かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

日常系の臨界としての異性愛--微熱空間(蒼樹うめ)

* 日常系の象徴としてのひだまりスケッチ

 
「日常系」とはゼロ年代的想像力の潮流において「セカイ系」の乗り越えとして現れた想像力です。その原作は多くの場合、4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、異性愛的な要素は極めて周到に排除されているのもその特徴です。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもしました。
 
言うなれば「セカイ系」が「きみとぼく」という母子相姦的/性愛的な「セカイ」に閉じた想像力であったとすれば「日常系」は「わたしたち」という擬似家族的/友愛的な「つながり」に開かれた想像力といえます。
 
わたしとあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。異なるセカイの交歓から芽生える可能性としてのつながり。それは一見して社会共通の「大きな物語」を喪ったポストモダンが加速する現代において個々人の「小さな物語」同士の理想的な関係性にも思えました。そんなゼロ年代における「日常系」というジャンルを象徴する作品が蒼樹うめ先生の代表作「ひだまりスケッチ」でした。
 
同作の主人公、ゆのは将来の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロ、下級生の乃莉やなずなとの賑やかしい日々を過ごして行く中でゆっくりと、しかし着実に自分の在り方を見出していきます。
 
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育った故郷もバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。こうした異なる「小さな物語」を生きる者同士の交歓の中で芽生える可能性に対する信頼こそが「ひだまり」という作品の根幹を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えました。
 

*「つながり」を外に開くということ

 
このように「ひだまり」をはじめとしたゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き続けてきました。日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた点は疑いないでしょう。ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対的なものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「セカイ」が再帰することになります。もっとより直截にいえば日常系の描き出す「つながり」とは結局のところ「偽装されたセカイ」と紙一重であるということです。
 
こうしたことから2010年代を代表する日常系作品の多くでは「つながり」を内に閉じずに外に開き続けるための回路が導入されることになります。例えば「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」「おちこぼれフルーツタルト」などは「お仕事」という回路を通じて、あるいは「アニマエール!」「ゆるキャン△」「恋する小惑星」などは「アウトドア」という回路を通じて「つながり」をコミュニティ外に開き続けることにある程度成功しているといえるでしょう。
 
そして「ひだまり」においても、沙英とヒロを卒業させた後半以降、新たなひだまり荘の住人として茉理という特定のパートナーに依存しない遊撃的なキャラを投入して、ひだまり荘の「つながり」を相対化、流動化させようとする傾向が見られます。こうした「つながり」をめぐる想像力の変化の中、蒼樹先生が2016年から白泉社の「楽園」にて連載開始したまさかの王道ラブストーリー漫画が本作「微熱空間」です。
 

*「姉弟」と「異性」のあいだで揺れる物語

 
本作のあらすじはこうです。本作の主人公、中ノ瀬亜麻音は父親の再婚で「弟」ができると知り、もう一人の主人公、赤瀬川直耶も母親の再婚で「姉」ができると知り、それぞれが勝手な「小さくて可愛い弟」「大人っぽいお姉さん」を想像して期待を膨らませていた。
 
ところが実際には亜麻音と直耶は誕生がたった3日だけ違う同い年の「姉弟」だった。思い込みと現実のギャップもあり当初は何かとギクシャクしていた2人であったが、長らく片親で育ってきたという共通点もあり、一つ屋根の下で次第にその距離を縮めていき、やがてその関係性は「姉弟」と「異性」のあいだで揺れ動いていく。
 
このように本作は物語としては王道ラブストーリーですが、一方で「日常系」というジャンルの側からみると、本作はある種の批評性を持った作品としても読めます。
 

* 日常系少女としての郁乃

 
ここで注目すべきキャラが亜麻音の無二の親友を自認する九条郁乃です。もともと男嫌いの郁乃は亜麻音に同い年の「弟」が出来たことに衝撃を受け早速、中ノ瀬家に乗り込み直耶の人となりを見定めた後、帰り際に直耶の前で唐突に亜麻音にキスをして自身の優越性を確認しようとします。
 
けれどもすぐに郁乃は亜麻音へのキスは親友だから出来るのではなく、単に同性同士のお遊びの域を出ないから許されるのだと悟り愕然となるわけです。そうした動揺の中、やがて郁乃は自分が亜麻音に対して親友以上の同性愛的感情を抱いていることに気づいてしまいます。
 
ここで亜麻音をめぐる直耶と郁乃の三角関係が成立します。しかし郁乃はこの三角関係において極めて不利な立場に置かれています。
 
実のところ亜麻音と直耶は厳密にはインセストタブーの関係性にはありません。作中で郁乃自身が詳細に述べていることなのですが、民法の規定上、再婚した親の連れ子同士は普通に結婚できます。これは郁乃が少なくともインセストタブーを理由に2人の間に割って入ることは不可能であることを意味しています。
 
当初、郁乃はまさに従来の典型的な「日常系少女」の立ち位置にいました。しかし郁乃の日常系的日常は直耶という「弟=男」の出現でいままさに破滅的な危機に陥っているということです。
 

* 日常系の臨界としての異性愛

 
このように本作は「郁乃=日常系」の視点を通じて「ひだまり」を含めた従来の日常系作品が目を逸らしてきた「異性愛」を批評的に描き出しているとも言えます。すなわち、こう言ってよければ本作はある意味で蒼樹うめ先生の自己批判的な側面を持っています。そしてそこには幾重にも優しくオブラートに包んだひとつのあるメッセージを読み取る事もできるでしょう。
 
それは身も蓋もなく言ってしまえば「現実に帰れ」という事です。我々は従来の日常系作品が描き出す限定されたコミュニティ内部の「つながり」の中に時として甘やかな「セカイ」の夢を見てしまいます。けれども、ひだまり荘は永遠ではない。ゆの達もいつかは恋をする(かもしれない)。
 
それは正直あまり見たくない物語ではあります。けれども、もしも2020年代における日常系が「偽装されたセカイ」という虚構の日常に閉じるのではなく、文字通り我々の生きる現実の日常へと開かれていくのであれば、まさに「異性愛」のようなこれまでの日常系作品において排除されてきた物語を何らかの形で包摂し描き出していかなければならないという想像力の問題への対処はやはり避けて通れないでしょう。本作はこうしたいわば日常系の臨界とも呼べる領域に真摯に向き合った作品であるように思えます。