* 中動態からみた「悪の愚かさ」
『暇と退屈の倫理学』(2011)で知られる國分功一郎氏はもう一つの代表作である『中動態の世界--意志と責任の考古学』(2017)においてかつて言語に存在し、今や喪われた「中動態 middle voice」に注目することで「意志」や「責任」を問い直す議論を展開しています。かつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいう中動態とはどのような事態を表す言葉なのでしょうか。
例えば「殴る」という動詞があるとして「わたしがあなたを殴る」というのは能動態による表現であり「あなたがわたしに殴られる」というのは受動態による表現です。両者は同じ動作を逆から捉えていますが、動作の主体である「わたし」と動作の客体である「あなた」がはっきりと分けられ、対立して位置付けられている点は共通しています。
けれども「殴る」という動詞は、そのような主客の分割ができない場面で使われることがあります。例えば「わたしがわたしを殴る」といった再帰的な動作や「わたしは殴られた感じになった」というふうに表現される心理的に打ちのめされているという継続的な動作を名指す場合があります。前者では主体と客体は一致していますし、後者ではそもそも主体がはっきりしません。このような動作を表す時にかつて古代言語で使われたカテゴリが中動態であったと考えられます。
このように中動態とは能動と受動の対立から見えてこない領域を開くものであるといえます。この点、東浩紀氏は昨年末に公刊した新著『平和と愚かさ』(2025)に収められた「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」(2020)という論考(以下、本論考)において、こうした中動態という視点から加害と被害の対立からはこぼれ落ちてしまう「悪の愚かさ」という問題を論じています。
* 悪の愚かさを記憶するということ
本論考は「2」とあるように同じく『平和と愚かさ』に収められた「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(2019)の続編となる論考です。同論考において氏はある種の悪や害について考えるためには加害と被害の対立を超える必要があるという問題提起をおこなっています。人は誰でも自分の醜い部分は忘れたいし、そもそも自身の加害性=悪に無自覚なことが多く、それゆえに加害者は害を忘れがちです。これに対して被害者は害を忘れることはありません。それゆえに彼らは害に意味を、換言すれば物語を与えます。被害者あるいはその遺族にとって害が無意味になされたという事実こそが耐え難いからです。
こうしたことから同論考は旧日本軍(七三一部隊)が中国東北部で行った人体実験とそれを主題にしたハルビンの博物館(侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館)の展示を例に、この「忘却」と「意味」の対立は「数」と「固有名」の対立に重なることを示しています。加害者は犠牲者から名を奪い数として殺し、やがて忘却します。他方で被害者は博物館や慰霊碑においてまずは被害者の名を回復し、それによって追悼し記憶することになります。
しかし同論考は悪の本当の残酷さとは、その悪に何の意味もないことであり、犠牲者は無作為に選ばれ無意味に殺されているに過ぎないとして、この無作為や無意味を「悪の愚かさ」と呼びます。こうしたことから忘却と記憶、数と固有名を対立させる博物館や慰霊の論理ではまさにその「無=愚かさ」こそが見えなくなってしまうのではないかといいます。
そこで同論考はハルビンの他にもキーウやクラルフでかつての収容所や虐殺の地の周囲に団地が建設されている事実に注目し「悪の愚かさ」の記憶を、すなわち、固有名を剥奪されて匿名的に生じた大量死の記憶を、名を回復された個人の生へと変形されることなく、団地に象徴される大量生という形で匿名的に記憶するという可能性を見出します。そして同論考の続編となる本論考では、この「悪の愚かさ」という、やや文学がかった表現を哲学的な概念へと練成するため、國分氏の中動態論が導入されることになります。
* イヤイヤながらやってしまった
本論考はまず國分氏の議論を冒頭で述べたように要約し、その上で、國分氏がこのような中動態の存在を前提とすると「意志」や「責任」といった概念が部分的に解体されてしまうと指摘している点に注目します。
現代における法制度は一般的に、人間は自分のやりたいことをやるか、やりたくないことをやらされるかのどちらかだという前提を取っています。前者であれば刑罰や損害賠償といった責任が発生しますし、後者であればこうした責任は発生しません。前者では人間は行為の能動的な主体だとみなされ、後者では人間は他人の行為の受動的な客体とみなされるからです。
けれども実際には世の中には自発的にやりたかったわけではなく、暴力によって強制されたわけでもないけれど「イヤイヤながらやってしまった」という事例が溢れかえっており、こうした事例における行為者は主体とも客体ともいえない立場にあるといえます。
國分氏はわかりやすい例としていじめ行為における被害者が加害者に進んで金銭を渡すというケース(いわゆるカツアゲ)をあげています。こうしたケースにおいて加害者は金銭の提供は決して強制ではなく、被害者の自発性に基づいていたと主張するでしょう。しかし、ここではその被害者の自発性こそがまさに強制されていえるでしょう。
本論考はこのような「自発性の強制」という論理を被害者のみならず加害者にも適用します。例えば集団で行われるいじめ行為の参加者を問いただしたとして、彼らの多くは強制されたわけではないけれど、かといって自発的に参加したわけでもなく、何となく場の空気に流されて「イヤイヤながらやってしまった」と答えるでしょう。つまり加害もまた中動態的に主体と客体が未分化のところで生じることがあるということです。
以上の議論は本論考のテーマである「悪の愚かさ」の問題と深く関係しています。ここで本論考は第二次世界大戦中に中国人を10人ほど「何げなし」に生体解剖したという元軍医の証言を参照し「悪の愚かさ」とはこのような「イヤイヤながらやってしまった=自発性の強制」という加害者の中動態的な態度によって生み出されているといいます。つまり「悪の愚かさ」を記憶するにはどうしたらよいかという問いは、能動でも受動でもない、加害の中動態的な性格をどのように記憶すればよいのかという問いに置き換えることができるということです。
* 中動態と原子力
さらに本論考は國分氏が『原子力時代における哲学』(2019)で展開した議論を取り上げます。同書は核兵器と原発の本質は同じものであるという立場から、なぜ20世紀の哲学者は核兵器にはこぞって反対を唱えたのに、原発すなわち「核の平和利用」にはほとんど反対しなかったのかと問い、そうした哲学者の中でほとんど唯一の例外がマルティン・ハイデガーであるといいます。確かにハイデガーは1995年の講演「放下」で軍事利用だけでなく平和利用も含めて原子力技術そののものが危険だという立場をはっきりと打ち出しています。ではなぜ20世紀の哲学者は原子力に抵抗できず、ひとりハイデガーだけが原子力の危険性を指摘できたのでしょうか。
國分氏はその謎を解くため中沢新一氏が『日本の大転換』(2011)で展開する原子力観を参照し、人類の文明は(あるいは地球という生態圏そのものは)太陽という「外部」からの「贈与」により成り立っているが、原子力は人類は太陽からの「贈与」がなくても生きていける可能性を拓くものだったといいます。そして、まさにこの「贈与」の排除への欲望こそが20世紀の哲学者が原子力に抵抗できなかった理由であるとして、そこに「失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシシズム」を見出し、しかしだからこそ、こうした全能感を「乗り越えて成長していかなければならない」と主張します。
そこで氏はまさにその全能感の克服のために求められるものがハイデガーの上記講演名でもある「放下 Gelassenheit」の思想だといいます。これは「させる」「するがままにしておく」という意味の動詞の過去分詞から作り出された名詞であり「放り出されていること」「委ねられていること」といった含意を持ち、ハイデガーの哲学においては人がある行為を能動的に行うのではなく「させられる」という感覚のもとで行うこと、あるいはその感覚の想起を意味しています。つまりそれは能動でも受動でもない、中動態の想起を意味しているということです。
こうしたことからひとは放下=中動態を想起することで幼稚なナルシシズムを克服し、太陽からの「贈与」を肯定し、原子力への依存を断ち切ることができると氏は言います。つまり原子力批判には中動態の思考が必要なのだということです。
もっとも本論考はこの國分氏の原子力をめぐる議論に違和感を表明します。理由は二つあります。その第一の理由は國分氏によるハイデガーの過大評価です。ハイデガーは確かに原子力を批判しましたが、彼の哲学ではそもそもあらゆる「技術」が古代ギリシアにまで遡って批判されるべきものであり、原発批判もその「技術」批判の延長線上で現れたにすぎないということです。
その第二の理由は國分氏はそもそも問いの展開を間違っているというものです。『原子力時代における哲学』は核兵器と原発は本質的に同じものなのに、人々はなぜ後者の誘惑に抵抗できなかったのか、という問いから出発したにもかかわらず、その同じものが彼らにはなぜ違うものに見えたのかという問いではなく、ハイデガーというそもそも両者に違いを見出さなかった哲学者に近づいてしまいます。それゆえに原子力には幼稚な全能感が反映されているという同書の結論は、それは人が原子力に惹かれる理由になっているだけであり、なぜ核兵器には惹かれずに原発には惹かれるのかという、その違いを説明する理由にはなっていないということです。
* 悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園
このように國分氏の原子力論は大きな問題があるものの、原子力の害について考えるとき、中動態が鍵になるという洞察は確かに的を射ていると本論考はいい、ここからドイツの哲学者ギュンター・アンダースとフランスの科学哲学者ジャン=ピエール・デュピュイの議論を参照し、原子力と中動態のつながりをより具体的に論じていきます。
反核運動で知られるアンダースは1958年に第4回原水爆禁止世界大会のために来日し、その時、広島の被爆者と対話し、彼らが原爆投下の責任者への憎しみをほとんど語らないことに驚き、そこで彼は「悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園」と記しています。もちろんこれはアイロニーであり、彼はその状況にこそ原爆という悪=害の本質を見出しています。
誰が何をしてどのように結果が起きたのかという事実関係は皆知っているにもかかわらず、原爆投下においては行為の起点にある意志とその結果の間にあまりに「巨大な距離」があるため加害者も被害者もその間につながりを感じられなくなり、害はまるで自然に起きた災害のように知覚されてしまいます。この「行為の連関」の「分裂」により作り出された倫理的麻痺を彼は後に「アポカリプス不感症」と呼んでいます。
すなわち、アンダースはここでまさに加害の中動態的性格を問題にしており、核兵器の加害は中動態的に起きるから危険だと主張しているといえます。さらにデュピュイはこうした中動態的麻痺をより広く破局的な災害一般において現れる文明の問題として考え、実際に2011年の福島第一原発事故を語る際に「悪意のない殺人者と憎悪のない犠牲者が住まう楽園」というアンダースの言葉を引いています。そして、こうした議論を踏まえ本論考は次のように述べます。
原子力はあまりにも複雑かつ巨大で、行為と結果のつながりを破壊する技術だった。ほんとうは、それを利用する人間の意志が善だろうが悪だろうが、関係なく悪が生まれると考えねばならなかった。にもかかわらず、20世紀の人々は、その中動態的性格を無視して、利用者の意志によって技術が区別できると考えた。それが彼らが核兵器と原発を区別した理由であり、「原子力の平和利用」の誘惑に勝てなかった理由である。國分の問いには、本来はそのように答えなければならない。そしてそのように答えることではじめて、ぼくたちは原子力についての哲学を、悪についての普遍的な哲学へと開くことができるのである。(『平和と愚かさ』より)
* 中動態と訂正可能性
以上のように悪とは本来、中動態的な性格を持っているものであるといえます。もっともその一方で、社会においてあらゆる行為は「意志」の有無により能動か受動かに振り分けられます。そして一般的に悪は、故意や過失といった程度の差はあれ、何かしらの加害の「意志」を持った能動的主体として記述され、それゆえに「責任」を問われます。
しかし國分氏が指摘するように「意志」とは極めて曖昧な概念であり、実際のところは加害の「意志」があったから「責任」が生じるのではなく、むしろ別の何らかの理由から「責任」を負わして良いと判断されたからこそ、急に「意志」なる概念が召喚されているといえます。では、なぜそういうことが生じるのでしょうか。ここには言語におけるコミュニケーションの本質的な条件が露呈しているように思われます。
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
そして、このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「じつは・・・だった」と「訂正」されていく現象を東氏は『訂正可能性の哲学』(2023)においてルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。
すなわち、子どもの遊びにおいて最初は「かくれんぼ」だったものが「じつは鬼ごっこだった」というようにいつのまにか変わってしまうように、悪の中動態的性格によってなされた行為も、その行為に対して責任を負わせて良いと判断された瞬間に「じつは」の論理で訂正され、意志を持った能動的行為として記述されることになるということです。
もちろんあらゆる行為を能動と受動に区別することや、責任を負わすために意志の概念が急に召喚されることには一定の社会的必要性があることは言うまでもないでしょう。意志は確かにある種の幻想かもしれません。しかし蔑ろにはできない幻想です。けれどもその一方で、ここで消去されてしまうのがまさに本論考のいう「愚かさ」の問題です。こうした意味で人間の「愚かさ」を捉える上で中動態と訂正可能性は不可分の関係をなしているといえるでしょう。



