*プラットフォームから「庭」へ
批評家の宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)において今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム(発信と承認の快楽が前面化したゲーム)」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。同書が提示する問題の所在は次のようなものです。
現代の人類社会の最上位レイヤーはローカルな国民国家からグローバルな市場へと変化し、そして世界を変える究極の手段はそのローカルな国民国家の法を選挙や革命で変える政治から、グローバルな市場にイノベイティヴな商品やサービスを投入する経済へと移行しましたが、ここから一つの大きな分断が生じることになります。
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは世界はいま「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々に二分されていると述べています。ここでいう「Anywhere」な人々、つまり「どこでも」生きていける人々とは今日のグローバルな情報産業や金融業のプレイヤー、クリエイティヴ・クラスの人々のことです。これに対して「Somewhere」な人々、つまり「どこかで」しか生きられない人々は20世紀以前の製造業を中心とした旧い産業に従事し、ローカルな国民国家の一員としての意識を持つ人々のことです。
そして「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームは、より上位の「Anywhere」な人々のプレイするグローバル資本主義というゲームの一部であり「Anywhere」な人々は「Somewhere」な人々の承認への欲望を可視化し、彼らのプレイする相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げており、その構造こそがソーシャルメディアに代表されるプラットフォームに他なりません。
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した『全体主義の起源』で19世紀後半以降の帝国主義拡大の原動力を〈グレート・ゲーム〉を自己目的化してゲームそれ自体への没入した当時のヨーロッパ人の精神性にあったといいます。そして本書はこのような帝国主義の末期から100年を経た今日のプラットフォームにおいてアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉は今日の情報技術と金融資本主義の結びつきの中で二重化されているといいます。
アーレントが『全体主義の起源』で示したのはこのようなゲームの自己目的化が人間とその社会を決定的に愚かにするという事実でした。そして今日における相互評価のゲームもまた多くの場合、世界における問題そのものや事物そのものを思考することよりも二項対立に単純化された問題についての賛否をめぐるコミュニケーションが重視され、その結果閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていき、承認だけが延々と交換されていくことになります。こうした相互評価のゲームに支配されたプラットフォームの時代を内破する方法について考えることが同書の主題となります。そしてその方法は「庭」という比喩によって語られます。
プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。
だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると本書はいいます。こうした「庭」の条件とは次のようなものです。
まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると同書はいいます。
もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。そして同書はここで挙げた「庭」の条件をすべて満たす社会的な大状況として「戦争」を挙げています。ここで同書が取り上げる小説が坂口安吾の短編小説『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』です。
*「庭」の究極の条件
『戦争と一人の女』という小説は「野村」という語り手と、ある「女」との同棲生活を綴ったものです。物語の舞台は第二次世界大戦末期の日本のとある都市で、そこで野村は酒場で知り合った「女」と暮らしています。しかしその関係は戦争末期の破滅的な予感を背景にした刹那的なものであり、そこに未来の展望は一切感じられません。
この「女」はいわゆる不感症で、野村はその原因を彼女が長く水商売をしていたからだと考えています。もちろん現代の感覚からすればそれは偏見以外の何者でもないですが、ここで重要なのはその「汚れた」過去から不感症になってしまった彼女が野村の中で当時の破滅へと向かう日本という国家に重ね合わされているという点です。
つまり野村にとって自己と国家(戦争に敗れつつある日本)との関係とは、この先に何も生まないことが見えてしまっている恋人との終わりつつある関係のようなものであるということです。にもかかわらず野村がこの「女」と関係を続けるのは、彼が彼女=破滅へ向かう日本と一緒にみずからも破滅していくことに自己陶酔を見出しているからです。それゆえに野村は日本という国家が戦争に敗北することを自己の敗北のように受け止め、自己が手触りをともなって体験できる敗北を「女」との刹那的な関係に見出そうとしているわけです。
そしてこの物語を「女」の視点から描いた小説が『続戦争と一人の女』です。ここで「女」は戦争のもたらす世界の変化そのものに感動しています。野村が戦争と自己を重ねあわせ同一化しているのに対して「女」は戦争という「事物」の生態系をただ受け止め、戦争が一方的に自分を襲い、そして世界を変える可能性を示したことに魅入られています。
そこには自己が世界に関与し、影響を与えることをアイデンティティの中核に置く発想もなければ、他の誰かと承認を交換することの充足もありません。世界が自己と無関係に変化してしまうことに「女」はただ魅入られているということです。
この小説の結末近くで野村は戦争こそが彼女の真の恋人なのだと告げます。それは戦争こそが「女」の欲望を、つまり自己と無関係な世界の変化を体験することへの欲望をかなえているからに他なりません。彼女は同時代人たちの多くが求めていたように自己の存在を歴史という物語で意味づけようとしてはいないし、野村のように、その失敗に傷ついてもいません。彼女はただただ世界が戦火で燃え上がることに興奮しています。そしてここにおそらく「庭」の究極の条件が露呈していると宇野氏はいいます。
* 自己と無関係に世界が変化していくこと
確かに「戦争」という大状況は先述した「庭」の条件をことごとく満たしています。まず戦争は(悪い意味で)人間が人間外の事物とコミュニケーションを取る場といえます。20世紀に発生した戦争の機械化がもたらしたものは戦場における人間の事物化に他なりません。そして同時にこの戦争という状況下において人間は事物の側からアプローチを受けることになります。
そしてその事物たちは皮肉にも非常に豊かな生態系を獲得してしまっています。兵器のスペックとその運用、陸海空軍それぞれのメカニズムと戦術、戦略とその背景をなす政治的イシュー等々。これらの戦争にまつわる事物の生態系は人を惹きつけてやみません。だからこそ人間は戦争について語り始めると途端に饒舌になるのです。しかし、その反面人間は「戦争」という状況に関与できるけれど支配することはできませんし、いうまでもなく戦争は人間を孤独にします。
こうしたことから宇野氏は戦争とは究極の「庭」であるといいます。そして戦争はこれら「庭」の条件を総合したときに浮上する人間のあまり自覚されないがもっとも強い欲望に、おそらく承認の獲得に唯一対抗できる根源的な欲望を強く実現するといいます。
自己と無関係に世界が変化していくこと。そしてそれを実感できること。つまり世界が変わると信じられること。戦争はこの「庭」の最後の、そして究極の条件を満たすものとなります。このように「戦争」という状況について考えることで導き出され得るのは「庭」的な場所が究極的に辿り着かなくてはいけない価値の存在であるということです。
今日のグローバルに肥大した資本主義と情報技術のカップリングは人類に二つのゲームを与えています。一つ目は個人がグローバルな市場において何者かになるという自己実現を「する」というゲームです。そして二つ目は個人がそのグローバルな市場の一部であるプラットフォーム上で何者か「である」ことを確認するというゲームです。この二つのゲームは先述のように21世紀の〈グレート・ゲーム〉として深く結びついています
そうであればプラットフォームを内破する「庭」的な場所はこの「する(評価)」ことでもなければ「である(承認)」ことでもなく、この問いを無効化する回路を備えている必要があるということになります。換言すれば自己とは無関係に世界が変化することを体感できる回路が必要であるということです。そしてこのような「庭」がより大きな力を発揮するための別な条件がその外部にあり、この二つの条件が揃うことではじめて「庭」は正しく機能すると宇野氏はいいます。そしてここで鍵となるのが「制作」という概念です。
*「消費」から「制作」へ
かつて吉本隆明氏は1960年代の政治の季節の終わりに共同幻想(具体的には政治的イデオロギー)からの「自立」の根拠を対幻想(具体的には戦後中流的な家族形成)に求めましたが、消費社会が爛熟した1980年代になると「自立」の根拠を「消費」という回路に求めるようになります。換言すればこれは対幻想ではなく自己幻想に依拠して「自立」を試みるというプロジェクトです。そして、吉本思想の継承者と目される糸井重里氏は商品に「物語」を付与することで「(現代では相対的に価値が低下した)モノの消費」を「コトの消費」に近づけ、発信と承認の快楽が前面化した現代情報環境に抗おうとしています。
これに対して宇野氏は事物の「消費」ではなく事物の「制作」こそが共同幻想にも対幻想にも依存せず、市場からの評価からも共同体からの承認からも切断しうる「自立」の可能性を秘めた回路であるといいます。換言すれば自己が「何者かになる」こともないままその活動が世界を少しでも確実に変えていることを実感できるということです。
そのためにはまずラーメンが美味しいとか景色が美しいといった事物を「受け止める」主体として出発するところから始まります。この状態が加速すると人間は「どうしても欲しいがまだ世界に存在しないもの」を求めて「制作」を欲望するようになります。
この段階に達すると少なくとも一時的に「承認」からも「評価」からも切断され、人間が純粋に事物を通じて世界に関与する時間が訪れることになります。このように事物を「制作」すること。それこそが「する」ことと「である」ことの対立の外部に「も」成立する「自立」の回路であるということです。
* 中動態の世界の一時停止
こうした本書の議論は國分功一郎氏が2011年に公刊し、ベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』における議論を更新するものとしても読めます。國分氏は同書においてフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの消費社会論をベースに「退屈」とは消費社会が生み出すニューモデルとかブランドといった観念や記号を際限なく追い求め決して「満足」に至らない「消費」から生じるとして、その解決策として「消費」から「浪費」へ回帰すること、つまり事物についての観念や記号ではなく、事物それ自体を(過剰に)受け取ることで「満足」に至る「贅沢」という戦略を提示しました。
これに対して宇野氏は同書の公刊当時に比べると情報環境が劇的に変化してプラットフォーム上での発信と承認の快楽が前面化した現在では「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題が生じるとして「消費」から「浪費」への回帰という戦略のさらにその先に「制作」を位置付けます。そしてこのような「制作」の動機は事物の「浪費」に「満足」することなく失敗し続けることで生じるとして、このような「浪費」に失敗し続けるための場として事物とのコミュニケーションを通じて継続的な「変身」が生じる「庭」を位置付けています。
また國分氏はもうひとつの代表作『中動態の世界』においてインド・ヨーロッパ語族の文法研究史を参照し、現代の言語を規定する能動態と受動態のパースペクティヴはかつての能動態と中動態のパースペクティヴが変化したものであるとして、実質的に「中動態の世界」で思考していたと國分氏が位置付けるスピノザに依拠した「自由」へのアプローチを試みます。ここでいう「自由」とは「自己の本性の必然性に基づいて行為する」ことであり、換言すればそれはスピノザのいう物の本質としての「力(コナトゥス)」を発揮することに他なりません。
これに対して宇野氏は國分氏のいう「中動態の世界」は情報技術の進化によりすでに回復されてしまっていると考えます。少なくとも「相互評価のゲーム」に興じるプラットフォーム上のユーザーたちはスピノザのいうところの「自由」を悪い意味で享受しています。こうしたことから氏は「庭」においてはプラットフォーム上で拙速に回復されてしまった「中動態の世界」が機能しなくなる時間を手に入れる場所でなくてはならないといいます。このような「庭」において人間は完全に受動的な存在として事物に襲撃されて「傷」を負い、そしてその「傷」によって人間は「制作」に動機づけられることになるのです。
* 破壊の快楽と制作の快楽
そしてこの「制作」こそが「続戦争と一人の女」に登場した「女」の欲望にもっとも肉薄する回路となります。例え誰からも認められなくても、これまで存在しなかった事物が存在するようになるだけで世界は確実に変わり、このことを実感することで人間は孤独に、つまり共同性を介することなく世界に接続できると宇野氏はいいます。すなわち、これからの公共性の手がかりはここにあるということです。
それは「女」の愛した「戦争」のように自己の存在と無関係に世界が変化し、それを体験することの快楽は与えてくれませんが「承認」も「評価」も用いず個人と世界を結びつける点で両者は共通します。そのため「戦争」という「破壊」の快楽にもっとも肉薄できるのが「制作」の快楽なのであるということです。
「続戦争と一人の女」は吉本隆明的な語彙からいえば対幻想の敗北の物語です。野村は「女」との関係に敗戦する日本と自己の関係を重ね合わせています。これに対して彼女の「真の恋人」は戦争そのものです。彼女は野村のように自己を戦争というゲームのプレイヤーだと考えていません。彼女は戦争という事物の生態系の豊かさに、過剰さに、圧倒的な力に魅入られています。そこで氏は「戦争」ではないかたちで「女」の欲望に応える「平時の恋人」に「制作」を位置付けるべく、そのための条件として「庭」の外部において「庭」を機能させるための「人間の条件」を論じています。
ところで「自己と無関係に世界が変化していくこと」に対する欲望はなぜ根源的な欲望といえるのでしょうか。ここではカント哲学でいうところの「崇高」という感情がヒントとなりそうです。カントのいう「崇高」とは我々を圧倒する物凄いものに対して抱く感情です。その例としてアルプスの雄大な景色や猛烈な嵐が挙げられます。物凄いものに圧倒されるとは基本的に不快な感情のはずですが、その不快がやがて不思議な満足感に変わります。これが崇高です。
この点、カントは人間の心を「感性」「構想力」「悟性」「理性」という4つのアクターが働く職場のようなものだと考えます。こうした心においては「感性」が捉えたものを「悟性」が理解し、何らかの判断を下すことになりますが、この「感性」が捉えたものを図式化して「悟性」の理解を助ける役割を担うものが「構想力」です。
物凄いものに出会った時もこの構想力はその全体を把握しようと働きを始めます。しかし構想力は到底これを図式化できません。従って悟性も働きません。これは構想力にとって自らの無能を思い知らされる不愉快な状況です。これこそが物凄い対象に圧倒された時に最初に訪れる不快の正体です。
ところがそこに別のアクターが関わってきます。これが「理性」です。理性とは「理念」を扱う作用です。ここでいう「理念」とは例えば「宇宙全体」のような認識はできないけれども、考えることはできる対象をいいます。こうした理念を理性は構想力に突きつけ、この物凄いものの全体を把握するようプレッシャーをかけてきます。そこで構想力は奮起し、この理念に見合うものへと自らを高めようと決意します。こうした状況をカントの言葉でいえば「法則として理念との適合を実現すべきであるという自分の使命」を構想力が再認識するということです。
ここで理性と構想力は対立しています。しかし構想力のこの気づきは心という職場自体を活性化させることになります。そして人間の主観は全体として次のように考えます。自然に比べて人間はちっぽけな存在だけれども、人間にはそんな自然をも包み込む理念を作り出す力が備わっており、自然に負けない人間性を人間は備えていると。
物凄いものに圧倒されているという事実そのものがこれによって変わったわけではありません。物凄いものの経験の解釈の仕方が変わったのです。それゆえ物凄い風景自体が崇高なのではなく、物凄い風景に圧倒されるという不快な経験をきっかけとして人間が自分自身を再発見するという一人芝居のような過程の中で感じられるのが崇高の感情であり、その再発見の中に快があるということです。
この過程で発見される人間性は道徳性を含んでいるとカントはいいます。つまりこれは人間の目的、人間に備わっていた自分たちのあるべき姿の再発見でもあります。こうした意味で本作は戦争という巨大な悪のただなかで一人の人間のなかに「崇高」が生じる過程を描き出した作品であったといえるでしょう。
