* リトル・ピープルと母性のディストピア
現代を代表する批評家の一人である宇野常寛氏は『リトル・ピープルの時代』(2011)において村上春樹氏が2009年にエルサレム賞の授賞式で行った「壁と卵」と呼ばれるスピーチにおける「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という一節を引き「春樹の『壁』と『卵』の比喩の用い方にある種の性急さを感じずにはいられない」と述べています。
すなわち、かつて村上春樹という作家は「壁(システム)」と「卵(個人)」の共犯関係に「悪」を見出し、その共犯関係からの「デタッチメント」という「倫理」を志向していましたが、いまの彼は翻って「壁」と「卵」の間を分断し「壁」という「悪」から「卵」を守るために極めて強い意志をもって「コミットメント」という「正義」を志向しているということです。
しかし同書は「その試みはあまりうまくいっていない」といいます。「壁」と「卵」の共犯関係は今やますます強固になり、むしろ両者は複雑に融合しており、安易に切り分けることはできないからです。ここで同書は「壁」の変化を「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という独自の概念から説明します。
ここでいう「ビッグ・ブラザー」とは国民国家イデオロギーという「かつての壁」であり、ジョージ・オールウェルの小説『1984』(1949)に登場する国民統合の象徴としての疑似人格体に由来する概念です。かたや「リトル・ピープル」とはグローバル資本主義のネットワークがもたらす不可視の力という「新たな壁」であり、村上氏の小説『1Q84』(2009〜2010)に登場する超自然的幽体に由来する概念です。
こうした観点から同書は戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1945〜1968)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968〜1995)」「リトル・ピープルの時代(1995/2001〜)」という時代区分から捉え直します。このような「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を無根拠に掲げる「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味しています。
そしてこの時代区分を前提に、同書は村上作品における「デタッチメント」から「コミットメント」へという転回を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」と「リトル・ピープルへのコミットメント」として位置付けます。まず村上氏は1979年のデビュー作『風の歌を聴け』において「ビッグ・ブラザーへのデタッチメント」から作家としてのキャリアを出発させますが、その後、1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』以降、その倫理的作用点を「リトル・ピープルへのコミットメント」へと転回します。
ところが、こうした村上氏の提示した「コミットメント」はリトル・ピープルの本質を的確に捉え切れていないと同書はいいます。すなわち村上作品における「コミットメント」とは、ヒロインへそのコストを転嫁することで主人公を「父」にさせる男性的ナルシシズムに規定された想像力ですが、ビッグ・ブラザーという偉大な父が死に絶えて、リトル・ピープルという非人格的システムが支配するこの世界においては、もはや「父」になるとかならないとかではなく、自動的に機能してしまう「複数の父達」の衝突を調整する想像力が求められるということです。こうしたことから同書は村上氏はビッグ・ブラザーの衰退については誰よりも敏感であったけれども、このリトル・ピープルに対応する想像力はいまだに提出できてないと結論します。
その一方で宇野氏は戦後アニメーションを論じた『母性のディストピア』(2017)においてリトル・ピープルの時代であるところの現代の情報環境を〈父性〉と〈母性〉というメタファーを使って詳らかにしてます。同書は「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本における「成熟(あるいは成熟の仮構)」を規定した「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を「母性のディストピア」と呼び、その上でスマートフォンやソーシャルメディアが普及した現代においては、都合の良い物語を求め承認欲求に溺れる「矮小な父性」たちを「肥大化した母性」としての情報環境が支援する新たな「母性のディストピア」が出現しているといいます。
こうしてみると現代とは「偉大なる父性(ビッグ・ブラザー)」が解体され「矮小な父性(リトル・ピープル)」と「肥大化した母性(母性のディストピア)」が結託した時代であるといえます。そうであれば現代における「成熟」とは何らかの意味での「母殺し」が伴わなければならないということになります。そして村上氏が今月公刊した最新長編小説『夏帆 The Tale of KAHO』はこうした「母殺し」をモチーフとして現代の情報環境におけるコミットメントのあり方を問い直す物語として読めるでしょう。
* 衝撃のブラインド・デート
本作の第一章「夏帆とモーターサイクルの男」は次のようなシーンから始まります。本作の主人公、夏帆は26歳の絵本作家です。ある日、これまで2年くらい付き合っていた恋人と別れたばかりの夏帆は知己の編集者のセッティングにより面識のない男とブラインド・デート(みたいなこと)をします。
相手の男は夏帆よりおそらく10歳は年上で、身なりも清潔でそつなく(特に夏帆の好みというわけではないけれど)いかにも育ちが良さそうな整った顔立ちで(夏帆が評するに)もう少し身長があればあるいは俳優になれたかもしれない、などといったルックスを持った人物として描かれています。
食事の後、コーヒーが運ばれてくるあいだ、その男は夏帆に向かっていきなり「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言い放ちます。幼少期からこのかた、自身の容姿にあまり関心を持たなかった夏帆はあまりに唐突に言い放たれた侮辱的な発言に困惑しますが、腹が立つ以上に「純粋な驚き」と「好奇心」が湧いてきます。
ブラインド・デートで相手のことが気に入らなければ、その後、連絡を取らなければいいだけのことであり、面と向かって相手を侮辱する必要はないはずなのに、にもかかわらず目の前の男はなぜわざわざ、そんなことを口にするのでしょうか。
そんな夏帆の心を読んだように男はいいます。「じゃあ、どうしてそんな醜い相手と、というか顔立ちが気に入らない相手と、最後まで食事を共にしたのか?最初のグラス・ワインだけ飲んで、適当に軽く切り上げることもできたはずなのに。1時間半もかけてコース・ディナーをとるなんて、どう考えたって時間の無駄じゃないか。そしてまた、どうして最後の最後になってそんな話を持ちださなくてはならなかったのか?」と。
続けて男はいいます。「好奇心が抑えられなかったのだと思う」「君のような不器量な女性がどんなことを考えているか、不器量だという事実が君の人生にいかなる影響を与えているか。たぶん僕はそういうことを知りたかったのだろう」。さらに男は、そしてその好奇心は満たされたのかしらという夏帆の心をまた読むように「そしてその好奇心は満たされたか?」といいます。
まるでありくいがその細長い舌の先でシロアリの巣ををきれいに舐め尽くすみたいに--自分の心の動きを瞬時に残らず読み取っているような不気味な男を前にして夏帆はなぜか実物のありくいを連想します。そこで思い浮かべたのは黒くて大きな雌のありくいです。そしてそのありくいは夏帆に向かって問いかけます。あなたはこんなところで何をしているの?と。
そんな益体のない連想を夏帆が繰り広げているうちに、男は「いや、満たされていない」とひとりで勝手に結論に達し、ウェイターを呼び、勘定を済ませ、夏帆に軽く会釈をして去っていきます。そのあとには、夏帆と(比喩としての)雌のありくいだけが残されることになります。
* 本作の主人公は誰か?
本作の特設サイトを見ると「女性を主人公にした初の長編小説」というキャッチコピー(?)が置かれています。意外な感もしないでもないですが、確かに『スプートニクの恋人』(1999)のすみれや『アフターダーク』(2002)の浅井マリなど事実上、女性が主人公であるともいえそうな作品も過去にはあるにはありますが、形式的には前者の主人公は男性の語り手である「ぼく(K)」であり、後者の主人公は不可視の語り手である「私たち」となっています。
では、ここにきてなぜ名実とともに女性を主人公したのでしょうか?ここでは穿った見方とシンプルな見方の両方を示しておきたいと思います。まず穿った見方として本作の「真の」主人公とは本作の冒頭で夏帆を侮辱する「モーターサイクルの男」こと佐原であるというものです。どういうことでしょうか?
この点、宇野氏は比較的近著である『砂漠と異人たち』(2022)においても再度村上作品を論じています。ここでも『リトル・ピープルの時代』と同様に「デタッチメントからコミットメントへ」の転回とその挫折が語られることになりますが、その一方で同書はその村上論を締めくくるにあたり「おそらく、村上は行き詰まりに自覚的だ」といい、その「迷い」が端的に現れた作品として2014年に公刊された短編集『女のいない男たち』をあげています。
この短編集はタイトルにあるように妻や恋人のいない、もしくはそうした女性に去られようとしている男性たちの物語を集めたものです。しかし宇野氏はこの短編集に相応しいタイトルは『男のいない男たち』だと主張します。なぜならばこの短編集に収録された作品は基本的に何らかの理由で魅力的な男友達と仲良くなるけどうまくいかないという物語だからです。
例えば「ドライブ・マイ・カー」では妻を亡くした主人公の男が妻の生前の浮気相手の男性に興味を持ち、ちょっとした復讐を企てて近づいていきます。主人公にとって彼は器量がよく、裏表もない好人物ですが「たいしたやつじゃない」人物とみなされます。しかしその凡庸さが主人公の内省を適切に促すことになります。
あるいは「イエスタデイ」「独立器官」にはそれぞれの事情からエキセントリックな言動を見せる男性の友人が登場します。「イエスタデイ」では幼馴染でもある恋人と大人になってから距離を測り直すことができず、そのために性的な関係を結ぶことのできない若者が登場し「独立器官」にはある独身主義者のプレイボーイを気取る中年の紳士がある人妻に心を奪われ、心身ともに衰弱していくさまが描かれます。
彼らの逸脱的な言動はこれまでの村上春樹的主人公には不可能です。それは村上春樹的主人公がこうした逸脱を見せた時、その男性的ナルシシズムは破壊されてしまうからです。それゆえに『女のいない男たち』ならぬ『男のいない男たち』において村上春樹的主人公たちは自分の「鏡」としてこのような男性たちを必要とします。「そう、村上春樹はここで自分の代わりにこれまで彼が築きあげてきたナルシスティックで、男性的な規範から逸脱してくれる男の友人を求め始めているのだ」。
もちろんこうした傾向は今に始まったことではありません。そもそも村上氏はデビュー作である『風の歌を聴け』から始まる初期三部作において新たな時代に適応していこうとする主人公である「僕」の傍らに、時代に取り残された存在である「鼠」を友人として配置し、彼が失われることで逆説的に主人公の選択が肯定されるという構造から出発しています。その後も村上作品においては初期三部作の続編である『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)や比較的近年の作品である『騎士団長殺し』(2017)においてもやはり「鼠」のように主人公の「鏡」のような存在として「五反田くん」や「免色」といった男性の友人が登場します。
このように村上作品では多くの場合は、男性の友人は主人公より劣った人物として、あるいは歪みや欠落を抱えた人物として描かれます。彼らは主人公に概ね好意を持って接触し、主人公は彼の存在に多かれ少なかれ、何らかの形で救われます。しかし主人公は彼を尊敬することはなく、主人公は彼を遠ざけるか、彼らが主人公から遠ざかることになります。ここには同性の友人に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがないまぜになった感情として描かれていると、宇野氏は述べています。
こうした中で『女のいない男たち』における実質的な最後の作品になる「木野」だけはやや事情が異なっています。ここでは主人公の経営するバーの常連としてカミタという男性が登場します。このカミタは従来の村上作品おいてもっぱら女性キャラクターが担ってきた現実の世界ともう一つの世界(異界)を結ぶ蝶番的な存在として描かれます。すなわちここで村上氏は男性キャラクターを従来のような「鏡」ではなく、世界につながるための「蝶番」として位置付け直そうとしているようにも思えます。
こうしてみると本作もまた、この『女のいない男たち』と似たような発想に立脚しているのではないでしょうか。つまり本作における佐原もまた、従来の村上春樹的主人公から逸脱した存在としての男性キャラクターの系譜に連なっているということです。そうであれば本作においては、このような村上春樹的主人公から逸脱した存在であり、もっといえばこの令和の世においては完全に政治的に正しくない存在というしかない佐原という特異なキャラクターを従来のように遠ざけることなく真正面から対峙して描き出すために、逆算的に夏帆という女性主人公が設定されたという読みもありうるでしょう。
これに対してシンプルな見方としては、とりあえず短編の主人公として描いてみた夏帆というキャラクターが思いのほか魅力的に動くので、その続編を書いて長編に仕立て上げたというものです。本書の第一章に相当する部分が2024年5月に「夏帆」というタイトルで文芸誌「新潮」に掲載された後、約1年の間をおいて第二章、第三章、第四章に相当する部分が同誌に断続的に掲載されたという経緯を見てみると、こうした見方も充分に成り立つように思われます。いずれにせよ夏帆は「女性を主人公にした初の長編小説」という看板を背負うに相応しいキャラクターとして描かれています。そんな夏帆が本作の中盤以降にいよいよ直面するテーマが「母殺し」です。
*「母殺し」の諸相
一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。この点、三宅香帆氏は近著『娘が母を殺すには?』(2024)において小説、漫画、ドラマ、映画といった、さまざまなフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が「母殺し」を達成するための方法を見出そうとします。
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう「母殺し」とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
もちろん親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では「父殺し」と呼んできました。最初にこのような「父殺し」という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトはソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が「父殺し」という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を「殺す」必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として「父殺し」が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における「母殺し」を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
もっとも「父殺し」と「母殺し」ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが「父殺し」の原理です。これに対して「母殺し」の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに「母殺し」の難しさがあるわけです。
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な「母殺し」のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ「母殺し」の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス』(1972)で展開した欲望観に求めた上で、千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)における解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
* 物語を制作するということ
もっともこのような三宅氏が整理する「母殺し」のモデルに照らし合わせてみると、本作において夏帆が遂行する「母殺し」はやや特殊な位置にあることがわかります。まず夏帆は絵本作家として精神的にも経済的にも自立しており、母親の規範に縛られておらず、すでに「母娘関係の脱構築」としての「母殺し」を通過した地点に至っているとみられます。
では、本作において夏帆が殺そうとする「母」とは一体、何なのでしょうか?物語の中盤、実家に帰った夏帆は母親の言動や身なりが以前とまったく違ってきていることに気が付きます。そして以前とは比べ物にならないほど活動的になった母親と反比例するように夏帆の父親は急速に老いを深めていっていました。果たして夏帆の母親には「シロアリの女王」が取り憑いていることが判明し、夏帆は母親(と父親)を救うためにこの「シロアリの女王」へのコミットメントを余儀なくされます。
かつて村上氏が描き出した「壁=悪」とは『ねじまき鳥クロニクル』におけるワタヤ・ノボルや『1Q84』における教団さきがけのリーダーのように「タテのヒエラルキー」で個人を支配するカルト的な「父」でしたが、本作における「壁=悪」であるシロアリの女王は「ヨコのゾーン」で個人を支配する環境としての「母」であり、それはまさしく現代において「リトル・ピープル」の上に君臨する「母性のディストピア」に他ならないといえるでしょう。そうであれば村上氏は本作において「壁=悪」へのコミットメントを「母殺し」というモチーフによって更新しようと試みているといえるでしょう。
そして本作におけるコミットメントの基盤となるのが「物語」の力です。夏帆はシロアリの女王との対決と並行してミソラという10歳の少女を主人公とする絵本「ミソラの物語」を紡ぎ始めます。家族と一緒にハイキングで森の奥に来たミソラは昼食後、深く眠り込んでしまい、目覚めた時は一人ぼっちになっていました。自分はおそらく家族に捨てられたのだとミソラは思います。しかしなぜ?いずれにせよあたりが暗くなる前にどこか安全に夜を過ごせる場所を探さなければなりません・・・このような場面から立ち上げられる夏帆の紡ぐ「ミソラの物語」はやがて現実と奇妙な形でリンクし始める事になります。
こうした「物語」を基盤とするコミットメントのアプローチは既に『1Q84』において提示されています。同作においては「ふかえり」という不思議な少女が書いた「空気さなぎ」という物語をリトル・ピープルに対抗する抗体として位置付けています。もっとも本作では物語そのものではなく、物語を紡ぎ出すプロセスとしての「制作」に重心が置かれています。換言すれば本作は現代における「壁=悪」である「母性のディストピア」に対して物語を「制作」する力で抗おうとするものであるといえるでしょう。
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントはその主著『人間の条件』(1958)においてよく知られるように人々がおこなうさまざまな営為を「労働 labor」「制作 work」「活動 action」という三つの大きなカテゴリーに分類し、これらを総称して「活動性 activity」と呼んでいます。
ここでいう「労働」(とその産物である「消費」)とは人間が自分の生命を維持するためのもっとも基本的な活動性であり「制作」とは人間が個人の生存を超えた永続的な「世界」を創り出すための活動性であり「活動」とは人間が言論によって他者に働きかけ、この「世界」をよりよいものとしていくための活動性です。そしてアーレントはこれらの中で「活動」を重視した、と一般的には理解されています。
しかしながらプラットフォーム資本主義におけるアテンション・エコノミーの下でエコーチェンバーやフィルターバブルが加速する一方でフェイクニュースや陰謀論が蔓延する現代における情報環境においては、こうしたアーレントが提示した(とされる)「活動」の優位という序列は揺らぎをみせています。こうしたことから、近年においてアーレントの思想は「制作」という観点から読み直されつつあります。
例えば東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023)においてアーレントの示す「公共性」の定義を手がかりとして「活動」は「開放性」としての「公共性」に結びつくとしつつも、その一方で「制作」を「持続」としての「公共性」を結びつける議論を展開しています。また宇野氏も『砂漠と異人たち』において現代における情報環境の病理を「相互評価のゲーム」と名指し、その続編である『庭の話』(2024)においてこうした「相互評価のゲーム」に抗う拠点としての「庭」における事物の「制作」を軸とした「人間の条件」のアップデートを試みています。
こうした観点からいえば本作も「母殺し」というモチーフから今日の情報環境におけるコミットメントのあり方を「制作」という観点から更新し、現代における公共性と人間の条件を多角的に描き出そうとした物語であったといえるでしょう。そして同時に本作の最大の魅力は、どこかユーモラスな語り口でありながらも、まるで夏の昼下がりに食べる西瓜のように歯切れよく瑞々しいその文体にあったように思えました。本作は現代日本を代表する不世出の作家、村上春樹のこれまでにない新境地を拓く一冊であるといえるのではないでしょうか。



