* 丁寧な暮らしではなくても
2020年1月に発売された『暮しの手帖』の表紙に大書された「丁寧な暮らしではなくても」というフレーズは当時、読者をはじめとして業界に少なからぬインパクトを与えたそうです。1948年に創刊された同誌は昭和の一時期には販売部数100万部ともいわれた人気雑誌で、令和の現在においてもなお多くのファンに支持されており、まさに「丁寧な暮らし」を体現する雑誌として見做されていたからです。同誌の新編集長に就任した北川史織氏は「『暮しの手帖』新編集長就任のお知らせ」において次のように記しています。
丁寧な暮らしではなくてもリニューアル号の表紙にそう掲げたのには、ひとつの思いがありました。「丁寧な暮らし」というフレーズがすっかり定着したいま、それは「ゆとりがあるからできること」と捉えられてしまい、自分らしい暮らしを送ることさえも、どこか遠いことと感じる人も多いのではないでしょうか。私たち『暮しの手帖』が伝えるのは、たとえゆとりがなかったとしても、日々をよりよく、深く満足して暮らしていくための「まっとうな知恵」です。誰かから「いいね!」がつくような、「丁寧な暮らし」を目指さなくてもいい。不安の多いこの時代だからこそ、確かな情報を頼りにし、工夫をこらして楽しみながら、自分が本当に納得する暮らしを築いていきたい。そう考えるすべての人に向けて、『暮しの手帖』はこれからもずっと、編集者自らが手と足を使って確かめたことをお伝えしていきます。広告をとらず、実証主義を貫く小誌のこれからに、ぜひご注目ください。
確かに当時、もはや「風潮」と呼ばざるを得ないほど〈ていねいな暮らし〉は流行していたといえます。今もなお、すでにピークは打ったとはいえ、そのトレンドは継続しつつ、ひとつの価値観としてさらに深く浸透しているようにも思われます。
しかしその一方で〈ていねいな暮らし〉へと注がれる目は温かいまなざしだけではなく、冷ややかな視線をも含むものでもあります。あこがれ、羨望、理想化と同時にそれらと表裏一体をなす、嫉妬、揶揄、批判などが現在もなお〈ていねいな暮らし〉に向けられています。
果たして〈ていねいな暮らし〉はどこからきて、どこへ向かうのでしょうか。こうした問いに『暮しの手帖』という雑誌と花森安治という人物から迫る一冊が本書『〈ていねいな暮らし〉の系譜--花森安治とあこがれの社会史』(2025)です。
*〈ていねいな暮らし〉とは何か
本書はまず第一章「〈ていねいな暮らし〉問題--花森安治のうしろ姿」で現代の〈ていねいな暮らし〉という言葉が何を意味していつ頃から人口に膾炙したのか、その実践者や否定派によってどのように語られているのかを確認していきます。
〈ていねい〉という形容動詞はもとも中国語の「丁宁」に由来するそうですが、中国語の「丁宁」が「心を込めて言い聞かせる」という具体的な動作を意味していたのに対して、日本語の〈ていねい〉は「細かいことろまで気を配ること」「注意深く入念にすること」「言動が礼儀正しく、配慮が行き届いていること」といったニュアンスが溶け合った抽象性の高い言葉で、実にさまざまな行為を包括する広範な概念として使われています。
〈ていねい〉がこれだけ曖昧な言葉なのだから当然ながら〈ていねいな暮らし〉を具体的に定義することも難しいでしょう。本書は現在入手できる関連書籍や雑誌およびWeb等から〈ていねいな暮らし〉の具体的なイメージとして次のようなものを抽出します。
まず「食」に関連するものとしては「ペットボトルのお茶ではなく、急須で茶葉から淹れて飲む」「コーヒーは、インスタントでなく、豆を選び自分で挽いて淹れる」「ダシ(出汁)は、前夜から昆布を水につけておく」「庭や窓際でハーブやミニトマトを育てて食卓にのせる」「味噌づくり、梅仕事、漬物、ジャムづくりなど、季節の仕事を楽しむ」といったものです。
続いて「衣」「住」、あるいは生活全般に関しては「古い衣装も使い捨てにせず、繕ったり、リメイクしたりして活用する」「手仕事を愛する」「大量生産品よりも手作りのものを愛する」「小さくても居心地の良いコーナーをつくって、自分のための時間をもつ」「花を飾る」「香をたく。アロマを愉しむ」「二四節気七十二候、地域行事、家族の記念日などを意識して楽しむ」とあります。
このように「暮らしの中の小さないとなみ一つひとつを、ひとてまひとてまかけることで、大切に、味わいつつ行う」という理解が〈ていねいな暮らし〉全般に共通しており、さらにはそれが物心両面の生活全般、ひいては人生をも豊かにするという前提も共有されているようです。
*〈ていねいな暮らし〉問題と『暮しの手帖』
その一方で〈ていねいな暮らし〉のブームはいわゆる「絵づら」によって拡散した側面もあります。2014年に日本語版がリリースされたInstagramは急速に普及し、翌年6月のユーザー数は810万人へと激増しました。2017年12月には「インスタ映え」がユーキャンの新語・流行語大賞を受賞し、この語から「ばえる」という動詞も派生しました。〈ていねいな暮らし〉の流行はこのインスタの急速な普及と機を一にしていたといえます。
このように〈ていねいな暮らし〉ブームの背景にはイメージを共有できる誰にでも参加可能なSNSの存在があったことは見逃せないでしょう。こうしたことからSNS上で流れてくる〈ていねいな暮らし〉の様子は憧れの対象やロールモデルとなると同時に容易に嫉妬や中傷の対象ともなり得ます。
そしておそらく〈ていねいな暮らし〉の否定派の少なからぬ数がかつては〈ていねいな暮らし〉に憧れながらも挫折した層であるとも推測されます。実際に〈ていねいな暮らし〉を実践するには時間や費用といったハードルがあり、さらにそのハードルはSNSの拡散するイメージにより年々高まっていっているといえます。
こうしたことから本書は「〈ていねいな暮らし〉問題」とは「いつの間にか〈ていねいな暮らし〉としてイメージされるものごとのハードルがぐんぐんと高く引き上げられ、理想、あこがれとして共同幻想化すると同時に、否定もされるという状況、つまり、言葉がひとり歩きをしてしまっていることだと言うことができるだろう」と述べます。
こうしてみると『暮しの手帖』による「丁寧な暮らしではなくとも」宣言の意味はより明確に立ち上がってきます。北川氏が同年7月のインタビューで述べているように、いまや〈ていねいな暮らし〉とは、本来の「暮らしを大切にして、一日一日を丁寧に送る」という意味から離れてしまい「『丁寧な暮らしってこういうスタイルだよね』というような、どこか表面的な意味合いを帯びてきた」ということです。それゆえに氏は「『暮しの手帖』が〈丁寧な暮らし〉を標榜する雑誌だと思われているという自覚」から「自分がそれを、この雑誌の看板にしていくのか?と考えた時、ちょっと違うなあ」と思ったと述べています。
* インテリに愛された『暮しの手帖』
続いて本書は第二章「『暮しの手帖』--彼のつくりだしたもの」で、いまみたような〈ていねいな暮らし〉の牙城と見做されながらも「丁寧な暮らしではなくても」という宣言を出した『暮しの手帖』という雑誌について考察していきます。
1957年、社会学者の加藤秀俊は同時代の「総合雑誌の不振」と『暮しの手帖』の「異常なまでの発展」を対置させ「総合雑誌の読者の少なからぬ部分が『暮しの手帖』に移った、と考えられるフシがないでもない」「私の友人知己の多くはインテリ中のインテリだが、この人たちのなかにさえ総合雑誌は大学の図書室や組合の文庫で読み、定期的に私宅で購読するのは「暮しの手帖」という型の人が少なくないからである」と述べています。
ここでいう「総合雑誌」とは『文藝春秋』や『中央公論』や『世界』といった論壇誌で、当時「インテリ」と呼ばれていた読者層向けの雑誌と見做されていたものです。そして、ここでいう「インテリ」とはインテリゲンチャの略語であり、知識階級、知識人、有識者を意味しています。現代ではちょっと想像し難いかもしれませんが、昭和のある時期までインテリは大衆層にとってのあこがれの対象でした。
もちろん当時も舞台俳優や映画スターや流行歌歌手も人々のあこがれの対象だったことは確かですが、彼ら彼女たちのようになるには持って生まれた器量や才能が必要であり、大衆からすれば所詮は雲の上の存在です。これに対して--もちろんタテマエ上ではあるにせよ--個人の努力次第で到達可能とされたのが「学歴」です。
「末は博士か大臣か」という言葉があったように、立身出世のゴールとして万人に開かれた達成目標の一つがインテリだったということです。その背景には「インテリ/山の手」と「庶民/下町」という文化と生活の格差があります。すなわち「学歴」とは山の手生活への約束手形であり、重要なのは卒業証書そのものではなく、それによって大きく左右されることになるその後の生活や人生そのものであったということです。
こうしたことから総合雑誌の読者層はインテリの信奉者で占められていました。ところが加藤の証言によれば、当の「インテリ中のインテリ」が愛していたのはこのような総合雑誌ではなく、どちらかというとライフスタイル雑誌のカテゴリに入る『暮しの手帖』であったということです。これは逆に同誌がただのライフスタイル雑誌ではなかったことを示しているといえます。あらためて『暮しの手帖』とは、いかなる雑誌だったのでしょうか。
* 山の手テイストと反骨精神
1948年9月に花森安治と大橋鎭子によって『暮しの手帖』の前身である季刊『美しい暮しの手帖』が創刊され、同誌は1968年第93号から隔月刊になり現在に至ります。
同誌の初代編集長である花森は神戸出身で旧制松江高等学校を経て東京帝国大学を卒業した紛れもないインテリです。この花森とタッグを組んだ暮しの手帖社社主である大橋も東京府立第六高等女学校を卒業後、一度は経済的事情で日本興業銀行に就職したものの3年で退社して日本女子大学に入学し、惜しくも肺結核で中退しましたが、やはりインテリであったことは間違いありません。
この2人が生み出した『暮しの手帖』は他誌とは一線を画する個性的な雑誌でした。各種メーカー品を客観的立場で比較試用する「商品テスト」企画、自社書籍以外の広告を一才排除したスタイルなど独自の誌面作りによって発行部数百万部を超える人気雑誌になります。
初代編集長の花森は「一人ひとりが自分の暮しを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中に」という理念と「暮しの変革を理念よりも日常生活の実践を通して」という方針を掲げており『暮しの手帖』はただのライフスタイル誌ではなく、反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった立場を旗幟鮮明に打ち出した非常に尖った雑誌であったといえます。
その一方で本書は『暮しの手帖』は「学歴に密輸されてきた生活文化そのものずばりのサンプルカタログだった」といいます。その背景には先述した「インテリ/山の手」と「庶民/下町」という文化格差、つまり学歴効果による生活格差があります。
例えば『暮しの手帖』を広く世に知らしめることになったきっかけとして、しばし同誌第五号巻頭に掲載された昭和天皇と香淳皇后の第一皇女である東久邇成子(照宮)による随筆「やりくりの記」が挙げられます。「自ら筆を執って雑誌に寄稿されたのは、皇室御一家の中今回の照宮様が初めて!」という広告が打たれた第五号は完売となり、以後『暮しの手帖』は創刊以来の赤字を脱して一気に上昇気流に乗ります。
「宮さま」自らが寄稿というイメージは『暮しの手帖』にとって決定打になったことは疑いないでしょう。この随筆では皇室出身でありながら庶民同様「やりくり」に苦心する暮しぶりが率直に書かれており、それは質素な中にも上品な、育ちの良さ、つまりは「山の手」テイストと換言してもいいでしょう。
このように『暮しの手帖』という雑誌には、そこはかとなく漂う「山の手」の香りと、花森の掲げた反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった理念の奇妙な調和を見出すことができます。そして、このような奇妙な調和こそがまさにインテリを惹きつけた当のものであったのではないでしょうか。
*〈ていねいな暮らし〉における二層構造
ここから本書は第三章「花森安治の時代--そのとき、何を着ていたのか」では花森の服装に焦点を絞ることでコンパクトな通史の形で彼の時代を辿ります。明治から昭和にまたがる彼の人生は日本人の暮らしが大きく近代化し変容してきた時期にあたります。「花森安治スカート伝説」に象徴されるような、天才とも奇人とも称された花森の服装は時代の典型であるよりもむしろ大勢から離れていたといえます。
また第四章「丘の上の赤い屋根--彼はどこにいたのか」では花森が居住した東京郊外の大田区久が原を、第五章「神戸を歩く--彼はどこからきたのか」では花森が生まれ育った神戸を本書の著者である佐藤氏が実際に歩き、花森の暮らしの断片を追体験することで当時の市民生活のイメージを空間的に把握していきます。
そして終章「〈暮らし〉は、どこから来て、どこへ行くのか」では、改めて〈ていねいな暮らし〉とはどのようなものかが確認されます。ここで本書はSDGsのユニバーサリズムと〈ていねいな暮らし〉のカトリシズムとの類似性を認めた上で、近代という「大きな物語」の次にくる新しい時代を支える価値観を考えるうえでSDGsや〈ていねいな暮らし〉は有益な概念になりうると述べています。
このように本書は〈ていねいな暮らし〉に対しては、一方では距離を置きつつも他方ではその意義を認めるという一見すると両義的な態度を取っています。けれどもこの両義性は〈ていねいな暮らし〉における「スタイル」と「精神」という二層構造から読み解けるのではないでしょうか。
ここでいう「スタイル」としての〈ていねいな暮らし〉とは、完全無欠な〈ていねいな暮らし〉という理想的な(しかし到達不可能な)モデルを目指して、その周囲を否定神学的な欲望がひたすら空回りしていくという態度です。これに対して「精神」としての〈ていねいな暮らし〉とは、日々の生活の中で生起するさまざまな問題のひとつひとつを、まさに〈ていねい〉に解決していくという態度です。
すなわち、本書の両義的な態度とは、前者に対する冷ややかな視線と、後者に対する温かなまなざしから構成されているようにも思えます。そして令和において『暮しの手帖』が出した「丁寧な暮らしではなくても」宣言もやはりまた、前者と決別して後者に回帰するものであったといえるのではないでしょうか。
先述のように『暮しの手帖』という雑誌の根底には同誌の初代編集長であった花森安治が掲げた反商業主義、生活者本位、平和主義、反戦・反差別、中立といった理念がありました。そして、こうした花森がかつて掲げた理念は、昭和から平成という時を超え、表面的な〈ていねいな暮らし〉のイメージが氾濫する令和において「丁寧な暮らしではなくても」と声を上げた『暮しの手帖』にも受け継がれているようにも思えます。
