かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

コンステレーションから物語へ--深緑野分『この本を盗む者は』

* コンステレーション

臨床心理学者の河合隼雄氏は京都大学最終講義「コンステレーション」で心理療法において見出される「物語」を「コンステレーション」の展開として語っています。ここでいう「コンステレーション」とは夜空にある星座を意味しています。「コン」とはもともと「ともに」という意味で「ステレーション」のステラとは「星」を意味しています。すなわち星がともにある=星座ということです。
河合氏が依拠するユング心理学を創始したスイスの精神科医カール・グスタフユングはこのコンステレーションという言葉を当初は言語連想検査を通じて発見した自我に相対する心的複合体であるコンプレックスに用いていましたが、やがてコンプレックスのさらに奥にあり、その基盤となる心的作用である元型に用いるようになりました。
 
とりわけユングは意識の枢要部である自我とは別に心全体の中心としての自己という元型を想定し、こうした自我と自己の相互作用を確立する自己実現の過程を「個性化の過程」と呼びました。こうしたことからユング派の心理療法においてはクライエントの自己実現の過程=個性化の過程をコンステレートしていくことが重視されています。
 
こうしたコンステレーションというものをわかりやすく表したものとして河合氏は曼荼羅を挙げており、曼荼羅のような表現はまさに世界全体を一つのコンステレーションとして読み切って表現していると述べています。実際にユングは自身の精神的危機を乗り越えるときにたくさんの曼荼羅の絵を描いています。すなわち人が人生のある局面において「私は世界をこう見たのだ」ということを表現したときに曼荼羅のような表現が現れるということです。
 
そして、こうした曼荼羅のような一瞬のコンステレーションを表現したものを展開していくと「物語」になると氏はいいます。夜空の星の姿を語ろうとしたときにギリシャ神話のような物語が生み出されたように、人間の心というのはコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているといえます。つまり自己実現の過程とは個人が自分の中にある「物語」を見出していく過程であるといえるでしょう。
 
このようなコンステレーションから物語が生成されるプロセスを豊穣な世界観で描き出した小説として2021年本屋大賞ノミネート作であり今月から劇場版アニメーションが公開された『この本を盗む者は』を取り上げてみたいと思います。
 

* 本の家の娘と本の呪い

本作の舞台となる「読長町」はその名に違わず「本の町」として全国的に知られています。町には新刊書店や古書店のほか、翻訳小説や稀覯本や絵本など特定のテーマに特化した専門店やブックカフェなど全部で50店ほどの本に関係する店が点在しており、さらには書物を司る稲荷神を祀る読長神社まであり、休日になると多種多様な本好きで賑わっています。
 
この読長町の中心に位置する巨大書庫「御倉館」は全国的に有名な書物蒐集家だった御倉嘉市が創立し、その娘であるたまきが跡を継ぎ、現在はたまきの子であるあゆむとひるねの兄妹が管理しています。あゆむは柔道道場を経営する傍らで御倉館の管理人を兼任しており、ひるねは普段は御倉館で暮らし、館内の蔵書全てを読破しているという読書魔ですが普段は寝てばかりで生活能力は皆無です。
 
そしてあゆむの娘である御倉深冬がこの物語の主人公です。しかし深冬はとある事情から本にまつわるあらゆるものが嫌いで嫌いで仕方がなく「本の家」である御倉家に生まれてよかったことなどひとつもないと心底思っており、御倉館にもあまり近寄りたがらず、将来的には御倉館を売却したいとさえ思っています。
 
ある日、あゆむが事故に遭って入院し、ひるねの世話をするためやむを得ず御倉館を訪れた深冬は眠っているひるねが奇妙な御札を手にしているのに気が付きます。その御札には「この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる」と書かれており、そこに突如、真白と名乗る真っ白な髪を持ち、犬に変身する少女が現れます。真白は御倉館の本が何者かに盗まれたために〈ブック・カース〉が発動したと深冬に告げます。
 

* 無意識としての物語世界

御倉館に仕掛けられた〈ブック・カース〉は一族以外の人間が館の外に一冊でも本を持ち出したら発動し、その呪いによって御倉町全体が本の物語の世界に変わり、本を盗んだ者は「物語の檻」に閉じ込められることになります。この呪いを解いて町を元に戻すにはその泥棒を捕まえるほかに方法はありません。
 
はじめはそんな荒唐無稽な話は信じなかった深冬ですが、一歩外に出ると果たして町は月がウィンクをし、大量の真珠の雨が降るマジックリアリズムの世界に変わっていました。こうして深冬は御倉館から本が盗まれるたびに「魔術的現実主義」の世界、「固ゆで玉子」の世界、「幻想と蒸気」の世界、そして「寂しい街」の世界といった具合にさまざまな「物語の檻」に閉じ込められることになります。
 
このように本作では主人公が様々な物語の世界に入り込んでしまい、その世界で起きる事件に巻き込まれるかたちで物語が展開していきます。これはユング派的な解釈でいえば「無意識の世界」への退行を表しているともいえるでしょう。
 
人間は意識の光を磨き上げることで文明を進歩させてきました。しかしそこで構築された意識が無意識の土壌からあまりにも切り離されたときそれは生命力を失ったものとなります。そこで我々にとって必要なことは意識の世界から無意識の世界へと還り、その間に望ましい関係を作り上げることではないだろうかと河合氏は述べています。
 
無意識の世界への退行はもっぱら病理的な現象として捉えられますが、ユングは退行における創造的な側面を認め、退行には病的な側面と創造的な側面があると主張しています。こうした退行現象は意識から無意識へと心的なエネルギーが流れ出ている状態といえますが、このエネルギーの流れがある時に反転し、それは無意識内の心的内容を意識内にもたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見ることがあります。
 
本作における深冬の本嫌いは無意識下のコンプレックスの作用であるといえるでしょう。ユングや河合氏は夢解釈などによって、こうしたコンプレックスを扱っていましたが、本作においてもまた物語の世界という「夢」のような領域で深冬は自身のコンプレックスをコンステレートとしていくことになります。
 

* グレートマザーとの対決

ところでこの深冬の本に対するコンプレックスは彼女の祖母であるたまきに起因します。小さい頃の深冬はそれなりに本好きの子供でしたが、たまきから「御倉の子」に相応しい存在になるべく徹底したスパルタ教育を叩き込まれたせいで徐々に本が嫌いになっていきます。さらに御倉館の中を見てみたいという「ふるほんずきのおねえさん」を御倉館に入れたことがたまきに発覚し「なぜ他人を信用するんだ」「この館にある本の価値は自分の命より重いと思え!」と激しく叱責されたことで深冬は決定的に本が嫌いになってしまいます。
 
そしてこのたまきこそが御倉館に〈ブック・カース〉を掛けた張本人です。深冬の曽祖父である嘉市は読書家をひとりでも増やそうと御倉館の書架を自由に開放し続けていましたが、その娘であるたまきは「本とは神聖なものである」という思想から嘉市の死後に御倉館の規律を厳格化し、200冊もの稀覯本が消失した事件をきっかけに館の開放を中止すると同時に読長神社の稲荷神と契約して館内の全ての本に〈ブック・カース〉を掛けてしまいます。
 
こうしてたまきは死んだ現在もなお深冬と御倉館を支配する存在として君臨し続けています。この点、先述したようにユングは無意識の深層に心の基盤作用としての「元型」の存在を想定していましたが、こうした元型の一つに「母なるもの」の元型である「グレートマザー(太母)」があります。生命を生み出す「母なるもの」のイメージはやはり生命の源泉である大地と結びつき、古代において生と死を司る地母神信仰を形成しました。例えば日本神話におけるイザナミは日本の国土を全て生み出した母なる神ですが、同時に黄泉の国を統括する死の神でもあります。
 
こうしたことから人間の無意識の深層を構成するグレートマザーの元型には「産み育てる」という肯定的な面と「呑み込む」という否定的な面が見出されることになります。この両義性はともに「母なるもの」の「包含する」機能の両面に他なりませんが、この両面のうちの「産み育てる」という肯定的な面のみが母性の本質として社会的に承認され、その一方で「呑み込む」という否定的な側面は常に人の無意識の中に存在して自我を脅かすことになります。本作において深冬はまさにこうした「呑み込む母」として君臨するたまきとの対決を通じて自身の元型をコンステレートしていくことになります。
 

* トリックスターの活躍 

では、グレートマザーが支配する無意識の世界で深冬をサポートする真白とはいかなる存在なのでしょうか。この点、ユングは意識の世界と無意識の世界をつなぐ元型として「トリックスター」という存在を想定します。ここでいうトリックスターは多くの神話や伝説などのなかで活躍するイタズラ者やペテン師として現れます。彼らはトリックを用いて権威に反抗し、ときには極端な上下の転倒をもたらすことになります。
 
このようなトリックスターの典型が「狐」です。狐が人を化かすというのはトリックスターの属性としての変幻自在性を如実に示すものといえます。本作でも稲荷神=狐の神の力で〈ブック・カース〉が発動すると本を盗んだ者は狐に変えられてしまいますが、これはトリックスターが無意識の世界への退行のトリガーとなることを考えると極めて示唆的な設定であるといえるでしょう
 
もちろんトリックスターは狐に限られません。例えば日本の昔話における「桃太郎」や「花咲爺」のように「犬」がトリックスターとして活躍する物語も多くみられます。そしてトリックスターは低次元においては単なるいたずら好きの破壊者として現れますが、高次元においては新しい秩序や建設をもたらす英雄的存在として現れます。
 
こうして観点からいえば、犬でも人間でもある(あるいはその両者でもない)真白はトリックスターとしてはかなり高次元の存在であり、それは同時に自我の生成過程で切り捨てられた「生きられなかった半面」である「影」の元型でもあり、さらには冒頭で述べたような「自己」の元型そのものであるともいえるでしょう。
 

* コンステレーションから物語へ

こうして深冬は真白に導かれて、あるいは真白と手を取り合うことで自己実現の過程をコンステレートしていくことになり、その結末において「私は世界をこう見たのだ」というコンステレーションを「物語」として紡ぎ出していくことになります。
 
ここで深冬が「御倉の子」であるという事実は1ミリも変わっていません。変わったのはこの事実を受け取る深冬の「物語」の方です。多くの人は人生において何らかの困難に直面したとき「なぜこうなったのか」と嘆くことになります。換言すればそれは「なぜこうなったのか」という「物語」を求めているということです。
 
もちろんここでいかなる「物語」を選び取ったとしても目下の困難という客観的な現実は何ひとつ変わることはありません。しかしそこでいかなる「物語」を選び取るかによって、その困難がもたらす「苦しみ」は全く異なってきます。こうした意味で深冬は「御倉の子」であるという「呪い=苦しみ」を解呪する「物語」を選び取ることになります。
 
こうしてみると本作はグレートマザー(=たまき)の脅威に怯え続ける幼い自我(=深冬)が無意識の世界(=物語の世界)でかつて自身が切り捨てた影(=真白)と和解することで、自身の自己と出会い直すというコンステレーションを物語として物語る物語であったといえるでしょう。
 
そして、このような「コンステレーションから物語へ」というユング的な自己実現の寓話をマジックリアリズム、ハードボイルド、スチームパンクといった多様多彩な物語世界を往還することで描き出していく本作は漫画やアニメなどの視覚メディアと極めて相性が良い作品でもあります。
 
2022年から2023年にかけて公刊された本作のコミカライズ版は原作小説が持つ魅力や潜勢力を十二分に引き出した珠玉の出来栄えであるといってよいでしょう。普段あまり小説を読まないのであればコミカライズ版の方から本作に入門するのいうのも良いかもしれません。
 
また今月から公開された劇場版アニメーションは中盤から終盤かけての展開が原作とはかなり異なっていますが、表層的なシナリオを変更することによって、むしろ「グレートマザーとの対決」という原作小説の核心部にあるテーマをより深く描き出すことに成功した映画であったように思えます。