かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自己治療としての批評--岩川ありさ『物語とトラウマ』

* トラウマという領域

 
戦争や災害や事件や事故といった出来事はしばし人のこころに「トラウマ」と呼ばれる深い痕跡を残します。従来、トラウマをめぐる研究は精神医学、心理学、文化人類学当事者研究といったさまざまな学問領域において多角的な視点から行われてきましたが、1980年にアメリカ精神医学会が『精神障害の診断・統計マニュアル第3版(DSM-Ⅲ)』に追加したPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)というカテゴリーはトラウマ研究において大きな転機となりました。
 
PTSDの主な症状としては⑴再体験ないし侵入(外傷的な出来事がイメージ・思考・知覚の形で反復的かつ侵入的に想起されること)⑵回避ないし鈍麻(外傷的な出来事に関連する物事を避けようとしたり興味を感じなくなったりすること)⑶過覚醒(睡眠障害、注意集中の困難、過剰な警戒、極端な驚愕反応)があげられます。これらの症状は再体験が起こるがゆえに、それを避けようと回避が起こり、回避を達成するために過覚醒に陥ってしまうという関係に立っています。
 
なおPTSDの原因は単回性の出来事のみならず反復性の出来事(例えばいじめや虐待など)が外傷となる場合もあります。その場合はべセル・ヴァン・デア・コルクらのいう「複合性PTSD」 やジュディス・ハーマンのいう「複雑性PTSD」に相当し、しばしば自傷や解離、慢性抑うつを伴うことが知られています
 
このPTSDという概念は日本においても1995年の阪神淡路大震災をきっかけとして広まり、今日においてトラウマという言葉はPTSDと強く結びつけられて理解されることが多くなりました。日本においては「心的外傷後ストレス障害」と訳されるPTSDはトラウマがもたらす苦しみを直感的に理解する上で有益な一面があることは疑いありませんが、しかしその一方でトラウマという言葉にはPTSDというカテゴリーには回収しきれない広がりが含まれています。
 
そして、このような広がりを持つトラウマという事象に対して文学の言葉はいかに向き合えるのかという問いを正面から受け止めて真摯に答えようとする一冊が本書『物語とトラウマ』です。
 

*「語りえぬもの」が語り出されるとき

本書は「心に傷を負う経験をした人びとにとって、文学や文化は生きのびるための表現となりうるのか」というひとつの問いから出発し、個人的な心理や病理に還元されがちなトラウマの問題を社会的、文化的、歴史的な事象との結びつきの中で捉え、臨床知と人文知を架橋する学際的な視点から現代日本文学を読み解いていく批評の試みです。
 
この点、精神医学や精神分析や臨床心理といった領域においては「語りえぬもの」としてのトラウマを個人の生の中に位置付けていくため自由連想法箱庭療法、絵画療法、プレイセラピーなどさまざまな技法が模索されてきました。こうした臨床における営みの中で「語りえぬもの」が語り出されるとき、そこには「物語」が生み出されることになります。
 
本書のいう「物語」とは個人の生を形作ると同時に縛り付ける枠組みでもある一方で、個人の生を規定しようとする支配的な物語のあり方を解きほぐすよりどころでもあります。そして人生のそれぞれの段階において「物語」の受け止め方は変化して、その都度新たな読み方の可能性が生まれ、それまで支配的だと思っていた物語のほつれ目に思いもよらない手がかりを発見することもあり、終わることのない読む行為のさなかで時代や社会との接点を見つけることではじめて浮かび上がる言葉があると本書はいいます。
 
このような観点から本書ではフェミニズム批評やクィア批評を手がかりとして大江健三郎氏や多和田葉子氏をはじめとする9人の作家たちの小説が論じられることになります。この点、岩川氏は「トラウマとともに生き、物語を読むことは自らのトラウマとの出会いなおしであり、再び、危機へと直面する経験でもある。それでも、私は、読むことを通じて、自分では言葉にできない記憶と向き合わざるをえなかった」といい、本書は「解釈と自伝的な要素」が結びつくところで生まれる「自伝的な研究」とならざるを得なかったと述べています。こうしたことから本書にはトランスジェンダー当事者としての視点や過去にいじめや性暴力被害を受けた経験などが反映されています。
 

* 語りかけと応答のあいだで--フェミニズム批評

 
まず本書における議論を支える大きな柱の一つがフェミニズム批評です。1960年代の女性解放運動と連動する形で醸成されてきたフェミニズム批評は性差別を鋭く暴き出す批評として登場しました。もっともその立場や目的によってフェミニズム批評の方法論は多岐にわたり、その一つとして男性作家が書いた作品を女性の観点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、あるいは、家父長制的なイデオロギーが作品を通していかに反映されているかを明らかにするという方法論があります。
 
これに対して女性の書いた作品を研究対象とする立場が「ガイノクリティックス」です。その目的は男性中心に形成されてきた伝統的な文学において黙殺されてきた女性作家の作品を発掘したり再評価する点にあります。また1970年代〜1980年代フランスのフェミニズム批評においては精神分析的見地から女性と言語との関係に注目し、女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているかが論じられてきました。
 
そして本書もショシャナ・フェルマンやエレイン・ショウォールターといった先達の言葉を引きフェミニズム批評が文学研究にもたらした革命性を高く評価しつつ、その上でフェミニズム批評を「語りかけ」と「応答」という相互行為のなかで生成される批評実践として捉え、そこには言葉や表現によって差異のある人々が作り出す暫定的な共同性を生み出してゆく批評があるといいます。
 
フェミニズム批評が明らかにしてきたように文学研究は長らく西洋中心主義、異性愛中心主義、シスジェンダー中心主義、健常者中心主義などに規定され、その中でレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーの女性たち、第三世界の女性たち、有色人種の女性たち、障害を持った女性たちは周縁的存在とされてきました。けれども、こうした多様な女性たちが「語りかけ」「応答する」という連続性や過程の中でこそ、新たに言葉が生まれ、物語が生まれるという点を本書は強調しています。
 

* 叛逆する物語--クィア批評

 
さらに本書の通奏低音にはクィア批評があります。日本語では「変な」「奇妙な」などと訳される「クィア」という言葉は、もともとは英語圏でゲイ男性に向けられた蔑称でしたが、やがて当事者たちによって戦略的に用いられるようになり、現在ではセクシュアル・マイノリティと呼ばれる当事者全体を包摂する意味を帯びるようになります。
 
このような意味での「クィア」の特質を理解するうえで重要なことは、当初からその考え方のなかに「差異の主張(セクシュアリティ/ジェンダーをめぐるあらゆる二項対立においてマイノリティ側に置かれた当事者の主体化)」と「普遍性に基づく連帯(セクシュアリティ/ジェンダーをめぐるあらゆる二項対立そのものの脱構築)」という相矛盾する二つの指向性を胚胎させていたという点です。
 
こうした視座から、これまでクィア批評は性、身体、欲望をめぐるさまざまな社会的な規範を問い直し、テクストの中に散りばめられたクィアな生存の可能性を掴み取り、特定の生が不当な扱いを受けたり、生存をおびやかされ死にさらされるような社会的状況や条件を問い直してきました。本書もまた村山敏勝氏の「クィアする」という言葉を引き、クィアに読むこととは異性愛中心の解釈に動的に介入し、別の解釈を見出そうとする実践であると同時にクィアという言葉が持っているのは、既存の規範を問い直し、規定された物語に逆らい、別の物語の可能性を断固として主張するような読み方であると述べます。
 

* 前未来形の文学

 
精神科医中井久夫氏はトラウマ的な記憶(外傷性記憶)について「静止的」で「鮮明性」で「感覚性」がある一方「文脈が不明」で「言語化が困難」であり「反復出現」するといった特性をあげています。このような断片化された記憶としてのトラウマを語るとき、どのような「時制」で語るかが重要となります。例えば過去が完了しないまま回帰してくるトラウマは単に「した」という「過去形」のみでは語りえないということです。
 
トラウマ的な記憶はそれを想起し語ることができるようになって初めて、これは自分にとって深い心の傷であったと了解できるような事後性があります。換言すればトラウマについての語りは未来において自らに起きた出来事がトラウマであったと了解し、把握することができるようになってはじめて過去になるということです。
 
そこで本書は「予感」「徴候」「余韻」「索引」という中井氏の示す世界の織りなされ方と時の移り変わり方を変奏し、トラウマを負った人が見ている世界の語り方のひとつとして「前未来形」を見出しています。ここでいう「前未来形」とは「未来のある時間に完了するであろう行為」を表現するフランス語の文法用語であり、今はないが未来には完了しているものごとを表現しうる時制です。
 
この点、クィア批評を代表する思想家の1人であるジュディス・バトラーは『戦争の枠組--生はいつ嘆きうるものであるのか』(2009)でロラン・バルトジャック・デリダの議論に応答する形で「生がはじまり維持されるための条件」として「この生は、将来において、すでに生きられた生となるだろう」という未来形と完了形が重なり合う「前未来形」が前提とされなければならないといいます。
 
そして「前未来形」は「Aが起こればBが起こる」という従属節が主節の条件となる形で記されることが多いことから本書は「この生は、将来において、すでに生きられた生となるだろう」というバトラーの言葉が可能になるのは「医療保険、公教育、住宅、食料の分配と入手可能性の解決策」などの様々な社会的・経済的条件が満たされていなければならないとして、現在の新自由主義的な政治経済体制においてこのような従属節としての社会的・経済的な条件は破壊的な打撃を受けており、生は「不安定性」のただなかにあると述べます。
 
すなわち「前未来形」の文学とは未来のある時点でトラウマ的出来事を生き延びたものが過去の自分と出会い直すような時間の表現であると同時に、その生が生きられるための社会的・経済的な条件の回復される必要性を示すものであるということです。
 

* 自己治療としての批評

 
本書はトラウマ的な出来事をめぐる新たな対話の回路を見出していくための批評の試みです。この点、岩川氏は「本書で行いたいのはまさに、研究の言葉、理論の言葉を自伝的要素とつなぐ転換であり、そのためには、自伝的要素と批評や研究を切り離さないことが重要だということである」としつつ「しかし、私は、読むこと、批評することを何よりもしたいのだ。小説と向き合うことで、自分の人生の局面を切り開くような読みの可能性を提示したいのだ」と述べ、本書を「自伝的クィアフェミニズム批評」と位置付けています。
 
かつて村上春樹氏は河合隼雄氏との対談の中で「小説を書く」ことは「自己治療的な行為」になると述べていますが、おそらく「小説を読む」こともまた同様に、読み手がテクストの中に「語りえぬもの」を語るための言葉を見出すことによりトラウマの記憶の中から--まさに「自分の人生の局面を切り開くような読みの可能性」としての--自身の物語を紡ぎ出していく「自己治療的な行為」となりうるでしょう。そして、こうした自己治療的な切り口から小説に向き合う「批評」という営みを行うにあたり、本書は確かな道標を示してくれる一冊であると思います。