かぐらかのん

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【書評】動物化するポストモダン(東浩紀)

* 動物化--ポスト神経症的欲望の到達点

 
かつて1960年代に一世を風靡した「構造主義」の首領にして精神分析中興の祖として知られるジャック・ラカンは人間の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相の絡み合いの中で、その心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに位置付けました。これに対して1970年代に「構造主義」を乗り越える形で現れ大陸哲学に一大ムーブメントを起こした「ポスト構造主義」の代表的思想家と目されるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはその共著「アンチ・オイエディプス」において「いわゆる正常=神経症」という従来のラカン的構図をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱しました。
 
この点、ドゥルーズ=ガタリは「精神分析的欲望=神経症的欲望」から解放された「ポスト神経症的欲望」への展開を志向していました。ここでいう「神経症的欲望」とはラカンが「象徴界」と呼んだ間主観的ネットワークにおいて個人のセクシャリティの規範化を構成する欲望の様式を指しています。これに対して「ポスト神経症的欲望」とは象徴界=間主観的ネットワークから切断されて多方向に発散していく無軌道な欲望の様式を指しています。
 
こうしたドゥルーズ=ガタリの影響の下、日本においても1980年代の「ニューアカデミズム」と呼ばれる思想的流行以降、浅田彰氏のスキゾキッズ支持や宮台真司氏のコギャル支持といった形で「ポスト神経症的欲望」をめぐる議論が活性化していきました。そしてこうした議論における一つの到達点が2001年に東浩紀氏が上梓した「動物化するポストモダン」であったと言えます。
 
一般的に同書はアニメや美少女ゲームといった当時のオタク系文化の動向を現代思想の理論で分析した本として知られています。しかし、それはあくまで同書における一つの側面でしかありません。もし動ポモが本当に「それだけの本」なのであれば、出版から20年以上の歳月が経過した2022年の現在において同書を読む意味は懐古趣味以外になさそうですが、もちろん動ポモは「それだけの本」ではありません。
 
動物化するポストモダン」には単なるオタク論ないしサブカルチャー論を超えた極めて広範な哲学的射程を持った議論が含まれています。そしてそれは、ある意味であの「アンチ・オイエディプス」を決定的に更新する議論でもあります。動ポモが切り開いた真の革新性とは果たして一体、なんだったのでしょうか。
 

* シュミラークルの全面化と大きな物語の機能不全

 
あらためて「動物化するポストモダン」における議論を確認してみましょう。同書はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には次の2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。
 
第一に「シュミラークルの全面化」という点です。フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは来るべきポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シュミラークル」という中間形態が支配的になると予測していました。この点、オタク系文化における同人誌や同人ゲームなどの二次創作文化の爛熟は、確かにオリジナルもコピーもないシュミラークルのレベルで働いているように思われるということです。
 
第二に「大きな物語の機能不全」という点です。フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールポストモダンの特徴を「大きな物語の凋落」と規定しました。ここでいう「大きな物語」とは近代社会を統御した理想やイデオロギーやシステムと呼ばれる社会共通の規範をいいます。ポストモダンとはこうした単一の「大きな物語」が有効性を失い、無数の「小さな物語」の乱立にとって変わられる過程に他なりません。この点、オタク達が現実より虚構を重視する理由は彼らが現実と虚構の区別がついていないからではなく、むしろ現実が与えてくれる価値規範(=大きな物語)よりも虚構が与えてくれる価値規範(=小さな物語)を選択した方が、彼らの人生にとっては有益な選択となるからであるということです。
 
こうした前提の上で、同書は次のような2つの疑問を導きの糸として、オタク系文化の、ひいてはそこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について考察を進めていきます。
 
ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅しシュミラークルが増加するのだとすれば、そのシュミラークルはどのように増加するのか?
 
ポストモダンでは「大きな物語」が失調するのだとすれば、ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?
 

* 物語消費とデータベース消費

 
同書はまず、近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。「物語消費」とは、例えば「機動戦士ガンダム」という作品の消費を通じて、その作品の背後にある「宇宙世紀」といった「大きな物語=世界観設定」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは、個々の作品消費を通じてその作品を生成する「データベース」を消費する行動様式をいいます。
 
この点、本書は当時のオタク系市場に絶大な影響力を行使していた「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の背後にあったのは、視聴者がそれぞれ都合の良い物語を読み込む「大きな非物語=物語なしの情報の集合体」であったといい、エヴァ以降のオタク系文化は「大きな物語=世界観設定」よりもキャラクターの「萌え」が重視されるようになり「萌え要素のデータベース」が急速に整備されていったと主張します。
 
すなわち、オタク系文化の表層はシュミラークル=二次創作に覆われているけれど、その深層には設定やキャラクターのデータベースが存在し、さらに遡ればその背後には「萌え要素」といったオタク系文化全体の共通言語となるデータベースが想定されるということです。そこでは旧来のオリジナルとコピーの代わりにシュミラークルとデータベースの対立が台頭し、シュミラークルの優劣はデータベースとの距離で決定される事になります。
 
そして、こうしたオタク系市場における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しています。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「小さな物語=シュミラークル」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。
 
すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」にあるいうことです。これが「⑴ポストモダンにおいてなぜシュミラークルが増加するのか」という問いに対する解となります。
 

* ポストモダン的主体としてのデータベース的動物

 
そしてこのような「シュミラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されることになります。ここで氏はポストモダン的主体の範例として「美少女ゲーム(ノベルゲーム)」のユーザーを取り上げます。
 
エヴァ以降のオタク系文化の中心を担ってきた「美少女ゲーム」というジャンルにおける多くの作品では、ユーザーがどの選択肢を選ぶかでその後のシナリオが変化していくマルチエンディングシステムが採用されています。すなわち、美少女ゲームは「シナリオ=シュミラークル」と「システム=データベース」という二層構造から成立しています。こうして美少女ゲームのユーザーは「シナリオ=シュミラークル」に没入する動物的欲求と「システム=データベース」に介入する人間的欲望によって駆動されることになります。
 
この点「シナリオ=シュミラークル」における動物的欲求が他者とのコミュニケーション抜きで処理されるのに対して「システム=データベース」における人間的欲望は他者とのコミュニケーションにおいて発生します。もっとも本書によれば、この他者とのコミュニケーションは現実的必然ではなく特定の特定の情報への関心のみによって支えられており、それゆえ各人はいつでもコミュニケーションから離脱する自由を留保しているとしています。
 
こうした美少女ゲームのユーザーが露呈する特徴はポストモダンを生きる主体一般にも妥当すると本書はいいます。すなわち、かつて近代の人間は生の意味を他者とのコミュニケーションを通じて「小さな物語」から「大きな物語」へ遡行する「物語的動物」であったけれども、ポストモダンの人間は「意味」への渇望をコミュニケーションではなく動物的欲求に還元し、その一方で他者とのコミュニケーションは「意味」をめぐる現実的な必然を伴わない形骸的したもの、擬似的なものとして残存しているに過ぎないということです。
 
そして、このようなシュミラークルの水準での動物性とデータベースの水準での(形骸化した擬似的な)人間性を解離的に共存させたポストモダン的主体を本書は「データベース的動物」と名付けます。これが「⑵ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?」という問いに対する解となります。
 

* 動物化という他者回避--「ゼロ想」による「動ポモ」批判

 
周知の通り動ポモは幅広い反響を巻き起こし、ゼロ年代日本における現代思想シーンを強力に牽引することになりました。しかしその一方で同書に対しては、オタクの消費行動を過度に一般化しているとか、あるいはオタクの消費行動の実態を捉えていないとか、さらにはデータベース理論そのものが妥当ではないなどといった批判が向けられることになりました。
 
こうした中で動ポモに向かって決定的な批判の矢を放ったのが2008年に上梓された宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」です。同書は「新世紀エヴァンゲリオン」に代表される「1995年の記憶」を引きずる「引きこもり/心理主義的」な想像力を「古い想像力」と名付け、2001年前後から台頭し始めた「開きなおり/決断主義的」な想像力を「新しい想像力=ゼロ年代の想像力」と名付けた上で、東氏とその影響下にある批評家たちはこの2001年以降の世界の変化に対応できていないと主張します。
 
同書の論旨は以下のようなものです。まず同書は東氏が「現代の想像力」として支持する「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群とは「大きな物語」の失墜による絶望を極めて安易な母性的承認による「小さな物語」によって埋め合わせようとする、いわば「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき「古い想像力」の系譜に属しているが、今や「大きな物語」亡き後で無数の「小さな物語」同士が決断主義的に動員ゲーム=バトルロワイヤルを繰り広げるという時代の現実を引き受けた上で、かつその不毛な動員ゲーム=バトルロワイヤルの超克を志向する「新しい想像力=ゼロ年代の想像力」が台頭しているとします。
 
そして同書はポストモダンの世界構造として東氏のいうデータベースモデルの妥当性自体は認めつつも、東氏はデータベースから生成される「小さな物語」同士の関係性=コミュニケーションの重要性を見落としているといいます。東氏は「動物化」した人間はコミュニケーションによる意味の備給を必要とせず生きていると主張するけれども、果たして本当にそうなのか?現に東氏が一連の議論の例証として持ち出す当のオタクたちがまさしく皮肉な事にもパズルゲームでもアクションゲームでもなく美少女ゲームに耽溺し、二次元美少女たちとの疑似的なコミュニケーションを欲望しているではないか、むしろポストモダンの本質とは東氏が目を逸らした「小さな物語」同士のコミュニケーションの困難性にこそあるのではないか、ということです。
 
90年代以降の日本社会において「大きな物語」の失墜に絶望した人々はデータベースから自分の欲しい情報を都合よく勝手に読み込み、理想的な自己像=キャラクター的実存を承認してくれる他者性なきコミュニティとしての「小さな物語」に閉じこもろうとしました。こうした意味で東氏のいう「動物化」とは端的な「他者回避」に他ならないということです。
 
仮にこうした動物化=他者回避が完全に可能なのであれば、確かに他者とのコミュニケーションは原理的には不要となるでしょう。けれども実際にデータベースによる動物化が生み出すのは排除の論理です。人々が自分に都合の良い「小さな物語」に自足して生きるためには、その物語にとって都合の悪いノイズを排除する必要があります。だからこそ「小さな物語」たちは世界を友と敵に分けて、決断主義的な動員ゲーム=バトルロワイヤルを繰り返すことになります。こうした意味で「小さな物語」という断片たちは不可視的には接続されており、我々は決して他者とのコミュニケーションから逃れることは不可能です。
 
それゆえに同書はこの不毛な決断主義的な動員ゲーム=バトルロワイヤルを乗り越えるには、動物化=他者回避に閉じることなく、異なる「小さな物語」を生きる他者へと手を伸ばし、終わりある日常における一瞬のつながりがもたらす誤配へと開かれたコミュニケーションこそが模索されなければならないと主張し、そしてそれこそがまさしくゼロ年代の想像力たちが照らし出した現代の成熟の条件なのである、とします。
 

* クィア動物化--〈倒錯の強い定義〉からの「動ポモ」再解釈

 
このように宇野氏の議論は動ポモが抱えていた難点を真っ向から射抜くものでした。おそらくある面において動ポモはゼロ想によって乗り越えられたといえるでしょう。しかしその一方で動ポモには東氏自身も当時はおそらく想定していなかったであろう「別の仕方での可能性」が眠っていました。
 
この点、千葉雅也氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない--倒錯の強い定義」という論考において、動ポモを〈倒錯の強い定義〉という観点から読み直す議論を展開しています。
 
まず千葉氏はAOにおけるドゥルーズ=ガタリは「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいるとして、この事実はポスト神経症的欲望という〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆しているとします。すなわちAOにおいて展開される「分裂症論」はそれ自体、精神病的というわけではなく、彼らの理想化する「分裂症者」とは、セクシュアリティを規範化する〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われます。
 
そして、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば〈性別化のリアル〉の「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになります。
 
ここで〈性別化のリアル〉を排除している「かのように」否認するという「否認的な排除」を極めて強く誇張するならば、ここで倒錯は「精神分析的否認」と、精神分析それ自体の否認により開かれる「非-精神分析的否認」を直結させることで精神分析的な〈性別化のリアル〉を「否認的に排除=無効化せずに否認する立場」する態度として再定義されることになります。これが精神分析それ自体に対する「メタ倒錯」としての氏のいう〈倒錯の強い定義〉です。
 
こうした観点から千葉氏は、東氏のいう「動物化」とは「非-精神分析主義」の方へ振り切れた動物的欲求から、文字通り動物的に「異性愛-生殖規範性」をストレートに肯定し、その上に「認知的習慣化」としての対象(二次元美少女)へのアディクション(萌え)が便乗している「異性愛-生殖規範性的な動物化」であるとした上で、ここから「クィア動物化」の可能性を思弁して、その範例を「女装する女性」としての「ギャル(男)」に見出します。
 
神経症的囚われを「否認」した軽量化された身体性と有限化された社交性。その欲望の多すぎる理由づけを忘却したかのような「どうでもよさ」の中心にある「どうでもよくなさ」。こうした「ギャル(男)」の特性を氏は「頭空っぽ性 airhead-ness」という言葉で概念化しています。すなわち、かつてドゥルーズ=ガタリがAOで論じた「分裂症者」とは「メタ倒錯の主体」としての「データベース的動物」であったということです。
 

* 動物的現実と人間的倫理の間で思考するということ

 
人は世界に棲まう上でその生を基礎付けるため何かしらの「物語」を必要とします。ここでいう「物語」とは人が世界を理解するための媒介であり生の意味を提示する道標をいいます。この点、かつて社会共通のロールモデルとしての「大きな物語」が存在していた時代においては多くの人が「大きな物語」に遡行する事で自らの「物語」を基礎付けていました。ところが「大きな物語」が崩壊した現代においては、人はどのようにして自らの「物語」を生成するのかという問いが生じます。東氏の提示したデータベース理論はこうした時代の問いに対する優れた回答となりました。
 
もっともデータベースから生成される物語が必然的に帯びる排除の原理を乗り越えるためには物語を他者へ開く接続の原理を導入する必要があります。この意味で異なる物語を生きる他者同士のつながりこそが現代的な成熟の条件であるとする宇野氏の議論には正しい核心があります。しかしその一方で物語同士のつながりそれ自体が「つながりという名の新たな物語」となった時、そこには再び排除の原理が舞い戻ってきます。事実2010年代は様々な「つながり」が世界を友と敵に切り分け動員と分断を繰り広げた「つながり過剰」の時代であったわけです。
 
ゆえに異なる物語同士のつながりを新たな物語に固定化させることなく、つながりをただつながりのままに開き続けるためには、そこには接続の原理だけでなく切断の原理を導入する必要があります。この点、千葉氏の議論は「つながり過剰」をアドホックに切断していく「仮固定的な有限化」の視点からデータベース理論を読み直すものであったといえます。
 
動ポモにおけるコミュニケーション軽視はともすれば「つながり」に目を背けるオタク的な「弱さ」として捉えられがちです。けれども「つながり過剰」の現在からすれば、それはむしろ一周回って「つながり」に依存することのない倫理的な「強さ」であるとさえいえるでしょう。
 
こうしてみると同書の真の革新性はポストモダン的な人間像を、動物でしかない現実と人間であろうとする倫理を解離的に共存させるというダブルシステムによって思考している点にあったといえます。そして出版から20年以上経過した現在でもなお同書が未だ過去のものとならず、常に時代に対してアクチュアルな批判力を行使し続ける源泉は、まさにこうしたダブルシステムの思考の中に見出すことができるのではないでしょうか。