かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

訂正されるコミュニケーション--佐藤俊樹『社会学の新地平』

*「社会学」の誕生とマックス・ウェーバー

 
「社会という秩序はいかにして可能になるか」を考察する「社会学」という学問は19世紀に始まりました。18世紀末に起きたフランス革命はヨーロッパの知識人に二つの革命的な考え方をもたらしました。第一に政治体制や社会秩序は変化するものであり、しかもその変化は例外的なものでも忌避すべきものでもなく、むしろ正常で望ましいものであるという考え方です。第二に政治体制や社会秩序を基礎づける「主権」とは君主でも議会もなく、究極的には人民にあるという考え方です。
 
そして、この二つの考え方は学問の世界に二つの問題を与えました。一つ目は政治体制や社会秩序はどのように、いつ、なぜ変化するのかという変化の様態、速度、根拠を明らかにするという問題です。二つ目は人民がその主権を行使するための意思決定の方法を明らかにするという問題です。こうした問題に答えるべく近代ヨーロッパでは「社会科学」が生まれ「歴史学」「政治学」「経済学」と共に「社会学」はその一角を担うことになります。
 
もっとも、この時代における「社会学」は他の学問の中の一部門という位置づけにありました。例えば「社会学」という言葉の生みの親であるとされ、社会の発展段階を「神学的・形而上学的・実証的」という三段階の法則として定式化したオーギュスト・コントは「数学」を頂点とする学問体系の土台として「社会学」を位置付け、ダーウィンの進化論を応用した「社会進化論」を立ち上げたハーバート・スペンサーは自身の展開する「哲学」の中に「社会学」を位置付けています。
 
社会学が一つの独立した学問領域として認識されるようになるのは19世紀から20世紀の転換期に入ってからです。この時期を代表する社会学者として「機械的連帯から有機的連帯へ」という社会的分業の発展図式を提唱したエミール・デュルケームや「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という有名なテーゼで知られるフェルディナント・テンニェスと共に、宗教社会学、支配社会学、経済社会学法社会学、政治社会学など多方面にわたって画期的な仕事を残したマックス・ウェーバーの名が挙げられます。
 
本書『社会学の新地平』は現代においては社会学というカテゴリーを超えて様々な領域で参照されるウェーバーの理論を切り口として、現代を生きる大多数の人に共通する「この」社会であるところの「産業社会」を読み解いていきます。
 

* 経済学から社会学

ウェーバー1864年プロイセン王国エアフルトに生まれ、幼少から早熟な才能を見せ、15歳で「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」という論文を書いています。1882年にウェーバーハイデルベルク大学に進学し、その後、シュトラスブルク大学、ベルリン大学ゲッティンゲン大学で法律を学び、1886年には「判事補」の資格を取得して裁判所に勤務しながらベルリン大学で学究生活を続け、1889年に「中世商事会社史論」という論文で法学博士の学位を取得します。こうしてウェーバーはまずは法制史、経済史の研究者としてそのキャリアをスタートさせました。
 
1892年、ベルリン大学の私講師になったウェーバーは社会政策学会から東エルベの農業労働者の調査を依頼され、その調査報告書である「東エルベドイツの農業労働者事情」は学会から高い評価を得ました。1894年にウェーバーフライブルク大学に正教授として招聘され、1895年における教授就任講演「国民国家と経済政策」は良くも悪くも大きな反響を引き起こし、1896年には歴史学派経済学の泰斗カール・クニースの後任としてハイデルベルク大学に迎えられます(ちなみにハイデルベルク大学というのは日本でいえば京都大学のようなポジションです)。
 
ここまでのウェーバーはまさに順風満帆な学者人生を歩んでいるようにも見えます。ところが1897年に彼は父親との確執がきっかけで精神疾患にかかり、大学を休職し数年にわたる療養生活を余儀なくされてしまいます。こうした苦境のさなかで彼は「ロッシャーとクニース、および歴史学派経済学の論理的問題」(1903〜1904)という論文で歴史学派経済学を批判して経済学者から社会学者に転向します。そして、後に社会学マックス・ウェーバーの代名詞となる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904〜1905)という論文もこの時期に発表されました。
 

* 資本主義の精神の誕生--「予定説」をめぐるアクロバティックな論理

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下、倫理論文)」の主題は西洋近代社会における「資本主義の精神」の解明であり、その論旨は以下のようなものです。まず同論文は近代資本主義がプロテスタント圏において発達したことから「資本主義の精神」と「プロテスタンティズムの倫理」との間には因果関係が存在するという仮説を提示します。ここでいう「資本主義の精神」とは単なる利益の追求ではなく、自身の職業を神の呼びかけに応じた「ベルーフ(天職)」と見做す倫理であり、ウェーバーはその範例として「時は金なり」という言葉で知られるベンジャミン・フランクリンを取り上げ、その起源をマルティン・ルター宗教改革に見出します。
 
そしてウェーバーによれば「資本主義の精神」を決定付けた契機がジャン・カルヴァンの提唱した「予定説(二重予定説)」です。この「予定説」によれば救済される人間はあらかじめ神によって決定されており、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできません。つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないということです。なおかつ人間は神の意思を知ることができないため自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることも、もちろんできません。
 
そこで「予定説」を信じる人々はどうしたかというと「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という因果の逆転したアクロバティックな論理を生み出して自身のベルーフに禁欲的に励むことで「自分はすでに救われている」という確信を得ようとした、とウェーバーはいいます。
 
このようにウェーバーは「資本主義の精神」の原風景に「プロテスタンティズムの倫理」に規定された「世俗社会の修道院化」を見出していました。しかし、近代化が進展して信仰が薄れた時「資本主義の精神」を消失した「精神なき専門人」や「心情なき享楽人」が跋扈するようになり「この無に等しい者たちは、自分たちこそ人類がいまだかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう」とウェーバーは述べています。
 

* 社会学における因果と意味

 
このように倫理論文においてウェーバーは「資本主義の精神の成立にはプロテスタンティズムの倫理が決定的な役割を果たしている(少なくとも原因の一つである)」と主張しました。このウェーバーの主張は発表当時から大きな論争を引き起こし、現在でも決着がついていません。しかしながら倫理論文の本当の意義はその「結論」ではなく「問い」の方にあります。
 
ウェーバーは倫理論文で「資本主義の精神の成立にはプロテスタンティズムの倫理が決定的な役割を果たしている(少なくとも原因の一つである)」という仮説を立てることで社会学における二つの大きな問いを開きました。その一つは彼が主張した仮説を裏付けるための「因果(原因と結果の関係)」はどうすれば論証できるのかという問いです。そして、もう一つは社会における「意味(コミュニケーションの効果)」とは何かという問いです。
 
そして、このような「因果」と「意味」をめぐる問いを解くための参照項としてウェーバーは倫理論文でひとつの実在する企業を取り上げています。その企業の名は「カール・ウェーバー&商会」といい、ウェーバーの父方の伯父にあたるカール・D・ウェーバーが19世紀の半ばに創立した会社です。
 
もともとウェーバー家は代々、ビーレフェルトで麻織物商を営んでおり「ウェーバー」という姓もドイツ語で「織り手」を意味しています。亜麻は19世紀初頭におけるプロイセン王国の主要な輸出品の一つでした。ところが1820年代にイギリスやベルギーで機械式の製糸や織物の工場がつくられて大量生産が始まると輸出先を失い、国内でも輸入品との価格競争に巻き込まれることになります。こうした中でウェーバーの伯父であるカール・D・ウェーバービーレフェルト近郊のエルリングハウゼンで「カール・ウェーバー&商会」を立ち上げ、優秀な織り手たちを組織して高品質の製品を作らせて大成功をおさめました。
 
このような「カール・ウェーバー&商会」という組織をウェーバーは同論文において、まさに「資本主義の精神」を体現する存在として描き出し「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」を結びつける環を「カール・ウェーバー&商会」を範例とする近代的な「合理的組織」に見出します。
 
しかしながら、ウェーバー自身はこの近代的な「合理的組織」の内実を十分に捉えることができませんでした。そして、このようなウェーバーが残した課題に一つの解を与えたのが本書がもう1人の主役として取り上げる20世紀後半を代表する社会学者の1人であるニクラス・ルーマンによる組織システム論です。
 

* ニクラス・ルーマンの組織システム論

 
ルーマンは1927年にドイツ北部ニーダーザクセン州のリューネブルグで生まれました。高校在学中に第二次世界大戦に従軍し捕虜になっています。復員後、ほぼ半世紀前にウェーバーが在籍していたフライブルク大学で法学を学び、26歳の時にウェーバーと同様に判事補の資格を取り、長らく行政官僚として働いたのちに40歳を前に社会学者へと転身し、ウェーバー家の故郷にあたるビーレフェルトに新設された大学の教授となります。その後、ルーマンは「カール・ウェーバー&商会」の本社と工場があったエルリングハウゼンに移り住み、そこで亡くなっています。
 
このようにルーマンの人生は何かとウェーバーと縁深いものがありますが、何より重要な共通点としてルーマンもまたウェーバーと同様に産業社会の基幹である近代的な「合理的組織」を重視した社会学者であったということが挙げられます。
 
もっとも、ウェーバーは近代的な「合理的組織」を「職務」の階統的な集合としての「官僚制」と位置付け、上位者の「決定」に下位者が従属する構造として捉えていました。こうした組織においては現場に近づけば近づくほど裁量の余地はなくなり、下位者は上位者の指示通りに振る舞うしかなくなり、その結果、組織の置かれた環境(市場など)の急激な変動に対する柔軟な対応が難しくなります。これに対してルーマンハーバート・サイモン経営学理論を参照し、近代的な「合理的組織」を様々なステークホルダーによる水平的な協働を可能にする「決定」のネットワークとして捉え直しました。
 
この点、サイモンは単に時間的に「前の決定」が「後の決定」を方向づけるという形で決定の連鎖を考えていましたが、ルーマンはさらに「合理的組織」においては「前の決定」が「後の決定」を方向づけるだけではなく「後の決定」がその解釈を通じて「前の決定」を意味づけなおすことになると考えました。その後、彼はこうした「決定」のネットワークをシステムにおける要素がさらに新たな要素を産み出していく「オートポイエーシス(自己産出系)」という概念を中核とするコミュニケーションシステム論へと発展させていくことになります。
 

* 訂正されるコミュニケーション

 
このようなルーマンの考える「決定」のネットワークはコミュニケーションにおける「訂正可能性」の論理から捉えることができます。人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
 
そして、このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」されていく現象を東浩紀氏はルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。

 

 

 
すなわち、子どもの遊びにおいて「かくれんぼ」が「鬼ごっこ」にいつのまにか変わってしまうように、ルーマンのいう「決定」のネットワークもまた「前の決定」が「後の決定」によって「じつは」と訂正される契機を孕んだものとなっているという点で、東氏が「訂正可能性」と呼ぶコニュニケーションの本質からまっすぐに導かれるものであるということです。
 
こうした意味で本書は社会学を学ぶ上では避けては通れない古典である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読み解く上でアクチュアルな視座を提示する一冊であると同時に、現代において誰もが何らかの形で不可避的に関わることになる「この」社会におけるコミュニケーションの本質を考えるための一冊であるともいえるでしょう。