*「正常」と「異常」を問い直す
17世紀においてルネ・デカルトが立ち上げた「我思う、故に我あり」という近代的な「主体」は絶えず変化する不確かな感覚に対して「不変のもの」「確実なもの」としての思考する実体として描かれました。すなわちそれは、環境に影響されて変わってしまったり消えてしまったりするものではなく、環境に対してつねに一定であり、環境から距離を取り、環境に優位する主体です。このような世界を俯瞰的に定点観測する主体を想定することで近代科学は発展していきました。
しかし、現実の社会のなかで生きる人間存在には、自身以外の存在である「他者」との関係を通じた来歴、つまりその人にとっての歴史が常に伴っています。そうであるならば主体とは始まりも終わりもない静的なものとしてではなく、他者との関係のなかでだんだんと生成していく関係的で動的なものとして捉えられるべきものであるといえるでしょう。
こうした考え方を押し進めたところに20世紀初頭においてジークムント・フロイトが創始した精神分析を位置付けることができます。精神分析においては子どもが主体になる歴史を父や母といった他者をめぐる欲望のドラマとして理解します。例えばフロイトは父に殴られること(あるいはそれと同じ効果、同じ意味を持つ出来事)が、子どもの主体性の決定的な契機になると考えました。また英国対象関係論を代表する精神分析家ドナルド・ウィニコットは母に抱きしめられること(あるいはそれと同じ効果、同じ意味を持つ出来事)が、子どもの主体性の健全な核を育むと考えました。
いずれにせよ、こうした哲学や精神分析の考え方は「主体」とか「他者」などといった何かしらの特権的な「中心」を想定し、その「中心」が導入されているかどうかで「正常」か「異常」を区別します。これに対して、本書『〈自閉〉の哲学』においてはこうした「中心」を想定することのない主体の生成プロセスを〈自閉〉という言葉で捉え直すことで「正常」と「異常」の区別を批判的に問い直す哲学が展開されることになります。
*〈自閉〉における力
〈自閉 Autismus〉とは精神医学において100年以上の紆余曲折を持つ概念であり、その間、哲学においてもさまざまなかたちで論じられてきた概念です。かつて〈自閉〉は統合失調症に顕著な外界から内界への撤退を指すものでしたが、その後、それからは区別される症候群を指すものとなり、近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症 autism」への注目をもとに哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めています。
それでは〈自閉〉に関してどのような点が哲学的に重要になるのでしょうか。アメリカの精神医学会が刊行している診断・統計マニュアル『DSM-V』(2013)および、その本文改訂版である最新の『DSM-V-TR』では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。
ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心です。
こうした〈自閉〉における行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われます。
これに対して本書は〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると本書は考えます。ここで本書の重要な参照項となるものが「リトルネロ」と呼ばれる哲学概念です。
* カオスからリトルネロへ
いわゆる「ポスト構造主義」を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと「制度論的精神療法」の実践で知られる精神分析家フェリックス・ガタリはその共著『千のプラトー』(1980年)の第11プラトーにおいて次のような印象的な文章を記しています。
暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに静けさをもたらすものだ。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌そのものがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。(『千のプラトー』より)
ドゥルーズとガタリはこのような「カオス」のただなかで「静かで安定した中心のの前ぶれ」を、すなわち、暫定的で局所的なテリトリーを構築しようとする常同的、反復的行為を「リトルネロ ritournelle」と呼んでいます。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズとガタリはこれを独自の哲学的な概念へと練成していきます。
ドゥルーズとガタリは前後左右不覚でただ立ち尽くすしかない「カオス」と呼ばれる状況において我々が自己を確保し、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、あらかじめ備わった一貫した主体性によってではなく、このような常同的、反復的行為を通してであると考えます。すなわち、カオスのただなかにおける常同的、反復的行為は、暫定的で局所的なテリトリーを構築するということです。
もちろん「歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険」もあり、こうしたテリトリーは脆く儚く危ういものです。「それは、すぐに消失してしまうかもしれないし、うまくいけば、暗闇を踏破し、征服するための拠点にあるかもしれない。いずれにせよ、何もあらかじめ保障されていない。失敗しながら、中心を逸して何度も動けなくなりながら、手探りで進んでいくしかない」と本書は述べます。
いずれにせよ、こうしたリトルネロという観点からいえば、いわゆる「主体」や「他者」とは本来的なものではなく、常同的、反復的な行為の効果として、それが構築するテリトリーとともに形成されるものであるということです。このことは本来的でそれゆえに内面的とされる秩序やその中心が、実は非本来的でそれゆえ外面的な水準においてその都度形作られることを示唆しています。こうしたことから本書は次のように述べます。「子どもが暗闇でひとりでいられるのは、そして、おぼつかない仕方によってであれ、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、かつて父に殴られたからでも、母に抱きしめられたからでもない。いま歌を歌うからである」と。
* 現代における生の様態としての〈自閉〉
一般的にASDにおいては内面的な自己同一性を確保するのが難しく、変化する世界、そのめくるめく呈示がカオスティックなものとして感じられると言われています。けれども、その常同的、反復的な行為は、むしろ、そのようなカオスティックな世界の転変に対して、外面的な行動の水準において自己同一性を構成しようとすることだと言えるかもしれません。
そうであればまさしく常同的、反復的な行為による外面的な水準での自己同一性として特徴づけられるリトルネロは〈自閉〉における常同的、反復的な行為について、何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を理解し〈自閉〉を概念化するためのひとつのヒントを与えてくれることになるでしょう。
さらにこのような〈自閉〉における常同的、反復的な行為による外面的な水準での自己同一性の構成の重要性はASDのみに当てはまるものではありません。しばしば指摘されるように現代の発達障害の前景化と自閉症への注目は以前は社会への不適応として顕在化することのなかったものが、社会の大きな変化によって新たにそれとして顕在化してきたという側面があります。
その例として伝統や習慣に則った生活の衰退やライフコースの多様化や工場などでの定まった作業によって特徴づけられるフォーディズムから、臨機応変なセルフプロデュースや当意即妙な対人コミュニケーションを必要とするポストフォーディズムへの労働形態への転換や、インターネットを媒体とする情報の氾濫やマルチメディアによるマルチタスクの常態化などが挙げられます。
これらの変化が推し進められ、より急速で劇的になっている今、それらへの適応に戸惑いや苦しみを感じない者はほとんどいないのではないか、今や多くの人々がカオスティックな世界の転変の中でただ立ち尽くし、無防備に世界にさらされているのではないだろうかと本書はいいます。
この意味において、そうした世界の転変の中で常同的、反復的な行為によって暫定的で局所的なテリトリーを構築すること、外面的な水準で自己同一性を確保することは現代の生の様態そのものにも関わっていると言えるはずであり、本書が〈自閉〉という言葉で考えようとしているのは、まさにこうした現代の生の様態そのものであるといえるでしょう。
* 現前・自閉・物語
本書はまず第1章において茫漠とした広がりのなか、前後左右不覚となり、ただ立ち尽くすしかないような状況を〈現前〉として定式化します。それは近代哲学が考えた超越論的主体や、精神分析的な父-母といったフィルターなしに、世界が自己にあらわとなり自己が世界にさらされる無媒介的かつ情報過多的かつ感覚過敏的な状況です。そして本書はこうした〈現前〉という状況を生きる力として〈自閉〉の常同的、反復的な行為を把握します。
続いて第2章では〈現前〉の前面化である「無人島」という「他者なき世界」における人間学を検討することで、主体や他者という超越論的審級なしで自己を構成するものとしてリトルネロとしての〈自閉〉が位置付けられ、第3章ではこうした超越論的審級なしの常同的、反復的行為が形作る自己や経験の様態をドゥルーズの「不連続的瞬間」から出発する時間論に即して探究されることになります。
そして第4章ではドゥルーズとガタリの『千のプラトー』のリトルネロ論を読みながら「カオスのただなかで中心を作り、輪を描き、輪を開く」というリトルネロの三つのアスペクトという観点から〈自閉〉の常同的、反復的な行為をどのように位置付け、また理解することができるかが検討され、第5章ではドゥルーズとガタリのリトルネロ論に批判的に対峙しながら〈自閉〉における「可能的なものの技法」が論じられることになります。
人は世界に棲まう上で自身の生を基礎付ける何かしらの〈物語〉を必要とします。けれども人は人生におけるさまざまな局面において、これまで自身の生を基礎付けてきた〈物語〉が瓦解してしまう危機に見舞われます。本書のいう〈現前〉とはこうした〈物語〉の瓦解したカオスティックな状況を指しているともいえるでしょう。
ではこうした〈現前〉から人はいかにして〈物語〉を立ち上げ直していけるのでしょうか。こうした問いから本書を読むこともできるでしょう。こうした意味で本書のいう〈自閉〉とは、絶対的な主体や圧倒的な他者といった超越論的審級を想定することなく、日常において生起する繰り返しのリズムから人が再び〈物語〉を立ち上げ直していくプロセスであるといえるのではないでしょうか。
