かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

物語を読み解く技術--三宅香帆『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』

* 体験の言語化はなぜ重要なのか

 
「美味しさ」は言葉にできないと言われることがあります。とにかく筆舌に尽くしがたいくらい美味しかったとしか言いようがなく、何がどう美味しいかは言葉では説明できないというもどかしい気持ちになったことはないでしょうか。ここから「美味しさ」は言葉にできないというより、言葉にするべきではないという考えも生じるかもしれません。
 
例えば「言葉にすると自分の体験から大事なものが失われる」という考え方もあるでしょう。例えばあるラーメンを食べた時に感じた美味しさを「濃厚でコクがある」などといった言葉にした途端、そのラーメンだけがもつ筆舌しがたい特異性は「濃厚でコクがある」というありきたりな一般性に回収されてしまっているといえます。こうしたことから自分が体験した特別さを大事にしたいならば、その体験は言葉にすべきではないという考えが生じることになります。
 
これに対して美学者の源河亨氏は『「美味しい」とは何か』(2022)において「美味しさ」を言葉にすることにも重要性があると主張します。その理由は大きく二つあります。
 
まず第一の理由は言葉による情報の伝達です。例えば「あそこに新しくできたラーメン屋は味噌ラーメン専門店だったよ」という言葉はその店に行けば味噌ラーメンが食べられるという情報を伝達すると同時に、その店に行っても豚骨ラーメンや醤油ラーメンは食べれないという情報を伝達することになり、その情報を受け取った人がラーメンを食べたいと思った時の判断の助けとなります。すなわち、我々が言葉を使う目的の一つはこのようにある体験を言葉にしてそれをまだ体験していない人にも伝達することで、人が行動するための材料としての情報を共有するところにあります。
 
そして第二の理由は言葉による体験の明確化です。例えば先週食べたカレーと今週食べたカレーの味の違いを「いま食べているカレーはルーはサラサラして、しびれるような辛さ、ヨーグルトの酸味、玉ねぎの甘みが感じられる」「先週のカレーは、ルーはドロドロで、トマトの酸味が感じられ、最初はそこまで辛くはないが後を引く辛さがあった」などと言語化しておくことで、ある体験が他の体験とどう違うのかを明確に理解できるようになるでしょう。つまり言語化とは体験の特別さを奪うものではなく、むしろ特定の体験の特別さを際立たせてくるものといえます。
 
以上のような議論は食に限らず小説、漫画、ドラマ、映画といったコンテンツにも同じく妥当します。このようなコンテンツ体験を言語化してコミュニケーションに活かす技術を指南する一冊が本書『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』です。
 

* 読んだり観たものを話のネタに変える技術

 
本書のコンセプトは三宅氏がある講座で参加者から「話していて面白い人になるには、どうすればいいのか」という質問をされたことで着想を得たそうです。本書はいいます。話が面白い人になるには本や漫画を読んだりドラマや映画などを観ることが必要だけれども、ただ漫然と読んだり観るのではなく「鑑賞」として取り入れることが重要であり、そこには作品を「解釈」するための技術が必要になる、と。つまり読んだり観たものを話の「ネタ」に変える技術です。
 
ではどのように読んだり観たものを「ネタ」にするかというと、本書が「第一部 技術解説編」でまず提示するのは①〈比較〉②〈抽象〉③〈発見〉というプロセスです。
 
〈比較〉とは「ほかの作品と比べる」ということです。ある作品を読んだり観たりした後、どんな作品と比較できるかを考えてみます。例えば『となりのトトロ』という作品を同じファンタジー作品である『ハリー・ポッター』と比較してみると、日常から非日常へ誘う役割が前者の場合はネコバスという前近代的な妖怪であるのに対して、後者はホグワーツ特急という産業的で未来的なインフラです。ここから日本と欧米のファンタジー世界やインフラに対する意識の相違といった「話のネタ」が生じてくることになるでしょう。
 
〈抽象〉とは「テーマを言葉にする」ということです。ある作品を読んだり観たりした後「この話のテーマなんだったのか」を考えてみます。もちろんそこに「正解」というものはありません。むしろ作品にテーマを見出すのは鑑賞者の役割であるといえます。こうしたテーマを考える時、主人公の変化や力を込めて描かれている場面や最後の結末に注目してみることを本書は勧めています。
 
〈発見〉とは「書かれていないものを見つける」ということです。ある作品を読んだり観たりしてて、その作品なら普通に書かれてもおかしくない話が出てこない場合や普通に出てきても良さそうなキャラクターが出てこない場合はそこには理由があり、作者の深いこだわりがあると本書はいいます。こうした「描かれていないことを探す」ことで逆方向からその作品のテーマを照射することもできるでしょう。
 
ここからさらなる応用編として本書は④〈流行〉⑤〈不易〉をあげています。
 
〈流行〉とは「時代の共通点として語る」ということです。すなわち、ある作品を同じ時代に流行した別の対象と比較することで、その時代において人々が求めていたものを見出していきます。
 
〈不易〉とは「普遍的なテーマとして語る」ということです。すなわち、ある作品の中に特定の時代における〈流行〉とは逆に、むしろ時代を超越した普遍的なテーマを見出していきます。
 
この①〜⑤のどれかの鑑賞・解釈ができるようになるとそのネタを人に話すことができる状態になると本書はいいます。このような鑑賞・解釈の工程を本書は料理に準えています。素材(作品)をいろんな食材と混ぜ合わせてみたり(比較) 潰したり煮込んだりしてちょっと形をなくしてから食べてみたり(抽象)その素材が持っていない味を付け足してみたり(発見)という具合に。三宅氏は本書をこうした「読んだり観たりしたものをいかに料理するか」というレシピ集として読んでほしいと述べています。
 

* コンテンツからコミュニケーションへ

 
そしてこのような鑑賞・解釈の技術を身につけるための練習として本書は「鑑賞ノート」の作成を勧めています。その手順ととしては⑴まず面白かったシーンについて具体的に書き、次に⑵作品を鑑賞して思い浮かんだ解釈を書き、最後に⑶「この作品が好きな人はどの場面が好きだろう?」「××というジャンルに詳しい人に、ここを聞いてみたい」といった「質問」を書くというものです。
 
こうした「質問」をストックしておくことが何より重要だと本書はいいます。確かにこうした「質問」をあらかじめ準備しておくことで、そのコンテンツの話をうまくコニュニケーションのコードの上に馴染ませやすくなるでしょう。もちろん読んだ本や観た映画の感想などを何らかのかたちでメモしている人は結構多いとは思いますが、こうした「質問」まで(少なくとも意識的に)想定していることはあまり多くないのではないかと思われます。けれどもコンテンツの鑑賞体験をコミュニケーションの「ネタ」に昇華する上でこの一手間は不可欠といえるでしょう。
 
何よりメモを取ると鑑賞体験が明確な形で残るため、さまざまな鑑賞体験を横断的に解釈するときに役立ちます。先述のように「美味しさ」の体験を言語化するメリットは情報の伝達と体験の明確化にありますが、本書が勧める「鑑賞ノート」の作成はこうしたコンテンツの「美味しさ」を言語化していく上で有益なツールとなるでしょう。
 
さらに他人とのコミュニケーションにおいて不意に質問を受けたときも先の「比較」「抽象」「発見」「流行」「不易」という五つの技術が使えると本書はいいます。すなわち、質問の意図をこの五つの中に当てはめることで相手の真意が汲み取れるということです。
 
つまり普段からこの五つの技術を習慣的に使用していれば、どんな場面でも脳内で他人のいったことを抽象化したり対比させたりすることができるようになるということです。そうしたことから読解力を鍛えることで同時に会話力も身についてくると本書はいいます。こうしたコンセプトから本書は「第二部 応用実践編」でこの五つの技術を用いて実際に、小説、漫画、ドラマ、映画はもちろんのこと、短歌集や人文書なども読み解いていきます。
 

* 実際に使ってみる

 
では、本書を読んでその内容が頭にだいたい入ったら早速身の回りのコンテンツを相手に練習してみましょう。昨日読んだ漫画、さっき観たドラマ。そのすべてが本書の練習問題になります。別に無理して五つの技術の全部を使う必要はないです。ひとつかふたつ使うことが出来ればもう万々歳です。その時そのコンテンツは単なる時間の空費ではなくあなたの人生を形作る経験になったのですから。
 
ささやかな参考(?)までに私が本書を読んで作ってみた練習メモを貼り付けておきます。ここで取り上げる作品は『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』『リコリス・リコイル』という、いずれも放映当時大きな反響を呼んだオリジナルアニメーションです。これらの作品にはそれぞれ1990年代、ゼロ年代、2010年代以降といった各時代の想像力が色濃く反映されているといえます。
 
(以下の文章はほとんど一筆書き的なメモなので作品の詳しいあらすじとかは省略しています。なお文中に出てくる「大きな物語」「小さな物語」「引きこもり/心理主義」「決断主義」といった批評用語は東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(2001)や宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』(2008)に依拠しています)。
 
「物語」を生きるということ--『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』『リコリス・リコイル』
 
1995年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』におけるひとつの達成は鉄人28号マジンガーZ機動戦士ガンダムといった作品において連綿と形成されてきた「戦後ロボットアニメの文法」(=機械仕掛けの拡張身体による社会的自己実現)を批判的に継承しつつ最終的には解体/脱構築してしまうという点にあったといえる(比較)。そこで描かれているものは近代社会をまとめ上げる「大きな物語」(=戦後ロボットアニメの文法)を喪ったポストモダン的な実存不安(=エヴァに乗るか乗らないか)に他ならない(抽象)。
 
本作の主人公碇シンジはこうした実存不安を他者の承認(=おめでとう)で埋め合わせようとするが、それは同時に「大きな物語」なき後で様々な「小さな物語」を生きる他者同士がいかに衝突し、いかに共存していくかという問い(=きもちわるい)を浮き彫りにすることになった(発見)。こうした本作の作風には1990年代の想像力において支配的だった「何が正しいか分からないなら何もしない」という「引きこもり/心理主義」的傾向を見出すことができるだろう(流行)。
 
2011年に放映された『魔法少女まどか☆マギカ』はエヴァと同様に「大きな物語」(=夢や正義の象徴としての魔法少女)を喪ったポストモダン的な実存不安(=魔法少女になるかならないか)を描いた作品であると同時に、ポストモダン的な世界構造である非物語的なアーキテクチャ(=魔法少女という名のエネルギー回収システム)の上で展開される異なる「小さな物語」を生きる他者同士の衝突と共存(=魔法少女同士のバトルロワイヤルとその解決)を描き出していった(比較・抽象)。
 
こうした流れは90年代的な「引きこもり/心理主義」的傾向をゼロ年代において継承した「セカイ系」を乗り越えるかたちでに前景化した「引きこもっていたら殺される」という「決断主義」的傾向を体現する「サヴァイヴ系」とそのさらなる乗り越えを志向した「ポスト決断主義」的傾向を内在させている「日常系」の流れを汲むものであるといえる(流行)。
 
本作の主人公鹿目まどかは過酷な運命を課せられた魔法少女たちの救済を願い、果たしてその願い(=決断主義を終わらせるメタ決断)は世界を変革することになる。しかしそれは裏返せば本作はもっぱら「個人」と「世界」に焦点を当て、本来ならばその中間項となるべき「社会」を捨象した作品であったともいえる(発見)。こうした面において本作はすでにサヴァイヴ系によって乗り越えられたはずのセカイ系を日常系を媒介することで再肯定したともいえるだろう。その意味でも本作はまぎれもないゼロ年代における想像力の総決算なのである。
 
2022年に放映された『リコリス・リコイル』もまた、まどかと同様にポストモダン的な世界構造である非物語的なアーキテクチャ(=DA)の上で展開される「小さい物語」を生きる他者同士の衝突と共存を描きだした作品であるが、加えて本作はまどかが捨象した「社会」に向き合った作品であるともいえる(比較・抽象)。
 
本作の主人公錦木千束はこうした「社会」の「安心・安全」を裏側から支えるDAというアーキテクチャを真正面からは否定しない。その上で彼女はこの「社会」の中で異なる「小さな物語」を生きる他者とも--時にはこの社会の安心・安全を脅かすテロリストとも--対話しつつ、いまこのとき(=喫茶リコリコの日常)を最大限に肯定しながら自らの「小さな物語」を生きていくのである。
 
その一方で千束はシンジやまどかと異なり「するか/しないか」といったことで迷ったり葛藤したりはしない(比較・発見)。こうした千束の迷いや葛藤のなさは『鬼滅の刃』の竈門炭治郎や『成瀬は天下を取りに行く』の成瀬あかりといった同時代において広く支持を得た主人公像とも折り重なっており、このような「判断が速い」主人公像が広く支持される背景には「タイパ」と呼ばれるシビアな時間意識の浸透が加速した2010年代以降の時代性というものがあるのかもしれない(流行)。
 
以上のようにこれらの作品の根底には個人が自身の「物語」をいかに生きるか=選び取るかという普遍的な問いがある。人はいかなるときも何かしらの「物語」から逃れることはできない。そしてシンジは引きこもり、まどかは決断し、千束は肯定する。このような三者の相違には「物語」をいかに生きるか=選び取るかという普遍的な問いに対して向き合ってきた想像力の軌跡がクリティカルに現れているといえるだろう(不易)。

 

* 物語を読み解く技術

 
そうはいっても五つの技術が重要なのは分かったけど、そもそもその手前にある鑑賞体験の言語化というのはどうすればいいのかという向きもあるでしょう。こうしたニーズに応える一冊として同じく三宅氏の手によるベストセラー『「好き」を言語化する技術』(2024)をあげることができるでしょう。
「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない」というサブタイトルがついてる同書は「推し(=好きなコンテンツ)」について語る(書く)上で一番重要なことは「自分の言葉」をつくることであるといいます。このように言われると「自分の言葉?普通にみんなできてることじゃないの?」と思われるかもしれませんが「自分の言葉」をつくるという営みは案外難しいものです。とりわけ現代はSNSを通して「他人の言葉が自分に流れ込みやすい時代」であり、日々生成される莫大な量の「他人の言葉」によって「自分の言葉」はどんどん上書きされてしまいます。
 
例えば面白い映画を観た後に他人の感想を読むと自分の感想を忘れてしまい「他人の言葉」があたかも最初から「自分の言葉」だったかのような錯覚を覚えるという経験はよくあることでしょう。人間とは「他人の言葉」にどうしても影響を受けてしまう生き物です。
 
こうした中で「他人の言葉」に惑わされない「自分の言葉」をつくるためにはある種の「技術」が必要となります。そして同書はこのような「技術」を会得する上で必要なものは語彙力や観察力や分析力でもない「ちょっとしたコツ」であり、そのような「ちょっとしたコツ」さえ知っていれば「自分の言葉」は誰にでも作れるといいます。
 
このように『「好き」を〜』も本書と同様にコンテンツの鑑賞体験を言語化するには「技術」が必要であるという考え方に立脚し、その「技術」を(本当に!)基礎的なところから紹介していきます。その上で本書との相違を挙げるのであれば『「好き」を〜』は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点からあるコンテンツにおける「物語」を(いわば内在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているといえます。これに対して本書は鑑賞者自身の「好き(あるいは嫌い)」という視点は(もちろん重要ですが)ひとまず括弧に入れた上で、あるコンテンツにおける「物語」を(いわば外在的に)読み解く「技術」に重点が置かれているように思えます。そしてもちろんこの内在-外在という両者の視点は「物語」を読み解く「技術」として表裏一体の関係にあることはいうまでもないでしょう。