かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか--人生がときめく片付けの魔法(近藤麻理恵)

*「環境」を変えることで「自分」を変える

我々が日々行なっている行動というのは一見して自由な主体的選択に見えて、実はかなりの部分を周囲の「環境」に規定されています。東浩紀氏が「弱いつながり(2014)」で述べているように、人は自分のいる「環境」から予想されたパラメータの集合でしかありません。
 
我々は外側から見れば単なる「環境」の産物でしかない。それなのに内側からはみな「かけがえのない自分」として、そんな「環境」から自由でありたいと思ってしまうわけです。ここに人間を苦しめる大きな矛盾があると、東氏はいいます。すなわち我々がもし「今の自分を変えたい」と願うのであれば、まずは、今の「自分」を規定するこの「環境」をラディカルに変えてみることから始めるべきである、ということです。
 
この点、東氏はその「環境」を変えるための方法として、様々な場所を訪れて、見ないものを見て周り、考えるはずのないことを考える「誤配」の経験としての「観光」を提案しています。もちろんこれはその通りだと思うのですが、このコロナ禍のご時世だと、人によっては今はちょっとハードルが高いと思う向きもあるでしょう。
 
「環境」を変えるための方法はひとつではありません。そしてそれはまさにこのコロナ禍によって改めて注目された「おうち」の中にあります。そう、もっとも生活に密接した「おうち」という環境のラディカルな再構築。それが「片付け」です。
 

*「祭りの片付け」と「ときめき」

 
いまや世界的ベストセラーになった近藤麻理恵さんの著書「人生がときめく片付けの魔法(2010)」は「自分の人生を丸ごと変える一大プロジェクト」として「日常の片付け」とは別の「祭りの片付け」の実践を提唱しています。普段の「日常の片付け」で苦労しないためにも、この「祭りの片付け」を一日でも早く終わらせてしまうべきだと、本書は述べています。
 
この点、本書のいう「祭りの片付け」は、まず初めに「片付け」の根源的な目的である「理想の暮らしを考える」ところから始まります。そして実際の作業においてやるべきことは「モノを捨てるかどうか見極める」「モノの定位置を決める」の二つです。ここで大事なことは「捨てる」が先ということ。まず「捨てる」を完璧に終わらせるまでは収納については考えないということです。
 
そして「捨てる」という作業は「場所別」ではなく「モノ別」に行います。家中のモノを「洋服」「本類」「書類」「小物」「思い出品」といった「モノ別」にかき集めて、そこで何を捨てて何を残すかを判断する。そしてその際の判断基準は今やグローバルスタンダードとなった「ときめき」です。
 
結構誤解されがちですが、ここでいう「ときめき」というのは、単純に「うっとりする」とか「かわいい」とか「ワクワクする」というファンシーな感覚だけではなく、デザインや機能に「安心する」とか「便利」とか「しっくりくる」とか「役に立ってくれている」という安心感や信頼感といった感覚も含まれます。もちろん他人から見れば完全に意味不明なモノでも、そこに何かしらの「ときめき」を感じるのであれば、それは堂々と取っておけばいいということです。
 

* モノの役割を考えてみる

 
こうした「ときめき」をモノを触った瞬間に感じるかどうかで捨てるか残すかを判断するわけです。ここではきちんと「触る」という身体的な感覚が重要になります。自分の頭の中では「ときめき」のカテゴリに入っているはずのモノも実際に触ってみると、もはや「ときめかない」こともあるでしょう。
 
「ときめかないけど捨てられないモノ」についてはそのモノの役割をよくよく考えてみる。「あるに越したことはない」と思ったら「なくてもどうにかなるかも」と考えてみる。なぜこれを持っているのか?私のところにやってきたことにどんな意味があるのか?こういうことをよくよく考えてみると、案外その役割はすでに終わっていることがわかる。こうして役割を終えたモノたちは感謝の念を持って送り出す。
  
ここで大事なのは「何を捨てるか」ではなく「どんなものに囲まれて生きたいのか」という視点です。こうした自らの内なる声に丁寧に耳を傾けていくプロセスの積み重ねにより、自分のモノの適正量や価値観がクリアになっていくわけです。
 
「何でもかんでも捨てる」ではなく、あくまで「ときめくモノをきちんと残す」ということ。この点で、こんまりさんの「片付けの魔法」は巷の「断捨離」や「ミニマリズム」とは、一線を画しているといえるでしょう。
 

* なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか

 
そして、こんまりさんは「祭りの片付け」は「一気」に「短期」に「完璧」に終わらせないといけないと幾度となく強調されています。その直接的な理由は「リバウンド」の防止にあります。すなわち「一気」に「短期」に「完璧」に片付いた状態を劇的に体験すると、もう二度と散らかった家に住むのがイヤになり、決して「リバウンド」の状態に戻れなくなるということです。
 
この点、片付けを「環境」のラディカルな再構築と捉える立場からも、この「一気」に「短期」に「完璧」にというやり方は、極めて理にかなったものであるといえます。
 
確かに「日常の片付け」をただただ漫然と続けているうちは「自分」を取り巻く「環境」は常に過去の「環境」との連続性を持ち続けており、その「環境」の産物である「自分」を変えるほどのインパクトは持ち得ないでしょう。
 
ところが「祭りの片付け」によって「環境」をラディカルに--まさしく「一気」に「短期」に「完璧」に--再構築することで、その「環境」の産物たる「自分」もまたやはりラディカルに再構築されることになる、ということです。
 

* アイロニー・ユーモア・享楽的こだわり

 
こうした「片付けの魔法」のプロセスは、千葉雅也氏が「勉強の哲学(2017)」で提示した「深い勉強」のプロセスと極めて似ています。同書は「勉強」を「ある環境のコード」から「別の環境のコード」への移行と捉えた上で、その「間」に注目した「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」を「アイロニー(懐疑)」「ユーモア(連想)」「享楽的こだわり(特異性)」からなる「勉強の三角形」として概念化しています。
これは先に述べた東氏のいう「環境を変えることで自分を変える」という発想のより精緻な分析であるとも言えます。この点「片付けの魔法」における「理想の暮らしを考える」という行為は、これまでの「環境のコード」に対する「アイロニー(懐疑)」に相当し、従来の場所からモノを引き剥がして一箇所に集め、ひとつひとつモノを吟味していく過程は「ユーモア(連想)」に相当します。そしてモノを選択する上での最終審級としての「ときめき」とは「享楽的こだわり(特異性)」に相当するでしょう。
 
こんまりさんは「片付け」とは単なるモノの取捨選択といった「作業」ではなく、モノと自分の関係を見つめ直して微調整する「最高の学びの場(=勉強!)」であり、人は「片付け」によって「自分を好きになること」ができるといいます。
 
結局のところ、人は環境(のコード)の産物でしかないのかもしれません。それでも人はかけがえのない自分(という特異性)を生きていきたいと願ってやまない存在でもあります。こうした人生における根源的な矛盾を乗り越える為の実践哲学の書として、あるいは本書を読むことができるようにも思えます。