かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

孤独・趣味・ネガティヴ・ケイパビリティ--谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』

*「一人であること」と現代情報環境

 
20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アーレントは「一人であること」を〈孤立 isolation〉と〈孤独 solitude〉と〈寂しさ loneliness〉という三つの様式に分けて論じています。ここでいう〈孤立〉とは何かに集中して取り組むため誰にも邪魔されずにいる状態を指し、こうした〈孤立〉を前提とした〈孤独〉とは心静かに自分自身と対話するように「思考」している状態を指しています。
 
これに対して〈寂しさ〉とはいろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じており、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態を指しています。そして、こうしたアーレントのいう〈孤立〉と〈孤独〉と〈寂しさ〉からなる「一人であること」の意味ないし意義を「ネガティヴ・ケイパビリティ」というキーワードから再考する一冊が本書『スマホ時代の哲学』です。
 
本書は19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェの「君たちはみんな激務が好きだ。速いことや新しいことや見慣れないことが好きだ」という言葉から出発します。ここでニーチェのいう「激務」とは仕事のみならず、生活あるいは人生全般に当てはまるものです。
 
人は生きることの不安から逃れるため、日々を「激務」で取り囲もうとするとニーチェは考えました。そしてスマートフォンやタブレットを通じて文字、音声、画像、動画などのメディア化された無数のコンテンツにいつでも触れることができる現代の情報環境において人は日々を簡単に即時的な感覚刺激やコミュニケーションという名の「激務」で満たすことができます。
 
その一方、本書はマーク・フィッシャーや東畑開人氏の議論を援用し現代においては複雑で不明瞭でスッキリしない「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を伴う事柄は好まれない傾向にあることを指摘します。ではこうした「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を伴う事柄といかに向き合うべきなのでしょうか。これが本書が提示する〈スマホ時代の哲学〉における問いとなります。
 

* 孤独と趣味

本書が〈スマホ時代の哲学〉を始めるにあたってまず参照するMITの心理学者シェリー・タークルは、携帯電話など持ち歩けるデバイスを使って、ここではないどこかで別の情報を得たり、別のコミュニケーションに参加したりすることが可能になった状況を「常時接続の世界」と呼びます。この常時接続の世界において生活をマルチタスクで取り囲んだ結果、何一つ集中できていないという状態について、タークルは特に人間関係の希薄さを念頭に「繋がっていても一人ぼっち」と表現します。
 
そして本書はこうしたタークルの論を受け、アテンション・エコノミーが加速する現代においてはアーレントのいう〈孤立〉と〈孤独〉が失われているといいます。情報の内実や質よりも、人の注目それ自体が価値を持つアテンション・エコノミーにおいては、あらゆるコンテンツがアテンションを奪うことに最適化されていき、その結果、他者から切り離されて何かに集中する〈孤立〉や、自分自身と対話する〈孤独〉を維持することが困難になってしまうということです。
 
またタークルがインタビューした一人の少女は「仲間はずれになることや、何かを見逃すことも怖いから」SNSは常にチェックするほかないと語っており、このような恐怖はFear Of Missing Out(見逃す/取り残されることへの恐怖)の頭文字を取って「FOMO」と呼ばれることがありますが、このFOMOはアーレントのいう〈寂しさ〉の別名に他なりません。つまり常時接続の世界が常態化した現代は〈孤立〉や〈孤独〉が失われ〈寂しさ〉が加速する時代であるということになります。
 
こうした〈寂しさ〉ないしFOMOとうまく折り合いをつけながら、なおかつ〈孤立〉と〈孤独〉を確保するための術として本書は『新世紀エヴァンゲリオン』における加持リョウジのスイカ栽培を例にとり〈趣味〉の重要性を説きます。
 
ここで本書のいう〈趣味〉とは何かを作ったり育てたりする営み一般を指しています。こうした〈趣味〉に没頭することでその「何か」が我々にとって他者性を帯びた謎として立ち現れてくることになり、こうした謎との自己対話が〈孤独〉をもたらすことになります。そしてこうした自己対話を成立させるために必要な能力こそが「ネガティヴ・ケイパビリティ」と呼ばれるものです。
 

* ネガティブ・ケイパビリティとは何か

 
この「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念はジョン・キーツというイギリスの詩人が提示したものです。キーツがこの言葉を使ったのは独特な世界を描き出したウィリアム・シェイクスピアの創作の秘密を説明するためでした。シェイクスピアは物語に登場する不思議なモチーフや不合理な展開や説明に安易な説明や議論を与えず、謎や神秘をそのまま宙吊りにして物語を育ていきます。シェイクスピアが比類なき作家になりえたのはこうした創作姿勢にあったとキーツは考えました。
 
つまり、優れた作家は何か特定の仕方でしか解釈できないものを提示するわけではなく、読み手に色々な解釈を許す謎を提示して、そこから様々な場所へと歩いていける十字路のようなものを独自の仕方で組み合わせて物語を創っているということです。そしてこのキーツが提示した「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念それ自体もまた、魅力的な謎として人々を惹きつけ、様々なかたちで解釈されていきます。
 
例えばキーツの死後半世紀以上経ってから生まれた精神分析家ウィルフレッド・ビオンはこのネガティヴ・ケイパビリティを精神分析家に必要な能力として読み替えました。ビオンはネガティヴ・ケイパビリティに相当するものを「砲撃の下で考える」というフレーズで表現しています。彼は診察室での精神分析家は戦場における兵士と同様に、患者の反応や訴えという不確実で予測もコントロールもしきれない「砲撃の下」で考え続ける役割を負っていると考えました。
 
また精神科医の帚木蓬生氏はこの概念を再解釈し、性急に結論を出さずに棚上げすることの創造性を説きながら、観察と想像を通して他者の体験の革新に迫っていくためのヒントをネガティヴ・ケイパビリティに求めています。そして、文学者の小川公代氏は帚木氏の議論を参照し、この概念を文学やケアとの関連で再提示しています。
 

* モヤモヤをモヤモヤのまま抱えていくということ

 
以上のような議論から本書はネガティヴ・ケイパビリティは「創造(キーツ)」と「理解(ビオン、帚木、小川)」という二つの文脈から把握されていることを指摘します。まず一つ目の「創造のネガティヴ・ケイパビリティ」とは生み出しつつあるものを安易に意味づけて特定の位置に落ち着け、単一のイメージに追い込むようなことをしないために必要な力であるといえます。次に二つ目の「理解のネガティヴ・ケイパビリティ」とは謎や問題に触れたとき、それを素早く説明したり、簡単に納得したりせず、常に滲み出す謎の存在を感じたまま、謎や問いを自分と一緒に連れて歩くという姿勢であるといえます。
 
そして、この二つの文脈のいずれの場合も消化しきれず、理解しきれず、落ち着くことのできないモヤモヤをモヤモヤしたまま抱えるというイメージが共通しています。こうしたことから本書は「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」といったものを腹の中に抱えておく能力を「ネガティヴ・ケイパビリティ」として概念化します。
 
一方で「創造のネガティヴ・ケイパビリティ」は謎を謎のまま生み出すものであるという点で何かを作り、育てるという〈趣味〉にとっても大切な能力です。他方で「理解のネガティヴ・ケイパビリティ」は作り育てつつあるものを観察したり、自分の感覚を振り返ったりして、制作や創作のやり方を調整あるいは再構成する時に重要となります。
 
もちろんこれは概念上の区分であり、現実の作業においてはこの二つはほとんど同時に円環的に働いているといえるでしょう。いずれにせよネガティヴ・ケイパビリティは〈趣味〉が可能にする自己対話が対話として成立するために避け難く必要な能力であるということです。
 

* ネガティヴ・ケイパビリティと哲学の効用

 
スマホ時代が加速させる〈寂しさ〉と折り合いをつけて〈孤立〉と〈孤独〉を確保するためには〈趣味〉を持ってネガティヴ・ケイパビリティを発揮せよ。ここまでの議論をごく単純に要約すれば差し当たりこういうことになるでしょう。これだけ読むと「いやいや、そんなことはわかってるし、それがカンタンにできれば誰も苦労はしないだろ!」と言いたくなる方もいらっしゃるかもしれません。もちろんその通りだと思います。ネガティヴ・ケイパビリティを身につけるには練習が必要です。そしては本書はこうしたネガティヴ・ケイパビリティを身につけるための練習として哲学書を読むことを勧めています。
 
哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは西洋の哲学的伝統の特徴を説明するにあたり「西洋哲学はプラトンに対する一連の注釈からなる」と述べたことがあります。つまり哲学にはプラトン以来、2500年分の議論の蓄積があり、哲学するとはこのプラトンが始めた一連の豊かな会話に参加することでもあります。
 
哲学と聞くと大抵は「小難しい」とか「抽象的」といった感想が先立つかもしれませんが、哲学者は意味もなく小難しく抽象的なことを考えたわけではなく、たとえどれだけ小難しく抽象的に思えたとしても、哲学の様々な議論はその時代時代における具体的で切実な問題に対する応答に他なりません。例えばアーレントの提示した〈孤立〉と〈孤独〉と〈寂しさ〉の三区分にしても「ナチズムのような全体主義はなぜ発生したのか」という具体的な問題意識からきたものです。
 
このように2500年にわたる哲学の議論の中では様々なアイデアや視点や思考パターンが試されており、この莫大な英知が湧出する泉は、我々がこの日常において生起する様々な問題と向き合う上で大きな力になってくれるはずです。そしてこうした哲学をする上でネガティヴ・ケイパビリティは欠かせません。
 
本書は哲学書を読むとき「自分なりに理解する」のではなく、その主導権をいったんは哲学者の側に置く必要があるといいます。これは別にその哲学者に「共感」しろというわけではなく、その哲学者が用いる概念(知識と想像力の組み合わせ)や思考システム(概念のネットワーク)を把握することを目指して読むということです。もちろんその読解は一筋縄ではいかず様々な箇所で「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を感じることになり、結果的にこうしたプロセスがネガティヴ・ケイパビリティを育んでいきます。
 
こうした意味で本書もまた先述の単純な要約とは裏腹にかなり複雑で豊穣な議論を繰り広げている哲学書であるといえます。本書を読む過程で読み手は様々な箇所で「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」を感じることがあるでしょう。しかしこうした「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」こそが〈孤独〉における自己対話としての思考を促すことになります。そうであれば本書が示す〈スマホ時代の哲学〉の実践は本書を読み始めた時に既に始まっているといえるでしょう。