かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

道しるべなき時代にあかりを灯す--宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』

* 承認の時代における「主人公」

 
2024年本屋大賞受賞作『成瀬は天下を取りに行く』(2023)は歴代本屋大賞受賞作の中でも極めて異色な作品であったように思えます。同作は滋賀県大津市を舞台に主人公である成瀬あかりの中学2年生の夏から高校3年生の夏までの出来事を描く本編5編と外伝を含めた全6編からなる連作短編集です。その第1編目である「ありがとう西武大津店」は次のようなあらすじです。
成瀬は14歳の夏休み前、幼馴染の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と唐突に告げます。成瀬はこれからコロナ禍の中で閉店を迎える西武大津店に閉店日まで毎日通い、夕方のローカル番組「ぐるりんワイド」の生中継に映るので島崎にはテレビをチェックしておいてほしいといいます。
 
島崎によれば成瀬は幼稚園に通っている頃から他の園児とは一線を画しており、走るのは誰よりも早く、絵を描くのも歌を歌うのも上手でひらがなもカタカナも正確に書け、その頃は誰もが「あかりちゃんはすごい」と持て囃していましたが、小学校に上がると1人でなんでもできる成瀬はその悪気のない振る舞いが周囲から「感じが悪い」と受け取られてしまい、5年生にもなると女子からは明確に無視されるようになります。
 
けれども本人はそんな周囲の目を全く気にすることなく、唐突に「島崎、わたしはシャボン玉を極めようと思うんだ」などと言い出したかと思えば、その数日後には「ぐるりんワイド」に天才シャボン玉少女として出演したりと、自身の好奇心の赴くままに日々を過ごしています。そんな成瀬の性格をよく知っている島崎は今回の「夏を西武に捧げる」というプロジェクトも「成瀬がまた変なことを言い出した」と淡々と受け止めます。
 
近年の本屋大賞受賞作をみると、そこには例えば壮大な医療ファンタジーである『鹿の王』(2014)やサスペンスと感動を高次元で両立させた『かがみの孤城』(2017)であったり、マイノリティが発する「声なき声」に耳を傾けていく『52ヘルツのクジラたち』(2020)や第二次世界大戦における女性兵士の苦闘と苦悩を描く『同志少女よ、敵を撃て』(2021)であったり、現代における「正しさ」の病理を抉り出す『流浪の月』(2019)や「生きる」という営為そのものに迫る『汝、星のごとく』(2022)であったりと、いずれも極めて「重厚」といえる作品が並んでいます。
 
ところが本作を最初に読んだ時の感想は正直なところ「えっ、これで終わり?」というものでした。先述した「重厚」な歴代受賞作の中に本作を並べてみると同作はどちらかといえば淡白な部類の物語になると思います。しかしながらいま思い返すとこの時は同作の持つ「重厚」を完全に見誤っていたと思います。すなわち、同作が描き出す「重厚」とはその「物語」ではなく、その主人公である「成瀬あかり」という「キャラクター」であり、同時に現代という時代に対して同作が行使する文学的批判力の源泉もまた、この「成瀬あかり」という「キャラクター」にあったといえるでしょう。
 
例えばソーシャルメディアのインプレッション数のように現代においては他者の「承認」が良くも悪くも個人の行動を規定する大きな価値基準として機能している傾向があるといえるでしょう。これに対してシャボン玉を極めたり、西武大津店に通い詰めたりといった成瀬の一見して脈絡のないように思われる奇矯な行動に一貫して見出せる価値基準は常に他者からの「承認」ではなく、あくまで自身の「好奇心」です。
 
では彼女はまったく他者に興味がないのかというとそんなことはなく、むしろ「承認」とは無関係なところで他者と関係し、時には他者に振り回されることもあります。そしてこのような絶妙なバランスから成り立つ「成瀬あかり」という「キャラクター」が持つ特異的な強度こそがおそらく、この「承認の時代」における「主人公」の理想的なあり方として幅広い共感を呼んだのではないでしょうか。
 
同作には『成瀬は信じた道をいく』(2024)という続編があり、この2冊は合わせて成瀬シリーズと呼ばれています。そしてこの成瀬シリーズの完結編となるのが去年12月に公刊された本作『成瀬は都を駆け抜ける』です。
 

* 失恋からハムエッグへ

本作の第1編目「やすらぎハムエッグ」のあらすじは次のようなものです。同編の語り手である坪井さくらは小さい頃からそこそこ勉強ができる子どもでしたが、勉強以外のことは何もかもが平均以下であり、親からは否定され同級生からはうっすらとバカにされている自分にコンプレックスを抱えて生きてきました。
 
そんな坪井のこころの支えは同じ学年の早田くんという男子で、勉強も運動もピアノも何でもできる彼は勉強以外は何もできない坪井にとっての「絶対的な道しるべ」となります。彼と同じ高校に進学した坪井は彼の第一志望の大学が京都大学だと知った瞬間、志望校を京大理学部に決め、見事を合格を勝ち取りますが、その喜びも束の間で合格を学校に知らせた折に教師から京大に合格したのは自分だけであると告げられます。果たして同じく京大を志望していたはずの早田くんはいつの間にか志望校を変え、東大に合格していたのでした。
 
こうして失意で迎えた京大の入学式、キャンパスの桜並木で履き慣れないパンプスに足を取られて転んだ坪井の前に現れて声をかけたのが同じく京大に入学した成瀬です。その後のガイダンス会場で坪井はびわ湖観光大使の衣装を身につけた成瀬を目撃し、スマホで検索してみると、観光大使の他に滋賀県膳所高校かるた班の主将だったとかゼゼカラというコンビでM-1グランプリに出場したとか大津市民短歌コンクールで入賞したとといった成瀬の華々しい経歴が見つかります。
 
翌日、理学部の教室で成瀬から声をかけられ、その流れでお昼を一緒にすることになった坪井はその風変わりなキャラクターにもかかわらず「人生におけるすべてのガチャで大当たりを引いている」成瀬が羨ましくて仕方がなく、そんな成瀬に少しでもあやかろうと早田くんの代わりに夢中になれる対象を成瀬に決めて欲しいと頼み込みます。そんな坪井に対して成瀬は料理はどうだといい、差し当たり「ハムエッグ丼」を作ることを薦めます。
 
これまで料理は家庭科の調理実習でしかしたことのなかった坪井でしたが材料や調味料を買い込み試行錯誤でどうにか完成させたハムエッグ丼に感激します。その日以来料理に傾倒することになった坪井はやがて早田くんへの想いを自然なかたちで手放すことができ、京都をいろいろと見て回りたいという成瀬とともに京都めぐりをはじめます。
 

* 教室の肯定

 
文芸評論家の三宅香帆氏は近著『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』(2025)において成瀬シリーズの魅力として「従来の「青春」物語を更新した」点にあるといいます。従来の青春をテーマとした小説においては「教室=学校」が閉鎖的で同調圧力が強く逃げることも許されない日本のムラ社会的な空間としての「ここ」の象徴として描かれており、こうした「ここ」の外部へ出ていく「ここではないどこかへ」という願望が教室を比喩として表現されていましたが、これに対して成瀬は「ここ(教室)」を肯定してみせます。
 
「成瀬シリーズの魅力のひとつは『青春は、悩まなくても面白い』と証明して見せたところにある」と三宅氏はいいます。成瀬は滋賀に住んでいて、滋賀から出ていこうともしないし、滋賀から出ていけないことを嘆きもせず、むしろ滋賀をとても愛していると同時に滋賀以外の場所を否定することもありません。「教室=地元の人間関係を肯定する青春、それが成瀬の日々なのだ」ということです。
 
こうしたことから三宅氏は従来の青春小説を「90年代:教室の外にある死」「00年代:教室の閉塞感」「10年代:教室からの解放」と定式化したうえで成瀬シリーズが表現したものは「20年代:教室の肯定」であるといいます。
 
「成瀬は「今ここ」を肯定し、そこで、やりたいことをやる。日本のムラ社会を否定せず、むしろムラ社会的地元のアイドルになることを、決して「ださい」ことと捉えない。滋賀こそが一番いい場所なのだ。成瀬にとって。」
 
(『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』より)

 

また三宅氏は同書の別の箇所でも成瀬シリーズの特色として「葛藤を”肯定”しない」点にあるといいます。成瀬は変人ですが彼女は自分が変人であることにほとんど葛藤しません。そして葛藤しない代わりに行動します。なぜなら自分がやりたいことが明瞭にわかっているからです。それゆえに氏は「成瀬は葛藤を肯定しない、新時代の青春小説なのだ」といいます。
 

* わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ

 
そしてシリーズ完結となる本作も、こうした三宅氏が見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトから読むことができます。もとより本作の舞台はこれまでの滋賀ではなくもっぱら京都ですが、成瀬にとっての京都は滋賀という「ここ」と並立するまた別の新たな「ここ」であるということです。
 
「京都を極めたい」という成瀬は偶然知り合った達磨研究会というサークルの面々と京都学派を代表する哲学者西田幾多郎が思索を深めた「哲学の道」を散策中、女子に奥手でやたら理屈っぽい達磨研の会長から「京都を極めることなど不可能ではないか」と疑念を呈されますが、あっさりと次のように答えます。
 
「わたしは大きなことを百個言って、ひとつ叶えばいいと思っているんだ」
 
(略)
 
「みんなは『極める』という到達点に注目するのだが、わたしはそこに至る道が重要だと思っている。ゴールにたどり着かなくても、歩いた経験は無駄じゃない」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

このように「ここではないどこか」というあるのかないのかわからない「到達点」ではなく、あくまで「今ここ」にある「道」に価値を見出し「葛藤」することなく「行動」する成瀬は会長より進呈された観光ガイドからピックアップした百ヶ所に付箋を貼り付けて、そのすべてをクリアするといいます。そこに深い理由はありません。ただ単に「やりたいと思ったから」です。その一方で簿記系YouTuberぼきののかの炎上トラブルに巻き込まれたことがきっかけで夏休みを簿記二級の勉強に捧げたり、母親の成瀬貴美子とともに滋賀のローカル局びわテレの番組「ぐるりんワイド」に出演したりと多忙な日々を送ります。
 
もちろんその間にも「京都極め計画」は着々と進んでおり、ラストでは百ヶ所目である琵琶湖疏水をクリアして、地元である滋賀大津へと凱旋します。これは客観的にみれば単に京都の有名スポットを百ヶ所観光しただけとも言えますが、そこに至る「道」で起きた出来事や得られた出会いは成瀬にとっての代え難い財産になっていることは確かでしょう。ここにはまさに「ここ=都」を肯定すべく「行動する=駆け抜ける」という青春観が提示されているといえるでしょう。
 

* 道しるべなき時代にあかりを灯す

 
このような成瀬シリーズが描きだす「ここでははないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説におけるパラダイムシフトは、さらにより一般化して「人はどのように生きるのか」という主体化のあり方におけるパラダイムシフトとしても読むことができるでしょう。
 
例えば千葉雅也氏は『現代思想入門』(2022)においてこうした主体化のあり方を二通りの「有限化」として描き出しています。同書はまず人間は動物的本能を逸脱するある種の「過剰さ」を抱えた生き物であるという前提をとります。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーを(精神分析でいうところの「欲動」を)なんとか制限して「有限化」するプロセスが同書における「主体化」と呼ばれるものです。
同書が描くあるひとつの有限化=主体化とはイメージと言語の外部を構成する到達不可能な「謎」の周囲をひたすら空回りするような「近代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。これに対して同書が描くもうひとつの有限化=主体化とは世界をひとつの「謎」をめぐる場ではなく複数的な「問題」が生起する場として捉え、生活のタスクをひとつひとつ完了させていく「古代的有限性」と呼ばれる有限化=主体化です。その上で同書は社会をまとめ上げる「大きな物語」が消滅したポストモダンにおける有限化=主体化として前者から後者へのパラダイムシフトを説いています。
 
こうしてみると三宅氏の見立てる「ここではないどこかから今ここへ」「葛藤から行動へ」という青春小説のパラダイムシフトとは千葉氏のいう「近代的有限性から古代的有限性へ」という有限化=主体化のパラダイムシフトとほぼ重なりあっているといえるでしょう。
 
例えば坪井のエピソードでいえば、早田くんという「絶対的な道しるべ」を失ってから成瀬に出会うまでの坪井はこれからの大学生活を、ひいてはこれからの人生を、どうやって生きていけばいいのかという決定的な「謎」の周りをひたすら空回りしていたといえます。そこに成瀬は「ハムエッグ丼を作る」という「問題」を差し出します。そしてこれが契機となり坪井は自炊という生活のタスクをひとつひとつ完了させることに夢中になりこれまでの「謎」の呪縛から解放されることになります。
 
「わたしは『まわりを明るく照らす子になるように』という願いを込めてあかりと名付けられたんだ」
 
(『成瀬は都を駆け抜ける』より)

 

これは本作のラスト近くで成瀬が急に思い出したように何気なくつぶやいた印象的な台詞ですが、この台詞にこそ本シリーズのテーマが極まっているように思えます。この台詞の通り彼女の生き方(有限化=主体化)は周囲にも緩やかだけれども確実に明るい変化をもたらしていきます。そして本シリーズが幅広い読者層の共感を獲得した所以はひとえにこうした成瀬の生き方にあるのでしょう。こうした意味において本作は青春小説という枠組みにとどまらず「大きな物語=絶対的な道しるべ」なき今という時代を照らし出す確かな「あかり」であるともいえるのではないでしょうか。