* レコードの魅力とは何か
音を記録、再生する技術は1877年にトーマス・エジソンが発明した蓄音機に始まり、エミール・ベルリナーによって円盤式レコードが開発されてからは音楽の大量複製と流通が可能となります。もっとも20世紀前半に普及したSP(Standard Play)レコードの片面再生時間は僅か約3〜5分に過ぎず、この短い再生時間は録音内容を制限し、特に長大なクラシック音楽では一つの作品を複数枚に分割して収録する必要がありました。
ところが1948年、アメリカのコロムビア社がLP(Long Play)レコードを発表したことでこうした状況は一変します。LPレコードの片面再生時間は約20〜30分であり、これは一般的なクラシックの交響曲を1枚〜少数枚で完結できるようになったことを意味しています。その結果、LPレコードの普及は演奏解釈の自由度を高めると同時に全曲演奏を基準とする鑑賞様式を確立し、クラシック音楽の裾野を飛躍的に拡大させることになります。さらに1950年代後半にはステレオ録音が実用化され、音場の広がりや臨場感が大きく向上し、1960〜70年代にかけてはレコード産業の最盛期を迎え、多くの名演奏・名録音が制作されることになります。
ところが1980年代に普及したコンパクトディスク(CD)は雑音の少なさや耐久性、取り扱いの容易さから瞬く間にレコードに取って代わる存在になります。さらに1990年代に入るとCDの音声データをコンピュータ上でリッピングする技術的基盤が確立し、2000年代以降はインターネット回線の高速化に伴う音楽データのダウンロード販売やストリーミング配信が普及し、この変化は音楽の制作、流通、消費の各段階において従来の業界構造を大きく変容させることになります。
もっともその一方で近年においてレコードはアナログ特有の音質、ジャケットを含む物質的価値、再生行為そのものがもたらす能動的な鑑賞体験といったものが再評価され、単純な利便性を競う媒体としてではなく、音楽鑑賞の質や経験の深さを重視する文化的価値を持つ媒体として位置づけ直されています。
では、果たしてレコードの持つ真の魅力とはいかなるものなのでしょうか。ここでは現代日本を代表する不世出の作家、村上春樹氏が数百枚に及ぶクラシック・レコードの魅了を語り倒す本書『古くて素敵なクラシックレコードたち』を取り上げてみたいと思います。
* レコード蒐集家、村上春樹
周知のように村上氏は小説家としての顔のほかに、翻訳家やエッセイストやラジオDJやマラソンランナーなどといった様々な顔を持っていますが、こうした様々な顔のうちの一つに「レコード蒐集家」としての顔があります。小説家デビュー前はジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していた氏の音楽に対する造形は極めて深く、音楽をテーマとした著作として音楽評論集『意味がなければスイングはない』(2005)や対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(2011)があります。
氏はレコードをかれこれ60年近く(2021年当時)集めて続けており、これは趣味というよりもう「宿痾」に近いかもしれないといいます(そして小説家なのに本にはなぜかそれほどの執着はないらしいです)。氏によればこれまで集めてきたのは主にジャズ・レコードですが、クラシック音楽も昔から好きでジャズほどではないにせよそこそこの数のレコードを蒐集しており、中古レコード店に行くとまずジャズのコーナーをめぐり、そこに目ぼしいものがなかったときはクラシックのコーナーに移り(手ぶらで帰るのも寂しいので)何か面白そうなものがあれば買い込んで帰るそうで、いま自宅にあるLPレコード・コレクションのおおよその内訳はジャズが7割、クラシックが2割、ロック・ポピュラーが1割というところだそうです。
この点、氏はジャズレコードに関しては「いちおうコレクターの端くれとして、それがオリジナル盤(初回プレス盤)かどうかとか、ジャケットの痛み具体はどうかとか、盤質がどうかとか、そういう細部にある程度こだわる」そうですが、クラシックに関しては特にそういうコレクター的なこだわりはないようで「稀少盤を集めるよりは、バーゲン箱をせっせと漁っている方がずっと楽しい」といいます。
こうしたことから氏がどのようなクラシック・レコードを買うのかという基準とは、演奏家や作曲者といった内容的な要素の他に「ジャケットが素敵なのでつい買ってしまうこともあるし、ただ『安いから』という理由で買ってしまうこともある」ということで、この演奏家はコンプリートしようという系統的な目論みはなく、また世間的な「名盤」のようなものにも興味はなく、ダメ元で面白そうなものを適当な価格(できるだけ安い価格)で行き当たりばったりのように買い込むケースが多く、所有しているクラシックレコードには統一的な傾向はなく、かなりバラバラだそうです。
* まるでひなびた温泉のお湯のように
本書は主にそういう「結果的に集まってしまった」レコードたちを中心に紹介する本ということになります。つまりこれは「あくまで個人的な趣味・嗜好に偏した本」であって、そこには系統的・実用的な目的はなく「これがこの曲のベスト盤だ!」みたいなガイドブック的意図も皆無で「私はこんな珍しいレコードを所有しています」とひけらかすことが目的でもなく、ただ単に「たまたま買い込んだレコードの中で、個人的になかなか気に入っているものを棚から引っ張り出してきて、『ほら、こんなものもありますよ』」とお見せするだけのもの」と氏は述べます。
では、そんな本が何の役に立つかというと氏は「『いや、あまり役に立たないかもしれません』と正直に答えるしかない」と述べつつも「でも、クラシック音楽を愛好する方なら、ページを繰って、ジャケット写真を目にしているだけで、ある程度親密な気持ちになっていただけるのではないかと推測する(希望する)」といいます。
氏はときどき1時間くらいぼんやり床に座って気に入ったレコード・ジャケットを次から次へと手に取って眺めたり、時々匂いを嗅いでみたりすることもあるそうで「それだけでけっこう安らかな気持ちになれる」といいます。古いレコードにはLPレコードにしかないオーラのようなものがこもっており、そのオーラが「まるでひなびた温泉のお湯のように僕の心を芯からじんわりと癒してくれる」と氏はいいます。
この点、LPレコードの美点として氏は「レコード盤の手入れをしてあげればそのぶん音が良くなる(これを氏は『レコードの恩返し』と呼びます)」「オーディオ周りを整備すれば、音質が向上するというメリットがある」という点に加えて「ジャケットのサイズがCDよりずっと大きいということ」をあげており、次のように述べています。
気に入ったレコードのジャケットを眺めているだけで、そこにある音楽の世界に、ひとつ違う入り口から入っていくことができる。あるいは僕はものの形にこだわりすぎているのかもしれない。でもそうなっちゃったんだから仕方ないじゃないか、とある程度開き直っている。だって人生なんて結局のところ、ほとんど意味を持たない偏りの集積にすぎないのだから。(『古くて素敵なクラシックレコードたち』より)
* 小説家のあり方と牡蠣フライ理論
村上氏はかつて「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」(『雑文集』(2011)収録)において「小説家とは何か」と質問されたとき、だいたいいつも「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と答えていると述べています。
なぜ多くを観察をしなくてはならないかというと、多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はあり得ないからであり、なぜわずかしか判断を下さないのかというと、最終的な判断を下すのは読者であって作者ではないからです。「小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅力的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある」と氏は述べます。
また、氏は良き物語を作るために小説家がなすべきこととして「結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」といいます。すなわち、氏のいう「判断」とはその仮説の集積の「個人的な並べ替え作業」であり、換言すれば「精神の組成パターンの組み替えのサンプル」であり「そのサンプリング作業を通じて、読者は生きるという行為に含まれる動性=ダイナミズムを、我がことのようにリアルに『体験』することになる」ということです。
そして「自分とは何か?」という問いとは(氏の定義する)小説家にとっては「あまりにも自明な問いかけ」であるといいます。小説家とはその「自分とは何か?」という問いを「別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている」からです。
ここで氏は「就職試験で『原稿用紙4枚以内で自分自身について説明せよ』という問題が出たとしてどうすればよいか」という読者からの質問に答えるかたちで、原稿用紙4枚以内で自分自身について書くのは不可能でも、例えば「牡蠣フライ(のような特定の対象)」について書くことによって、書き手と牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が自動的に表現され、突き詰めればそれは自分自身について書くことになるのではないかという「牡蠣フライ理論」を提案します。
「小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書き続ける人間のことである」と氏はいいます(そして実際に「牡蠣フライの話」という例文も載せています)。こうした意味で本書は氏のいう「牡蠣フライ理論」でクラシック・レコードを語る本であるといえるのではないでしょうか。
* 享楽的こだわりとしてのレコード
本書は氏のいうところの「結果的に集まってしまった」レコードたちを中心に紹介する「あくまで個人的な趣味・嗜好に偏した本」です。しかしそれだけに本書では氏の小説に登場する楽曲のレコードもいくつか紹介されており、いわば「クラシック・レコード」という切り口から村上作品の世界観に迫ることのできる本となっており、さらにはクラシック・レコードを対象として「牡蠣フライ理論」で書かれた「村上春樹という作家」について語った本であるともいえるでしょう。
この点、千葉雅也氏は『勉強の哲学』(2017)においてアイロニーからユーモアへ折り返した上でこのユーモアの過剰を非意味的な「享楽的こだわり」で切断し、そこにさらにアイロニーをかけていくという自己精神分析的な「深い勉強」を提示していますが、こうした観点からいえば本書が語る「結果的に集まってしまった」レコードたちはまさに村上春樹という作家の基底部をなす「意味を持たない偏りの集積」としての「享楽的こだわり」を示しているといえるでしょう。
実際のところ本書においては楽曲や作曲家やアーティストの解説的な要素はかなり抑え目で、そのレコードがいかに素晴らしいか(あるいはそうでないか)という村上氏の「享楽的こだわり」に満ちた語り口が全面に出ています。あたかも氏が自宅でレコードをかけながら親しい来客にその魅了を率直に(かつハイテンションで)語っているかのような臨場感を持つ本書はクラシック音楽の愛好家にとっては極めて贅沢な一冊となるでしょう。
またその一方でクラシック音楽に興味はあるけれどもまだそこまで知識がないという場合は、とりあえず同じ楽曲をCDやサブスクリプションなどで探してきて、インターネットで楽曲や作曲家やアーティストといった固有名詞を検索つつ本書を読むとよいかもしれません。こうした読み方をするのであればおそらく本書は村上春樹による(極めて偏った、しかし豊穣な語り口による)またとないクラシック入門書になるのではないでしょうか。

