かぐらかのん

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他者性の泡立ちとしての読書--三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

*『花束みたいな恋をした』から考える「労働」と「読書」をめぐるアポリア

 
2021年に公開された映画『花束みたいな恋をした』は若年層を中心にSNS上で幅広い共感を呼び「はな恋現象」と呼ばれる社会現象を巻き起こし、映画としても多方面から近年稀にみる高い評価を得た作品となりました。『攻殻機動隊』などで知られる映画監督、押井守氏が本人役で出演したことでも話題になった同作の特色の一つには小説、漫画、映画、音楽、ゲーム、アートといったポップカルチャーに幅広く目配りをしている点が挙げられます。
 
きっかけは押井守--この映画の二人の主人公、山音麦と八谷絹は大学生の時に互いの愛好するポップカルチャーが似通っていたことがきっかけで出会いからほどなくして恋人になります。大学卒業後、二人は郊外に部屋を借りて同棲生活を始めますが、その甘やかなモラトリアムは長くは続かず、やがて生計を立てるため就職した麦は日々を営業の仕事に忙殺されるようになり、それまで好きだった小説や漫画を読まなくなってしまいます。そして絹はそんな麦に失望を抱えるようになり、二人の心の距離は徐々に開いていくことになります。
 
同作は一見、ごくありふれた若いカップルの物語を描いた映画のようですが、その根底には「労働と読書(文化的な趣味)は両立できない」という暗黙の前提が置かれています。このような同作が置く前提は日々、営業職として激務を送る麦の「(読書は)息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ、パズドラしかやる気しないの!」という台詞に象徴されています。
 
本は読めないけどパズドラはできる--このような麦の姿には「身につまされる」「他人事とは思えない」という共感が広く寄せられることになりました。そこで同作から「労働」と「読書」をめぐるアポリアを抽出し、近代以降の日本における「労働」と「読書」の関連を俯瞰的に論じた一冊が本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。
 

* 読書の起源と拡大

そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。職業選択の自由や居住の自由が認められ、当時の多くの青年たちは田舎から都会へ出て身を立てて名を上げる「立身出世」の野心を抱いていました。こうした中、西洋の偉人達の立身出世物語を集めた『西国立志編』という本が一大ベストセラーになります。同書において反復される「身分や才能によらず自助努力で成功できる」という「修養」の思想は現代における「自己啓発」の源流といえるでしょう。このような「修養」の思想は明治期に創刊された『成功』や『実業之日本』といった雑誌によって労働者階級に広がっていきます。
 
ついで大正期になると全国的な図書館の増設や出版界における再版制(再販売価格維持制度)の導入や高等教育の拡大により読書人口は爆発的に増加します。こうしたなかエリート学生の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」を重視する思想が流行するようになりました。このような「教養」の流行の担い手となったのが『中央公論』『改造』『経済往来(後の日本評論)』といった総合雑誌でした。また当時の最先端の思想であった「マルクス主義」もこうした雑誌を媒介として人々の間に広まっていきました。
 
そして戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がっていくことになります。それはまさに労働者階級がエリートに近づこうとする階級上昇の運動でもありました。このような「教養」の拡大を支えたのが『葦』や『人生手帖』といった人生雑誌です。その一方で、もちろん都市部のサラリーマンも戦前から引き続き「教養」を求めており、昭和初期の「円本」ブームを引き継いだ「全集」ブームが到来しました。
 
このように戦後間もない1950年代の当時、世の中は空前の教養ブームであり「ベストセラー」という単語もこの時期に広まりました。さらに高度経済成長期の1960年代になると「英語」とか「記憶術」など仕事に役立つ実用的なテーマを扱う「カッパ・ブックス」のような新書が存在感を持ち始めるようになります。こうしてみると日本においてはもともと「労働」と「読書」は互いにむしろ蜜月の関係にあったといえるでしょう。
 

* 読書の変容と停滞

 
このような「読書」と「労働」の関係に変化が生じ始めたのが1970年代以降です。高度経済成長が終焉した1970年代において司馬遼太郎の『竜馬が行く』や『坂の上の雲』といった歴史小説がサラリーマンの間で広く読まれていた背景にはよく言われるビジネス教養主義のほか、本書は皆が「坂の上」を目指して歩いていた(ように見えた)高度経済成長期へのノスタルジーがあったといいます。
 
またバブル経済期の1980年代において黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が500万部、村上春樹の『ノルウェイの森』が350万部、俵万智の『サラダ記念日』が200万部といった驚異的なベストセラーとなった要因の一つとして本書は当時の労働市場において「教養」より「コミュニケーション能力」が重視され始めた結果「僕」や「私」といった「自分の物語」を語る私小説的な作品が求められていたと分析します。
 
さらにバブル経済が終焉した1990年代になると決定的な変化が訪れます。当時のベストセラー『脳内革命』が象徴するように個人の行動規範としてそれまでの「生きる姿勢」といった〈内面〉よりも「何をすべきか」という〈行動〉が重視されるようになったと本書はいいます。その背景には言うまでもなくバブル崩壊後の長期不況による労働環境の不安定化があります。
 
そして本書はこのような〈内面〉から〈行動〉へという傾向変化を〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への変化として捉えます。すなわち、これまでの〈政治の時代〉においては〈政治〉を通じて社会を変革できるという素朴な信念がありましたが、新たな〈経済の時代〉においては〈経済〉という目の前の波をいかにうまく乗りこなすかが重視されるようになったということです。
 

* 自己啓発書のロジック

 
こうして1990年代半ば以降、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。その一方で1990年代以降、とりわけ2000年代以降、個人の書籍購入額は目に見えて落ちていき、ここから本格的な読書離れが加速することになります。しかしなぜ読書離れが起きる中で自己啓発書は読まれたのでしょうか?
 
この点、社会学者、牧野智和氏は自己啓発書の特徴として「ノイズを除去する」姿勢にあるといいます。これを受けて本書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものはノイズとして捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであるといいます。
 
これに対して文芸書や人文書はまさに「社会」というノイズを提示する作用を持っています。かつて〈内面〉が重視された〈政治の時代〉において「読書」はこうした意味での「社会」を知るためのツールでした。けれども今や〈行動〉が重視される〈経済の時代〉においては自分と無関係な「社会」のことを知るよりも自分自身でコントロールできるものにリソースを注力することが最適解となり「社会」を知るための「読書」はむしろ「労働」にとってのノイズとなってしまいました。
 
そして、こうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降、ノイズを徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
 

* 理想の読書、虚構の読書、不可能性の読書

 
このように本書を通じて読書史を概観してみると1960年代までは「読書」と「労働」はまがりなりに接続されていたといえますが、その関係性は1970年代以降から次第に揺らぎ始め、1990年代半ばにおいて「読書」と「労働」は決定的に切り離されることになったともいえるでしょう。そして、このような「読書」と「労働」の関係性の変化は社会学における「反現実」の遷移からも捉えることができるように思えます。
 
戦後における社会学を牽引した見田宗介氏によれば「現実」という言葉は3つの反対語をもっているとされます。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」です。そして見田氏はこれらの反対語を「反現実」と呼び、人の「現実」は「反現実」によって規定されるといいます。こうした観点から見田氏はプレ高度成長期(1945年から1960年頃)を「理想の時代」として、高度成長期(1960年頃から1970年前半)を「夢の時代」として、ポスト高度成長期(1970年後半以降)を「虚構の時代」として、それぞれ規定しました。
 
そして見田社会学を継承した大澤真幸氏は見田氏の三区分を1970年を境として「理想の時代」と「虚構の時代」の二区分へ整理し直した上で、1995年以降を「不可能性の時代」として規定しました。ここでいう「不可能性」とは「虚構」をさらに徹底して純化した時に現れる「究極の虚構」という意味での「不可能性」です。すなわち、従来の社会規範を基礎付けてきた超越的他者としての「第三者の審級」の撤退(とその裏口からの回帰)により皆に自己選択と自己責任を強制する「リスク社会」が到来した結果、必然的に個人の行為は「究極の虚構」という「不可能性」を志向するということです。
 
このような大澤氏のいう「理想の時代(1945〜1970年)」「虚構の時代(1970年〜1995年)」「不可能性の時代(1995年以降)」という三区分を本書の提示する読書史観に引きつけてみると1960年代までの「読書」は「理想(=立身出世)」を実現するための「教養」であったといえますが、1970年代〜1980年代における「読書」は「虚構(=ノスタルジーや自分の物語)」に没入するための「娯楽」へと変容し、さらに1990年代以降の「読書」になると「不可能性(=自己実現)」を突きつける「ノイズ」と化したということになるのでしょう。
 

* 拡張現実としての読書

 
もちろん本書は働いていると本が読めなくなる社会を肯定する本ではありません。むしろ、本書は働いていると本も読めなくなる現代日本における働き方に真正面から疑問を投げかけ「労働」と「読書」を両立できる働き方を真剣に考えようとする本です。そして、ここでいう「読書」とは狭義の「本を読むこと」に限らず、例えば「家族と歓談すること」や「趣味や創作に没頭すること」といった文化的な時間全般に置き換えることができます。
 
この点、本書のいう〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への転回が起きた1990年代半ば以降の時代をめぐる社会学的な「反現実」について宇野常寛氏は大澤氏のいう「不可能性」とはまた位相を異にする議論を提示しています。氏は『リトル・ピープルの時代』(2011)において大澤氏のいう「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」を、それぞれ「ビッグ・ブラザーの時代」「ビッグ・ブラザーの解体期」「リトル・ピープルの時代」として捉え直し、1995年以降の「リトル・ピープルの時代」における反現実を「拡張現実」と呼びます。
 
ここでいう「拡張現実」とは「現実」を多重化していくメタ現実としての「虚構」を指しています。このような観点からいえば「虚構(=読書)」とは「現実(=労働)と対立するものではなく、むしろ「虚構(=読書)」こそが「現実(=労働)」を多重化していく回路であるといえるでしょう。
 

* 他者性の泡立ちとしての読書

 
本書が最終章で呼びかける「労働」と「読書」が両立できる未来へ向けた提言を「絵空事」だと断じ去るのは容易でしょう。けれども真の変革とはまずは誰かが描いた絵空事から始まります。おそらく『はな恋』で描き出されたアポリアが端的に示しているように現在の日本社会に積み上がった経済、格差、少子化といった様々な課題の根源をシンプルに突き詰めれば「労働」と「読書」の両立ができないような現在の社会のあり方に行き着く--という言い方も決して大げさではないように思えます。
 
この点、本書のいう読書がもたらす「ノイズ」とは現代思想や哲学の文脈では「他者性」と呼ばれるものに相当します。例えば千葉雅也氏が『現代思想入門』(2022)で述べるように様々な二項対立的な枠組みを脱構築していく上では「他者性」を引き受けていく生き方が重要となるでしょう。また東浩紀氏が『観光客の哲学』(2017)や『訂正可能性の哲学』(2023)で述べるように「他者性」がもたらす「誤配」こそが現在まかり通る「正しさ」の「訂正」を引き起こす契機となります。
 
つまり読書のもたらす「他者性(=ノイズ)」の泡立ちこそが人生の可能性や社会の多様性を確保する上でむしろ必要不可欠なものであるということです。こうした意味で本書は現代日本における「労働」と「読書」の二項対立を脱構築して、働き方における「正しさ」の訂正を広く呼びかける一冊であるといえるでしょう。