かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】文学部唯野教授(筒井康隆)

* ドラマと講義で読み解く「文学とは何か」

 
イギリスの批評家、テリー・イーグルトンの「文学とは何か」は、現代文学理論の優れた概説書として1983年の出版以来、幅広い層に読み継がれてきた名著です。同書は英文学の起源から現代に至るまでに現れたあらゆる文学理論を平明に紹介しつつも同時に鮮やかに相対化していき、最終的には「文学理論とは幻想である」という恐るべき結論に到達した上で、既存の文学理論とはまったく別様な観点から「文学」を論じる言説を提示しました。そしてこの「文学とは何か」が日本で広く知られるきっかけとなった筒井康隆氏の実験小説が、本作「文学部唯野教授」です。
 
本作は大学の学内政治を戯画化したドラマパートと主人公唯野教授の講義パートから成り立ちます。ドラマパートではまさしく「文学とは何か」が批判した古色蒼然たるエリート主義的な文学的言説を擬人化したかのような大学人達のドタバタコメディが繰り広げられます。そして講義パートは文字通り「文学とは何か」を筒井流に料理したダイジェスト版となっており、唯野教授=筒井氏の軽妙な語り口による講義はそれなりに難解な同書への入門編としても読めるでしょう。
 
以下ではその講義の要点だけをざっくり紹介します。未読の方は予習用に、既読の方は復習用にぜひお役立てくだれば幸いです。
 

* 印象批評

 
文学批評の歴史は19世紀末のイギリスに遡ります。それ以前、文学は厳密な学問の対象とはみなされていませんでした。ところがイギリスの詩人にして批評家でもあったマシュー・アーノルドはその頃社会的に台頭し始めていた中産階級や労働者階級を統制する手段として英文学に注目します。こうして、ある種の毒饅頭として「文学」という学問が始まりました。
 
この点、初期の文学理論の中心はカントやヘーゲルの芸術哲学を継承した美学理論であり、もともとは詩や絵画を論じるための「象徴」を中心とした神秘主義的な言説が文学批評へと転用されていました。
 
これに対して経験主義的立場に立脚した批評を本書は「印象批評」と呼んでいます。もっとも印象批評が依拠する「伝統」とか「コモンセンス」などといった素朴な価値観は、いずれも結局のところ論者の主観に左右される漠然とした基準にすぎず、文学のさらなる発展のためにも、より緻密で洗練された文学理論の確立が目下急務とされました。
 

* 新批評とロシア・フォルマリズム

 
この点、1920年代のケンブリッジ大学において、フランク・レイモンド・リーヴィスを中心とするスクールティニー派が台頭します。スクールティニー派は心理学や文化人類学の知見を導入した作品吟味を行い、調和的で創造的な「生」を文学的価値として掲げました。こうしたケンブリッジ英文学批評の影響を受け、1930年代のアメリカでは、ジョン・クロウ・ランサムらを中心とする「新批評」という潮流が生じます。新批評はアメリカ南部の古き良き伝統主義を背景として、科学的合理主義と異なる詩的世界の独自性を称揚しました。
 
これに対して1910年代〜1920年代のロシア・ソ連で盛んになった文学運動が「ロシア・フォルマリズム」です。ロシア・フォルマリズム言語学的見地から文学における「異化効果」を重視します。この「異化効果」をロマーン・ヤコブソンは「日常言語への組織的暴力行為」と呼びます。すなわち、ロシア・フォルマリズムにとって文学とは何気ない日常を言語的技法により見慣れないものに変えてしまう作品をいいます。ロシア・フォルマリズムアメリカでは先述の新批評に影響を与え、フランスでは後述の構造主義に影響を与えています。
 

* 現象学と解釈学

 
オーストリアの哲学者エトムント・フッサールの創始した現象学に影響を受けたジュネーヴ学派は、作品の時代背景や作家の経歴や読者層など作品外の要素を全て「括弧に入れる」ことにより、作者の「純粋意識」である作品世界を歪めることなく記述するという現象学的批評を提唱しました。
 
これに対して、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは師であるフッサールの超越論的現象学から離反して独自の解釈学的現象学を展開しました。そして、ハイデガーの後継者であるハンス=ゲオルグ・ガダマーは、ハイデガーが世界と対話したように、文学作品と対話して、そこに作者の意図を超えた現代的な意味を発見していく解釈学的批評を提唱しました。
 

* 受容理論

 
この解釈学的批評の一種に受容理論というものがあります。受容理論というのは文字通り文学作品を受け入れる「読者」の役割を明らかにしようという理論です。その中心人物であるヴォルフガング・イーザーは「内包された読者」という読者モデルを提唱しました。「内包された読者」とは文学作品に反応するために必要な全部の条件を持った仮設的な読者のことをいいます。
 
この点、イーザーによれば、読者とは文学作品の「空所」において想像力を働かせて、文学作品の中に首尾一貫した意味を見出していく作業の担い手ということになります。そして、こうした作業において文学作品は読者の持つ既存の「準拠枠」とは異なる新たな「準拠枠」を作り出し、ここからそれまでの「準拠枠」からは見えてこないものを見えるようにする「否定作用」が生み出される事になります。
 
つまりイーザーに言わせれば文学の価値とは読者の寄り掛かっている社会的な慣習や規範を変形させたり不確かなものにしたりして、読者に対して現実の制度への疑問を突きつけて新しい批判意識を呼び覚ます点にあるということです。
 

* 記号論構造主義

 
スイスの言語学者フェルディナンド・ソシュールは言語をシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)が恣意的に結びついた記号の差異から成立する共時的な構造として捉えました。このソシュールの言語理論を応用した分析手法を「記号論」といいます。ソ連のタルトゥー学派の中心人物である記号論学者ユーリイ・ロトマンはソシュールに依拠しつつ、詩の言語を「語義の体系」「造形的形象の体系」「韻律の体系」「音素の体系」といった複数の体系が圧縮されたものであり、その過剰なまでの情報量の中に詩の美的価値を認めました。
 
そしてソシュール言語学と同様に、社会、文化、歴史における様々な事象をその背後にある「構造」の効果として解明しようとする立場を「構造主義」といいます。文化人類学クロード・レヴィ=ストロースは様々な神話を「神話素」と呼ばれるいくつかの基本的な単位の組み合わせへと還元し、その組み合わせには一定の法則があることを発見した事で、構造主義の名を広く知らしめました。
 
そして、神話と同様にあらゆる文学の中には共通の構造が存在すると考える立場が構造主義的批評です。例えばフランス構造主義の批評家ジェラール・ジュネットは「順序」「持続」「頻度」「叙法」「態」という5つの観点からの詳細な物語分析を展開しました。構造主義的批評はテクストの中にある構造に注目した点で、テクストの外の現実を括弧に入れる現象学批評と通じる点があるでしょう。
 

* ポスト・構造主義

 
1968年に起きたいわゆる「5月革命」以降、フランス思想界のモードは構造主義からポスト・構造主義へと遷移しました。そのポスト・構造主義の代表的論客と目されるフランスの哲学者ジャック・デリダはテクストに現れるあらゆる二項対立を決定不可能なアポリアに追い込む「脱構築」と呼ばれる読解技法を提唱しました。
 
その影響の下で、アメリカのイェール大学を中心として「イェール・ディコンストラクション派」が台頭します。その中心人物であるポール・ド・マンらはあらゆる言語はすべからくメタファーであり、あらゆるテクストは自ずから脱構築されていると主張しました。
 
こうなると、もはやすべての理論はフィクションであり、それは畢竟、エクリチュールの戯れにすぎず、こうした言語の無能力を率先して暴き立てることこそが文学に残された使命ということになってしまいます。もっとも当のデリダその人はこうしたアメリカにおける退廃的な風潮に批判的な立場を取っていました。
 

* 読書の技法としての「批評」

 
「批評」というと何か我々の日常とは縁遠い文化人の高等遊戯のような感じにも聞こえますが、決してそんなことはありません。「批評」とはもっと我々の日常に根ざした営みであり、それは端的に言えば「読書の技法」に他なりません。
 
本書で語られる様々な文学理論に通じることはそれだけ多様な読みに開かれた〈読書〉を可能とします。そしてその中で我々は時として、テクストの中に他でもない〈わたし〉だけに差し出されたメッセージを見出すこともあるでしょう。
 
すなわち「批評」とはある面で、テクストという「他人の物語」を我々の生を基礎付ける「自分の物語」として語り直していくための技法でもあります。そしていまや莫大なテクストが氾濫する中、誰もが発信者となってしまうソーシャルメディアの時代を生き抜く上で必要とされる情報リテラシーとは、まさにこうした「批評」と名指される思考ないし態度ではないでしょうか。