かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

暮し・ねじれ・戦後民主主義

* 戦後民主主義と花森安治

 
山本昭宏氏は『戦後民主主義』(2021)において日本における戦後民主主義を次のように総括しています。「戦後民主主義」の前提にあるのは当たり前ですが「民主主義」です。ここでいう「民主主義」における「民」とは誰のことを指すのかという問題は一つの大きな論点ではありますが、本書は民主主義を「自分たちのことは自分たちで決めるという広義の「自治」を求める政治参加の試み」として理解しています。そして、このような「民主主義」という言葉の上に「戦後」が加わるとき、次の3点が焦点化されることになります。
第一に戦争体験に結びついた平和主義です。平和主義を謳う現行憲法が広く受け入れられた要因として先の戦争における空襲や引揚げなどの戦争体験があったことは確かでしょう。第二に直接的民主主義への志向性です。これは換言すれば社会運動と地方議会を重視する姿勢を指しています。第三に平等主義です。とりわけ同書は経済と教育の平等を重視します。
 
このことを踏まえ同書は「戦後民主主義の精神が、いまほど求められている時代はないのではないか」といいます。すなわち「戦後民主主義は、民主主義が「統治」の手段ではなく、「参加」を通した「自治」の手段であること」を教えており、その根幹には「選挙以外の場での政治的意思表示から、コミュニティや集団に関わってより良い運営を模索する粘り強い社会的実践まで、生活の至るところに民主主義があるという感覚」があるということです。
 
そして同書はこうした意味での「戦後民主主義の精神」を批判的に継承したひとつの実践例として『暮しの手帖』の初代編集長として知られる花森安治の仕事を位置付けています。花森安治とは一体何者なのでしょうか?以下では津野海太郎氏による『花森安治伝』(2013)を参考に彼の生涯とその仕事を概観してみたいと思います。
 

* 編集者になるんや

花森安治は1911年(明治44年)、神戸市の須磨に6人兄弟の長男として生まれました。幼少期より絵を描くのが好きな子どもだったそうです。旧制兵庫県立第三神戸中学校を経て1年浪人後、1930年(昭和5年)に旧制松江高等学校に進学し校友会雑誌の編集に参加します。19歳のときに母、よしのを心臓病で亡くします。死の床にある母から「あんた、将来どうするつもり」と尋ねられた花森は「新聞記者か編集者になるんや」と答えたそうです。
 
松江高校を卒業した花森は1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。「帝国大学新聞」の編集に携わる一方で、大学在学中に、老舗の化粧品会社である伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わります。就職により生活の目途が立ったことから、大学在学中に学生結婚しています。
 
1937年3月、25歳で東京帝国大学を卒業。卒業論文のテーマは、「社会学的美学の立場から見た衣粧」。タイトルにある「衣粧」とは、「衣裳」と「化粧」を合成したものであり、花森による造語だそうです。そしてこの年の4月には長女が誕生しています。
 
同年、徴兵検査を受けて甲種合格。陸軍に入隊後、北満州の部隊に配属されますが、翌年2月、結核に冒されたため満州の陸軍病院に入院し、病状が良くならなかったことから内地に戻り、和歌山県の陸軍病院で療養生活を送った後に1940年に疾病を理由として除隊となります。
 
1941年、帝国大学新聞時代の先輩から誘われて大政翼賛会宣伝部に籍を置くことになります。この頃、花森は本の装丁やイラストでもその力量を認められるようになりますが、そうはいってもそれはほんの一握りの人々のあいだでの評判に過ぎず、社会的にはまだほとんど無名の存在でした。そして1945年の敗戦を迎えます。この時、花森33歳。
 
敗戦の2ヶ月前、それまで勤めていた大政翼賛会が急に解散になり、失職した花森は妻子を抱えてたちまち日々の生活に追われ、雑誌のカット描きなどで食いつなぎながら、かつての仕事仲間と新しい広告会社を発足させようと忙しく駆け回っていたようです。
 
そんな折、松江高校から東京帝国大学にかけての親しい友人で『日本読書新聞』の編集長だった田所太郎に声をかけられた花森は週に何度か、お茶の水の文化アパートにあった同紙の編集室に顔を出してカットを描くようになります。ここで花森は一人の若き女性編集者と出会うことになります。彼女こそが後に花森とともに「暮しの手帖社」を立ち上げることになる大橋鎭子です。
 

* ぼくには責任がある

 
当時、若干25歳の大橋は1920年(大正9年)に東京で生まれ、府立第六高女(現・都立三田高校)を卒業後、日本興業銀行勤務を経て日本女子大に入学するも病気で中退し、1941年(昭和16年)の春に日本読書新聞社に入社します。しかし同年12月の太平洋戦争勃発に伴い同社は内閣情報局のもとで戦時下の出版物の統制と検閲にあたる日本出版文化協会(のちの日本出版会)という国策機関に統合されることになります。
 
こうして『日本読書新聞』は日本出版文化協会の機関紙になり、大橋も協会の秘書室に移りますが、やがて戦争の激化につれて編集長の田所以下編集部員たちが次々と戦場に送られ、同紙はあっけなく休刊に追い込まれてしまいます。そして敗戦の年の11月、復員した部員たちの手によって『日本読書新聞』が復刊し、大橋も編集室に復帰します。なお、田所が花森に声をかけたのもこの時期だと思われます。
 
『日本読書新聞』復刊号の校了直後、おそらく1945年末ごろ、大橋は田所に「女の人たちのための出版をやりたい」と相談を持ちかけます。これに対して田所は「それだったら、いま編集部に見えている花森安治さんは、そのほうに力のある人だから相談したらいい」とすすめ、大橋から相談を受けた花森は大橋がこれからやろうとする仕事に協力することを決意します。
 
1946年春、花森と大橋は米軍の空爆によって一面の焼野原と化した銀座で「衣裳研究所」という小さな出版社を発足させます。その2年後の1948年9月、彼らは社名を「暮しの手帖社」にかえ、社長・大橋と編集長・花森のコンビで『美しい暮しの手帖』を創刊します。「女の人たちのための出版をやりたい」という大橋から相談を受けた花森は、次のような言葉で答えたとされています。
 
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起きなかったと思う。だから、君の仕事にぼくは協力しよう。」
 
「『暮しの手帖』と半世紀」

 

もしも花森が実際にそう述べたのだとしたら、ここで彼のいう「責任」とは何を意味しているのでしょうか。それはおそらく、戦争中に彼が行った(とされる)一連の仕事と無関係ではないでしょう。
 

* ぜいたくは敵だ!

 
1940年(昭和15年)、陸軍を除隊になった花森は伊東胡蝶園に復帰することになりますが、もはや日本の社会には化粧品などにうつつを抜かすことを許さない重苦しい空気が生まれていました。この年の7月7日には奢侈品等製造販売制限規則、いわゆる「七・七禁令」が施行され、イヤリング、指輪、半袖、腰紐、帯締め、櫛など「ぜいたく品」とみなされた商品の製造や販売にきびしい規制がかけられました。当然、派手な宣伝などやりようもなく、そんな時期にあって花森が手がけた仕事としてまことしやかに噂されるものが「ぜいたくは敵だ!」というあの悪名高い国策標語の作成です。
 
「七・七禁令」の背景にはもはや前線も銃後もない、自国が保有する労働力(国民)と物資のすべてをあげて戦争を戦い抜くのだというナチス・ドイツ流の総力戦思想がありました。その実現を目指して、すでに1937年(昭和12年)に第一次近衛文麿内閣のもとで国民精神総動員実施要項が閣議決定され、時をおかず国民精神総動員中央連盟(精動)が発足し、翌38年には国家総動員法が正式に制定されます。
 
そして1940年7月、陸軍との軋轢で短命に終わった米内光政内閣に続いて第二次近衛内閣が発足。同じ時期に精動は贅沢全廃委員会を発足させ「奢侈贅沢品の使用抑制徹底方策」を決定。東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋の六大都市を重点地域として「贅沢廃止運動」が展開されることになります。この時、東京市内には1500本もの「ぜいたくは敵だ!」や「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」といった標語が大書された立て看板が立つことになります。
 
この「ぜいたくは敵だ!」という標語は戦後になっても、あの時代の息苦しさを端的に象徴する一行として人々の記憶に染みつくことになります。この標語は一説ではパピリオ広告部が精動の外郭団体の依頼を受けて花森が書いたと戦後間もない頃からまことしやかに噂されていました。このことについて花森は何も語らず、真偽の程は定かではありません。もっとも当時の花森は後年のような断固たる反戦派ではなく、当時のごく平均的な日本人の1人に過ぎなかったことは確かです。のちに花森は1978年に死去する少し前に次のように語っています。
 
「ぼくは、ぼくなりにやね、受けた教育と、それで、とにかく日本という国を守らんならん、とね。それには、戦争始めた以上は勝たなならん、と。それに一生懸命やったんや、と。いま、それがね、間違いやったということがわかったけども、その時は一生懸命やったんで、それを今さらね、いいかげんにしとったんや、ご都合主義でやっとったとか、ケチなことは言わん、と。ぼくの全生命を燃焼さして戦った、と。協力した、と。そいで、それだけにショックが大きい、と。それだけに、ぼくは、これからはね、絶対に戦争の片棒はかつがん、と。それだけが償いや、と。まあ、しっかり、これからのぼくを見とってくれ、と。」
 
『われわれは一体何をしておるのか』

 

* 過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている

 
1941年(昭和16年)の春、花森は伊東胡蝶園をやめ、前年に第二次近衛内閣の下で発足したばかりの大政翼賛会宣伝部に転職します。いま大政翼賛会ときくと、反射的に一国一党のナチス型全体主義国家による強力な統制機関のイメージを思い浮かべるかもしれませんが、発足時のイメージは必ずしもそうではなく、発足時の大政翼賛会には台頭する軍部の力を抑え、急速に強化されていく言論統制に歯止めをかけるという防波堤としての一面が少なからず期待されていたらしく、花森もまたこの「新体制」に期待した1人であったようです。
 
ところが、発足後間も無く大政翼賛会は強大化した軍部や内務省を中心とした諸官庁の手に落ち、1941年4月には共産主義者を排除する改組運動が行われ、ほどなく総裁も近衛から東條英機に変わってしまいます。そして同年12月8日、日本海軍機動部隊による真珠湾攻撃によって対米英の太平洋戦争の火蓋が切って落とされます。
 
戦後において大政翼賛会宣伝部員としての花森は「あの旗を射て」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などといった一連の戦意昂揚スローガンを作った人物として語られる傾向があります。しかし実際にはのちに酒井寛氏が『花森安治の仕事』(1988)で明らかにしたように「あの旗を射て」は1942年に広告人集団「報道技術研究会」が花森の注文を受けて作ったものでしたし、また「欲しがりません勝つまでは」や「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」も同年、大政翼賛会が主催する「国民決意の標語」への応募作から花森が選んだものです。
 
このことについてもやはり、花森は明確には語っていません。しかし花森は仕事とはいえ、こうした標語を依頼したり選んだりすることで戦争に協力してしまった自身の過ちを明確に自覚していたのではないでしょうか。そうであれば敗戦後、花森が大橋に述べたとされる「ぼくには責任がある」という言葉の裏には、こうした過ちに対する悔恨があったのではないでしょうか。実際、花森はこの時の心情を後年、次のように語っています。
 
「ボクは、たしかに戦争犯罪を犯した。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対にだまされない、だまされない人たちをふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている。」
 
1971年『週刊朝日』
 

* 暮し・ねじれ・戦後民主主義

 
花森と大橋が創刊した『美しい暮しの手帖』はやがて『暮しの手帖』とタイトルを変え、他誌とは一線を画する独自の誌面作りによって一時期、その発行部数は百万部を超え「新しい国民雑誌」と呼ばれるほどの影響力を持つに至ります。
 
同誌の名物企画に1954年から始まった商品テストがあります。これは日用品や生活家電を独自にテストし、生活者の視点から長所と短所を論評して企業に改善を求めるという企画です。この商品テストは高度成長期における日本の工業製品の品質改善のきっかけになったとも言われています。
 
花森は権威を監視し、採点する機能がない社会は不健全な社会だと考え、商品批評によって大企業をチェックし続けようとしました。彼の掲げた「一人ひとりが自分の暮しを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中に」という理念と「暮しの変革を理念よりも日常生活の実践を通して」という方針に貫かれた『暮しの手帖』はただのライフスタイル誌ではなく、反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった立場を旗幟鮮明に打ち出した非常に尖った雑誌であったといえます。ここには確かに「生活の至るところに民主主義があるという感覚」という戦後民主主義の実践をみることができるでしょう。
 
「一軒の家の味噌汁の作り方を変えることは、一つの内閣を倒すよりもむずかしい」--僕はこう考えています。内閣は投票で倒すことができるけれど、ある家庭の味噌汁の作り方は当人たちがまずいと感じていても、変ない(ママ)ものなのです。ぼくらが料理にちからを入れているのも、そこなのです。
 
花森安治「民主主義と味噌汁」『中央公論』1965年9月号
 
こうして花森は1978年(昭和53年)に66歳で急死するまで『暮しの手帖』というただ一つの砦に編集長として立て篭もり続けます。毎号、多くの記事やキャッチコピーを書くのはもちろん、イラスト、描き文字、レイアウト、写真撮影、新聞広告や電車の吊り広告まで、そうしたすべてを花森は自分ひとりで、決して他人にはマネのできないクセの強い仕方でやってのけます。こうした一連の仕事は花森自身の「過去の罪」に対する彼なりの「責任」の取り方だったのかもしれません。
 
文芸評論家の加藤典洋氏は「敗戦後論」において、先の戦争に対する「ねじれ」とでも呼ぶべきものが戦後日本の中に残り続けていると主張したことで知られています。この加藤氏のいう「ねじれ」は憲法に関するものや死者(戦没者)に関するものなどがありますが、國分功一郎氏が近著『天皇への敗北』(2026)において指摘しているように、加藤氏が「ねじれ」と呼んだ戦後日本における問題の根幹には自身の加害行為に向き合えない「被害者意識」があるといえます。
 
こうした観点からいえば「たしかに戦争犯罪を犯した」と言い切り、人々の「暮し」をより良くするという「実践」によって、その「責任」を取ろうとした花森の生き方は個人が自身のうちに抱える「ねじれ」にいかに向き合うのかという問題に対して地に足のついたかたちで示された一つの回答でもあるといえるでしょう。そして、このような花森の生き方はいまや色褪せたかにみえる戦後民主主義という物語を新たな角度から、あるいは別の仕方で読み直すための大きな手掛かりを示しているようにも思えます。