かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

リズムのあいだ、あいだのリズム--千葉雅也『センスの哲学』

* 有限性の哲学--意味がある無意味と意味がない無意味

 
千葉雅也氏の哲学をあらわすキーワードの一つに「有限性」というものがあります。ここでいう「有限性」とは物事の「意味」と「無意味」をめぐる問題に関わっています。千葉氏は『意味がない無意味』(2018)という論集の冒頭に置いた総論的な論考「意味がない無意味--自明性の過剰」で「意味」に対する「無意味」を〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉から論じています。
このうち〈意味がある無意味〉とは無限に「意味」を産出する源泉である一方で、その「本当の意味」は明らかにならず常にいわく言いがたい「謎のx」として残り続ける無限に多義的な無意味のことです。つまり、世の中のあらゆる対象は〈意味がある無意味〉という「謎のx」の周りを空回りするように意味を生産し続けているわけです。
 
このような〈意味がある無意味〉は現代思想の文脈でいえばフランスの精神分析ジャック・ラカンのいうところの「現実界」に相当します。ラカンは人間の精神活動を「想像界(イメージの次元)」「象徴界(言語の次元)」「現実界(イメージと言語の外部の次元)」という三つの次元から説明しています。ここで「意味」とは「イメージ」と「言語」によって成り立っており、イメージでも言語でも意味づけできない「現実界」は「謎のx」として無限に「意味」を引き起こし続ける意味の彼岸としての〈意味のある無意味〉に位置付けられます。
 
そしてこのようなラカン的構図を辿っていけばイマヌエル・カントの超越論哲学に行き着きます。カントによれば我々が認識しているものは「現象」であり、その外部に不可知の「物自体」があります。この「物自体」がラカンでいうところの「現実界」に相当します。
 
これに対して〈意味がない無意味〉とは〈意味がある無意味〉をめぐる意味の増殖を止めるそれ自体における即自的無意味をいいます。そして千葉氏は〈意味がない無意味〉とは「身体 body」であるといいます。ここでいうbodyとは生物学的肉体のみならず「物質」や「集団」や「形態」、そして音楽的な「リズム」といった広い意味で用いられています。このような「身体」による「意味」の「有限化」が千葉哲学の基本的な構えをなしています。
 
例えばポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズを論じた千葉氏の初の単著となる『動きすぎてはいけない』(2013)のテーマは「接続過剰から非意味的切断へ」でした。ここでいう「接続過剰」が〈意味がある無意味〉を原因とする無限の多義性のことであり「非意味的切断」の「非意味」が〈意味がない無意味〉に相当します。つまり「接続過剰から非意味的切断へ」とは〈意味がある無意味〉から生じる「意味」の氾濫を〈意味がない無意味〉で切断することで「意味」を「有限化」するという構図を指しています。
 
そして千葉氏の名を広く知らしめた『勉強の哲学』(2017)はまさしくこうした「有限性」の実践哲学であったといえます。さらに一昨年に公刊されるやいなや幅広い反響を呼んだ『現代思想入門』(2022)では現代思想の様々な潮流を「近代的有限性」と「古代的有限性」といった二つの観点から捉え返す議論が展開されています。
 
ところでカント哲学では人間の心的能力を「知性」と「理性」と両者を媒介する「判断力」の三つから捉えています。このようなカント的図式に準えるのであれば「知性の有限性」を論じた著作が『勉強の哲学』であり「理性の有限性」を論じた著作が『現代思想入門』であったともいえそうです。そうであれば、やはり両者を媒介する「判断力の有限性」を論じた著作が本書『センスの哲学』であるといえるかもしれません。
 

*「センス」を育てていくということ

本書のテーマは「センス」です。「センス」などという一見してとらえどころのない言葉には例えば「あの人、がんばっているけど、センス悪いんだよね」というように、どこかトゲのある排他的な響きが含まれています。つまり、ここで「センス」とは努力ではどうしようもない部分のことを指していたりもします。
 
けれども、本書は「センス」とは努力ではどうにもならないものとは考えず、むしろ人を解放し、より自由にしてくれるようなものとして「センス」なるものを捉え直し、このような意味での「センス」を楽しみながら育てていくことを目指します。
 
本書は「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、音楽、ファッション、インテリア、美術、文学などなどといった様々な領域においてこの「直感的にわかる」を広げていきます。本書は一種の芸術論ですが、狭い意味での芸術だけを論じるのではなく、その狙いは芸術と生活とつなげる感覚を伝えることにあるといいます。
 
本書は「センス」が良くなる方向を「いったんは」目指しますが、最終的にはセンスの良し悪しの「向こう側」にまで、ある意味でセンスなどもはやどうでも良くなるところへと向かっていくことになります(それを「アンチセンス」と本書は呼びます)。
 

* 意味からリズムへ

 
まず本書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで本書はまず、このような理想的なモデルを再現するゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると本書はいいます。
 
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を即物的に捉えるということです。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています(ここでいう「強度」も「反復と差異」もいずれもドゥルーズに由来する用語です)。そして、こうした「リズム」とは大体において多層的なもの、マルチトラック的なものとして現れます。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると本書はいいます。
 

* いないいないばあの原理

 
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが本書のいうリズム経験であるということです。
 
この点、小説などの物語の基本形式とは大きくいえば「0」から「1」へと「欠如を埋める」ものとして捉えられます。つまり、物語に感情移入するとはその「0」から「1」へという「ビート」にシンクロするということです。
 
こうした「0」から「1」へと「欠如を埋める」というもっともシンプルな物語が「いないいないばあ」という子どもの遊びです。精神分析の始祖ジークムント・フロイトは後期を代表する論文「快原理の彼岸」で自分の孫であるエルンスト坊やの「糸巻き遊び」を取り上げ、ここで子どもは「Fort-Da いないいないばあ」のようなリズム形成により母の不在を自ら上演しているのであると解釈しました。
 
すなわち「いないいない」という遊びには「いないいない=0」と「ばあ=1」という存在論的な「ビート」を生成変化論的な「うねり」に書き換えることで「欠如」をめぐる不安を乗り越えていく契機が含まれているということです。これを本書は「いないいないばあの原理」と呼びます。言ってみれば「センスの良い人」というのは「いないいないばあ」の優れた使い手であるということです。
 

* 意味すらもリズムへ

 
こうしたことから本書は作品における核心的なメッセージといった「大意味」ではなくその背後に騒めく様々な「小意味」のリズムのうねりに注目するモダニズム的な見方を提示し、さらに「意味」それ自体も「脱意味化」してしまい、ただの形としての「リズム」として捉えるフォーマリズム的な見方を導入します。
 
そして本書は芸術作品における「感動」について大意味に対する「大まかな感動」とは別の小意味のリズムの絡み合いの構造に対する「構造的感動」という概念を提唱します。つまり「センス」とは喜怒哀楽を中心とする「大まかな感動」を半分におさえて、色々な部分の面白さに注目できる「構造的感動」ができることになるということです。そのためには日常において生起する小さなささやかなことをきちんと言語化していく練習が必要となってくるわけです。
 
ここから本書は後半部においてリズム経験から生じる「差異=予測誤差」をラカンのいう「享楽」やカントにおける「美」と「崇高」の概念を参照しつつセンスの「良さ」についての考察を深めていきます。そして、このようなさまざまな偶然性に開かれたリズム経験を「仮固定」して「有限化」するということが作品を創るということです。つまりさまざまな芸術作品に触れるということは自分には思い付かないようなさまざまな「有限性」を知る契機となるということです。
 
意味からリズムへ。意味すらもリズムへ。ここではまさに〈意味がある無意味〉から生じる「意味」の無限の増殖を〈意味がない無意味〉としての「身体=リズム」で切断していくという千葉哲学における「有限性」の構図が熟成された文体でこれまでになく鮮明なかたちで打ち出されているように思えました。
 

* リズムのあいだ、あいだのリズム

 
このように本書が「センス」をめぐる大きな方向性として提示するリズム経験とは現象学的な観点からいえば個人と世界との「あいだ」の経験であるということもできそうです。このような「あいだ」の経験を現象学精神病理学の見地から緻密に理論化したことで知られる精神科医木村敏氏は後期におけるいわゆる「生命論的転回」の嚆矢となる著作『あいだ』(1988)において音楽の合奏を例に「あいだ」の経験が個人の意識にもたらす作用を次のように論じています。
まず木村氏は音楽の演奏を⑴いまここの音楽の演奏それ自体の行為と⑵これまで演奏された音楽の参照と⑶これから演奏する音楽の先取りという三つの契機から成り立っているとした上で⑴いまここの音楽を演奏それ自体の行為を意識の「ノエシス的」な面に対応させ⑵これまで演奏された音楽の参照と⑶これから演奏する音楽の先取りを意識の「ノエマ的」な面に対応させています。
 
ここでいう「ノエシス」とは人間の意識における対象志向的あるいは対象構成的な作用の側面を指しており「ノエマ」とはノエシスの作用によって志向され構成された対象=表象を指しています。
 
この点、現象学の始祖エトムント・フッサールによれば志向作用としての「ノエシス」により志向対象としての「ノエマ」が構成されることになりますが、木村氏はビクトーア・フォン・ヴァイツゼカーのいう「ゲシュタルトクライス」や西田幾多郎のいう「行為的直観」といった概念を参照し、ノエシスノエマの関係をノエシス的な面がノエマ的な面の源泉となると同時にノエマ的な面がノエシス的な面を限定するという円環的な関係として捉えています。
 
そして木村氏は理想的な合奏音楽の場合、演奏者全体の「あいだ」という虚の空間において生じる合奏がそれぞれの演奏者の意識において虚のノエシス的な面となり、個人のノエシスノエマの円環を先行的に限定する「メタノエシス原理」として作用するといいます。
 
リズムがあいだを生み出しあいだがリズムを生み出すということ。芸術に創作や鑑賞といった形で関わることで何かしらの音楽的な「リズム」が鳴り響いてきます。そしてこの多層的な「リズム」が織りなすあいだから創作者/鑑賞者としての個人のノエシスノエマの円環を仮固定的に「有限化」していくメタノエシス的な「あいだ」のリズムが生じることになります。そしてこのような「リズム」は狭義の芸術作品のみならず、日常的な生活空間のさまざまな「あいだ」からも鳴り響いてくるでしょう。
 
こうした意味で本書は日々の暮らしの「あいだ」からさまざまなかたちで聴こえてくる「リズム」の鳴動にていねいに耳を傾けていくための「センス」を涵養するためのまたとない一冊であるといえます。また人によって本書は自分でも何かを創り出したくなる気にさせてくれる一冊になるようにも思えました。