かぐらかのん

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差異と反復の詩学--最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』

* 差異と同一性

 

通常、人は「同一性(おなじもの)」を基準としてそこから逸脱したものを「差異(ちがうもの)」として位置付けます。このような意味で人の経験は「同一性」なくしては成り立ちません。しかし実際の経験の流れの中に身を浸してみると、事物の組成にせよ言葉の意味にせよ、世の中のあらゆる事象は常に同一ではなく変転してやまないことに気付かされることになります。すなわち「同一性」とはこのような事象の変転をある時点で便宜上切り出した断面であり、それはある種の理念でありフィクションに過ぎないものです。
 
「同一性」の手前には微細な「差異」の蠢く世界があるということ。およそ世界の中で何一つ同じものとしてとどまるものはないということ。こうした観点から「同一性」と「差異」の二項対立は「差異そのもの(あるいは差異そのものを内在する仮固定的な同一性)」へと脱構築されることになります。では言葉はこうした「差異そのもの」を捉えることができるのでしょうか。この点、ゼロ年代以降の現代詩シーンをリードする詩人、最果タヒ氏は「わからないぐらいがちょうどいい(『きみの言い訳は最高の芸術』所収)」というエッセイにおいて次のように述べています。
 
言葉は、気持ちや事実を伝えるために生まれた言葉だ。人によってちょっとずつ違うものを、簡略化して、互いに理解できる形に変える。そういう、とても大切な道具。とても、危なっかしい道具。言葉にするだけで、簡単にいろんなことが切り捨てられていく。その人だけの、ささいなこと、あいまいなことが、四捨五入みたいに消えていくんだ。どこまでも意味と紐づいているからこそ、使うだけで、言葉はその人だけの感情を押しつぶして少しずつ消していく。そして、それでも私は、言葉を書く仕事をしている。
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

最果作品の特徴は一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めていく極めて特異的な文体にあります。換言すれば、それは「互いに理解できる形」としての言葉が持つ「同一性」の手前にある「人によってちょっとずつ違うもの」「ささいなこと、あいまいなこと」としての「差異」の蠢く世界を、やはり言葉によって掬い=救いだそうとする試みであるともいえます。こうした意味で本作『十代に共感する奴はみんな嘘つき』は最果作品の核心部をなす「同一性」と「差異」のせめぎ合いを思春期のこころの揺らぎに託して真正面から描き出した小説であるといえるでしょう。
 

* 十代という季節

感情はサブカル。現象はエンタメ。
つまり、愛はサブカルで、セックスはエンタメ。
私は生きているけれど、女子高生であることのほうが意味があって、自殺したどっかの同い年がニュースで流れて、ちょっと羨ましい。パスタが食べたいけどお金がないから、家でミートソースばかり作ってもらって食べている。バターを節約したパスタはちょっとだまになって食べづらい。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

本作の主人公である高校生、唐坂和葉(カズハ)は常に周囲の環境に違和感を持ち、他者や世界に対して過剰な反発心を抱いています。カズハは他者との関わりの根拠を「愛」を範例とする「感情」と「セックス」に象徴される「現象」という二項対立に還元した上で「感情」をもとに行われるコミュニケーションを極度に唾棄する思考の持ち主であり、なかでも「共感」は彼女の中でどこまでも否定すべきものとみなされています。
 
誰がこのまえ好きな先輩に告白したとか、誰がこのまえテストでカンニングして見つかったらしいとか、そういう話をだらだら聞いて、私はひとり電車が過ぎ去っていくのを見ていた。乗らないの、とかきいてはいけない。このホームでベンチに座って団子食べて語り合うのが青春であって、かけがえのない時の流れなんだから。鴨川のそばにすわって臭くはないかもしれないけど水の匂いを嗅ぐカップルを馬鹿にはできない。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

カズハは同級生男子への告白をめぐるいざこざがきっかけでクラスの女子達からハブられてしまいますが、その一方でカズハから告白された(そして次の瞬間に振られた)当事者の「沢くん」は逆にカズハの独特のキャラに興味を持ち、何かと絡んでくるようになり、ここにカズハのクラスで孤立している「初岡」という女子が巻き込まれます。こうして本作はカズハ、沢くん、初岡という三者間が織りなすまったく噛み合わないコミュニケーションの様相を繊細かつ鋭い筆致で紡ぎ出していきます。
 
そんな折、京都の大学に7年間在籍しているカズハの兄が唐突に恋人と、さらに彼女の浮気相手である兄の親友を連れて帰ってきます。カズハの沢くんへの意味不明な告白の裏には兄に対して抱く複雑な感情があったようです。果たして兄の恋人(カズハいわく「ビッチ」)の浮気は自殺しそうな兄の親友を救うためという事情があり、彼女と結婚するという兄の言葉にカズハは激しく動揺します。
 

* 感情と共感

 

ビッチのやることは理解ができた。親友を救うために、愛を用いようとしなかった彼女を信頼できるとすら思った。私は愛なんて、セックスなんてわかんないけどそう思ったのだ。セックスでなんとかしようとしたならそれは、愛よりも筋の通った手段。感情ではなく現象だから。未来からも永遠に観測できる存在だから。愛は、消える、見えなくなる。あったのかすら、きっとおぼろげになってしまう、たぶん。それなのに結婚とかいう愛でビッチとの関係をつなぎ止めようとするお兄ちゃん。「愛じゃない、結婚だよ」とか言って「それに性行為はただの現象じゃないよ。そこには快楽がつきまとうだろ」とか言って。私の考えていることはわかるくせに「結婚」にはかたくなだから、私が見えていないものもふくめて全部、兄にだけ見えているのかもと思うとつらい。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

なぜカズハはこうまで「感情」や「共感」を拒絶するのでしょうか。まず、そもそも「感情」とは言葉によって生み出されるものです。これに対して言葉以前に湧き上がる身体的、現実的な正体不明の感覚を「情動」といいます。このような「情動」は帰属主体が不明確であり、送り手と受け手が明瞭に分かれておらず、志向性を持っていません。つまり「情動」において伝播は直接的なものであるということです。
 
しかし、やがて人は言葉を習得する過程で自身の「情動」に名前をつけていくことになります。こうして「情動」の持つ強度は縮減され「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉に分節された「感情」という同一性の中で処理されることになります。このような「感情」は帰属主体が明確であり、送り手と受け手が明瞭に分たれており、志向性を持っています。つまり「感情」において伝播は間接的なものとなるということです。
 
こうしたことから送り手と受け手の「感情」が同じであるという保証はどこにもないわけです。例えば送り手の「悲しい」という感情はそのまま受け手に伝わるわけではなく、受け手では、まず「彼女が悲しんでいる」という認知が生じ、ここから「いったい何があったのだろう」「やれ困ったな」「私がさっき言ったことがよくなかったのだろうか」「どうしてあげたらいいんだろう」といったさまざまな思考が派生し、その中から最適解と思われる応答を送り手に送り返すことになります。
 
こうしてみると送り手から発信された「感情」を受信した受け手が行う一連のプロトコル(約束事)としての「共感」とは「感情」に照準をあてる限りで、常にその「同一性」の手前にある「差異」を取り逃がしてしまう側面を持っているともいえます。すなわち、カズハの抱える感情や共感に対する苛立ちとは、畢竟「同一性」に対する「差異」の苛立ちであるともいえるでしょう。
 

*〈私〉という自我の断片性

 

さらに、このような「共感」は〈私〉という同一性へ向けられています。しかしその共感の対象となる行為主体は論理的には常に「過去の〈私〉」であって「現在の〈私〉」ではありません。この点、本書のあとがきで最果氏は次のように書いています。
 
私は、今の私以外何一つ自由にはできない。過去の私は、正しくは私ではない。もう、とっくに他人になった。理解なんてできるわけもなく、コントロールできるわけもなく、コントロールもできるわけがなく、今さら懐かしいとか嫌いとか好きとか、思うことすら図々しくて、私はきみとは無関係だと、過去の私はまっすぐに私に伝えてくる。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』あとがきより)

 

この点、いぬのせなか座氏は「最果タヒ全単行本解題(『ユリイカ』2017年6月号所収)」において本作におけるカズハの徹底した共感の忌避は、過去から現在、未来に至る自己の連続性を欠いた私、そのつど固有のバラバラに点在する私というあり方を、作品内部におけるカズハの暴力的なまでの否定の意志と、それを携えて交わされる他者との関係によって描き直す試みなのだといいます。
そして、物語終盤でカズハが友人たちに「つながり」を感じ、そうした「つながり」が実現された「いま・ここ」に、かけがえのなさを抱く本作の結末は彼女の心理的な成長を印象付ける場面と読める一方で、それがカズハ自身の過去にも未来にもつながりえない(だからこそ、かけがえのない)固有の瞬間として経験されたという感覚を我々に与えてくれるのではないだろうかと述べています。つまり、ここでは〈私〉という自我は連続したものではなく徹底して断片的なものとして捉えられているということです。
 

* 否定する自我

 
そして、このような断片的な自我のありようを千野帽子氏は「自我は風船か、それとも免疫機構か(『ユリイカ』2017年6月号所収)」において「否定する自我」として捉えています。つまり、最果作品においてはアプリオリな「自我」が先行して、それが何か外のものを拒絶するのではなく、何か情報の入力に抵抗する免疫機構として瞬時に発話主体の「自我」というものが立ち上がるということです。その例としての千野氏は次のようなフレーズを挙げています。
 

ゆめとか思い出とかそういう言葉で語りたいなら語ればいいけど、でも絶対その瞬間、何かが永遠に思い出せなくなるだろう。十七歳とはそういう季節だ。都合良く記憶を改竄した大人による解釈じゃ、絶対一生消化はできない。

 

(『渦森今日子は宇宙に期待しない。』あとがきより)

 
ここでは〈一七歳〉という〈季節〉を〈ゆめとか思い出とかそういう言葉で語りた〉がる〈都合良く記憶を改竄した大人〉の〈解釈〉を出した上で、そのようなものでは〈一七歳〉という〈季節〉を〈絶対一生消化はできない〉と否定しています。すなわち、このような否定の機構が最果作品における自我を構成しているということです。
 

* 差異と反復の詩学

 
こうした意味で『十代に共感する奴はみんな嘘つき』というタイトルを戴く本作はこのような最果氏の「否定する自我」をずばり体現する作品といえるでしょう。つまり本作においては〈十代に共感する奴〉という第三者的存在を措定した上でこの第三者的存在を〈みんな嘘つき〉と否定し、ここで立ち上げられた「否定する自我」を反復するかのようにテクストが紡がれていくことになります。
 
そして、自我というのはもともとだれでもそういう成り立ちをしているのではないだろうか、と千野氏は述べます。確かに、少なくともポスト構造主義以降の哲学はこのようなかたちでの自我の生成を問題にしています。例えば「差異」の持つ固有性を追求した思想家として知られるジル・ドゥルーズは主著の一つである『差異と反復』(1968)において〈私〉という自我を自明の前提とせず「差異」が「反復」することで自我が立ち上がるプロセスを「現在」「過去」「未来」という三つの位相からなる「時間」として論じています。
すなわち、ドゥルーズによれば〈私〉という「同一性」は「差異」が「反復」する効果として生じることになるわけですが、この単なる効果に過ぎない〈私〉という「同一性」が一旦成立するやいなや、直ちにそれがあたかも「差異」に先行する自明の前提であるかの如き転倒が生じることになります。
 
本作が暴露するのはまさしくこうした転倒であり、その意味で本作は「差異」が「反復」することで〈私〉というまとまりがいかにして生成されていくかという存在論的なプロセスを繊細かつ鋭い筆致で記述し尽くしていく、いわば差異と反復の詩学というべき作品であったといえるでしょう。
 
兄のこと、まだ好きだ。たぶんずっと好き。背中がちょっと広くなった気がして、私より、ビッチが大事だったりするのかな、なんてすねたくもなって、でも、それでも兄が好きだ。つめこまれるよね、吐き出したくなるよね、形がどんどん変わるよね。私の知らない7年間を溜め込んで、そうして生き延びてきた兄のこと、私は愛おしいと思う、頑張ったねって言いたい、また会えたねって喜びたい。嫌いになるわけがなかったんだ。変わっていく。変わって、それでも、私だけは変わりたくないって思う。みんな愛してくれる。変わったって愛してくれる。そのことに慣れたくない。傷つくことにも、傷ついた人にも。傷がふさがらなくてもいいから。忘れられなくても良いから。このままで生きていたい。私、今日が好きです。今が好き。今のすべての人が好き。
 
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)