かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

これから東浩紀に入門するためのおすすめ7冊

* 訂正する力(2023年)

⑴「訂正可能性」から読み解く東思想
 
昨年、批評家デビュー30周年を迎えた東浩紀氏は1993年にかつての「ニューアカデミズム」を牽引した柄谷行人氏と浅田彰氏が編集委員を務める『批評空間』からデビューし、1998年にはフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家であるジャック・デリダを斬新な観点から読み直した初の単著『存在論的、郵便的』が浅田氏の激賞とともに世に送り出され、現代思想シーンにおける気鋭の論客として一躍、斯界の脚光を浴びることになりました。
 
ところがゼロ年代における東氏の仕事は一転して、2001年に公刊された氏の代名詞でもある名著『動物化するポストモダン』に象徴されるようなアニメ・ゲーム・ライトノベルといったオタク系文化を切り口とした情報社会論へと移行します。さらに2010年代以降における氏の仕事はさらにまた一転して、自ら創業した「ゲンロン」という会社を拠点とした「知の観(光)客の創出」というある種の哲学実践へと転回していきます。
 
このようにデビューから現在までの間で東氏の仕事は1990年代のフランス現代思想ゼロ年代の情報社会論(オタク論)、2010年代以降の観(光)客論といったように表面的にみると様々に変転を遂げているようにみえますが、これらの仕事は一貫して「訂正可能性」という理論によって規定されています。このような東思想の根幹をなす「訂正可能性」を現代日本社会においていかに活用していくかを様々な切り口から語り倒した一冊がデビュー30周年を記念して昨年公刊された本書『訂正する力』です。
 
⑵「じつは・・・だった」という発見
 
「失われた30年」という言葉に象徴されるように1990年代初頭のバブル経済崩壊以降、今日に至るまで長きにわたって停滞を続けてきた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せています。このような惨状を前にある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわります。
 
こうした中で本書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説きます。本書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいいます。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚があります。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象を東氏はルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。
 
そして、これはデリダのいう「脱構築」とも極めて近い発想です。彼は哲学の伝統的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求することによって哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みをまさに哲学の方法として提示しました。このような脱構築的な手法は日本においても実践的に有効であり、むしろ日本では脱構築しか有効ではないというべきかもしれないと東氏はいいます。
 
すなわち、ルールを書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということです。
 
本書は哲学とは決して現実から遊離した観念の遊戯ではなく、むしろ現実を変えていくための実践知であることを教えてくれます。こうした意味で本書は東思想の現時点における決定的な入門書であると同時に実践知としての優れた哲学入門であるといえるでしょう。
 
⑶「訂正する力」を取り戻すために
 
本書は哲学とは「時事(時局への対応)」「理論(基本原理の究明)」「実存(生き方の提示)」の3つの領域の連関から成り立っており「訂正する力」もまたこの3つの領域をシームレスにつなげていくといいます。こうした観点からいえば、本書の第1章は「時事編」であり第2章は「理論編」であり第3章は「実存編」となります。そして第4章はここまでの議論の「応用編」であり「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像のアップデートを試みる議論が展開されます。本書によれば「訂正する力」は次のような機能を持っています。
 
第一に「訂正する力」とは「空気」を書き換える力です。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われます。こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると本書はいいます。
 
第二に「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力です。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことです。けれども現在の「コレクトネス=正しさ」は普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」されていく運動が生み出した暫定解に過ぎず、今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。それゆえに現在の価値観による過去の行為の断罪はむしろポリティカル・コレクトネスの精神に反しているともいえます。
  
第三に「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力です。そしてこれは民主主義の問題とも関係しています。すなわち、民主主義社会とは唯一絶対の正解への到達を目指す社会ではなく、むしろ人々がさまざまな立場から多様な意見を自由に主張する「喧騒」の中で、相手の立場を尊重しながらも互いに「訂正」を求めあっていく社会です。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということです。
 
第四に「訂正する力」は「幻想」を創り出す力です。ここでいう「幻想」とは「現実」を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ「現実」に向き合って前に進んでいくための道標です。この点、かつて明治日本は近代化という「現実」に向き合うため天皇親政という「幻想」を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰といった「現実」に向き合うべく平和主義という「幻想」を創り出しました。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での「幻想」の機能不全に起因しているともいえるでしょう。こうしたことから本書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案します。
 
本書はかつての日本社会に備わっていたはずの「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物です。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思います。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく「訂正可能性」に満たされた社会であるといえるでしょう。
 
そして東氏は過去の著作においても、このような「訂正可能性」の理論を「じつは」繰り返し論じています。少なくとも、そのような観点から読み直すことができます。こうしたことから以下では東氏の過去の著作の中で「訂正可能性」がどのような形で論じられていたかを見ていきたいと思います。
 

* 観光客の哲学(2017年)

⑴ 誤配と観光客
 
先述したように東氏は「ゲンロン」という会社の創業者でもあります。2010年に創業されたゲンロンはもともとは「若手論客が集まる出版社」として構想されていました。ところが創業してから数年の間、同社は内外における様々なトラブルに見舞われ、当初の志であったはずの出版事業は暗礁に乗り上げ、一時は会社自体が倒産の危機にまで追い込まれていたそうです。そんな苦境の中でゲンロンを救ったのがカフェ事業とスクール事業という二つの「誤配」であったと氏は述べています。
 
こうした「誤配」に導かれていく中で東氏が得た洞察と手ごたえをもとに執筆された著作が本書『観光客の哲学』であったといえます。この点、氏はゲンロンという事業を営む上で様々な失敗を繰り返した経験から「なにか新しいことを実現するには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」という逆説があると述べています。そしてこの本質と非本質をめぐる逆説は伝統的な哲学のテーマを「観光客」という世俗的な言葉に結びつけて語る本書の企図にも現れています。
 
この点「観光客の哲学」と銘打っているものの本書は現実の観光産業の実態を紹介する本でも観光客の心理を分析する本でもありません。本書は「観光客」をあくまで哲学的な概念として記述していきます。そしてそれは哲学の伝統的なテーマである「他者」の問題を「観光客」という言葉でいわば裏口から更新する試みであり、その狙いは第一にグローバリズムにおける新たな思考の枠組みを作ることにあり、第二に人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示することにあり、第三に「まじめ」と「ふまじめ」の二項対立を超えたところで新たな知的言説を立ち上げることにあるとされています。
 
なお先述のように『動物化するポストモダン』の著書として知られる氏は現在でもオタク系文化に詳しい批評家というイメージが流通しています。オタクと観光客。両者は一切つながりがないどころかむしろ水と油のようにも見えますが、氏はオタク系文化における「二次創作」と本書のいう「観光」は原作あるいは観光地から自分達の好むイメージだけを切り出して消費するという点で極めて似ていると指摘します。こうしたことから原作者と二次創作者の関係を住民と観光客の関係とパラレルに考えるのであれば氏のオタク論は容易に観光客論に接続されることになります。いわば二次創作者はコンテンツの観光客であり、観光客とは現実の二次創作者であるということです。
 
⑵ 二層構造の時代とマルチチュード
 
本書は現代を「ナショナリズム」と「グローバリズム」という二つの層が折り重なって併存する「二層構造の時代」と位置づけます。この点、近代哲学の人間観はナショナリズム国民国家)と不可分に結びついていました。しかしこのような立場を徹底していけばナチスドイツのイデオローグであったドイツの法哲学カール・シュミットが提唱した友敵理論のような「友」の峻別と「敵」の殲滅にまで行き着いてしまいます。こうしたことから本書はナショナリズムグローバリズムを往還し「友」と「敵」の二項対立を乗り越えていく存在として「観光客」を構想します。
 
そこで本書は今世紀初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著『帝国』(2000)が描き出すグローバリズム(帝国)における市民運動の担い手である「マルチチュード」を先行モデルとしつつも、ネグリたちのいう「マルチチュード否定神学マルチチュード)」が抱え込む神秘主義的な欠陥を回避すべく、ネットワーク理論の知見を導入し「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離)」と「スケールフリー(成長と優先的選択による次数分布の偏り)」という二つの特性を持った人間社会というネットワークの「つなぎかえ=誤配」を担う存在として「観光客(郵便的マルチチュード)」を基礎付けます。
 
本書のいう「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しています。これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないけれども、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すといいます。
 
すなわち、ネグリたちの「マルチチュード否定神学マルチチュード)」の連帯とは連帯が存在しないことで存在するとされていましたが、本書のいう「観光客(郵便的マルチチュード)」の連帯とは絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということです。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べています。そして、こうした「観光客」のコミュニケーションの中にこそ「訂正可能性」が宿るということです。
 
本書では何人もの哲学者が入れ替わり立ち替わり登場しては哲学初心者には耳慣れない概念が次々に飛び交う議論が展開されていますが、東氏の文章はとても平明であり、直感的にわかりやすいイメージも交えて、どの議論も文字通り基礎の基礎から始まります。こうした意味で本書は「観光客」の視点から見た近代哲学の入門書でもあり、あるいは近代哲学の観光ガイドとしても読めるでしょう。
 

* 訂正可能性の哲学(2023年)

 

 

⑴  訂正可能性の共同体としての「家族」
 
東氏は『観光客の哲学』において「観光客」が依拠するアイデンティティの候補として「家族」という言葉を取り上げ、この「家族」という言葉を「観光客」の新たな連帯を表現する概念へと練成していく構想を示唆していました。こうしたことから『観光客の哲学』の続編となる本書『訂正可能性の哲学』では「家族」なる概念の再定義をめぐり「訂正可能性」が真正面から論じられることになります。
 
この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきました。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきました。確かにこのような「社会」と「家族」という二項対立的な発想は直感的でわかりやすいものがありますが、その実「社会」と「家族」の違いはそれほど明瞭なものでもありません。
 
例えば人類学者エマニュエル・トッドがいみじくも明らかにしたように共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく自由主義もまた絶対核家族イデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになります。ある意味で人は「社会」においても畢竟「家族」から逃れられることができないということです。それゆえに本書はこのような厄介さを持つ「家族」なる概念を従来のような「社会」との対立項としてではなく、より柔軟な関係概念として捉え直していきます。
 
この点、20世紀を代表する哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。これがヴィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」であり、彼はこのような複数の言語ゲームの重なり合いを「家族的類似性」と呼びました。
 
そして言語哲学者ソール・クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を『ウィトゲンシュタインパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。すなわち、例えば「68+57=5」が「間違い」かどうかは原理的には確定できず「68+57=5」を「間違い」と見做すには「68+57=5」が「正しい」という主張を「訂正」する共同体が必要となるということです。
  
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。そして、このようにあらゆるルールが「訂正可能性」を孕んでいるにも関わらず、皆が複数のゲームを「同じもの」としてプレイしているという逆説はウィトゲンシュタインの提示した「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
 
こうしたことから本書は「家族」という概念をある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられているけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれているという一種の解釈共同体として再定義し、このような「訂正可能性」の論理から「観光客」という主体と「家族」という共同体を統一的に把握していきます。
 
⑵ 人工知能民主主義と訂正可能性
 
そして、こうした「訂正可能性」の観点から本書は現代における民主主義が抱え込む問題へと切り込みます。まず本書は2010年代とは「大きな物語」が復活した時代であったと述べています。ここでいう「大きな物語」とは平たくいえば人類はある特定の終極=目的に向かってまっすぐに進歩しているという思想をいいます。こうした意味で20世紀中盤までは例えば「共産主義」という名のイデオロギーが「大きな物語」として曲がりなりに機能していた時代でした。けれども、そのような思想は1970年代あたりから批判され始め、冷戦構造が終焉した20世紀の終わり頃にはもはや「大きな物語の失墜」が語られるようになりました。
 
ところが21世紀に入ると、そのような「大きな物語」は新たな装いのもとで復活し始めることになります。ただし今度の「大きな物語」の母体は共産主義のような社会科学ではなく情報産業論や技術論です。要するに、文系の「大きな物語」が消えたと思ったら、理工系から新たな「大きな物語」が出現したわけです。
 
例えば2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代になるとカーツワイルの議論に触発される形で人工知能が創り出すバラ色の未来を語る議論が多数現れるようになりました。今や我々は共産主義という第一の大きな物語の代わりにシンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている、と東氏はいいます。
 
その一方で2010年代はスマートフォンソーシャルメディアの普及によるポピュリズムが台頭し、社会があらゆるところで分断され民主主義の危機が全面化した時代でもありました。そしてこのような民主主義の危機こそがシンギュラリティへの夢をさらに強化することになります。すなわち、いくら優れた通信環境を与えていくら良質の情報を提供しても結局のところ人間とはフェイクニュース陰謀論に踊らされる愚昧な生き物でしかないのであれば、むしろ重要な意志決定は人間ではなく人工知能に委ねるべきであり、少なくともその支援を受けるべきではないかという発想が出てくるということです。
 
このような人間による意思決定への失望を前提とした民主主義を本書は「人工知能民主主義」と名指し、その起源を社会契約の始祖の1人として知られる18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーが唱えた「一般意志」に見出します。こうした観点から本書ではルソーの思想を参照点として「人工知能民主主義=一般意志」の暴走を抑えるための「訂正可能性」の枠組みが提示されます。そしてこのような民主主義をめぐる問いとは、より直截に言えば社会における「正しさ」と「誤り」をめぐる問いでもあります。
 
このように本書は第1部において「社会」と「家族」という二項対立の脱構築から出発して、第2部では「正しさ」と「誤り」という二項対立の脱構築へと至ります。結局のところ人はいくら「社会」において「正しさ」を追求しようとしても、どこまでいっても「家族」から逃れることはできないし、いつまでたっても「誤り」を繰り返し続けているわけです。けれどもだからこそ、人は互いに「家族」として「誤り」を訂正し合って生きていくことができるともいえるでしょう。こうした意味で「訂正可能性」とは現代における持続可能な公共性の条件である同時にそれは持続可能な優しさの条件でもあるようにも思えます。
 

* 動物化するポストモダン(2001年)

⑴ オタク系文化と現代思想
 
ゼロ年代批評を切り開いた批評家東浩紀の名を広く知らしめた著作である本書『動物化するポストモダン』において東氏はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には「シュミラークル(オリジナルとコピーの中間形態)の全面化」と「大きな物語(社会共通の価値体系)の機能不全」という2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。
 
まず本書は近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。ここでいう「物語消費」とは個別作品の背後にある例えば「宇宙世紀」のような「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式であり「データベース消費」とは「シュミラークル」としてのコンテンツを生成する例えば「萌え要素」のような「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
 
そして東氏によれば、こうしたオタク系文化における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといいます。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には社会共通の「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「シュミラークル」としての「小さな物語」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」となります。
 
さらにこのような「シュミラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望に二層化されることになります。そこで本書は当時オタク系文化の中心を担っていた美少女ゲーム(ノベルゲーム)のユーザーを範例として「シュミラークル」の水準での動物的欲求と「データベース」の水準での(形骸化した擬似的な)人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。
 
本書は一般的に現代思想の理論でゼロ年代初頭のオタク系文化を分析した本として捉えられていますが、実際に読めばむしろゼロ年代初頭のオタク系文化を手がかりとして現代思想の理論を更新した本であることがわかると思います。
 
⑵ 動物と人間のあいだで
 
本書で東氏がオタクの消費行動を通じて描き出す「データベース的動物」とはまさしく「観光客」の前駆体的な概念に相当します。
 
この点、人間の歴史における「近代」を完成させた哲学者として知られるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは「人間」を自己意識を持ち他者との闘争によって絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在であると規定しました。そしてヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼び、こうして意味での「歴史」は19世紀初頭のヨーロッパにおいて終焉したと看做していました。
 
こうしたことからアレクサンドル・コジューヴはその講義録である『ヘーゲル読解入門第二版』(1968)の(特に日本で)よく知られた脚注においてヘーゲル的な「歴史」が終わった後、人々には「動物への回帰(アメリカ的消費社会に代表される既存環境に馴致する行動様式)」と「スノビズム(日本的「切腹」に代表される既存環境を形式的価値に基づき否定する行動様式)」という二つの生存様式しか残されていないと主張しました。
 
そして東氏はこうしたコジューヴのいう「スノビズム」を近代からポストモダンへの移行期における一つの特徴として位置付けつつも、いまや「スノビズム」の精神すら失われた現代(1995年以降の日本社会)をコジューヴに倣い「動物の時代」と規定します。
 
もっともコジューヴのいう「動物」と異なり東氏のいう「データベース的動物」には「シュミラークル」に没入して動物的欲求を満たす他に「データベース」へ介入する人間的欲望が(形骸化した形であるにせよ)残されています。
 
もしもここで東氏のいう「データベース」をヘーゲル的な「歴史」の部分的代替物として捉えるのであれば「データベース的動物」とはコジューヴ的な「動物」の手前でヘーゲル的な「人間」を「半分だけ」取り戻した存在であるともいえなくもないでしょう。そして、このようなデータベース的動物が持つ人間的欲望からまさにデータベースという名の言語ゲームにおける「訂正可能性」が開かれていくことになるのでしょう。
 

* ゲーム的リアリズムの誕生(2007年)

⑴ ポストモダンにおける文学論
 
動物化するポストモダン』の続編となる本書『ゲーム的リアリズムの誕生』では、ポストモダンにおける文学の可能性と社会と物語の関係についての考察が展開されます。そして、こうした議論の背景には「動物的」なポストモダンの消費者がそれでも「人間的」に生きるにはどのように世界に接したらよいかという問題意識があると東氏はいいます。
 
まず本書はポストモダンの文学の可能性を考えるにあたり当時の文芸市場を席巻しつつあった「ライトノベル」に注目し、その本質は物語ではなくキャラクターのデータベースというメタ物語的な環境にあるとして、大塚英志氏が提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」という概念を参照します。すなわち、従来の近代文学自然主義的な「現実」を写生する「自然主義的リアリズム」に規定されているとすれば、ライトノベルは漫画やアニメといった「虚構」を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」に規定されており、こうした二つのリアリズムの併立をポストモダン的な「想像力の二環境化」と呼びます。
 
そして本書はライトノベルの文学的な可能性を「まんが・アニメ的リアリズム」が歴史的に抱え込んだ「アトムの命題(記号的-身体的な両義性)」に求めた上で、柄谷行人氏の議論を拡張して前近代の語りが「不透明」で近代の自然主義文学が「透明」だとすれば、キャラクター小説の文体は近代の理想を前近代的な媒体に反射させ、その結果を取り込んだという屈折した歴史のゆえに「半透明」の言葉にあるといい、ここからライトノベルにおける文学的な可能性を「透明」の言葉を使うと消えてしまうような現実を「半透明」の言葉で炙り出していくような「現実の乱反射」に見出そうとします。
 
そしてその一方で本書はライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なるリアリズムを見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力に取り憑かれた別のリアリズムを召喚します。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目するリアリズムを氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。
 
こうした「ゲーム的リアリズム」は従来の「コンテンツ志向メディア(小説や映画などの一方向的なメディア)」に加えて新たに「コミュニケーション志向メディア(ゲームやインターネットなどの双方向メディア)」が台頭する「メディアの二環境化」によって顕在化することになりました。すなわち、いまや物語的想像力は「想像力の二環境化(キャラクターのデータベースの発達)」と「メディアの二環境化(コミュニケーション志向メディアの台頭)」という二つの環境の変化によって、絶えずメタ物語的想像力との緊張関係のもとにあるということです。
 
このような観点から本書は従来のように物語と現実を対応させた読解技法である「自然主義的読解」に対して、物語と現実の間に「物語が流通する環境の効果」を挟み込む読解技法である「環境分析的読解」を提唱します。この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていきます。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていきます。こうした本書の提唱するメタ物語的読解は文学における解釈共同体という名の言語ゲームに「訂正可能性」を導入するための技法であるといえるでしょう。
 
⑵ 不能性と訂正可能性
 
また本書の付録として収録されている「萌えの手前、不能性に止まること--AIRについて」という論考も「訂正可能性」を考える上では極めて重要なテクストです。ここで論じられているのは2000年にゲームブランドKeyから発売された『AIR』という美少女ゲームです。この点、先述したように東氏は『動物化するポストモダン』においてシュミラークルに充足する動物的欲求とデータベースをめぐる人間的欲望が解離的に共存するポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付け、こうしたデータベース的動物の範例として美少女ゲームのユーザーを取り上げていました。
 
美少女ゲームなるジャンルの起源は1980年代にまで遡りますが、1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。この種の「泣きゲー」とも呼ばれる美少女ゲームのユーザーは基本的に、一方ではキャラクターである主人公に同一化して個別のシナリオに没入し、他方ではプレイヤーとして複数のシナリオすべての攻略を目指すことになります。ここにはまさしくキャラクターレベルにおける動物的欲求(シュミラークルの水準)とプレイヤーレベルにおける人間的欲望(データベースの水準)の解離的共存を容易に見出すことができます。そして、このような特性を持った美少女ゲームというジャンルの臨界点を示す作品として東氏は『AIR』を位置付けています。
 
氏は本論考においてこの『AIR』という作品で真に重要なのは、シナリオのレベルで強調される「父の不在」というテーマがシステムの工夫を利用して「プレイヤーの不在」というもう一つのテーマと重ね合わせられている点にあるといいます。
 
AIR』というゲームは三部構成をとっており、第一部と第三部はある種のループ構造の関係になっています。まずその第一部において主人公は神尾観鈴というメインヒロインを延命させた代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはまずキャラクターレベルで物語から疎外されることになります(父の不在)。さらに第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかありません。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルにおいてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
 
こうしたAIRにおける「父の不在」「プレイヤーの不在」という異なるレベルにおける二重の疎外は本来的な美少女ゲームのユーザー体験である「全能性」としての「萌え」の手前にある「不能性」をプレイヤーに突き付けることになります。そういった意味から東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」と呼びます。
 
そして、こうしたAIRがもたらした「不能性」の感覚はある面でゼロ年代中盤以降のオタク系文化における一大潮流を形成することになる「日常系」と呼ばれる想像力を準備したともいえるでしょう。「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合、4コマ漫画の形式を取り、そこでは主に10代女子の何気ない日常が延々と描かれます。こうした日常系作品を語る上で一時期「尊い」という言葉がよく使われていましたが、この「尊い」という感覚はまさしくかつてAIRがプレイヤーに突き付けた「萌え」の手前にある「不能性」が「じつは」という「訂正可能性」の論理によって何か崇高な感覚として昇華されたものであるといえます。
 
この点、東氏は『観光客の哲学』においてドストエフスキー作品の弁証法的読解を通じて、その先に立ち上がる「観光客」の主体を「不能の父」と呼んでいます。このような観光客における不能性は「訂正可能性」から基礎付けられます。すなわち、世の中のあらゆるルールは原理的に「訂正可能性」にさらされている以上、人はどうやっても世の中で起きるすべての問題に対して中途半端なかたちでコミットメントしていく他はないからです。
 
しかしその一方で、世の中のあらゆるルールが原理的に「訂正可能性」にさらされているということは、観光客=不能の父としての中途半端なコミットメントもまた「つなぎかえ=誤配」による「訂正可能性」をもたらします。こうした意味でAIRという作品もまたユーザーを観光客=不能の父の位置に立たせることで、ゼロ年代におけるオタク系文化という名の言語ゲームにおける「訂正可能性」を引き出した作品であったといえるでしょう。
 

* 一般意志2.0(2011年)

⑴ データベースと熟議
 
フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーが1762年に公刊した主著『社会契約論』は「一般意志」の理念を提出し、フランス革命に決定的な影響を与えた政治思想の古典として一般には理解されています。しかしこの著作は実際はかなり謎めいた側面を持っています。
 
同書の説くところによれば個人はいつのまにか「社会契約」なるものに同意して「一般意志」なるものを生成していることになります。ここでいう「一般意志」とは人民の意志の統一そのものであり、その定義上決して誤りに陥ることがなく、ここから「一般意志はつねに正しい」という有名な命題が導かれます。
 
このような発想は普通に考えると荒唐無稽ともいえるでしょう。それゆえに従来ルソーの思想は近代民主主義が生成していく途上における「未熟」な思想として、あるいは全体主義に近接する「危険」な思想とみなされてきました。ところが近年の情報技術の飛躍的な進展はまさにこのような「未熟」で「危険」なルソーの思想を実装可能なものとしつつあります。この点、東氏は本書『一般意志2.0』においてルソーのいう「一般意志」を「データベース」として捉え直した「一般意志2.0」という概念を提示しています。同書の主張はまず次の二つの命題から成り立っています。
 
まず第一の命題はルソーのいう「一般意志」とは一般に考えられていような「熟議」を経て合意に至る「意識」ではなく、むしろ情念溢れる集合的な「無意識」を意味しているということです。すなわち、ルソーの理想は「意識(ヒトの秩序)」ではなく「無意識(モノの秩序)」に導かれる社会にあったということです。
 
そして第二の命題は現代とは「無意識を可視化できる」時代であるということです。すなわち、情報技術が飛躍的に進展した現代社会は「総記録社会」へと向かいつつあり、今や信じられないほどの多くの人々が自発的に、しかも実に克明に自らの行動や思考の履歴をネットワークの上に残し始めています。同書はこうした状況を「無意識の可視化」と呼び、これからの政府はそのように情報技術により可視化された「データベース」としての無意識を「一般意志2.0」として捉え、この「一般意志2.0」をできるだけ統治に活用すべきであると主張します。
 
以上の二つが同書の中核をなす命題です。しかし同時に同書はここでルソーと袂を分かち、精神分析の始祖ジークムント・フロイトを呼び出して、精神分析が意識による無意識の制御を志向するように国家の統治は「熟議(意識)」と「データベース(無意識)」の相互補完によって運営されるべきであるという第三の命題を導き出します。そして、このような「熟議」と「データベース」を組み合わせた「無意識民主主義」を同書は「民主主義2.0」と呼び、ここからさらに同書は「民主主義2.0」の社会では私的で動物的な行動の集積(データベース)こそが公的領域を形づくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや私的領域でしか成立しないという第四の命題を提示します。
 
⑵ 一般意志と訂正可能性
 
そして東氏は『訂正可能性の哲学』において、こうしたルソーの「一般意志」を「訂正可能性」の論理から再び論じています。先述したように同書は人工知能の発展を背景に台頭しつつある政治思想を「人工知能民主主義」と名指し、その起源をルソーが唱えた「一般意志」に見出しています。そして同時に同書は「人工知能民主主義」にはルソーの「一般意志」に隠された「訂正可能性」の論理を見落としているといいます。どういうことでしょうか。
 
一般的にルソーの社会契約論は、まず最初に自然状態があり、次に人々の間で「社会契約」が交わされ、結果として「共同体(社会)」における「一般意志」が生まれるという直線的な過程を描いたものとして理解されています。ところが東氏はルソーの社会契約ではむしろ最初に「共同体(社会)」の方が存在し、次にその起源として「社会契約」が見出され、その結果として「一般意志」なるものがあたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという遡行的な発見の仮定が隠されているのではないかといいます。
 
そもそもルソーという思想家の出発点には『社会契約論』に先行する『人間不平等起源論』という著作で述べられているように人間は自然状態の方が幸せだったという想定があります。すなわち、ルソーからすれば本来、人は皆孤独で幸せに生きることができていた「にもかかわらず」ある時に誰かが「共同体(社会)」を発明したせいで皆が「社会契約」を同意する他になくなって「しまった」ということです。このようにルソーは「社会契約」の裏側に「にもかかわらず」「しまった」という「訂正可能性」の論理を見出していたということです。
 
ところがこのようなルソーの思想を良くも悪くも「まっすぐ」に受け継いだのが現在の「人工知能民主主義」です。ルソーの主張はその後の時代における無意識の発見や統計学の確立によって「まっすぐ」に合理的に読解できてしまいます。すなわち、ルソーのいう「一般意志」とは実は集合的無意識と統計的法則性について語っていたものとして理解できてしまうということです。ここから真の民主主義を実現するためには人間よりも機械の指示に従った方がいいのではないかという「人工知能民主主義」の発想が出てくることになります。
 
けれどもそれはルソーが忍び込ませた「にもかかわらず」「しまった」という訂正可能性の論理を削ぎ落とした理解に他なりません。ルソーの「一般意志はつねに正しい」という命題は「一般意志はつねに正しいとされてしまう」という隠れた副命題とともに理解されなくてはならない、と東氏はいいます。すなわち『一般意志2.0』において描きだされた「データベース」と「熟議」という二つの民主主義が組み合わさった社会とは「データベース=人工知能民主主義」に対する「訂正可能性」としての「熟議=喧騒」が健全に機能する社会であるということです。
 

* 存在論的、郵便的(1998年)

⑴ 固有名をめぐる記述主義と反記述主義
 
東氏が1998年に世に放ったデビュー作である本書『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。本書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって駆動する「郵便空間」として理論化したことで当時の現代思想シーンに鮮烈なインパクトを与えました。そして本書で東氏が打ち出した「郵便空間」を支える基盤が「固有名」をめぐる「訂正可能性」の理論です。
 
この点「固有名」を縮約された確定記述の束とみなす立場がゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルが提唱した記述理論です。例えば「アリストテレス」という固有名は通常「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。こうした立場を「記述主義」といいます。
 
しかしアメリカの言語哲学者ソール・クリプキは1970年に行われた『名指しと必然性』という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。この時、記述理論に従えば「アレクサンダー大王を教えた人はアレクサンダー大王を教えていなかった」というおかしな命題が成立しているはずですが、実際には「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題はまったく問題なく通用します。これは〈アリストテレス〉なる固有名に確定記述の束に還元できない「剰余」が常に宿っていることを意味しています。こうした立場を「反記述主義」といいます。
 
そして、このような「剰余」の起源をクリプキは最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されるといいます。
 
もちろんこれは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の剰余について語るために「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。
 
ところがその一方でクリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。仮に「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、そこで「一角獣は実は存在した」という命題が成立するわけではありません。なぜなら「一角獣」という固有名はそもそも通常は「いつの日かそれが発見されるかもしれない」という想定の下で使用されていないからです。
 
⑵ 固有名と訂正可能性
 
つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかというコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその「訂正可能性」がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろ「訂正可能性」というコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。
 
つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定します。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになるということです。
 
こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出しています。
 
この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールです。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じています。
 
この点、デリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えています。すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されています。つまり、デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」です。
 
そうであればここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になります。そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになります。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されているといえます。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼びます。
 
アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれています。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現します。そして、これらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的に現れてくることになります。すなわち「訂正可能性」とは経験論的な領域を超えた超越論的な領域が出現するための条件として機能するということです。
 
⑶ 固有名になるということ
 
そしてこれは抽象的な哲学的思弁の話のみならず極めて具体的な個人の生き方の話でもあります。東氏は『訂正する力』において「固有名になれ」という提案をしています。ここでいう「固有名になれ」とは別に有名になれということではなく、周囲に対して職業や役職といった属性を売りにするような交換可能な存在ではなく「属性を超えた何か」で判断される環境を創り出すことで交換不可能な存在になるということです。
 
それは特別な能力を示せということではありません。そもそも人は誰でも交換不可能で固有の存在であり、それが普通に生きていると見えなくなってしまっているだけの話です。確かに我々は日常において、ともすれば自身を他者から期待された何かしらの類型の中に落とし込み、他人からの期待をこなすだけの交換可能な存在となってしまっています。
 
けれどもその鎧を打ち壊せば、人間はみな自動的に交換不可能な存在になると東氏はいいます。そして、そのためには「じつは」という訂正の梃子となる「余剰の情報」が必要であり、こうした「余剰の情報」こそが周囲が自分を「じつは」と「再発見」してくれる環境を創り出していくということです。換言すれば訂正可能な存在になるとは交換不可能な存在になるということです。そして、こうした生き方の提案はおそらく、これまでフランス現代思想、情報社会論(オタク論)、観(光)客論といった様々な領域を往還しながら常に周囲に「余剰の情報」を発信することで自身を訂正し続けてきた思想家東浩紀の生き方に根ざしたものでもあるということなのでしょう。