*〈母〉なるものという病理
臨床心理学者の河合隼雄氏は『母性社会日本の病理』(1976)において、ある社会や文化の持つ特性は父性原理と母性原理という相対立する二つの原理のバランスの取り方に規定されているとして当時、急増しつつあった登校拒否症やわが国に特徴的ともいわれる対人恐怖症の背景に日本社会における母性原理の優位性を指摘しています。
ここでいう父性原理とはすべてのものを主体と客体、善と悪、上と下などに分類=切断していく機能を持っています。これに対して母性原理とはすべてのものを包摂していく機能を持っていますが、ここには「生み育てる」という肯定的な側面と「呑み込む」という否定的な側面があります。
このような母性原理における二面性は世界各国の神話や昔話の中にも聖母や魔女といった形で現れており、このことに注目したスイスの精神科医カール・グスタフ・ユングは人の心の深層域に〈母〉なるものの元型を仮定し、このような元型を〈グレート・マザー〉と名付けました。こうした意味で日本社会における精神性はその無意識下において〈母〉なるものによって極めて強く規定されているということです。
こうしたことから戦後日本の文芸批評において〈母〉なるものの克服は大きなテーマでした。例えば古くは江藤淳氏が『成熟と喪失』(1967)において当時の文学的潮流のひとつを成していた安岡章太郎氏や庄野潤三氏など「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品を読み解く中で戦後日本における〈成熟〉の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張しました。
また近年においても宇野常寛氏が『母性のディストピア』(2017)において「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本における「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託からなる仮初めの〈成熟〉を「母性のディストピア」と名指し、宮崎駿氏、富野由悠季氏、押井守氏といった戦後アニメーションの巨匠たちの作品の読解を通じて現代の情報環境の中でますます肥大化する「母性のディストピア」の解除条件を論じています。
もっとも従来の議論ではもっぱら「母と息子」の関係における男性的な成熟が念頭に置かれていました。しかしながら、一般的にも「娘と母の関係はこじれやすい」としばし言われるように〈母〉なるものの呪縛はむしろ「母と娘」の関係においてより強力に現れることがあります。なぜ母娘関係は複雑になってしまうのか?どうしたらこの複雑さを解消できるのか?このような問いについて小説、漫画、ドラマ、映画などざまざまなフィクションを通じて考察した一冊が本書『娘が母を殺すには?』です。
* フィクションの中に読み解く〈母殺し〉
本書は母娘関係を主題としたフィクションを読み解く本です。一般的に母と娘の関係はこじれやすく複雑なものになりやすいと言われています。こうしたことから多くのフィクションの中でも娘が母に向ける葛藤がしばしば描かれてきました。そこで本書はこうしたフィクションの読解を通じて母との関係に苦しむ娘が〈母殺し〉を達成するための方法を見出そうとします。
もちろん言うまでもないことですが、ここでいう〈母殺し〉とはあくまでも精神的な位相において行われるものであり、それは端的にいえば「母の規範の無効化」を意味しています。この点、一般的に母は娘にとってもっとも近しい「規範」を与える存在であるとされています。ここでいう「規範」とは人間の欲望の方向性を決めたり、制限をかけたりするものをいいます。
こうした意味で母は娘の欲望に制限をかけ、例えば「周囲から可愛がられる子になれ」とか「結婚したほうが幸せになる」とか「学歴をつけて自立しろ」とか「あなたは私のケアをしなければならない」などといった様々な「規範」を与えます。一方で、娘はこのような母の規範を守って生きようとするあまり、なかには自分が母の与えた規範を守って生きていることそれ自体に気づかないような場合も多いと言われます。こうして多くの娘は母の規範の範囲内でのみ欲望するようになります。
* 成熟のプロセスとしての〈父殺し〉と〈母殺し〉
もちろん本書も述べるように親が子に規範を与えることは教育の過程で多かれ少なかれ必要なことであり、子どもの欲望のままにしていては取り返しのつかない事件や事故が起こる可能性があります。親が子の欲望に適切な制限をかけたり、欲望の方向性を規定したりすることは子どもの健全な成長にとってある程度は必要です。しかしその上で親が与えた規範を成長の過程で子が手放すこともまた重要な行為であるといえます。
親から与えられた規範を手放すことで子が親を超越すること。これを文学の世界では〈父殺し〉と呼んできました。最初にこのような〈父殺し〉という言葉を作ったのは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトです。フロイトはソフォクレスの『オイディプス』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など古今を通じた文学の傑作が〈父殺し〉という同じテーマを描いてきたのは偶然ではなく、それは人間の成熟にとって重要なテーマだったからであるといいます。
つまり子どもが成熟して大人になるとき、その規範を無効化するため精神的な位相において親を〈殺す〉必要があるということです。こうしたことから従来、多くのフィクションでは息子の成熟の物語として〈父殺し〉が繰り返し描かれてきました。それゆえに娘もまたその成熟のプロセスの中で精神的な位相における〈母殺し〉を行う必要があるのではないかと本書はいいます。
*〈母殺し〉の難しさ
もっとも〈父殺し〉と〈母殺し〉ではその原理が異なります。両者の差異は父の与える規範と母の与える規範の差異から生じます。この点、父性原理は父が頂点に立つタテの規律であり、この父の規律から外れた人間は罰せられます。だからこそ子は父を乗り越えることで新たな規律を生み出す側にまわることができます。これが〈父殺し〉の原理です。これに対して〈母殺し〉の前提にある母性原理は子は全員ヨコの平等の関係にあり、母の規範の範囲内にいる限り子は優しく平等に愛されます。しかしながら子が母の規範の外に出ることは決して許されません。
つまり、父は強さで子を支配しますが母は愛情で子を支配し、父はタテのヒエラルキーで規範をつくりますが、母はヨコのゾーンで規範をつくるということです。そのため父の規範は子が強くなれば倒すことができますが、母の規範は子がその愛情を拒否することでしか逃れることはできません。ここに〈母殺し〉の難しさがあるわけです。
この点、本書は〈母殺し〉の難しさの理由として「母と娘が密着しやすい構造」の存在をあげ、このような母子密着の要因として臨床心理士の信田さよ子氏の議論を援用して⑴夫婦間のディスコミュニケーション⑵娘の経済的/育児リソースの貧しさ⑶母のキャリアに対する罪悪感という3点を挙げています。
もっとも、ここで挙げられる3つの要因はいずれも男性が家の外で働き女性が家のなかで家事や育児に従事するという専業主婦文化を前提とした戦後中流過程モデルを前提としています。ではこうした戦後中流家庭モデルが一般的なモデルではなくなった現在においては母娘密着の問題はすでに解消されているのかというと、本書はそうはなっていないといいます。
すなわち、現在においても母が息子に与える規範と娘に与える規範は異なっており、母にとっての娘はケアの対象というよりも自分と対等なケアの主体であり、そうした期待の視線のもと、いつの間にか母をケアする娘が誕生し、母子密着は永遠になるということです。
* 母娘関係の脱構築
こうした視点から本書は小説、漫画、ドラマ、映画といったさまざまなフィクションから抽出した「母の代替となるパートナーを得る」「母を嫌悪する」「自ら母になる」といった様々な〈母殺し〉のモデルを検討した上で、そのどのモデルもむしろ〈母殺し〉の困難を浮き彫りにするものであるといいます。ここから本書は母と娘の二項対立から離れることで複雑な関係性を取り戻す「母娘関係の脱構築」を提案します。
こうした「母娘関係の脱構築」における理論的な基盤を本書はポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『アンチ・オイディプス(以下、AOと略)』(1972)で展開した欲望観に求めています。ここで本書は千葉雅也氏の『現代思想入門』(2022)におけるAO解釈を参照し、家族関係とそのほかの多様な関係をダブルで考えることで母の影響を相対化させることを提案します。
つまり本書のいう「母娘関係の脱構築」とは位相の異なる二つの欲望観の並立であると考えられるということです。この点、千葉氏は『意味がない無意味』(2018)所収の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考においてこのような位相の異なる二つの欲望観を精神分析的な見地から「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望」と呼んでいます。
ここでいう「神経症的な欲望」とはフランスの精神分析家ジャック・ラカンによる「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼで示されるような間主観的ネットワークに理由づけられた欲望であり、その究極的な理由は千葉氏のいうところの〈性別化のリアル(事実上刻まれた性差のあり方)〉に帰着します。これに対して「別のしかたでの欲望」とはドゥルーズ=ガタリがAOにおいて言祝いだ理由なく多方向にどうでもよく発散する複数的な欲望に由来しています。そして千葉氏はこの両者を「メタ倒錯(倒錯の強い定義)」と呼ぶ論理によって互いに分離したまま無関係で並立する状況としてAOを解釈します。
すなわち、本書のいう「母娘関係の脱構築」とは精神分析的な見地からは千葉氏のいう「神経症的な欲望」と「別のしかたでの欲望=理由なく多方向にどうでも良く発散する複数的な欲望」が互いに分離したまま無関係に並立する「メタ倒錯」として位置付けることができるのではないでしょうか。そうであれば「母娘関係の脱構築」とは母娘関係をめぐる「神経症的欲望」とは無関係に並立する「別のしかたでの欲望」を導入することで、むしろ母と娘のあいだに従来とは異なる新たな関係性を創り出す契機であるともいえます。
そして精神分析的な見地からさらに付け加えるのであれば、ここでいう〈父〉や〈母〉や〈息子〉や〈娘〉という概念は生物学的な性別とイコールで捉えるべきではなく、1人の人間の中に〈父〉と〈母〉が、あるいは〈息子〉と〈娘〉が共存するような状況も想定できるでしょう。さらには宇野氏が『母性のディストピア』で論じているように現代の肥大化した情報環境を〈母〉のメタファーから捉えることもできるでしょう。こうした意味で本書の議論は狭義の母娘論を超えた極めて広い射程を持っているようにも思えます。
