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う
本作は滋賀県大津市を舞台に主人公である成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの出来事を描く本編5編と外伝的な「階段は走らない」の全6編からなる連作短編集です。本作に収録された第1編目の「ありがとう西武大津店」は『小説新潮』2021年5月号に掲載され新潮社主催の「女による女のためのR-18文学賞」で史上初の三冠(大賞、読者賞、友近賞)を達成。デビュー作となる本作は2023年3月の公刊から半年で発行部数10万部を突破しています。
「ありがとう西武大津店」は次のようなあらすじです。成瀬あかりは14歳の夏休み前、幼馴染の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と唐突に告げます。成瀬はこれからコロナ禍の中で閉店を迎える西武大津店に閉店日まで毎日通い、夕方のローカル番組「ぐるりんワイド」の生中継に映るので島崎にはテレビをチェックしておいてほしいといいます。
島崎によれば成瀬は幼稚園に通っている頃から他の園児とは一線を画しており、走るのは誰よりも早く、絵を描くのも歌を歌うのも上手でひらがなもカタカナも正確に書け、その頃は誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃していましたが、小学校に上がると1人でなんでもできる成瀬はその悪気のない振る舞いが周囲から「感じが悪い」と受け取られてしまい、5年生にもなると女子からは明確に無視されるようになります。
けれども本人はそんな周囲の目を全く気にすることなく、唐突に「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」などと言い出したかと思えば、その数日後には「ぐるりんワイド」 に天才シャボン玉少女として出演したりと、自身の好奇心の赴くままに日々を過ごしています。そんな成瀬の性格をよく知っている島崎は今回の「夏を西武に捧げる」というプロジェクトも「成瀬がまた変なことを言い出した」と淡々と受け止めます。
こうしたことから成瀬は西武ライオンズのユニホームを着て西武大津店に通いだします。途中から島崎も成り行きで「行けたら行く」のスタンスで成瀬のプロジェクトに参加します。そして夏休みが終わり2学期が始まっても成瀬は西武大津店に通い続けますが・・・
* 成瀬あかりという「キャラクター」が持つ強度
近年の本屋大賞受賞作を見るとそこには例えば壮大な医療ファンタジーである『鹿の王』(2014)やサスペンスと感動を高次元で両立させた『かがみの孤城』(2017)であったり、現代における「正しさ」の病理を抉り出す『流浪の月』(2019)や「生きる」という営為そのものに迫る『汝、星のごとく』(2022)であったりと、いずれも極めて「重厚」といえるような作品が並んでいます。
ところが本作を最初に読んだ時の感想は正直なところ「えっ、これで終わり?」というものでした。しかしながらいま思い返すとこの時は本作の持つ「重厚」を完全に見誤っていたと思います。すなわち、本作が描き出す「重厚」とはその「物語」ではなく、主人公である「成瀬あかり」という「キャラクター」であり、本作は極めて「重厚」な「キャラクター小説」であるように思えます。
ここでいう「キャラクター小説」とは東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)においてライトノベルを定義する際に用いた「私小説」に対置される概念です。氏はライトノベルを「キャラクター(潜在的な行動様式の束)」のデータベースを環境として書かれる小説として定義しています。すなわち「私」という近代的現実を写生する小説を「私小説」と呼ぶならば「キャラクター」というポストモダン的虚構を写生する小説が「キャラクター小説」であるということです。
こうした観点からいえば本作における成瀬もいささか乱暴に類型化するのであれば、綾波レイと涼宮ハルヒを足して2で割ったようなキャラクターとしてひとまずは立ち上げられています(最近の作品だとフリーレンあたりが近い位置にいるといえそうです)。もっともキャラクターの持つ強度とはその想定された行動様式の束から逸脱していくことで生じる〈じつは〉という訂正のリズムによってもたらされます。こうした意味で本作は成瀬というキャラクターをありがちなデータベース的類型から出発させつつも、物語の中で〈じつは〉という訂正のリズムを繊細に刻んでいくことによってこれまでにない唯一無二の固有名として見事に描き切っているといえるでしょう。
*「承認の時代」から考える
ではなぜこのような成瀬のキャラクターは広く共感を呼んだのでしょうか。これは現代が「承認の時代」であることを考えてみる必要があります。例えば精神科医の斎藤環氏は『承認をめぐる病』(2013)においてアブラハム・マズローの欲求段階説に依拠しつつ現代を承認欲求が前面化した時代であるとして、そのような「承認」が「キャラとしての承認」である点を問題視しています。
ここで斎藤氏のいう「キャラ」とは単に「性格」だけを意味せず、個人の意志とは無関係に設定されるコミュニケーション・ネットワークにおける位置付けをいい、その特徴は学校における「スクール・カースト」のように、その位置を自分で選択することはできず、ある中間集団の中で自生的に棲み分けと属性の決定がなされた結果として得られる点にあります。
このような意味での「キャラ」は当該中間集団における「承認のしるし」として機能することになりますが、氏は「キャラとしての承認」を求めるとは承認の根拠を全面的に他者とのコミュニケーションに依存することを意味しており、このような形で承認を他者に委ねることは極端な流動性に身を任せることに他ならないと述べています。そしてこのような傾向は同書の公刊以降も現在に至るまでますます拍車がかかっているといえます。
本作においてこのような「キャラとしての承認」を体現する存在が第4編「線がつながる」に登場する成瀬の高校のクラスメイトである大貫かえでです。これまで小学校でも中学校でも常にクラスの下位グループに甘んじていた彼女は人間関係がリセットされる高校では上位グループは無理でもせめて中位グループには入りたいと願っており、入学早々それも現実的には無理そうだとわかった後でもクラス内における自分の立ち位置を、すなわちスクール・カーストにおける自身の「キャラ」を慎重に見極めていました。
けれどもその一方で大貫は高校の入学式に坊主頭で登校してきた成瀬に衝撃を受け、以降、彼女の挙動が何かと気になってしまいます。そんなある日、大貫はオープンキャンパスで偶然、成瀬と鉢合わせになります。なぜ坊主頭にしたのかと問う大貫に対して成瀬は「人間の髪は1ヶ月に1センチ伸びると言うだろう」「入学前の4月1日に全部剃ったから、3月1日の卒業式には35センチになっているのか、検証しようと思ったんだ」と、こともなげに答えるのでした。
* 承認の時代におけるデタッチメント
シャボン玉を極めたり、西武大津店に通い詰めたり、坊主頭から髪の伸びる速さを検証したり等々。このような一見して脈絡のないように思われる成瀬の奇矯な行動に一貫して見出せる価値基準は常に他者からの「承認」ではなく、あくまで自身の「好奇心」です。
では彼女はまったく他者に興味がないのかというそんなことはなく、むしろ「承認」とは無関係なところで他者と関係し、時には他者に振り回されることもあります。そしておそらく、このような絶妙なバランスに支えられた成瀬というキャラクターが持つ特異的な強度こそが「承認の時代」におけるロールモデルとして幅広い共感を呼んだのではないでしょうか。
かつて村上春樹氏はデビュー作『風の歌を聴け』(1979)以降のいわゆる「鼠三部作」において社会共通の規範としての「大きな物語」に距離を置く「デタッチメント」という態度を打ち出しましたが、その後「大きな物語」の凋落と「小さな物語」が乱立する「大きなゲーム」の台頭という時代の変遷に伴い、この「大きなゲーム」がもたらす「悪」と対峙する「コミットメント」へとその態度を転換したことはよく知られています。
けれども、いまや「承認の時代」である現代における「悪」とはむしろ「大きなゲーム」における「コミットメント過剰」から生じているといえるのではないでしょうか。こうした意味で本作はかつて村上氏がその初期において打ち出した「デタッチメント」を令和の世に相応しいかたちでアップデートを果たした作品であったようにも思えました。