かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自我と影の統合--空の境界(奈須きのこ)

* ゼロ年代の想像力の先駆け

 
戦後50年目の年にあたり、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年は、戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下によるアイデンティティ不安が前景化した年であり、国内思想史的には社会共通の「大きな物語」が失墜し社会の流動化/ポストモダン化がより一層加速した年として位置付けられています。そして、こうした時代の転換点を見事に体現した作品が同年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」でした。同作の示したあの衝撃的な結末は当時、アイデンティティ不安を抱えていた若年層に対してある種の承認を与える物語として機能しました。そして、こうしたエヴァの結末を引き継いだ想像力が、ゼロ年代初頭において一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群でした。
 
もっとも「セカイ系」はある意味で時代の徒花ともいえる一面があります。この点、宇野常寛氏はそのデビュー作「ゼロ年代の想像力」において、エヴァに代表される「95年の記憶」を引きずる「引きこもり/心理主義的」な想像力を「古い想像力」と呼び、これに対して、2001年前後から台頭し始めた「開きなおり/決断主義的」な想像力を「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」と呼んで整理しています。つまり、この整理に従えば「セカイ系」とはその登場時において既に「古い想像力」の系譜に属していた作品群ということになります。
 
そして宇野氏は「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」が台頭した背景には、米同時多発テロ構造改革路線による格差拡大といったゼロ年代の社会情勢のもとで広く共有されつつあった「引きこもっていたら殺される」というある種の「サヴァイヴ感」があるといいます。すなわち、氏のいう「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」とは、こうしたゼロ年代的な「サヴァイヴ感」を所与の前提として引き受けて、その上で何が正しい価値(物語/正義)なのかが宙吊りにされた状況で特定の価値を(それが究極的には無根拠であることを承知で)あえて選択するという想像力を指しています。
 
こうした「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」の担い手として、宇野氏が取り上げた作家の1人が奈須きのこ氏です。奈須氏がシナリオを手掛けた「Fate/stay night」はゼロ年代を代表するPCゲームの一つに数えられ、現在もさまざまなメディアミックス展開が稼働してします。そして1998年から2001年にかけて奈須氏の同人小説として執筆された本作は「Fate/stay night」や「月姫」といったTYPE-MOON作品と共通の世界観設定を持ち、さらにはゼロ年代に隆盛を見せた「戦闘美少女」「学園異能バトル」といったジャンルの先駆的な存在でもあります。また2007年から全7部作(+最終章)として公開された劇場版は今やあの「鬼滅の刃」で知られるufotableが制作を手がけており、いま観ても作画、美術共に極めて高水準にあり、特に戦闘シーンの流麗さは特筆すべきものがあります。
 

* 二つの人格を持つ少女--式と織

 
本作のあらすじはこうです。物語の始まりは1995年3月--そう、まさにあの1995年--本作の主人公、黒桐幹也は街で一人の少女に心を奪われる。少女の名は「両儀式」。そして2人は翌月、高校の入学式で再会することになる。やたら人懐っこい幹也に極度の人間嫌いの式は困惑していたが、そんなある日、式のもう一つの人格である「織」が幹也の前に現れた。
 
式はもともと「式」と「織」という男女のふたつの人格を持っていた(原作では解離性同一性障害と説明されている)。式は「陰」と「肯定」を担当し、織は「陽」と「否定」を担当していた。これは「退魔四家」の1つに数え上げられる両儀家に代々伝わる遺伝であり、正統な後継者の条件でもあった。いわば式は両儀の家に囚われていたのであった。
 
その後、幹也への想いを持て余してしまった式は自ら道路に飛び出して事故に遭い、その際に式の身代わりとなって「織」が消滅してしまう。そして2年もの昏睡状態から目覚めた式は織を失ったことでそれまでのアイデンティティが切断され「生の実感」を失ってしまう一方で「死の線」が見える特殊能力「直視の魔眼」が発現する。魔術師、蒼崎橙子と邂逅した式は、自ら織の人格を補完し、生の拠り所を求めて異能者との闘争に身を投じていく。この辺りの過去エピソードは第二章「殺人考察(前)」と第四章「伽藍の洞」で描かれているものです。
 

* 影の主人公--荒耶宗蓮

 
本作は一章から四章まで過去と現在の物語が相互に描かれていき、第五章「矛盾螺旋」において一つの山場を迎えます。本章では本作の黒幕であり、いわば影の主人公ともいえる荒耶宗蓮の「根源」への渇望と挫折が描かれます。
 
「根源」とはTYPE-MOON作品における「魔術師」が目指す最終到達地点であり、万物の始まりから終わりまでの全てが存在する境域をいいます。Fate/stay nightにおける聖杯戦争の起源もこの「根源」に至るための儀式です。
 
かつて台密の僧であった荒耶は誰も救えない自身の無力さに絶望し「根源」への到達を渇望します。荒耶は「根源」への到達を妨害する世界からの「抑止力」の発動を回避するため、元々「根源」へ繋がる式を求め、式を「根源」へ近づけるために3人の駒を用意します。
 
そして小川マンションでのコルネリウス・アルバとの共同実験に式が関わったことを奇貨とした荒耶は当初の予定を繰り上げて、小川マンションに式を取り込んで、いよいよ「根源」へ至る準備に取り掛かりますがその野望は結局、式に阻まれてしまいます。
 
矛盾螺旋。それはすなわち「太極」に他なりません。荒耶は「小川マンション」という「太極」の中に「両儀式」という「太極」を取り込むも、自らの実験が生み出した臙条巴というトリックスターの働きにより、結局その自我は「集合的無意識阿頼耶識」という「太極」へと呑み込まれていく。まさに矛盾するこの世界の螺旋の中で荒耶の物語はその円環を閉じることになります。
 

* 三者三様のアイデンティティ不安--霧絵・藤乃・里緒

 
ところで、荒耶が用意した3人の駒はそれぞれ三者三様のアイデンティティ不安を抱えています。
 
その1人目。第一章「俯瞰風景」に登場する巫条霧絵はかつては両儀家と同じく退魔四家の一角であった巫淨家の最後の一人です。難病を抱え余命幾ばくもなく、外の世界を憎悪しつつも空への憧憬を抱く霧絵は荒耶の力を借り、視力を代償に霊体を得て廃ビル「巫条ビル」を霊体で目的もなく浮遊。結果、集まってきた他の浮遊者を巻き込み連続飛び降り自殺事件を引き起こします。霧絵は自身と同じ病院に入院していた式を頻繁に見舞いに来ていた幹也に仄かな好意を持っていましたが「巫条ビル」に調査にやってきた幹也の魂を奪ったことで、彼を取り戻しに来た式に霊体を殺されることになります。そしてその後、霧絵自身も無関係の人を自殺させた罪悪感と一度経験した死を再び経験するため、巫条ビルから身を投げることになります。
 
その2人目。第三章「痛覚残留」に登場する浅上藤乃はやはり退魔四家の一角である浅神家の末裔であり「歪曲の魔眼」の持ち主です。藤乃は式とは別の意味で世界に棲まえていません。彼女は「無痛症」という異常を得ることでしか世界に存在することを許されていませんでした。「痛い」という痛覚が欠如した藤乃は「いたい」という「生の実感」を持つ事ができなかったわけです。そんな藤乃の支えとなっていたのが、かつての幹也との取るに足らないような思い出でした。ゆえに幹也と再会した時、藤乃は思わず発した「はい、とても--とても痛いです、私泣いてしまいそうで--泣いて、いいですか?」という言葉は彼女の「いたい」という「生の実感」の叫びでもありました。なお、藤乃は後の「Fate/stay night」における第三のヒロイン(ある意味では真のヒロイン)である間桐桜の原形ともなるキャラでもあります。
 
その3人目。第七章「殺人考察(後)」に登場する白純里緒は荒耶が本作の「表のラスボス」だとすれば「裏のラスボス」といえます(もっとも荒耶の駒としては失敗作)。高校時代、大人しく目立たない生徒だった白純は式に告白するも「弱い人は嫌いです」という一言で振られたことで「強い自分」になるべく、その辺の不良に喧嘩をふっかけた挙句に意図せず相手を殺害してしまい、その死体を「食べる」ことで処理しようとしていたところを荒耶に声をかけられ「食べる」という起源に覚醒してしまいます。以後、白純は式へと同一化して、式へ自身の存在を誇示すべく「殺人鬼」となり、式をギリギリまで追い詰めますが、最後は式にボロ雑巾のように始末されることになります。
 

*「特別」に対する「普通」--黒桐幹也

 
霧絵、藤乃、里緒。この3人はある意味において、1995年に地下鉄サリン事件という形で顕在化した若年層のアイデンティティ不安を体現する存在でもあります。彼らは荒耶宗蓮という名のカルト思想に救いを求めた結果、連続自殺や連続殺人を引き起こすテロリストになってしまうわけです。
 
彼らのアイデンティティ不安の根底には「特別」への憧憬があります。そして本作は「特別」の側ではなく「普通」の側に賭け金を置きます。こうした「普通」を体現する存在が幹也です。
 
第六章「忘却録音」では幹也が「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」という変わった起源を持っていることが明らかになります。彼は誰にでも差別なく普遍的に接する一方で誰かに対して「特別」な感情を持つことができない。こうした幹也の抱える「誰とでも解りあえるかわりに得た、誰にも気付いてもらえない空っぽの孤独」に禁断の恋心を抱いたのが幹也の実妹であり「禁忌」を起源とする少女、黒桐鮮花です。また幹也は霧絵、藤乃、里緒といった「特別」を憧憬する人間たちからも羨望され、あるいは執着されることになります。ここには徹底的に「普通」である事こそが「特別」となる逆説を見る事ができるでしょう。
 

*「95年の思想」から考える

 
思うに本作が幹也に与えた「普通」という起源=アイデンティティは「ゼロ想」において宇野氏が「95年の思想」と呼んだアプローチに極めて近いものがあります。「終わりなき日常を生きろ(宮台真司)」「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」「脱正義論(小林よしのり)」に代表される「95年の思想」に共通する問題意識とは、90年代の「引きこもり/心理主義」をカルト思想に陥ることなく、いかに克服するかというものでした。そして「95年の思想」の提示する成熟モデルは特定の「小さな物語」に依存せず価値観の宙吊りに耐える強固な個の確立というある種の物語批判的な、あるいはニーチェ主義的な傾向を持っていました。
 
けれども「95年の思想」はその後加速する「引きこもりから決断主義へ」という物語回帰の欲望の前に夭折してしまったと氏はいいます。人は「小さな物語」から自由ではあり得ない。例え「物語」を「何も選択しない」という立場を選択してもそれは「『何も選択しない』という物語の選択」でしかない。そうである以上、問題は「物語」からの自由などという不可能な外部の仮構ではなく「物語」の不可避を受け入れた上で「物語」への「自由で慎重なアプローチ」の成立条件の検討にあったということです。
 
こうした意味から言えば、カルト思想(=荒耶宗蓮)に依存しない個の確立を問う本作から、決断主義(=聖杯戦争)の解除条件を問う「Fate/stay night」への転回とは、まさしく「95年の思想(=物語批判)」から「ゼロ年代の想像力(=物語回帰)」への転回という文脈の上で理解することができるように思えます。
 

* 自我と影の統合--『両儀式

 
本作終章はほぼ幹也と『両儀式』との対話で構成されています。『両儀式』とは「式」と「織」という二つの両極端な人格の土台となる第三の人格です。『両儀式』は肉体の人格であり、本来は空の器であった彼女は未熟児として朽ち果てるはずが、超越者を求めた両儀家により知性を与えられ生きながらえることになりました。その後、彼女は式と識が精神の人格を作り出し、彼女自身は長い眠りについていました。
 
両儀式』は根源につながっており根源そのものであり、ゆえに聖杯と同じくあらゆる実現可能な願望を叶えることができます。そして、式の殺人衝動も万物の虚無への回帰欲求を叶えると言うこの根源の性質に由来しています。
 
この『両儀式』の出現により本作の持つ物語的布置が明らかになります。スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングによれば意識の主体である「私=自我」の裏には個人的無意識の主体というべき「生きられなかった私=影」が伴っており、さらにこれらの基礎には集合的無意識の主体というべき「私を超えた私=自己」があるとしています。そしてこうした「自己」の働きにより「自我」が「影」を統合していく個性化の過程をユングは「自己実現」と呼びます。
 
いわば式が「自我」であるならば、織は「影」に相当し『両儀式』は「自己」を体現します。そうであれば本作は、織を喪った式がかつて織が願ったユメを--何でもない穏やかな日常への憧憬を--自らのうちに統合していくという、まさしくユング的な意味での「自己実現」の物語として読めるでしょう。