かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

正義なき時代における正義の在り処--これからの「正義」の話をしよう(マイケル・サンデル)

 

* 政治としての正義、哲学としての正義

 
いわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会共通の価値観が失墜したとされる現代において「正義」という問いほど困難な問いはないようにも思われます。いまや正義とは無垢な理想ではなく無根拠な決断となり、誰かの正義とは誰かの悪である事が明白となった時代を我々は生きています。
 
こうしたオブジェクトレベルにおける正義=政治を巡る言説の優劣を決める事は確かに不可能なのでしょう。けれどもこのような正義=政治を巡る言説を調停するためのメタレベルにおける正義=哲学を探求する可能性は今なお残されているのではないでしょうか。本書はこうした意味で正義なき時代における正義の在り処を問う書であります。
 

* 正義をめぐる一つ目のアプローチ--幸福の最大化

 
正義をめぐる一つ目のアプローチは正義とは「幸福の最大化」を意味するという考え方です。このような立場を「功利主義」と呼びます。
 
イギリスの哲学者ジェレミーベンサムによれば道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだといいます。ベンサムによれば正しい行いとは社会全体の「効用」を最大化するあらゆるものを指します。ここで「効用」という言葉は快楽や幸福を生む全てのものを、苦痛や苦難を防ぐ全てのものを表しています。
 
人は人である以上、誰もが快楽を好み苦痛を嫌うでしょう。功利主義はこの端的な事実を道徳と政治の基本に据えます。効用の最大化は個人の行動原理だけではなく国家の立法原理でもあります。どのような法律や政策を制定するかを決めるにあたっても、政府は共同体全体の幸福を最大化するためにあらゆる手段を取るべきであるということです。
 

* 正義をめぐる二つ目のアプローチ--自由の擁護

 
正義をめぐる二つ目のアプローチは正義とは「自由の擁護」を意味するという考え方です。もっとも、ここでいう「自由」をいかに捉えるかについてはさらに大きく二つの立場に別れます。
 
この点、自由な市場における自由な選択に至上の価値を見出す立場は「リバタリアニズム」と呼ばれます。
 
フリードリッヒ・ハイエクミルトン・フリードマン、ロバート・ノージックらに代表されるリバタリアンたちは人は他者の権利を侵害しない限り自らが所有する財産や身体を使い自らが望むいかなることも行うことが許される権利を有すると主張し、国家による市場の規制、パターナリズム、道徳的強制、富の再分配を否定します。この立場からは国家の機能は民事契約の履行保証と、暴力、略奪、詐欺といった刑事犯罪の摘発に限定された最小国家のみが正当化されるという主張が導き出されることになります。
 
これに対して「正義論」で知られるアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズに代表される自由と平等の実質的な調和を目指す立場が「リベラリズム」です。
 
まずロールズが想定する「自由」とはリバタリアニズムの想定する「自由」とは全く異なる「自由」です。18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントは人間の尊厳の根拠を合理的に推論できる理性的な存在である点に求め、その理性に基づき自らが選択した道徳法則に基づく自律的な行動を「自由」な行動と定義します。ここでいう自律的な行動とは「何々したいなら」という外的な条件に規定された「仮言命法」ではなく、人格それ自体を究極目的として尊重する無条件の「定言命法」に従って行動することを言います。なぜならば仮言命法に従って行動するうちは人は仮言命法を規定する「何々したいなら」という条件の奴隷であり真の「自由」を獲得した存在とは言えないからです。
 
そしてロールズはこうしたカント哲学に依拠した「自由」から導き出される「正義の原理」を究明しました。まずロールズはある共同体の構成員全員が自分がどのような境遇にいるかを知らない「無知のヴェール」を被った原初的平等状態で、当該共同体の生活を律する原理、すなわち社会契約を定めた場合、どのような原理が選択されるかを問います。
 
まず功利主義は選ばれないとロールズは言います。無知のヴェールを被っている以上、自分が効用最大化の名の下で切り捨てられる可能性は否定できないからです。またリバタリアニズムも選ばれません。無知のヴェールを被っている以上、自分が自由市場における弱者の立場にある可能性を否定できないからです。
 
こうしてロールズ的仮定の元では以下の二つの原理が「正義の原理」として選び取られる事になります。
 
まずその第一原理は言論の自由や信教の自由といった基本的自由は原則的に全ての人に平等に与えられるべきであるとします。
 
そしてその第二原理は諸々の社会的・経済的不平等は、その不平等が社会で最も不遇な立場にある人々の利益に叶うような場合にのみ許容されるというものです。
 

* 正義をめぐる三つ目のアプローチ--共通善の尊重

 
正義をめぐる三つ目のアプローチは正義とは「共通善の尊重」であると考える考え方です。これはいわゆる「コミュニタリアニズム共同体主義)」と呼ばれる立場です(もっとも本書はこの名称にはあまり好意的ではないようです)。
 
この立場は遥か古代ギリシアの哲学者アリストテレスの政治哲学に由来します。アリストテレスによれば、正義とは何かを判断するためには、問題となる社会的営為のテロス(目的因)とは何かを考える必要があり、そしてそのテロスについて考える事は少なくとも部分的には、当該社会的営為が称揚しようとする名誉や美徳とは何かを考える必要があるとされます。
 
アリストテレスにとって正義とは人々に自分に値するものを与えること、1人1人にふさわしいものを与えることを意味します。ゆえにその正しい分配方法を決めるには分配される物のテロスに遡り、そこでは何が名誉や美徳として称揚されるのかを見極めなければならないということです。
 
本書はこの立場に与しています。ここで鍵となるのは物語的な自己概念です。我々は「物語」としての人生を生きています。畢竟、我々の人生とはある程度に首尾一貫を志向するまとまりとしての「物語」の主人公を演じることであり、その人生の岐路に差しかかった時、我々がどのような道を選ぶかという選択は自らの生きる「物語」を解釈することに他ならないということです。
 
こうした我々の生の物語は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついています。ゆえにある制度が正義にかなうものか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳としての「共通善」に照らしあわせなければならないということです。
 
もちろん何をもって「共通善」とするかは、その時々の時代状況、社会状況により異なってくる不確定な概念です。ゆえに真に公正な社会とは、何がその時々の「共通善」なのかをめぐる不断の対話に開かれた社会であるということです。
 

* 正義と価値のあいだ

 
本書の立場はある意味で「過激」ともいえます。本書の支持する「共通善の尊重」とは所詮は実現不可能な理想ではないか、もしくはかつての「大きな物語」の捏造ではないか、あるいは結局形を変えた功利主義ではないか、といった批判もあり得るでしょう。
 
この点、リベラリズムの主張は言うまでもなく正しい核心を持っています。我々がそれぞれ置かれた境遇の相違とは、突き詰めていえば所詮は巡り合わせの運の問題に過ぎません。そして、そうである以上、個人の多様性は尊重されるべきであり、選択の自由は広く認めるべきであり、様々な社会的・経済的格差は可能な限り是正されるべきでしょう。
 
その一方で本書で取り上げる人工妊娠中絶、ES細胞研究、同性婚の事例を見れば明らかな通り「正義」の問題は何かしらの道徳的意味での「価値」の問題と密接に関連します。
 
この点、リベラリズムは個々の事例において問題となる制度や営為をもっぱら個人の多様性、選択の自由、格差の是正などといった統一的な「正義」の原理へと還元して、その背景にある「価値」の問題に対しては少なくとも形式上はコミットしない態度をとるでしょう。
 
これに対して、本書の立場は個々の事例において問題となる制度や営為をその背景にある名誉や美徳といった「価値=共通善」を巡る対話の場に差し戻し、そこから個別的な「正義」の基準を導こうとしているように思えます。
 
確かにこのような対話の中から思いがけない相互理解の糸口が生じることもあるでしょう。それまでつながらないと思われていたものがどこかでつながる事だってあるでしょう。ともかくも本書が力説するように何事も「やってみないことには、わからない」ということです。そういった意味で本書の立場はリベラリズムを否定するのではなく、むしろその限界性を乗り越える可能性に賭け金を置いているように思えます。