* 分極化の時代における哲学の使命
西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった古代ギリシャの哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。
近代哲学の礎を築いたルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に認識できるか」を問い、近代哲学を確立したイマヌエル・カントは人間は何が認識できて何が認識できないのかという理性の限界を確定しようとしました。そして現代哲学においては言語やコミュニケーションの論理的な分析を主題とする分析哲学(言語哲学)が台頭することになります。
このように哲学はその長い歴史において中心的な主題が時代ごとに変遷してきましたが、その一方で哲学とは世界の真理を探究する学問であるという大きな前提は時代を問わず共有されてきました。しかしながら、もし仮に哲学とは世界の真理を探究する営みであるとすれば、いつの日かその真理への探究が終われば、その時点でそれ以上の「会話(コミュニケーション)」の継続は不要になるはずです。
ところが、このような伝統的な哲学観を問い直し、哲学の使命とは「会話」を終わらせることではなく、むしろ「会話」を守ることにあると主張したのが米国の哲学者リチャード・ローティです。そしてこのようにローティの哲学の平易な入門書であると同時にソーシャルメディア時代における公共性を再考する一冊が本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』です。
本書が「はじめに」で述べるように現代は「分極化」が加速する時代であるといえます。ここでいう「分極化」とは2000年代以降のアメリカにおいて民主党支持者である「リベラル/左派」と共和党支持者である「保守/右派」の間で分断があまりにも進んだ結果、それぞれが互いに「われら」「やつら」と名指し合うような政治状況を論じる言葉として登場しました。そしてこうした「われら/やつら」を決定的に分けてしまう分極化の感覚は二大政党制ではない日本においても深く浸透してしまっているといえるでしょう。
こうした「分極化」が加速する現代において本書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』は「会話」を守ることを哲学の使命と考えたローティとともに「否応なくバラバラな世界で、バラバラなまま、しかし共に生きるために、どんなことばを使うべきなのか」を問い直していきます。
* 歴史主義と偶然性
ローティは当時、隆盛を極めていた分析哲学の中心地プリンストン大学でキャリアをスタートさせ、自身も長らく分析哲学的なスタイルで論文を書いていましたが、初の単著『哲学と自然の鏡』(1979)では分析哲学への反旗を翻し周囲を驚かせます。
ローティは同書において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々のボキャブラリー(ことばづかい)によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであるとする「歴史主義」を主張しました。
では真理の探究を放棄したときに哲学には果たして何ができるのでしょうか?会話(コミュニケーション)を続けることにどのような意味があるのでしょうか?『哲学と自然の鏡』で残されたこれらの問いに対してローティが自ら答える形で書かれた著作が『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)です。
同書においてまずローティは言語や自己や社会の「偶然性」について論じています。すなわち、人がどのようなボキャブラリー(ことばづかい)を使うかは歴史的な偶然性の産物であり、そうであればボキャブラリー(ことばづかい)によって表現される個人や、個人の集合によって構成される社会もまた偶然性の産物であるということです。
それゆえにローティはこうした「偶然性」の産物たる社会においては、その正しさを保証してくれるものは何もなく、そこで個人はひとえに互いを傷つけないという最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかないとします。これは『哲学と自然の鏡』でみられた「歴史主義」の徹底であるといえます。
* リベラル・アイロニストとは何か?
そして、このような言葉や自己や社会の別様の可能性に開かれた態度が「アイロニー」です。ローティはアイロニストの条件として自分がいま使っている「終極の語彙」を徹底的に疑うことを挙げています。ここでいう「終極の語彙」とは自身の行為、信念、生活を正当化する一連のボキャブラリーを指しています。そして、このような「終極の語彙」は大抵「理性」とか「人間性」などといった普遍的な言葉よりも「イングランド」とか「革命」などといった地域性を強く帯びた言葉になることが多いといわれます。
ローティはこうしたボキャブラリーが具体的な姿をとって現れたものが個人や社会であると考えます。このようなローティの人間観、社会観を本書は「人や社会は、受肉化したボキャブラリーである」とテーゼ化しています。
いずれにせよ、人はみな、自分を説明したり世界を語ったりするために自分が大事だと思う「終極の語彙」を持っていますが、その「終極の語彙」は絶対のものではなく、常に他人の「終極の語彙」の影響を常に受けており、それは常に「アイロニー」による「再記述」の可能性に開かれています。けれどもその一方で、誰もが皆がみな自分を再記述したいわけではなく、他者を勝手に再記述する行為は時として暴力的な「残酷さ」をもたらします。
このように「アイロニー」は自由さや風通しの良さをもたらす一方で、それに伴う「再記述」は時に「残酷さ」をもたらします。そこでアイロニストとは同時に「リベラル・アイロニスト」でなければならないとローティはいいます。
通常「リベラル」という言葉は「自由」とか「公正」などといった意味で用いられますが、ここでローティのいう「リベラル」とは「残酷さ」の回避という意味を帯びています。つまり「リベラル・アイロニスト」とは自らの信念は何らかの本質と必然的に結びつかない偶然性を認める一方で、社会における「残酷さ」を減少させていくこと望む人物像です。
* バザールとクラブ
ここからローティは「公」と「私」は統合する必要はないという一見奇妙とも思える主張を行います。常識的に考えれば「公」と「私」が一貫した人こそが信頼できる人であり、そうでない人は信頼に値しないように思えます。なぜローティはこのように主張するのでしょうか。
こうした主張をローティは「バザールとクラブ」という比喩で説明します。ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』ではなく別の論文でこの「バザールとクラブ」を老若男女問わず人種も民族も宗教も異なる人々が行き交う「バザール」で生活のために嫌な客にも作り笑いをしながら商売をしている人が一日の仕事を終えて馴染みの人々が集う「クラブ」で昼間の客の愚痴を吐くといった挿話として描き出しています。
ここでは公共空間としての「バザール」と私的空間である「クラブ」が対比されています。公共空間としてのバザールにおいては言いたいことが言えなかったり、作り笑いをしたりと色々としんどいことがあるけれど、そのしんどさを皆が多かれ少なかれグッと堪えていることで安全さが保たれています。一方で私的空間のクラブは言いたいことが遠慮なく言えるという魅力が確かにありますが、場合によっては差別的な言動や公共空間ではとても口にできないような言葉が飛び交う危うさがあります。
バザールは安全だけどしんどい、クラブは魅力的だけど危うい。その両面がどちらも「いいとこどり」はできないものとしてこの挿話では描かれています。人が生きる上で生活のためのバザールも息抜きのためのクラブもどちら必要ですが、それゆえに両者は別々に分かれていなければならないということです。
このように「公(バザール)」と「私(クラブ)」は別々かつ同時に存在しなければならず、決して統合されてはならないとローティはいいます。なぜならば「公」と「私」を統一しようとする態度は「公」だけが絶対的に正しいという立場にせよ「私」だけが絶対的に正しいという立場にせよ、いずれも人々の会話を終わらせることを目的とした営みであり、これは「リベラル」が避けるべき「残酷さ」に他ならないからです。つまり「残酷さ」を避けるという「リベラル」の目的を実現するためにも公私を一致させるという理想を棄て去るというアイロニズムが必要となってくるということです。
* 正しい建前と正しくないかもしれない本音
一方でこのバザールとクラブの話には比喩であるがゆえの限界もあります。現実の社会においては公共空間と私的な空間はこのようにきれいには分かれておらず、実際のところはひとつの時空間が同時にバザール性とクラブ性をグラデーション的に持っていることが多いでしょう。
ではこの比喩は無意味なのかというと、もちろんそんなことはなく、その眼目はむしろ一人の人間の中に「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」があり、その二つは矛盾しているかもしれないけれども、それでもその人のなかで併存していてよいのだという点にあります。
こうしたことからローティは時と場所によって、この「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」を人は使い分けてもよい、むしろ使い分けた方がよいと主張します。この観点からいえば公の立場にある人が何かしらの問題発言をした場合、問題とすべきはその人の思想信条ではなく、私的な場(=クラブ)ではなく公共的な場(=バザール)でそんな発言をした点にあるといえるでしょう。
こうしたローティの提言は公共的な安全と私的な欲望をともに尊重するものであるといえ、残る問題は本書がいうように、どこを「公共的」「私的」な場と認定するかにあります。さらにこの問題はあらゆる場所がパブリックな空間として認定される傾向にある現代においては、いかに私的空間や私的ボキャブラリーを確保するかがむしろ課題ではないかという視点を浮上させることになるでしょう。
さらに本書はこの「バザールとクラブ」というローティの比喩自体の公共性を問い直します。この比喩は具体的には中東のクウェートのバザールとイギリスの会員制紳士クラブを念頭においているようですが、多様なものが渦巻くカオス的な状況の比喩として中東のバザールを持ち出すことは西洋の目で東洋を固定的に描くオリエンタリズムとも無縁でないでしょう。それゆえに、ここから「多様性の比喩として中東のバザールを持ち出していいのか」と問うこともまた、ローティ的な哲学の営みであると本書は述べています。
* われわれの拡張としての連帯
ではどうすれば我々はリベラル・アイロニストとして「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのでしょうか。ローティはその手がかりを小説のようなフィクションやエスノグラフィ、あるいはジャーナリズムに求めています。このような理論ではなく感情に訴える文芸や報道にこそなしうる役割をローティはのちに「感情教育」と呼んでいます。
またフィクションには我々の中にある「残酷さの芽」というべきものに意識を向けさせる役割を担っているとローティはいいます。つまりフィクションは悲惨な出来事を描くことで被害者への共感性を育むことができると同時に我々が「加害者にもなりうること」への想像力の醸成にも役に立つということです。そしてこうした共感性や想像力こそが「われわれの拡張」としてのローティいう「連帯」を可能にする条件となります。
ローティのいう「連帯」とは、例えば「理性」とか「国家」とか「人権」などといった普遍的(に見える)特定の原理によって基礎付けられるものではなく、個別の人間が抱える苦しさや痛みに対する共感性や想像力といった小さな断片たちを手がかりに創り上げられるものです。
すなわち「われわれ」は「同じ」だから連帯できるのではなく、むしろ「われわれ」の「違い」から連帯が始まるのであり、換言すれば「偶然性」に規定された「われわれ」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「われわれの拡張」として結果的に「連帯」が生じるということです。ここで「偶然性」「アイロニー」「連帯」が全てつながってくることになります。
『偶然性・アイロニー・連帯』における中心的なテーゼを端的に表すのであれば、日々の「ことばづかい」を変えることによって人は変わり、世界も変わるということです。こうした「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションをローティはのちに「文化政治としての哲学」と呼ぶようになります。このような「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションの実践こそが真理の探究を放棄した後の哲学に課された使命であるということです。
* 動物化する公共圏
こうしたローティの哲学を一貫して評価するのが東浩紀氏です。例えば『一般意志2.0』(2011)において氏は従来は私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基盤となり、逆にいままでは公的であった精神的な自己完成や自己陶治こそが私的領域に閉じ込められるというローティの描く逆転の構図を同書が提示する大衆の私的な行動(データベース)が情報技術により集約化/可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約するという「一般意志2.0」の構図と重ね合わせて論じています。
また『観光客の哲学』(2017)においては公的な振る舞いと私的な信念の分裂を受けれるべきだというローティの提案を同書が提示する「動物」と「人間」の層に分裂した「二層構造」と重ね合わせ、ローティの提案はそのような分裂を「アイロニー」で縫合する試みであったと捉えます。
そして『訂正可能性の哲学』(2023)では「偶然性」に規定された「われわれ」から出発しながら、その共感性や想像力の範囲をいくらでも拡張していくことができるというローティの思想を同書が提示する「訂正可能性」に規定された共同体としての「家族」の構成原理である「強制性」「偶然性」「拡張性」と重ね合わせています。
このようにローティのいう「公」と「私」の分裂は東氏のいう「動物」と「人間」の分裂と重なり合っています。この点、普通は「人は人間であると同時に動物である」という時、およそ「人間」が公的な領域に割り振られ「動物」が私的な領域にそれぞれ割り振られがちですが、東氏は動物的な振る舞いこそが公的な領域を創り出し、人間的な信念は私的な領域に囲い込まれるという逆転から、動物的な連帯による人間的な対立の「訂正可能性」という理路を提示します。
さらには「正しい建前(=公)」と「正しくないかもしれない本音(=私)」を時と場合で使い分けた方がいいというローティの哲学を実際に運用する上で東氏のいう「訂正可能性」という視点は不可欠であるともいえるでしょう。少し考えればわかるように、これまでずっと「クラブ」だと思い込んでいた場所がある日突然「じつはバザールだった」というように遡及的に「訂正」されてしまう事態はいつでも起こり得るからです。こうした意味でこの社会とはバザール性とクラブ性が常に揺らぎあう訂正可能性を孕んだ時空間であるといえるでしょう。
* 正しさとことばづかい
本書は第1章から第5章にかけてローティの哲学を概観していきます。そして最終章である第6章においては現代における「リベラル」のあり方を論じています。日本ではこの10年、左派あるいはリベラルと呼ばれる勢力が退潮し続けています。インターネット上でもリベラルへの反発は年々激化しています。本書もまた、こうした現状認識から出発します。
よくあるリベラルに対する批判的言説として、リベラルを自認する人間は自分達の側に無謬の「正しさ」があることを前提としており、こうした「正しさ」から現実の「正しくなさ」を見出しては一方的に糾弾し、裁く権利を有しているかのような傲慢な振る舞いをしているというものがあります。ソーシャルメディア上で「ポリコレ」とか「キャンセル」などといった表現を用いてなされる非難はだいたいこうしたロジックに基づくものであるといえます。
これに対して本書はローティと共にこうした「正しさ」に依拠した「いわゆるリベラル」とは一線を画した「ことばづかい」に重きをおく「リベラル・アイロニスト」としての「リベラル」のあり方を提示していきます。
分極化したバラバラな世界を生きる我々はさまざまに異なる「正しさ=正しくなさ」を踏まえながらも、それでも共に生きていくための仕組みと、個々人としての都度の振る舞いを考えていかなければならず、そしてそれは唯一絶対の「正しさ」に収斂されることのない、どこまでも終わりのない営みとなります。
こうした本書の提示する「リベラル」とは、何かしらの特定の立場や思想ではなく、日々の「ことばづかい」を問い直しながらも、こうしたバラバラで色とりどりな道なき道を一歩一歩確かめながら歩もうとする姿勢、あるいは生き方であるといえるでしょう。こうした意味で本書は平易なローティの入門書であると同時に「リベラル」という「ことばづかい」の「訂正」を試みる一冊であるといえるでしょう。
