かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

* ドゥルーズ哲学の実践としての『シネマ』

 
20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズの仕事は哲学にとどまらず、精神分析、文学、絵画、映画といった諸領域を変幻自在に横断するものであり、そこではさまざまな革新的な概念が創出されることになります。そして、このようなドゥルーズ哲学の枢要部にある哲学原理を國分功一郎氏は『ドゥルーズの哲学原理』(2013)において「超越論的経験論 L'empirisme transcendantal」と呼んでいます。この一見する語義矛盾のように思われる表現はいわばディヴィッド・ヒュームの経験論哲学とイマヌエル・カントの超越論哲学を総合するものであるといえます。
よく知られるようにヒュームは経験論という哲学を説き、人間の知性や認識の基礎を経験に求めました。これに対してカントはこのような経験そのものを可能とする条件を問います。このようなカントの問いは経験に先立つ先験的な「超越論的」と呼ばれる領域を切り開くことになります。これについてドゥルーズは『カントの批判哲学』(1963)において「超越論的とは、経験が必然的に我々のア・プリオリな表象に従う際の原理を指す」と定義しています。
 
ドゥルーズはカントによる超越論的なものの発見を高く評価します。その一方でドゥルーズはヒュームにこのようなカントが問うことをやめてしまった発生の問いを見出しています。こうしたことからドゥルーズはカント的な超越論的哲学の可能性を引き継ぐとともに、そこで喪われた発生の問いをヒューム的な経験論哲学によって補完します。これがいわば「発生を問う超越論哲学」としての「超越論的経験論」と呼ばれるものです。
 
そして、このようなドゥルーズの哲学原理たる超越論的経験論に基づく実践哲学を映画論というかたちで展開した著作が『シネマ』です。この『シネマ』という本は2巻に分かれています。大まかにいうと1983年に刊行された『シネマ1--運動イメージ』は第二次世大戦前の映画を、そして1985年に刊行された『シネマ2--時間イメージ』は戦後の映画を扱っています。
 
もっとも『シネマ1』の冒頭でドゥルーズは「これは映画史の研究ではない」と宣言しています。このきっぱりとした否定の身振りは一見『シネマ』の論述形式と食い違っているようにも思えます。数百本もの映画作品が参照される同書は1895年のリュミエール兄弟による映画の発明から始まり、デヴィット・ウォーク・グリフィスやセルゲイ・エイゼンシュテインなどのモンタージュの発明者たちの分析へと移り、第1巻の終盤では第二次世界大戦が映画に与えた影響が考察され、第2巻の冒頭で戦後映画の幕開けとしてイタリアのネオリアリズモが言祝がれ、やがて議論が進むにつれて同書が刊行された当時の1980年代の作品までもが射程に入ってくるという極めてオーソドックスな映画史的な枠組みに沿って書かれているともいえます。
 
にもかかわらずドゥルーズは後にインタビューに答えるかたちで同書を「哲学書」であるとはっきりと規定しています。よく知られるようにドゥルーズは哲学を「概念を創造する営み」として定義します。つまり彼にとって『シネマ』とは映画を通して新たに哲学的な概念を発明し、発明された諸概念によるシステムを構築する哲学書であったということです。
 

* ベルクソン哲学におけるイメージと持続

 
福尾匠氏は『眼がスクリーンになるとき』(2018)において『シネマ』にとって映画とは哲学の「フッテージ footage」であると捉えています。ここでいうフッテージは「足場」や「素材」といった意味で用いられています。『シネマ』は2巻合わせると22の章からなっていますが、そのうちの4つの章には「ベルクソン注釈」というサブタイトルが付されています。このことから分かるように『シネマ』は映画を扱う一方で「生の哲学」の潮流を担ったフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの著作の読解に取り組む書物でもあります。いわば『シネマ』は映画をフッテージとしてベルクソンの哲学を更新するものであるといえます。

 

眼がスクリーンになるとき

眼がスクリーンになるとき

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哲学史的にはベルクソンは「観念論」と「実在論」という二つの対立を乗り越えるために「イメージ」という概念を導入した哲学者として位置付けられます。ここでいう「イメージ」とは観念論者が「表象」と呼ぶものより「多いもの」であり、実在論者が「物」と称するものより「少ないもの」です。「表象より多い」とは我々の精神の外側の実在性を認めるということであり「物より少ない」とは知覚される性質とは別種の実在性を物質に認めることを退けるということです。つまりベルクソンにとってイメージとは、主体の内面に浮かぶ心像ではなく、世界そのものの存在様式なのであるということです。
 
ベルクソンはこのような「イメージ」のあり方は極めて「常識」的なものだといます。つまり見たままの対象の、見えた通りの実在性、つまりリアリティを、それがまさに我々の頭のなかにだけでなく「そこ」にあることを認めるため、ベルクソンはイメージという概念を考案したということです。
 
このようにベルクソンによるとあらゆるものはイメージであり、これらのイメージは恒常的な自然法則に従っており、それらの運動は計算によって予測することができるものであるとされます。にもかかわらずイメージの中で一つだけ、他のすべてのイメージから際立っているものがあります。それが身体です。身体はイメージの運動に予測不可能な影響を及ぼします。換言すれば充満するイメージから行動に役立つものだけを選び取ることで、行動の選択肢を得ることができるということです。ベルクソンはこのことを「作用と反作用が釣り合っていない」という言い方で表現します。
 
そして、こうした予測不可能で選択可能な身体の時間のあり方をベルクソンは「持続」と呼びます。この「持続」としての運動は分割不可能な我々の行動に伴うような時間性であり、つまり「持続」としての人の身体の現在は一定の厚みを持っているということです。
 

* 動かない切断面と動く切断面

 
こうしたことからベルクソンは「持続」としての身体における時間こそがリアルなものであり、分割可能な空間化された時間はある種の錯覚だと考え、このような錯覚を「思考の映画的メカニズム」と呼び、このメカニズムがいかにして運動あるいは持続を取り逃がすのかを分析しています。ところがドゥルーズはこのような映画的メカニズムを再評価して、ベルクソン的システムを映画に接続し直すことを試みます。
 
この点、ベルクソンのいう「映画装置」は非常に短い時間差を伴う複数の写真を一枚のフィルムの上に並べて焼き付け、それを高速で強い光の前を通過させることでスクリーン上に撮影された運動を再現するものです。換言すれば「映画装置」とは、あらゆる個別的な運動に対して例えば1秒間に24フレームという共通の尺度を与えることで、個別的な運動から「運動一般」を抽出するものといえます。
 
そしてこの映画装置のメカニズムは我々の認識のメカニズムでもあるとベルクソンはいいます。つまり、我々の経験においては常に「内的な映画装置」としての知性による運動の抽出と、自らが実在的な「持続」の中で行う具体的な行動は相補的なあるいは混在した関係にありますが、ベルクソンによれば人為的システムとしての「内的な映画装置」は自然的システムとしての身体に固有の「持続」を取り逃しているということです。
 
これに対してドゥルーズは「映画装置」が作動する仕組みはベルクソンが描き出した人為的システムと類比的なものであることは否定しませんが、その一方で「映画装置」が作動した結果としてスクリーンに映し出される「映画」の中に直接的に「持続」を見出しています。ここでドゥルーズは「映画装置」と「映画」を、それぞれ「動かない切断面」と「動く切断面」と呼びます。
 
ここでいう「動かない切断面」とは「映画装置」としてのフィルムに焼き付けられた一つ一つのコマであり「動く切断面」とは我々が「映画」を見るときのショットです。つまりドゥルーズにとって映画とは、静止したコマの擬似的連続ではなく、「動く切断面」としてのショットを通じて、持続そのものを知覚可能にする装置であるということです。いわば、ここでドゥルーズは「見たまま」の肯定というベルクソン的な「常識」を映画に接続しているといえます。
 

* 運動イメージと時間イメージ

 
では、こうした「映画」をフッテージとして更新されたベルクソン哲学はドゥルーズの哲学原理であるところの「超越論的経験論」へどのように接続されることになるのでしょうか。まずドゥルーズは『シネマ1』において古典的な映画を支配する「運動イメージ」なるものを論じています。ここでいう「運動イメージ」とは知覚と行動の連鎖によって定義されるイメージです。登場人物がある事態を知覚すると、その知覚はその人物に行動を促します。ドゥルーズの言い方からすれば状況が直接に行動に「延長」されることになります。
 
例えばチャールズ・チャップリンの『街の灯』(1931)。チャップリン演じる浮浪者は、道の傍らで花を売る少女に出会います。いかにもかわいそうなこの少女は助けられるべき形象として現れ、この「助けられるべきである」という意味の知覚はチャップリンの行動(ボクシングをして金を稼ごうとする等々)へと延長されることになります。
 
ここで運動イメージには既に解読された意味が貼り付いており、人物はその意味を感じ取り行動へと延長されています。つまり運動イメージとは「何をなすべきか」が明らかなイメージであるといえます。このような感覚と運動の連動をドゥルーズは「感覚運動的状況」「感覚運動的イメージ」とも呼びます。
 
ところがこの「運動イメージ」は映画史の中である危機を迎え、この危機とともに現れたのが『シネマ2』で論じられる「時間イメージ」です。この点、ドゥルーズは「運動イメージ」から「時間イメージ」への移行期を第二次世界大戦の終結に重ねています。つまり大戦によって「運動イメージ」は危機を迎え、大戦後の世界に「時間イメージ」が現れたということになります。
 
ここでいう「時間イメージ」とは知覚が行動へとただちに「延長されない」イメージであり、人が「何をなすべきか」が明らかではないイメージです。「時間イメージ」に規定された映画においては登場人物は状況に反応することができず、状況の中をただ彷徨うことになります。そしてドゥルーズによれば、このようなイメージが最初に現れたのがイタリアのネオレアリズモの映画です。
 
例えばヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)。主人公は2年の失業を経てやっと仕事を手にしますが、その仕事にどうしても必要だった自転車を盗まれてしまいます。彼は息子とともに必死に自転車を探しますが、何の成果をあげることもなく、時間だけがただ無情に流れていきます。ここで息子はただ父を眺めることしかできず、映画の最後の場面で自転車を盗む父親を見て息子はただ涙します。
 
このように時間イメージにおいては登場人物の行動とは全く無関係に行動によって回収されない時間そのものが露出することになります。こうした意味での時間の直接提示をドゥルーズは意味を剥奪された純粋なイメージという意味で「光学的-音声的イメージ」とも呼びます。
 
「運動イメージ」の映画では登場人物が状況に反応し行動するので、観客は登場人物に容易に同一化することができました。これに対して「時間イメージ」の映画ではむしろ登場人物が観客のように自分が置かれた状況をただ観察することになります。
 

* 自動的再認と注意深い再認

 
以上のような「運動イメージ」と「時間イメージ」の区別からドゥルーズは『シネマ2』で「主体性」の再定義を行います。ここでドゥルーズはロベルト・ロッセリーニの『ヨーロッパ1951年』(1952)をベルクソンの再認論によって読み解いています。
 
この点、ベルクソンは二つの再認を区別しています。まず一つは「自動的再認」です。例えば牛が草を再認してそれを食べるように、あるいは労働者が工場を再認してそこで働くように「自動的再認」では知覚は習慣的な行動へと延長されることになります。
 
もう一つは「注意深い再認」です。これは人が出会った対象の再認になかなか成功しない場合のそれをいいます。この「注意深い再認」では知覚が何かに延長されることはありません。人は何度も対象に立ち返り、回想を繰り返し、そこから「いくつかの特徴」を引き出そうとして「あれはなんだったのか?あれだったか?いや、これだったか」と、対象は一義的に同定されることなく、複数の記憶やイメージの回路へと開かれていきます。
 
そしてドゥルーズはこれらの二つの再認を区別した上でその区別を先の二つのイメージに重ねようとします。まず自動的再認がもたらすのは知覚から運動への延長であり、そこに現れているのは感覚運動的イメージ、すなわち知覚と運動の連鎖として定義された運動イメージです。
 
一見すると「自動的再認」は対象そのものをイメージしているように思われます。しかし自動的再認は対象から反応や行動に延長されるものしか取り上げません。牛が再認するのは一つ一つの草ではなく「草一般」にすぎません。知覚を行動へ延長するうえで一つ一つの草の差異を認識する必要はないからです。
 
つまり自動的再認は知覚を行動へと延長するために知覚されたものを適度に調整しているということです。例えば通学や通勤で毎日見ている曲がり角は毎日異なった相貌を呈しているはずですが、知覚の中に入り込んだ時点で「曲がり角を曲がる」という行動を妨げるようなもの(昨日とは違う日の光、昨日はなかったシミ等々)は知覚から削り取られることになります。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすのは対象のいくつかの特徴に過ぎませんが、この再認は対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強いることから、その都度その都度、人は対象の特異性に直面することになります。こうした光学的で音声的なイメージ、すなわち時間イメージこそが「真に豊か」なものであるとドゥルーズは述べています。
 

* 映画における運動と時間、あるいは超越論的経験論における主体性について

 
ここで『ヨーロッパ1951』が取り上げられます。イングリッド・バーグマン演じるブルジョワ婦人アイリーンは愛する息子が死んだことでショック状態に陥っていましたが、やがて彼女はいとこで共産主義のアンドレアに連れられて貧民街の人たちの救済活動に参加するようになります。そしてドゥルーズが注目するのはアイリーンがたまたま知り合った女性の代わりに工場に働きに行く場面です。
 
彼女は工場に向かう労働者の群れ、工場の爆音、巨大な鉄の塊に驚愕し、卒倒しそうになります。彼女の中では工場という知覚は労働という行動へと延長されません。つまり自動的再認が働いていないということです。彼女はその工場が一体なんなのかを認識しようとして、何度も何度も対象(工場)に立ち帰ります。ドゥルーズの言葉でいえば「同じ対象(工場)が様々な回路を通過する」ことになります。
 
その夜、震えながら自宅に帰ったアイリーンは次の日、アンドレアに工場での体験を語り、彼女の言葉を受けてアンドレアは共産主義革命の夢を語ります。しかし彼女はアンドレアに同意することはなく、自分はもっと精神的なものに関わりたいのだと断言し「現代の聖女」と呼ばれるような活動を始めることになります。
 
このようなアイリーンの中で起こった出来事の中にドゥルーズは主体性の新しい意味を見ようとします。まず「自動的再認」がもたらすイメージ(感覚運動的イメージ)には「いわゆる主体性」が表れています。それは知覚から行動への移行ないし延長としての主体性です。これをドゥルーズは知覚と行動の隔たりが生じるとたちまち主体性が現れると説明しています。換言すればここでいう主体性とはこの知覚と行動の隔たりを埋めるものにすぎず、そこでもたらすのは決まりきった延長に過ぎません。ドゥルーズはこのような主体性を「第一の主体性」と呼びます。
 
これに対して「注意深い再認」がもたらすイメージ(回想イメージ)もまたやはり先の知覚と行動の隔たりを埋めようとします。そしてもしもこの隔たりを埋める作業が最終的に成功するなら、それによって自動的再認のもたらす感覚運動的な流れが回復することになります。
 
ところが注意深い再認が単に回想に終わらず、まだ既存の意味や行動へ組織されていない何かが、新たな知覚として立ち現れるとき、新しい主体性が発動することになります。つまり「注意深い再認は、成功した時よりも失敗した時の方が、はるかに多くのことを我々に教える」ということです。この「第二の主体性」と呼ぶべきものをドゥルーズは〈物質に付け加わる主体性〉と呼んでいます。
 
例えばアンドレアに見出せるのは第一の主体性です。彼は共産主義という信念を持っており、共産主義者という主体として貧民を知覚します。その知覚の意味はあらかじめ決まっており、それが救済という行動へと延長されます。ここでは主体と客体という区別がはっきりしています。そしてそれゆえに主体が何らかの変容を被ることはありません。
 
これに対してアイリーンは工場の光景にただ戸惑い、再認に失敗します。その結果、彼女はメタファーでも何でもない「工場は監獄である」という端的な知覚を得ます。そしてこの知覚こそが彼女に「現代の聖女」と呼ばれるような新たな主体性を発動させることになります。ここでは主体が自ら見出した客体に向かって主体性を発揮するのではなく、世界という物質の要請ないしは必然性に合致するようにして新たな主体性が現れていると言えるでしょう。
 
このようにしてみると映画における運動イメージと時間イメージの差異とは二つの異なる主体性の差異を描き出すものであると言えます。こうした意味でドゥルーズがいうように『シネマ』とは映画史の研究ではなく、ドゥルーズの哲学原理であるところの超越論的経験論の実践を映画をフッテージとして論じた哲学書であるといえるでしょう。