かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

幸せの在り処をめぐって--CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編 1〜16』

 

* 魔法少女の系譜とカードキャプターさくら

 
1996年から2000年まで少女雑誌『なかよし』で連載された創作集団CLAMPの不世出の名作『カードキャプターさくら』は少女漫画の枠組みを超えて幅広い支持を獲得し、ゼロ年代以降のポップカルチャーにおける「魔法少女」という概念を再発明した作品として知られています。
 
日本における魔法少女の歴史は1960年代に遡ります。この時期に一世を風靡した『魔法使いサリー』や『ひみつのアッコちゃん』は当時の少女漫画的な文法に即しており、そこで描かれるのは「お姫様」とか「大人の女性」などといった理想像への素直な憧憬でした。まさに魔法少女という存在が万能の願望器であった時代です。ところが1980年代における『魔法のプリンセス ミンキーモモ』になると「夢は魔法では叶えられない」「大人になるとは魔法を失うことである」という魔法少女の限界性という問題が前景化します。
 
そして1990年代に入ると『美少女戦士セーラームーン』の大ヒットにより魔法少女は少女漫画的な文法から切断された自律的な構造を形成し、以後このような〈魔法少女〉なる構造に依拠したパロディ的な作品群が急増することになりました。こうした新たな潮流の中で『カードキャプターさくら』は〈魔法少女〉なる構造に十分に自覚的でありながらも正統派の魔法少女の系譜へと回帰した作品であったといえます。
同作のあらすじをごく簡単に紹介すると次のようなものです。友枝小学校の4年生、木之本桜(さくら)は家の書庫で見つけた古い本を開いてしまったことがきっかけで、本を守護していた封印の獣ケルベロスによって本の中から散逸した「クロウカード」なる魔法のカードを集めるカードキャプター(捕獲者)に選ばれてしまいます。伝説の魔術師クロウ・リードの作り出したクロウカードの封印が解かれる時、この世に「災い」がもたらされる、とケルベロスはいいます。こうしてさくらはクロウカードのもたらす「災い」からご町内を守るべくケルベロスと親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともにクロウカード集めに奮闘します。
 
同作は「クロウカード編」と「さくらカード編」の全49話で一旦完結を迎えましたが連載終了後もその人気は全く衰える事がないどころか年を追うごとに着実に支持層を拡大させていき、2016年に連載開始20周年プロジェクトとして再び『なかよし』でまさかの連載再開が発表されました。これが本作『カードキャプターさくら クリアカード編』です。本作は2018年にはアニメ化を果たし、昨年2023年12月に前作を大きく上回る全80話で完結を迎えました。
 

* 新たなさくらの物語

物語は前作の最終回から再びスタートします。友枝中学校に進学したさくらは長らく離れ離れになっていた小狼とも再会して、これからの中学校生活に期待を膨らませる矢先にフードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見ます。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中にありましたが「さくらカード(クロウカードをさくら専用にアップデートしたカード)」は透明なカードに変化して、その効果を失っていました。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出し、さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していきます。そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してきます。さくらと秋穂はお互い惹かれあうように交友を深めていきますが、その一方で、小狼は秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡の正体に疑念を抱きます。
 
果たしてクリアカードを生み出していたのはさくらの魔力暴走でした。一方で、海渡の正体は人並外れた魔力を持つイギリス魔法教会の魔術師であり、彼は「時の本」を動かして『禁忌の魔法』を発動させるため、さくらに「あるカード」を生み出させようと画策していました。
 

* さくらと秋穂

 
単行本全16巻からなる本作は大きくいうと4巻くらいまでは比較的ゆっくりとした展開が続きますが、5巻以降で物語の見晴らしが開けだし、13巻以降はまさに怒濤の展開に突入するという序破急的な構成となっています。
 
いま思えば本作が中盤序盤のうちはあまり物語を動かさずに、さくらと秋穂の交歓を極めて繊細に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったようにも思えます。
 
秋穂は欧州最古の魔術師達と呼ばれる一族に生まれるも、全く魔術を使うことができず周囲を失望させることになります。両親はすでに亡く秋穂は一族の中で孤立していました。けれど海渡が幼い秋穂を「真っ白な本」と何気に評したことがきっかけで、秋穂はその身に様々な魔術を記録させることができる魔法具に改造されてしまいます。
 
こうした中、海渡は秋穂の監視兼護衛を名乗り出て、彼女を外の世界に連れ出し、そのままイギリス魔法協会から離反してしまいます。しかし協会と一族の術からは逃れることができず、秋穂の意識は徐々に魔法具に乗っ取られつつありました。
 
幸せな棲み家、幸せな思い出、幸せな未来。海渡はこれらの全てが秋穂にはなく、さくらにはあると考えています。海渡が『禁忌の魔法』に執着するのはこうした秋穂の置かれた不遇と深く関係しています。ここから本作は終盤において「幸せ」とは何かを問い直す複雑なポリフォニーが展開されることになります。
 

* アリス・モモ・夢十夜

 
ここでは本作を支えるいくつかの文学的なモチーフを取り上げておきます。まず本作では木之本桜と詩之本秋穂という鏡像的な名前を持つ2人の少女に中盤以降で「アリス」のイメージを重ね合わせていきます。
 
本作では全体的にルイス・キャロルの児童文学『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』のモチーフが幾度となく反復されています。まず物語の鍵を握る「時の本」を秋穂は『時計の国のアリス』と呼んでいます。一方で海渡はさくらが生み出した「影像」のカードを『鏡の国』のジャバウォックだと評して、そこから彼は秋穂と初めて会話をした庭園を『不思議の国』のような世界だったと回想しています。
 
また秋穂はさくらが活躍する夢を、さくらは秋穂の過去の夢を、お互いに「アリス」の夢としてみていました。さらにかつて秋穂の母は将来生まれてくるさくらと秋穂を「ふたりのアリス」と呼び「時の本」の守護者に2人の未来を託しています。
 
そして物語の後半、全校交流会での劇の脚本と演出を任されたさくら達の同級生である柳沢奈緒子はさくらと秋穂の姿にインスパイアされ「夢の世界に迷い込んでしまうアリス」と「元居た世界に戻れなかったもうひとりのアリス」が主役の「二人のアリス」という物語を創り上げます。
 
さらに本作はここにミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』のモチーフを折り重ねていきます。秋穂が海渡と出会った庭園で読んでいた本は『モモ』を彷彿させる「女の子が時間泥棒と戦うお話」でした。そして彼女は『時計の国のアリス(時の本)』の守護者(の仮の姿)を「モモ」と呼んでいます(この「モモ」という守護者の名前を後に秋穂は「わたしの大好きな本の題名です」と明言しています)。
 
秋穂が述べているように同作は主人公のモモという少女が時間泥棒(時間貯蓄銀行の灰色の男たち)から人々の時間を取り戻すために奮闘する物語です。そして本作においても「時間」が重要な鍵を握っています。海渡は時間を操る魔術師であり、彼はさくらが生み出したクリアカードを使って『時計の国のアリス(時の本)』を動かし『禁忌の魔法』を発動させようとしています。
 
また本作は夏目漱石幻想小説夢十夜』のモチーフがその隠れた通奏低音をなしています。同作は過去、現在、未来における10の不思議な夢の世界が綴られた作品です。そして本作において奈緒子が創作した「二人のアリス」は『夢十夜』における「醒めない夢」からも着想を得ており、やがて終盤の展開は世界における夢と現実の境界が融解していくかのような観を呈します。
 

* 幸せの在り処をめぐって

 
本作の特徴の一つには前作以上にさくらの学校や家庭での日常が極めて煌びやかな筆致で描写されていく点があげられます。そして、このようなさくらの日常の煌びやかさは『禁忌の魔法』を発動させるため深謀遠慮を重ねて暗躍する海渡の非日常の不穏さと見事に対照的なコントラストをなしています。本作を駆動させるダイナミズムはまさにこのような日常と非日常のせめぎ合いにあり、ここからやがて本作は非日常から日常へ折り返していくことになります。
 
この点、海渡にとってのすべては秋穂の「幸せ」ですが、翻って現在の秋穂との日々の暮らしは彼にとって目的を達成する中で過ぎてゆく単なるプロセスでしかありませんでした。けれどもこのような海渡にとっての非本質にすぎない日々の暮らしこそが秋穂にとっての本質に他ならなかったということです。
 
非日常から日常へと折り返すということ。物事の本質はその非本質に宿るということ。本作の核心にはこうしたシンプルだけれども力強いメッセージがあるのではないでしょうか。ともすれば真理とは言葉にすると極めてシンプルなものです。けれども真理とは言葉だけでは決して伝わらないがゆえにまさに真理なのであり、それゆえに真理に近づくためには〈物語〉が必要となってきます。こうした意味で本作は幸せの在り処をめぐるひとつの真理を豊穣なモチーフを駆使して物語る〈物語〉であったように思えました。