かぐらかのん

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【書評】現代思想入門(千葉雅也)

 

 

* フランス現代思想の批判力

 
第二次世界大戦後、長らく思想や文化における知的流行の最先端を担ったフランス現代思想の軌跡は一般的に「構造主義からポスト・構造主義へ」という流れで理解されています。1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
 
こうして1960年代中盤には構造主義の栄華は頂点に達します。ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りが見え始めます。こうした流れを決定的にした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。「Egalité! Liberté! Sexualité!」というそのスローガンが端的に示すように「68年5月」とは大学や社会が押し付ける旧態依然とした「構造」に対する学生たちの異議申し立てでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。
 
もはや目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の破壊あるいは解体でなければならない。こうして1970年代においては「構造主義」に成り代わり「ポスト構造主義」の時代が幕を開けました。
 
そして、その思想的流行を追いかけるように日本でも1980年代前半には「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる「フランス現代思想ブーム」が沸き起こりました。その火付け役となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。そこで氏が提示した「パラノ・ドライブからスキゾ・キッズへ」というパラダイムシフトは消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調しました。
 
けれどその一方、フランスでは1980年代において既にマルクス主義の退潮やポストモダニズムの台頭などにより構造主義ポスト構造主義は時代遅れの「68年の思想」として遠ざけられ、さらに1990年代になると「ソーカル事件」として知られるアラン・ソーカルの告発によって、かつてフランス現代思想家達がやたらと濫用していた数学的概念の多くがインチキ数学であったことが証明されてしまいました。
 
果たして、いまやフランス現代思想を読むなどという所業は懐古趣味以外の何者でもないのでしょうか?もちろんそうではありません。マルクス主義とかインチキ数学などを差し引いた後に残るフランス現代思想の批判力は今もなお生きています。では、その「フランス現代思想の批判力」とは何なのでしょうか?そしてそれは現代を生きる我々とどのように関係するのでしょうか?こうした問いに答えてくれるのが本書です。
 

* ダブルシステムで考える

 
本書はポスト構造主義を中心とした(フランス)現代思想の入門書です。著者である千葉雅也氏曰く、本書はこれまで専門家の世界で「そういうものだ」と何となく共有されてきた現代思想における「ある種の常識」を一般読者に開放する目的で書かれた本です。
 
そのイントロダクションである「今なぜ現代思想か」において現代思想を学ぶ今日的意義が述べられています。それは端的にいうと、現代思想を学ぶことで「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになるということです。どういうことでしょうか。
 
本書に即していえば、我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」ないし「ちゃんとしなければならない」という「秩序化」が進む一方で、こうした秩序に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。
 
こうした現代社会における「秩序化=単純化」という大きな傾向に対して、現代思想は秩序から逸脱するもの、すなわち「差異」に注目します。その背景には例えば「コンプライアンス」とか「安心・安全」などといったきれいな言葉で過剰に「秩序化=単純化」された社会とは果たして本当にユートピアなのか、それはある種のディストピア紙一重ではないかという警戒心があります。
 
もちろんこれはアナーキーな世界を称揚するものでもありません。要するに、一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で考えることこそが重要であると本書はいいます。すなわち、現代思想を学ぶ今日的意義とは、このような「ダブルシステム」の思考法を涵養する点にあるという事です。
 

* 二項対立と脱構築

 
本書はまず「ポスト構造主義」の代表的思想家であるジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの思想を「脱構築」の視点から読み解いていきます。「脱構築」とはもともとデリダの術語ですが、本書ではドゥルーズフーコーにも脱構築的な考え方があるとして、この三つ巴を抑える事でまずは現代思想の基本的な論理操作ともいえる「脱構築的な思考」を練成します。
 
一般的に思考の論理は「二項対立」で組み立てられています。「二項対立」の例として「秩序/逸脱」「真面目/遊び」「大人/子供」「健康/不健康」などがあるでしょう。そして通常、我々の価値判断はこうした「二項対立」の一方をプラスとして持ち上げて他方をマイナスとして貶める事で成り立っています。
 
これに対して「脱構築」と呼ばれる思考法は「二項対立」のむしろマイナス側を擁護する論理を発見し「二項対立」に規定された善悪優劣をいわば決定不能な宙吊り状態に持ち込む論法です(概念の脱構築)。
 
こうしたデリダ脱構築から「世界」を見晴るかすのであれば、全ての事象は「あのコップ」「あの猫」「あの人」「このわたし」といった区別を超えて縦横無尽に接続され(かつ切断されながら)展開していくというドゥルーズ存在論となります(存在の脱構築)。さらにこのようなドゥルーズ存在論から「社会」に折り返すのであれば、近代社会における権力関係とは支配者と被支配者相互の多方向の関係性として展開しているというフーコーの権力論となります(社会の脱構築)。そして、そこから人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理が提示されることになります。
 

*「点」が「線」になるような読書体験

 
通常、フランス現代思想入門といえば、おそらくレヴィ=ストロース構造主義的人類学から入ることが従来の定石であったように思えます。しかしレヴィ=ストロースのいう「構造」とは恐ろしく難解な概念であり、さらにその扱う分野は「親族」や「神話」における人類学的考察という、これまた大多数の読者にとって非日常的な領域です。それゆえにレヴィ=ストロースからフランス現代思想に入門した場合、この「構造」の時点で早速、多くの初学者が躓いてしまう恐れがあります。
 
一方でデリダは初学者からすればなんとなく「構造主義の応用編」のようなイメージがあるように思えます。けれどもデリダが提唱した「脱構築」という技法それ自体は、むしろそれまでのフランス現代思想全体が暗黙のうちに共有していた知の方法論であったとも言えます。例えばレヴィ=ストロースのいう「野生の思考」も、いってみれば「進んだ西洋社会/遅れた周辺社会」という「二項対立」に基づいた近代的偏見の「脱構築」であり、その残余物こそが、あの「構造」と呼ばれるものであったともいえるでしょう。こうしてみると、むしろデリダはフランス現代思想の最適な案内役といえるかもしれません。
 
正直な話、デリダドゥルーズフーコーという「点」が「線」になるような読書体験にちょっと感動のあまり青ざめてしまいました。これまであの3人がこんな風につながるとは考えもしませんでした。そういう意味で、本書は「入門のための入門」という謙虚な位置付けになっていますが、フランス現代思想をひととおり抑えた中級者以上にも絶対にお勧めできる本です。
 

* 現代思想のつくり方

 
本書は第一章〜第三章で現代思想のイロハを抑えた後、第四章で現代思想の源流まで遡り、続く第五章では現代思想の隣接領域ともいうべき精神分析に光が当てられます。
 
特筆すべきはこれまでの総まとめとなる第六章、その名もずばり「現代思想のつくり方」です(なかなか挑発的なタイトルです)。ここでは恐るべきことに多様多彩な(はずの)現代思想の理論が以下の四原則から成るある種のパターン(!)に還元されてしまいます。
 
⑴他者性の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを発見する(デリダでいうエクリチュールドゥルーズでいう差異)。
 
⑵超越論性の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを排除しない形での超越論的審級(ある事象を成立させる根源的前提)へと遡行する。
 
⑶極端化の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを極端化させた状態として新たな超越論的審級を設定する(デリダでいう原エクリチュールドゥルーズのいう差異それ自体)。
 
⑷反常識の原則・・・⑴〜⑶の操作の結果として帰結される反常識こそが実はこの世界の常識を規定しているという転倒に至る。
 
そして、この四原則によって成り立っていたポスト構造主義の議論に対して再び四原則を徹底的に適用した議論が、第七章で詳論されるフランス現代思想の今日的展開としての「ポスト・ポスト構造主義」ということになります。
 
ポスト構造主義とは大まかにいうと「同一性/差異」という大きな二項対立を設定した上で「差異」の側を擁護するような議論でした。これに対してポスト・ポスト構造主義では一旦「同一性」の側に立ち戻り「差異」といわば「仮固定的な同一性」との共存を問題とする傾向があります。例えばカトリーヌ・マラブーの「可塑性」やカンタン・メイヤスーの「実在」はこうした「仮固定的な同一性」の機能を持つ概念といえます。そしてその狙いは「同一性」への単純な回帰ではなく、むしろ「差異」の思考をさらに深化させようとするものです。
 

* 他者性の泡立つ世界を生きる

 
ではこのような「仮固定的な同一性」を引き受けた思考とはどのようなものでしょうか。人は生きていく上で「わたしは〇〇である」とか「わたしは〇〇になる」といった価値選択を常に迫られています。そしてその裏には「わたし=同一性/わたしではないもの=他者性」という二項対立が暗然と走っています。ここでいう「他者性」とは文字通りの他人であったり、別様の未来の可能性であったり、想定外の出来事といったものが含まれます。
 
けれどもこうした「わたし=同一性/わたしではないもの=他者性」という二項対立を脱構築してしまうと「わたし」という同一性は結局、常に根源的なレベルでは他者性に規定されているということになります。いわば我々はサイダーのように他者性の泡立つ世界を生きているということです(本書は他者性を「サイダー」とか「ソーダ水」などといった喩えで表現していますが、これは従来ありがちだった「異界」とか「ノイズ」などといった喩えと比べて、とても肯定的で素敵な喩えだと思います)。
 
それでも我々は生きていく上で何かしらの価値選択をしなければなりません。重要なのはそこで他者性を単純に排除するのではなく、他者性を上手く織り込んだ価値選択ができるかにあるのでしょう。
 
こうした他者性を織り込んだ価値選択(=仮固定として同一性)は日々の変化に柔軟に対応しつつ「いま、ここから」から「別のいま、ここ」へ跳躍していくしなやかな生き方といえるでしょう。
 

*「つながり過剰」の時代において他者と手をつなぐということ

 
そしてまさにこの点に今日におけるフランス現代思想の批判力を見いだす事ができるではないでしょうか。それは端的にいうと今日的な「つながり過剰」に対する批判力です。
 
大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効して、ポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていました。そしてその一つの到達点がソーシャルメディアの台頭を背景とした「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。
 
わたしとあなたは違う物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。異なる物語の交歓から芽生える可能性としての「つながり」への信頼。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えました。こうしたことから当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を預けていました。
 
けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう肥大化した情報環境でした。その結果「つながり」という差異の中に強固な同一性が回帰することになり、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とは、まさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「つながり過剰」の時代でもありました。本書のいう現代社会における過度な「秩序化=単純化」という傾向もまたこの「つながり過剰」という同一性の病理がもたらした一つの側面といえます。
 
こうした中にあって脱構築的な思考、すなわち現代思想的な思考とはまさにこの「つながり過剰」という同一性の中で排除された他者性を上手く織り込んでいく思考といえるでしょう。サイダーのように他者性の泡立つ日常の中で仮固定的に生きるということ。それが「つながり過剰」の時代において本当の意味で、他者(性)と手をつなぐということなのではないかと思います。