かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

リトル・ピープルにおける正義の記述法--傷物語/偽物語/猫物語(黒)(西尾維新)

 

*「壁と卵」から考える

 
2009年2月15日、村上春樹氏はエルサレム賞の受賞式において「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを行っています。ここでいう「壁」とは「システム」であり「卵」とは「個人の魂」のことを指しています。このスピーチにおいて村上氏は当時のイスラエル政府によるガザ侵攻を暗に非難しつつ、自分は小説家として常に「卵の側」に立つと宣明しました。
 
村上氏のスピーチは当時の内外から大きな賞賛が集まりました。しかしその一方で「壁」とか「卵」などといったメタファーに頼ったその曖昧な意見表明を批判する声や、このスピーチ自体が安易な人気取りであると断じ去る声もありました。こうした中、このスピーチにおける政治的態度の当否などではなく、村上氏の想定する世界観そのものに疑念を呈したのが宇野常寛氏です。その論旨は概ね次のようなものです。
 
かつて「壁」が「ビッグ・ブラザー(単一の「大きな物語」を語る国家的存在)」だった頃、村上春樹という作家は「壁」と「卵」の共犯関係を見抜き、両者からの「デタッチメント(離脱)」を志向した。けれどもやがて「壁」が「リトル・ピープル(無数の「小さな物語」を生み出す市場的存在)」へと変遷した時、他ならぬ村上氏自身が「壁」と「卵」を対立関係として捉える「コミットメント(介入)」へと転回した。けれども現代における「壁=リトル・ピープル」とはむしろ無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成された不可視の環境から産み出された力に他ならない、ということです。
 
宇野氏の想定する「リトル・ピープル」という世界観はフランス現代思想を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーの権力論と親和的な立場でもあります。フーコーは「監獄の誕生(1975)」「性の歴史Ⅰ(1976)」において「規律権力」と「生権力」という概念を提出し、近代以降、現代に至るまで権力とは「上から下」への外在的な支配ではなく、むしろ「下から上」への内在的な欲望として作動していると論じています。
 

* n通りの正義

 
確かに村上氏のスピーチを読むと、そこには「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立が明確に走っているように思えます。けれども宇野氏やフーコーの議論に依拠するのであれば、この「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立は「卵=n通りの正義」たちが織りなす「リトル・ピープル」という名の「権力のネットワーク」へと脱構築されることになるでしょう。ここには絶対的な「壁=悪」は存在せず、むしろ「卵=n通りの正義」達の接続過剰が相対的な「壁=悪」を産み出している世界があるということです。
 
この点、ゼロ年代サブカルチャーにおいて幾度となく反復された「正義」をめぐる問いにおいて常に追求されてきたのは、オブジェクトレベルにおける正義の決定不可能性を再縫合する、いわばメタレベルにおける正義の記述法であったといえるでしょう。
 
そしてゼロ年代を代表するライトノベルの一つである「化物語」の続編となる、いわゆる「物語シリーズ1stシーズン」を構成する「傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」の三部作は、こうした「ゼロ年代正義論」を俯瞰的位置から総括し明晰に言語化した作品でもあったといえます。
 

* コメットメントのコスト--傷物語

化物語」の前日譚に相当する本作ではシリーズ主人公である落ちこぼれの高校生、阿良ヶ木暦とシリーズヒロイン(?)の一人である無敵の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが邂逅する「春休みの地獄」が描き出されます。
 
物語は文字通り「語り」です。単なる「事実」の羅列ではありません。そこには当然「語り手」というものが入ってきます。そして「語り手」が異なれば、同じ「事実」から見える景色は自ずと異なってきます。
 
本作の後半では、それまで「自明の前提」だと信じ込まれていたものが唐突に転覆されることになります。そして結果的に、阿良々木はキスショットを「助けない」。彼は「みんなが不幸になる」となる道を選択します。
 
先述のようにかつて村上氏は「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」へと時代が変遷する中で、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へ転回しました。ところが今や「リトル・ピープル」が全面化した現代においては、個人はその一部として自動的に機能し、否応なく相互に「コミットメント」を強制され、そこでは「コミットメント過剰」によるコストの処理法が問われる事になります。
 
この点、本作が提示する結末は「みんなが不幸になる」という傷を引き受けた逆説的なコストの処理法であったといえます。あるいは「幸福」とはある意味で「不幸」を分かち合うことによって、はじめて産み出されるものなのかもしれません。本作は全ての「物語シリーズ」の原点にして頂点に位置する物語といえるでしょう。
 

* 正義の在り処--偽物語

化物語」の後日談に相当する本作は阿良ヶ木の二人の妹、ファイヤーシスターズこと阿良ヶ木火憐と阿良ヶ木月火の活躍(?)を軸に様々な「正義」のかたちが描き出されます。
 
一口で「正義」といっても、仔細に観るとそこには様々な差異を見出すことができます。例えばファイヤーシスターズの掲げる「正義」も火憐と月火では対極です。火憐の場合は目的が正義であり、月日の場合は趣味が正義です。火憐は他人のために正義を実行し、月火は他人の影響で正義を実行します。
 
そして本作の敵役の一人である詐欺師、貝木泥舟は火憐の信奉する素朴な正義/悪の二項対立をポストモダニズム相対主義の論理でやすやすと「n通りの正義」へと脱構築してしまいます。相対主義の論理によれば、正義とはもはや普遍的な理念ではなく、ことごとく個人的な欲望へと還元されてしまうことになります。
 
こうした中、阿良ヶ木は正義の第一条件とは「正しさ」ではなく「強さ」であり、その「強さ」とはどう足掻いても「偽物の正義」しか背負えない劣等感と向き合う意志の強度にあると主張します。こうした阿良ヶ木の語りの中にはポストモダニズム相対主義のさらなる徹底として出現した「ゼロ年代正義論」の臨界を見出すことができるように思えます。
 
正義の味方には倒すべき悪が必要だ。けれど正義/悪という単純な二項対立に依拠した無邪気な正義は時として凶器となる。誰かにとっての「正義の味方」は別の誰かにとっての「正義の敵」でしかない。自分こそは「正義の味方」だと信じていたのに、ある日突然誰かから「倒すべき悪」として名指された時、人はどうすればいいのか。本作はこうした「正義の在り処」をめぐる問いをラディカルに読み手に突きつけます。
 
確かにオブジェクトレベルにおいては、あまねく正義はすべからく偽りでしかないないかもしれません。けれど、この偽りを引き受ける強度こそがメタレベルにおける正義を帰結するのでしょう。そして「偽り」とは文字通り、人の為、誰かの為であるということです。
 

*「本物」を演じる悲劇--猫物語(黒)

化物語」のもう一つの前日譚である本作では阿良ヶ木とシリーズヒロインの一人である究極の委員長、羽川翼が繰り広げる「ゴールデンウィークの悪夢」が描き出されます。「壁と卵」のメタファーでいえば「傷物語」がコミットメントのコストを引き受ける「傷物の卵」の物語であり「偽物語」が劣等感と向き合う「偽物の卵」の物語であったのだとすれば、本作はいわば「本物の卵」の物語です。
 
人は皆、何かしら「傷物」であり何処かしら「偽物」です。そして、そんな世界の中で「本物」を演じるとすれば、それはしばし「猫をかぶる」などと言われます。
 
本作は長年「猫をかぶる」ことを強いられてきた少女がまさしくその猫に魅入られた物語です。羽川の悲劇は、両親が何度も入れ替わるという特殊な家庭環境の中でカントのいう定言命法的理性の実践こそが「普通」であると思い込み「普通」という名の「本物」を演じた点にあったといえるでしょう。
 
そして彼女が「本物」を演じれば演じるほど、義理の両親にとって彼女は「化物」に見えたのでした。ここには「本物の卵」こそが「本物の壁」となるという逆説を見ることができるでしょう。
 

*「仮留めの正義」へ折り返すということ

 
傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」。この三部作が繰り返し描き出すように、我々の生きる現実世界においても「壁」と「卵」の関係とは常に相対的なものであるといえます。我々はしばし自分こそが「卵」だと思い込み、その「正義」を声高に主張したりもします。けれど「卵=正義」とは「別の卵=別の正義」にとっては端的に「壁=悪」でしかないということです。
 
そんな世界において、もし仮に「正義」の名に値する選択があるのだとすれば、それは、ひとつの「決定的な正義」の決断的選択ではなく、その場その都度限りの「仮留めの正義」の中断的選択でしかないのでしょう。「正義」とは何かという問題を先送りし続けるということ。「決定的な正義」から「仮留めの正義」へ折り返すということ。それこそがまさにこの三部作が到達した正義の記述法であったように思えます。