かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

無敵の未来へ向かって--3月のライオン(羽海野チカ)

* 現代における「政治と文学」の核心点

 
戦後日本社会における「成熟」の条件を見事に言語化した「成熟と喪失(1967)」で知られる批評家、江藤淳氏は同書において安岡章太郎氏や小島信夫氏など「第三の新人」と呼ばれる戦後文学を論じる中で、前近代を「母(運命論)」のゆりかごに包まれた時代として、そして近代を「父(自己決定論)」という呪縛に囚われた時代として位置づけた上で、氏は「成熟」の条件を「父(自己決定論)」の前に動揺する「母(運命論)」を崩壊させる欺瞞を、すなわち「(喪失感の空洞のなかに湧いて来る)悪」を引き受けるというアイロニカルな態度に求めました。そして、このような成熟モデルを江藤氏は「治者」と呼びました。
 
また現代を代表する作家、村上春樹氏は1995年前後に「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる転回を果たしたことで知られています。それまで氏は「大きな物語」から距離を置き「父」を演じることを回避する「デタッチメント」という受動的な成熟モデルを時代に対する暫定解として選択してきました。ところが1995年以降、氏は地下鉄サリン事件に象徴される新たな時代が産み出す「悪」と対峙する「コミットメント」という能動的な成熟モデルを提示する必要に迫られました。ここで氏は「コミットメント」のモデルを「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」におけるクミコや「1Q84(2009〜2010)」の青豆のような、主人公の代わりに「悪」を誅殺するヒロイン、すなわち「他者性なき他者」としての「母」に依存する態度に求めました。
 
江藤氏と村上氏の立ち位置(「悪」の引き受け/「悪」との対峙)は一見すると完全に真逆のように見えます。けれど両者が打ち出す成熟モデルは奇妙な共通点を持っています。それはすなわち「父=治者」になる「コミットメント」のコストが「母=他者性なき他者」へ転嫁されているという点です。この点、宇野常寛氏はこのような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の癒着構造を「母性のディストピア」と名付けています。
 
そしてグローバル化とネットワーク化の加速する現代において人は否応なく誰でも「父=治者」として機能し、相互に「コミットメント」の過剰接続(「悪」の引き受け/「悪」との対峙)を余儀なくされているといえるでしょう。それゆえに現代における「政治と文学」の核心点にはこうした「父=治者」たちによる「コミットメント」から生じるコストの処理をどのように引き受けて、記述していくのかという問いがあります。
 
この点、本作「3月のライオン」は、現代における「政治(=市場原理主義)」と「文学(=決断主義的価値選択)」を苛烈なまでに体現するプロ棋士の世界を題材とすることで、現代における「政治と文学」の核心点にある問いを真正面から引き受けて、記述することに成功した作品であるように思えます。
 

* 母性のユートピア

 
本作の主人公、桐山零は幼少時に事故で両親と妹を失い、父の友人であるプロ棋士、幸田に内弟子として引き取られた後、血の滲むような努力を重ね、若干15歳で見事プロとなります。けれどその一方で、幸田の実子である香子や歩との軋轢から幸田家に居場所を無くしてしまった零は幸田家を出て六月町にて1人暮らしを始め、1年遅れで高校に編入するも校内では孤立してしまい「本業」である対局でも不調が続いていました。
 
そんな折、零は橋向かいの三月町に住む川本あかり、川本ひなた、川本モモの三姉妹と出会います。彼女らとの交流を重ねる中で他者の温もりを知った零はこれまでの自分の殻を破り、先輩棋士である島田開との対局を機に島田の研究会に参加したり、担任である林田高志の勧めで学校の部活動に参加したり、徐々にではありますが、他者へと心を開き始めるようになります。零にとって川本三姉妹とはいわば「母性のユートピア」を体現する存在でした。
 

* 一生かかってでも僕は君に、この恩を返す

 
こうした中、零の前に決定的な形で「母」として現れたのが川本家の次女、ひなたです。ひなたはクラスでいじめられていた親友を庇ったことで今度は自分がいじめの標的にされてしまいます。それでもひなたは皆の前で「私がしたことは、ぜったいまちがってなんかない」と涙ながらに叫びます。そんなひなたの姿を見て、幼い頃に抱えた精神的外傷が「嵐のように救われる事」に気づいた零は「一生かかってでも僕は君に、この恩を返す」と静かに決意します。
 
こうして零はひなたのいじめ問題の解決に奔走し、ひなたの高校受験を支援します。果たして、ひなたは無事志望校に合格します。けれども、ひなたがその高校生活のスタートを切った矢先に、川本姉妹の祖父、相米二が不整脈で入院してしまい、その間隙を縫うように、かつて不倫が原因で家を出て行った三姉妹の実父、誠二郎が唐突に現れます。
 
今もまた別の不倫問題を抱え込んでいる誠二郎は川本家に体よく現在の家族の世話を押し付けようとしますが、その目論みを阻止するため零は誠二郎と真っ向から対決します。他人には関係ないと零の当事者適格性を論難する誠二郎に対して、零は(恐るべきことに当人にすら何の相談もなく)自分はひなたと結婚を考えていると宣言します。
 

* 母性のディストピア

 
こうした零の奮闘と三姉妹の結束の前に誠二郎は去っていきました。しかし同時に川本家に伏在する別の問題が浮き彫りになります。父に逃げられた後、母と祖母を立て続けに喪ったあかりはひなたとモモを育てるべく自らが「母」の役割をこれまでずっと負ってきました。しかしあかりが「母」の役割を全うしようとすればするほどに、あかり自身の幸福は遠のいてくことになります。すなわち、これまで零が川本家に見た「母性のユートピア」とは、実は長年にわたり、あかりが「母」としてのコストを背負う事で成り立っていた「母性のディストピア」だったわけです。
 
こうした状況を打開するための解決策としてあかりの伴侶を探すことを思いたった零は、先輩棋士である島田と恩師である林田に白羽の矢を立てます。しかしその一方で零の「婚約者」であるひなたは、あろうことか零があかりと結婚してくれることを願っていることが判明します。
 

* ひなたの想い

 
ひなたの想いは複雑です。ひなたも零に対して恋愛感情めいたものがないわけではないですが、実父のトラウマを抱えるひなたは零の心もまた、あっけなく変わることを恐れていました。けれども、あかりという「母」ならば、きっと零を手離すことがあるわけがないという確信を持つひなたは、そこには皆がバラバラにならずにいつまでも一緒にいられる未来があると信じることができたのでした。
 
つまり、ひなたもまたここで「母性のユートピア=母性のディストピア」を永続させる夢に囚われていました。けれども文化祭の後夜祭、燃え盛るキャンプファイヤーの前で、零とひなたはあの「結婚宣言」以来のお互いのコミュニケーションの誤配を解きほぐしていき、ついにひなたは零の告白を受け入れていくのでした。
 

* 無敵の未来に向かって

 
こうしてみると、ある一面で零は自らが「父=治者」になる「コミットメント」から生じるコストを川本姉妹という「母=他者性なき他者」へと転嫁しています。けれども、もう一面で零はひなたやあかりという「母」が背負ったコストを何かしらの形で分かち合い、誰もが幸福でいられる未来を、まさにそれは文字通り無敵の未来を手にするための「最善の一手」を探して今も必死になって足掻き続けているように思えます。
 
こうした意味で本作は「母性のディストピア」に規定されつつも、その発展的な解体を志向する作品であるといえるでしょう。果たしてその結末はどうなるのでしょうか。本作の今後の展開を楽しみに待っていたいと思います。