かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

様々な「正義」の泡立ちの中で--流浪の月(凪良ゆう)

 

*「常識」という名の予断と偏見

 
言うまでもなく小説には「語り手」が必要です。読者はあくまで語り手の描写や解説を通じて小説世界内の出来事や人物を知ることになりますので、その語り手がどの程度信頼できるかは一つの文学的な問題となります。この点、読者に疑いを引き起こすような語り手は「信頼できない語り手」と呼ばれます。そして、ある語り手を「信頼できない語り手」と看做す根拠として、その語り手の年齢や属性や性格などが挙げられたりします。
 
しかし少なくとも小説の語り手が小説世界内に属する一人称である場合、彼/彼女は常にある意味で「信頼できない語り手」であると言っていいのではないでしょうか。なぜならば一見、その語り口が我々の常識に照らし合わせて極めて信頼できる妥当なものだとしても、その「常識」それ自体が社会全体が共有する巨大な予断と偏見の産物だったりもするからです。そして本作はこうした予断と偏見に満ちた我々の「常識」に対して真正面から揺さぶりをかけるような一冊といえます。
 

* 出会ってはいけなかった二人

 
本作はプロローグ以外は一人称で語られ、章によって語り手が変わっていきます。そのあらすじは次の通りです。
 
本作の主人公、家内更紗は9歳の時に両親を喪い、母方の伯母の家に引き取られることになった。両親とは全く教育方針が異なる伯母の家に馴染めない更紗は学校が終わるといつも公園のベンチで本を読んで過ごしていた。そこには同級生から「ロリコン」と呼ばれる青年がやはりいつも自分と同じように本を読んでいた。
 
ある雨の日、公園でびしょ濡れになっても帰ろうとしない更紗に青年は傘を差し出し「帰らないの」と訊く。「帰りたくないの」と答える更紗に対して青年は「うちにくる?」と声を掛ける。こうして更紗は2か月もの時を青年の家で過ごすことになる。
 
青年の名は佐伯文。文は19歳の大学生で近所のマンションで一人暮らしをしていた。更紗にとって文の家にいることは当初、伯母の家に帰りたくないという消極的な理由であったが、次第に更紗は文の人柄に惹かれていき、文の家に自分の居場所を見出すようになっていった。
 
しかしその間、更紗は「家内更紗ちゃん誘拐事件」の被害女児として全国に実名報道されていた。やがて文は誘拐犯として逮捕され、更紗は「保護」されることになる。そして事件の後、更紗はずっと周囲から「ロリコンに誘拐された可哀想な被害者」として扱われるようになった。
 
そして事件から15年が過ぎ、更紗は24歳となり恋人もでき、それなりに幸せな日々を過ごしている。そんなある日、更紗は偶然文と再会することになった。
 

* 本作は「そういう話」ではない

 
我々の社会における圧倒的常識は小児性愛者を忌むべき危険な存在であると看做しています。そしてこうした常識の下で、おそらく多数の読み手は本作をその終盤まで小児性愛者の青年と天衣無縫な少女が紡ぎ出すイノセントな交歓の物語として読み解き、そこから例えば「確かにロリコン=危険という決めつけは良くない」とか、あるいは「小児性愛を過度に美化している」などといった類の感想を抱いたりするわけです。
 
しかしながら、本作を最後まで読めば明らかな通り、本作はまったく「そういう話」ではありません。ではなぜ読み手は本作を途中まで「そういう話」として読んでしまったのでしょうか。
 
それは第一に本作中盤までの語り手である更紗が文をロリコンであると認識しているからであり、第二に確かに我々の一般的な常識に照らし合わせても、文の様々な言動は悉く彼の小児性愛的な嗜好を指し示しているからです。
 
けれども、本作を読み終えた時、読み手は文のこれまでの言動を小児性愛的な嗜好とはまったく別の意味から捉え直す事になるはずです。人は皆、常日頃から「常識」という予断と偏見によって勝手に世界を決めつけて他者を理解したつもりになっています。こうした我々が依拠する「常識」がいかに危ういものであるかを本作は気付かせてくれるでしょう。
 

* 本作の問う「正義」の在り処

 
もちろん本作における文の行為は、とにかくは現行刑法における未成年誘拐罪の少なくとも構成要件に該当します。例えその「真の目的」がわかったところで、その手段までもが正当化されるわけではありません。むしろ文はかなり身勝手な理由で更紗を利用していたと言わざるを得ないでしょう。そして幼少時における更紗の選択も作中で言及があるように、いわゆる「ストックホルム症候群」ではないかという解釈も完全に退ける事は難しいように思えます。
 
しかし、そうだとしても既に法的制裁を受けた「悪」に対してさらなる「私刑」とも呼ぶべき社会的制裁を下す「正義」にいかなる倫理的正当性があるのでしょうか。近年のソーシャルメディアにおける炎上事件でしばし見られるように、人は違法ではない行為さえにも「正義」の名の下に「悪」に対して安全圏から嬉々として石を投げつけたりもするわけです。
 

* 様々な「正義」の泡立ちの中で

 
しばし人は世界で生起する出来事を「正義/悪」という二項対立に還元して「正義」の名の下に「悪」を糾弾したりもします。すなわち、それは「正義」が成立するには倒すべき「悪」が必要であることを意味しています。けれどもむしろ実際には「正義」と「悪」の関係は常に相対的であり、ある「正義」にとっての「悪」とは別の「正義」だったりもします。
 
そしてまた、ある「正義」が成立するには守るべき「被害者」が必要になります。ゆえに「被害者」はとにかく徹底して「かわいそう」な存在でなければならなりません。けれども世間一般の考える「正義」と当の「被害者」の考える「正義」が異なることだってあるでしょう。そこで「被害者」が更紗のように「私は可哀想なんかじゃない」と声をあげようものなら、その声はしばし多方向から様々な理屈やレッテルによって激しく否定されることもあります。
 
結局のところ、我々は様々な「正義」という「他者性」が泡立つ世界を生きているということです。そんな世界においてせめて我々にできる事があるとすれば、ひとつの絶対的な「正義」の中に安住することなく、様々な「正義」という「他者性」の泡立ちを織り込んだ上での仮留めの「正義」を日々丁寧に更新しながら生きていくしかないのでしょう。こうした意味で本作は一見して明白ともいえる「悪」を題材とすることで「正義」という名の思考停止に警鐘を鳴らす作品であったともいえます。