* 観光客と訂正可能性から考える平和論
日本における現代思想の古典的名著『動物化するポストモダン』(2001)で知られる批評家の東浩紀氏は近年において「観光客」と「訂正可能性」という概念を軸にした哲学を展開しています。氏は『観光客の哲学』(2017年)において現代を「ナショナリズム」と「グローバリズム」という二つの層が折り重なって併存する「二層構造の時代」と位置づけ、今世紀初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『帝国』(2000)が描き出すグローバリズム(帝国)における市民運動の担い手である「マルチチュード」を先行モデルとしつつも、ネグリたちのいう「マルチチュード(否定神学的マルチチュード)」が抱え込む神秘主義的な欠陥を回避すべく、ネットワーク理論の知見を導入し、人間社会というネットワークの「つなぎかえ=誤配」を担う主体である「観光客(郵便的マルチチュード)」を構想しました。
ここでいう「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しています。これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないけれども、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すといいます。
すなわち、ネグリたちの「マルチチュード(否定神学的マルチチュード)」の連帯とは、連帯が存在しないことによって存在するとされていますが、本書のいう「観光客(郵便的マルチチュード)」の連帯とは、絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということです。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べています。
そして東氏は同書の続編である『訂正可能性の哲学』(2023年)において「観光客」がもたらす「誤配」の作用をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照し「訂正可能性」という概念から理論化しています。
20世紀を代表する哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。
このようなウィトゲンシュタインの発見をクリプキは『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。ここでクリプキは加算の解が125以上の場合は総じて5になるという「クワス算」なる奇妙な演算を主張する懐疑論者を登場させ「68+57=5」が「間違い」かどうかは原理的には確定できず「68+57=5」を「間違い」と見做すには「68+57=5」が「正しい」という主張を「訂正」する共同体が必要となるということです。
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に流動するものであり、しかもいつの間にか更新されてしまう「訂正可能性」を孕んでいるということです。
こうしてみると現代においては誰もが無自覚な「観光客」であり、社会という名の共同体は常に「訂正可能性」に開かれているといえます。こうした「観光客」と「訂正可能性」という概念から「平和」を問い直す一冊が昨年末に公刊された東氏の新著『平和と愚かさ』(2025)です。
* 戦争と平和の対立を問い直す
本書はタイトルの通り「平和」と「愚かさ」を主題とした著作です。本書は全三部から構成されており、第一部が議論の中心であり、第二部と第三部には関連して書かれた論考が収められています。本書に収録された論考はいずれも、国外の特定の場所への旅と関わった紀行文スタイルで書かれています。この意味で本書は「観光客の哲学」の実践編であると氏は述べています。
第一部の論考「平和について、あるいは考えないことの問題」において同書は「戦争と平和は対立する」という一見正しそうな常識的な直感を問い直していきます。素朴に考えれば「平和」とは「戦争をしない」ことであり、だから両者は対立するわけでして、それ以上でもそれ以下でもないように思えます。けれども少し考えれば、ここでいう「戦争」と「平和」の境界は極めて曖昧です。
例えばロシアは2022年2月から続くウクライナへの侵略を「特別軍事作戦」と呼称しており、あくまで「戦争」ではないという建前をとっています。またイスラエルは2023年10月にパレスチナに侵攻し、2025年6月にイランを爆撃していますが、そこでも宣戦布告は行われず「戦争」ではないという体裁で、なし崩し的に武力が行使されています。
加えて本書が取り上げるのが「認知戦」という名の「戦争」です。ここでいう「戦争」とは、敵対する国家の市民社会に積極的に働きかけて、市民の認知を変え、自国に有利な状況を作り出す試みのことをいいます。これは露骨なプロパガンダのみならず、極論すれば文化交流やスポーツ交流すらも認知戦であるとも考えることができるでしょう。こうしてみると一見「平和」とみなされる状況でも国家は実は広義の「戦争」を戦い続けているともいえるでしょう。
では翻って「平和」とは何を意味するのでしょうか。一見平和だとしてもその裏には結局のところ見えない戦争があるのだとしたら、永遠に続く戦争こそが現実で平和とは一種の幻想に過ぎないということになるでしょう。ロシアがウクライナに侵攻を始めて以降、急速に平和について語りにくくなったのは、そのような概念自体の弱さだったからではないかと本書はいいます。
とはいえ、戦争はいやだ平和がいいという訴えが愚かだとして退けられるようでは、それこそ戦争が永遠に続く世界しかやってきません。それゆえに「平和」の概念について改めて考え直すことが必要になるというのが本書の出発点となります。
*「考えないこと」の広がりとしての平和
ここから本書は先述した「戦争と平和は対立する」という常識的直感を「平和においては戦争が欠けている」と定式化し直しています。平和には戦争が「欠けている」がゆえに戦争と平和は対立するといういうことです。次に同書はこの「欠けている」という意味を現実の武力に関わる欠如ではなく、むしろ思考に関わる欠如だと捉え直すことを提案します。つまり平和だと感じる状況において、人は戦争を戦っていないだけでなく、そもそも戦争について「考えていない」ということ、少なくとも考えないことが許されているという点が重要になるということです。
もちろん当然のことながら、平和時にも戦力は存在し、軍人や外交官や国際政治の専門家は常に戦争の可能性を考えており「戦争が欠けている」ことなど決してありません。しかし平和時においてほとんどの市民はそんなことは考えていないというもやはり事実でしょう。むしろ逆に、ほとんどの市民が日常的に戦争の可能性を強く意識する状況に陥ったときこそ、もはや人はそれを平和とは呼ばないでしょう。だとすればそのような思考の欠如とそれに伴う安心感、弛緩した心理状態こそが平和を平和たらしめる本質ではないかと本書はいいます。
それゆえに一旦戦争が始まると平和について語ることは原理的に難しくなってしまいます。平和から戦争へ以降するとは、戦争について考えないことが許される状態から皆が戦争について考えねばならない状態への移行に他なりません。そして、そのような移行が一旦完了してしまうと、もはやかつての平和は悪の放置にしか感じられず、敵国と平和に共存し交流していた過去は道徳的な誤りとしか感じられなくなってしまうでしょう。実際にそれこそが2022年の日本で対ロシア世論が急速に硬化した時に起きたことであり、そこで叫ばれる「平和」とはいわゆる「平和ボケ」と呼ばれる平和ではなく、しばし「反戦」と呼ばれる「平和を取り戻すために戦う」というある種の戦争を意味しているといえます。
このように本書は平和を「考えないこと」の広がりで定義します。つまり平和について考えるとは「考えないこと」について考えるということです。これは哲学的にいえば「思考不可能なもの」について考えるということでもあります。そしてこの「考えないこと」の問題は本書のもう一つの主題である「愚かさ」の問題とも関係しています。
* 考えない平和と考える平和
ここから本書は氏が実際に旧ユーゴスラビア諸国を「観光客」として歴訪した経験をもとにした哲学的な洞察が展開されることになります。まず本書は1990年代におけるユーゴスラビア紛争の歴史を紐解きつつ「平和の質」には民族をはじめとする利害を異に集団同士を物理的に遠ざけるか否かという相違から「隔離の平和」と「共生の平和」があるといい、両者をそれぞれ「考えない平和」と「考える平和」へ対応させています。いくら気に入らない相手でも目に入れなければ自然と考えなくなっていくでしょうし、あるいは考えないふりをすることが許されるようになるでしょう。「隔離の平和」とはこうした環境をつくることで維持される表面的な「考えない平和」であり「共生の平和」とは常に集団間の利害調整に配慮することが必要な「考える平和」です。
本書のように平和を「考えないこと」の広がりで定義するのであれば平和の理念形とは「隔離の平和」ということになるでしょう。確かに「共生の平和」の理想は美しいですが、それは常に集団間の利害衝突に晒された不安定なものであるといえます。しかしその一方で完全な「隔離の平和」の達成も不可能であるといえます。程度の差はあれ政治的・文化的に異なる他者との共生は実際問題として避けられず、現実として我々は他者との「共生の平和」を生きている事になります。
つまり「平和=考えないこと」という定義における「隔離の平和」が理念形だとすれば「共生の平和」は現実形ということになります。もっとも、こうした「共生の平和」においては他者との衝突の可能性が常にあるにもかかわらず、多くの人はそれを意識していないこともまた事実です。これは裏返せば多くの人の「考えないこと」を守るため、誰かが隣人との利害を調整し、友好を維持するため「考えている」ことを意味しています。しかし「平和=考えないこと」という定義からは、そのような「共生の平和」を「考えている」存在については「考えないこと」が必要であり、少なくともそうしたふりをする必要があるということです。
換言すると、こうした「平和=考えないこと」という感覚は、ふりという演技、あるいは嘘によって紙一重のところで危うく成り立っているものといえます。だから、ひとたび誰かがそんなの嘘だ、ちゃんと考えろ!と叫んだ瞬間に、この「平和=考えないこと」の感覚は崩落し、これまでの「平和」は「じつは平和ではなかった」という形で訂正されることになります。つまり「平和=考えないこと」の思考不可能性は「じつは平和ではなかった」の訂正可能性によって生み出されている、ともいえるでしょう。何よりここで重要なのは、そのような過去の読み替えにおいて「じつは」と声を上げるのは大抵が「平和=考えないこと」による被害者であるということです。
こうして「平和=考えないこと」という感覚は意図的に、あるいは無自覚的に他者に加害をなす「愚かさ」に結びつく事になります。それゆえに理念形としての「隔離の平和(考えない平和)」の正当性は常に現実形としての「共生の平和(考える平和)」における訂正可能性に開かれていることで初めて担保されるということになるといえるでしょう。さらにこの「考えない/考える」が螺旋状に絡み合っていく関係性は本書の最後の論考「哲学とは何か、あるいは客的-裏方的二重体」において「客的」と「裏方的」の関係性から考察されており、ここから現代における哲学のあり方が再定義されることになります。
* 平和における隔離と共生、あるいは、ねじまき鳥クロニクル
本書は一見広い意味での国際政治を論じた本に見えるかもしれませんが、本書の平和論の射程は国際社会における大文字の「平和」のみならず、個人間のコミュニケーションにおける「平和」にも等しく妥当します。例えば本書は第二部の論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」において「悪の愚かさを記憶する」ための試みとして村上春樹氏の小説『ねじまき鳥クロニクル』(1994〜1995)を論じていますが、あの小説はいってみれば、ある家庭が「じつは平和ではなかった」ことが明らかになっていく様相を描いた作品であったともいえるでしょう。
同作の主人公である岡田トオルは妻クミコと世田谷の一軒家でそれなりに平穏な生活を過ごしていましたが、2人の結婚を機に飼い始めた猫が失踪したことをきっかけに夫婦間に不穏な空気が漂い始め、ある日突然クミコは失踪してしまいます。このクミコの失踪にトオルは困惑し、6年間の「平和」だったはずの夫婦生活を次のように振り返っています。
「それでも僕とクミコは少しずつ、自分の体や心を「我々の家庭」という新しい単位のために同化させていった。2人で一緒にものを考え、ものを感じる訓練をかさねた。自分たちの身に起こる様々なものごとを「自分たちのもの」として受け止め、共有しようと努めた。もちろんうまく行くこともあれば、行かないこともあった。しかし僕らはそんな試行錯誤をむしろ新鮮なものとして、楽しんでいたと思う。それにもし激しい衝突があっても、僕らは抱き合って忘れてしまうことができた。」(『ねじまき鳥クロニクル』より)
ところが物語の中盤でトオルのもとへクミコからの長い手紙が届きます。その内容をかいつまんでいえば、クミコはこの3ヶ月近く、仕事の関係で知り合った男性と性的な関係を持っており、その関係を解消させた現在ではトオルに対する罪悪感を感じているといいつつも、結婚前からも結婚してからもトオルに対して「本物の性的な快感」を持つことができなかったと告白し、手紙の最後はこのまま離婚するのがお互いにとって一番いい方法だと思うから、申し訳ないけど何も言わずに同意してほしいという趣旨の文で結ばれています。手紙を読み終わり、これまでの夫婦関係が「じつは平和ではなかった」という事実を突きつけられたトオルは静かにビールを飲み干し、次のように内省します。
「僕はクミコについてのいったい何を知っていたのだろうと僕は思った。僕は空になったビールの缶を静かに握り潰し、それをごみ箱に投げ捨てた。僕が理解していると思っていたクミコは、そして何年にもわたって僕が妻として抱いて交わっていたクミコは、結局のところクミコという人間のほんの僅かな表層に過ぎなかったのだろうか。(略)だとしたら、僕とクミコが2人で過ごしてきたこの6年という歳月はいったい何だったのだろう。そこには何の意味があったのだろう。」(『ねじまき鳥クロニクル』より)
もっともこのクミコの告白は決して降って沸いたような唐突なものではなく、彼女は失踪前から様々なかたちでトオルに自分の抱える闇を訴えるサインを出していましたが、トオルはそのサインにまったく気づくことなく、クミコの抱える闇に向き合うことが出来ていませんでした。いわばトオルが「我々の家庭」という閉鎖空間で「隔離の平和(考えない平和)」を享受している間、クミコはトオルとの「共生の平和(考える平和)」を紙一重のところで維持していたともいえるでしょう。
その一方で本作ではクミコが失踪する前後から、トオルの前に次々に奇妙な人物たちが現れ始め、やがてトオルはクミコ失踪の裏には彼女の実兄である綿谷ノボルの暗躍があることを突き止めます。新進気鋭の政治家として今や時代の寵児であるノボルには人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っており、果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていました。クミコの声にならない声を聴き取ったトオルは、クミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべくノボルと対決することを決意し、その対決は今や村上作品の代名詞ともいえる「井戸」からの「壁抜け」として遂行されることになります。
1994年から1995年にかけて公刊されたこの『ねじまき鳥クロニクル』という小説は戦後日本を支えた「大きな物語」が失墜し、地下鉄サリン事件が発生した当時の時代状況と見事なまでの共時的な布置を描いているといえます。平たくいえば同作は大きな物語(=夫婦関係)が破綻して、カルト宗教(=綿谷ノボル)に囚われたヒロインを救う物語であるといえるでしょう。しかしながらその一方でトオルとクミコという2人の関係性に焦点を当てるのであれば、同作は「隔離の平和」が破綻した後「共生の平和」の新たなかたちを模索する物語であったといえるでしょう。
もちろん同作の着地点には様々な意見があります。しかし少なくとも同作が描き出したトオルとクミコのあいだにある「平和の非対称性」という構図は家庭、職場、学校など社会の至る所に見出すことができることは確かです。こうした意味で「平和」を問い直すとはすぐれて公共的な問いであると同時に、他者との関係性を、あるいは世界のありようや生き方そのものを問い直すという極めて個人的な問いにもつながっているといえるのではないでしょうか。



