かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「正しさ」をめぐる思考実験--九段理江『東京都同情塔』

*「訂正」される「正しさ」

 
批評家の東浩紀氏は近著『訂正する力』(2023)において過去との一貫性を主張しながらも実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力としての「訂正」の論理の重要性を説いています。人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
このようにルールが絶えず「じつは」というかたちで「訂正」され続けていく現象は子どもの遊びのみならず人間の行うコミュニケーション全般において見られます。東氏はこのようなコミュニケーションにおける特性をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照することで「訂正」の論理として理論化しました。
 
そしてこの「訂正」の論理は社会における「正しさ」にも例外なく適用されます。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。
 
ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形ですが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉です。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。こうして常に「訂正」されていく「正しさ」が今後向かっていくかもしれないひとつの可能性を思弁する一冊が第170回芥川賞を受賞した九段理江氏の『東京都同情塔』です。
 

*「シンパシータワートーキョー」から「東京都同情塔」へ

 

 

本作の舞台はそう遠くない未来の東京です。本作の主人公である新進気鋭の建築家、牧名沙羅は2030年に新宿御苑に完成予定の巨大刑務所のデザインコンペに参加するための構想を練っていました。その巨大刑務所は収容者が快適かつ幸福に暮らせるという奇妙なコンセプトを掲げていました。しかし沙羅はその奇妙なコンセプト以上に「シンパシータワートーキョー」という刑務所とはとても思えないリゾート施設めいた名称に強烈な違和感を覚えていました。
 
様々な方面で何かと「正しさ」や「配慮」が求められる風潮においては語感がマイルドになり角が立ちづらいカタカナは便利な文字です。本作が描く世界では現実以上に様々な領域でカタカナによる言い換えが氾濫しています。例えばこの世界における犯罪者や服役囚は「(不憫な境遇から)同情されるべき人々」という意味で「ホモ・ミゼラビリス」と呼称されています。そして彼ら彼女らを収容することになる巨大刑務所「シンパシータワートーキョー」という名称も同様の発想から生まれたものでした。
 
そんな折、彼女が缶詰となっている都心のホテルを訪れた15歳年下のボーイフレンドである拓人は建設プロジェクトの関係資料を偶然目にして「シンパシータワートーキョー」を「東京都同情塔」という言葉に何気なく言い換えます。そして、沙羅は「東京都同情塔」という言葉に強く惹かれ「語の構造はシンメトリーだし、音的にも綺麗な韻を踏んでいて、刑務所にふわさしい適度な厳しさも含んでいる」ことから、これから建設されるタワーの名称は「東京都同情塔」こそふさわしいのではないかと思うようになります。
 
本作では東京オリンピックが当初の予定通り2020年に開催されており、現実には〈アンビルド〉になったイラク出身の女性建築家ザハ・ハディド氏が設計した新国立競技場も建設されています。そして、この競技場と高層タワーの対比が物語の一つの軸を成しています。
 

*「ホモ・ミゼラビリス」なる人々

 
本作の世界観の枢要部にあるのは「ホモ・ミゼラビリス」という架空の概念です。本作において「ホモ・ミゼラビリス」とは社会学者にして幸福学者のマサキ・セトが提唱した比較的新しい概念とされており、彼は著書『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』において従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性の人、また刑事施設で服役中の受刑者、非行少年を指して、その出自や境遇やパーソナリティについて「不憫」「あわれ」「かわいそう」といった同情的な視点を示し、彼らを「同情されるべき人々」つまり「ホモ・ミゼラビリス」として再定義しています。
 
またセトは従来の意味における「非犯罪者」を「幸せな人々」「祝福された人々」を意味する「ホモ・フェリクス」と定義し、彼らが自らの特権性を自覚する必要性を主張し、社会的な立場や属性による偏見や差別を考えるきっかけを提供したとされます。
 
そして、これらの新しいパースペクティヴは単に犯罪行為だけではなく社会全体に対する意識改革を促す重要な要素であり「誰ひとり取り残されないソーシャル・インクルージョン」と「ウェルビーイングの実現」に欠かすことができないと、本作では説明されています。
 

*「正しさ」をめぐる思考実験

 
果たして『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』は若年層を中心に支持を集め、同書の構想に基づき「シンパシータワートーキョー」の建設プロジェクトが立ち上がることになります。そしてセトはタワーの建設を受けて公刊された同書の『完全版』において犯罪者に厳しい処罰を望む人々やタワーの建設プロジェクトに反対する人々に向けて「なぜ、あなたは「犯罪者」ではないのか?」と問い、私やあなたがこれまで「犯罪者」にならずに済んでいるのは、私やあなたが素晴らしい人格を持って生まれたからではなく、たまたま素晴らしい人格を育むことが可能だった環境にいたからにすぎず、あなたがこれまで罪を起こさずクリーンに生きてこられたのはあなたの幸福な特権のおかげに他ならないといいます。
 
その一方でセトは世の中には特権を持たずに生まれてきた人がたくさんいて、良いことをしても誰からも褒められず、むしろ生まれてきたことを否定されながら大人になる人々がいて、そのような人たちは「報酬系」と呼ばれる脳の神経ネットワークが正常に育っていないことから、幸福な未来を想像できず、守るべき幸福がないため罪を犯すハードルが恐ろしいほど低いとして、彼らは「犯罪者」「加害者」である以前に「元被害者」であるケースが圧倒的に多いと主張します。こうしたことから彼は「そんな彼らとあなたが、同じ世界の、同じ法律/ルールのもとで、同じHomo(人種)として生きていかなければならないというのは、あまりにもアンフェアで、残酷な仕打ちではないでしょうか?」と述べています。
 
確かにリベラルな論理を純粋なかたちで徹底していけば、このような主張も少なくと思弁することは不可能ではないでしょう。正義が勝つとは限らない。努力が報われるとは限らない。想いが通じるとは限らない。人生は所詮は出来の悪いガチャでしかない。世界はそういうふうにできている。このような格差原理的な観点からすればもしかして現在において犯罪者と呼ばれる人々は将来において「じつは」この社会からひどい仕打ちを受け続けてきた被害者であり救済されるべき存在なのであるという思想が出てきてもまったく不思議ではなく、こうした思想が主流となった時代において「いや、それでも犯罪は犯罪だ」という主張はただちに大勢から「ホモ・ミゼラビリスの気持ちを考えろ」とか「意識をアップデートしろ」などと激しく糾弾されるかもしれません。
 
このような「正しさ」がまかり通る社会は現代の「正しさ」に照らせば到底容認できないディストピアでしょう。けれども「正しさ」が普遍的なものではなく常に「訂正」に開かれている概念である以上、今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれないということです。こうした意味で本作は「正しさ」をめぐる思考実験をラディカルに追求する文学実践であったともいえるでしょう。
 

* AIの言葉と人間の言葉

 
本作は受賞記者会見での九段氏の「全体の5%ぐらいはおそらく生成AIの文章をそのまま使っているところがある」という発言が話題となりました。例えば次の文章の一部には生成AIの文章が含まれていると九段氏はいいます。
 
Sara:【君は、自分が文盲であると知っている?】
 
AI-built:【いいえ、私はテキストベースの情報処理を行うAIモデルですので、文盲ではありません。
そして「文盲」は、侮辱や軽蔑の意味合いを持つ可能性のある差別的表現です。相手を傷つける可能性があるため、使用を避けるべきです。この言葉を使うことで、他人の能力や知識を軽視したり、尊重しない態度を示すことのないよう配慮しなければなりません。(以下略)】
 
(『東京都同情塔』より)

 

九段氏によればこの文章におけるAI-builtの回答の最初の一行目が九段氏の質問に対してChatGPTが実際に出力した回答であり、後に続く文章は創作だそうです。また九段氏は本作のプロットも生成AIとのやりとりから生まれたといいます。九段氏がChatGPTに「『刑務所』という名称を現代的な価値観に基づいてリニューアルしたいです。どのような案が考えられますか?」と質問したところ『ポジティブリカバリーセンター』『コミュニティリユースセンター』『セカンドチャンスセンター』などほとんどがカタカナを使った外来語風の言葉が回答として返ってきたそうです(「シンパシータワートーキョー」はオリジナルの造語だそうです)。そして九段氏はこのカタカナの外来語だらけの回答を受けた際に感じた違和感が「軽いことばのはん濫が社会をゆがめている」という本作のプロットのヒントになったといいます。
 
 
本作のAIに対する態度は極めて両義性を帯びています。沙羅はAI(文章構築AI)を「体言止めで話しかけてもスルーしないのが文章構築AIの好きなところだ」「彼はいじらしいほど懸命に、文章を積み上げていく」と愛でる一方で「訊いてもいないことを勝手に説明し始めるマンスプレイニング気質が、彼の嫌いなところだ」「いくら学習能力が高かろうと、AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥じもしない。人間が「差別」という語を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない。好奇心を持つことができない。「知りたい」と欲望しない」と突き放したりもします。
 
九段氏はAIが生成する言葉と人間が紡ぎ出す言葉の違いについて「現在のところ、AIが発する言葉と人間の発する言葉の違いは、『相手との関係性の中で初めて生まれる言葉があるのが人間』だと思います」と述べています。今後、ますます進化を遂げるであろう「AIが発する言葉」は「人間の発する言葉」の固有性を良くも悪くも様々な局面で問い直していくことになるでしょう。そして、それは突き詰めれば「人間」とは何かという問いに行き着くことになるでしょう。こうした意味で本作は常に「訂正」され続ける「正しさ」の可能性を描き出すと同時に、やはり常に「訂正」され続ける「人間」のあり方を問いに付す一冊であったように思えます。