かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン--女のいない男たち(村上春樹)

* 性別化の式とファルス関数

 
精神分析における「男性」とは基本的に「去勢」された存在であるとされています。この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはその晩年において次のような「性別化の式」と呼ばれる男女のセクシュアリティに関する図式を提示しています。
 

 
この図式における「男性側の式」の左下(∀xΦx)は「すべての男性はファルス関数に従属しており、彼らが得ることができる享楽はファルス享楽だけである」という命題を示しています。
 
つまり「(精神分析的な意味での)男性」とは「言語の世界(象徴界)」における主体となる代償として「言語以前の世界(現実界)」における「絶対的享楽」の喪失を齎す「去勢」に、すなわち「(象徴的な)ファルス」の欠如に直面した存在です(ファルス関数)。その結果、男性は「絶対的享楽」の残滓としての「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するほかなくなります(ファルス享楽)。
 
ここでいう「対象 a 」とはファルスの欠如の隠蔽し「欲望の原因」となるフェティッシュな対象のことをいいます。男性はこの「対象 a 」をパートナーとすることで「幻想($♢a)」を構成し、自らの「ファルス」の欠如からひとまず目を背けることができる、ということです。
 
この点、男性がこの「対象 a 」の位置に、ある任意の女性を置いた時、その「幻想($♢a)」は一般的に「恋愛」とか「性愛」などと呼ばれることになります。けれどもラカンの示す図式からすれば、男性がパートナーにできるのはあくまでも「対象 a 」であり「女性そのもの」ではありません。
 
ここから「性関係はない」という後期ラカンのよく知られたテーゼが導かれます。そして男性が「対象 a 」としての女性を喪失した時、これまでのささやかな「幻想」は破綻し、彼は再び「ファルス」の欠如に直面することになります。
 

* 村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン

 
この点、村上春樹作品においてはしばしこうした意味での「対象 a =ヒロイン」を喪失した男性主人公が「幻想=生の物語」を記述し直していくという構図が見られます。そして、ここで鍵を握るのが「もう一人のヒロイン」です。
 
例えば「ノルウェイの森(1987)」では、ヒロインの直子が精神病になり最後は自死してしまうわけですが、その間、主人公のワタナベを支える存在が大学の同級生である緑です。また「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」では、失踪したヒロインのキキを捜索する途中で知り合ったユキという娘が主人公 の「僕」を振り回しながらも、その特殊能力でキキの消息を突き止めます。
 
あるいは「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」では、主人公であるオカダ・トオルは突然失踪した妻、クミコを取り戻すため、彼女の兄であるワタヤ・ノボルと対決することになりますが、その過程においてオカダは笠原メイという近所に住む不良少女から多くの示唆を受けます。そして「1Q84(2009〜2010)」では主人公の天吾がもう一人の主人公にしてヒロインである青豆と再会する上で鍵となる存在が「空気さなぎ」という物語を生み出したふかえりという不思議少女です。
 
これらの村上春樹作品においては直子、キキ、クミコ、青豆が主人公にとっての「母的ヒロイン」だとすれば、緑、ユキ、メイ、ふかえりは主人公にとっての「娘的ヒロイン」です。要するにこれらの作品では「母的ヒロイン」の喪失を「娘的ヒロイン」が一時的に埋めわせているかのような構造が共通しているわけです。
 

*「女のいない男たち」の悲喜劇

 
そして6つの短編からなる本作「女のいない男たち(2014)」における男性主人公も何らかの形でヒロインの喪失に直面します。けれども、そこには都合の良い「もう一人のヒロイン」は登場しません。すなわち、本作の主人公達は「娘的ヒロイン」の支援なしで「母的ヒロイン」の喪失を受け入れていき、あるいは受け入れることができずにいます。本作はこうした意味での「女のいない男たち」の悲喜劇が描き出されていきます。
 
この点、戦後日本を代表する文芸評論家である江藤淳氏は主著「成熟と喪失」において、近代的な「成熟」の感覚を「母」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を引き受ける事だと定義しました。そして江藤氏は「父」になれない自覚の下にあえて「父」である「かのように」振る舞う成熟の主体を「治者」と呼びました。
 
江藤氏のいう「治者」とは確かに「成熟と喪失」刊行当時の高度経済成長期においては適合的な成熟モデルであったかもしれません。けれども戦後的なロールモデルが崩壊した現代においては、むしろ「治者」とは異なった成熟モデルが要請されているといえます。
 
こうした意味で、本作における主人公たちは、それぞれが「母(的ヒロイン)」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を「治者」とは別の仕方で引き受けていく複数人の「女のいない男〈たち〉」であったといえるのではないでしょうか。
 

* 映画「ドライブ・マイ・カー」と原作小説の相違点

 
本作の冒頭を飾る短編「ドライブ・マイ・カー」は周知の通り昨年映画化され、カンヌ映画祭脚本賞アカデミー賞国際長編映画賞をはじめとした数々の賞を受賞し、日本映画史上歴史的な作品となりました。
この点、映画では、原作短編以外の別の短編の要素も取り込まれており、ストーリー自体も原作とはかなり異なるものとなっています。
 
原作小説の方は主人公の中堅俳優、家福が彼のドライバーを務めるみさきに、かつて自身の妻を寝取った後輩俳優である高槻という男との妻の死後から始まった奇妙な交流を回想録的に語るという流れになっています。この時点で家福が過去に負った精神的な傷は既に自身でほとんど克服しており、基本的にみさきは家福の回想の聴き役に留まっています。
 
これに対して映画版で家福と高槻の交流が始まるのはみさきが家福のドライバーになった後のことです。映画版で家福は売れっ子の舞台演出家という立ち位置になっており、彼は自身が演出を務める多言語演劇の主役に高槻を抜擢して、そこから2人の交流が始まります。
 
つまり、この時点で家福の精神的な傷は未だ癒やされてはいないわけです。そして家福は高槻との交流ではなく、むしろ、みさきとの交流の中で自身の傷を癒していくことになります。
 

* 原作小説以上に村上春樹的な作品になった映画

 
この点、原作小説の中核的テーマは先述のとおり、主人公が従来の村上春樹作品のように「もう一人のヒロイン」の支援のないところで自らの生の物語を記述し直していく点にありました。
 
ところが映画はむしろ従来の村上春樹的な構図に積極的に回帰しているように思われます。映画において家福の妻、音が「母的ヒロイン」だとすれば、みさきは「娘的ヒロイン」です。しかも原作でも映画でも、みさきは家福の夭折した実娘と同い年という設定なので、いわば彼女は緑やユキやメイやふかえり以上の「娘的ヒロイン」といえます。
 
おそらく原作小説の中核的テーマからすれば、映画におけるこうしたアレンジには賛否があるところでしょう。けれども見方を変えれば、従来の村上春樹的な構図へ積極的な回帰を志向した映画「ドライブ・マイ・カー」はある意味で、原作小説以上に村上春樹的な作品になったともいえるかもしれません。