*「自明」を失ったものとして立ち現れる世界
我々が世界に棲まうことができているのは畢竟、我々にとって世界が「自明」なものとしてそこに存在するからです。「自明」であるということは「自ずから」「理解」できるということであり「自明」であることをわざわざ証明したり深く考えたりする必要がないということです。むしろあまりに「自明」なことは、よくよく考えてみるとはっきりとした根拠によって支えられていないことが多いですが、普通は「自明」なことについては誰も根拠を問わないでしょう
我々が人間関係の中でごく自然に振る舞うことができているのは、今この場ではどのようにするのが正しいかを「何となく」理解できているからです。つまり人と人との〈あいだ〉において、今がどういう状態であり自分を含むそれぞれのメンバーがどう振る舞えばいいのかが間主観的に理解できているからです。それは「自明」なことなのであり、いわゆる「ノリ」と呼ばれるコードに支配された空間とは、まさにそのような「自明」で満ちたものをいいます。
ところがひとたび世界が「自明」なものでなくなってしまえば、目の前にある事物や表象が「ある」という根拠をいちいち自分で考えなければならなくなっています。いわゆる「世界に棲めていない」という感覚はこうした状態をいいます。
そして今村作品の持つ不思議な魅力の源泉もまた、我々が「自明」とする何気ない日常風景を括弧に入れる事で純粋現象そのものに立ち返らせるところにあるように思えます。今村作品を読んでいて多くの人が感じるというある種の「不穏さ」はまさにこの世界が「自明」を失ったものとして立ち現れてくる感覚の追体験から生じているように思います。
* 特異的な文体と普遍的な寓話性
今村夏子さんは大学卒業後、清掃関係のアルバイトなどを転々として、29歳の時にバイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです。
思いがけない鮮烈なデビューを果たしてしまった当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。
三島賞受賞決定後の電話インタビューで今村さんは「今後書く予定はない」という趣旨のことを述べます。それから5年近く、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編以外、作品の発表は途絶えていました。
ところが2016年、福岡で創刊された「たべるのがおそい」という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この「あひる」という作品は第155回芥川賞候補に挙がり惜しくも受賞を逃すも、同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。
そして、2017年に刊行された「星の子」は再び第157回芥川賞候補に挙がり、第39回野間文芸新人賞を受賞。その後2019年、周知のとおり今村さんは「むらさきのスカートの女」でついに第161回芥川賞を射止めることになります。
今村作品の魅力といえばまずは上述したような「不穏さ」を生み出すあの印象的な文体が挙げられるでしょう。もっとも今村作品が時として「世界文学」とまで評されるのは、その文体から紡ぎ出される物語が時代性や地域性を超越した普遍的な寓話性を内在させているからなのでしょう。芥川賞受賞後初の単行本となった本作「木になった亜沙」はこうした側面をより推し進めた短編集といえます。
* 三人の主人公--亜沙・七未・わたし
本作には表題作を含む三つの短編が収録されています。それぞれのあらすじはこうです。
「木になった亜沙」。亜沙は小さなアパートで母親と二人で暮らしていた。子どものころから亜紗が手渡す食べ物は、どういうわけか誰からも食べてもらえなかった。母親を亡くし叔父夫婦に預けられた亜沙は中学に入ると不良少女となり、更生施設に入れられる。施設での暮らしが終わろうとする頃、亜沙は友人たちと出かけたスキー場で事故に遭い死んでしまう。死ぬ間際、亜紗は今度生まれ変わったらくだものの木になって、みんなに私の実を食べてもらいたいと願う。その結果--
「的になった七未」。七未はとにかく「当たらない」子どもであった。どんぐりも、水風船も、ドッジボールも、空き缶もなぜだか七未には当たらない。次第に彼女は「当たりたい」という衝動に駆られていく。唯一、自分で自分にぶつけたものだけは「当たる」ことに気づいた七未は、授業中、文房具を自分に投げ始め、姉妹には自分で自分の顔を殴り始めて、気がつけば病院に入院していた。その後、七未は主治医と不倫関係となりその間は「当たりたい」という衝動も収まっていたのが--
「ある夜の思い出」。「わたし」は学校を卒業して以来15年間、ずっと働かずに家にいる。朝から晩まで寝そべった生活をしていた「わたし」は、立って歩くことさえだんだんと億劫になる。ある日、父親の説教がきっかけで「わたし」はとうとう寝そべったまま家の外へと繰りだしていく。やがてお腹がすいた「わたし」が夜の商店街のゴミを漁っているとき、自分と同じように寝そべったまま動く男と出会い、彼の家に招かれることに--
* 純粋無垢であるがゆえの異端性
この三編ではいずれも「異能」という要素が導入されています。そしてどの作品においてもその主人公は「異能」の存在であるがゆえに社会から疎外される存在として描かれます。
「木になった亜沙」では、手渡す食べ物を誰にも食べてもらえず、わたしの手はそんなに汚いのかと嗚咽する亜沙に更生施設の先生はこう答えています。
「逆です、きみの手は、きれいすぎる」
おそらく本当の意味での「純粋無垢」とは世の「常識」に染まれないがゆえに世の中にうまく棲むことができず、多くの場合は他者から拒絶されてしまう存在なのではないでしょうか。こうした「純粋無垢であるがゆえの異端性」という本作に通底するモチーフは今村さんのデビュー作「こちらあみ子」に通じるものがあります。
いま思えばあみ子もまた「思ったことをそのまま言う」という「異能」を抱えた存在でした。そしてこうした意味においては我々も皆「人の欠点をたくさん見つけることができる」とか「1人でいることが苦にならない」などといった「異能」を抱えた存在です。そして当然ながら世の中には歓迎される異能とそうでない異能があり、その分水嶺は単純に時代と社会のめぐりあわせによる偶然の結果だったりするわけです。こうした意味で本作は個性や多様性を称揚する一方で様々な形で平準化を強いる現代の寓話としても読めるでしょう。