かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

これから國分功一郎に入門するためのおすすめ5冊

* 暇と退屈の倫理学(2011年)

⑴ 消費から浪費へ
 
現代日本を代表する哲学者の1人である國分功一郎氏が2011年に公刊した『暇と退屈の倫理学』は第2回紀伊國屋じんぶん大賞を受賞するなどその当初から人文書としては異例の話題を呼び、公刊から10年以上経つ現在でも幅広い層に読まれ続けるロングセラーとなり、2022年に公刊された文庫版の発行部数は累計40万部を突破したといわれています。
 
本書はまず序章において「暇と退屈」をめぐる問いを次のように構成します。人類の歴史とは大きくいえば「豊かさ」を目指して努力してきた歴史であるといえます。しかし人類が目指してきたはずの「豊かさ」が達成されてしまうと人は幸福になるどころか逆に不幸になってしまうという逆説があります。
 
例えばイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『幸福論』(1930)の中で現代(20世紀初頭)のヨーロッパ諸国の若者は自分の才能を発揮する機会がないため不幸に陥りがちだけれども、ロシアや東洋諸国はこれから創造するべき「新世界」があることから世界中のどこよりも幸福であるという趣旨のことを述べています。
 
もしも仮にラッセルのいうことが正しいのであれば「豊かさ」が実現された社会において人々は不幸になることになります。そうであればむしろ「豊かさ」など初めから追求しない方がいいということになります。しかしこれは何かがおかしくはないでしょうか。人類は「豊かさ」を目指してきたのになぜその「豊かさ」を素直に喜べないのでしょうか。
 
そもそも「豊かさ」とは何なのでしょうか。国や社会が豊かになればそこには二つの余裕が生まれます。金銭的な余裕と時間的な余裕です。ではこのような「豊かさ」を手にした人たちはその余裕を何に使うのでしょうか。「自分の好きなことをする」という答えが返ってきそうです。けれども、その「好きなこと」とは本当にやりたかった「好きなこと」なのでしょうか。ただ「暇」を潰し「退屈」を紛らわすため、それが「好きなこと」だと見做しているだけなのではないでしょうか。そもそも、なぜ人は「暇」のなかで「退屈」してしまうのでしょうか。こうして「暇」のなかでいかに生き「退屈」とどう向き合うべきかという問いが現れることになります。
 
こうした消費社会における「暇」と「退屈」を様々な観点から考察する同書は「暇と退屈」を生み出すとされる社会の「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「浪費」と「消費」の区別から問い直します。
 
ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。そして物の受け取りは物理的な限界があるため「浪費」はどこかでその享受者に「満足」をもたらします。これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。それゆえに消費に物理的な限界はなく、その享受者にいつまでも「満足」をもたらしません。
 
つまり消費社会とは人々がむしろ「浪費」による「贅沢」することを妨げる社会であるといえます。ここから本書はマルティン・ハイデガーの退屈論とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を参照し「消費」とは一線を画する「浪費=贅沢」を取り戻すことを現代における〈暇と退屈の倫理学〉として提示しました。
 
⑵ ハイデガーの退屈論
 
ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』においてまず「退屈」を二つに分けて考えることを提案します。すなわち、まず「何かによって退屈させられている」という退屈の第一形式、次に「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式です。
 
まず退屈の第一形式の例としてハイデガーは片田舎の駅で長時間列車を待ちながら周囲をウロウロしたり地面に絵を描いたりといった気晴らしをしている場面をあげています。次に退屈の第二形式の例としてハイデガーはパーティーで食事や会話や音楽を楽しんで帰宅した後、このパーティーで自分はで本当は退屈していたと気づく場面をあげています。
 
このように退屈の第一形式とは我々の外側から訪れる退屈であり、退屈の第二形式とは我々の内側から立ち昇ってくる退屈であるといえます。その意味で第一形式より第二形式の方が深い退屈であるともいえますが、退屈の第二形式もまだ気晴らしが可能な退屈です。
 
ところがハイデガーはここからさらに、もはや気晴らしすら不可能な最高度に深い退屈について考えようとします。それが「何となく退屈だ」という退屈の第三形式です。何となく退屈だ。なぜこれが最高度に深い退屈なのでしょうか。
 
この点、ハイデガーによれば先の二つの退屈は何らかの具体的な状況と関連していました。これに対してこの最高度に深い退屈は具体的な状況にかかわらず「何となく退屈だ」という声として突発的に現れ、さらにこの退屈においては気晴らしはもはや許されず、我々は退屈の声に耳を傾けることを強制されているといいます。
 
しかしこのような「何となく退屈だ」という最高度に深い退屈こそが人間におけるある可能性の表れであるとハイデガーは考えました。そしてその可能性とは「自由」のことに他なりません。人間は退屈できるがゆえに自由であるということです。そしてこの自由を最大限に発揮すべくハイデガーは「決断」せよと主張しました。
 
⑶ ユクスキュルの環世界論と〈動物になること〉
 
このようにハイデガーは退屈の第三形式における「決断」の重要性を強調します。しかし本書はハイデガーには「決断」を行った人間が「その後どうなるか」という視点がないことを指摘します。
 
例えばある何かしらの「決断」をした人間がいるとします。いったん「決断」を下した以上、彼はその内容に何としても従わなくてはなりません。ここで彼は「決断」の奴隷となります。そして、その決断を実行する過程でやがて彼にはまた再び第一形式の退屈が訪れてくることになります。つまり第三形式と第一形式は一つの同じ運動の一部であると捉えることができるということです。
 
ここで第二形式の特殊性が際立ってきます。気晴らしと退屈が独特な仕方で絡みあった退屈の第二形式こそは退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものです。よくよく考えれば人間は普段この第二形式を生きているといえます。
 
ハイデガーはこうした人間の姿を否定的に描きます。けれどもこれは不当な評価ではないでしょうか。なぜなら退屈の第二形式において描かれた気晴らしとはむしろ、人間が人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵であるからです。
 
そして、その一方で人間に残された可能性はそれだけではありません。それは辛い人間的生から外れてしまう可能性です。この点、ユクスキュルは、ある生物が一個の主体として経験している具体的な世界像を「環世界」と呼び、全ての生物はそれぞれが異なる「環世界」を生きていると主張しました。人間もまた例外ではありません。
 
もちろん人間も動物も同じく「環世界」を生きる存在であるとしても、人間と動物はどこかやはり異なる存在であるといえるでしょう。この点、本書は人間はその他の動物に比べて極めて高い「環世界移動能力」を持っているといいます。そしてその高い環世界移動能力のゆえに退屈し、ハイデガーのいう第二形式のような気晴らしと退屈の絡みあった日常を生きることになります。しかしこの人間らしい生が崩れることがあります。それは何らかの衝撃によって己の環世界を破壊された人間が、そこから思考し始める時です。
 
この点、フランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する哲学者であるジル・ドゥルーズは思考を引き起こす契機として何かにショックを受ける「不法侵入」を挙げています。すなわち、ある人の生きる環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象がその人を掴み離ない時、人はその対象によって〈とりさらわれ〉てしまい、その対象について思考することしかできなくなります。つまりこうした意味で人間は〈動物になること〉があるということです。 
 
こうして本書は三つの結論に至ります。その一つ目は本書を通読することで涵養された知見を用いて自分自身の〈暇と退屈の倫理学〉を開いていくことです。その二つ目は「消費」の外部としての「贅沢=浪費」を取り戻すことであり、そのためにはハイデガーのいう退屈の第二形式の中で「楽しむための訓練」を行うということです。その三つ目は〈動物になること〉を待ち構えることです。
 
このような本書の議論は近代社会におけるいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜した後の「終わりなき日常(宮台真司)」や「動物の時代(東浩紀)」として名指されるポストモダン状況に対する優れた処方箋としても読まれました。そして本書が展開した「暇」と「退屈」をめぐる問いは國分氏の近著『目的への抵抗』『手段からの解放』において、さらに深く問い直されることになります。
 

* 目的への抵抗(2023年)

⑴ コロナ禍と「例外状態」
 
本書『目的への抵抗』は2020年10月に東京大学教養学部主催「東大TV--高校生と大学生のための金曜特別講座」における講義(「新型コロナウィルス感染症対策から考える行政権力の問題」)と2022年8月に行われた「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」)を、それぞれ「第一部 哲学の役割--コロナ危機と民主主義」と「第二部 不要不急と民主主義--目的、手段、遊び」として収録しています。
 
どちらの講義(講話)もコロナ危機を主題としています。両者を隔てる2年間はちょうどコロナ危機が最も強く社会を揺さぶった時期に当たります。國分氏はこれら二つの講義(講話)を収めた本書はコロナの訪れとともに考え始めたこと、そしてそれを突き詰めていった挙句に考え至ったことの記録になっていると述べています。
 
まず第一部ではイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが取り上げられます。世界的な哲学者として知られているアガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
 
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
 
⑵ アガンベンの主張における三つの論点
 
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」題された二つ目の論考を発表しています。國分氏はアガンベンのこの二つ目の論考から三つの論点を取り出しています。
 
第一の論点は「生存のみに価値を置く社会」とはいったい何なのかという点です。この問題をアガンベンは「剥き出しの生 nuda vita」という概念から説明します。ここでアガンベンは人間が「生きる」ということと、ただ「生存している」ということを区別していると本書はいいます。
 
第二の論点は「死者の権利」を蔑ろにしていいのかという点です。死んだ人間に然るべき敬意を払わない社会においては生きている人間たちの関係もだんだんおかしくなっていくのではないかということです。
 
第三の論点は「移動の自由」をどう考えるのかという点です。移動の自由とは数ある自由のなかの一つではなく、人間が不当な支配から逃れるための根本条件であるということです。
 
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。それゆえに本書はアガンベンの一連の主張を社会における哲学者の役割を果たしたものであると評価します。そしてこうした「例外状態」をめぐる問題意識は第二部において「目的と自由」の関係として問い直されることになります。
 
⑶ 目的からの逸脱としての「浪費=贅沢」
 
第二部ではコロナ危機の当時よく耳にした「不要不急」という言葉を出発点として「目的と自由」の関係が論じられます。「不要不急」とは辞書的には「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」という意味です。つまり不要不急とは「必要」に関わっています。そして「必要」と呼ばれるものは何かの「ため」になされるものであり、そこには常に何かしらの「目的」が想定されています。
 
これに対してかつて『暇と退屈の倫理学』において論じられた「浪費=贅沢」の本質とは物そのものを楽しむことであり、ここには「目的」なるものからの逸脱があります。「目的」から「はみ出た部分」にこそ人は豊かさや充実感を感じます。ところが現代社会はあらゆるものを「目的」に還元し「目的」からはみ出るものを認めない社会になりつつあるのではないかと本書はいいます。
 
すなわち、ボードリヤールのいう消費社会の論理は現代社会においてはすべてを「目的」に還元する論理と共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないかということです。つまり「不要不急」と呼ばれるものを排除する社会の傾向はコロナ以前から少しずつ進行していたのではないかということです。
 
ではそもそも「目的」とは何なのでしょうか。ここから本書はハンナ・アーレントによる「目的」の概念を参照します。彼女は『人間の条件』(1958)において「目的とはまさに手段を正当化するもの」であると定義しています。その一方でアーレントは『全体主義の起源』(1951)において全体主義が求める人間とは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるといいます。
 
つまり全体主義における模範的な人間とは常に「目的」を意識して行動する人間であるということです。しかしこれは現代でいうところのいわゆる「意識の高い」人間像そのものではないでしょうか。つまりすべてを「目的」と「手段」の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底した時、その先に現れるものとは全体主義が求める「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」であるということです。
 
そしてアーレントは「自由」の概念について「行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない」と述べています。つまり、行為にとって「目的」が重要な要因であることは間違いありませんが、行為は「目的」を超越する限りで「自由」であるということです。その意味で人間の「自由」とは広い意味での「贅沢」と不可分だと言ってよいと本書はいいます。こうしたことから本書は「目的への抵抗」を言祝ぎます。
 

* 手段からの解放(2025年)

⑴ 嗜好品とカント哲学
 
本書『手段からの解放』は次の二つのパートから成り立っています。「第一章 享受の快--カント、嗜好品、依存症」は雑誌「新潮」2023年7月号に掲載された「享受の快--嗜好品、目的、依存症」という論文がもとになっており「第二章 手段化する現代社会」は2023年8月に東京大学駒場キャンパスで行われた講話の記録がもとになっています。第一章の論文を解説したものが第二章の講話であり、従って両者は基本的に同じ話をしています。本書がこのように構成されているのは、そこに記された考えがどのようにできあがってきたのかという過程を記録する企図からです。
 
そして、ここでは『暇と退屈の倫理学』で提示された「浪費=贅沢」の概念が一段と深化を遂げています。先述のように「浪費=贅沢」とは物そのものを楽しむことです。しかし、そもそも「楽しむ」とは果たして一体何なのでしょうか。本書はこの「楽しむ」という営みを「享受」という言葉で考えていきます。ここで本書が注目するものが「嗜好品」と呼ばれるものです。
 
「嗜好品」とは辞書的には「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」を指しています。例えばお茶やコーヒー、お酒、タバコなどです。興味深いことに「嗜好品」に相当する言葉は英語とフランス語には存在しないそうです。その一方で「嗜好品」という日本語はGenußmittelというドイツ語の翻訳語だそうです。ここでいうGenußは「享受」とも訳されます。ここから本書は18世紀ドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントの批判哲学を「享受 Genuß」を軸に読み解いていきます。
 
まず本書はカント哲学の全体像をフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによる整理を通じて概観します。周知の通りカントの主著は『純粋理性批判』(1781)『実践理性批判』(1788)『判断力批判』(1790)といういわゆる「三批判書」と呼ばれるものですが、これらは人間の持つ三つの能力について論じたものです。そしてドゥルーズはこれら三つの著作の関係を「表象」「主体」「客体」からなる三つの関係によって以下のように整理しています。
 
純粋理性批判』は人の「認識能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「一致」が問題となります。『実践理性批判』は人の「欲求能力」を論じたものであり、ここでは「表象」と「客体」の「因果関係」が問題となります。『判断力批判』は人の「感情能力」を論じたものであり、ここでは「表象」が「主体」に及ぼす「効果」が問題となります。そして「嗜好=享受」はこの「感情能力」に関わっています。
 
⑵ カントにおける4つの快
 
カントによれば人間における「快」とは4種類しかないとされます。すなわち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」です。これらのうち「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」は高次の快とされ「快適なもの」は低次の快とされます。そして「享受」の快はこの「快適なもの」に属しています。
 
ところで「善いもの」はもとより「こうあるべき」という「目的」そのものです。また「美しいもの」「崇高なもの」もやはり最終的には「こうあるべき」に達する「合目的性」の経験です。これに対して「快適なもの」にはこうした「目的」や「合目的性」が欠けています。そこには全く「べき」は見いだせないということです。つまり高次の快と低次の快は「目的」ないし「合目的性」の有無で区別されることになります。
 
ところがこの「快適なもの」が何かしらの「目的」のための「手段」と化した場合、これは「善いもの」から区別される「間接的に善いもの(有用善)」へと転化します。この「間接的に善いもの」は人に何かしらの「満足」をもたらしますが、カントのいうところの「快」からは除外されています。こうして「善いもの」「美しいもの」「崇高なもの」「快適なもの」「間接的に善いもの」は次のような四象限へ整理されます。
 

(『手段からの解放』から引用)
 
⑶ 消費社会の論理と全体主義の論理
 
このような四象限のうち第三象限の「間接的に善いもの」だけが「手段」の概念を持っています。この「手段」の概念こそがカントのいう「快」が第三象限には適用されない理由を示しています。「間接的に善いもの」とは「これはあの目的を達成するための手段として有用である」という仕方のみで人に「満足」をもたらしています。
 
この点、本書は「目的」からも「手段」からも自由なはずの第四象限は「目的」と「手段」の連関に閉じられる第三象限に容易に転化するといい、こうした転化は危険な問題を孕んでいるといいます。例えばアルコールを酩酊状態それ自体を「享受」するのではなく、日々の辛さから一時的にでも逃れる「目的」のための「手段」として常用するのであれば、それは依存症のリスクと隣り合わせです。
 
またアーレントが『全体主義の起源』においていかなる「手段」をも正当化するものとして「目的」の概念を批判していたのも、結局のところは「最悪の手段」が「目的」によって正当化される危険性に他なりません。それゆえに本書は「手段からの解放」を訴えます。
 
『暇と退屈の倫理学』という本はもしかして、消費社会における「浪費=贅沢」を説く一見すると「優雅な」生き方を称揚する本としても読めてしまうかもしれません。けれども消費社会の論理とは依存症の論理と表裏の関係にあり、そしてそれは「いかなる場合でも『それ自体のためにある事柄を行う』ことの絶対にない人間」を求める全体主義の論理とまっすぐにつながっているといえます。こうした意味で同書が提示する「浪費=贅沢」という倫理とは消費社会=全体主義の論理に対して「目的への抵抗」と「手段からの解放」を志向するものであったといえるでしょう。
 

* はじめてのスピノザ(2020年)

⑴ スピノザ哲学の真髄を掴む
 
國分氏は現代思想シーンを代表する論客の1人であると同時に日本有数のスピノザ哲学の研究者としても知られています。本書『はじめてのスピノザ』は17世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザが展開した哲学の真髄を平明に論じる一冊です。スピノザ哲学は一般的に「汎神論」と言われています。「汎神論」とは森羅万象あらゆるものが「神」であるという考え方です。日本では「八百万の神々」のような多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いですが、スピノザにおける「神」とはただ一つの「神」です。
 
ここで「神」とかいうワードが出てきた時点でもう何か胡散臭く感じるかもしれませんが、スピノザのいう「神」は一神教的な意味での神とはまったく異なります。スピノザ哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。言い換えれば「神に外部はない」ということです。スピノザのいう「神」とはこの宇宙を含めた「自然」そのものであり、我々を含めた万物はこの「神」の中にいます。これを「神即自然」といいます。これがスピノザ哲学の枢要部にある世界観です。
 
すなわち、スピノザのいう「神」とは人格を持った神ではなく、我々の生きるこの世界の「自然の法則」そのものです。こうした意味でスピノザは今日の自然科学的な発想から「神」を捉えているといえるでしょう。当時、スピノザキリスト教神学者から異端思想者として危険視されていましたが、もし神を絶対至高な存在者として捉えるのであれば、むしろスピノザがいうような「神」が現れ出ることになるはずです。
 
そしてスピノザは神を「自然」であるだけではなく「実体」であると定義しました。「実体」とは言葉の通り、実際に存在しているものです。すなわち、神こそがこの世界における唯一の「実体」であり、神だけが実際に存在しているということです。
 
そしてその神の「変状」が我々人間を含めた万物であるということです。ここでいう「変状」とは、あるものが一定の形態や性質を帯びる事をいいます。つまり神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生したものがこの世界を構成する個物であるということです。要するに、我々は「神の一部」ということになります。
 
そしてこのような個物は「様態」と呼ばれます。ここでいう「様態」とは、特定の「モード(様式)」を意味します。つまりこの世界を構成する個物はそれぞれが神が存在したり作用したりする「モード(様式)」であるということです。すなわち、それぞれの個物は神が存在したり作用したりする「力」を「表現」しているということです。
 
このようにスピノザは物の本質を「力」として把握しています。このような「力」をスピノザは「コナトゥス conatus」と呼びます。コナトゥスとは「自分の存在を維持しようとして働く力」を指すラテン語です。これは医学や生理学でいう恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いものです。
 
さらにスピノザは独特な仕方で「善」と「悪」を定義します。スピノザによれば「完全/不完全」という区別は人間が勝手に決めたものであり、自然界には「完全/不完全」の区別はなく、それ自体で「善」とされる存在も、それ自体で「悪」とされる存在もなく、「善」と「悪」は「組み合わせ」によって生じるものに過ぎないと考えました。
 
例えば毒性があることで知られるトリカブトという植物はそれ自体は別に「悪」ではなく、あくまで人間との「組み合わせ」によって「悪」になるということです。こうしたことから人間にとっての「善」とは、その人にとっての活動能力を増大させる「組み合わせ」であり「悪」とはその人にとって活動能力を低下させる「組み合わせ」なのであるとスピノザは考えました。
 
⑵ スピノザが考える「自由」
 
スピノザの主著『エチカ』(1677)では第一部で「神」が定義された後、第二部では人間の「精神」が論じられます。続く第三部では「感情」の起源が論じられ、第四部では「感情」の力が論じられます。そしてこの本が目指す最終目標は「自由」の究明に他なりません。最終部である第五部は「知性の能力あるいは人間の自由について」と題されています。果たしてスピノザの目指した「自由」とはいかなるものなのでしょうか。
 
「自由」というと普通「外部からの制約がない状態」を想起します。けれども、そもそも外部からの制約がまったくない状態などあり得ないでしょう。いま見たようにスピノザにとって、個物としての人間の本質とは「力」であり、人間にとっての「善」とは「組み合わせ」により活動能力が増大することでした。けれども、活動能力が増大するといっても、人間には身体や精神といった条件や制約があります。すなわち、ここで重要なのは与えられた条件や制約に従い、自身の力をうまく発揮できることです。そして、これがまさしくスピノザの考える「自由」です。スピノザは『エチカ』の冒頭で「自由」を次のように定義します。
 
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身の身によって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる(第一部定義七)
 
(『エチカ』より)
 
 
まず前段によれば「必然性」に従うことが「自由」だということです。ここで言われる「必然性」とは先ほど述べたように、身体や精神といった条件や制約です。ゆえに人は生まれながらにして「自由」であるわけではありません。身体や精神を上手く使いこなせないからです。けれども、やがて人は試行錯誤を重ねて、身体や精神といった条件や制約を上手く生かす術を学んでいくことで、少しずつ「自由」になっていきます。
 
次に後段によれば「自由」の反対は「強制」であるということです。「強制」とは、その人に与えられた条件が無視されて外部の「原因」により何かを無理矢理押し付けられている状態をいいます。裏返せば「自由」とは自らが「原因」となることをいいます。ここでいう「原因」とは「結果」の中で自らの「力」を「表現」するものをいいます。このように自らの行為において自らの「力」を「表現」している状態をスピノザは「能動」と呼びます。これに対して、逆に自らの行為において外部の「力」をより多く「表現」している状態が「受動」です。すなわち「自由=能動」であるということです。
 
もっとも我々の行為はいつも多くの「原因」に規定されています。実際のところ、人は常に外部からの影響と刺激の中にあり、身体各器官は我々の意志とは関係なく複雑なメカニズムで自動的に動いています。つまり完全な「自由=能動」はあり得ません。もっとも完全な「自由=能動」にはなれなくとも、自らの「力」の「表現」の度合いを高めることで「受動」の部分を減らして「能動」の部分を増やすことができます。すなわち「自由=能動」の度合いを少しずつ高めていくことはできるわけです。
 
⑶ 自由意志など存在しない
 
このようにスピノザは「自由」を「あるかないか」ではなく「どのくらいあるか」という「度合い」で捉えています。要するに何が言いたいのかというと、スピノザのいう「自由」とは、いわゆる「自発性」のことではないということです。「自発性」とは外部の何者からの影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことをいいます。このような意味での「自発性」が「自由意志」と呼ばれているものです。
 
スピノザは「自由意志」を否定します。確かに人は自らの中に「意志」らしきものがある事を感じていますし、スピノザもその事実は否定しません。けれどもその「意志」だけで自らの行為を制御しているわけではありません。なぜなら、いかなる行為にも「原因」があるからです。我々の行為は我々の「意志」が一元的に決定しているわけではなく、様々な要因の絡み合いの中で中で多元的に決定されているわけです。
 
しかしながら、その一方でスピノザは「意志」の存在を「意識」することは否定しません。スピノザは「意識」を「観念の観念」と呼びます。「観念の観念」とはややこしい言い回しですが、要するに「意識=観念の観念」とは精神の中に現れる何らかの「観念」に対して、反省的作用を加えることで生じるいわば「メタレベルの観念」です。
 
先述したように我々の行為は様々な要因によって多元的に決定されるのでした。そして「意識」もまた、その要因の一つになります。人間の精神の特徴は「意識」を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的に捉えるところにあります。それゆえ「意識」は行為の多元的要因の一つとして行為に影響を与えることができます。
 
「意識」は万能ではないですが無力ではありません。スピノザのいう「力」の「表現」としての「自由=能動」の度合いとは「意識」によるコミットメントの度合いと表裏の関係にあるといえます。つまり今このときの行為一つひとつに意識を向けるということは「自由=能動」を生きるということになるのでしょう。そして、こうしたスピノザ哲学における「自由」の問題を言語史という切り口から多角的に論じた一冊が『暇と退屈の倫理学』とならぶ國分氏の代表作である『中動態の世界』です。
 

* 中動態の世界(2017年)

⑴「私が歩く」とは能動なのか受動なのか
 
我々は日々あらゆる行為を「能動(する)」と「受動(される)」に分類しています。そして外形的にはまったく同じ行為でも状況次第で例えば「仕事をする」「家事をする」「勉強をする」という「能動(する)」にもなりますし「仕事をやらされる」「家事をやらされる」「勉強をやらされる」という「受動(される)」にもなります。では、この両者はどこで区別されるのでしょうか。
 
ここで「私は歩く」という単純な動作を考えてみましょう。私は歩く。その時「私」は「歩こう」という「意志」をもって、この「歩行する」という行為を自分で遂行しているように思えます。そうであれば「私は歩く」という動作は「能動(する)」であるといえそうです。
 
しかし「歩く」という動作は人体の全身に関わっています。人体には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があります。これらがきわめて繊細な連携をとることではじめて「歩く」という動作が可能になるわけですが「私」はそうした複雑な人体の機構を自分の「意志」で動かそうと思って動かしているわけではありません。
 
このように「私」は「歩く」という単純な動作においても「私」は自分の身体をどう動かしているのかを明瞭に意識しているわけではなく、さらにはそもそも「歩こう」という「意志」が行為の最初にあるかどうかも疑わしいことになります。実際、現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるといわれています。
 
しかしその一方で「私が歩く」という動作を「受動(される)」として「私が歩かされる」と捉えることもまた無理があると言わざるを得ないでしょう。やはり「私」は「歩く」という意志(らしきもの)を持って歩いていると感じていることは確かです。こうしてみると「私が歩く」という動作を強いて記述するとすれば「私において歩行が実現されている」とでもいうべき事態です。しかし、このような事態は能動とも受動ともいえないでしょう。
 
このように現実の事態や行為は能動と受動の二分法で記述し切れるものではありません。しかしそれにもかかわらず我々はこの区別を使わざるを得ません。それはどうしてなのでしょうか。以上のような問題意識から、本書『中動態の世界』はかつて言語に存在し、いまや喪われた「中動態 middle voice」の世界に深く潜っていきます。
 
⑵ 中動態というミッシングリンク
 
我々は普通、自身の行為を能動か受動かで区別します。この区別は上記のようにかなり粗雑な区別であるにもかかわらず、この能動と受動の区別は我々の思考の中でそれがまるで必然的な区別であるかのような内的な形式として作動しており、我々は能動でも受動でもない状態をそう容易には想像できません。
 
このような我々の思考の奥深くで作動する能動と受動の区別という効果を発生させているものは果たして何でしょうか。ここで本書は「能動 active」と「受動 passive」とは動詞の「態 voice」を示す文法用語であることに注目します。我々は英文法などを通じてこうした「態」について学びます。そこで教わる「態」は「能動態」と「受動態」の2つであり、その2つでしかありません。
 
しかしフランスの言語学者エミール・バンヴェニストによれば、実は能動態と受動態という区別はいかなる言語にも普遍的なものではないとされます。それどころか、このような区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においてもこの区別は少しも本質的なものではなく、その歴史的発展においてかなり後世になって出現した新しい文法規則であることが分かっています。
 
さらにバンヴェニストによればかつては能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在しており、これが能動態と対立していたとされます。すなわち、もともと存在していたのは「能動態」と「受動態」の区別ではなく「能動態」と「中動態」の区別であったということです。
 
このような受動態でも能動態でもない「中動態」なる態が存在していたという事実からは次のような仮説を考えることができます。我々がほとんど自明のものであると思い込んでいる能動と受動の区別とは、能動態と受動態という文法上の、しかも全く普遍的ではない比較的新しく導入された区別が発生させている効果であり、能動と受動という粗雑な区別も、その導入時の矛盾の表れなのではないかということです。
 
このようにかつてのインド=ヨーロッパ語族においては能動態でも受動態でもない「中動態」という態があまねく存在していたとされます。ここでいうインド・ヨーロッパ語族とは現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことを指しています。これに属する諸言語は古代(少なくとも8000年以上前)よりインドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられていたことが分かっています。
 
これらの諸言語が持つ動詞体系には長きにわたり能動態と受動態の対立は存在せず、その代わりに存在していたのが能動態と中動態の対立でした。受動態はずいぶん後にになってから中動態の派生形として発展したことが比較言語学によってすでに明らかになっています。
 
この意味で「中動態」という名称は不正確といえます。中動態という名称は中動態が表舞台から追いやられた後の能動態と受動態の対立のもとで作られたものであり、その意味するところは能動でも受動でもない「中間的なもの」ではありません。
 
この点、本書はバンヴェニストの議論を参照し、能動態と中動態の対立とは文の主語が動詞によって示される過程の「外」にあるか「内」にあるかの区別に基づくものであるといいます。すなわち、能動態とは動詞の示す過程が主語の「外」で完遂する事態を示しており、中動態とはその過程の「内」に主語が位置付けられる事態を示しているということです。
 
⑶ 自由意志なき自由を生きる--中動態の世界としてのスピノザ哲学
 
そして、このような意味における能動態においては現在のように「意志」の観念は前景化していません。これは能動態と中動態を対立させる言語は能動態と受動態を対立させる現在の言語とは異なった思考の条件を形成していたことを示唆しています。
 
この点、哲学の世界において、意志なるものの格下げを最も強く押し進めたのは17世紀のオランダの哲学者スピノザです。スピノザは「自由な意志」という概念を退け、意志は「自由な原因」ではなく「強制された原因」であるとします。スピノザによればいかなる物事にもそれに対して作用してくる原因があることから、意志についてもそれを決定し何ごとかを志向するよう強制する原因があるとされます。にもかかわらず「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのは、我々の精神が物事の結果のみを受け取るようにできており、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまうからであるといいます。そのことを知っていたとしても、そう感じてしまうのです。
 
そしてスピノザの哲学には中動態の世界に通じる概念が明確に存在します。その概念とは「内在原因 causa immanens」と呼ばれるものです。スピノザは主著『エチカ』において神と万物の関係をこの「内在原因」によって定義します。ここでスピノザのいう「神」とはキリスト教的な人格神ではなく、むしろこの宇宙あるいは自然そのものを指しています。
 
そうした「神即自然」という唯一の実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在します。すなわち、万物とは畢竟、神の一部であり、しかもその作用はどこまでも神の内に留まっており、神の外部はいかなる意味でも存在せず、それゆえに神は万物の内在原因なのであるということです。つまりスピノザが描く世界とは世界のすべてが神即自然のなかで完結する「中動態の世界」であるといえます。
 
もちろん神即自然そのものは中動態的であっても、その「変状」としての個物同士については、作用するものと作用を受けるものという能動/受動の区別は残り続けます。しかし、全ての個物の「内在原因」は神即自然である以上、ここでいう能動/受動とはその「変状」の質として捉えられます。すなわち個物の変状がその本質を十分に表現しているとき、その個物は能動であり、逆に個物の本質が外部からの刺激によって圧倒され、そこに起こる変状が個物の本質をほとんど表現できていないとき、その個物は受動であるということです。
 
すなわち、ここでの能動/受動とは「十分」とか「ほとんど」というような「度合い」のことを指しています。そうであれば、ある個物がどれだけ能動に見えても完全な能動はありえず、またある個物がどれだけ受動に見えても完全な受動はあり得ません。そしてこうした意味での能動/受動の相違はスピノザの哲学における「自由」と「強制」の相違に他ならなりません。
 
スピノザは自由意志を否定しました。しかしそれは自由を追い求めることとまったく矛盾しません。むしろありもしない自由意志なるものへの信仰こそが、我々が自らの本質を十分に認識すること、すなわち自由になることを妨げるものであるといえます。このようにスピノザの哲学とは自由意志を否定することで自由を志向する哲学です。換言すれば中動態の世界を生きるとは自由意志なき自由を生きるということです。
 
もとより、あらゆる事態や行為を能動と受動に切り分ける思考は社会を維持するため不可欠です。しかしその一方で、こうした能動と受動の二分法とは絶対的な真実ではなく、あくまで一つの思考法に過ぎないことも確かです。
 
こうした思考法とは別のしかたで世界を捉える思考法があることを中動態の世界は教えてくれます。そして、このような複数の思考法をゆるやかに往還することで日々生起するさまざまな事象のなかに、これまで見えてこなかったものが見えてくることもあるではないでしょうか。