かぐらかのん

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「外部」なき世界を生きるということ--スカイ・クロラ(押井守)

 

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

  • 発売日: 2014/08/13
  • メディア: Prime Video
 

 

*「終わりなき日常」の告発者

 
1970年代末、当時まだ大学生だった新人漫画家、高橋留美子氏が「少年サンデー」で連載を開始した「うる星やつら」は、消費化/情報化社会へ突入した当時の日本社会を象徴する作品の一つといえるでしょう。無限のループを繰り返すかのような世界で際限なきドタバタラブコメディを繰り広げる同作は、モノがあっても退屈な「終わりなき日常」を生きる当時の若年層から絶大な支持を得ることになりました。
 
ところが、こうしたうる星やつら的な「終わりなき日常」という世界観に真っ向から反旗を翻したのが同作TV版と劇場版の監督を務めた押井守氏でした。氏はその出世作となった「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー1984)」において、際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描きだし「終わりなき日常」と言う名の「虚構」が抱え込む欺瞞を告発しました。
 
 

*「虚構」の外部としての「現実」

 
以降、長らくのあいだ押井映画のダイナミズムを駆動させてきたのは「虚構」の外部としての「現実」を示すという否定神学的な倫理です。こうした「虚構と現実」をめぐる問いは「天使のたまご(1985)」「紅い眼鏡(1987)」「ケルベロス・地獄の番犬(1991)」といった前期押井作品においては「少女の夢」からの逃走として遂行されました。
 
これに対して「機動警察パトレイバー the Movie(1989)」における「虚構」の舞台は乱開発を繰り返して肥大化していく巨大都市東京であり、ここで「虚構と現実」の問いは「虚構」の「外部=現実」からの「テロリズム/ハッキング」として遂行されていきます。同作は未だインターネットが一般開放されていなかった当時において、コンピューターウィルスによる大規模テロをシュミレーションするという恐るべき先見性を持った作品です。
 
そしてこうした情報論的アプローチをさらに洗練させたのが「機動警察パトレイバー the Movie 2(1993)」です。同作において「虚構と現実」をめぐる問いは「映像体験と実体験」という媒介を経由して「平和と戦争」という問いに置き換えられ、押井作品がそれまで一貫して問うてきた「外部=現実」という倫理はある種の戦後社会論へと昇華されることになります。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては電脳化/義体化による自我の「虚構」と広大なネッワークの果てにある「外部=現実」が描き出されることになります。そして、そのラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きました。 
 
 

*「外部」なき世界を生きるということ

 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは絶対的な「外部=現実」などではなく、それは畢竟、陳腐なありきたりの日常でしかなかったというある種の諦観が描かれることになります。そして「イノセンス(2004)」で描き出されたのは、もはや「外部=現実」を目指すことなく、ネットワークの守護天使としての素子に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するバトーの姿でした。 
 
世界中がネットワークで接続された情報環境下においては「虚構と現実」は融解し、もはや「外部=現実」は存在しない。あらゆる彼岸が此岸となりあらゆる此岸が彼岸となる。そしてそれは同時に「平和と戦争」の区別の消滅であり、我々の生きるこの「終わりなき日常」とは「終わりなき戦場」の別名に過ぎない事を意味している。こうした認識論的変化は現代社会においてはまさにアクチュアルに進行しつつある事態でもあります。
 
こうして時代においては、もはや「外部=現実」を示すというかつての否定神学的倫理は作動しない。こうして「外部=現実」なきネットワーク社会における新たな倫理とは何か?という問いが立てられる事になります。こうした問いに対するひとつの答えを提示しようと試みたのが、あるいは本作であったように思えます。
 
 

* ショウとしての戦争

 
恒久平和が実現し、すべての戦争がショウとなった近未来。「キルドレ」と呼ばれる少年兵たちは、市民に平和を実感させるための「ショウとしての戦争」を演じ続けていた。人体改造実験により生み出された「キルドレ」は老いる事を知らない永遠の子供たちであり、たとえ戦闘で死亡しても記憶をリセットされた上で新しい身体を与えられ、再び戦場に駆り出されていくのであった。
 
同作の主人公であるキルドレ函南優一は、戦争請負会社ロストック社に所属する戦闘機パイロットである。前線基地ウリスに配属された優一はどういうわけかジンロウという前任者が気になってしまう。
 
一方、ウリスの女性司令官、草薙水素はかつて数々の戦闘を生き延びてきた優秀なエースパイロットであり、彼女は長きにわたり多くの仲間が死んでは生まれ変わり、また再び死んでいく様を何度も目の当たりにしてきた。そんなある日、水素は自社の保養所で優一を誘い男女の関係を持つ。果たして前任者のジンロウは水素の恋人であり、その生まれ変わりである函南に水素は特別な感情を抱いていたのだった。
 
そしてその後「ショウとしての戦争」はさらに激しい展開を要求され、大規模な攻勢作戦が企画される。ロストック社とラウテルン社の両軍が激突した空戦では多数のキルドレが戦死。幾度も無意味に繰り返される無限ループに絶望する水素は優一に自分を殺してくれと懇願する。かつて水素もキルドレの生に絶望したジンロウを彼の求めに応じて殺害していたのであった。
 
けれども優一は水素の求めに応じなかった。そして優一は「君は生きろ。何かを変えられるまで」と水素に言い残し、最強の敵「ティーチャー」へと戦いを挑むのであった。
 
 

* いつも通る道だからって景色は同じじゃない

 
キルドレ達は、まさに「外部=ここではない、どこか」を失った「終わりなき日常(戦場)」を生きる若者たちの比喩といえます。そして、本作のメッセージは終盤に登場する優一の以下の独言に集約されます。
 
「いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけではいけないのか?それだけのことだからいけないのか?」
 
このメッセージが言わんとするところは極めて明快です。「終わりなき日常(戦場)」という「内部=いま、ここ」の中で様々な差異を見出すという事。それこそが現代を生きる我々にとっての実存の在り処、すなわち「生きている手ごたえ」に他ならないということです。
 
「外部=ここではない、どこか」を喪失した現代における超越性とは、ありもしない世界の外部をただ祈る事ではなく、むしろこの世界の「内部=いま、ここ」へ潜っていく事によって獲得できる逆説があるという事です。こうした本作のメッセージはゼロ年代後半以降強調されつつあったいわゆる「日常の価値の再発見」というコンサマトリー的な成熟感とも共鳴するものがあります。
 
 

* エディプスからマゾヒズム

 
もちろんこのメッセージ自体は疑いなく正しい。では、その直後に行われるティーチャーとの対決は何を意味するのでしょうか?「絶対倒せない敵」であるティーチャーは「キルドレ」ではない「大人の男」であることが強調されており、ここには「父殺し」のイメージを容易に重ね合わせることができるでしょう。
 
けれども「父殺し」とはまさしく「ここではない、どこか」へ向かう典型的な否定神学です。そうであれば、この敗北を約束された対決が果たして本作の示すメッセージの具現化として相応しいものかは疑問符がつくわけです。
 
もっとも別の見方をすれば、この「対決」の中にあるのは「父殺し」へ向かうエディプス的欲望というよりも、むしろ敗北を義務付けられながらも自己破壊の饗宴を演じるマゾヒズム的享楽のようにも思えます。そうであれば優一はティーチャーとの対決の中に、確かな「いま、ここ」にある「生きている手ごたえ」を見出していたのかもしれません。