* 勉強の哲学(2017年)
⑴ 自由になるための自己破壊としての「深い勉強」
日本における現代思想シーンを牽引する哲学者の1人である千葉雅也氏はフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズを論じた著作『動きすぎてはいけない』(2013)で鮮烈なデビューを果たして以来、今日に至るまで一貫して「有限化」をキーワードとした独創的かつ実践的な哲学を展開しています。こうした千葉哲学への入門書となる一冊が本書『勉強の哲学』です。
本書は受験勉強や資格試験や生涯学習などといった人生における何かしらの局面において「勉強」が気になっているすべての人を「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」へと誘う本です。まず本書は「勉強」の本質とは人が「自由」になるための「自己破壊」であると規定します。すなわち、人がその生において多様な可能性を開いていく上では、これまでの自分を壊していく必要があるということです。そして、こうした「自由」とは自身が現在置かれた「環境」に「いながらにして距離を取る」ことから生じるものであると本書はいいます。
ふつう我々は日々、学校や会社や家庭といったある一定の「環境=他者関係」の中で「こういうもんだ」というある種のお約束に従って生きています。このようなお約束を本書は「環境のコード」と呼び、こうした「環境のコード」への依存を本書では「ノリ」と呼びます。そして、こうした「環境のコード」から生じる「ノリ」から「自由」になるための鍵として本書は「言語」に注目します。
そもそも人は「言語」を通じて特定の環境におけるノリを身につけます。けれども「言語それ自体」はこの現実(と思っている世界)とは異なる秩序に属してます。つまり、ある環境における言語の意味づけは必然的ではなく、その「意味」はいつでもバラしてしまうことが可能であるということです。こうしたことから本書のいう「深い勉強」とは言語の持つ解放的な力について考えるところから始まります。
この点、いわゆる一般的にいう「勉強」とはある「ノリ」から別の「ノリ」へ引っ越すという事を意味しています。これに対して本書は、このような「ノリ」と「ノリ」の「あいだ」に注目します。そこには「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての「言語」があります。そして本書はこの「ただの音」としての「言語」を様々な意味を生み出す可能性を秘めた「器官なき言語」と呼びます。
通常、人はある環境の中で言語を「道具的」に使用しています。しかし、そのような環境から切り離された時、人は言語を「玩具的」に使用できるようになります。すなわち「深い勉強」とはこうした意味での「言語」との出会い直しによって、これまでの環境のノリを引き剥がし、自己目的的なノリを獲得する「自己破壊」を目指す営みになるということです。
⑵ アイロニー・ユーモア・享楽
そして、このような本書のいう「深い勉強」は「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とする「勉強の三角形」によって成り立っています。
まず、ここでいう「アイロニー」とは、いわゆる「ツッコミ」のことです。日常の場面で生起する様々な「こういうもんだ」という「環境のコード」にツッコミを入れて、それをなるべく大きく抽象的なキーワードとして括り出して行くことで勉強のテーマを見つけていきます。
けれども、ここで注意すべきなのはアイロニーをやり過ぎないという事です。アイロニーによって「環境のコード」の根拠を疑った結果、その上位コードである「超コード」が出現し、この「超コード」に対してさらにアイロニーを入れると、さらなる「超コード」が出現するというように、そのプロセスは無限に遡行して、最終的に言語の意味づけは「無意味(言語なき現実のナンセンス)」に至ります。
そこで時に人は「アイロニーの有限化」により特定の価値観を絶対化してしまう「決断主義」に陥ります。もちろん、これは一つの精神安定のための処方箋としてはあり得るかもしれませんが、これはある種の「信仰」であって、決して「勉強」ではありません。そこで本書はこうした弊害に陥らないため「アイロニー」を突き詰める事を一旦やめて「ユーモア」に折り返すことを勧めます。
「ユーモア」とは、いわゆる「ボケ」のことです。ある「環境のコード」の中であえてボケてみることで、勉強のテーマは多重化されることになります。けれどもユーモアもやはり無限に飽和して、やはり最終的に言語の意味づけは「無意味(意味飽和のナンセンス)」を帰結します。そこで今度は思考をズレた方向に広げる「拡張的ユーモア」から思考のある特定のポイントに過度に集中する「縮減的ユーモア」に転回します。
そしてこの「縮減的ユーモア」を規定しているものが「意味」以前に自身に刻まれた偶然的で強度的な「享楽的こだわり」としての「非意味(形態のナンセンス)」です。すなわち、個々人が持つ「享楽的こだわり」がユーモアの飽和を非意味的に切断し有限化することで思考の足場をいわば「仮固定」するわけです。こうした「ユーモアの有限化」としての「仮固定」を千葉氏は「決断」との対置で「中断」と呼びます。そしてこの仮固定された享楽の場に再びアイロニーを入れていくことこそが本書のいう「深い勉強」であるということです。
⑶ そして「来たるべきバカ」へ
こうした「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とした「勉強の三角形」というべきサイクルを繰り返すことで、人は環境に振り回されるだけの「ただのバカ」ではなく、環境と距離を置きつつも上手くやる柔軟な思考を身につけた「来たるべきバカ」へと変身することができると本書はいいます。このような本書が示す「言語」から「享楽」へ旋回する「深い勉強」とはある種の自己精神分析の実践であるともいえるでしょう。
本書の後半は、上述したような前半の基礎理論を踏まえて、具体的に勉強を「有限化」する技術について詳細に述べられています。ここで述べられている諸々は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。けれども本書の提示するいわば「思考する快楽」としての「深い勉強」は我々が生きるこの世界に対する解像度を高めてくれる契機にきっとなってくれるのではないでしょうか。
* 現代思想入門(2022年)
⑴ 今なぜ現代思想か
「現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした『入門書』の決定版」とうたった本書は発売されるや瞬く間にベストセラーとなり、昨年2月には「新書大賞2023」を受賞しています。ここでいう「現代思想」とは1960年代から1990年代を中心に主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しており、2024年の「現代」からすればもはや「過去」の思想ということになります。それがなぜ、いま再び求められているのでしょうか?
この点、本書はそのイントロダクションである「今なぜ現代思想か」において現代思想を学ぶ今日的意義を述べています。それは端的にいうと、現代思想を学ぶことで「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになるということです。どういうことでしょうか?
我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」とか「ちゃんとしなければならない」といった「秩序化」が進む一方で、こうした「秩序化」に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。
こうした現代社会における「秩序化=単純化」という大きな傾向に対して、現代思想は「秩序化=単純化」から逸脱するものに注目します。その根底には例えば「多様性」とか「安心安全」などといった諸々の「政治的な正しさ」を表明する「きれいな言葉」によって過剰に「秩序化=単純化」された現代社会に対する警戒心や違和感があります。
もちろんこれは全てが無秩序な世界を称揚するものでもありません。要するに、一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で考えることこそが重要である、と本書はいいます。すなわち、現代思想を学ぶ今日的意義とは、このような「ダブルシステム」の思考法を涵養する点にあるという事です。
⑵ 二項対立と脱構築
こうした観点から本書はまず第一章〜第三章で「ポスト構造主義」の代表的思想家であるジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの思想を「脱構築」の視点から読み解いていきます。ここでいう「脱構築」とはもともとデリダの術語ですが、本書ではドゥルーズやフーコーにも脱構築的な考え方があるとして、この三つ巴を抑える事でまずは現代思想の基本的な論理操作ともいえる「脱構築的な思考」を練成します。
通常、我々は世の中の様々な物事の価値を「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった「二項対立」で判断しています。二項対立の思考は世界をシンプルなものにしますが、その一方で世界の複雑さや猥雑さの中に隠れた豊かさを見過ごしてしまうことになります。そして人は時としてのその二項対立の枠組みから他人を非難したり自分を追い詰めたりします。
けれどもこうした二項対立もよくよく見ていけば、必ずしも一方が全面的に正しくて他方が全面的に間違っているとは限らず、その境界線はかなり曖昧だったりすることもよくあります。こうした世の中でなんとなくまかり通っている二項対立を根本から揺るがしていく知の技法がデリダのいう「脱構築」です。
本書では「脱構築」の手続きを次のように説明しています。
①まず、二項対立において一方をマイナスとされる暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるだけではありません。②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。(『現代思想入門』より)
そして、こうしたデリダの脱構築(概念の脱構築)から「世界」を見晴るかすのであれば、全ての事象は「同一性/差異」という二項対立を超えて縦横無尽に接続され(かつ切断されながら)展開していくというドゥルーズの存在論(存在の脱構築)となります。さらにこのようなドゥルーズの存在論から「社会」に折り返すのであれば、近代社会における権力関係とは「支配者/被支配者」という二項対立ではなく支配者と被支配者相互の多方向の関係性として展開しているというフーコーの権力論(社会の脱構築)となります。そして、そこから人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理が提示されることになります。
⑶ 現代思想のつくり方
その後、本書は第四章で現代思想の源流まで遡り、続く第五章では現代思想の隣接領域ともいうべき精神分析に光が当てられます。そして特筆すべきはこれまでの総まとめとなる第六章、その名もずばり「現代思想のつくり方」です(なかなか挑発的なタイトルです)。
ここでは恐るべきことに、多様多彩な(はずの)現代思想の理論が「⑴他者性」「⑵超越論性」「⑶極端化」「⑷反常識」という四原則からなるある種のパターン(!)に還元されてしまいます。ここからさらに第七章ではある種の応用編としてフランスにおける「ポスト・ポスト構造主義」と日本における現代思想の比較検討を通じて「近代的有限性」のオルタナティブとしての「古代的有限性」が論じられることになります。
本書一冊で現代思想に入門するための基礎的素養をほぼ手に入れることができると思います。本書は「入門のための入門」という謙虚な位置付けになっていますが、随所ではかなり高度な内容にもさりげなく平易な言葉で踏み込んでおり、現代思想をひととおり抑えた中級者以上にも絶対にお勧めできる本であるといえます。
* センスの哲学(2024年)
⑴「センス」を育てていくということ
本書のテーマは「センス」です。「センス」などという一見してとらえどころのない言葉には例えば「あの人、がんばっているけど、センス悪いんだよね」というように、どこかトゲのある排他的な響きが含まれています。つまり、ある意味で「センス」とは努力ではどうしようもない部分のことを指していたりもします。
けれども、本書は「センス」とは努力ではどうにもならないものとは考えず、むしろ人を解放し、より自由にしてくれるようなものとして「センス」なるものを捉え直し、このような意味での「センス」を楽しみながら育てていくことを目指します。
本書は「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、音楽、ファッション、インテリア、美術、文学などなどといった様々な領域においてこの「直感的にわかる」を広げていきます。本書は一種の芸術論ですが、狭い意味での芸術だけを論じるのではなく、その狙いは芸術と生活とつなげる感覚を伝えることにあるといいます。
⑵ 意味からリズムへ
まず本書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで本書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると本書はいいます。
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を即物的に捉えるということです。
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています(ここでいう「強度」も「反復と差異」もいずれもドゥルーズに由来する用語です)。そして、こうした「リズム」とは大体において多層的なもの、マルチトラック的なものとして現れます。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると本書はいいます。
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが本書のいうリズム経験であるということです。
⑶ さまざまな「有限化のかたち」に触れるということ
こうしたことから本書は作品における核心的なメッセージといった「大意味」ではなくその背後に騒めく様々な「小意味」のリズムのうねりに注目するモダニズム的な見方を提示し、さらに「意味」それ自体も「脱意味化」してしまい、ただの形としての「リズム」として捉えるフォーマリズム的な見方を導入します。
そして本書は芸術作品における「感動」について大意味に対する「大まかな感動」とは別の小意味のリズムの絡み合いの構造に対する「構造的感動」という概念を提唱します。つまり「センス」とは喜怒哀楽を中心とする「大まかな感動」を半分におさえて、色々な部分の面白さに注目できる「構造的感動」ができることになるということです。そのためには日常において生起する小さなささやかなことをきちんと言語化していく練習が必要となってくるわけです。
ここから本書は後半部においてリズム経験から生じる「差異=予測誤差」をキーワードにセンスの「良さ」についての考察を深めていきます。そして、このようなさまざまな偶然性に開かれたリズム経験を「仮固定」して「有限化」するということが作品を創るということです。つまりさまざまな芸術作品に触れるということは自分には思い付かないようなさまざまな「有限化のかたち」を知る契機となるということです。
* 動きすぎてはいけない(2013年)
⑴ 生成変化の哲学
第二次世界大戦後、長らく思想や文化における知的流行の最先端を担ったフランス現代思想の軌跡は一般的に「構造主義」から「ポスト構造主義へ」という流れで理解されています。1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
こうして1960年代中盤には構造主義の栄華は頂点に達しましたが、1960年代後半になると今度は「構造」それ自体に内在する構造を不安定化させる綻びから「構造の変化」を考えようとする「ポスト構造主義」という思潮が台頭し始めます。そして、こうした「ポスト構造主義」の思潮の中でもっとも大きなインパクトを放ったのがジル・ドゥルーズが立ち上げた生成変化の哲学です。
ドゥルーズの名はとりわけ精神分析家フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』(1972)によってフランス内外に衝撃を与えた事で知られています。同書は68年5月にフランスを揺さぶったいわゆる「5月革命」を駆動させた多様多彩な欲望を根源的に究明し、1970年代の大陸哲学において最大の旋風の一つを巻き起こしました。そして同書が提示した多様多彩な欲望のあり方はその続編となる『千のプラトー』(1980)において「リゾーム」という概念へと昇華されることになります。
ここでいう「リゾーム」とは「ツリー」に対する概念です。これまでの社会(近代)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー(樹木)」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム(根茎)」によって言い表せるということです。
ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが近代を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ=ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となりました。これが一般的な「いわゆるドゥルーズ」のイメージです。
そして、こうした「いわゆるドゥルーズ」は1980年代の日本において熱狂的に歓迎されました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の『構造と力』(1983)と『逃走論』(1984)です。これらの著作において浅田氏はドゥルーズ=ガタリに倣い近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へという生き方の転換を勧めます。こうした氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ・パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。
⑵「接続の原理」と「非意味的切断の原理」
本書はこうした従来の「いわゆるドゥルーズ」のイメージに対して一石を投じ、晩年のドゥルーズによる「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を導きの糸としてドゥルーズ哲学においてこれまで見逃されてきた面に光を当て直していきます。
この点『千のプラトー』における「リゾーム」の第一原理とはあらゆる事物が特権的な中心点を持たずに関係してあっていく「接続の原理」であり「いわゆるドゥルーズ」もまたこのような「接続の原理」から捉えられてきました。ところが『千のプラトー』においては「接続の原理」の裏に「非意味的切断の原理」が見え隠れしています。
ここでいう「非意味的切断」とは『千のプラトー』によれば「あまりに意味を持ちすぎる切断に対抗するもの」であるとされます。この点、本書は「哲学は、たいていは、絡まったものごとに有意味な切断をして、ものごとを理解するための営みであると思いなされている」が「意味を持ちすぎる理解ではない別のしかたで分かってしまうこと。このことを、改めて哲学しなければならないと思われる」と述べています。
つまり「ツリーからリゾームへ」の生成変化とは、まずツリーからリゾームへのイロニー的な切断(切断A)があり、さらにそのリゾーム自体のユーモア的な切断(切断B)があるということです。いわば浅田氏のいうところの「逃走」は二度加速する事になるわけです。
ここで本書は「いわゆるドゥルーズ」を〈接続的ドゥルーズ〉と呼び、これに〈切断的ドゥルーズ〉を対置させます。本書によれば〈接続的ドゥルーズ〉の背景には、存在全体の連続性における差異化のプロセスにあらゆる事物を内在させるベルクソン/スピノザ主義があり〈切断的ドゥルーズ〉の背景には、デビュー作の『経験論と主体性』以来、再浮上を繰り返すヒューム主義があるとされます。
そこで本書はその前半においてドゥルーズの哲学史的背景を丁寧に遡り〈接続的ドゥルーズ〉に対する〈切断的ドゥルーズ〉を際立たせた上で、その後半において「切断されながらの再接続」としての「個体化=器官なき身体」が論じられます。
⑶ 生成変化における「節約」
従来より様々に語られてきた「いわゆるドゥルーズ」の魅力とは「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれども本書によればドゥルーズはこのような華やかさと危うさの裏で「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という「慎重さ」をも求めていたということです。
あらゆる生成変化する事物が渾然一体となった「めちゃくちゃ」においてはもはや新たな生成変化は起こりようがありません。すなわち「或るめちゃくちゃ」から「別のめちゃくちゃ」へと持続可能な生成変化を行う上では、あらゆる事物への「接続過剰」の手前で「いい加/減な切断=非意味的切断」を行う「節約(エコノマイズ)」が必要となるということです。
そして、このような本書が打ち出す「存在の有限化」というべき「接続過剰から非意味的切断へ」という存在論的運動は、その後「知性の有限化(勉強の哲学)」という局面において「アイロニーからユーモアへ」として語られ「理性の有限化(現代思想入門)」という局面において「近代的有限性から古代的有限性へ」として語られ「判断力の有限化(センスの哲学)」という局面において「意味からリズムへ」として語られているように思えます。
* エレクトリック(2023年)
よく知られているように千葉氏は哲学者としての顔のほかに小説家としての顔も持っています。これまで公刊された単行本の表題作三作は何とすべて芥川賞候補にノミネートされています。これらの三作を合わせて千葉氏は「私小説の脱構築三部作」と呼んでいます。
まず千葉氏の小説デビュー作『デッドライン』(2019)ではフランス現代思想を専攻するゲイの大学院生の日常が描かれます。主人公は修士論文のテーマをポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズに決めたもののその執筆過程において「動物への生成変化」という問題に突き当たります。ドゥルーズ(&ガタリ)は『千のプラトー』において支配的なマジョリティとしての「男性」からの逃走線として「動物への生成変化」と「女性への生成変化」を言祝いでいましたが、ここで主人公は「動物になること」をむしろ「男になること」へ引きつけて考えようとしています。けれども『千のプラトー』の枠内では支配的存在である「男性への生成変化」は想定されていないわけです。このような「テクストの現実」で主人公が立ち止まっているうちにみるみると修論の締切--デッドラインが迫ってきます。
この点、千葉氏は『動きすぎてはいけない』においてドゥルーズ&ガタリにおける生成変化とは「同一性」から逃走し匿名化(脱規定化)された〈知覚しえぬもの〉への生成変化であり、さらにここでいう〈知覚しえぬもの〉とは単一の「万物斉同」への匿名化ではなく「女性」「犬」「ネズミ」といった具体的な名辞によって示される複数的な匿名化を意味しているという解釈を提起していますが、こうした生成変化の複数性を言祝いでいくような解釈の背景にはもしかして上記のような問題意識があったのかもしれません。こうした意味で『デッドライン』という小説は『動きすぎてはいけない』の事実上の序説としても読めるでしょう。
次にこの『デッドライン』の事実上の続編が『オーバーヒート』(2021)です。紆余曲折を経て博士論文を書き上げ東京での学生生活を終えた主人公は京都の私立大学に准教授として着任し現在(2018年)に至っています。主人公はドゥルーズを論じた最初の著作『犠牲なしで節約すること』を公刊した後、どこか研究に行き詰まりを感じてしまっている一方でツイッター上で気鋭の論客として注目された事がきっかけであちこちにエッセイを書くようになり、今ではむしろそっちの方が本業になりかけています。もちろん主人公は学者としてのキャリアを軽んじてはおらず、今月頭から『現代思想入門』という往年のフランス現代思想を解説する入門書の執筆に取り組んでいますが、やはり原稿はあまり捗らず、今日も彼はiPhoneからツイッターを開くのでした。
この時、ツイッターでは数日前から自民党女性議員の「LGBTといった人々はやはり普通ではない」という発言が炎上し「#LGBTは普通」というハッシュタグが出回っていました。これに対して主人公は「同性愛はやはり「倒錯」である。異常と言ってもいい」などとツイートします。ゲイである主人公は数年前にツイッターでカミングアウトをしていますが、それは一般社会の関心となり始めていた同性愛の「社会的包摂」を当事者の立場からさらに押し進めるためとかではなく、むしろその「逆をいくため」であったといいます。彼はいまやリベラルで先進的だと見られたければLGBTを支持「しさえすればよい」という世間の空気に苛立っていました。
このように同作は一見して反ポリティカル・コレクトネス的な立場を打ち出しているようにも思えます。けれども千葉氏は『欲望会議「超」ポリコレ宣言』(2018)においてポリティカル・コレクトネスの理念は重要だが今日のポリコレ的な要求は必ずしもその理念に適うものではなく、むしろ反ポリコレ的とさえ言えるところがあるとして、ポリティカル・コレクトネスの再発明としての「超ポリコレ」を提唱しています。そして『現代思想入門』においても氏は秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で思考することを勧めています。こうした意味で同作は「超ポリコレ」を「ダブルシステム」で思考するとは如何なることかを問い直した作品であったように思えます。
そして、このような『デッドライン』や『オーバーヒート』の事実上の前日譚ともいえる作品が本作『エレクトリック』です。
⑵ 時に、西暦1995年
本作のあらすじはこうです。主人公の高校2年生、志賀達也は栃木県宇都宮市で祖父母、両親、妹と暮らしています。達也は進学校に通う生徒で文系科目は優秀ですがスポーツと理系科目が苦手であり、それはつまり「男らしいもの」が苦手なのだと、彼は認識していました。その一方で達也は美術に高い関心を抱いていますが、その将来性の乏しい関心をどうしたらいいのかわからないままでいました。
また同様に、同性に対する関心もわからないままです。達也が「男らしいもの」への嫌悪を募らせていくと、あるところでそれは強烈な欲望に裏返ります。彼は若い男への興味が持ち上がるたびに、それを半分認めつつも、もう半分は押し返そうとしていました。
時に、西暦1995年--阪神大震災と地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は戦後日本社会が大きな曲がり角を迎えた年でした。この点、国内批評の主要な言説は「動物の時代(東浩紀)」や「不可能性の時代(大澤真幸)」や「リトル・ピープルの時代(宇野常寛)」といった様々なタームでこの1995年を日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けています。ここでいうポストモダン状況とは社会全体をまとめ上げる「大きな物語」が失効して個々の「小さな物語」が乱立する時代状況をいいます。
もっとも、こうした分析は後の時代から1995年を捉え返した結果であり、当時の人々のほとんどはまさか今そのような大きな時代の変わり目に立ち会っているとは思いもよらなかったに違いありません。もちろん本作の達也もその1人であり、彼は彼なりにこの1995年を「異常な年」だと直感はしているものの、年明けに起きた神戸の震災も目下テレビを賑わしているオウム真理教関連のニュースもやはりどこか遠い非日常の出来事でしかありませんでした。しかし達也の日常にも「1995年」という「出来事」は「新世紀エヴァンゲリオン」とか「インターネット」といった身近な形で確実に侵食を始めていました。
⑶ 近代的欲望とポストモダン的欲望の並立
その一方で「エレクトリック」というタイトルが示すように、本作の「影の主役」ともいえる存在が「ウェスタン・エレクトリック」のオーディオです。そしてこのウェスタン・エレクトリックについて語る本作は〈父〉を語る物語でもあります。
達也の父は一代で立ち上げた広告代理店を経営する一方で、ウェスタン・エレクトリックのサウンドを偏愛する多趣味な人物として描かれています。達也にとって父は尊敬すべき「英雄」であり、彼は「常識の逆を行く」という父の哲学の継承者であろうとしています。けれどもその一方で達也は妹の涼子が撮った写真をめぐり広告的な観点から批評する父に対して「そういうことじゃない」と真っ向から対立したりもします。
この点、本作においてウェスタン・エレクトリックが古い時代(近代)の遺産たる「エレクトリック」だとすれば、エヴァやインターネットは新しい時代(ポストモダン)を告げる「エレクトリック」であるともいえそうです。そしてこの二つの時代をそれぞれ体現する「エレクトリック」の並立とは、達也の〈父〉を継承しようとする近代的欲望と〈父〉から離反していくポストモダン的欲望という二つの欲望の並立と重なり合っているかのように見えてきます。
この点、千葉氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義(『意味がない無意味』(2018)所収)」において、こうした二つの欲望をそれぞれ「神経症的欲望」と「別のしかたでの欲望」と名指し、その両者を後者が前者を「無効化せず否認する」という「メタ倒錯=倒錯の強い定義」で連結させています。こうした意味で本作はポストモダン状況が加速する時代に直面した思春期の少年が近代的欲望(神経症的欲望)を「無効化せず否認する」ことでその傍らにポストモダン的欲望(別のしかたでの欲望)を描き出していく生成変化の物語であるといえます。そして、ここにあるいは千葉哲学の原風景を見出すこともできるのではないでしょうか。




