かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

魔法少女たちに花束を--魔法少女まどか☆マギカの10年

* ゼロ年代における想像力の総決算

 
人は生きていく上で「物語」を必要としてます。ここでいう「物語」とは自らの生を世界の中に基礎付けるための内的な幻想のことをいいます。こうした意味での個人の「物語」は、近代以前の社会では社会共通の物語というべき「大きな物語」によって支えられてました。
 
大きな物語」は個人の生に意味と秩序をもたらします。すなわち「大きな物語」とは「高さ(超越性)」にも「広さ(普遍性)」を保証する審級として機能するということです。
 
ところが、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年以降の日本社会では「戦後」という「大きな物語」が失墜していくポストモダン状況が加速していきました。
 
もはや「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの任意の「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかない。では「大きな物語」による「高さ」と「広さ」なき世界で、人はどこに再び「高さ」と「広さ」を見いだせばいいのでしょうか?それとも、人はもはや「高さ」や「広さ」に囚われる事なく生きていかなければならないのでしょうか?--こうした問題設定がゼロ年代以降におけるサブカルチャーの想像力を常に規定していました。
 
この点、経済成長神話の崩壊に伴う社会的自己実現への信頼低下が前景化したゼロ年代前期においては、他者性なき母性的承認を希求する「セカイ」という名の「小さな物語」へ引きこもる想像力が一世を風靡しました。
 
けれども、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。こうしてゼロ年代中期においては、「小さな物語」同士が決断主義的に正義を奪い合う「バトルロワイヤル」を生き抜く想像力が台頭します。
 
その一方、スマートフォンソーシャルメディアの登場を背景に、ゼロ年代後期においては、決断主義による不毛な簒奪ゲームを乗り越えて、自動接続される世界にむしろ徹底して内在することで「小さな物語」の間に新たな社会的紐帯としての「つながり」を見出していく想像力が前景化しました。
 
そして時に2011年、こうしたゼロ年代における想像力の運動の総決算ともいうべきひとつの作品が世に問われることになりました。
 
 

* 記憶と記録の両方に残る物語

 
魔法少女まどか☆マギカ」。同作は周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、劇団イヌカレー梶浦由記氏といった多彩な才能のコラボレーションによって生み出され、あの東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな社会的反響を呼び起こしました。
 
最終回放映後には特集記事が世に溢れかえり、同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。「まどかの物語」はまさしく記憶と記録の両方に残る物語となりました。
 
同作のあらすじはこうです。物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。
 
その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやか魔法少女巴マミに救われ、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される。
 
マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。
 
刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。
 
 

* 魔法少女観の根本的転倒

 
「まどか」という作品がまず斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあります。当初、作中において魔法少女とはキュゥべえと契約することで「ひとつの願い」を叶える代価として、呪いを生み出す魔女と戦う存在であると説明される。ここで提示されるのはいわゆる「正義の味方」としての魔法少女のイメージです。しかし物語が進むにつれて、次第に「魔法少女の真実」が明らかになっていきます。それは次のようなものです。
 
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。
 
このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。
 
このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にある。
 
つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせて「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。
 
 

* 魔法少女の抗争にみるポストモダン的構図

 
本作は基本的に異なる思想信条を持つ魔法少女同士が殺し合うバトルロワイヤル状況が展開されます。興味深いことに、その展開はまさしく「大きな物語」に規定された近代が失墜し「小さな物語」が乱立するポストモダンが加速していく構図そのものでもあります。
 
マミは「正義の味方」という魔法少女の「大きな物語」を決して疑わなかった。もっとも、その信念は結局のところ、家族の中で自分1人だけ生き残ってしまった罪責感とずっと1人で魔女と戦ってきた孤独感の補償作用に他ならない。しかし彼女はその事実を自覚する前に早々に物語から退場させられる事になる。
 
そしてマミの志を継承したさやかも「奇跡も魔法もある」という「大きな物語」を当初はイノセントに信じていた。けれども「魔法少女の真実」が徐々に明らかになっていく中で、やがて自らの信じる理想が単なる無根拠な幻想に過ぎない事に気づいてしまう。そして愛の対象を喪失し、この世界に守るべき価値を見出せなくなったさやかは希望と絶望の相転移を起こし魔女化する。
 
これに対して自身の願いで家族を破滅させた杏子は魔法少女の「大きな物語」などもはや信じておらず、この終わりなき日常を欲望の赴くままに生きていく。けれども「魔法少女の真実」に直面した杏子は、かつて自身が情景した「愛と勇気が勝つ」という「大きな物語」を(それがもはや無根拠である事を承知しつつも)仮構するしかなかった。そして一度は見限ったはずの神に縋り、最後は魔女化したさやかと差し違えることになります。
 
 

* 哀れな決断主義者としてのほむら

 
そしてほむらに至っては最初から魔法少女の「大きな物語」自体にそもそも初めから興味がない。呪われた運命からまどかを救い出すこと。この「小さな物語」こそが彼女にとっての唯一絶対の正義であり、その道を阻むものは誰であろうとすべからく悪ということになります。
 
そういった意味でほむらはまさにゼロ年代的主体を体現するセカイ系から出発した決断主義者です。けれどもやがて彼女が時間遡行を繰り返して世界をやり直せばやり直すほどに、様々な平行世界の因果が束ねられ、まどかはますます「最高の魔法少女=最悪の魔女」へ進化していく事が明らかになる。
 
まさに退くも地獄で進むも地獄のアポリアです。こうして今やほむらは「まどかを救う」というたったひとつの「最後に残った道標」に縋りつく哀れな決断主義者と成り果てて、この際限なき徒労を繰り返すしかなかった。
 
 

* 希望と正義の物語

 
こうして本作が描き出したのは魔法少女同士の終わりなきバトルロワイヤルがもたらす救いなき帰結です。そしてこの閉塞的状況に終止符を打ったのが「まどかの願い」でした。
 
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。」
 
「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。」
 
「これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!」
 
(本作最終話より)

 

 
「まどかの願い」は魔法少女が希望と絶望の相転移により魔女となる魔法少女システムのルールそのものの改変です。まどかによる改変後の世界では、魔法少女は魔女化することなく最期はソウルジェムとともに消滅し、その魂は「円環の理」と呼ばれる「概念となったまどか」により別の次元へ導かれることになります。
 
まどかが行ったのは、言うなれば「魔法少女」というシステムのルールによるシステムそれ自体の書き換えです。これをゼロ年代における想像力の文脈から言えば、まどかは魔法少女たちの「バトルロワイヤル」を乗り越える「円環の理」という「つながり」を導入したということになるでしょう。
 
ここで示されるのは、世界に徹底して内在する事で「大きな物語」とは別の理路により再び「高さ」と「広さ」を取り戻すゼロ年代における想像力の到達点です。そしてもしこの「高さ」を「希望」と呼び、その「広さ」を「正義」と呼ぶのであれば、本作における「まどかの物語」とは、まさしく現代における「希望と正義の物語」と言えるでしょう。
 
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」
 
(本作最終話より)

 

 
 

* 賛否両論となった結末--叛逆の物語

 
こうして「まどかの物語」は一見、これ以上ないハッピーエンドを迎えたように思えました。ところがこの結末に納得しない人間が一人だけいた。それは他でもない、呪われた運命からまどかを救い出すため、これまで幾多の時間のループを再現なく繰り返してきた暁美ほむらその人です。
 
ほむらはかつて交わしたまどかとの約束を果たすべく、まどかが魔法少女と関わることなく人として幸せな生を送る世界を求めて、これまで何度も世界をやり直してきた。ほむらにとっては「円環の理」などまどかの自己犠牲によって生じた悲劇の産物以外の何者でもない。ほむらの中でのまどかは全く救われてないことになります。こうしてTV版の続編となる完全新作「劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」では「円環の理」に叛逆してまどか奪還を企てる「ほむらの物語」が描き出されました。
 
公開前から大きな注目を集めていた本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破しました。映画という意味では本作は紛れもない圧倒的傑作と言うべきでしょう。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。
 
ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になります。本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られます。
 
 

* 理不尽な現実をサヴァイブしていく想像力

 
果たして、ほむらは「円環の理」から人としてのまどかを奪還し、自らはまどかへの「愛」の名の下に「円環の理」から外れた存在である「悪魔」となる。こうしたほむらの「叛逆」は他ならぬ「まどかの願い」を踏みにじる所業のようにも思えます。けれどもその一方で、ほむらの改変した新たな世界では、まどかはもちろん、さやか達も再び幸福な日常を取り戻し、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使されます。
 
これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずです。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずです。
 
しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらは、まどかと世界を狂わせた責任を引き受けて、まどかと袂を分ち、ひとり「魔なる者」として孤独に生きていきます。こうした「ほむらの物語」の中には、もはや「高さ」にも「広さ」にも頼ることなく、この理不尽な現実をサヴァイブしていく2010年代的な想像力を見ることができるのではないでしょうか。
 
 

* 希望と絶望のマネジメント--マギアレコード

 
こうして、まどか達の物語は一旦は幕を下ろしました。その後、続編の構想が幾度なく再浮上する過程で、外伝として企画されたのがスマートフォン向けRPGゲーム「マギアレコード・魔法少女まどか☆マギカ外伝」です。
 
同作は2020年に第一部「幸福の魔女編」の中盤までがアニメ化されました。同作シナリオには本家まどかのシナリオを担当した虚淵玄氏は参加していないものの「魔法少女の真実」を真正面から問い直すそのシナリオの完成度は思いの外に高く、同作は名実共に「まどか」の名を冠するに相応しい物語と言えます。
 
同作のあらすじはこうです。主人公、環いろはは消えた妹ういを探すため新興都市神浜市を訪れる。そして彼女は未知の災厄「ウワサ」との邂逅や、魔法少女結社「マギウス」との抗争を通じて「魔法少女の真実」を知ることになる。
 
この点、同作の舞台は「円環の理」が干渉できない世界です。ゆえにこの世界における魔法少女ソウルジェムを濁らせてしまうと原則として魔女化することになります。ところが、同作ではこうした魔法少女の運命に終止符を打つかの如き革命的発明が登場します。これが「マギウス」の開発した「ドッペル」です。
 
「ドッペル」とは、端的に言えば「魔女化の代替行為」です。ソウルジェムに溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく、むしろ魔女の力を自ら行使できます。
 
こうした点で同作は「叛逆」における想像力を引き継いでいます。ほむらが「愛」という名の妄執によって成し遂げた奇跡ともいえる「悪魔化」を、ドッペルは部分的ながらもシステムとして実装することに成功しました。これはいわば希望と絶望のマネジメントといえます。ドッペルはまさしく全ての魔法少女にとっての福音のようにも思えます。
 
けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮、目的に至るための手段でしかない。その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にする。こうして、いろは達はマギウスと敵対せざるを得ないわけです。
 
 

* 「動員と分断」の中で手を取り合える想像力

 
同作では魔法少女グループ同士の熾烈な抗争劇が展開されます。ここには極めて2010年代的な社会の構図が反映されています。
 
先述したように、ゼロ年代における想像力の到達点には「つながり」という想像力がありました。わたしのあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。異なる「セカイ」の交歓から芽生える可能性としての「つながり」。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えます。
 
けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びまたセカイが回帰してくるという事です。
 
こうした「つながりのセカイ化」はとりわけ東日本大震災以降、年々加速傾向にあり、そういった意味で2010年代とは様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断」の時代でもありました。要するこの10年は「つながり」の希望が次第に失望に変わっていった10年でした。
 
こうした意味において、マギウスの首領である天才魔法少女、里見灯花がアニメ最終話で行った渾身の大演説はまさしく「動員と分断」を扇動するプロパガンダのようです。けれどもそれは同時に、その言葉はグローバル化とネットワーク化が極まった世界において、人間があたかもモルモットのように飼い慣らされていく現代社会の構造に対する告発状ともいえるでしょう。
 
これに対して、いろはは異なる思想信条を持つ魔法少女同士でも「手を取り合える」ための可能性をなんとか探ろうとします。手を取り合えるということ。それは他者とのつながりを「つながり=セカイ」の物語の内に閉じることなく、つながりをつながりのままで常に外に開き続ける社会的紐帯のあり方なのでしょう。こうした「いろはの物語」の中には、やはり「高さ」にも「広さ」にも頼ることなく他者へコミットメントしていく2010年代的な想像力が宿っているように思えます。
 
 

* 再び動き始めた物語

 
大きな物語」なき世界における希望と正義の記述法を示したのがゼロ年代的想像力の到達点としての「まどかの物語」なのであれば、もはや希望にも正義に囚われる事なく、目前のさしあたりの現実をサヴァイブ/マネジメントして、他者へコミットメントする主体の在り方を示したのが2010年代的想像力としての「ほむらの物語」と「いろはの物語」だったといえます。
 
そしていま、全世界中にコロナ禍という「魔女の結界」が出現し、我々はまさしく、社会的コンセンサス(希望と正義)を見いだせないままに、日々の生活のあり方(サヴァイブ/マネジメント)や、他者との関係性(コミットメント)を際限なく試行錯誤していくための想像力を必要としています。こうしてみると、まどか達は時代が求める想像力を見事に具現化した物語をいつも紡ぎ続けてきたといえるでしょう。
 
本年4月、ついに「叛逆の物語」の正統な続編である「劇場版魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉」の公開が発表されました。ここにきて物語は再び動き始めました。新たなるまどか達の物語が、2020年代における想像力のフロンティアを切り開いてくれることを切に祈念しています。