* 戦後民主主義の到達点
國分功一郎氏は新著『天皇への敗北』(2026)において戦後憲法学を切り口として日本の戦後民主主義を論じています。同書はその冒頭で日本を代表する憲法学者樋口陽一氏の言葉を引き、戦後日本の憲法学者たちは単に憲法の専門家である以上の任務が課せられていたといいます。それはすなわち「憲法が訴える価値を国民に丁寧に伝え、その価値に対する敬意を国民の中に育むと同時に、国民が憲法を担う手助けをすること」です。
そして同書によれば日本の憲法学者たちは憲法を「物語」として語ることで、この課題を遂行してきたとされます。また戦後日本の特徴として文学者たちが憲法について積極的に発言したことを挙げ、例えば小説が明治以降、国民文学の役割を担ったように、戦後憲法学は単なる法学の一分野ではなくある種の文学でもあり、高い専門性を保ちつつも国民に憲法が訴える価値を理解してもらうことに努めてきたと同書は述べています。
ところで戦後日本の憲法学者たちが取り組んだ「物語」には一つ、実に困難なトピックがありました。いうまでもなく憲法9条、つまり平和主義というトピックです。そしてこの9条ないし平和主義を考える上で重要な存在として同書は天皇を位置付け、2012年に発足した第二次安倍政権が行った特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則緩和、集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈変更、平和安全法制の制定といった一連の「立憲主義に対する挑戦」のさなかで俄に存在感を高めていった前天皇である明仁上皇の護憲的な立場に「日本国憲法の中で、立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造」を見出しています。
言うまでもなく天皇は憲法によって規定された存在であり制度です。日本国憲法1条は象徴としての天皇を規定するものです。つまりここには「憲法が蔑ろにされれば、天皇はその存在そのものが危うくなる」のであり、それゆえに「天皇は立憲主義を破壊するような勢力に対しては敵対する」という構造があります。そしてここから「9条を守り抜こうとする護憲派の立場を、1条を根拠として存在している天皇が支持する」という構造が現れることになります。
そしてこれは戦後日本の憲法学者たちが目指した憲法物語作成の試みは結局、天皇には敵わなかったということを意味しています。これが同書のいう「天皇への敗北」であり、それは戦後憲法学の敗北であると同時に、憲法学の求める成熟に至らず天皇に頼る「国民の敗北」を意味しています。ここから同書ではこのような「天皇への敗北」ないし「国民の敗北」という「現時点での戦後民主主義の到達点」をいかに乗り越えていくかという課題が考察されることになります。その出発点となるのが文芸評論家加藤典洋氏による「敗戦後論」という論考です。
* 戦後日本における「ねじれ」
戦後50年目となる1995年に世に問われた加藤氏の論考「敗戦後論」の出発点にあるのは日本は戦争中にアジア諸国に対して行った様々な侵略行為の責任をとっていないという問題提起です。つまり日本はアジア諸国に謝罪しなければならないけれど、いまの日本は謝罪しようにも謝罪が可能になる地点に立っていないというのが加藤氏の認識です。なぜならば日本が戦争責任について謝罪するために必要な「ナショナルなもの」としての「わたし達日本国民」とでも呼ぶべき単位が成立していないからです。
ではどうしてその単位が成立していないのでしょうか。加藤氏は戦後日本の中にある「ねじれ」が原因であるといいます。ここでいう「ねじれ」とは「自己欺瞞」とも言い換えることができます。その「ねじれ/自己欺瞞」のひとつの証左として加藤氏は現行憲法を取り巻く状況を取り上げます。つまり日本が敗戦し、米国に占領され現行憲法を押し付けられたという事実を日本国民が正面から受け止めずに知らぬ振りしてきたという「ねじれ/自己欺瞞」です。
現行憲法が米国によって強制されたものであるとすれば「わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる」けれど、もし平和憲法を「大本で、自らのものとしている」と考えるのであれば、強制されたものであるにもかかわらず、それは自分で欲したものであると「わたし達は自分をいつわるしかなくなる」のであるということです。そこで加藤氏はこうした「ねじれ」に立脚して、強制された憲法を「もう一度、選び直す」という立場を打ち出します。
しかし戦後日本における「ねじれ」は単に現行憲法をめぐる状況にとどまりません。加藤氏はさらに死者をめぐる「ねじれ/自己欺瞞」を問題にします。日本は太平洋戦争で特にアジア諸国に甚大な被害を及ぼし、兵士や民間人を含めた二千万人とも言われる人々が戦争によって亡くなりました。先述の通り「敗戦後論」の出発点にあるのは日本はこの侵略戦争の責任をとっていないし、アジア諸国の被害者たちに対して謝罪を行うことができていないという問題提起です。
「敗戦後論」が世に出た1995年は戦後50年という区切りの年であり、東西冷戦も終わり、湾岸戦争を経て全く新しい世界秩序が模索されていた時期です。このような状況の中で日本の外交はアジア諸国と新たな関係を構築する必要を迫られており、そのためには先の戦争について踏み込んだ謝罪が必要だという機運が高まっていました。
同年の8月15日、当時の首相であった村山富市氏がいわゆる「村山談話」を発表し、かなり踏み込んだ表現での謝罪がなされています。しかしながら加藤氏が「敗戦後論」で示したものとは、いくら日本がかたちだけの謝罪をしてみせてもそれは謝罪にならず、いまだ日本は謝罪が可能になる地点に至っていないという認識でした。なぜなのでしょうか。
加藤氏によれば「日本がまず謝罪すべき死者として二千万のアジアの死者をあげているが、そこで一方三百万の自国の死者、特に兵士として逝った死者たちへの自分たちの哀悼が、この謝罪とどのような関係におかれるかを、明示することはしていない」からであるということです。ここから加藤氏は事実上、こうした「ねじれ」を克服すべく、まず日本は自国の三百万人の死者を哀悼すべきであり、それによって初めて、彼らを含めた謝罪の主体としての「わたし達日本国民」が成立し、アジアの死者二千万人への謝罪と哀悼も可能になるといった趣旨の主張をすることになります。
* 国民的欲望としての被害者意識
周知のように「敗戦後論」が発表された後、加藤氏は激しい批判を浴びることになります。特に加藤氏に対して最も激しい批判を行ったのが哲学者の高橋哲哉氏です。加藤氏と高橋氏の間の応酬はのちに「歴史主体論争」と呼ばれることになります。高橋氏が「汚辱の記憶をめぐって」と題する「敗戦後論」を批判した戦争責任論における「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである」という一節はよく知られています。
國分氏はこの高橋氏の批判が妥当であることは認めつつも、記憶が保持されていたとしてもそれに「恥じ入る」ことができない場合があることを指摘します。責任が忘却されないよう事実を突きつけても一向に責任感が生まれない場合があるということです。人は罰されたからといって必ずしも自分が悪かったとは思うとは限りません。そして加藤氏は「敗戦後論」の「最良の部分」において、そのような問題提起をしていたと國分氏は述べています。どういうことでしょうか?
この点、國分氏は加藤氏が死者をめぐる「ねじれ」において「決して日本が行った侵略戦争の責任を否定するわけではないが、やはりまずは自国の死者を追悼すべきだし、追悼したい」という日本国民の一部にあるであろう「国民的な欲望」とでも呼ぶべき問題に触れているにもかかわらず「それをそのようには語らなかった」として、こうした「国民的な欲望」が表現しているのは「自分たちはむしろ被害者だ」という被害者意識に他ならないと指摘します。
この被害者意識を温存したままでは日本は戦争について責任を取ることはできないし、謝罪する地点に到達することもできない。したがって加害者としての日本は自らの被害者意識を直視しなければならない。けれども日本はまるで「戦争によって生まれ変わったかのような顔」をしてきた。本当は自分たちが被害者だと思っているのに、それに目を向けようとしない自己欺瞞。これこそが加藤氏のいう「ねじれ」の意識の欠如です。
ところが加藤氏は「それに接近しつつも、誰を先に哀悼すべきかという問題」に向かってしまいます。日本の戦争責任を問うことにおいて最も大切なことは「日本が二度と戦争や侵略行為を起こさないようにすること、日本に再犯させないこと」であり「ねじれ」の指摘はあくまで「加害者たる日本が自らの加害に向き合えない原因として指摘される限りにおいて意味がある」のですが、加藤氏の議論においてはこの「日本に再犯させないという点が忘れられている」ということです。
当然ながらここには「なんで加害者についてそんなことまで考えてあげなければならないのか」という自然な反発が予想されるでしょう。しかし、こうした反応を繰り返してきたことで「むしろ日本国民の被害者意識は温存されてしまった」ともいえるでしょう。
「平和憲法」によって自分たちは生まれ変わったのだという顔をしてながら「それを堅持することが我々の反省の証しである」と自分たちに言い聞かせることはある意味では楽なことではあります。なぜならば敗戦を経た日本は本当は何も変わっていないのに、米国による占領によって与えられた価値観に便乗することで「自分たちは変わったのだ」「自分たちは反省している」と信じることができるからです。これこそ加藤氏が「ねじれ」という言葉を通じて言いたかったことの核心ではないか、と國分氏は述べています。
* 昭和の憲法学者
こうした視点から國分氏は加藤氏が「敗戦後論」で取り上げる憲法学者、美濃部達吉に注目します。天皇機関説で知られる美濃部は一般に戦時中も立憲主義的でリベラルな思想を貫いた学者という評価を受けています。戦前において美濃部は時代の反動化が進む中、天皇機関説が国体に反すると軍部や右派勢力に非難され貴族院議員を辞職することになるが、その信念を曲げることはありませんでした。
もっとも加藤氏が注目するのは美濃部が敗戦後、憲法改正に対して取った態度です。1946年3月、占領軍の総司令部案をもとにした「憲法改正草案要項」が発表されますが、この憲法改正案を審議する枢密院の帝国憲法改正案審査委員会の席上で、美濃部はこれを審査することに異議を唱え、この憲法案に対する激烈な反対論を展開します。それまでの大日本帝国憲法よりもぐっと立憲主義的でリベラルになったはずの新憲法になぜ美濃部は反対するのでしょうか。
美濃部によればその理由は3点あります。「一、憲法改正を定めた帝国憲法の第七三条は、日本政府がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である」「一、憲法改正案でその存在が不適当であるとして廃止をめざされている枢密院が、その改正を審議するというのは、不可解である」「一、前文に「日本国民が制定する」旨明言されている改正案が、勅命により、政府の起草、議会の協賛、天皇の裁可で交付されるのは、「虚偽の声明」である」というものです。
こうしたことから憲法改正案に対して美濃部はたった一人で反対します。しかし結局は賛成多数で議決され、改正案は枢密院の本会議に回されますが、そこでも美濃部は一人反対します。さらに改正案は衆議院、貴族院での修正を経て、再度枢密院に諮詢されますが、その会議にもう美濃部の姿はありませんでした。こうした美濃部の立居振舞いにつき加藤氏は「ここで美濃部が戦争に負けるということをそのまま引き受けようとしているところに、その対応の最も高度な思想的意味はある」と述べています。
では美濃部はどのような憲法ならよいと考えたのでしょうか。美濃部は先の枢密院での諮詢に先立つ1945年11月、幣原内閣の憲法問題調査委員会に顧問として参加し、そこでいわゆる「美濃部意見書」というものを提出していますが、ここで美濃部は憲法の改正は部分的なものであるべきか、それとも全面的なものであるべきかという論点に続き、降伏の結果としての現在の被占領状態を基礎とすべきか、それとも将来における国家としての独立を基礎とすべきかという論点を検討し、現在の被占領状態を基礎とすべきであれば、その第一条は「日本帝国ハ聯合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス」という趣旨に修正すべきであると述べています。
「美濃部は、少なくともここでは、国の基礎である憲法を欺瞞の具にだけはしてならないという立場に立っている。その意味では、不如意があれば不如意が、ねじれがあればねじれがそのまま映る歪みのない鏡で、憲法はあらねばならない、ということである」と加藤氏はいいます。そして、このように美濃部や加藤氏のように「降伏」や「敗戦」という観点から考えるとは「戦後」という観点で考えないことを意味していると國分氏は述べます。
「戦後」という言葉にはどうしても、それまでのすべてがリセットされたゼロの出発点のようなものが、どうしても含意されてしまいます。そうであればそこには主体として「戦前」を引き受けるという態度は出てこなくなります。つまり「戦後」という観点は実に巧みに「戦前」からのつながりを切断し「戦前」を反省したことにできる仕組みを作り出してしまっているということであり、加藤氏による「ねじれ」の指摘とは、この仕組みに対する抗いであったといえるでしょう。
* 昭和の文人
こうした「戦後」という観点から國分氏はやはり加藤氏が「敗戦後論」で取り上げる中野重治という「昭和の文人」に注目します。中野重治は1902生まれの小説家であり、プロレタリア文化運動の中心人物でした。1932年4月にプロレタリア文化運動に対する弾圧の中で中野も逮捕され、以後約2年間獄中にあり、1934年5月に「日本共産党員であったことを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」して懲役2年執行猶予5年の判決を受けて即日出所しています。
中野という作家を語る上で避けて通れないのが「転向」です。「転向」とは一般的に「これまでいだいてきた思想や主義主張などを権力の強制などのために変えること」をいいますが、とりわけ昭和初年以来、治安維持法による官権の弾圧によって共産主義者、社会主義者などがその思想を放棄したことを指しています。
こうした意味での「転向」の戦前におけるもっとも有名な例が「佐野・鍋山転向」です。日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が1929年に治安維持法違反で捕まり、1932年に一審で無期懲役の判決が出ます。ところが1932年6月に佐野と鍋山の二人が「共同被告同士に告る書」という声明を獄中から発表します。
この声明は日本の左翼労働運動がコミンテルンから脱却して、日本独自の道を切り拓くべしという内容のものであり、ここでは「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が労働者大衆の胸底にある」と述べ、明確に天皇制支持の態度が打ち出されています。この声明の影響は大きく、雪崩を打ったように他の共産党員幹部も続々と転向を宣言するに至ります。
國分氏はこの「佐野・鍋山転向」を「最悪」と評しています。佐野と鍋山は日本共産党内で然るべき地位に就いていて「共産主義革命万歳」と旗を振っていたのに「日本の各地で人々がどのような生活をしていて、何を大事にしているか」を知ろうともせず「頭でっかちに共産主義の理論ばかりを振りかざし」ながらも、治安維持法違反で逮捕されると獄中で「最低の覚醒」をして、それまで信奉していた共産主義を捨て「天皇主義者」になります。國分氏は「彼らが自分たちの足下を見ていなかったことは間違いない」として、それゆえに「彼らと並べた時、中野の『転向』の奇妙さが際立っている」といいます。
* やはり書いて行きたいと思います
中野が「転向」について正面から向き合った小説が「村の家」です。これは中野が「転向」を表明した翌年、1935年に発表された作品です。この「村の家」では明らかに中野自身をモデルとした「勉次」という主人公がいて、中野と同様に刑務所に収容され、懲役2年執行猶予5年の判決を受けます。出所した勉次は父の孫蔵に乞われて郷里の福井に帰ります。
孫蔵は勉次に「いったいどうしるつもりか」「これから何をしるんか」と問い「おとつぁんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」「今までで書いてものを生かしたけれゃ筆捨ア捨てて終え」といい、これからは「百姓をせえ」と勧めます。しかし勉次は孫蔵に「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と答えます。
このようなやりとりを國分氏は勉次は孫蔵の「人情」をよく理解した上で「自らが身を投じてきた政治活動」という「もう一つの真理を自分はやはり捨てることはできない」というある種の「弁証法」があると解釈します。
文芸評論家の江藤淳はこの小説を取り上げた『昭和の文人』(1989)において、中野のように「一身にして二生を経るが如」き「昭和の文人」を「戦後文学」との対比において評価します。ここでいう「戦後文学」における「戦後」とはそれまでのすべてがリセットされたゼロの出発点としてのあの「戦後」のことです。
國分氏はこのような「昭和の文人」と「戦後文学」の対比を、美濃部のような「昭和の憲法学者」と「戦後憲法学」の対比に重ね合わせ「昭和の文人(中野)」と「昭和の憲法学者(美濃部)」のとった「ごまかすな」「筋の通らないことをやり過ごすな」という態度から戦後憲法学が直視できなかった「天皇への敗北」を論じることになります。
* 戦後民主主義と訂正可能性
以上のような加藤氏と國分氏の議論をまとめると戦後日本の出発点には「敗戦」に起因する明らかな「ねじれ」があったにもかかわらず、その「ねじれ」は何となくうやむやにされ続けて今日に至っており、こうしたうやむやな態度の帰結として「天皇への敗北」という「戦後民主主義の到達点」があるということです。
これはまさしく戦後民主主義という物語がこれまで目を逸らし続けてきたクリティカル・ポイントを射抜くものであるといえるでしょう。しかしそれにしても、なぜこれまで戦後民主主義はこのような明らかな「ねじれ」を抱えつつも、あたかも「ねじれ」など最初からなかったかのような態度を取り続けることが可能だったのでしょうか。
ここで思い起こされるのが加藤氏が「敗戦後論」の冒頭に置いた印象的な挿話です。加藤氏が小学校2年生くらいの頃、遠足の途中で別の小学校の遠足の集団と出くわし、両校から代表者が出て相撲を取ることになったそうです。加藤氏たちの代表者は土俵際につめられて、こらえきれずに腰を落としたところ、偶然に足が相手の腹にかかり、その動作が図らずも「巴投げ」を仕掛けたかのような構図を呈します。
その時、加藤氏の学校の生徒は一斉に拍手をして囃し立てます。ここで一瞬のうちに「相撲」は「柔道」に変わることになります。加藤氏は「その時の後ろめたさを忘れない」といい、敗戦時に起きた「ねじれ」の本質もまた「あれだ」と述べます。この挿話は人間のコミュニケーションに伴い不可避的に生じる条件を見事に描き出しています。
東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023年)においてコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照して理論化しています。
20世紀を代表する哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。そして、クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。
人間は言語を使ってゲームをしており、そのルールはゲームのただなかで「じつは」の論理で良くも悪くも刻々と訂正されていくことになります。つまりそこでは、相撲だと思っていたものが「じつは柔道だった」と訂正され、押し付けられたものが「じつは欲していたもの」と訂正され、加害者が「じつは被害者だった」と訂正され、ねじれが「じつはねじれなどなかった」と訂正されてしまうこともあり得ます。換言すれば戦後民主主義とはこうした「じつは」という「訂正可能性」の論理から出発しているといえるでしょう。
このような「訂正可能性」は良いとか悪いとかいった問題以前にコミュニケーションの条件として不可避的に生じるものです。こうした意味で加藤氏と國分氏の議論は単に戦後民主主義の負の側面を問い直すだけではなく、社会の諸領域におけるコミュニケーションの条件して良くも悪くも不可避的に生じる「訂正可能性」の中で、それでもなお「じつは」と訂正してはならない「訂正不可能性」の領域を問い直すものであったといえるでしょう。


