* イェルサレムのアイヒマン
20世紀を代表する政治哲学者、ハンナ・アーレントには1963年に公刊した『イェルサレムのアイヒマン』という大変有名な著作があります。ここでいう「アイヒマン」とは、ナチスの戦犯であるアドルフ・アイヒマンのことです。アイヒマンは第二次世界大戦中にユダヤ人の強制収容所への大量移送で指導的な役割を果たしており、戦後はアルゼンチンに潜伏していたところ、1960年5月にイスラエルの秘密警察に拘束され、1961年にエルサレムで裁判にかけられ、同年12月に第一審で死刑判決が下され、控訴審を経た翌年5月に絞首刑となっています。
アーレントはアイヒマンの裁判が行われるというニュースを聞いて、知人だったアメリカの有力な週刊誌『ニューヨーカー』の編集者に「裁判レポーターをしたい」と申し出ます。1941年に亡命ユダヤ人としてアメリカへ渡ったアーレントは1951年には最初の主著となる『全体主義の起源』を公刊し、同年にアメリカの市民権を獲得します。そして1958年には第二の主著にして彼女の代名詞的著作となる『人間の条件』を公刊し、この時点ですでに政治哲学者として高い評価を獲得していました。
こうして『ニューヨーカー』誌の特派員としてアイヒマンの裁判を傍聴したアーレントはそのルポタージュを1963年2月から同誌に5回にわたって連載し、同年5月には一連の連載をもとに『イェルサレムのアイヒマン』を公刊します。
このアーレントのルポタージュは雑誌連載中から大きな反響を呼ぶことになります。しかしその反響のほとんどはアーレントへの非難の声でした。中山元氏は『アレント入門』(2017)において、このアーレントの非難には二つの大きな軸があったといいます。
まず第一の軸はアーレントが同書のサブタイトルとした「悪の凡庸さ」という考え方にかかわるものです。アーレントはナチスの立案したユダヤ人の絶滅計画を実行した中心人物が、予想されていたような典型的な悪人ではなく、あるいは狂信的なナチス党の党員でもなく、驚くほど凡庸な官僚であったことに強い衝撃をうけたことから、この「悪の凡庸さ」という表現を選んでいます。しかし人々はこの表現からアーレントがナチスの犯した悪を軽視し、それを擁護していると思い込んだのでした。
そして第二の軸はこの絶滅計画にユダヤ人がどのように関与しているかという問題にかかわるものです。アーレントは同書においてヨーロッパのユダヤ人の指導機関である「ユダヤ人評議会」が一部の特権的なユダヤ人を国外に脱出させるために多くの一般のユダヤ人を収容所に送ることでナチスに協力していたことを明らかにしています。ユダヤ人の虐殺を実行したのがナチスであることは間違いないにせよ、結果的にはユダヤ人たちもまた消極的な形でそれに協力してしまっていたということです。
とりわけこの第二の軸が世界のユダヤ人組織がユダヤ人女性であるアーレントをこぞって非難するきっかけとなりました。被害者であるユダヤ人たちにもその絶滅計画の責任を負わせ得るかのように思えるアーレントの文章に対してユダヤ人組織が一斉に非難の声を上げ、それから数年もの間、激しい反アーレント・キャンペーンが欧米を席巻することになります。
* アーレントとショーレムの往復書簡
こうした『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる非難の嵐の中でアーレントは一度だけ、正面から批判に応答する形で本格的な論争を行っています。それが1963年に行われたゲルショム・ショーレムと彼女の往復書簡です。ショーレムは1923年にパレスチナに渡り、1925年以来ヘブライ大学でユダヤ思想史を講じるヘブライ学の第一人者にしてユダヤ人問題の専門家です。アーレントにとってもショーレムは親シオニズムの運動を通じ年来畏敬してきた年長の友人の一人でした。
この書簡においてショーレムはアーレントに「わたしたちの民族の娘」と呼びかけ、この『イェルサレムのアイヒマン』という書物には「ユダヤ人への愛がほとんど見受けられない」ことを咎めます。そしてこの書物で採用されている「語り口」について次のように批判します。
「あなたが本のなかで非常に頻繁に用いている語り口、英語ならば軽薄さ(フリッパンシー)という言葉で表現されるような語り口には、わたしは共感できません。この語り口は、あなたが語っている事柄には、あまりに不適切なのです。このような状況においては、ドイツ語の慎み深い〈心の礼儀〉という言葉で表現しうるようなもののための場所があってもいいのではないでしょうか」
これに対してアーレントはこの書簡の返信において、ショーレムのこれらの規定と非難に対して順に答えています。第一に「わたしたちの民族の娘」というショーレムの呼びかけについてアーレントは「わたしには似合わないレッテル」として明確に拒否しています。ユダヤ人女性であることはアーレントのアイデンティティの核心ではありましたが、それは否応なく引き受けざるを得ない運命なのであり、あたかも親に何かしらの義務を負うような「娘」の立場に立つことを意味するものではありませんでした。
第二に「ユダヤ人への愛」に欠けているという非難についてアーレントは「わたしはいままでの人生において、ただの一度も、なんらかの民族あるいは集団を愛したことはありません。ドイツ人、フランス人、アメリカ人、労働者階級など、そのたぐいの集団を愛したことはないのです。わたしはただ自分の友人〈だけ〉を愛するのであり、わたしが知っており、信じてもいる唯一の愛は個人への愛です」と述べています。アーレントにとってユダヤ人であるということはアイデンティティの問題、あるいは運命の問題ではあっても「愛」の問題ではないということです。
第三に文体における「慎み深さ」についてアーレントはユダヤ人にとって好ましくないことを語る人はつねにこうした「慎み深さ」の欠如という非難を浴びせかけられると指摘しています。確かに「ある不愉快な事実をただ報告するだけの人間が、魂がない、あるいはあなたがおっしゃるように〈心の礼儀〉がないと責められる」ことは避けられません。しかしアーレントは「慎み深さ」が時に「感情が実際の真実を隠すために使われる」こともあるがゆえに、こうした〈心の礼儀〉によって真実を語ることを控えるつもりはなかったといいます。
*「悪の凡庸さ」と「語り口」の問題
この往復書簡でアーレントはショーレムのいう「語り口」について直接は答えてはいませんが、後に彼女は1964年にドイツで行われたテレビ・インタビュー(いわゆるガウス・インタビュー)において次のように明確に述べています。
私はほんとうにアイヒマンは道化役者のようだと思いました。3600ページに及ぶ警察の尋問書をきわめて綿密に読みとおしましたが、読みながら、何度笑ったことでしょうか。しかも声をあげてです。こういう反応のことで人々は私にたいする感情を害するのです。それにたいして私は何もできません。しかし私は、自分が死ぬ間際まで、それについて笑えるだろうと思っています。それが私の語り口だそうですが、私の語り口はもちろん十分に皮肉っぽいものです。それはまったくおっしゃる通りです。この場合、語り口は本当に人間そのものです。私がユダヤ民族を告発しているかのようにいう非難ならば、それは悪意のある偽りのプロパガンダ以外の何物でもありませんが、語り口についての異論は私という人間にたいする抗議である以上は、どうすることもできないのです。
アーレントはこうした「慎み深さ」のない語り口を採用したことの背景に、本来「極悪人」であるはずの(あるいは、そうであるべきの)アイヒマンが道化役者のような人物に過ぎなかったという意外な事実の発見があることを明らかにしています。警察の調書から浮かび上がってくるアイヒマンの滑稽さにアーレントは笑いを抑えることができなかったのであり、その結果、このルポタージュの文体の基調が皮肉な語り口となってしまっているということです。そしてこのことは「悪の凡庸さ」と深い関係にあります。
「悪の凡庸さ」とはアイヒマンの犯した行為が、その「悪」が、凡庸であると主張するものではありません。この「悪」は筆舌し難い空前絶後の巨悪であることは間違いありません。問題はこの「悪」を犯した当の人物がごく凡庸な人物であったということです。
アドルフ・アイヒマンという人物はドイツ西部のゾーリンゲンの典型的な中産階級の家庭に生まれ、オーストリアで青年期を過ごした後、石油会社のセールスマンとして真面目に働き、ナチスに入党してからはそれまでのサラリーマンとしての才能を発揮して委ねられたユダヤ人移送の仕事に専念しています。ここでの彼の最大の関心事は自身の職務をいかに円滑に遂行するかということであり、その職務がいかなる「悪」をもたらすかを想像することも思考することもしませんでした。
こうしたことからアーレントはアイヒマンの人間的な特性として想像力の欠如と思考の停止を挙げています。そうであれば組織の論理に埋没し、他人の立場に立って想像し、思考するという営みをやめたとき、人は誰でもアイヒマンのように「悪」をなしながらも平然としていられるようになるかもしれないといえるでしょう。
*「語り口」をめぐる共同性と公共性⑴
ところで文芸評論家の加藤典洋氏は『敗戦後論』(1997)に収録されたその名も「語り口の問題」という論考で、このアーレントとショーレムの論争を「語り口」をめぐる共同性と公共性の問題として読み直しています。まず加藤氏は同論考において1995年に発表した「敗戦後論」の要旨を概ね次のようにまとめています。
⑴戦後日本が抱えることになった問題の一つは例えば軍事力の行使を世界に率先して放棄することを謳った現行憲法が軍事力を背景にした圧力のもとに押し付けられるという矛盾、また戦争に関し、開戦の詔勅の上に捺印の上これを発布した最高責任者である天皇が戦争裁判で免責され、下僚が代わりに絞首刑に処せられるという矛盾などに顔を見せている、一つの「ねじれ」を敗戦占領とその後の推移により日本の社会、政治、道義がその根源に抱え込むことにになったことである。
⑵この「ねじれ」はその後、日本社会をいわば「歴史を形成する主体」をもてない分裂した人格にした。つまり本来ならこの憲法の理念に賛同し、これを肯定する側がこれを真に自分のものとするため、この「ねじれ」を問題にし、その克服を目指さなければならないところ、この「ねじれ」は逆にそれに目をつむる護憲派と、それを理由にこれをまたもや戦前型の「自主憲法」にとって代えることでその克服ならぬ解消を目指す改憲派との出口のない(ジキル氏とハイド氏的な)人格分裂の動因となったのである。
⑶天皇の信従者についても同じことが言える。彼らこそこの戦後の一時期の安定のため将来に禍根を残すような選択はすべきでなく、道義の根を日本社会に残すため、戦後、退位すべきことを天皇に勧めなければならなかったところ、ここでもこの「ねじれ」は道義を超越している天皇に戦争責任を問うのは間違っているとして日本の侵略責任に目をつむる天皇信奉者たちと、アジア解放の大義の夢が破れた後、一転して侵略した先の国々への懺悔を全身に現し、今は天皇の戦争責任を追求してやまない元天皇信奉者たちという二者へと分裂した。
⑷この人格分裂は「歴史を引き受ける主体」が戦後日本に形成されていないという事態を意味している。ではどうすればこの人格分裂をできるのか。その鍵は「死者の弔い方」にある。戦争の死者の弔い方においてこの人格分裂は、日本の侵略戦争がもたらしたアジアのよその国の二千万の死者への謝罪と、自国の間違った戦争のもとで無意味に死んだ三百万の死者への哀悼の分裂という形で現れている。
そして氏はこの根源にある問題とは「侵略戦争のために無意味に死んだ自国の死者を無意味なままに深く弔う仕方をわたし達がいまだに見つけられていないでいる」ということではないかといい、次のように述べます。
悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。そのようなあり方がはたして可能なのか。ここではっきりしていることは、ここでも、この死者とわたし達の間の「ねじれ」の関係を生ききることがわたし達に不可能なら、あの敗戦者としてのわたし達の人格分裂は最終的に克服されないということだ。
ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。
*「語り口」における共同性と公共性⑵
周知のように「敗戦後論」が発表された後、加藤氏は激しい批判を浴びることになります。特に加藤氏に対して最も激しい批判を行ったのが哲学者の高橋哲哉氏です。加藤氏と高橋氏の間の応酬はのちに「歴史主体論争」と呼ばれることになります。高橋氏が「汚辱の記憶をめぐって」と題する「敗戦後論」を批判した戦争責任論における「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」という一節はよく知られています。
ここで高橋氏は『イェルサレムのアイヒマン』をめぐるアーレントとショーレムの論争を取り上げており、たとえ「同胞」に対してであっても「判断する=裁く」という責任を回避することはできないというアーレントの主張を論拠に加藤氏の主張を自国の死者を「かばう」ものを内向きの態度として批判しています。これに対して加藤氏は「その選択は、興味深い視点を提供している」といいます。
加藤氏によればアーレントにおける公共性の概念とは個人に立脚する近代原理からではなく、古代ギリシャや古代ローマにおける「名誉、誇り、政治」といった「反個人主義的な、近代以前の思考を母胎」としているとされます。その理由として氏は「いわばユダヤ民族の民族性、その思想の共同性を殺すため、ここでその対置物として、公共性という古典古代の概念を、自分に必要としてる」という点を挙げ「その核心をわたしの関心にひきよせていえば、それはある種の共同性をどうすれば解体できるか、という問題」であると述べます。
ここから加藤氏は自国の死者への追悼を「先に」置く他国の死者への謝罪と哀悼という死者の弔い方について、これは「どうすれば死者との共同性を解体してわたし達の死者との関係を公共化できるかという戦後日本にとって未知の課題」であるといいます。なぜならば戦後日本における人格分裂は分裂するそれぞれの半身がアジアの二千万の死者、あるいは日本の三百万の死者との共同性に起因しているため、この共同性からの自立が歴史を引き受ける主体形成の鍵であるからです。
さらに加藤氏は高橋氏の考え方への「最大の疑念」は「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続ける」といった、その「語り口」にあるといいます。加藤氏は高橋氏のショーレム的な「一枚岩的な語り口」に「その言明の語ることがらが言明の仕方の精密を求めることだけに、もっとも大きな異議をおぼえる」として、そしてそれは高橋氏に限らず「それはいわゆる日本の戦後の『良心的』知識人がしばしばこれまでとってきた」「共同的な語り口」であり「このような語り口で語られる限り、何がいわれようと、あの戦後日本の人格分裂はけっして克服されない」といいます。
「共同的ではない語り口だけが、共同性を殺す」と加藤氏はいいます。すなわち『イェルサレムのアイヒマン』においてアーレントは「共同性という彼女の前に立ちふさがるものから、その語り口をとりだしてくる」ということです。そうであればアーレントにおける「悪の凡庸さ」をめぐる「語り口」もまた、共同性を内破して公共性を開くための理路として要請されたものであったといえるでしょう。

