* 法原理を根本から問い直す
世界的な哲学者として知られるジョルジョ・アガンベンは2020年2月26日のイタリアの新聞「イル・マニフェスト」紙に「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態 Lo stato d'eccezione provocato da un'emergenzaimmotivata」という論考を発表して物議を醸し出しました。この論考でアガンベンはコロナウィルスの拡大を防ぐという理由で実施されている緊急措置は「平常心を失った、非合理的で、まったく根拠のないものである」と指摘し「激しい移動制限」が行われ「正真正銘の例外状態」が引き起こされていると批判しました。
このようなアガンベンの批判の背景にあるのが同論考のタイトルにもある「例外状態 lo stato d'eccezione」という概念です。これは行政権が立法権を凌駕してしまう事態を指しています。つまり権力(行政権)は「例外状態」を巧妙に利用して民主主義を蔑ろにしたり人々の権利を侵害していくことがあることから、アガンベンはコロナ危機によって人々が「例外状態」を受け入れつつあることに危機を抱いたということです。
ところが--当時の状況を考えればやむを得ない部分もあるとは思いますが--このようなアガンベンの主張は端的にいえば「炎上」してしまいます。けれどもアガンベンは自身の主張を揺るがすことなく、翌月には「補足説明 chiarimenti」と題された二つ目の論考を発表して自身の主張の論点を明確にしています。
アガンベンのいう「例外状態」の究極形態とは言うまでもなくナチス・ドイツの「全権委任法」に他なりません。いま冷静に考えればアガンベンの主張はパンデミックで混乱に陥った社会に警鐘を鳴らす哲学者の役割を果たしたものであると理解できるでしょう。
ここでアガンベンが問題としているのは「三権分立」という法原理です。こうした法原理を根本から問い直し、そこから既存の法体系や具体的な法現象に考察を加える哲学分野を「法哲学」といいます。このような法哲学への平明な入門書であると同時に世間一般的に「ただしい」とされる常識を揺るがす「あぶない」思考へと誘う一冊が本書『あぶない法哲学』です。
* 法哲学の天使の顔と悪魔の顔
そもそも哲学とは既成の知を徹底的に疑い〈存在すること〉の根拠はなんであるかを探求し続ける思考です。我々が自明としている常識を問い直し、思い込みを問い質し、そして真理の探求へと向かいます。
法哲学は、法律に対してその思考を向けます。つまり人間社会のさまざまなルールの中で、なぜ法律だけが国家権力による強制力を持つことができるのか、そのような法律を成立させ存在させるものは何かを問います。
また、果たして議会で制定される法律だけが法なのか、制定法を凌ぐより高次の法があるのではないか、あるいは制定法よりも人間社会の多様な営みの中で自生する法こそが重要なのではないか、などと考えたりもします。
本書は法哲学には二つの顔、つまり「天使の顔」と「悪魔の顔」があると思うと述べています。ここでいう「天使の顔」とは民法とか刑法といった実定法学に協力し、それがより良く正義を実現できるよう改革するための指針を示すことです。一方で「悪魔の顔」とは現行法体系の基礎原理やそれを支える人間社会の習俗とか常識それ自体を徹底的に疑い、容赦なく批判していくことです。
本書は「常識に楯突く思考のレッスン」という副題が示すとおり、どちらかといえば「悪魔の顔」としての法哲学の入門書になります。本書は社会問題の解決手段として法律を万能視する立場には与せず、法律は所詮世界を回す諸システムの中の一つでしかないという立場から、法律を相対化して自分の頭で自由に考える力を鍛錬するための学問として法哲学を位置付けています。
* 正義の在り処を問い直す--現代正義論
ところでいま「正義」という言葉を何の説明もなく使いましたが、法哲学的にはこの「正義」なる概念ももちろん自明のものではなく「そもそも正義とは何か」という議論があります。ここではこの「正義」をめぐる議論を本書を参考にしつつみていきましょう。
まず「正義」という言葉の英語であるjusticeには「裁判」という意味もあります。実際に日本の最高裁判所のほか世界の多くの裁判所には「正義の女神像」が置かれています。この像は右手に剣を、左手に秤を持ち、目は閉じているか目隠しをしています。剣は正義の行使を表しており、秤は原告と被告で対立する主張を公平に扱うことを表しています。
この「正義の女神像」が意味しているのは正義の行使とはいずれも自分の言い分が正しいと信じて疑わない対立する両当事者を秤以外の基準によって判断を左右されることなく、公平に扱う営みだということです。目隠しの意味は(諸説あるようですが)女神が両当事者についての予断や先入観、偏見を持たないようにすることだと解されています。両者の主張とは無関係な情報(例えば両者の容姿など)が入ったらその判断が歪められてしまうからです。
そしてこのような裁判即ち正義は何か不正が生じた時に発動されます。法と裁判はその不正によって生じた不平等(損害)を是正(原状回復)するという形で実現されます。つまり正義とは本来、利害や主張が異なる人々を公平に扱い、平等の実現を目指すものです。
このような公平と平等を志向する正義は「形式的正義」と呼ばれます。こうした正義の原点は古代ギリシアの神話に登場する大神ゼウスの娘であるディケーという女神が示した「各人に彼に相応しいものを与えよ」という言葉に由来します。これに対してある社会における「正しさ」を志向する正義は「実質的正義」と呼ばれます。もちろんその「正しさ」とは何かについては様々な議論があることは言うまでもないでしょう。
この点、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは先述したディケーのいう「各人に彼に相応しいものを与えよ」という言葉を分析し正義の内容を次のように分類します。アリストテレスはまず正義を「適法的正義(法に従った行為)」と「特殊的正義(平等の実現)」に分類します。さらに後者は「分配的正義(各人の価値に応じて財や名誉を与えること)」「矯正的正義(生じた不平等をなくし、原状回復すること)」「交換的正義(共同体の中で異なる物財を交換するために等価にすること)」へと分類されます。
このアリストテレスの正義の分類は現代でも正義を語るときに必ず参照されるものです。この分類が現代においても議論の焦点となっている理由は、分配的正義の「各人の価値に応じて財や名誉を与える」という定義の意味について様々な意見が出され、その答えが一致しないからです。これが法哲学における「現代正義論」と呼ばれる論争領域です。
* 無知のヴェールと正義の二原理--ロールズ
この論争の口火を切ったのがアメリカの哲学者ジョン・ロールズです。ロールズは当時常識とされていた政策哲学である「功利主義(社会における最大多数の最大幸福を追求する立場)」に対して、誰の自由と権利も犠牲にすることなく社会全体の福利を増大させるような原理を新たな時代の「正義」として提起しました。
まず彼は人々に次のような想像を求めます。多様な人々が集まってゼロの状態から今後自分たちが安心して暮らせる社会を作るための話し合いをしています。その議場には若者も高齢者も金持ちも貧乏人もいます。このままだと皆が皆自分に有利な主張をし続けて話し合いはいつまでもまとまらないでしょう。
そこでロールズはこの会議に参加している人々に「無知のヴェール veil of ignorance」をかぶせることを提案します。このヴェールをかぶせると人々は自身が属している人種、国籍、性別、年齢、地位などといった具体的属性をすっかり忘れてしまいます(と想定します)。そうすることで人々はどんな属性を持つ人にとっても有利にも不利にもならないような公共的な提案を行うはずだとロールズは考えました。
またロールズは人々は誰でも将来について病気や事故や失業などでいつ不遇な立場に陥るかもしれないと悲観的に考え、なおかつ誰もが生涯にわたって絶対に自分だけは損をしたくないと考えるとも想定し、それゆえに議場の人々は万が一自分が最悪な境遇に陥ったとしても人間らしく生活できるような社会制度を求めるだろうと考えます。そんな人々が結果として全員一致で合意するであろうものが以下のような正義の二原理です。
第一原理:誰もが、最も広範にわたる基本的諸自由に対する、他者の同様な自由と両立する平等な権利を持つべきである。第二原理:以下の二つの目的を満たす場合のみ、社会的・経済的不平等が設けられる。①最も不遇な人々にとって最大限の利益となり、結果として、全員の利益となることが合理的に期待される場合。②公正な機会の平等が成立しているという条件のもとですべての人に諸々の職務や地位へのアクセスが可能となる場合。(『あぶない法哲学』より引用)
この正義の二原理においては第一原理が常に優先されることになり、第二原理はあくまで第一原理を実現するための手段です。第二原理の①はすでにある不平等を是正するため累進課税や貧困層支援といった不平等な政策を認める条件を示す「格差原理」と呼ばれるものです。そして第二原理の②はどんな立場の人にも進学や就職といった機会を平等に保障する「公正な機会均等原理」と呼ばれるものです。
* 自由と贈与--ノージック
以上がロールズが提示した正義論ですが、この議論には当然穴があります。ロールズが正義の二原理を正当化できたのは「誰もが自分の将来に対して悲観的だから保険をかけたがる」というネガティヴな人間観があります。これは別名「マキシミン原理」と呼ばれる起こるかもしれない損失をできるだけ最小限に止めようという考え方です。
確かにこの原理を前提とすれば誰もが格差原理や機会均等原理を含む正義の二原理を選ぶと言えそうです。とりわけこういう判断は何かとローリスクな選択肢を好む日本人的な思考に馴染みやすいものがあるでしょう。しかし大成功も大失敗も可能性のレベルにおいてはどこまでも同等です。大失敗を恐れるあまり同程度に起こりうる大成功のチャンスをみすみす逃す選択ばかりではつまらないと考える人だっているでしょう。このような人生とはギャンブルだと考える人間がロールズのいう正義の二原理を選ぶとは限りません。
こうした視点からロールズの正義論に反対したのがロバート・ノージックです。ノージックは「人はみな異なる。全員が住むべき最善の社会が一つしかないという考えは、私には信じられない」という立場から、マキシミン原理だけが人間の考え方ではないから、それに基づく正義の二原理だけが正義ではないと主張します。
こうしたことからノージックは「社会契約説」で知られる17世紀の思想家ジョン・ロックに倣い個人が(他者の自由を侵害しない限り)自分が望む生き方を貫く生き方を尊重し、個人は生まれながらに自分の身体、生命、自由を所有しており、それを守ること、侵害されないことを自然権として持っているとして、自分が所有する自分の身体を使って自分の思うように生きること、また自分の身体による労働で獲得したものを自分の財産として支配できると主張します。
それゆえにノージックが描く理想社会は異なった人々がそれぞれ自分が望む生き方を試すことができるコミュニティを随意に作り、結果として複数の多様なコミュニティが並立している状態です。ではそこで弱者救済はどのようなかたちでなされるかというと、それは人々の自発的な贈与によってなされるべきであるとノージックは考えます。
こういう考え方が成り立つ背景にはキリスト教的な隣人愛があるといわれます。すなわち、神の教えに従えば富は隣人の幸せに役立つのではなければ意味がないため、富はまず隣人に、次いで自分に与えるという道徳観です。実際にアメリカでは大成功を収めたセレブたちが日本円にして何億円もの額を慈善団体に寄付することは珍しくなく、ノージックが弱者救済を人々の自発的な贈与に期待したのもこうした文化的背景もあるのでしょう。
* 法哲学という思考ツール
こうしたロールズとノージックの議論の相違は個人の「才能」をどのように考えるかという点にも関わっています。この点、ノージックは個人の身体同様に才能も生まれながらに身につけているから必然的に本人に帰属すると考えます。しかしロールズはそうは考えません。個人の才能の有無とは人々の生まれが偶然であると同じく、自然が分配した偶然の結果であると考えます。
もちろん、こうした才能を持つ者がそれによって獲得した報酬を得ることの正当性をロールズは否定するわけではありませんが、それはその才能を教育や鍛錬によって自ら育てたこと、そして「その才能を自分の善だけでなく他人の善にも寄与するために使った」ことによって正当化されると考えます。ここには「才能」とは偶然の所産だから自分のためだけではなく他人の暮らしを良くするためにも使うべきだという考えが示唆されています。
それゆえにロールズは人々が持つ多様な才能を社会の共通資産として組織化することによって社会的協働における相互の有利化をいっそう充実させることに重きを置きます。これがいわゆる「才能は社会の共通資産である」というロールズ哲学のキャッチフレーズです。以上のようなロールズとノージックの対立を軸に形成された論争領域が「現代正義論」と呼ばれるものです。
このような「正義」をめぐる問題のほかにも「法律」「国家」「身体」「生命」「自由」といったテーマを原理的に問い直す思考を本書はわかりやすく提示します。こういうと法哲学というのは健全な常識を生きる善良な市民にはあまり関係ない抽象的な思考実験に閉じた学問のようにも聞こえてしまいそうですが、もちろんそうではありません。むしろ、法哲学的は日常をより深く読み解き、よりよく生きるための有益な思考ツールであるとさえいえるでしょう。
例えば小説や映画やアニメといったコンテンツにおける物語では多くの場合、善悪の二項対立が描かれます。しかしそこで描かれる「善」と「悪」の振り分けはあくまでその物語の都合に過ぎません。その物語においては「善」に振り分けられた側だけではなく「悪」に振り分けられた側にも、もちろん何らかの「正義」は存在します。
こうした「善」と「悪」に振り分けられたそれぞれの「正義」を、それこそ「正義の女神像」のように目隠しをして(登場人物の容姿とかキャラクターデザインなどを一切無視して)その論理だけに注目して公平に検討してみると物語の都合から「悪」に振り分けられた「正義」にもある種の真理を見出すことだってあるでしょう。このように法哲学的な思考はさまざまな「正義」をその表面的な善悪を超えてより深く読み解きます。そしてそれは物語のみならず、この現実においても異なる「正義」に立つ他者を理解するための手がかりともなるのではないでしょうか。
