* データベース消費の現在地
ゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏はその代名詞的著作である『動物化するポストモダン』(2001)において近代的な「大きな物語」が機能不全となった現代ポストモダンにおける個人の消費行動を「物語消費」から「データベース消費」への移行として定式化しました。
ここでいう「物語消費」とは個々の作品消費を通じてその作品の背後にある「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは個々の作品消費を通じてその作品に登場するキャラクターにおける例えば「萌え要素」といった「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
ここから東氏はポストモダンの主体を動物的欲求が全面に出て人間的欲望が形骸化した「データベース的動物」と呼び、日本社会においてポストモダンが大きく加速したといわれる1995年以降を「動物の時代」と位置づけます。
さらに氏はその続編『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において従来の近代文学が目指した近代的現実を写生する「自然主義的リアリズム」に対するポストモダンの文学観として、漫画やアニメのような虚構を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」と物語が複数に分岐していくゲーム経験を写生する「ゲーム的リアリズム」を提示しています。
こうしてゼロ年代においては、このような東氏が打ち出した数々の批評概念を軸に「ゼロ年代批評」と呼ばれる批評シーンが形成され華々しい議論が展開されることになりました。そしてこの令和の時代において東氏の議論を決定的に更新する一冊として本書『考察する若者たち』を読んでみたいと思います。
*「考察」の流行と報われ消費
本書によれば最近のZ世代を中心とした若年層ではドラマや映画を観た後すぐにその作品の「考察動画」や「考察記事」を検索する傾向があるそうです。こうした意味での「考察」という言葉が注目され始めたのは2019年のテレビドラマ『あなたの番です』がきっかけであると本書はいいます。2クール計20話という日本のテレビドラマとしては異例の長さで放送され、その最終話は視聴率19.4%を叩き出し、Twitter(現X)の世界トレンド1位を5回も獲得した同作は「考察ドラマ」と呼ばれています。つまり同作は制作側が意図的に作中に謎を仕掛け、その謎を視聴者が考察しSNSで拡散することを狙って作られた作品であるということです。
この『あな番』のヒットを契機に「考察ドラマ」は世間に広く浸透します。作品によっては制作側が特に「考察」を狙っていなくとも視聴者の方が勝手に「作者は隠された謎を仕掛けている」という前提で「考察」するケースもあるようです。そしてその傾向は小説や漫画やアニメなどの他のジャンルにも波及します。例えば昨年公開された『劇場版「鬼滅の刃」無限城編第一章 猗窩座再来』の大ヒットの裏側には同作の裏設定や伏線回収や小ネタにまつわる大量の「考察動画」が存在します。すなわち、ここから映画を観た観客が考察動画を見てその真偽を確認すべくまた映画を観に行くというサイクルが生じることになります。
このように若年層を中心とした令和の視聴者にとって「考察」とはフィクションを楽しむためのメジャーなひとつの手法となっていると本書はいいます。そしてその背景にただコンテンツを消費して満足するだけではなく、その時間を「意味ある時間」に変えたいという若年層の消費行動を見出し、このような消費行動を「報われ消費」と呼びます。つまりただ楽しい時間を過ごすだけじゃなく、その時間における報われるポイントがわかっていると手を伸ばしやすくなるということです。裏を返せばただ楽しい、面白いという感情だけではそのコンテンツを消費する時間は端的に無駄だと感じてしまうということです。
こうした若年層の消費行動を象徴する言葉として本書は2023年度講談社漫画賞総合部門を受賞した人気漫画『スキップとローファー』の「たぶんこれが最適解!」という台詞を引いています。同作が描く令和の高校生たちのように、若い世代は自分の行動に求められる、意味のある、正しそうな「最適解」を求めているということです。ではなぜ若い世代はこんなにも「最適解」にこだわるのでしょうか。これは単にZ世代がタイパやコスパがいいものを求めているという世代的な傾向だけではなく、そこには「令和特有の病」があると本書はいいます。
*「批評」から「考察」へ
本書は現代を「考察の時代」だといいます。先述のように考察とは作者が提示する(とされる)作品の謎を解く行為をいいます。本書によれば令和においては物語を読んだり観たりすることが、ただ読んだり観たりするのではなく、物語のなかに「謎」として置かれた「正解」を解くゲームになりつつあるということです。
これに対して平成以前は「批評の時代」であったと本書はいいます。ここでいう批評とは作者も把握していない作品の謎を解く営為をいいます。作者は作品の生みの親ですが、作者が作品のことを全て理解しているとは限りません。このような態度を批評はとっています。
両者は具体的にどう異なるのでしょうか。本書の例でいえば『となりのトトロ』(1988)を観て「じつは宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませている」という解釈を行うのが考察です。これに対して「じつは”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー”として捉えられる」という解釈を行うのが批評ということになります。
ここで重要なのは「作者の意図」への意識の有無です。批評から考察へ。こうしたフィクションを楽しむ人々の姿勢の変化を本書はフィクションを楽しむにあたり解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えたということではないかと述べています。
換言すればそれは「正解」かどうかもわからない個人の解釈(感想)を知ってもちっとも面白くなく、それよりも作者が潜ませた「正解」を知ることの方が面白いという変化に他なりません。つまり考察には「正解」がどこかにあることから「わざわざ努力する価値がある」ということです。こうしたことから令和とは物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのではないかと本書はいいます。
*「推し」と「転生」
本書はこのような「報われたい」という消費感情から令和のヒットコンテンツを分析します。例えば「推し」という令和になって広く人口に膾炙した言葉があります。ここでいう「推し」とは自分が好きで、そして応援したり他人に勧めたりしたい対象のことをいいます。つまり自分が対象をとても好きだという感情に、さらに何らかのポジティヴな形で好きな相手と関わりたいという行動が追加された時に「推し」が成立することになります。
ところで「推し」が浸透する以前にある対象を好きだと思うことは「萌え」と呼ばれていました。先述のように東氏は『動物化するポストモダン』においてこうした「萌え」の根底にある消費行動を「データベース消費」と名づけたのでした。つまり「萌え」とは例えば「何となく自分はネコミミが好きだ」「何となく眼鏡のクールなキャラが好きだ」というデータベースから反応する反射的(動物的)な欲求であるということです。
本書は「推し」もやはりこうした「データベース消費」から生じる「萌え」の感情が根底にあるといいます。もっとも「萌え」はその対象が「変わる」ことを前提とする瞬間的な欲求であるのに対して「推し」とは「推し変」という言葉が示唆するように一瞬の感情ではなく継続的な行為であることが前提となっており、そこには自分の「推し」が何かしらの理想のゴール(例えば東京ドームで公演したり総選挙で1位になったり興行収入400億の男になったりなど)へ到達することでファンもまた「報われたい」という感情があるとします。
また「転生もの」というこれまた令和において一般化したジャンルがあります。ここでいう「転生」とは死後に他の場所(多くの場合は異世界)で生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま新しく人生をやり直すことをいいます。この「転生もの」が流行する以前に流行していたのが「ループもの」というジャンルです。「ループもの」と呼ばれる作品では主人公は例えばヒロインを救うため何度も時空を超えて過去改変を試みることになります。
こうした「ループもの」をかつて東氏は「ゲーム的リアリズム」という概念で説明しました。これに対し本書は「転生もの」を「ガチャ的リアリズム」という概念で説明します。すなわち「転生もの」の物語の流行は「違うスペックに生まれてきたかった」というガチャ的な欲望に支えられているということです。
もっともこれは努力をせずとも無双できるチートな存在に生まれ変わりたいという欲望をただちには意味しません。現代の若年層は努力すれば成功するスペックとそうでないスペックがあることを肌感覚で感じており、ここでいうガチャ的欲望とは最初からガチャに当たって「努力すれば成功できるスペックに生まれてきたかった」という「報われたい」という欲望であるということです。
* TikTokとChatGPT
以上のように本書は「考察」「推し」「転生」といった令和に流行するヒットコンテンツから、あるいは「陰謀論」や「成長幻想」が流行する時代の傾向性から、その背景にある「報われたい」という感情を抽出します。そしてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームとしてTikTokを挙げています。
本書がいうようにTikTokの特徴とは短尺の動画が次々に大量にレコメンドされる点にあり、その報酬は大量の短尺動画を見て得られる脳内刺激にあります。そしてこうしたレコメンドはプラットフォームにおけるアルゴリズムによって決定されています。ここでいうアルゴリズムとはユーザーの好みを機械学習し、それに基づいて情報や広告を変えるシステムのことをいいます。
ここから本書は令和のヒットコンテンツとはすべてこうした「報われたい」という感情に最適化されたプラットフォームアルゴリズムのなかで生まれたものであると分析し、こうしたアルゴリズムにより同じ「界隈」に集まった(集められた)ユーザーが「正しさ」という報酬を求め「正解を提示する擬似親」としてChatGPTをはじめとする生成AIに依存しつつあるといいます。
考察したい、推したい、転生したい、気づきたい、成長したい、擬似親がほしい、正解がほしい、報われたい、こうした若者たちの姿は--アルゴリズムのレコメンドに押し流される私たちの姿そのものなのだ。(『考察する若者たち』より)
* データベースからアルゴリズムへ
その一方で本書はアルゴリズムがもたらす最大公約的な「正解(に近い最適解)」によって発信者や受信者の個別性が失われていく状況に警鐘を鳴らします。すべてが最適化され最適解を求められる社会における「自分らしさ」とは畢竟、一般性から逸脱する特異性としての「生きづらさ」へと直結するからです。
もとより本書は「正解(最適解)」を求めることを否定はしません。誰も好き好んで失敗したくないのは当然です。しかし同時に本書はその「正解(最適解)」を目指す態度を補完するものとして「批評」的な態度という選択肢を提示します。つまり本書はここで「正解(最適解)」を求める態度と、その「正解(最適解)」から意図的に逸脱していく「批評」的な態度というダブルシステムを提案しているということです。
先述のように東氏は平成の時代を「データベース消費」が前面化した「動物の時代」と位置付けています。令和の時代においてこうした東氏の議論を本書の議論をもとに術語化するのであれば、それはデータベースを最適化するシステムとしてのアルゴリズムそれ自体を消費する「アルゴリズム消費」が前面化した「正解(最適解)の時代」というべきなのかもしれません。
かつて社会学者の見田宗介氏は「現実」を構成する「現実ならざるもの」としての「反現実」という視座から戦後日本社会を「理想の時代(1945年〜1960年)」「夢の時代(1960年〜1975年)」「虚構の時代(1975年以降)」に区分し、さらにこの議論を継承した大澤真幸氏は東氏の議論を参照しつつ1995年以降を「不可能性の時代」と名づけましたが、こうした「理想」「夢」「虚構」「不可能性」という反現実の表記法に倣えば令和の時代、すなわち2020年代における反現実とは、あるいは「正解(最適解)」といえるのかもしれません。
いまや我々の生きる「現実」は良くも悪くも「現実ならざるもの」としての「正解(最適解)」に規定されているといえるのではないでしょうか。こうした意味で「正解(最適解)」をいったんは受け入れつつも同時にそこから緩やかに逸脱していく術を提示する本書の批評的射程は極めて広範に及んでいるといえるでしょう。


