* 消費と浪費
國分功一郎氏はベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』(2011)においてフランスの思想家ジャン・ボードリヤールの議論をベースとして消費社会がなぜ「退屈」をもたらすのかを論じています。消費社会において人間は資本主義によって(具体的には「広告」という企業文化を経由して)事物に対する欲望を植え付けられることになりますが、この欲望は観念的なもの、つまり記号に過ぎないため事物そのものとは乖離しています。
この主張を同書は現代の製造業の頻繁なモデルチェンジを例に説明しています。自動車メーカーはモデルチェンジを定期的に行い、買い換えることを消費者に促します。消費者はこの時、事物そのものの与える利便性や快楽(必要な輸送能力を得ること、快適に走ること、好みの外観を手に入れること等)ではなく「ニューモデル」という観念やブランドという記号に強く動機づけられます。このような事物に「ついての」観念的なもの、記号を求める行為を同書は「消費」と呼びます。
そしてこの観念的なもの、記号を対象とする「消費」には終わりがありません。いまの例で述べれば、次から次へと市場に投入されるニューモデルの購入を反復し続けることでしか人間は「消費」の欲望を追求することはできず、決して「満足」に至ることがありません。これが同書において「退屈」と呼ばれる状態です。
そこで同書はこの「退屈」を解決するため「消費」から「浪費」に回帰する「贅沢」という戦略を提示します。同書は人間は「必要の限界を超えて物を受け取る」ときに、つまり「必要のないもの、使いきれないもの」を「受け取り、吸収する」ときに「満足」に至ると考えます。このような事物そのものを受け止める行為を同書は「浪費」と呼びます。
観念や記号という無限に追求する「消費」ではなく、事物そのものを受け止める「浪費」には物理的な、あるいは時間的な限界が存在します。しかしこの限界があるからこそはじめて、人間は「満足」することになります。これが同書のいう「贅沢」です。
そして具体的に「消費」から「浪費」に回帰するために同書が提唱するのが「動物になる」という倫理です。ここで同書はドイツの動物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」の概念を援用し「動物」と「人間」の相違を説明します。例えば岩の上で日光を浴びるトカゲはそこを「岩場」として認識することができず、単に「陽の当たる場所」としか認識していません。ここからユクスキュルはそれぞれの生物は認知の形態が異なるため世界をそれぞれ別のかたちで捉えていることに注目し、この生物ごとに異なる姿に認知される世界のことを「環世界」と名づけました。
これに対して対して同書は人間はその高い認知能力により擬似的に「環世界」を移動することが可能であると考えます。より正確にいえば、人間は膨大な情報を知覚した上で、それらを言語を用いて常にある程度まで整理しているということです。そのため人間はある環世界から別の環世界へと移動を常に繰り返し、ひとつにとどまることができない不安定な状態に置かれます。これが「退屈」の原因になります。なぜならばひとつの環世界にとどまっていれば、そこで認知した事物に集中し「できるはずのことが、できない」と、他の可能性のことを考えることができないからです。人間は環世界を簡単に移動してしまうから「退屈」するということです。
したがって同書は「浪費」へ回帰するため、ある環世界にしっかりとどまって「動物になる」ことを消費社会における倫理として提示します。ここで同書はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの議論を援用し、環世界の移動は事物の「不法侵入」によって発生すると考え、この「不法侵入」を「待ち構える」ために「訓練」を怠るべきではないと述べています。
* 浪費の失敗としての制作
こうした國分氏の議論を宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)において「制作」という観点から更新しています。同書は今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム(発信と承認の快楽が前面化したゲーム)」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。
そこで同書はまず現代を代表する庭師であるジル・クレマンの「動いている庭」やエマ・マリスの「多自然ガーデニング」といった仕事を参照し、「庭」とは第一に、人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に「庭」とは人間がその生態系に関与できるけれども、完全に支配することはできない場所である必要があるとします。
そして同書は事物に「ついての」観念や記号ではなく、事物そのものにアプローチすること、そしてそのために事物に没入する身体に擬似的に「変身」することという点で國分氏の議論は同書の議論と重なり合うとした上で、その相違点として國分氏が『暇と退屈の倫理学』を公刊した2011年当時と今日では議論の前提となる社会像が大きく異なることを挙げています。
今日のプラットフォームに支配された社会においてはフィルターバブル的に事物の「不法侵入」を受ける機会を大きく失い、同時にプラットフォームの提供する承認の交換を通じて、人間は環世界を移動するより強い快楽を、恐ろしいほど低コストで手に入れることが可能になっていると同書はいいます。それゆえに同書では事物とのコミュニケーションを通じた「制作」の快楽により承認の快楽を相対化することを目論みます。つまりここで扱われているのは「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題になります。換言すれば國分氏が仮想敵としたのがかつての消費社会だとすれば同書が仮想敵とするのは今日の情報社会に他ならないということです。
そして同書は(某特撮ヒーロー番組のグッズ収集が高じて理想のアイテムを夢想する40代男性や、某バスケ漫画の登場人物同士の同性愛的物語を妄想する少女などを「例」として)人間が「制作」に動機づけられるためには対象となる事物の「浪費」に「満足」することなく「浪費」に失敗し続けることが必要であるといいます。
すなわち、事物からのコミュニケーションを強く受けた(受けすぎた)ことによって「変身」した人間は、そのためすでに存在している事物だけでは物足りなくなり、その事物の理想形を求めるようになりますが、悲しいかな彼/彼女が心の中に描いた理想形に完全に合致する事物はこの世界に存在せず、そのため彼/彼女はその事物の理想形と現実に存在する事物との落差に傷つき絶望し、自らその事物を生み出すことを欲望し始める、ということです。この状態で人間ははじめて「制作」に動機づけられることになります。それゆえに同書のいう「庭」とはプラットフォームで失われた「不法侵入」の可能性を担保し続ける場所であり、さらに「変身」が継続することで「浪費」に失敗し続ける場所である必要があります。
* 有限化としての制作
確かに同書のいうように「制作」は「行為」の肥大化による承認中毒を打破するためのほとんど唯一の回路といえるでしょう。そしてここでいう「制作」とは芸術や開発といったわかりやすい創造的行為に留まることはなく、むしろ人は誰しもつねに何かを「制作」しているといえます。
例えば千葉雅也氏は『勉強の哲学』の増補版(2020)に追加した補章において「勉強の哲学」をさらに「制作の哲学」へと展開させており、同書の述べる勉強論は「自分自身を作り直す」という何らかの制作行為につながるものであると述べています。文章を書いたり、料理をしたり、あるいは部屋の模様替えをすることまで含めて、言ってみればすべてが「自己制作」ということです。そしてそのための具体的な方法として氏は同書が展開するアイロニーとユーモア、そして自分の身体にもとづく享楽という三つの頂点を持つ「勉強の三角形」を応用した「楽しい暮らしのモデル」を提案します。
まず価値観の本質的な無根拠性を暴くアイロニーから別の価値観を提示するユーモアへの折り返しを実生活で応用してみると、他者とのコミュニケーションやメディアの情報など生活空間に溢れるさまざまな言葉に対して、多様な解釈のいわば「交差点」としての、ただ言われたこと、ただ起こっている出来事に向き合うことができるようになります。これはいわば世界を「小説」のように捉えるということです。つまり純文学小説のように両義性や多義性を重んじ、あたかも自然を観察するかのように出来事をありのままの複雑さで記述していくという態度です。
また、このように言葉についての価値判断や、それに結びついた喜怒哀楽の変化を一時停止して、ただ自然を観察するようにしてみると、さまざまな言葉や行動はそこに付随する「意味」から離れ、ただの動きとしての「運動の形」になってきます。そうするとだんだん世界が自己目的なダイナミックな「運動=リズム」の連鎖として立ち現れてきます。それはすなわち、日々の出来事を「ダンス」としてみるということです。
そして、このような世界を「運動=リズム」として捉えるというダンス的な見方をさらにラディカルに言語そのものに向けると、そこには「詩」が発生します。とりわけラディカルな現代詩になってくると常識的な意味伝達はそこで崩壊して、曖昧な比喩であったり、言葉のダジャレ的なつながりだったり、言葉自体が持つ物質性とでもいうべきものを操作するようになります。つまり現代詩は言葉そのものを「面白い形」として取り扱っているということです。
この点「5・7・5」「5・7・5・7・7」という定型的なリズムのなかでリズムと意味の両面で遊んでいる詩が「俳句」や「短歌」です。とりわけ俳句はある風景を瞬間的に切り取るものが多く、その面白さは「写真」に近いものがあるでしょう。そうであれば逆に写真を撮る時は何か意味を伝えるという発想なしで、ただ、ある形やリズムを切り取ればいいという俳句的発想でとってみればいいということです。
このように同書は言語を「運動の形」で捉えることを提唱していますが、より直接的に「形で遊ぶ」ジャンルとして「絵画」があります。ここでも同書は家とか自然とか動物などといった一定の記号性をもつ対象をその記号性を全否定はせずに、いわば記号への抵抗運動としての何か記号的ではない線や記号から逃れていく線を書くという意識の持ち方を勧めてており、同様に「音楽」においても一般的な近代西洋音楽のルールから外れて、形それ自体に、リズムそれ自体に向かっていくという方向性を提示します。
以上のように同書はアイロニーからユーモアの折り返しにより、さまざまな芸術のジャンルをただの形として操作し、ただその無意味な享楽を楽しんでみることでみるという「制作」のあり方を論じています。そしてこうした「制作」のあり方を突き詰めていけば、そこには自分自身のミニマムで根本的な「個性=特異性」が現れてくることになります。さらにこうした「制作」のあり方はひいては芸術的制作だけでなく日常生活や仕事という広義の制作における意識の持ち方にもつながってくるといいます。
そしてここで提示される「意味からリズムへ」という論点は千葉氏の近著『センスの哲学』(2024)においてさらに深く論じられることになります。アイロニーからユーモアへと折り返すことでさまざまな物事における「意味」が蒸発し、ただの非意味な出来事として「リズム」の表れます。そしてこうしたリズムの反復と差異のなかに見出される「どうしようもなさ」としての享楽的なこだわりを追求することで、そこから新しい世界が立ち上がってくることもあるでしょう。こうした意味で「勉強の哲学」と、その更なる展開としての「制作の哲学」とは「有限化」という観点から、いわば世界を制作しなおす哲学であるといえるでしょう。
* 日常美学の諸相と世界制作
また青田麻未氏は『「ふつうの暮らし」を美学する』(2024)において「世界制作」というコンセプトから日常生活のなかにある美的経験について論じています。近代ヨーロッパにおいて成立した美学という学問は長い間、芸術作品がもたらす美の経験を典型例とした考察が進められてきました。しかしながらそもそも美学が原義的には「感性の学」であるというところに立ち返れば、美学の対象は美や芸術には限られることはないはずです。
こうしたことから1970年前後より「環境」という視点から自然の美的経験を再検討する「環境美学」と呼ばれる分野が発展を続けており、やがて1990年代に入ると自然と人工の要素を併せ持つ複合的な環境もその議論の対象として組み込まれていくようになり、ここから複合的な環境がもたらす日常空間へと関心が向けられていくことになります。
このような背景から成立した新たな学問領域が日常生活のなかで感性が果たしている役割を明らかにすることを目指す「日常美学」です。日常美学は21世紀になってから本格的な議論が立ち上げられました。2005年には日常美学として初めての論文集が出版され、2007年には美学者のユリコ・サイトウとチャ・マンドキがそれぞれ同じ『日常美学』というタイトルを冠した2冊の本を公刊しています。
アメリカの美学者でアーティストでもあるケヴィン・メルキオネは日常美学を「第三のかご」と呼びます。芸術ではないから従来の美学の主題でもなく、自然でもないから環境美学の主題でもない、そうしたものがじゃんじゃん放り込まれてくるかご。それこそが日常美学の懐の広さでもあり、同時にその独立した領域としての自律性を脅かす特徴でもあります。
我々の日常はあまりにも多様で雑多です。そこで日常美学において議論すべき範例的な美的経験とはどのようなものか、ということが問題となります。そしてこの点をめぐって日常美学には大きく分けて二つの立場があるとされます。
一つめの立場は日常の中の平凡な側面に注意を向けるべきだという立場です。例えばフィンランドの美学者オッシ・ナウッカリネンは日常美学がまさに「日常」を論じるものであろうとするならば、パーティなど日常の中の特別な経験を無視すべきではないものの、中心的に論じられるべき事柄は平凡な、まさに我々の日常の核を作り上げている家事や仕事などのルーティン的な活動がもたらす美的経験だと述べます。
二つめの立場は日常の中の特別なものに注目するべきだという立場です。例えばアメリカの美学者トーマス・レディは日常生活はそれ自体では平凡なものにもかかわらず、そこに非凡なものを見出す芸術家をモデルとして、日常美学を構築し、平凡なものが特別なオーラを纏うことで非凡なものへと変容することを通じて初めて「美的」と呼ぶ経験が生じると考えます。
ここから一方で日常の安定性に目を向けるとそれは美的経験なのかという問題が生じ、他方で美的経験の特別さを強調すれば今度はそれは日常の話になるのかという問題が生じてしまうことになります。これは日常美学に常について回るディレンマであるといえます。
このように日常美学という分野は決して一枚岩ではありません。もっともいずれの立場を取るにせよ日常美学に共通する理論上のスタンスとして「世界制作」への参加という側面を捉えようとすることが挙げられます。ここでいう「世界制作」とは文字通り世界をつくるということを意味しています。
先述した『日常美学』の著者であるサイトウは我々は一人一人みなが世界の製作者であり、地道な毎日のなかで我々の感性の働きが意外にも世界のありかたを決めていると考えます。こうした「世界制作」という観点からいえば日常美学はすべての人の人生に深く関わってくる領域であり、そこには現代における「日常」を生きる上での倫理的作用点を見出すことができるでしょう。
*〈暮らし〉を制作するということ。
ところで青田氏は、同書はいわゆる〈ていねいな暮らし〉を推奨するものではないとして、ここで目指すのは、あくまで日常生活を見つめるためのことばを得ることであるといいます。もっともその一方で、今ある等身大の日常生活を繊細に観察することで案外、自分ではふつうだと思っている生活が持っている愛おしさにも気づかせてくれるかもしれないともいいます。
確かにいわゆる〈ていねいな暮らし〉は表象的な記号として消費されている側面もあります。この点、佐藤八寿子氏は『〈ていねいな暮らし〉の系譜--花森安治とあこがれの社会史』(2025)において近年、SNSを中心に流行する〈ていねいな暮らし〉について、それは憧れの対象やロールモデルとなると同時に容易に嫉妬や中傷の対象ともなり得るとして「〈ていねいな暮らし〉問題」とは「いつの間にか〈ていねいな暮らし〉としてイメージされるものごとのハードルがぐんぐんと高く引き上げられ、理想、あこがれとして共同幻想化すると同時に、否定もされるという状況、つまり、言葉がひとり歩きをしてしまっていることだと言うことができるだろう」と述べています。
しかし、その一方で同書はSDGsのユニバーサリズムと〈ていねいな暮らし〉のカトリシズムとの類似性を認めた上で、近代という「大きな物語」の次にくる新しい時代を支える価値観を考えるうえでSDGsや〈ていねいな暮らし〉は有益な概念になりうると述べています。
このように同書は〈ていねいな暮らし〉に対しては、一方では距離を置きつつも他方ではその意義を認めるという一見すると両義的な態度を取っています。けれどもこの両義性は〈ていねいな暮らし〉における「スタイル」と「精神」という二層構造から読み解けるのではないでしょうか。
ここでいう「スタイル」としての〈ていねいな暮らし〉とは完全無欠な〈ていねいな暮らし〉という理想的な(しかし到達不可能な)モデルを目指して、その周囲を否定神学的な欲望がひたすら空回りしていくような態度です。これに対して「精神」としての〈ていねいな暮らし〉とは日常の中で生起するさまざまな問題のひとつひとつを、まさに〈ていねい〉に解決することで〈暮らし〉を「制作」していくような態度です。すなわち、本書の両義的な態度とは、前者に対する冷ややかな視線と、後者に対する温かなまなざしから構成されているようにも思えます。
こうしてみると否定神学的な欲望である「スタイル」としての〈ていねいな暮らし〉とはまさにボードリヤールのいうところの記号や観念の「消費」であり、SNSなどのプラットフォーム上において宇野氏のいうところの「相互評価のゲーム」のなかに巻き取られてしまうものであるといえるでしょう。しかしその一方で、日々の〈暮らし〉を「制作」していく「精神」としての〈ていねいな暮らし〉とは日常美学における「世界制作」へとつながるものであるといえるのではないでしょうか。




