かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

日常系におけるヒューマニズム--スローループ(うちのまいこ)

*「ゆるい日常」を描く意義

 
日本初の萌え4コマ専門誌として芳文社より2002年に創刊された「まんがタイムきらら」は3〜5人位の10代女子の会話劇を中心とした「ゆるい日常」を描き出すいわゆる「日常系」の牙城として知られています。日常系作品はゼロ年代におけるオタク系文化圏において徐々にその存在感を増し始め、2011年に公開された「映画けいおん!」は深夜アニメ発の映画としては当時異例といえる興行収入19億円を達成し、ある種の社会現象の様相を呈しました。この点、きらら編集長である小林宏之氏は2014年のインタビューにおいて、きららが「ゆるい日常」を描く意義を次のように述べています。
 
 社会に目を向けると、厳しいことがたくさんありますよね。“きらら”として、それをマンガでも積極的に描く必要はあるのだろうかと私は思います。私たちは日常に潜む人の温かみを描くよう注力しています。特に、だれかがだれかを思う気持ちは、普遍だと思います
 

 

*「つながり」を通じた「いまここ」の再発見

 
かつて宮台真司氏は「終わりなき日常を生きろ」において、近代的な個人の生の意味を基礎付けていた社会共通の価値観である「大きな物語」が凋落し、ポストモダン状況が進行しつつある現代を「終わりなき日常」と名付け、今や手に入れにくくなった生の意味を求めるのはやめて、単に楽しいことや気持ちのいいことを消費して「終わりなき日常」をまったりとやり過ごすことで快適に生きる「まったり革命」を唱導しました。
そして宇野常寛氏は「ゼロ年代の想像力」において、宮台氏のいう「終わりなき日常」を都市論の観点から「郊外化した世界(歴史から切断されてコミュニティの多様性とアーキテクチャの画一化が進行する世界)」として捉え直した上で、そこで成立しうる新たな「中間共同体」の可能性に注目します。そこで氏は宮藤官九郎作品や矢口史靖作品を引きながら、日常の中で自ら選び取った「中間共同体」を他の何者にも代え難い「入れ替え不可能なもの(=物語)」として機能させることで「郊外化した世界=終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」という図式を「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」へと読み替えてゆく現代的な成熟観を見出しました。
 
こうした国内思想的な観点からいえば日常系というジャンルもまた「つながり」という中間共同体を通じて「いまここ」の中に瑞やかな日常を再発見していく想像力によって支えられているといえます。この点、芳文社が2007年に創刊した4番目のきらら系列誌である「まんがタイムきららフォワード」はきらら初のストーリー漫画形式を採用し、4コマの枠から解き放たれた表現様式を日常系にもたらしました。2010年代を代表する日常系作品である「がっこうぐらし!」「ゆるキャン△」はいずれもフォワード連載作品です。
 
そして同じくフォワード連載作品であり、小林氏のいう「日常に潜む人の温かみ」「だれかがだれかを思う気持ち」にかつてになく真摯に向き合った日常系作品が「スローループ」であったように思えます。
 

* 二人はある日突然「姉妹」になった

本作の作者であるうちのまいこ先生は子どもの頃から漫画を描くことは好きだったけれども特に職業的な漫画家を目指していたわけではなかったそうですが「きんいろモザイク」「ご注文はうさぎですか?」というきららアニメに触れた事がきっかけで芳文社にダメもとで原稿を持ち込んでデビューした経緯があるそうです。本作はデビュー作「ななつ神オンリー!」に続く2作目で、その物語はこんなふうに始まります。
 
主人公の少女、山川ひよりは3年前に父親をがんで亡くして以降、もっぱら海辺で父親から教えてもらったフライフィッシングをしながらひとりの時間を静かに過ごしていた。そんなある日、もう少しで高校生となるひよりはいつものように海辺でフライフィッシングをしていると、何やら興奮した面持ちの見知らぬ少女がスクール水着(!)でまだ冷たい3月の海に飛び込もうとしていた。ひよりがフライキャスティング(!!)で何とか少女を止めると、少女はひよりのしていた釣りに興味を持ち、釣りたての魚の味に感激し、あっという間に二人は仲良くなった。
 
そして別れ際、ひよりは少女に実は今夜母親の再婚相手とその娘との食事会があることを告げると、少女は奇遇にも今夜同じような予定があると返してきた。
 
その少女の名は海凪小春。果たして彼女こそが「その娘」であった。こうしてひよりと小春は何やら奇妙な縁で「姉妹」となった。
 

* フライフィッシングとは何か

 
うちの先生はもともとキャンプが趣味でその延長線上で釣りも始めたらしく、最初はキャンプ漫画を描きたかったそうですが、すでに「ゆるキャン△」の存在があるためキャンプ漫画は断念し、その構想をリメイクして生まれたのが本作だそうです。
 
「スローループ」というタイトルはフライフィッシング用語の「タイトループ」の反対語が由来のようです。本作が題材にするフライフィッシングとは15世紀ごろの英国起源の釣りで水棲昆虫に模したフライ(毛針)を流して魚を釣ります。フライはとても軽く普通の投げ方では遠くまで飛ばないため、ライン(釣り糸)が空中でループを描くフライキャスティングという独自の投げ方が考案されました。
 
釣りの中でも比較的マイナーなフライフィッシングを題材にしたのはうちの先生自身が当時フライフィッシングしか釣り方を知らなかったらしく、ひよりも当初はフライフィッシングしかできない設定になっています。もっとも連載に当たっては綿密な取材が重ねられているようで、本作ではフライフィッシングはもちろん釣り全般や釣った魚の料理についてかなり本格的な描写と説明が頻繁に登場します。こうした本作の特徴について、うちの先生の担当編集氏は次のように述べています。
 
『スローループ』は読者の行動を促すマンガを目指しているんです。ひよりがフライフィッシングをしていたら自分も釣りがしたいと思ってほしいし、小春が料理をしていたら自分も作りたいと思ってほしい。なので、アウトドアをしたことがない方が読んでも分かるように詳しく描いてくださいとお願いしました。
 

 

* 等価交換の外部としての「誤配」

 
これは大きく言うと、作品の中に等価交換の外部としての「誤配」を仕掛ける試みといえます。きらら作品の事実上の想定読者層は社会に疲れ果てた大人達といわれています(うちの先生自身もきんモザごちうさに触れた当時はそうした人々の1人だった事をインタビューで述懐しています)。そういった人々はもっぱら、厳しい現実に疲れ果て「萌え」とか「癒し」といった甘やかな虚構をきらら作品に求め、そこでひとまず等価交換としての「萌え」や「癒し」を満たす事になります。
 
けれど同時に読み手は作品内で取り扱うジャンルをまずは作品理解の一環から検索なりで調べ始めてるうちに、いつのまにか作品を離れてそのジャンル自体に興味を抱き、その結果、そのジャンルを自分の「趣味」にしてしまうこともあるでしょう。
 
その時、その作品は読み手に等価交換の外部としての「誤配」をもたらし、大げさにいえば読み手の人生に想定外の、より豊かな可能性を開く契機ともなるわけです。事実、2010年代の日常系作品では「ゆるキャン△」や「恋する小惑星」のように作品内で取り扱うジャンルをある程度深く描写していく「誤配」的な傾向性を持つ作品が一定の支持を集めてきました。すなわち、本作はこうした近年の日常系作品に内在するひとつの可能性を徹底して押し進めた作品といえるでしょう。
 

*「他者性」が泡立つサイダーのような「つながり」

 
本作の主要キャラクターはひよりと小春、そしてひよりの幼馴染である吉永恋の3人です。主要キャラクターが3人という構成は日常系作品としては比較的少人数ですが、その分本作は主要キャラクターの内面へていねいに光を当てていきます。
 
ひよりは父を失った過去を今も引き摺っているという日常系作品ではかなり重い設定を持っています。同時にひよりはいわば「終わりなき日常」を(フライフィッシングをしながら)やり過ごしてきたポストモダン的主体とも重なり合います。
 
そして過去の傷が癒えない主人公(ひより)が、突然現れた天真爛漫な少女(小春)と、良き理解者である幼馴染の少女(恋)との交歓を通じて、その生の物語を修復していくという本作の基本的構図は日常系というよりもむしろかつての美少女ゲームに近いものを想起させます。ある意味で本作はかつての美少女ゲーム的構図を日常系の想像力の中で再構築した作品ともいえます。
 
この点、ヒロインに相当する小春と恋はひよりをめぐってある種の競合関係に立っています。小春は自分が知らないひよりを知っている恋を羨ましく思い、その一方で恋はひよりの心の中に深く踏み込めない自分に苛立っています。そして小春も恋も共に、ひよりには悟られまいとする闇や情念をそれぞれ抱え込んでいます。
 
スローループでは、こうした「知らない」「踏み込めない」「悟られまい」といった「他者性」が泡立つサイダーのような「つながり」の中で、ひより達は「想いを言葉することの大切さ」を学んでいきます。普段いつも一緒にいるからといって何もかも分かり合えるわけではない。むしろ人は本質的には何も分かり合えていない事こそを分かり合わなければならない。本作が描き出す「他者性」が泡立つ「つながり」の在り方はコミュニケーションにおける一つの倫理を提示しているように思われます。
 

*「ここでいい」から「ここがいい」へ

 
そして本作はひより、小春、恋達の「つながり」をていねいに描き出していくその一方で「つながりの外部」へ大きく開かれた作品でもあります。この点、ゼロ年代日常系が「ひだまりスケッチ」や「けいおん!」のように同世代女子間の理想的な「つながり」を追求していたとすれば、2010年代日常系は「New Game!」における「お仕事」や「ゆるキャン△」における「アウトドア」といった回路を導入する事で同世代女子間に留まらない多様な「つながりの外部」を切り開いていったといえます。
 
ではスローループが切り開いた「つながりの外部」とは何でしょうか。それはずばり「家族」です。ここでいう「家族」は実の家族にとどまらず義理の家族や友達の家族、そして地域といった広義の家族的なコミューンのことです。本作ではひより達とそれぞれの祖父母世代も含めた家族ぐるみの交流をはじめ、近所の釣り船屋を営む福本一花、二葉の姉妹、あるいは一花の旧友である宮野楓や二葉の同級生である二宮藍子といった異なる世代との交流が日常系としては異例の質量で描き出されます。
 
こうしてひより達の「つながり」に様々な「つながりの外部」から多様な刺激と知見と価値観が持ち込まれることで、彼女たちの「いまここ」は確実に深化していきます。それは作中の印象的な台詞を借りていえば「ここでいい」から「ここがいい」への深化です。そういった意味で本作は日常系における「つながり」をある種のヒューマニズムへと昇華した「いまここ」のドラマであるといえるでしょう。
 
「ここでいい」から「ここがいい」へ。終わりなき日常から瑞やかな日常へ。萌えと癒しから倫理とヒューマニズムへ。おそらく本作が描き出すループのその先には、2020年代における日常系のさらなる深化と飛躍の在り処を見出すことができるのではないでしょうか。