かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】日本のいちばん長い日(半藤一利)

* 半藤史学の原点

 
昭和38年6月20日、東京は築地の料亭でとある座談会が開かれました。元内閣書記官長の迫水久常、元陸軍大将の今村均、元陸軍大佐の荒尾興功、元秘書官の鈴木一ら、終戦当時の日本の政界や軍部の枢要にいた錚々たるメンバーが出席し、あの昭和20年8月15日に自分がどこで何をしていたかを回顧するこの座談会の企画と司会を務めたのが後に昭和史の大家となる文芸春秋の編集者、半藤一利氏です。
 
当時、若干33歳の若手編集者であった半藤氏が終戦企画として立ち上げたこの座談会において飛び交った戦争当事者たちによるリアルな証言の数々は同年の「文藝春秋」8月号に掲載され大きな反響を呼びました。そしてその後、この座談会をさらに掘り下げるべく取材を重ねた半藤氏が執筆し、当時の大御所ジャーナリストであった大宅壮一氏の名義を借りて昭和40年に世に問われた本書「日本のいちばん長い日」は「終戦というプロジェクト」を緊迫した筆致で描き出す半藤史学の原点というべき一冊です。
 

* 7月26日から8月14日まで

 
太平洋戦争末期の昭和20年7月26日、時の連合国はイギリス・アメリカ・中華民国の連名で日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を発しました。その第一報は27日に日本側へ伝わるも、当時中立国であったソ連に対して和平の仲介を依頼する対ソ工作が水面下で進行していたこともあり、政府はひとまず事態を静観する態度を取る事になります。28日の各朝刊紙は内閣情報局の指令のもとポツダム宣言を発表するも、紙面には「笑止、対日降伏条件」や「聖戦を飽くまで完遂」などという戦意高揚を図る強気の文字が踊り、同日午後4時にはポツダム宣言を「ただ黙殺するだけである」という鈴木首相の談話が発表されました。この時、ポツダム宣言がただの宣言ではなく実は連合国からの最後通牒であることに日本政府は気付いていませんでした。そして8月に入っても肝心のソ連からの回答はなく貴重な時間がただ無駄に過ぎていきました。
 
8月6日早朝、広島市が謎の大規模爆発により一瞬で壊滅したという衝撃的な報が政府中枢へもたらされます。翌7日に米国トルーマン大統領は広島に投下された新型爆弾は戦争に革命的変化を与える原子爆弾であると宣明し、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市へも投下する旨の声明を発表します。これに対して日本軍部側は連合国側のプロパガンダの可能性を捨てきれず、同日午後の大本営発表では新型爆弾については「詳細目下調査中」と述べるにとどまりますが、翌8日には広島の調査団から正式に間違いなく原子爆弾であるという報告がもたらされます。さらに翌9日未明、頼みの綱のはずのソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州国朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始しました。
 
急迫した情勢下で開かれた同日午前の最高戦争指導会議ではポツダム宣言の受諾条件について議論されました。ここでは我が国の国体護持をめぐり⑴天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外相案(一箇条案)と、⑴の他にさらに⑵占領は小範囲、小兵力、短期間であること⑶武装解除と⑷戦犯処置は日本人に手に任せることを追加した陸相案(四箇条案)が対立します。阿南陸相はこの4条件なくして国体護持は事実上不可能であると強硬に主張しました。そして議論が紛糾する中、長崎市に2発目の原爆が投下されたという報がもたらされることになります。
 
午後から開かれた閣議でも長時間の議論が尽くされるも意見はまとまらず、鈴木首相の提案により同日深夜に急遽開催された天皇臨席の御前会議でも議論が拮抗したまま日付が変わり、午前2時を過ぎたところでついに鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぐ事になり、ここに外相案によるポツダム宣言受諾が決定されました。
 
8月10日午前7時、政府は天皇大権に変更なしという条件付きでポツダム宣言を受託する旨の電報を中立国のスイスとスウェーデンへ送付。そして同盟通信が午後7時に流したポツダム宣言受諾の報をアメリカが傍受。アメリカ側の対日回答案(バーンズ回答)は英・中・ソの承認を経て連合国の回答として決定され、11日正午にスイスへ向けて打電されます。
 
日本では12日未明、バーンズ回答を流し始めたサンフランシスコ放送を傍受。「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官にsubject toする」という回答文中の「subject to」という文言をめぐり「制限下におかる」と訳した外務省と「隷属する」と訳した陸軍中央が対立。同日午後の閣議、翌13日午前の最高戦争指導会議、同日午後の閣議において議論は再度紛糾。甲論乙駁が果てしなく続き、ここでも阿南陸相は悲痛な抗議を続け、鈴木首相は再び昭和天皇に聖断を仰ぐことになりました。
 
翌日14日午前10時50分、鈴木首相の策案により昭和天皇の「お召し」という形で最高戦争指導会議構成員と閣僚全員の合同の御前会議が行われ、最後は涙ながらに国体護持を切論する阿南陸相たちを昭和天皇が説き諭すような形で日本の降伏は決まります。そしてここから終戦詔勅玉音放送に向けて「日本のいちばん長い日」が始まることになりました。
 

* 鈴木貫太郎阿南惟幾

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は「古事記」や「日本書紀」といった日本神話を手がかりに日本人の精神性は「中空均衡構造」に規定されていると主張します。ここで河合氏のいう「中空均衡構造」とは、西洋近代社会における「垂直統合構造」のようにある特定の原理が全体をすべからく統合するのではなく、相対立する諸原理がその中心にある「空」というある種の無原理をめぐって調和的に均衡している状態をいいます。そして氏はこうした「空」の位置を何かしらの特定の原理が瞬間的に占めたとしても、やがて対抗する別の原理による揺り戻しが起きて、結局その全体は「空」を中心とした均衡に還る事になるといいます。
 
こうした意味で鈴木貫太郎という人は優れて日本的な「中空均衡構造」の力学を熟知したリーダーだったように思えます。鈴木は海軍で連合艦隊司令長官軍令部長を歴任した後、宮中の侍従長となり昭和天皇の信任篤い存在であり、戦況悪化の中での総理就任を打診された鈴木は何度も固辞するも、最終的に昭和天皇に懇願され77歳という高齢を押して総理に就任します。
 
そしてポツダム宣言受諾をめぐる議論が紛糾し、もはや鈴木内閣は対ソ工作失敗の責任を取って総辞職すべきではないかという従来の政治的常識に基づく意見も出る中で、鈴木はこの戦争は自分の内閣で終結させるという確固たる決意の下に流転する時局を冷然と俯瞰し、時には狸芝居を打って周囲を煙に巻きながら議論が熟する時をひたすらに待ち続け、ついには「御前会議による聖断」という奇策をもって徹底抗戦を叫ぶ大本営を老獪に出し抜き「終戦というプロジェクト」を手繰り寄せる事になります。
 
このように「終戦というプロジェクト」における「表の立役者」が時の総理大臣、鈴木貫太郎だとすれば「裏の立役者」こそが時の陸軍大臣阿南惟幾であるといえるでしょう。周知の通り当時の内閣では軍部大臣現役武官制が導入されており軍に都合の悪い議案が決まりそうな時は陸相が辞任して内閣ごと潰してしまうのがこれまでの常套手段でした。けれども阿南は陸軍の立場を強硬に主張する一方で、最後まで決して辞任はしませんでした。というのも当時、陸軍内部では政府転覆を画策するクーデター計画が目下進行中であり、阿南は陸軍の立場を強硬に主張する事で軍の暴発をギリギリのところで抑えていたからです。
 
それゆえに昭和天皇の聖断が降ると一転して阿南は猛り狂う部下達の前に立ちはだかり、不服なものはまず阿南を斬れと言い放ち、今や大義名分を失ったクーデター計画を諌める一方で、終戦詔勅をめぐる閣議では帝国陸軍に栄光ある敗北を与えるため孤立無援の中で毅然とした抵抗を続けました。そして最後は陸軍の代表者としての責任を取り「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺書を残し壮絶な自刃を遂げることになります。
 
こうしてみると鈴木首相がポ宣言をめぐる対立諸勢力の均衡点を終始正確に見極めていたとすれば、阿南陸相は文字通り身命を賭してその均衡点を創り出したともいえます。いわば両者の演じた対立とは「終戦というプロジェクト」において軍を出し抜く役割と抑える役割という役割分担の相違に帰するのではないでしょうか。
 

* 宮城事件

 
本書が描き出す8月14日正午から8月15日正午までの「日本のいちばん長い日」とは「終戦というプロジェクト」をめぐり政府と青年将校が熾烈な攻防戦を繰り広げた24時間のドラマです。陸軍の策動したクーデター計画は結局、阿南陸相らの賛同を得られず空中の楼閣と帰してしまいます。しかし、それでも諦め切れなかったのが軍務局課員、畑中健二少佐と椎崎二郎中佐を中心とする一部の青年将校達です。彼らは宮城を占拠して昭和天皇に「御聖断の変更」を願うという途方もない計画を夢想し、その実行にあたり関係各方面の協力を取り付けるべく奔走します。
 
この点、畑中らの計画の鍵は宮城を警衛する近衛師団の動員にありました。けれども難物として知られる森赳近衛師団長を説得できる可能性は限りなくゼロに近く、その計画はもはや無謀というより暴挙といえるものでした。畑中らの先輩格である井田正孝中佐はその心境にこそ共感しつつも、至誠天に通じねば最後には師団長を斬るしかないと激しく思い詰める彼らを冷静に次のように諭します。
 
「なるほど、さっきから聞いていると、きみたちの計画の根本は、近衛師団天皇を擁して宮城に籠城する体勢をとる、という一点にあるようだが、そのためにはどうすればいいか。結論的にいえば、師団の団結が成否のカギになる。師団長が率先陣頭を指揮せぬかぎり、このような籠城は不可能であろう。なのに師団長を斬らねばならぬという。師団長を斬るような状況で見込みがあると思うのか。これは大義名分を失った単なる暴動にしかすぎなくなる。社会的争乱を引き起こすのが目的ではないはずだ。」
 
畑中少佐が泣かんばかりになって、「絶対大丈夫です。絶対大丈夫です」とくり返した。 
 
(本書より)

 

結局、井田は畑中の熱意に絆されて行動を共にする事を決意しますが、僅かな行き違いから師団長を惨殺してしまった畑中らは以後はもはや成り行きのままにニセ命令によって近衛師団を扇動し、果たして一時的な宮城制圧に成功する事になります。これが世にいう「宮城事件」です。そして明日にも終戦詔勅玉音放送がある事を知った彼らは放送を阻止すべく死に物狂いで玉音盤を探し回ります。
 

*「国体」とは何か

 
半藤氏は畑中少佐らを突き動かしていたのは利欲でも怨恨でも功名心でもなく、あくまで「国体護持」を貫かんとする彼らなりの信念であったといいます。もっとも政府側にしてもポ宣言受諾にあたり「国体護持」は絶対に譲れない一線であり、鈴木首相も阿南陸相もいわば「国体護持」という目的のための手段をめぐり対立していたわけです。
 
けれども、ここでいう「国体」なる観念の内実は論者によって様々に異なっており、とりわけ畑中らが奉じる「国体」とは天皇や皇室といった法的制度の次元を遥かに超越した「日本人の普遍的精神そのもの」というべき観念です。この点、畑中や井田が師事した東大教授平泉澄博士の主唱する実在的国体観によれば、建国いらい日本は君臣の定まること天地の如く自然に生まれたものであり、これを正しく守ることを忠といい、万物の所有は皆天皇に帰すがゆえに国民は等しく報恩感謝の精神に生き、天皇を現人神として一君万民の統合を遂げることこそが我が国の国体の精華であるとされます。
 
現代社会の平均的感覚からすれば俄に理解し難い論理ではありますが、とにかくもこうしたラディカルな国体観から畑中らは目下の時局を案じ、無条件降伏の根本理由など畢竟、自分の生命が惜しいからという売国奴の論理であるか、早ければ早いほどあらゆる面での損害が少ないからという唯物的戦争観でしかないという結論に到着し、さらに戦争とはひとり軍人だけがするのではなく、君臣一如、全国民にて最後のひとりになるまで遂行せねばならないはずのものであり、国民の生命を助けたいなどという即物的理由による無条件降伏はかえって国体を破壊する革命的行為に他ならないと断じ去り、これを阻止することこそが国体にもっとも忠なのであると信じ込んでいました。
 
これは当時の日本においては特段奇異な思想ではありません。少なくとも昭和10年の国体明徴運動以降、政府も軍部も「国体」こそが我が国の絶対至高の統治原理であると大いに喧伝していました。昭和12年に文部省が全国の学校にばら撒いた「国体の本義」なる本によれば、万世一系天皇が永遠に日本国を統治することこそが「我が万古不易の国体」であり、この大義に基づき「一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する」ことは国民自明の常識とされ、少なくともそう信じるよう強いられていました。ここに書かれてあることと畑中らの奉じる国体観とはそう遠い距離にはないでしょう。むしろ畑中らの悲劇の本質は「国体」という「大きな物語」をあまりにも純粋無垢に信奉してしまっていた点にあるといえます。
 

* 物語と平衡感覚

 
現代の倫理観念からすれば畑中ら青年将校を悪と断罪したり視野の狭い愚者だと嗤う事は容易でしょう。けれどもそう言いながらもその一方で、現代においても我々はカルトや原理主義といった物語に入れ込んだ挙句にテロリズムに走ったり人生を破滅させてしまう事例を数多く目撃しています。時代がいかに変わろうとも人は良くも悪くも何かしらの物語に取り憑かれてしまう生き物です。物語は人を生かす側面を持つと同時に人を殺す側面も持っています。
 
この点、本書はその序で「今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは”平衡感覚”によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右や左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡を取り戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命が決まるのではあるまいか」と書いています。
 
かつての青年将校らの狂騒や、現代におけるカルトや原理主義の暴走は、まさしくここでいう「平衡感覚」の喪失から生じた典型的ケースといえるでしょう。そしてまた、何かしらの「正義」の名の下に気に入らない他者に安全圏から嬉々として罵詈雑言を投げつける現代インターネット社会でよく見かけるあの病理現象にしても、やはり自分に都合の良い物語に取り憑かれて少なからず「平衡感覚」を狂わせてしまったひとつのケースであるといえるでしょう。こうした意味で我々はどんなに正しく美しく素晴らしくみえる物語でも決して絶対視することなく、常にこれを批判的に観るための「平衡感覚」をあの8月15日から学び取るべきなのではないでしょうか。